第33回:アテがハズレっぱなし…アル・パチーノ

Al Pacino, Always Out of Luck

(2006/03/06)


アル・パチーノというと、すっかり「ファック、ファック!」と口から飛ばしながら連呼する男のイメージが定着。「スカーフェイス」(1983)で確立したこのイメージは、オスカー受賞作「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」(1992)でも「インサイダー」(1999)や「エニイ・ギブン・サンデー」(1999)でも健在。チビな体格にも関わらず、周囲の連中をやたらめったらに罵倒して威嚇していた。だがパチーノは、最初からあんな「攻撃型」のキャラだった訳ではない。むしろ最初の頃は、貧乏くじ引いて困惑した表情の巻き込まれ型キャラだったはずだ。そんな「ついてない」キャラクターで売っていた頃の、パチーノの代表作に迫ってみたい。

 

「狼たちの午後」 Dog Day Afternoon (1975)

アメリカ映画界や映画通の間ではどうか知らないが、僕のような駆け出し映画ファンや普通の映画好きからすれば、アル・パチーノって「ゴッドファーザー」(1972)以来忽然と姿を現した演技派スターって感じだったんだよね。

家業のマフィアとしての悪行にも手を染めず、一人堅気で知的な男。親父のマーロン・ブランドもこいつだけは真っ当に育てたかった。恋人ダイアン・キートンとの中も順風満帆で、万事うまくいくはずだったのに…父親のブランド襲撃事件から事態は一変。一転してマフィアの世界にドップリ浸かるハメになる…。以来「PART II」(1974)、「PART III」(1990)と話が進むごとに深くなっていくパチーノの苦悩は、元々彼が「そうなるはずじゃなかった」からに他ならない。だから僕にとっては、パチーノってその手の「アテがはずれる」キャラという印象が強いのだ。

それは続くパチーノ主演作「スケアクロウ」(1973)で、さらにハッキリする。この作品からパチーノは明らかに「スター」としてキャスティングされて、これまた当時飛ぶ鳥落とす勢いのジーン・ハックマンとの共演を果たす。ムショ帰りのしがない男二人の珍道中を描くこの作品、いささか粗暴な男というお約束のキャラを演じるハックマンに対して、パチーノは常におとなしめの男を好演。妻と子が待っている家に帰るため、常におみやげの箱を抱えて出てくる。だがそんなパチーノの願いは終盤で裏切られ、圧巻のエンディングへ…またも「アテがはずれた」パチーノが物語の原動力となるのだ。

そして、そんな「アテがはずれた」パチーノの真骨頂と言えば…この「狼たちの午後」にとどめを刺す。

お話はあまりにも有名だ。ニューヨークの下町の銀行で起きた強盗事件の物語。元ネタは1972年に起きた実話で、実際の事件が起きた時のことは僕も鮮明に覚えている。あの当時、リアルタイムでこの事件が日本でも報道されたという事は、これがいかに世間に大きな衝撃を与えたかを如実に表しているだろう。

うだるような暑い真夏の一日。街の小さな銀行を襲ったアル・パチーノ、ジョン・カザールとあと一名のど素人強盗。だがいきなり仲間の一人がビビってリタイア。それだけならまだしも、間が悪い事に金庫にはほとんど金が残っていない。しかも良かれと思った事が裏目に出て警察が急行し、アッという間に周囲を包囲されるというテイタラク。こうしてサッサと済ませてトンズラのはずの銀行強盗計画は挫折。人質を取っての警官隊との睨み合いへと移行する事になる。

仲間がいきなり「オレはできねえよ〜」と逃げていくあたり、さらに金庫に金がないと気づくあたりの、パチーノの「マジかよ?」と唖然とする表情、そのトホホ感がたまらない。考えてみるとこいつも情けない男で、人質のはずのオールドミスの銀行員に「レディの前で汚い言葉はやめなさい!」との一喝にシュンとなったりするマヌケぶり。そもそも強盗計画そのもののズサンさからして、かなりダメなヤツなのだ。

さらに警察の捜査上で浮かび上がってくるパチーノの私生活たるや…デブでデリカシー・ゼロの女房にはスッカリ小バカにされっぱなし。この女房たるや、説得のために来てくれと警察から要請されても一蹴というガサツな女だ。そんな暮らしにイヤ気が差しての事なのか、パチーノには「愛人」がいた。ところが結婚式まで挙げたその「愛人」は、性同一性障害の男(クリス・サランドン)という哀しさ。銀行強盗もこの愛人の性転換手術代を捻出してやるためだった。そんな男の情けなさ、哀しさを、あのアル・パチーノが時にコッケイに時に共感を込めて演じて見せるのだ。見ているぼくらは、パチーノにどうしたって味方したい気分になってくる。

それは人質たちも同じなのか、なぜか彼らは徐々にパチーノたちに敵意や恐ろしさを感じなくなってくるから不思議だ。しかもなぜか警官隊に包囲された銀行に押し寄せた野次馬たちが、パチーノたちに大声援を送るようになるからオカシイ。よせばいいのにパチーノも調子に乗ってそれを煽ったりするが、何と人質までその気になってくるから笑える。

対する警察側の責任者として出てくるのは…たぶんこれが最初に目立った作品だったと思うが、その後名脇役で鳴らす事になるチャールズ・ダーニング。このニューヨーク市警の太っちょ警部が、ワイシャツをズボンからはだけてパチーノと丁々発止やり合うあたりは、よく練り上げられた漫才でも見るかのような爆笑必至の名場面だ。

しかもパチーノの相棒役を演じたジョン・カザールは、「ゴッドファーザー」でもパチーノの兄貴役で味を出してた名優。ここでも何とも絶妙な好演ぶり。無口で陰気な男に見えて、何ともスッとぼけた味を出す。逃走用に飛行機を手配したと聞かされてつぶやく、「オレって飛行機乗ったことないんだ」…という一言のおかしさ。緊張からタバコを吸う人質に、「タバコは身体に悪いぞ」と真顔で言うあたりも笑わずにいられない。このあたりの人間模様の不思議な味わいは、ちょっと他の映画では見られないほど。終盤まで銀行からカメラはほとんど離れないのに、一瞬たりとも退屈させないのだ。

ところが陽性で人が良さそうなチャールズ・ダーニングからFBIへと捜査の実権が移ったとたん、事件の様相はとたんに一変する。結局、夜の空港で事件はいきなり終結を見るが、あれだけ打ち解けたはずの人質も解放されたとたんパチーノなど一切無視。パチーノ一人が捜査官たちに羽交い締めにされて呆然とする幕切れには、人間という生き物の不思議さと切なさが漂って忘れがたい。

映画の冒頭は、真夏のニューヨークのスケッチ描写。そこにかぶさるエルトン・ジョン初期の逸品「麗しのアモリーナ」も何とも画面に溶け込んでいる(僕はこの初期エルトン・ジョン・バンドの、ゴリゴリッとした歯ごたえのある硬めのサウンドが好きだったんだよね)。イキイキとしたショットの積み重ねに、シドニー・ルメット監督のニューヨーク派の面目躍如たるものを感じるオープニングだ。もうこれだけで一気に映画に引き込まれてしまう。もちろんお話が銀行を舞台にした一種の室内劇の様相を見せていくあたりでも、「十二人の怒れる男」(1957)をつくったルメットならではの冴えを見せる。

なお余談を言えば、原題の「Dog Day Afternoon」とは、犬もゼイゼイと舌を出すほどの暑い午後…という意味らしい。そんなタイトルを思わせる街角の野良犬の姿を、冒頭のニューヨーク・スケッチでさりげなく登場させているルメットだが、ひょっとしたらそれって黒澤明の「野良犬」(1949)を大いに意識したものではないだろうか。

ともかく傑作と言われる映画はこの世にゴマンとあるが、「真の傑作」だと断言出来る映画は数少ない。だが「狼たちの午後」がその数少ない一本である事は、おそらく誰もが認めるのではないだろうか。

 

 

「クルージング」 Cruising (1979)

一時期メリル・ストリープがオスカー候補にならない年はない…と冗談で言われていた時代があったが、実はこのアル・パチーノも、それに似た時期があったのだ。1972年に「ゴッドファーザー」で助演男優賞で候補に挙がって以来、1973年の「セルピコ」(1973)から「ゴッドファーザーPART II」「狼たちの午後」…と、例年立て続けに主演男優賞候補になっていた。思えばこの時期がパチーノの絶頂期だったかもしれない。

ところが「ボビー・デアフィールド」(1977)がなかなかの佳作だったのにヒットせず、オスカー候補からもはずれると、パチーノは作品出演ペースもガクッと落として少々地味な存在になってしまった。「ジャスティス」(1979)では再びオスカー候補に返り咲いたものの、作品自体はあまり話題にならなかったんじゃないだろうか。

そんな最初の「低迷」を見せた頃のパチーノが、いきなり異彩を放った一作。それがウィリアム・フリードキン監督の「クルージング」だ。

ニューヨークのハドソン川にバラバラ死体が浮かぶ。やがてそれらが、いわゆる「ハード・ゲイ」のアンダーグラウンドな世界に絡んだ連続猟奇殺人へと発展。ニューヨーク市警は事件解決のため、被害者と身体的特徴が似通った警官をオトリ捜査官として潜入させる事になる。それがアル・パチーノの役どころだ。彼はゲイではなかったが、これに成功すれば念願の「刑事」に昇進…との言葉に釣られ、オトリ捜査に身を投じる事になる。

そもそも今でこそ妙なお笑い芸人の名前で一般化した言葉ではあるが(笑)、「ハード・ゲイ」という言葉がアメリカでも本来あるのかどうか僕は知らない。ひょっとしたら宣伝用の造語なのかと思ったりもしたが、ともかくここでは警官の服装をしたり革の衣類や金物を身につけ、コワモテに身体を鍛えるマッチョな趣味の人々をこう呼んでいるようだ。そんな人々が夜な夜や出没し集う店などに、パチーノはそっちの人間の「なり」をして現れるのだ。

ところがこの世界に浸って知り合いも出来はじめると、パチーノの内面に徐々に変化が現れる。恋人(カレン・アレン)とのセックスが、徐々に暴力的で激しくなってくる。そのうち彼女の身体に触れなくなってくる。そんな自分に当惑を隠しきれなくなるパチーノ…。

正直言ってフリードキンと言えば、この時期は「恐怖の報酬」リメイク(1977)以降「ブリンクス」(1978)から突入した低迷期真っ直中。正直言ってこの「クルージング」にも、僕はあまり多大な期待はしていなかった。で、実際のところ、この映画の出来映えもかなり危なっかしくはある。

そもそもハード・ゲイの定義付けがどんなものなのかハッキリしないが、どう考えてもフリードキン自身がそれを分かってない感じだ。例えハード・ゲイ趣味がどんなものであれ、それそのものは人にとやかく言われるようなモノではない。この映画で言えば、問題なのはそこからたまたま派生して起きた猟奇殺人自体なはず。その間には、明らかに一線が画されているべきだ。ところがこの映画では、そのあたりが実にいいかげんに混同されている。フリードキンは明らかに、どれもこれもゴッチャにして見なしているフシがあるのだ。元々が「真夜中のパーティー」(1970)でこっちの世界には理解があると思われていたフリードキンだが、どう見ても偏見丸出しなんだよね。

だからパチーノがだんだんハード・ゲイの世界にのめり込み始める事と、猟奇殺人者の世界に魅入られていく事が「同じ意味」で語られていくように見える。この「クルージング」公開時に、アメリカでゲイの人々の抗議運動が起きたのは当然だろう。いくら何だって、コワモテななりをしただけで「猟奇殺人者」と一緒にされちゃ迷惑というものだ。そう考えると、これを「成功作」だと認めるのはいささか抵抗がある。

そもそもフリードキンは、本来からゲイの世界に理解などないのだろう。好奇心か野次馬根性ぐらいの気持ちしかなかったのかもしれない。その意味では、キリスト教や教会に大した興味もないのに「エクソシスト」(1973)をつくっちゃったようなものだ。彼にとってハード・ゲイのアンダーグラウンドな世界とは、「フレンチ・コネクション」のマルセイユ麻薬組織やら「恐怖の報酬」の吹き溜まりのような南米ジャングルと同じ。日常性からかけ離れた、自分にとって真新しく感じる世界であれば何でもよかったのだ。

で、そんな見方で割り切って見れば…「ハード・ゲイ」と「猟奇殺人」の混同ぶりなどにムチャな面は多々あるものの、フリードキンらしい「異質な世界」の造形には確かに見事に成功している。その世界を知っている人にはトンデモ映画なのかもしれないが、ともかくこの見知らぬ世界がリアルに見える。それがホンモノなのか、真実なのかはともかく、「ホンモノらしく」見せる事にはまんまと成功しているからかえってタチが悪い。そういう意味ではいろいろ疑問を感じる点や後味の悪い点は残しながらも、長い長い低迷期の中で「L.A.大捜査線/狼たちの街」(1985)と並んでのフリードキンらしい一応の映画としての「成功作」になっているのが、この「クルージング」と言えるかもしれない。

そしてパチーノも、この作品ではかなりの「いっちゃった」アブなさを発散させている。

最初こそ「ハード・ゲイ」の世界でウブさを露呈していた彼だが、仕事熱心なのか何なのか、たちまちのめり込んでくるから人間ってのは不思議だ。他と見劣りしない肉体を願ってか、毎晩自宅で身体づくりに余念がない。そんなこんなで鍛え抜かれたマッチョな身体で、地下の熱気溢れるゲイのクラブに出没。いずれも濃厚な男臭さを放つ連中の中に、完全に溶け込んで踊りまくるに至る。かなり硬質なロックンロールやダンスナンバーに合わせて、激しく踊り狂うパチーノの姿は圧巻。最初はウォーミングアップ風に身体を普通に動かしているだけなのに、音楽が佳境に入ると完全に自己陶酔。何だかムキになったかのように鼻息も荒く、無闇やたらに身体を動かしまくるあたりが妙に説得力を持つのだ。

最後「ミイラとりがミイラ」ではないが、明らかに「別の世界」に行っちゃったパチーノのうつろな顔が大写しになるエンディングは、「フレンチ・コネクション」、「エクソシスト」、「恐怖の報酬」…さらには「L.A.大捜査線/狼たちの街」などと同じような、観客を宙づりにするフリードキンらしい「あいまい」な結末。その「心ここにあらず」的などこを見てるのか分からないパチーノの顔こそ、最初の「アテ」が完全にはずれちゃったという意味で、彼らしいキャラだと言えなくもないのだ。

 

 

 

 

 to : Time Machine 

 

 to : Classics Index

   

 to : HOME