「ロングデイズ・ジャーニー/この夜の涯てへ」

  地球最后的夜晩 (Long Day's Journey Into Night)

 (2020/05/25)



見る前の予想

 この映画のことは、映画館でチラシを見た時から妙に気になっていた。チラシのデザインや色合いからして、かつてウォン・カーウァイが出てきた頃の映画を連想させたからだ。
 途中から調子に乗り過ぎて「いかにも渋谷系」(笑)っぽいシャレオツ路線に脱線したあげく、その後はなかなか立ち直れていないカーウァイだが、あの当時 はカーウァイに限らず香港、台湾、中国大陸…ポコポコと中国語圏から新しい映画作家が出てきて素晴らしい作品を見せてくれた。それらが今はパッタリと影を潜めてしまったのが残念でな らないが、気がついてみればもう20〜30年前のことだ。すっかり過去の話なのである。それがなぜか今回のチラシを見て、僕の脳裏に当時の中国語圏映画が持っていた鮮烈さがまざまざと蘇ってきたのである。
 おまけによくよくチラシを見てみたら、ラスト、コーション(2007)でセンセーショナルなデビューを果たした幸薄系ヒロインの最高峰タン・ウェイが久々に出演している。 おまけに懐かしや、かつての香港スターであるシルヴィア・チャンなんて名前もある。これだけで嬉しいではないか。さらにさらにチラシには気になるフレー ズも書いてあって、「後半60分間、驚異の3D・ワンシークエンスショット映像体験!」と来るではないか。まるで週刊誌の表紙に「巻末10ページ! あの清純派アイドルが魅せる衝撃の無修正フル・ヌード一挙掲載!」と書いてあるみたいな、ケレン味たっぷりのコテコテの売り文句。でなけりゃ新東宝映画の宣伝ポスターの惹句もかくや…の吸引力である(笑)。
 そもそも60分間ワンシークエンスも只事ではないが、そ れが3D…ってどうなってんの? 大体が娯楽大作でもないのに3Dってのもスゴいではないか。元々が映画ってのは「見世物」だと思っている僕としては、そ れだけでグイグイ来る(笑)。こうなったら万難を排しても見なければならない。これまたコロナ・ウィルス蔓延の中、渋谷まで息せき切って駆けつけたという 訳である。それが何でこれほど感想を書くのが遅くなってしまったかについては、いろいろあるのでこの文章の後半で語らせていただく。

あらすじ

 薄暗い安宿の一室。そのベッドに汗だくの半裸の男が横たわっている。ルオ(ホアン・ジエ)というその男のもとに、先ほどまでシャワー を浴びた女が下着姿でやって来る。二人は情事の直後のようだが、ルオはまったく熱のない態度だ。「オレの持ち物を探るなよ」などと言ってはいるが、それす ら大して気にしていないようだ。
 ルオは列車車両の解体屋で働いていたが、長年離れていた故郷の街・凱里に舞い戻ることになる。それは、彼の父親の死がきっかけだった。だが、思い返してみればすべては幼なじみの死が発端だったような気がする…。
 その幼なじみは、「白猫」という名の男だった。ルオは危なっかしいことばかりやっていて借金もこさえていた彼に、リンゴの箱を運ぶ用事を頼まれた。とこ ろが離婚やら何やらでスッカリ忘れ、思い出した時にはリンゴは腐敗。そして、箱の中には一丁の拳銃が隠されていた。そのせいかどうか、「白猫」は廃坑の中 で死体になって発見された
 それからだった、ルオがなぜかヤバい橋を渡ることに惹かれるようになったのは…。
 久々の実家で彼を迎えたのは、父親の後妻だ。父親は晩年、毎晩のように古い掛け時計の前で酒を飲んでいたという。その時計はすでに動かなくなっていて、父親の死によって用なしとなったので壁からはずされた。
 後妻は父親の形見分けで自宅兼食堂を取り、ルオには軽トラックを差し出す。ルオは父の後妻に、「小鳳食堂」という名前は変えるなよ…と言い残してその場を去る。
 「小鳳」…それはルオの実母の名前だ。母親は彼がまだ子供の頃に、近所の養蜂業の男と駆け落ちして父子を捨てた…。
 実家の壁から持ち出した時計のフタをはずすと、中には1枚の写真が入っていた。その裏には、ある人物の名前と電話番号が書いてあったのだが…。
 「白猫」に絡んでいたヤクザを探すルオは、その愛人の女(タン・ウェイ)と接触する。「人はメシを食う時にはウソはつけない」という話から、女を実家の「小鳳食堂」に連れ出して話を聞き出すルオ。その帰りの夜道、
ルオは軽トラックをいつまでも彼女の後ろにピッタリつけてついていく。思えば、もうその時からルオは彼女に惹かれていたのだろう。
 自らを香港スターと同じワン・チーウェンと名乗る彼女は、どこか謎めいていた。いつしか彼女と情を通じることになったルオは、いずれ刑務所から戻ってくるというヤクザから一緒に逃げようと持ちかけるようになる。だが、それは少々甘かった。
 やがて、ルオとその女はヤクザ(チェン・ヨンソン)に捕らえられて…。

見た後での感想

 この映画のビー・ガンという監督はまだ30になったばかり、この映画は長編第2作なんだそうである。
 だが、作る映画には危なげがない。堂々たる出来映えである。長編第2作で早くも中国・フランス合作作品をモノにしているあたりも、大変な買われようである。
 で、ズバリ言わせてもらうと、本作には僕もかなりの衝撃を受けた。それは、例えば…先にも述べたように「欲望の翼」(1990)でウォン・カーウァイを初めて見た時の衝撃にも似ている。久々にあの頃、中国語圏映画の秀作を次々見ていた時の興奮を味わった。これは長らく忘れかけていた興奮だ。
 そして何より、映画が始まってすぐに画面に出てきた、観客向けの「注意書き」に意表を突かれた。「本作は3D映画ではないが、主人公がメガネをかける場面が出てきたら、一緒にあなたもかけてください」…と、観客に呼びかけるのである。こんな映画は前代未聞だ。
 もうそれだけで、スクリーンと対峙していた僕は、胸の高鳴りを抑えることができなかったのである。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 


「かつて見たことがある映画的イメージ」を満載

 …で、何を語ろうか…というところなのだが、ハタと考えてみると系統立って語れることがない(笑)。本作はストーリーがあるようで、それがちゃんと語れる訳ではない映画なのだ。だから、言葉で語るのが非常に難しい。逆に言うと、だからこそ極めて映画的な映画だと言える。
 いや、ホント。先に「欲望の翼」の名前を挙げたけれども、「欲望の翼」でウォン・カーウァイを見たり、「愛情萬歳」(1994)でツァイ・ミンリャン監 督を見た時の、「あの」興奮を久々に思い出した。映画に対してこんなワクワクを味わったのは、果たして何年ぶりだろうか。これはまったく誇張ではない。最 近は、間違いなくこのワクワクをずっと忘れていたのである。
 一応、前述したようにストーリーはある。僕が先ほど書いた筋書きだけ読むと、非常に分かりやすい物語のように思える。いや、確かに難解な訳ではない。だが…ここからが説明 するのが難しい点なのだが、実はあんなにスッキリと筋道立てて話が進んでいく訳ではない。何が描かれているのか分からない…ということはないが、お話がメリハ リを持って語られていく訳ではない。そして、とにかくお話とは別に、次から次へと画面に展開されるイメージの数々。「欲望の翼」のウォン・カーウァイや 「愛情萬歳」のツァイ・ミンリャンを挙げたのはそのあたりの語り口やイメージに共通するものを感じたからであり、お話的にはまったく意味が分からない水浸 しの家の映像には、凡庸な僕などはやはり「ストーカー」(1979)あたりのタルコフスキー作品を連想してしまうし、途中で映画館が出て来たり映画に対す る言及があるあたりから、やはりツァイ・ミンリャン楽日(2003)を連想したりする。見ていてワクワクしっぱなし。
 ただ、それらは…ここで僕が次々といろいろな映画作品や作家の名前を挙げていることで分かるように、誤解を恐れず言ってしまうと、どこか「かつて見たこ とがある映画的イメージ」を連想させるものが多い。作品や作家名は浮かんで来なかったものの、他にもこんな場面、こんな映像、こんなシチュエーションが あったな…と思わせる場面がいくつもあった。
 ちなみに僕は、主人公が実家の食堂に帰った場面で、古びた壁掛け時計がどアップになった瞬間に、まるでパブロフの犬みたいに「欲望の翼」に出て来た時計のどアップショットを連想してしまった。もう、これは理屈抜き。
 この作品を撮ったビー・ガンなる人物は、相当な映画ファンであることは間違いない。何より作品そのものが極めて「映画的」であり、映画に関する言及が作中で行われるだけでなく、さまざまな場面にかつての映画作品を連想させる映像が連発するからである。
 で、そうなってくると僕自身も映画好きなので嬉しくはなってくるのだが、あまりに映画的「引用」が多いのではないか…などと変なところが気になってもく る。これだけのワクワク感を久々に感じさせる映画作家なのだ、「この人ならでは」のオリジナリティーをもっと前面に出して欲しい…などと、分かった風な身 勝手な要望が頭をもたげて来る訳である。そのあたりがこのビー・ガン監督の「強み」であると同時に「弱み」かな…などと勝手に考える訳だ。
 ところが映画を見ながらそんなことを考え始めた時、見ている僕らをアッと驚かせる趣向が披露される。スッカリ忘れていたよ。この映画は途中から3D映画 になるって書いてあったじゃないか。だから、冒頭に変な「但し書き」が出て来た。「主人公がメガネをかけたらオマエも一緒にかけろ」…などと、そのアホら しい文句に思わず僕も嬉しくなったではないか(笑)。
 おまけにそこから…どこまでホントか知らないが、ワンカット撮影になるとも聞いていた。今年のオスカー作品賞にもノミネートされていた、サム・メンデス「1917/命をかけた伝令」(2019)も確か全編ワンカットだか、ワンカットっぽい撮影をしていると聞いていた。ただ、僕はおそらく本当のワンカッ トである訳もなく、疑似ワンカットだろうと思っていた。残念ながらこの作品は見逃してしまったが、見た人の話では予想通り「疑似」だったようである。 まぁ、そうだろう。いわば、ヒッチコック「ロープ」(1948)でやったことと同じだ。
 「ロープ」の場合は、フィルム・マガジンに詰められるフィルムの長さが10分程度が限界だったので、どうしようもない制約のために「疑似」にせざるを得 なかった。それはある意味で好都合でもあった訳だ。何しろ1時間半から2時間はある映画全編をワンカットで撮るなど、正気の沙汰ではない溝口健二やらテオ・アンゲロプロスの名を挙げるまでもなく、長回しと言えどもせいぜい数分から10分がいいとこ。狭い室内でずっと撮っているような話でもなきゃ技 術的に無理だろうし、仮にそうだったとしても今度は役者が生理的に無理だろう。そんなバカなことをやる奴などいない。
 ところが、それがいたのである(笑)。
 本作はさすがに全編ワンカットではない。しかし、138分の上映時間のうち、およそ1時間ぐらいがワンカットというから尋常ではない。それだけ長けりゃ十分である。しかも、何が悲しくて3D。何をやらかしてくれたんだこの男は(笑)。
 だが、その3Dワンカットの後半部分こそが、本作の真骨頂なのである。

アート系のはずなのにケレン味たっぷり
 しかし、アレはどうやって撮ったんだろう。
 問題の3Dワンカットである。ワンカットで60分もスゴいが、それを3Dでやろうというのもスゴい。だが、それもフィックスのカメラでやるなら分かる。 ところがカメラは動く動く。主人公がリフトみたいなのに乗って下へと降りて行く。また、なぜか
途中でひらりと空に舞い上がるのだ。「メリー・ポピンズ」もビックリである(笑)。そんな空中浮遊の最中に、下方には広大な建物や広場が見えて来 る。そこでお祭りか縁日みたいなことをやっているのも見える。それをずっとカメラが追いかけているのだから半端じゃない。これってどうやっているのだろうか。ド ローンだろうか。ドローンだろうなぁ、それしか考えられない。しかし、それ以外の手持ちで撮っているはずのあたりはどうやったのかが分からない。それでも何でも とにかくやってくれるのである。もうそれだけでスゴい。
 そもそも、その場面からいきなり3Dという発想が普通じゃない。ある意味、そこから見る側はある種の覚悟を持つというか、身構える。本来ならば、見ている間に我を忘 れて映画に自然に没入していく…というのがよくある映画体験だが、本作ではそれが間逆だ。何しろ映画の途中で「あっ、そうだ。ここからメガネをしなく ちゃ!」と我々に思い出させ、行動を起こさせるのである。そこは思いっきり見る側が「醒めて」なければそうはならない。むしろ作り手は観客に、大いに意識 して欲しいと思っているはずなのだ。
 しかも、そこから3D映像になるのだから、イヤでも「異質」な世界に入ったと感じずにはいられない訳だ。明らかに視覚的に異なっているからである。
 ただし、バリバリの立体感を楽しめるかというと、実はそうはなっていない。それでなくてもメガネをかけると暗くなる3D映画なのに、場面はずっと夜景で トーン自体が暗い。「立体映画」を楽しませようという気はまったくなさそうである。ここでは「メガネをかける」というアクションを起こさせること、3Dで それまでとどこか「異質な映像」を見せること…によって観客の意識を喚起させることが狙いなのだろう。
 しかもこの場面ではすべてワンカットで撮りきるために、それなりに広大な建物が実際に必要になってくる。アレは元々建っている建物や集落なのか、それと もこの映画のためのオープンセットなのか分からないが、とにかくそれが実際にそこにあって撮影されていることで、映画として素晴らしいスペクタクルにも なっている。別にローマ帝国の古代都市とかタイタニック号とか超高層ビルなどが出て来る訳でもないが、なぜか画面にどでかいスケール感が出て来ているの だ。
 おまけに見る側はワンカットと知っているから、どうしたって画面を凝視してしまう。そういやオーソン・ウェルズ「黒い罠」(1958)のオープニング だって、ついつい見ていて力が入ってしまった。長回しとかワンカットってそういう効果がある。もちろんオーケーのテイクを使っているはずだから失敗する訳 もないのだが、なぜか見ている側は緊張して見つめてしまうのだ。勢い、画面の隅々まで息を凝らして見てしまう。これもまた作り手の狙いなんだろう。なかな かクセモノなんである。
 前述したように、本作は中盤ぐらいまでの映像にはちょっとウォン・カーウァイ系のオサレ感(笑)が感じられないでもない。実は、そこがちょっとなぁ…と思わないでもなかった。だが、この後半部分からは、そうい う気取りっぽい感じが希薄になっていく。その代わりに闇の濃さ…というか、ホラーにも似た「得体の知れなさ」が漂ってくる。それと同時に、アホらしいま でのケレン味やハッタリ感も盛り込まれて来るのだ。
 その両者のうち「闇」に関してあえて言わせてもらえば…まったく違うと言えば違うモノながら、強いて言うなればデビッド・リンチ「ロスト・ハイウェ イ」(1997)に出て来る漆黒の闇にも似た「得体の知れなさ」が本作にもある。あるいは先にも挙げたツァイ・ミンリャンの「楽日」に出て来る映画 館の闇…みたいなものだ。そういえば「楽日」の映画館には幽霊が出て来たが、本作にも何か出て来そうな気配が濃厚なのである。先に「ホラーにも似た」…と 言ったのは、そういう意味だ。そして、「ホラー」といえばケレンが売りではないか。
 また、先にウォン・カーウァイの名を挙げたが、特にカーウァイ作品の中でも「欲望の翼」あたりには感じられた「奇妙さ」みたいなものが本作にはあ る。例えばエンディングに唐突にトニー・レオンが出て来て、サッとタキシードを着こなして終わる…という「あの感じ」に通じるものだ。何ともヘンである。これを うまく説明するのは難しいが、少なくとも理屈が勝る映画づくりとは異なる発想であることは間違いない。
 ともかく、映画の冒頭から「主人公と一緒にメガネをかけて」なんて告げるあたりからして、すでにケレン味たっぷりである。黒澤明初期の作品「素晴らしき日曜日」 (1947)で、ヒロインがいきなりスクリーンから観客に向って「みなさん、拍手をしてください!」と言ってくるみたいなもんである(笑)。3Dだってワ ンカットだってケレン味である。ハッキリ言ってバカバカしくてくだらない(笑)。そのあたりの堂々たるハッタリ感からして、本作の作り手はひ弱で気取った映画芸術家なんてものじゃないだろう。もっと「見 世物」感たっぷりな人物だと思えるのである。
 だから本作はいかにもなアート系映画の体裁を持っていながら、その一方で妙なショーマンシップを感じさせる。あるいはハッタリとバカバカしさと言っても いい。映画ファンらしく古今東西の映画的記憶をちりばめながら、この人ならではの独自性も感じさせるのはここである。単にアート系作家とかエンターテイン メントの職人とかのカテゴリー分けが無意味だと感じさせる人は今までも何人もいたが、これほどそんな仕切りを飛び越えた人を見たことはなかった。これが両 立するってスゴいんじゃないか。
 そういう意味で、本作を作ったビー・ガンという人は非常に興味深い監督だ。そして、僕好みの監督だ。これからが大いに楽しみな人なのである。

本作を見た2020年3月4日という時期
 で、すべてが終わった
 僕が本作を見て、久々に映画の新しい可能性を感じながら映画館を去ったのは、今年の3月4日のことである。ちなみに、これを書き始めたのは3月5日だったが途中で中断して、後半を書いている今は5月22日である。本作を見たのは2か月以上前のことなのだ。
 だが、実感としては2か月どころでなく、もうずっと昔のように思える。なぜ、この感想文を書くのにそんなにかかってしまったのか。その理由は、僕が説明するまでもなく、みなさんが十分お分かりだろう
 3月4日、それはどんな時期だったのか。2月26日には政府がスポーツや文化のイベントについて中止・延期を要請、翌27日には全国の小中学校と高校な どに臨時休校を要請した。3月1日には東京マラソンが行われたものの、一般参加は取りやめとなって沿道での観戦自粛も呼びかけられた。それでも開催するこ と自体が顰蹙をかっている状態だった。
 同じ3月1日には、横浜に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」からすべての乗客・乗員が下船している。その「ダイヤモンド・プリンセス」が 横浜に入港したのは、ほぼひと月前の2月3日。その時は「ヤバいヤバい」とは言われていたが、そうは言ってもまだまだ文字通り「対岸の火事」的な部分も少 なからずあった。まさか、事態が自分たちの身近なところまで飛び火するなどと考えてはいなかった。さらに、ここまで世界的な規模で広がっていくとも思って はいなかった。
 だが3月4日の段階では、そろそろシャレにならないレベルの話にな りつつあった。翌5日には中国の習近平国家主席来日が延期と発表され、それを待っていたかのように9日には中国と韓国からの入国制限が開始。この時点でも まだ2020年東京オリンピックは開催前提で話が進んでいたが、3月20日に航空自衛隊松島基地にギリシャから聖火が到着してまもなく、24日にはその延 期が決定した。
 海外に目を向ければ、イタリアが3月10日から全土で外出制限を開始。12日にはアメリカ・ニューヨーク、14日にはスペインで非常事態が宣言された。つまりは、そんな時期だった。
 だから3月はじめの段階では、そろそろ僕らの間でも映画館に行くこと自体が果たしてどうなんだろうという状況にもなって来ていた。正直言って、僕は自宅に片肺を切っている高齢の母親がいる以上、ちょっとどこかで感染しちゃったじゃ済まされない。
 そんな訳で、実は3月4日に見た本作が、現在までのところ僕が映画館で見た最後の映画ということになる。今まで本サイトで細々と更新して来た新作映画の感想文は、そのラインナップからお察しの通り、それ以前に見ていて感想文を書くのがどんどん遅れてしまったものばかりであった。正真正銘、本作でそのストックが完全に尽きた訳である。
 だが、みなさんは「???」と思われているかもしれない。なぜなら、3月4日以降も映画館は何とか営業を続けていた。徐々に先細っていたことは確かだ が、完全に息の根が止まったのは7都県を対象に発令された4月7日の緊急事態宣言、そして15日にそれが全国に拡大した段階である。だから3月4日の後 も、見ようと思えば見れた訳だ。いや、「映画好き」だったら行くはずだろうと言う向きもいらっしゃるかもしれない。現に、ネット上ではそう豪語していた猛 者も少なくなかったと記憶している。映画が好きならウイルスなど何だ…的な(笑)。まぁ、その発言の是非はともかくとして…である。
 だが、僕はもう3月4日の時点で、映画館で映画を見ようと思わなくなっていた。もっと正確に言うと、本作「ロングデイズ・ジャーニー」を見終わって、劇場の席を立ったその時から…だ。
 そこに、「あれ」は関係があったと言えるのだろうか?
 大体、3月4日以降は新作を見ていなかったはずなのに、僕が本作の感想文を書くのは現在(5月23日)までズレ込んでしまった。そもそも、サイトの更新そのものが滞っていた。3月は30日に1度だけ、4月に至ってはまったく行わなかった。5月は11日と今回である。まったく更新意欲が湧かなかったと言わざるを得ない。
 もちろん忙しいことは忙しかった。本来だったら新刊が出たばかりでヒマになるはずだったが、なぜか雑事に追われた。いや、自ら忙しくしていたのかもしれない。だが、ともかくバタバタしていた。その中で、どうしても本サイトの更新は優先順位が低くなった。
 だが、それは今始まったことではない。実は前々からそうだったのだ。
 さて、この話、一体どこから始めようか。
 ぶっちゃけ言うと、僕はもうここ何年か、いつこのサイトをやめようかとばかり考えていた。それは忙しいから…ということもあるが、それ以外にも理由はいくつかあった。
 もっとも大きい理由は、僕が自分の本を出版するようになったことだ。
 今までも何度かサイトを止めようと思ったことはある。だが何とかここまで続けて来たのは、仕事が不安定だった時や気持ちが追いつめられた時、映画とこの サイトに救われた部分があったからだろう。その時にこのサイトに救われたという恩義があるから、これを続けたいと思っていた訳だ。
 また、自分の言いたいことを言える発信の場をキープしておきたいという気持ちもあった。いくら自分の著書を出すといっても、それはあくまで世間に「公 的」に発信されるモノだ。テメエ勝手に何でも言える訳ではない。だとすると、そういう場を確保しておきたいという気持ちは正直ある。
 さらに、フリーになってコンスタントに文章を書く場面が減り、年齢的にいろいろと衰えていくことを考えると、人の目に触れる文章を定期的に書ける場があ るというのは実にありがたい。スポーツのように、文章を書くにもエクササイズが必要なのだ。そういう現実的な部分も少なからずあった。
 そして、そんなことより何より、楽しかった部分は間違いなくあった。1年に何本かは、自分でも「会心の出来」と思える感想を書けることがあった。今でもそういう時には例えようもない喜びがあった。自分の著書を出した時でも味わえない喜びだ。
 だが、サイト開設20年を超えたと気づいたとき、さすがにこれはどうなんだろうと思えて来た。いつまでこれを続けているのだという気持ちにもなった。しかも、自分が「したり顔」で映画を語っているのもどうかと思った。
 僕が映画を語るのは、プロとしてではない。あくまで「素人芸」である。だが、そんな僕は一方でプロとして本を作っている。そんな「公的」発信をしている自分が、素人としてプロが作った映画をアレコレ文句言うってのはどうなんだ。それはちょっと見苦しいものがあるだろう。
 そして、もう60になったということもある。60にもなってずっと映画を見てくれば、それなりにバカでも映画のウンチクがついてくる。そのウンチクを並べて、若い人たちに偉そうに語っているのもどうなんだろう。ただ、長く見ているというだけなのに。
 映画っていうのは、「若い」メディアであり「若い」文化である。僕はそう思う。そこに、僕のようないい歳をした人間が、一方では一応は文筆のプロの端くれでありながら、他方で「素人」という隠れ蓑を着て偉そうなことを言っているのは決していいことじゃない気がする。
 そんなことをずっと考えながら、今度こそ今度こそと思いつつ、僕は毎度毎度サイトをやめる機会を失っていた。つい先日はサイト20周年の2019年末で終わろうと思って、そのチャンスを逃してしまった。次のチャンスは、2019年度末の3月である。
 そんな折りもおり、ある出来事が起きた。それを知った時、僕の中にはストンと腑に落ちるものがあった
 さらに、ダメ押しのように今回の「あれ」が来た。それで僕も完全に「ここが終わりどころだな」と観念した訳だ。
 では、「あれ」が来る前に、何が僕の中で「ストンと腑に落ちた」のか。


「パラサイト」オスカー受賞に感じたこと
 今年の2月10日、ハリウッドでアカデミー賞の授賞式が行われた。こんなお祭りをやっていられた時点で、世界はまだまだ平和だった。そこで発表された作品賞は、何と韓国映画「パラサイト/半地下の家族」(2019)。監督賞にポン・ジュノまで選ばれる圧勝である。
 素晴らしい、実に素晴らしい。誰もが賞賛である。もちろん僕もめでたいとは思った。僕は昔から韓国映画に大いに関心があったし、ポン・ジュノも好きな監督である。だから快挙だとも思った。思ったけれども…そこには何となく違和感も残った。それは、別に「パラサイト」がアカデミー賞をとったことが気に入らないとか、韓国映画が取ったのが良くないとか、そんなことじゃない。
 まず、白状しなくてはならないのだが、僕は現時点で「パラサイト」そのものを見ていない。なぜかと言われても仕方がない。仕事の関係でタイミングを失い、さらにアカデミー賞受賞で混んでると思って敬遠していてタイミングを失い、そして「あれ」で完全にタイミングを失った。だが、それは言い訳であると自分でも分かっている。何となく本作には食指がそそらなかったのだ。
 その前に、なぜ「パラサイト」アカデミー賞受賞に違和感を感じたのかを語らねばなるまい。まず第一に、アカデミー賞って決して「世界一の映画」を決める賞ではない。そこんとこが最初からズレている。その発足当初から、ハリウッドの業界賞に過ぎないものである。基本的に、ハリウッドという狭い界隈で内輪でお仲間を表彰する賞である。イギリス映画が受賞することもあるが、それはあくまで英語映画として…ハリウッド映画の延長線上として評価されているからである。例外的にはフランス映画のアーティスト(2011)が挙げられるが、内容自体が黄金期のハリウッドの話で実際にアメリカで製作されていて、それなりにオスカー受賞の必然性はある。だから、アカデミー賞はカンヌとかヴェネチアなどの映画祭の賞とは成り立ちが違うのだ。むしろ、それが「世界一」を決めるなどおこがましいもいいところである。
 そもそも、本来はアカデミー賞には外国語映画賞がある訳で、そのあ たりの線引きが今回どうなったのかが分からない。ルールがどこか変わったはずなのだが、そこがまずスッキリしないのだ。世間では「これでアカデミー賞も作 品そのもので正当に評価するようになった(韓国映画だからと言って差別しなくなった)」などと言われていたが、それはちょっと違うのではないか。正当に評 価するなら、元々が「パラサイト」は出る幕がない作品なのである。元からアカデミー賞は、世界のすべての映画をその出来映えによって評価する賞…などではないからである。
 本作のアカデミー作品賞受賞が「ハリウッドの多様性尊重」の現れ…みたいに評価されているのは。だからちょっとズレている。いや、大幅にズレまくっている。「パラサイト」がハリウッド資本で作られアメリカ人観客に向けた作品ならば、韓国語の映画だろうとオール韓国人キャストだろうとその理屈は分からないでもない。だが、「パラサイト」は少なくともその当初は韓国人観客に向けて作られた韓国映画である。それが韓国の事情を描いた韓国語の韓国人による作品なのは当たり前で、「多様性」でも何でもない。それを作品として賞賛して受け入れるハリウッドが素晴らしい…という話に持っていこうというなら、ハリウッドで作った訳でもないのにハリウッドの業界賞でモテはやすこと自体が変なのである。あくまで「ハリウッドでウケた外国映画」とだけ評価するのがスジだろう。
 また、「パラサイト」という映画が描いている「題材」自体にもいかがなものかという疑念がある。いや、正確には「題材」そのものは問題ではない。作品自体を見ていない僕が言うのもどうかと思うが、おそらく本作の根幹には非常にキツくなりつつある「格差社会」への言及があると思われる。少なくともその点は間違いないだろう。それが全世界的にタイムリーな問題で、特にアメリカ社会ではさらに顕著だったからこそ大ウケしたし、今回のアカデミー賞受賞にもつながったということは理解する。つまりは、例えば同じく今年の作品賞候補に挙っていたジョーカー(2019) の大ヒットなどと通じる点があった訳だ。今の社会では最も…少なくとも「あれ」が蔓延するまでは…大きな問題だった「格差社会」を鋭くえぐって、世界的に 話題をさらった作品だからこそ評価された…。作品そのものを見ていない僕としてはこの程度にしか語れないのが隔靴掻痒の思いだが、まずはそんなところが当 たらずとも遠からずだろうと思う。
 ここで従来のハリウッドだったら「ジョーカー」あたりを作品賞に選びたいところなんだろうが、悲しいかな「ジョーカー」はそれほどの出来映えではなかった。ハッキリ言うと「格差社会」にあえぐ人々に気持ち悪く「迎合」するだけの、安っぽく不出来な作品でしかなかった。 「格差社会」というナーバスな問題を、アメコミ映画(そうじゃないとは言えないだろう)というコロモをかぶせてお茶を濁さないと描けない程にハリ ウッドはダメになっているという証明でもあった。だから「ジョーカー」を選ばなかったハリウッドの人々の見識には僕としては敬意を払いたいところではある が、その代わりに「パラサイト」を選んだというのはちょっと微妙な気がする。もちろん、外国映画という「壁」がありながら、それを乗り越えるぐらいの面白さがあったということなのだろう。それくらい「パラサイト」が抜きん出ていたという訳だ。そういうことなのだろう。たぶん、そうに違いない。だが、本当にそうなのだろうか。
 つまり「格差社会」というナマナマしい題材の作品を讃えることでハリウッドも現実と向き合ってますよ…と言っているように見えて、実は巧妙にスリ替えが行われているようにも思えるのだ。なぜから、「パラサイト」は彼らにとって外国の話だからである。あくまで「人ごと」である。テメエのことならシャレにならないが、「人ごと」ならば「大変なことだ」としたり顔で語れる。その一方で、「オレたちは現実を見つめてる」という顔も出来る訳だ。
 だが、それはウソだ。これでは本当にハリウッドが現実と対峙しているとは言えないのではないか。しかも、「オレたちは多様性を尊重する」という自惚れまでオマケについてくる。これはちょっと違うだろう。
 現実とシビアに対峙するハリウッド…というなら、その業界賞であるアカデミー賞は自前の作品でそれを取り上げるべきである。「多様性」を言うなら、自国の非白人を中心にした作品(というのもいかがなものかと思うが)を打ち出すのが本来の在り方である。それをスリ替えた…のか、すでに出来なくなっているというのか、ともかくここで「パラサイト」を出すのは違う…僕はそう感じたのである。それが自前で出来なくなって来ていることが問題なのだ。
 これで「何かが変わる」というのなら、せいぜい韓国のポン・ジュノがハリウッド資本で映画を撮れるようになり、高いギャラを得られるようになる程度のことだろう。それがハリウッドに新たな豊かさをもたらすとは思えない。ただ外国の才能を消費するだけだ。
 だからアカデミー賞の「パラサイト」受賞を知った時、僕はハリウッドの終焉を感じた。
 もうすでに企画の貧困化やマーベル映画の氾濫、「スター・ウォーズ」ブランドの凋落あたりから、ヒシヒシと感じてはいた。CG表現を多用することによっ て、逆に映像のインパクトがどんどん減退していくことにも疑問を感じていた。さらに、過剰にポリティカル・コレクトネスがキツくなって、人々が自由になる どころかどんどん制約ばかりが増えていくことにも、違和感を感じていた。だが、今回ばかりはその最後の「一撃」という感じである。
 ハリウッドは終わる。
 僕はハリウッド映画に憧れて映画を見て来た人間である。もちろん反発も感じていたし、ダメさも分かっているつもりである。それ故にハリウッド映画以外の ヨーロッパやアジアの映画…その中には邦画もある…そしてインディペンデント映画も見て来たが、それはあくまでモノサシとしてのハリウッド映画があったれ ばこそである。言ってみれば、僕にとっては映画のグリニッジ標準時みたいなものである。
 そのハリウッド映画が終わるのなら、僕にとっての「映画」が終わることになる。
 ついでに言うと、先に「パラサイト」自体に食指がそそらなかった…という理由は、この作品の題材にポン・ジュノという人の映画作家としての迷走みたいなものを予感したからである。実物を見ていないから、それは僕の杞憂である可能性も多分にある。そして世評の高さから考えてみると、見れば面白い作品なのだろうと思うし、実際にも成功作になっているのだろう。だが、グエムル/漢江の怪物(2006)やスノーピアサー(2013)などの作品で感じたこの人の「ブレ」みたいなモノと共通する何かが、この作品にも何らかの影を落としているような予感がした。考えてみるとSF作品というのはしばしば「風刺性」みたいなものを伴うのだが、それが明快に打ち出されれば打ち出されるほど、ポン・ジュノ作品は上滑りなモノになっていく傾向があるように思われる。今回も…実物は見ていないし、おそらく「それ」の粉飾には成功しているのだろうが、作家としての彼自身にはそのキズが何らかのカタチで残ってしまっているのではないだろうか。
 また、本作はかつての韓国映画の怪作、キム・ギヨン監督の「下女」(1960)…近年になって「ハウスメイド」(2010)としてリメイクされている…の強烈な影響下にある作品だと思われるが、申し訳ないがそれがどうもポン・ジュノという映画作家の停滞につながりかねない感じが する。過去の古典の引用めいたものを持って来て、いかにも今時タイムリーな題材にハメこんで自分なりにリニューアルする。オレの腕前をもってすれば、それ が出来る…というあたりに小賢しさを感じるのである。そもそも前述の「グエムル」や「スノーピアサー」あたりから海外資本と徐々に絡み出し、「オクジャ」(2017)では話題のネットフリックスと組む…あたりの妙な計算高さとも通じるところがある。僕が最初に注目した頃のポン・ジュノってそんな人には思えなかったのだが…。まぁ、でもこれは実物を見ていないので、あくまで「予感」である。「予感」でしかない。今挙げたような影響が表面化するのも、あと何年かを待たねばならないかもしれない。
 ここまでアレコレ言ってはみたものの、「パラサイト」実物を見ていないのに偉そうに語って申し訳ない。また、ピントが外れたことを言っていたら、これまた何とも失礼な話ではある。まったくの言いがかりである。だが、ぶっちゃけ言わせてもらえば、おそらくそれほどハズれたことを言っている訳ではないと思うのだが、いかがだろうか?
 それはともかく…ポン・ジュノの今後については偉そうには言えないが、この作品をアカデミー作品賞に選んでしまったハリウッドには、そのまま奈落の底に突き進んでしまいそうな暗い前途しか感じられなかった。これは、僕の長年の映画ファンとしての、偽らざる気持ちである。
 一方で、これは別の見方もできる。これこそが今の映画ファンと映画界が真に求めているものというならば、それは僕の方が間違っているのかもしれないのだ。つまり、僕がもう「映画」とは合わなくなって来ているのである。
 だとすると、なおさら僕が映画を偉そうに語るなど、片腹痛いではないか

世界中の誰も分かっちゃいない
 まぁ、そんな訳で「パラサイト」のオスカー受賞が僕の中でひとつの区切りのように感じられて、僕はいよいよこのサイトを終わろうかと真剣に思い始めた訳だ。だが、何かを「する」というのは結構大変だ。「やめる」ということを「する」のもシンドイのである。だが、やがて僕がそれを悩む必要がなくなる時がやって来る
 「あれ」が考えている間もないくらいに身の回りに忍び寄り、あっという間に世界を変えてしまったからだ。
 薪がなくなったら火も起こせない。映画が見れなければ感想など書ける訳がない。僕が映画館に足を運びづらくなり、実際に行きたくとも行けなくなって、ついには新聞の映画評が4月17日夕刊の段階でテレビ放映やネット配信の作品に切り替わるに至って、ようやく僕はそれを実感したような訳だ。
 それで僕は不意に悟った。サイトをやめるのに悩むことはない。そのままにしていれば、自然に終わらざるを得ないからである。
 だが、映画に起きたことなんてモノの数でもない。「あれ」の影響のほんの一端に過ぎない。いつの間にかに起きていたことだからそのインパクトを実感できないが、世界はまるでゆっくり真綿で首を絞められるような状態に陥ってしまった。実は危機的状況ってのはこういうカタチで起きるんだな…と初めて分かった。
 SF映画を見慣れているからあまり動揺はしなかったが、現実は映画とは違っているようで、反面どこか似通っているところもあった。まさにワールド・ウォーZ(2013)的状況である。ただし、疫病でみんながゾンビになるのではない。思い込みと恐怖によってゾンビに変わるのである。
 だが、僕は「あれ」が起きた時、なぜか妙に納得してしまったところがあった
 実は前々から、世の中は…もう煮詰まって来ちゃっているんじゃないかという予感がしたのである。何だかもうこれ以上どうにもならないんじゃないかという気がしていた。もうパツンパツンな感じとでも言おうか、かつては白いカンヴァスがそれなりに広がっていたであろう世の中に、もうまったく余地が残っていない感じとでも言おうか。
 主張や罵り合いも行き着くところまで行って、やり過ぎたあげくに誰も自由にも幸福にもならない状況に陥っていた。すべての社会階層、年齢・性別・教育レ ベル・生活水準・地域・国家・宗教・人種…あらゆる違いによって人々は分断されていく。お互いを潰そうとして必死だ。寛容さなど欠片もない。多様性 を訴える輩が最も多様性を潰している。「自粛警察」など、もうとっくに国際的に活動を開始していた。これはそんな「パツンパツン」のほんの一端でしかな い。さまざまな創作物もすべてがほぼやり尽くされて、後はアレンジかサンプリングかコピー&ペーストに過ぎないように思える。それをまた、過剰な権利や法 律が縛りつけている。社会の階層やシステムもほぼ出来上がってしまって、上が詰まっていて可能性も見いだしにくい。だから、どんな業界や社会も何十年も前 から同じ連中が第一人者として君臨し続けている。これには若い人も絶望的にならざるを得ないだろう。
 どの国の指導者もそれなりの肩書きの人も、以前はそのホンネの部分はともかくとして、少なくとももっともらしい言動は見せていた。今はホンネとやらをむ き出しにする見苦しい連中ばかりが肩で風を切っている。でなければ、大衆に媚びて調子のいいことばかり並べる安っぽい連中だ。ディグニティーの欠片も見当 たらない。当然、あちらこちらで軋轢ばかりが増える。
 先に映画の話で企画貧困やらマーベル映画の氾濫(スーパーヒーロー映画があってもいいが、スーパーヒーロー映画「ばっかり」ってのはさすがにアメコミ・ ファンだっておかしいとは思わないのか?)やら過剰なCGやら過剰なポリティカル・コレクトネスやらと問題を列挙したが、それは世の中全般にわたって言え ることだった。おまけにSNSなど見たくもないが、フト覗いてみれば誰もが人の話も聞かずにマウンティングの応酬である。こんなことが、これ以上続いていい訳がない。
 何となく、僕はここ1〜2年「もうもたない」なと思っていた。
 それが大戦争なのか大災害なのかは分からないが、何かが起きるに違いないと感じていたのだ。世の中ひっくり返らなきゃいけないんじゃないかとさえ思った。だからお子さんのいる知り合いに、「今のうちに子供においしいモノを食べさせたり楽しい思い出を作ってあげなよ」などと言っていた。それってピーター・ウィアーザ・ラスト・ウェーブ(1977)で、主人公が来たるべき災厄をデジャ・ブで感じ取るようなものだ。
 まるでコップに水を満々と溜め込んで、表面張力でこぼれる寸前の状態になっているような感じ。いずれ近いうち、この緊張も弾けて水はこぼれてしまうという予感がしていた。だから、いよいよ「あれ」が実体化してきた時に、僕はようやく察したのだ。「自分が感じていたのはこれだったんだな」…と。
 そのせいなのか、僕はボケッとしたまま危機感もなく過ごしていた。周囲がやかましくなっている中で、僕はそれこそ映画でも見ているような気しかしなかった。
 危機感がないのは、僕の日常に何ら変化がなかったからかもしれない。たまたま僕の新しい本を作るために自宅でカンヅメ状態になっていて、その延長のままステイ・ホーム状態になってしまった。だから、日常にあまり変化がなかった。また、自分の生活に対する不安も、元々が僕の仕事が浮き草稼業で不安定なものだったから、「あれ」があろうとなかろうと危うさにあまり変わりがない(笑)。そんな訳で、僕はテレビに映る渋谷スクランブル交差点が地球最後の日みたいにガラガラな状況を、まるでSF映画でも見るような目でボンヤリ見つめていた訳だ。
 テレビでは連日「あれ」の話でもちきりである。ワイドショーのコメンテイターとかいう連中が口からツバを飛ばしながらアレコレ言ってみたところで、所詮 は素人のこいつらに何かが分かる訳もない。そこに割り込んで来た自称専門家たちにしたって、どこまで本当に「専門家」か分からない。新興宗教の教祖みたい にヒステリックに煽っているだけ。言ってることもそいつの立ち位置によって180度違う。なのに、この件については誰もが上から目線で「自分は正しい」と断言する。お上の御用専門家にしたって似たようなもんにしか思えなかった。
 こいつらが煽るおかげで、こっちの身内まで壊れて来ちゃっていい迷惑だ。説得しようにもパニックになっちゃって困る。かと思えば、「コロナが怖くて何ができる」的にイキる者もいる。どっちか両極端に振り切れないと死ぬのかね。
 たまたまお腹を壊して足を運んだかかりつけの医師は、一連の「あれ」について「オレにもまったく分からない」と正直に告白していた。「センセイ」と呼ばれる立場の人でこうまで率直な発言をしていた人は、全世界でこの「町のお医者さん」ただひとりだ。だからこそ、この人だけは信用できた。この人はその後にこう付け加えることも忘れなかった。
 「たぶん誰も分かっちゃいないと思うよ」
 白目を剥いてわめいていたワイドショーの自称専門家に聞かせたいよ。たぶん、そこを本当に「分かっていた」のは、この「町のお医者さん」だけじゃないのか。
 クルーズ船の中で感染者が続々出て来た時には、ニューヨーク・タイムズやらBBCやら海外から罵倒と嘲笑の嵐が飛んで来た。しかし、それから欧米の国々 で起きた阿鼻叫喚を考えると、彼らだって何ら分かっちゃいなかったのだろう(クルーズ船の外国人乗客が、散々メシがマズかったと罵ったあげく実は自分が感 染して味覚がイカレてたという顛末は、非常に象徴的だ)。マスクひとつとってみたって、それまで東洋人がマスクをしているのを散々バカにしていながら、そ れからふた月と経たないうちに空港でマスクの争奪戦を演じるみっともなさ。
 むろん昨今大流行りの「日本スゴい」の醜悪さは、僕自身見ていて耐え難いと思っている。その一方で、何でもかんでも欧米ではこうザマス…とまるで自分まで「あっちの人」にでもなったかのように語る日本人も、相当に恥ずかしい。どっちもどっち。日本人は極端に自分を卑下するか傲慢になるかの二択だけ…とは以前からずっと思っていた。
 だが、今回の欧米へのガッカリ感は、それらを遥かに超えていた。恥ずかしながら子供の頃に読んでいた「ナルニア国ものがたり」シリーズからビートルズ、 さらにハリウッド映画…と「舶来愛好家」であり続けたことを否定できない僕でさえ、それまでの「欧米崇拝」の気持ちが雲散霧消してしまうほどの幻滅ぶり だった。もう、これからはアメリカもヨーロッパもダメかもしれないなと、心底思い知らされてしまっている。それくらい、世の中がひっくり返っちゃうんじゃないか。
 だが、日本にしたって実際のところは終始グダグダだったように思える。たまたま、すべて偶然で何とかなっていただけなのかもしれない。評判を上げた人物も失態を続けた人物も五十歩百歩。おそらく今回のどこが正しくて何が間違っていたのか…その正否については、あと5年10年しないと本当のところは分かるまい。それが「歴史」というものだろう。あの「町のお医者さん」が言った、「誰も分かっちゃいない」というのが唯一の真実なのではないか。
 もちろん、僕だって「あれ」のことをこれっぽっちも分かっちゃいない。でも、「分かっちゃいない」ことを「分かって」はいたいと思う。それは、「シェルタリング・スカイ」(1990)やドリーマーズ(2003)におけるベルナルド・ベルトルッチの結論にも似ている。自分は決して「分かっていない」ことを「分かる」だけの醒めた意識は、どこかに持っていたいと思うのだ。


失ってしまうことを甘受するのも人生
 だからという訳でもないが、僕は現在のことよりも「あれ」が過ぎた後の世の中のことをボンヤリ考えていた。少なくとも、今までの世の中のままではいられないんじゃないだろうかと思った。人々は以前の生活に戻ろうとするだろうが、おそらくそうはいかないんじゃないかと思った訳だ。戻らないし、戻れないし、戻るべきでもない。若い人たちやお子さんたちはまことに気の毒に思うが、それも仕方ないかもしれないなと思った。
 先日の男と女/人生最良の日々(2019)の感想でも書いたことだが、僕も歳をとってから考えが変わって来た。歳をとるということは、どんどん何かを失っていくことだ。目が見えなくなったり動きがニブくなってきたり容色が衰えて来たり…それに逆らって「美魔女」みたいに頑張る人もいるだろうが、僕は何となくそれって見苦しいんじゃないだろうかと思い始めたのだ。失ってしまうのは仕方がない。人間諦めが肝心である。失ってしまうことを甘受するのも人生ではないかと思うようになったのである。
 それと同じように、人々はそれまでの世界を取り戻そうともがくのは止めて、新しい世界を受け入れるしかないのではないかと思った訳だ。必死にもがいたところで、それは後ろ向きで無駄な抵抗になってしまいそうだからである。
 そういう意味で僕が脳裏に思い浮かべたのは、映画の「これから」であった。今この段階で、映画館は軒並み閉まっている。映画ファンはいずれこれらが復活することを待ち望んでいるし、いざ「解禁」となれば映画館に出かけようと思っているのだろう。確かにそうなるかもしれない。
 だが、ここだけの話、僕はもう「劇場で見る映画」は衰えていくんじゃないかと思い始めている。再び劇場がオープンになったら映画ファンが殺到してにぎわいがまた戻って来るかもしれないが、いずれ緩やかに下降線を辿っていくのではないか。
 「劇場で見る映画体験」の素晴らしさは僕自身強く感じるが、この世の中は優れたものが常に生き残って来た訳ではない。しかも「優れている」と見るモノサ シも変わる。今回の「あれ」をキッカケに、僕も考えを改めざるを得なくなった。一気に衰えることはないにしろ、徐々にネット配信に移行していくことは、も はや避けられないのではないかと思っている。1960年代のテレビの攻勢からも生き残って来た劇場映画だが、今回ばかりはもうオシマイかもしれないのだ。 いや、劇場は生き残るのかもしれないが、それは現在の歌舞伎などのように贅沢品か伝統芸能のような敷居の高いカタチでしか残れないかもしれない。頑張っている方々や待望している人々にはまことに申し訳ない話ではあるが、ホンネを言えば僕はそう思うようになった。
 そして驚くべきことに、僕自身それをさほどショックに思っていない
 映画ファンのくせに随分薄情だと言われるかもしれない。大いに非難されることなのかもしれない。だが、なぜか僕はそれで納得しちゃっているのだ。本当に そう思っちゃったのだから仕方がない。そもそも、劇場で見る映画の寿命はとっくに尽きていたのかもしれない。衰退は時間の問題だったのかもしれないのだ。 「あれ」はそこに最後の一押しを行ったに過ぎない。
 少なくとも…これからも多くの人は映画を応援していくんだろうが、もういいかげん僕はいいかな。十分やってきた訳だし。それでもオマエは映画好きなのかと言われるかもしれないが、みなさん程ではないにしろそれなりに映画好きではあったと思う
 そんなことを思っているうち、今はもう緊急事態宣言とやらが出てから1か月半が経って、もはやそれも解除待ったナシな雰囲気(注:先にも述べたように、この文章は3月5日に始めて、5月22日までかかって書いている)。「ワールド・ウォーZ」みたいな、一時期のお先真っ暗感がウソのようだ
 僕がここで並べた先の見通しなど、ハッキリ言って何の根拠もない。何だかんだ言って、世界はまた元に戻っちゃうのだろう。 世の中がひっくり返るなんて馬鹿げた妄想で、チャッカリあの日常が帰ってきちゃうような気がする。実際のことは、あの「町のお医者さん」が言ったように 「誰も分かっちゃいない」のである。映画だって元に戻っちゃうかもしれないし、劇場も廃れないかもしれない。全部、僕の杞憂であると笑っていただいて結構 だ。何より、僕もまた劇場の座席に座ってスクリーンを見つめているかもなと思う。別にキライではないからね。
 だが、僕が映画のことについて文章を書いて人に見せることは、もうないんじゃないか
 緊急事態宣言が出されてから自分でも何かできないかと、Facebookでささやかに古い映画のことを書いてみたりもした。それは自分なりに家で楽しく 映画を見ていよう…的な「ステイ・ホーム」提言のつもりだったのだが、少々嫌気がさすことが繰り返されたので、すぐにやめようと思った。これはあくまで自分なりの「ステイ・ホーム」への協力だった訳で、別にやりたいことじゃな い。おまけに「家にいたくたっていられない奴だっている」とも思えて来て、「ステイ・ホーム」って主張自体もいかがなものかと感じられた。だから、すぐにやめた。そもそも、あそこはオレがウロチョロする界隈ではない。
 何より、本作「ロングデイズ・ジャーニー」を見たら、もうこれでいいやと思えた。
 僕のサイトのモットーは、最初のページに掲げた「マニアでもミーハーでもない映画ファンのサイト」という言葉に尽きる。そんな映画を求めて来たし、自分もそういうカタチで映画を語りたいと思った。だから、アートとエンターテインメントの境界線をラクラク超えた本作を見た時、僕にとっては我が意を得たりという感じでストーンと納得できた。僕はずっとこれを求めていたのだ。この作品を見ることが出来たのは、僕にとっては幸運だった。これが最後で良かった。
 だから、これで終わりである。長い間ありがとうございました。

 



 

 

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