「男と女/人生最良の日々」

  Les plus belles années d'une vie (The Best Years of a Life)

 (2020/05/11)



見る前の予想

 前々から繰り返し言っていることだが、僕はクロード・ルルーシュが好きだ。
 死ねフィル…おっと、シネフィルどもにはすこぶる評判が悪いルルーシュの映画が好きだ。誰が何と言おうと好きだ。利口ぶっているバカには何を言っても分からないだろうからいちいち説明などしないが、とにかく好きだ。このへんで前置きとしてはいいだろうか(笑)。
 そのルルーシュの新作が来たとなれば見なければ…と思う訳だが、問題はこれが彼の出世作「男と女」(1966)の、オリジナル・キャストを再招集した続編…ということである。それだけならファンには大変嬉しい作品ということになるのだろうが、実は「男と女」にはすでに続編があり、これがまた何とも微妙な作品であることが厄介だ。おまけに「男と女」ネタというか別バージョンみたいな作品もあったりして、いささか事情が込み入っている。それが、何が悲しくて再び「男と女」…。
 しかもルルーシュにはやたら「男と女」と邦題につく作品が多く、邦題だけでなく中身の方もまたどこか「男と女」の物語を彷彿とさせる内容になっているからややこしい。そもそもルルーシュは、もう長年「男と女」の話しか撮っていないのだ(笑)
 そんな訳でどうしようかと躊躇していたところ、知人より「イイ!」とお墨付きをいただいた。近作アンナとアントワーヌ/愛の前奏曲<プレリュード>(2015)も良かったし、これはもう見るしかない。
 そんな訳で、終了ギリギリになってそろそろコロナウイルスの脅威がささやかれる街にコワゴワ見に行った次第(笑)。ただし、見たのは2月26日だから、まだ街を平気で出歩けた頃の話であることをご承知いただきたい。

あらすじ

 ここは美しい環境に囲まれた老人施設。今日は面会日で、収容された老人たちとそこに招かれた親族たちを集めて、施設の女職員(マリアンヌ・ドニクール)が「記憶力クイズ」を始める。
 「ド・ゴールの引退は何年?」「1969年!」…。
 次々とこのようなクイズが出され、老人たちは活発に手を挙げたり発言をしたりしている。だがその片隅に、こうしたやりとりに関心がなさそうな車椅子の老人が ひとり…。それは、かつてはカー・レーサーであったジャン=ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の年老いた姿である。この場に興味もないなら、そもそ も生きる活気そのものがない。後ろに立つ息子のアントワーヌ(アントワーヌ・シレ)も、そんな父親に元気を取り戻させることはできない…。
 それからまもなくのこと、ここは郊外の街で老婦人アンヌ(アヌーク・エーメ)が営むささやかな店。アンヌは、かつてあのジャン=ルイと愛を育んだ女であ る。そんな彼女の店に獣医として働く娘のフランソワーズ(スアド・アミドゥ)と孫娘が訪れているところに、ひとりの男が訪ねてくる。例のジャン=ルイの息 子アントワーヌである。
 彼が持ち込んできた話は、もちろんジャン=ルイのこと。もはや記憶もおぼろげなジャン=ルイだが、アンヌのことは覚えていた。彼がアンヌと別れたのはかなり前のことになるが、それでもいまだに「愛した女」として彼女のことを鮮明に覚えていたのだ。
 今ではまるで生気のなくなったジャン=ルイだが、もしアンヌに会えば活気を取り戻すのではないか? そう思ったアントワーヌは、アンヌに「もう一度、父と会って欲しい」と頼みに来たのだ。そんな突然の話に、アンヌは困惑の表情を隠せない…。
 それから数日後のこと、例の老人施設の庭で長椅子に座って日向ぼっこをしているジャン=ルイの前に、あのアンヌが現れるではないか。彼女はジャン=ルイ の横に座り、「こんにちは」と話しかける。するとジャン=ルイは怪訝そうな表情で彼女を見つめ、こう問いかけるのだった。
 「君は新入りかい?」

「男と女」とルルーシュと

 「アンナとアントワーヌ/愛の前奏曲<プレリュード>」の感想文でも語ったことだし、この感想の冒頭でも述べたことだが、クロード・ルルーシュは基本的にいつも「男と女」のお話を繰り返し繰り返し作っている
 しかも「男と女」のような話…ばかり作っているだけではなく、先に述べたように「男と女」そのものさえ何度も繰り返している。「男と女」の続編…というかリメイクというか別バージョンというか、そんな作品がすでに2作あることもすでに語った通りだ。
 その名も続・男と女(1977)という作品がまずそれで、ジェームズ・カーンジュヌビエーブ・ビュジョルド主演で何とアメリカで西部劇仕立てにした映画だが、お話は「男と女」そのもの。評判もあまりよろしくなかったし確か興行成績も悪かったと思うが、個人的にはカーンとビュジョルドという好感度の高いキャストの良さもあって、僕は結構好きな作品である。まぁ、西部劇好きとしてはルルーシュが西部劇を撮っただけで嬉しかったのかもしれないが(笑)。
 しかも、その後に正統な続篇としての「男と女 II」(1986)があるというややこしさ。こちらの「II」はオリジナル・キャストであるアヌーク・エーメジャン=ルイ・トランティニャンが ちゃんと出て来る「20年後」のお話。ただ、二人の「その後」ストーリーだけではもたなかったのか、痴話げんかで遭難に終わるパリ・ダカール・ラリーが出 てきたり、サイド・ストーリー的にエーメがプロデューサーをしている映画づくりの話が出て来る。さらにそれが殺人事件とつながってくる…という、この話だ け聞いたら邦画のトンデモ発狂作、橋本忍の「幻の湖」(1982)みたいな映画(笑)だと思われそうな作品である。
 あの「男と女」の続編が、何でこんな映画になるの? その理由は、この当時のクロード・ルルーシュが置かれた状況を考えてみると何となく分かる。
 元々、ルルーシュという人は、今でいうジュークボックスで流れる「スコピトン」という日本のカラオケビデオみたいな映像を撮って生計を建てていたような人。また、ごく初期の「女を切り裂く」(1964)という作品は異色のドキュメンタリーらしい。そんな訳で、そもそもが劇的な構成とは無縁の映画作家だったようである。
 そもそも出世作「男と女」だって、練り上げた脚本などのない流し撮り風の作品。それ以降発表する作品はどれも「男と女」風…と前述したように、ストーリー性の乏しい映画ばかりだった。それがルルーシュ一番の持ち味だったのである。
 だが、毎度毎度おなじみ…のお話ばかりなので、どうしたってマンネリになる。そしてフランシス・レイの甘いメロディに映像を乗せる…という作風が、安易な手法に見られがち。しっかりしたドラマは撮れないのではないか(実際に撮れないのかもしれない)…と思われがちだった。早い話が「チャラい」映画作家扱いだった訳だ。おまけに商業的な成功だけはしていたので、作家主義が主流のフランス映画界では意地悪な視線にさらされる。これは、いかに成功者といえどもこたえただろう。
 そんな訳で、1970年代末あたりにはルルーシュ自身が迷走を始めてしまう。先にも挙げたアメリカ西部劇仕立ての「続・男と女」あたりも、そうした模索の中から生まれてきたのではないか。欧米現代史を背景にして4カ国のエピソードが平行する超大作仕様の愛と哀しみのボレロ(1981)、ボクサーのマルセル・セルダンとエディット・ピアフの恋を描いた実話モノ「恋に生きた女ピアフ」(1982)、何と近未来SF仕立てのヴィバラビィ(1984)、またまた現代史を背景にした家族の物語「遠い日の家族」(1985)…と続く異色作の連打は、おそらくルルーシュが何とか彼の作品に乏しい「ドラマ性」を獲得しようともがいた悪戦苦闘の跡ではないかと思える。つまり「チャラい」映画作家から脱皮して、年相応の成熟した映画作家として評価されたいという試みである。
 こうした試みは、おそらくヴィクトル・ユーゴーの有名な原作をまたまた現代史モノに焼き直して作った「レ・ミゼラブル」(1995)あたりまで続いたのではないかと思われるが、問題の「正統」な続編「男と女 II」はこんな流れの真っ只中で製作された訳である。おそらくオリジナル作品のピュア「男と女」だけ…という構成では「ドラマ」として物足りない…という焦りが、あのような「てんこ盛り」の妙な構成につながってしまったのだろう。
 そんな苦闘の果て、ルルーシュはようやく達観したのだろうか。結局、オレにはこれしかない…とばかりに近年は元の世界に戻ってきたようである。近作「アンナとアントワーヌ/愛の前奏曲<プレリュード>」は、インド映画テイストに飛びつくあたりルルーシュらしい「チャラさ」(笑)は伺えるが、基本的にまたまた「男と女」である。文字通り「一周回って」、自らの持ち味に戻ってきたというべきだろう。
 今回の作品は、こうしたプロセスを経ての作品…ということを前提として見ると、また感慨もひとしおなのかもしれないのだ。


見た後での感想

 そんな訳で今回の新版「男と女」続編は、途中に挟まった「男と女 II」とはまったく異なるアプローチの作品となった。
 ズバリと言えば「原点復帰」である。
 「II」ではおそらく迷走中の気の迷いからか、オリジナル「男と女」のシンプルさではもたないと思ったか、それとも新味を出すためにオリジナルから逃れ ようとしたか、何ともバランスの悪いおかしなことになってしまった。だが、今回はもうそんな無駄な抵抗はやめたようである。
 それより何より、どうやら今回の「人生最良の日々」の世界では、一度リセットが行われている。それは、ヒロインであるアンヌの娘フランソワーズ役の女優を見ても分かる。
 「II」ではフランソワーズ役に元々の子役だった女優を使わず、当時ルルーシュの妻で彼の映画に連続出演していたエヴリーヌ・ブィックスという女優に変えてしまっていた。この人いかにもアヌーク・エーメ・タイプの女優さんで、なるほどルルーシュはこの手の女が好きなんだなと思わされた。当然、エーメの娘役でもまったく違和感はなかった訳である。ところが、今回はそれを元々の子役だった女優スアド・アミドゥに戻している。つまり、「II」はなかったことにされてしまったようなのである。
 そういう意味では、本作は途中の続編を完全にすっ飛ばしたターミネーター/ニュー・フェイト(2019)と同じコンセプトの作品ということになる(笑)。おいおい、それって一体大丈夫なのか?
 だが、そうした改変…というか「原点復帰」は、むしろ本作の根幹となっている。それこそが、まさに本作最大の見どころなのである。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 


36才のボクが、老人になるまで。

 本作の冒頭は、何と老人ホームの場面である。そこで虚ろな表情で車椅子に座っているのが、何と我らがジャン=ルイ・トランティニャンというから衝撃だ。
 本作ではもちろん「男と女」の二人が再会しなけりゃ話にならないのだが、アヌーク・エーメは老いたりとはいえ、あの面影が残っている。それどころか、まだまだ女としての華やかさをとどめているのだ。これにはビックリである。そもそも、まだボケちゃいない。だが、一方のトランティニャンは完全にボケ老人。フランシス・レイの音楽に乗ってうっとりするようなロマンスを演じたあの二人…という訳にはとてもいかないのだ。
 だが、本作はそれでもあの二人を再会させる。しかも、そこから先は驚くほど余計な要素を加えたりしない。片方はボケちゃった老カップルの話だけで、どこまでも押し通す。「どこまでいっても男と女」なんていうとスポーツ新聞に載ってる精力剤の広告コピーみたいでヒワイな感じだが(笑)、やたらいろんな要素を追加して底が抜けちゃった「II」の失敗に学んだか、今回はどこまでも「男と女」の続編に徹して余計な要素を排除するのだ。まずは、これが正解だった。
 むしろ、それがかえって良かった。
 あのアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニャン本人が人生の年輪を重ねて…なんてキレイごとではなく、くたびれて老いさらばえてしまっていること自体が映画としてのスペクタクルになっている。これが何よりスゴいことなのである。どんなCGやSFXでも獲得できない、リアルな視覚的な迫力なのである。
 例えばそれは、フランソワ・トリュフォーが盟友ジャン=ピエール・レオと作り上げた、「大人は判ってくれない」(1959)から「逃げ去る恋」(1978)に至るアントワーヌ・ドワネル・シリーズにも似た重みだ。あるいは、リチャード・リンクレイター6才のボクが、大人になるまで。(2014)という1本の映画の中で成し遂げたことでもある。これは、実際の役者たちがそのまま12年ぶん歳をとっていくという驚異的な作品だった。だが、もっと分かりやすい例を挙げれば、意外かもしれないがクリード/炎の宿敵(2018)が本作に一番近い作品かもしれない。
 この「クリード/炎の宿敵」という作品はクリード/チャンプを継ぐ男(2015)の続編ではあるが、それよりも「ロッキー」(1976)のシリーズ第8作と考えるべきかもしれない。しかも、ある意味でロッキーがソ連ボクサーと戦うというシリーズ第4作「ロッキー4/炎の友情」(1985)の「続編」という方がしっくり来る奇妙なポジションの作品なのだ。「ロッキー4」から33年経ったお話で、同作に出て来るソ連ボクサーの「その後」が描かれるからである。
 実は「ロッキー4」という作品は、シリーズの中で出来のいい方の作品ではない。むしろ陳腐化してマンガのように滑稽になった作品である。それを「続編」 として焼き直す…などという製作方針は、本来なら避けるべきことであるはずだろう。どう考えても、「4」よりさらに陳腐でバカバカしいモノになりかねない からである。ところが「クリード/炎の宿敵」は、決してそうはならなかった。むしろ、非常にリアルで重みがある作品に仕上がった。それはなぜか。
 その理由は単純なモノではないだろうが、ひとつだけ挙げるとすれば、ロッキーもソ連ボクサーも当時の役者が演じていて、物語と同様に「歳をとっている」からではないだろうか。これが意識的に行われている根拠は、ソ連ボクサーの妻役までも同じ役者を使っていることからも分かる。いや、これは絶対にこだわってやったはずだ。同じ役者でなければ、このリアリティと重みは出ないのである。
 その結果、まさにヒョウタンからコマ…シリーズ中でも屈指の陳腐さとバカバカしさを持っていた作品から、リアルで重みのある「続編」が生まれてしまったのだ。それは、他では作れないホンモノの迫力である。
 本作「男と女」の続編「人生最良の日々」も、まさに同じ方法論で作られた作品だ。
 何よりあのアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニャンが、映画のお話と同じ年齢を経て出て来る。役作りの必要がない。そのままでいい。それだけで…見ている僕らは彼らの上に流れた歳月の重みを感じてしまう。それは、実際に流れた歳月だからである。だが、そのままの役者を何十年も経って再結集できることこそ、映像的に「最大の贅沢」になっている。
 その狙いは、「クリード/炎の宿敵」でソ連ボクサーの妻役まで同じ役者にやらせたように、本作でもエーメとトランティニャンの子供を同じ役者にやらせた ことでも分かる。前述したように、あの「II」ではエーメの娘役を「エーメ似」のエヴリーヌ・ブィックスなる女優にやらせていたが、これはそういう問題で はない。やはり「男と女」に実際に出てきた子役にやらせてこそのリアリティだ。単に途中の作品をなかったことにしただけの「ターミネーター/ニュー・フェイト」とは、実はここがまったく違う。今回、「この点」にこだわったルルーシュは正しかったのである。
 だからこそ、今までルルーシュがあれほどかなぐり捨てたいと願った、甘っちょろい「チャラさ」が雲散霧消している。時の流れをそのままに受け止めた達観こそが、本作の「渋み」となっている。ホンモノだけが持つリアリティ。そりゃホンモノな訳だ。なぜなら、本当のホンモノだからである(笑)。

2020年ボケ老人の旅
 しかも、今回注目すべきは徹底的に「物語性」を放棄してしまったこと本作は数あるルルーシュ作品の中でも屈指の、「物語性」の乏しい作品となっているあたりがビックリである。
 前述したように、近年のルルーシュ作品はともかく自らの作品に乏しいとされる「物語性」をどうやって付加させるか…が最大の課題だった。常にそこを叩か れているうちに、いかに時代の寵児として強気一辺倒だったルルーシュでも、いささか迷ってしまったのだろう。だから、あの手この手で「物語性」を獲得しよ うとしたし、あるいは獲得したようなフリをしていた。しかし、それらがことごとく無駄な抵抗であったことは、何より彼のフィルモグラフィーがそれを如実に物語っている。そこで思い切って、そんな「物語性」獲得の試みを完全に放棄してしまったのが本作なのである。
 「チャラさ」を何とか払拭しようと、自らの作品に「物語性」を導入すべく悪戦苦闘しても、ルルーシュの作風は本来「物語性」とは どうにもそぐわないものであり、それは一種の移植手術のように拒絶反応を引き起こしかねなかった。「II」の失敗はまさにそれに起因するのだろう。
 そんな試行錯誤を重ねたあげく、移植を諦めてしまったかのようなここ何作かではあるが、それがジワジワと効果を発揮してきたようなのだ。
 例えば近作の「アンナとアントワーヌ/愛の前奏曲<プレリュード>」では、終盤で二人が聖者アンマに抱擁される場面が出て来る。あのくだりで本当に何か 奇跡がありそうな幸せな気分がして来るのは、何か劇的な細工をしたからではない。むしろボクサーがノーガードの構えで戦うような「無防備」な作り方をした ことが、「それ」を生み出したんじゃないかとさえ思える。今さらコチョコチョ小細工をしたところで、それには限界があるとルルーシュには分かっていたのだ ろう。
 だから
本作でも「男と女」の二人をまんま54年経った状態で出しているだけで、他には余計なことをしない。先にも述べたように、本作には「物語性」が希薄である。二人がただいるだけ…みたいな作品なのだ。
 途中でいろいろエピソードが出ては来るものの、太い幹のような「物語」はない。エピソードも映画自体を進めていく原動力というものではなく、スケッチ的な要素でしかない。そこにドラマ的な作為を入れただけで、ウソ臭くなるからである。
 面白いのは、それが時として「夢」や「幻想」のごとき描かれ方をしていることだ。
 考えてみれば、特にジャン=ルイ・トランティニャンの方は、すでに立派なボケ老人である。アヌーク・エーメが訪ねて行っても、彼女本人とは分からない。だが、エーメの面影と愛の記憶だけは強烈に残っていて、それが彼女の心をときめかせる。
 映画が夢か現実か分からない作り方になっているのが、狙ったのか偶然なのか、そんなボケた老人の意識と二重写しになって来る。これは幻想なのか、それとも現実なのか、見ているこちらも分からなくなって来る。知らず知らずのうちに、僕らはボケ老人に感情移入していく訳だ。これはある意味で、前代未聞の映画体験かもしれない(笑)。例えば「2001年宇宙の旅」(1968)が我々に宇宙旅行をリアルに体験させてくれるのと同様な意味で、本作はボケ老人のリアルを体験させてくれるように思える。これは何とも革新的ではないか。
キューブリックですらなし得なかった偉業だ(笑)。小細工を施した「物語性」を排したからこその、不思議な映画体験なのである。

ボケこそ人生最良の日々
 だが、こうして観客である僕らが「ボケ老人」を追体験していくうちに、いつの間にか予想外の効果が生まれて来る。僕らは本作を見るまでには、思ってもいなかったことを考えるようになっていく。何と、「ボケ老人」としての老後も悪くないんじゃないかと思えてくるのだ。
 人間誰しも、ボケたくはないと思う。痴呆症やらアルツハイマー病など絶対になりたくないと思う。年齢を重ねれば避けられないと分かりつつも、そうはなりたくないと思う。それは確かに、端で見ていて素敵な状況にはとても思えないからだ。いや、むしろ悲惨だろう。醜悪そのものに思える。特に全盛期にバリバリやっていた人なら、特にミジメに思えてくる状況だ。
 だが、本作を見ていると、そのあたりの意識が180度変わっていく。夢うつつ、幻想と現実が交錯する日々も、そんなに悪くはない。その傍らに愛する人が いるなら、むしろ最高なんじゃないかと思えてくるのである。とてつもない発想の転換である。これは、映画として驚くべき「達成」ではないのか。
 先進各国がいまやどこも高齢化社会を形成しつつある今、実は「チャラかった」はずのルルーシュ作品がタイムリーな社会的テーマをも内包していることに驚かされる。これを驚かずして何を驚けばいいのだ。そして、今回ルルーシュが一番言いたかったことは、まさにこれに違いない。
 面白かったのは、エーメとトランティニャンの子供たちも映画の中で恋に落ちていくくだり。まるで「男と女」で描かれたように海辺での二人の場面が出て来るが、画面に出て来るのはエーメとトランティニャンみたいにうっとりさせる素敵なカップルではなく、パッとしないオッサンとオバサン(笑)。かつてのあの二人のようには、とてもじゃないがいかない。それどころか、老カップルとなった
現在のエーメとトランティニャンにすら負けている。正直言って親世代のような輝かしさには程遠い子供世代という、現実的な状況を観客に突きつけてくるあたりもリアルである。まさにそれこそが我々の世代だ。およそパッとしないのが我々なのである。ルルーシュ、意外にも甘っちょろくなくて辛口なのだ。我々世代には厳しいのである。
 そのくせ、途中でなぜかモニカ・ベルッチなんか無意味に出してイマドキに媚びを売ったりしているのが笑ってしまう。最後の最後にはエリック・ロメール「緑の光線」(1986)の大胆なパクりまでぬけぬけとやらかしてしまうのだが、その「チャラさ」まで含めてルルーシュならではの味…ということなのだろう(笑)。
 それにしても、年老いていくことに対して「まだまだこれから」とか「アンチエイジング」などという年寄りの冷や水的アプローチではなく、年相応でいいじゃないか…と語る方法論は、まさに「新しい」発想ではないか。失われていくものは失われるままに、無駄に維持しようとか取り戻そうとはしない、諦めるということもひとつの選択ではないか。これってルルーシュが最初の「男と女」を作った時以上に、革新的なことなのかもしれない。
 「人生最良の日々」ってそれじゃないのか。
 ボケた人生も悪くない、いや、むしろそっちの方が幸せ…という発想は、確かに今までなかった。そんな「コロンブスの卵」的な映画づくりを行えるルルーシュは、実はそれこそ精神はまだまだ若いんじゃないかと思えてならない。
 世の中がこんなになっちゃった今となってみると、むしろボケちゃった方がどんだけ幸せか分からない気さえしてくるのである。


 

 

 

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