「霧の中の少女」

  La ragazza nella nebbia (The Girl in the Fog)

 (2020/03/30)



見る前の予想

 とにかく街中に、そして全世界に新型コロナ・ウイルスが蔓延中である。
 政府の要請によってイベントは中止。幸いなことに映画館の営業はまだ完全には止められていないものの、それでも渋谷のBunkamuraにあるル・シネマは閉じられ、他も風前の灯である。また、事態の進行によっては、そうそう外出も出来なくなる。
 つまり、いつ映画館で映画を見れなくなるか分からない
 そんな状況で、どんな映画でも見たい…と自分の都合に合う上映時間のものを探していたら、ふと知らない作品のタイトルが目に入ってきた。「霧の中の少女」…どうやらミステリーものらしい。ある田舎の村で霧の夜に少女が失踪して…という話からして、ちょっと気になるではないか。
 イタリア映画なのにジャン・レノが出ているというのも気になるし、そのジャン・レノが主演ではないというのも気になる。なぜか都内では立川の映画館だけで上映…というのも、妙に気になる。こうなると、居ても立ってもいられない。
 かくして、コロナで街中がひっそりとしている最中、わざわざ夜中に立川まで足を運んだという訳である(この映画は3月1日の時点で見ています)。

あらすじ

 深い霧に包まれた夜、クリスマスの飾り付けで輝く家から、ひとりの少女が出てきた。彼女はゆっくりと外に歩いて行って…。
 ある夜のこと、精神科医のフローレス(ジャン・レノ)は眠っているところを電話で叩き起こされる。「これから来て欲しい」との要請で、とりあえず病院へと駆けつけるフローレス。待ち構えていたのは地元警察の女性捜査官メイヤー(ミケーラ・チェスコン)。どうやら何者かが事故に遭ったらしく、その人物を診て欲しいという要請だったようなのだが、メイヤーいわくその人物には外傷もなく脳震盪にもなっていないという。
 「じゃあ、何で私が緊急で呼ばれたんだ?」と思わず口にするフローレスだったが、メイヤーは「彼を診れば分かります」と一言告げてフローレスを彼の部屋へと導く。
 そこには、問題の人物がいた。
 椅子に座っていたのは、有名なカリスマ刑事のヴォーゲル警部(トニ・セルヴィッロ)。テレビに出てきては派手にパフォーマンスすることで知られ、全国的な知名度を誇る刑事だ。だが、ここで呆然として椅子に座るヴォーゲルに、そんな自信満々で華やかな様子はない。
 「おやおや、こんな田舎まで…」とヴォーゲルに語りかけるフローレスは、その様子を不審に思って彼に鏡を見せる。何とケガもなかったはずなのに、ヴォーゲルのワイシャツには血痕がついているではないか。夢から覚めたような表情を見せるヴォーゲルは、「これは、説明しないといけませんな」と静かに語り始めた…。
 その夜からさかのぼること数ヶ月前、小さな宿屋の食堂で、ヴォーゲルはひとりで食事をとっていた。ここは、山に囲まれた田舎町アヴェショー。今は観光客もあまり訪れなくなったと嘆く宿屋の主人に、ヴォーゲルは「これからワンサカ人が来るぞ」と妙な予言を残す。
 ヴォーゲルは少女失踪事件の捜査のため、わざわざこの辺鄙な町にやってきた。彼の片腕として一緒に都会からやってきた捜査官ボルギ(ロレンツォ・リケルミー)とともに町を見渡すヴォーゲル警部は、ここがメインストリートがどん詰まりになるような「閉鎖的」な町であることに目をつけた。
 ヴォーゲル警部は町の捜査官たちを待たせて、失踪した少女アンナ・ルー(エ カテリーナ・ブシェミ)の両親に会いに行く。狼狽しきった母親マリア(ダニエラ・ピアッツァ)も、無骨な父親ブルーノ(ティエリー・トスカン)も、事件の カギになりそうなことは何も知らない。アンナ・ルーは優しい娘だということしか語れない。アンナ・ルーが家を出て行った12月23日も、クリスマスの集い のために教会に行こうしていただけだ。強いて気になる点を挙げれば、アンナ・ルーも両親も含めて、かなり厳しい教義を持つ宗派の熱心な信者という点だろうか。そのくらい、アンナ・ルーはイマドキにしては「お堅い娘」だったようなのである。
 娘の安否を心配する両親に、ヴォーゲル警部は「メディアへの協力」を促すのを忘れない。
 次にヴォーゲルとボルギは、事件の「捜査本部」へとやって来る。「捜査本部」と言っても、他に場所もないため町のプールを捜査本部に仕立てたもの。そこ に呼ばれてきた町の捜査官たちも、典型的な田舎のお巡りさんたち。緊張感ビリビリで事に当たろうとするヴォーゲル警部たちに、「クリスマスだから早く帰ってもいいですか?」などと聞く警官がいるテイタラクだ。
 しかも、田舎町の事件の捜査には予算だってつかない。地元警察も気勢が上がらない訳である。
 だが、ヴォーゲル警部には目算があった。わざわざ人手をかき集めて山狩りをしては、それを知り合いのテレビ記者に取材させる。それを全国ネットで派手に報道させて、さらなる人員と予算を確保する。ヴォーゲル警部は万事その手でやってきた。多少エグい手を使っても、事件さえ解決すればいいというのが彼の流儀だ。
 こうしてすっかり大所帯になった「捜査本部」は活気に溢れ、ヴォーゲル警部も意気軒昂である。そこに訪れたアンナ・ルーの父親ブルーノが唖然とする「告 白」を吐き出したりはしたが、捜査はヴォーゲルの目論見通り概ね順調である。たちまち事件はイタリア中で話題となり、田舎町アヴェショーに連日報道陣が押 し寄せた。当然あることないこと報じられて、町の住人たちも心中穏やかではない。だが、ヴォーゲル警部は一向に気にしない。むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。
 そんな彼の過去のキャリアには、消すに消せない汚点があった。同じような「劇場型」捜査を展開した「破壊魔事件」がそれだ。メディアを使って大騒ぎのあげく、犯人を逮捕。だが、それは後に冤罪とされてしまう。それでも、自分の流儀を改める気がないヴォーゲルだった。
 今回もそんな流儀は健在。彼の「演出」によって、失踪したアンナ・ルーの家の前にいくつものロウソクの火が灯され、人々がさまざまな品を供えて彼女の無事を祈る。もちろん、報道陣やテレビ・クルーもその模様をじっと見つめていた。
 すると、集まった野次馬の中からひとりの若者が出てきて、供えられたヌイグルミを持って行ってしまうではないか。むろん捜査陣は、その若者を見逃しはしなかった。
 彼の名前はマティア(ジャコポ・オルモ・アンティノーリ)。彼は町のはずれで一人で暮らす「ネクラ」な高校生で、アンナ・ルーとも同級である。
 これはクサいと睨んだヴォーゲル警部は、単身マティアの家に忍び込む。地下室のパソコンを覗いてみると、意味ありげなフォルダがあるではないか。中に入っている動画を見てみると、町を歩くアンナ・ルーの姿が映る。どうやらマティアは、彼女をずっと盗撮していたようなのだ。睨んだ通り、マティアは胡散臭い奴である。だが、彼のカメラがアンナ・ルーを追っているうちに、同じく彼女を追っているミニバンを捉えているのに気づくヴォーゲル警部。
 そんなヴォーゲルの背後から、何者かがゆっくりと近づいて来る…。

見た後での感想

   長々とストーリーを紹介して申し訳ないが、これはほんの「さわり」である。実はこれから話は二転三転。ここまでのあらすじにはまだ出てきていないが、高校で講師を勤めるロリス・マルティーニ(アレッシオ・ボーニ)という男が重要人物として出て来る。
 さらに、途中からこの男を巡る「社会派ドラマ」的な展開を見せてくるので、見ているこちらもてっきりそういう話かと思い始めた頃に…またまたアレレ?となって来るから驚いた。まるでタマネギの皮をむいているように、見ているうちに映画がどんどん変容を遂げていく。
 本作はなかなか手強いサスペンス・ミステリーなのである。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 


ナゾがナゾを呼ぶ展開

 田舎町での少女失踪事件の話…というと、ちょっと前に見たフランスの消えたシモン・ヴェルネール(2010)を思わせる。もちろんあの作品とはまったく違うお話ではあるが、本作も非常にユニークな作品である。
 先にも書いたように、本作はお話が二転三転。それは犯人だと思った 人物が違っていた…とか、事件の真相が違っていた…とかだけではなくて、お話の方向性自体もガラッと変わっていくからビックリ。まるで曲が転調するかのよ うに、マルティーニという高校教師が出てきた時点で物語の方向性がポンと変わっていくのだ。だが、「転調」はそれだけでは終わらない
 ナゾがナゾを呼ぶミステリーと思わせて、刑事のエグい捜査手法とメディアの問題を扱った「社会派」風に話が急旋回したのもつかの間。さらにそこからミステリーに戻って来て猟奇風味も加え、さらにさらに…と観客の予想を超える展開で話が進んでいく。なかなか欲張りセットの構造を持った映画なのである。
 だが、そもそも本作は、夜中に精神科医のフローレス(ジャン・レノ)が主人公のヴォーゲル警部の話を聞き出すところから始まる「入れ子」構造になっている。そこからして巧みである。で、僕はこの映画の冒頭部分から、ある別の作品が脳裏に浮かんできた…。
 夜中にいきなりの事件から「尋問」が始まり、「入れ子」構造の話が展開…という構成や設定から、ジュゼッペ・トルナトーレジェラール・ドパルデューロマン・ポランスキー(!)という異色キャストで作ったサスペンス・ミステリー「記憶の扉」(1994)が連想されたのだ。あの作品もナゾがナゾを呼ぶ展開で、見ている間は大いに翻弄された。もっとも「記憶の扉」は、サスペンス・ミステリーといっても実は「アレ」な話(笑)なので、純粋なミステリーとは言い難い映画なのだが。
 また、イタリアの田舎町で起きたナゾの事件…という意味では、2014年の第27回東京国際映画祭で見たアイス・フォレスト(2014)も想起された。珍しやエミール・クストリッツァが役者として出演している作品である。田舎の町に漂うイヤ〜な雰囲気…が、どこか本作と通じているような気がするからだ。ただし、この作品が本当にイヤ〜なところは、実はヨーロッパの人々が移民に対して抱いている「ホンネ」の部分が、さりげなく作中に隠されていたらしいところなのだが…。
 ともかく本作は、「消えたシモン・ヴェルネール」や「記憶の扉」といったナゾがナゾを呼ぶ凝った構成の作品であることは確かである。しかしながら本作の持つ性質のために、その詳細を語れないというのが何とも辛い。語っちゃうとネタバレ(この言葉自体は下品でキライなので使いたくないのだが)になってしまうので、具体的には何も言えないのである。
 だから、ドラマの後半に唐突に登場して場面をさらう、アッと驚くスペシャル・ゲストのことについても語れない。だが、とにかくワクワクさせるサービス精神旺盛な作品であることは間違いない。僕がボキャ貧なせいで、こんな漠然としたことしか言えなくてまったく申し訳ない。

ミステリー作家自らが自作を映画化
 そんな訳で、極めて野心的なスタイルを持った作品であり、かつ娯楽映画としてサービス精神に満ちた本作。その脚本・監督を手がけたドナート・カリシはどんな人物かと思えば、何と元々がミステリー作家というではないか。
 日本では「ドナート・カッリージ」という表記で作品の翻訳も出ているようで、つまりは自作小説の映画化を自ら行ったという訳である。なるほどお話が面白い訳だ。これが監督第1作ということだが、映画としてこなれていて稚拙な部分がまったくないのにも感心した。ウエストワールド(1973)などを撮った往年のマイケル・クライトンの監督ぶりを思わせるほどで、語り口がもはやベテランの域なのである。
 すでに監督第2作もあるようだが、そっちの方は今回の主役トニ・セルヴィッロに何とダスティン・ホフマンをぶつけるという異色キャスト。今回のジャン・レノのように毎回外国のビッグ・スターを連れて来るという作戦なのだろうか。ただ、今日びアメリカ本国では仕事がしづらい「都落ち」のホフマンを持ってきてるあたりが何ともビミョーであるが(笑)。
 それはともかく、本作はキャストも超豪華である。イタリア映画に出演しているジャン・レノ…というのも、なかなか珍しくて楽しい。詳しく言えないのは残念だが、前述のサプライズ・ゲストもアッと驚く嬉しさである。
 主演のトニ・セルヴィッロ「グレート・ビューティー/追憶のローマ」(2013)が評判になった人だが、僕は残念ながらその作品は見ていない。ただ、どこかで見た顔だなぁ…と思っていたら、やっぱりイタリア製サスペンス・ミステリーの湖のほとりで(2007)で主役をやっていた人だった。道理で見た顔だと思ったよ。お恥ずかしい限りだが、僕も近年はあまりイタリア映画にお目にかかっていないので、こんなテイタラクである。「湖のほとりで」の時はどうだったのだろうかと自分の感想文を見てみたら、「何とも華がない役者」と書いてある。いやはや、まったく僕も見る目がないんだねぇ。
 本作ではエグい刑事の尊大さもさることながら、それがどんどん深みにハマっていくあたりもなかなかいい。「湖のほとりで」の時は、単にオレがこの役者を知らなかっただけだったのか。情けない話である。
 そんな訳でサービス精神もたっぷりで、役者も豪華な娯楽サスペンスに仕上がっている本作。唯一ケチをつけるとすれば、あちこちでお話にちょいと無理があるのでは… という点が見られることぐらいだろうか。意外な話、意外な展開、意外な結末…を作ることに全力を傾注した結果、面白いことは面白いのだが、登場人物の心理 や言動としてはちょっと不自然かなと思える点がない訳ではない。ミスリードをさせる仕掛けなども含めて、どうしても無理矢理感が拭えないのだ。この監督、才人ゆえにちょっと才に溺れちゃったところもあるのだろうか。その点がちょっと気になった。
  それでも、例えば先日見た9人の翻訳家/囚われたベストセラー(2019)あたりと比べれば、どちらの作品とも意外な展開を作り出すあまり不自然な点が出てきてしまっているにも関わらず、本作の方が格段の深みがあることは否定できない。この点は正しく評価しなくてはならないだろう。
 この監督はなかなかの力量であることは間違いない。次の作品もとても楽しみだ。

 

 

 

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