新作映画1000本ノック 2019年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「ザ・フォーリナー/復讐者」 「アベンジャーズ/エンドゲーム」 「ドント・ウォーリー」 「ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ」 「バイス」

 

「ザ・フォーリナー/復讐者」

 The Foreigner

Date:2019 / 06 / 24

みるまえ

 ジャッ キー・チェンの新作…というと「十年一日のごとし」と思っていたら大間違い。少なくとも、近年は往年の彼の作品とはかなり様相の異なる作品が多い。「明る く楽しい」ジャッキー映画とは明らかに一線を画する映画も、最近では結構見かけるようになった。本作もどうやらそんな1本である。娘を爆弾テロで失った初 老の男…という設定で、予告編でもやたらに目が暗い。そんな「硬派」の話も珍しいならば、本作が「ゴールデンアイ」(1995)、「カジノ・ロワイヤル」 (2006)…と2度もボンド映画を撮ったマーティン・キャンベル監督による作品であることもジャッキー映画としては珍しい。さらに、アイルランドの政治 家役としてあのピアース・ブロスナンが出演というのも豪華だ。つまり、今回はジャッキー「ワンマン映画」でもない訳だ。ただ、キャンベルもブロスナンも、 あまりにジャッキーの世界とかけ離れた存在だ。果たして今回のジャッキー映画はうまくいっているのか?

ないよう

  ここはロンドン。授業時間が終わって、ハイスクールから生徒たちが一斉に飛び出して来る。中国系の娘ファン(ケイティ・ルング)もその一人だ。彼女はボー イフレンドと仲良く会話した後、迎えに来た父親クァン(ジャッキー・チェン)のクルマに乗り込む。ファンは卒業パーティーで着るドレスを買うため、急いで 店に寄りたかった。そこで店のそばで娘を降ろし、クァンはクルマを停めて駆け寄ろうとしたら…大爆発! 爆風で路上に投げ出されるクァン。あたりは阿鼻叫 喚。呆然として爆破された店を見つめていたクァンは、ふと我に返って店に飛び込んだ。次の瞬間、ガラスが粉々に吹き飛ばされた店の窓から、娘の亡骸を抱き かかえて嘆くクァンの姿が見えた…。それは過激派グループによるテロだった。彼らのアジトで、テレビのニュースを見ながら「戦果」を確認するテロリストた ち…。その頃、ここはアイルランドのベルファスト。愛人マギー(チャーリー・マーフィー)とベッドで眠っていたリーアム・ヘネシー(ピアース・ブロスナ ン)は、妻メアリー(オーラ・ブラディ)からの突然の電話で叩き起こされる。電話の内容は、ロンドンで起きた爆弾テロの知らせだった。メアリーは次いで亡 き弟の20回忌が違いことを告げるが、リーアムはそれには気のない返事をして電話を切る。リーアムとしては、今はそれどころではなかった。彼は北アイルラ ンドの副首相という身。今回の事件は、彼にとって重大な問題だった。リーアムは早速イギリス政府の高官キャサリン・デイヴィーズ(リア・ウィリアムズ)に 連絡をとり、事態の把握を図る。今回のテロがアイルランドの過激派「UDI」の仕業であると断定するキャサリンに対して、リーアムはイギリスで囚人となっ ている自分の従弟らに恩赦を与えれば、事件解決に結びつくかも…と告げる。むろんイギリス側も、その要求をタダでは聞かない。そこでリーアムは北アイルラ ンド協議会の会議の場で、テロ行為を起こした連中を洗い出すように指示する。今は体制側に回っているリーアムだったが、かつては自身も「UDI」でテロ行 為に身を投じていた時期がある。いわば昔取った杵柄である。爆弾が自分たちのモノだったと指摘されれば、身内に犯人がいるということは薄々見当がつく…。 その頃ロンドンでは、警視庁テロ対策指令部の指揮官リチャード・ブロムリー(レイ・フィアロン)が事件の捜査に当たっていたが、そこに5日も連続で面会を 求める男がいた。娘を喪ったクァンである。さすがに無視する訳にもいかず面会するブロムリーだったが、クァンは犯人逮捕を求めるとともに、いきなり全財産 の札束を差し出すではないか。さすがにそれを止めたブロムリーに、クァンは自らの身の上を話す。かつてベトナムに暮らしていたクァンは妻を亡くし、戦乱の 中をシンガポールに脱出。その際に娘2人も喪った。その後、イギリスに移住して中華料理店を営んでいたクァンにとって、今回亡くなったファンだけが遺され た家族だったのだ。クァンに深く同情したブロムリーは犯人逮捕を確約するが、実際には捜査は杳として進まない。ただクァンは抜け殻のようになったまま、な す術もなく待っているしかなかった。そんなクァンはある日テレビのニュースを見て、この件について北アイルランドの副首相リーアムが乗り出したこと、そし て彼がかつて自ら「UDI」メンバーとしてテロ行為に関わっていたことを知る。早速、リーアムに電話をかけるクァンだったが、長々と待たされたあげくリー アムは犯人に心当たりがないと答えた。この時点では実際そうだったのだが、クァンは到底納得できない。電話を切ったクァンは意を決すると、料理店の共同経 営者であるラム(リウ・タオ)に店の権利書を渡して家を飛び出した。さらにバンの塗装を園芸店のそれに偽装するなど、あまりに慣れすぎた手口で何やら準備 を始めた。心配して駆けつけたラムも振り切って、クァンはバンに乗って一路ベルファストへと向かうのだった。こうしてリーアムのオフィスに直接乗り込む クァン。しつこいクァンに渋々会ったリーアムは、テロへの怒りを語りつつも犯人は分からないと繰り返す。するとクァンは、「そのうち気が変わる」とつぶや いてその場を去った。だが、それで諦めるようなクァンではない。彼はオフィスの建物のトイレに入ると、そこの個室に手製爆弾を仕掛けた。しばらくしてトイ レが爆発。唖然呆然とするリーアムのもとに、外の公衆電話からクァンが電話をかけてくるではないか。「爆破は自分の仕業だ、犯人の名前を教えろ」…!

みたあと
  まず、冒頭から述べていたように、これは毎度おなじみジャッキーのワンマン映画ではない。そもそも、物語自体がジャッキーのためにあつらえられたものでは ない。監督のマーティン・キャンベルはジャッキーが主演しなければ本作は製作されなかったとコメントしたようで、製作に中国資本が加わっていることから 「ジャッキーありき」の企画ではあっただろうが、元々は「チャイナマン」なる原作小説が存在するお話である。しかもジャッキー映画には珍しく、ピアース・ ブロスナンというほぼ対等の共演スターが存在する。そのことだけでも、本作の方向性が分かろうというものだ。

こ こからは映画を見てから!

みどころ

  本作は、アイルランドの過激派にまつわる話をかなりシリアスに描いている。爆弾テロによって物語がスタートするあたりなど、「女は二度決断する」 (2018)にも通じる設定である。ジャッキーがここまで現実的なシリアス路線の映画に出るのは、かなり珍しいのではないか。僕はすべてのジャッキー の映画を見ている訳ではないのでハッキリとは言えないが、「新宿インシデント」(2009)以来じゃないかと思う。そして、先にも述べたように実際には中 国資本が入っているのだからジャッキーありきの企画だったんだろうが、少なくとも見ている間はジャッキーのために作った話…ではなく、ストーリーを語るた めにジャッキーを起用したかのように見える。これも彼の主演作としては異色である。最近ではジャン・レノを起用した「グレート・アドベンチャー」 (2017)など、チャイナ・マネーで欧米スターを堂々と使う映画が多い。ジャッキー映画でも近年はジョン・キューザックやエイドリアン・ブロディを起用 した「ドラゴン・ブレイド」(2015)などがあり、かつての欧米スターを起用した中国・香港映画とは段違いの洗練ぶりである。例えば前述の「ドラゴン・ ブレイド」と、やはりジャッキー映画でジュリアン・サンズを起用した「メダリオン」(2004)あたりを比べれば、その垢抜けぶりに格段の違いがあること が分かる。だが本作は、それにも増してジャッキー臭、中国・香港臭が微弱になっているのだ。それは、本作ではマーティン・キャンベル監督が映画づくりのイニシアティブをとっているからだろう。題材的には、お話の陰陽の違いはあるが…本作は「96時間」(2008)、「イコライザー」 (2014)、「ジョン・ウィック」(2014)、「コマンドー」(1985)…系列の作品である。いわゆる「ワンマン・アーミー」もの、普通の奴だと 思っていたらメチャクチャに強い奴だった…というお話だ。だから、ジャッキーがシリアスものをやるには好都合である。それでもマーティン・キャンベルは、 ジャッキーのアクションをギリギリまで抑えさせている。あまりにスーパーマン過ぎるアクションはやらせないし、その動きも極力リアリティのあるモノに仕立 て直している。ジャッキーのアクションはそもそも「京劇」的なカタなので非常にクセが強いのだが、何とかその違和感を最小限に食い止めているのは注目に値 するだろう。そもそもジャッキー自身が年齢を重ねて来て、過剰なアクションを抑える方向を目指しているらしいから、その方針とも合致している。今回は ジャッキーの演技も磨きがかかっていて、例えば本作は「アフターマス」(2016)でのアーノルド・シュワルツェネッガーの役どころにも似た役柄を演じて いるが、その芝居におけるメンコの数は歴然と違う。ジャッキーの方が一枚も二枚も上手なのだ。「香港国際警察」(2003)あたりから徐々に芝居の質を変えて来ていたジャッキーだったが、本作での思い切った老 けメイクと死んだ魚のような目をした芝居はかなりの新境地である。また、共演のピアース・ブロスナンも、腹に一物も二物も持っている政治家…というポラン スキーの「ゴーストライター」(2010)を思わせる役柄を好演。カネに釣られて片手間で出た…という感じではなく、本気で頑張っていて好感が持てた。007シリーズ 「ゴールデンアイ」以来のマーティン・キャンベル監督との相性の良さもあって、辛口の魅力が出たと思う。従来からのジャッキー・ファンがどう 思うのかは分からないが、僕は高齢化してきた彼としてはなかなかいい方向に持って来れているのではないかと思った。エンディングにいつものNG集をやらな いだけでも、その意気込みが感じられるではないか。

さいごのひとこと

 ロンドン・インシデントだったとは。

 

「アベンジャーズ/エンドゲーム」

 Avengers - Endgame

Date:2019 / 06 / 24

みるまえ

  正直言って、「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」(2018)の感想をアップした時には、さすがにオレもヤバいかと覚悟はしていた。たぶん、国内 で唯一あの映画をケナした感想だったんじゃないかと思うし、それもハンパじゃないブッ叩き方だったんで「こりゃ炎上か」と身構えた訳だ。熱狂的ファンが山 ほどいそうだしねぇ。結果は…というと、イマドキこんなサイトを見ている人もほとんどいなかったせいで(笑)まったく問題にならなかった。情けない話だ が、一安心したというのがホンネだ。だが、あの感想は噓偽りではない。本当の気持ちを言わせてもらったまでだ。ダメなものはダメなのである。そもそもが、 誰もがみんな一律に右に倣え…って大政翼賛会みたいで気持ち悪いではないか。映画マスコミもみんなマーベルの大本営発表みたいになって、実にイヤな気分 だった。僕の60年ぐらい生きている経験から言うと、みんながみんな一方向の意見に与して一色に塗り固められた時って、ロクなもんじゃない。すべてが一方 向一色に向いてるってのは不自然で、本当は真逆である可能性が高い。みんなが青だと言うなら、ホントは赤じゃないかと疑ってみた方がいい。その意見が声高 に勝ち誇ったように言われるなら言われるだけ、怪しいと思った方がいい。過剰にモテはやされ一言の反論も許されない程ヨイショされる奴がいたとしたら、そ いつもそいつの支持者もかなり危ういと思うべきだ。「勝ち馬」に乗ったつもりが、それは地獄の一丁目かもしれない…。閑話休題。マーベルに話を戻せば、あ の映画は商業映画として「商品」になってない…というのが僕の言い分だった。お客さんをもてなす…という一点について、どうも勘違いしている感じがする。 作り手側が「俺様ルール」だけを押し付ける、およそエンターテインメントとは言えないシロモノだと言いたかった。それと、何かというとジャジャジャジャ〜 ン…と「アベンジャーズのテーマ」みたいな曲が、パチスロでリーチがかかったみたいに劇中で何度も何度も流れるのも食傷気味。だから、「インフィニティ・ ウォー」の続編…という体裁の本作「エンドゲーム」が公開されると聞いて、正直言って見に行くかどうか非常に悩んだ。行かなきゃいいじゃん…と言えばその 通りである。だが、とりあえず「アイアンマン」(2008)に始まる一連のマーベル映画に一応のケリがつくというなら、見てみたいというのも正直な気持ち だ。そもそも本作は「インフィニティ・ウォー」の前後編という形態だったものを、わざわざ「別物だ」と分割したシロモノなのである。その過程でマーベル側 は本作のタイトルについてファンを煽りに煽って、そのあげくこのタイトルだからねぇ…。市川崑の1964年東京五輪映画のタイトルをわざわざ一般公募した 結果、「東京オリンピック」(1965)に決まりました…って話に匹敵するぐらいの茶番である。さすがにマーベルに「調子に乗るのもいいかげんにしろ」と イヤミのひとつも言いたくなる。そんな中での「エンドゲーム」公開である。おまけに上映時間3時間超えとは…恥ずかしながら近年1時間半以上の映画は生理 的にキツくなってきた身としては、これに耐えられるか自信がない。あまりに多数のヒーローを活かしたいがために、削りに削ってこの上映時間だった…との触 れ込みだから、途中で便所に行ったら訳が分からなくなりそう。まぁ、この触れ込みは例によってマーベルのハッタリくさいが、やっぱり途中でトイレはあまり 行きたくない。本作はメチャクチャ混んでいそうというのもユウウツのタネだ。そんなこんなで悶々としていたら、意外にも早く上映終了になりそう。そして、 偶然にもポッカリと上映時間にピッタリに時間が空いた。そこでこちらも腹がすわって、便所行きたくなったら行けばいいや、それで話が分からなくなったらそ れでもいいや、何だったらそのまま帰ってもいいや…と開き直って見に行くことにした次第。つまり、「お便所ーズでエンドゲーム」の気構え(笑)である。

ないよう

  それは、郊外の野原での家族団らんの光景。ホークアイことクリント・バートン(ジェレミー・レナー)は、娘のライラ(エヴァ・ルッソ)に弓矢を教えてい た。少し離れた原っぱでは、妻のローラ(リンダ・カーデリーニ)が幼い息子二人とテーブルにランチを並べているところ。弓矢の練習も一段落して昼飯の時 間…と振り返ったとたん、それまで聞こえていた妻子の声がいきなり消えた。ふと見ると、そばにいたライラも消えていた。原っぱには誰もいなくなった、ホー クアイを除いては…。一方、暗く広大な宇宙空間に1機の宇宙船が漂っている。それは、アイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア) とカラダの大半を機械に改造されたネビュラ(カレン・ギラン)を乗せた宇宙船だ。二人はサノスとの戦いの後、宇宙船に乗って地球を目指した。だが、宇宙を あてどなく彷徨ったところで、地球に帰れるアテはない。食料も燃料も、何より酸素が底をつく。トニーは破壊されたアイアンマンスーツの頭部に仕込まれた録 画機能を使って、妻のペッパー・ポッツ(グゥイネス・パルトロウ)あてのホログラム映像で遺言を遺した。こうしていよいよダメだとトニーが目をつぶったそ の時、宇宙船の外からまばゆい光が輝いて来たではないか。そこに現れたのは、エネルギー漲るキャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァース(ブリー・ ラーソン)の姿であった。ちょうどその頃、サノスの一撃により多くの仲間を失ったアベンジャーズの残党たち…キャプテン・アメリカことスティーブ・ロ ジャース(クリス・エヴァンス)、ソー(クリス・ヘムズワース)、ハルクことブルース·バナー (マーク・ラファロ)、ブラック・ウィドーことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)、ウォーマシンことジェームズ・ローズ(ドン・チード ル)、アライグマのロケット(ブラッドリー・クーパー)は、彼らの本拠地であるアベンジャーズ・ビルで無力感に包まれていた。そんな彼らのもとに、例の宇 宙船が降りて来る。キャプテン・マーベルが宇宙船を地球まで運んだのである。こうして彼らはトニーとの再会を果たしたが、トニーの方ではこれを喜んではい なかった。仲間割れによって、全力でサノスに当たることができなかった。その不満をスティーブにぶつけるトニー。彼は怒りのあまり胸のアーク・リアクター をひっぺがし、そのまま衰弱したカラダをその場に横たえる。そんなトニーの言葉に、スティーブは苦い思いを噛み締めずにはいられない。病床に着いたトニー を除いたアベンジャーズ残党たちは、この状況を打開すべくサノスの行方を追った。5つのインフィニティ・ストーンが埋め込まれたグローブ状のインフィニ ティ・ガントレットさえ奪えれば、サノスによって奪われた世界の半数の生命を取り戻せるかもしれない。ロケットはインフィニティ・ガントレットが作用した と思われるエネルギーが、最近、とある惑星から発生したことを一同に知らせる。そこにサノスがいる可能性が高いと見たアベンジャーズたちは、宇宙船でその 惑星を調べてみることにした。そこは、平穏な田園風景が広がる惑星。そこに、サノス(ジョシュ・ブローリン)はいた。小さい小屋で、今まさに食事の支度を しようとしていたところだ。そこに乗り込んで行ったアベンジャーズ残党たちは、スティーブ、ハルク、ソーの三人掛かりで押さえつけて片腕をたたき落とし、 例のインフィニティ・ガントレットを剥ぎ取った。だが、そこにはもはや1個のストーンもない。何とサノスは目的を果たした後、ストーンを自らの力で破壊し たと言うのだ。ストーンがなければ失われた人々を取り戻すことはできない。アベンジャーズ残党の面々は、あまりの絶望感にその場に棒立ちになってしまう。 中でも怒り狂ったソーは、その場でサノスの首を一気にはねる。もちろん、そんなことをしたところで何も解決されはしないのだった…。それから5年後、人類 はまた日々の営みを続けていたが、もう「異変」以前とはどこかが違い、世界は活気を失っていた。スティーブは「異変」によって傷ついた人々を励ますグルー プ・セラピーを主宰し、何とか社会に貢献しようとしていた。だが「前進しよう」と励ますスティーブ自身が、誰よりもその言葉を信じきれていなかった。ナ ターシャはアベンジャーズ・ビルに残って他のメンバーと連絡を取り続けていたが、事態が好転する気配はまったくない。おまけにローズから犯罪組織を皆殺し にしているナゾの人物がいることを聞かされ、動揺を隠せない。どうやら、それはあのホークアイの変わり果てた姿のようなのだ。「異変」がかくも仲間を変え てしまったことに、ナターシャは悲嘆に暮れずにはいられなかった。そんな頃、「援軍」は意外なところからやって来る。サンフランシスコの倉庫内に停められ ていた1台のバンが、その舞台となった。バンの中をネズミがチョロチョロ動き回った拍子に、搭載されていた装置が作動した。次の瞬間、凄まじい音とともに 出現したのは、アントマンことスコット・ラング(ポール・ラッド)。彼は例の「異変」によって量子の世界に閉じ込められ、そのまま5年が過ぎてしまったの だ。こうしてこの世界に戻って来たスコットだったが、その荒れ果てようにビックリ。「異変」によって世界が一変したことを知った彼は、娘キャシー(エマ・ ファーマン)と再会。一安心したスコットは、その足でアベンジャーズ・ビルを訪れる。驚いたのは、その姿をビル内のモニターで見たナターシャとスティーブ だ。あのアベンジャーズの「内紛」の際に現れた「巨大化する男」が、「異変」を潜り抜けて生き残っていたとは…。早速ビルの中に招き入れられたスコット だったが、彼の話はナターシャとスティーブをさらに驚かせる。彼は量子の世界に5年間閉じ込められていたのだが、そこでは彼は5時間程度しか体感していな かったというのだ。つまり、量子の世界では現実世界と時間の流れが違う。だとすると、これを応用して過去の時間に行くことだって可能かもしれない。量子の 世界を利用して「異変」が起きる前に戻り、それを未然に防ぐことだって出来るかもしれないと言うのだ…!

みたあと

  正直言って、そんなことだろうとは思っていた。…というより、スパイダーマンなどは続編が製作されているのだから、消えたままで終わる訳がない(笑)。そ して、問題を解決するためにはタイムトラベルを行うしか方法がないとも思っていた。その方法にアントマンの「量子の世界」を使うというのは…正直、何を 言ってるのかサッパリ分からない原理(笑)なので…まったく予想がつかなかったが…。では、本作はぶっちゃけどうだったのか。あれだけ前作「インフィニ ティ・ウォー」をボロクソに叩いた僕である。本作もムチャクチャにコキ下ろすことになったのか。はたまた、全く異なる評価となったのか。率直に言わせても らうと…本作もいろいろ問題はあるが、ほぼ10年に及ぶマーベル映画の流れの総まとめ篇として、それなりの仕上りになっていることは認めざるを得ない。む ろん、前作のおかげで徹底的にハードルが下がりまくっていたので、予想外に良く見えたという側面は否定できない。だが、とにかくこれだけ雄大な構想の物語 を作り上げて、何とかまとめあげたことは大したものだと思う。これを認めなければ、さすがにフェアじゃないだろう。だって、見ている間はまったくトイレの ことを忘れていたのだから(笑)。
こ こからは映画を見てから!

こうすれば

  まずは、本作のうまくいっていない部分から挙げていこう。まず、一番マズい点は主要人物の「自己犠牲」が2回出て来てしまう…という点である。これが片方 だけなら、非常に効果的であったと思われる。だが、2人も「自己犠牲」で退場するハメになったので、そのインパクトが減退することになってしまった。これ は偶然にも「ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ」(2019)と同じウィーク・ポイントである。何だかハリウッドにも、日本映画みたいな悪いクセが感染 してしまったのだろうか。本作ではさすがにシリーズ全体の中心人物の退場を軽く出来なかったので、相対的にもう片方の「犠牲」がかなり軽視されたような印 象を与えることになった。おまけに、その「犠牲」になる「なり方」が前作で別キャラクターが犠牲になったものの繰り返しとなっているため、「無駄死に」感 が強い。実際には今回「犠牲」になったキャラクターはそのことを知らなかった設定なのでお話に矛盾はないのだが、観客である僕らはすでに見た展開なので何 となく空しい「犠牲」に見えるのだ。この人物もかなり重要なキャラクターだっただけに、これは非常に惜しいと思う。安易に「犠牲」を増やすのは、やはりマ ズいんじゃないだろうか。少なくとも、かつてのアメリカ映画ではこんな杜撰な作劇はしなかった。そういう意味で、現在のハリウッドの作劇力はかなり落ちて いると言わざるを得ない。重要人物を殺してドラマをまとめるというやり方は、極めて安易な方法なのである。あと、一連のマーベル作品で僕が見ていないの は、「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」(2013)、「スパイダーマン/ホームカミング」(2017)、「アントマン&ワスプ」 (2018)…の3本だけなので(我ながらよく付き合ったものだ)物語に付いて行くのは問題なかったが、これってたぶん一見さんだったらキツかったんじゃ ないだろうか。もっとも、マーベルは常連さん以外はもうどうでもいいのかもしれないし、これを言っちゃうとそもそも本作のような映画は成立しなくなるだろ うから言っても仕方ないのかもしれないが…。ただ、そんな僕でも映画の後半のタイムトラベルに関する部分になると、果たしてこれは過去のどの作品のどのあ たりの時系列に当たるのだろうか…とかなりまごついた。それらは必ずしも分からなくても映画としては支障がないのだが、あまり「親切設計」だとは言えない だろう。そして、最大の問題点はまたしてもキャプテン・マーベルで、「キャプテン・マーベル」(2019)の感想文で指摘した問題点がそのまま露呈してし まった。つまり、このキャラクターは「強過ぎる」のである。マーベルで初めて一枚看板の女性ヒーローということでポリティカル・コレクトを意識しすぎたの か、万能で正しくて完全無欠ですべてに勝りすぎているため、キャラクターが面白くも何ともない。常にエラそうだから愛嬌も可愛げもない。ポリティカル・コ レクト的に弁解させてもらうと、ここでいう「愛嬌」「可愛げ」は「女だから」とかそんなことではない。男だって誰だって、人間には愛嬌や可愛げが必要だ。 ところがキャプテン・マーベルは「私はエラい」「私は正しい」「私は最高」と終始踏ん反りかえってるだけで、まったく愛すべき点が感じられない。正直言っ て友達や仲間にはしたくない手合いのキャラクターである。これが「そっち系」の人たちの望みなんだろうか。まぁ、それだけなら今回はヒーローてんこ盛りの 映画だったからキズも目立ちはしなかったのだろうが、とにかく出て来るといつも「無敵」というのが興ざめである。だったら最初から出ずっぱりにしていれ ば、こんな戦いは5分ぐらいでカタがつきそうなものである。さすがにそうなったらマズいので、彼女は忙しくて「留守がち」ということにしてごまかしている が、これではせっかくの「アベンジャーズ」オールスターズが大したことない連中のように見えてしまう。これじゃさすがにマズいだろう。毎回ここぞという時 に必ず彼女が出て来るという「オールマイティ・カード」になっているのは、ドラマとしてはかなり大きな弱点だと思う。正しすぎちゃって強過ぎちゃってイヤ ミなのだ。あまりに忖度が過ぎて墓穴を掘ったように思う。

みどころ

  ただ、今回は前作で指摘した問題点のうち、かなり大きい部分が解消されている。それは作り手の工夫というより、偶然の産物だ。前作ではそれまで現実の地球 世界を舞台にしてきた「アベンジャーズ」シリーズにいきなり宇宙から来た「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(2014)メンバーなどを安易にブチ込 んでしまった。おまけに「指パッチン」なんてアホな設定をそのまま押し通した。それらによって生じる違和感について、解消するための工夫を何ら講じていな かった。今までは単純で無理があるマンガ設定をリアリティある実写映画の世界に馴染ませる工夫をしてきたはずなのに、ここへ来てそれらをすべて放棄してし まった。だから、さすがにこれはマズいだろうと僕は大いに憤慨した訳だ。イマドキの大半の観客はそうは思わなかったのだから、それは僕の単なるイチャモン なのかもしれないが、やはり映画の作劇としては大いに問題があると思う。だが今回は、その最大のキズが気にならなかった。その理由は、結局は「前作ですで に出て来ているから」ということに尽きるのだろう。その違和感はすでに「通過」しちゃってて前作で「そういうもの」と処理されてしまったので、本作ではそ の違和感やアホらしさがかなり減退してしまった。そのため、僕が前作を叩くに至った大きな部分が解消されてしまった…ということになったのではないか。そ のため、結果オーライということになってしまったのだろう。そのせいか、本作はなかなか楽しめる作品に仕上がっているのだ。何より、本作は「笑い」が多 い。結構、深刻な展開になっているにも関わらず、なぜかスッとぼけた笑いが多く取り入れられている。ソーのビール腹などアホらしさ満載である。本作は多く のヒーローを出すために編集には細心の注意を払ったはずなのに、それにしては無駄に笑いを取りに行く場面が多々見受けられる。スマホでのファンとの写真撮 影に関するハルクとアントマンのエピソードなどは、むしろ長過ぎしつこ過ぎでちょっとスベってる印象すらある。一分の隙も無駄も揺るがせにせずに編集で 刈り込んだなんてウソだろうと思わせるほど、無駄な笑いどころが多いのだ。だが、僕がこの手の映画に期待しているのは、むしろこういうところである。所詮 はマンガの映画化なんだから、何か高級なことをしている余裕はないはず。ふんだんな笑い、大変結構。どうして今までこれが出来なかったんだ。そういや真田 広之のチャンバラ場面も、長々やっている割には無駄な場面である。真田は思い切り力んでやっているようだが、実はどうでもいいバカな無駄場面である。で も、それでいいのだ。本作はたかがバカ映画なのだ。所詮バカ映画、されどバカ映画である。バカ映画にはバカ映画でなければ出来ない役割があるはずだ。何か そのへんをマーベルは勘違いしている。立派でエラそうにすることがアンタ方の在り方ではないだろう。サノスの行動に環境保護問題が〜とかサノスの内面の葛 藤が〜とか、そんなくだらない後付けの屁理屈はどうでもええがな。「サノスは限りある資源のために云々」とかいう寝言は、ポール・シュレイダーの「魂のゆ くえ」(2017)ぐらいシビアな映画を作ってから言ってくれ。シリアスにやりたいというならそこまでやれよ。「アベンジャーズ」ごときがイッパシの口を 叩くなんてチャンチャラおかしいぜ。身の程を知っていただきたい。話変わって…もうひとつ評価したいのは、例の「アベンジャーズ」のテーマ曲を安売りしな かったこと。前作は何かというとパチンコ屋みたいにチンジャラ鳴っていたが、今回はグッと溜めにタメて、あちこちから援軍がドッと駆けつけて来るくだりで 「駅馬車」(1939)での騎兵隊のラッパみたいに一気に鳴らした。この場面はマーベル・アンチの僕でもさすがにアガったよ。こういう風に緩急つけてやっ てくれないと、娯楽映画はダメだ。ここで本作は、前作の感想文でも指摘した「お正月映画」の楽しさが出て来た。この映画は所詮はどう作ったって、せいぜい 値段の高い幕の内弁当とかS&Bウルトラ・プレミアム・スペシャル・ゴールデン・フォンドボー・ディナー・カレーみたいな映画でしかない。お祭り なのである。お祭りが気勢が上がらなくなったらオシマイである。だから、こう来なくてはいけない。ファンは「ここで盛り上がるのも前作が“アレ”だったか らだ」と主張するだろうが、前作は前作で単体の映画だと作り手は言っているのだから、そんなものは関係ない。前作が不完全なシロモノに終わったのは、完全 な甘えで怠慢だろう。その点、本作は娯楽映画の基本が出来ているのである。そして文字通り集大成として作っていて、今までの作品のあちらこちらをつまみ食 いしていくサービス・アトラクションもある。まさに「グレーテスト・ヒッツ」アルバムみたいな賑わいで、これはかなり前からの構想だったのだろう。ナタ リー・ポートマンやロバート・レッドフォードが本作のためにまた出演した訳もないだろうから、事前に撮ってあったとしか思えない。あるいは別テイクを保存 しておいたのだろうか。そして、終盤に主要人物が総登場するためには何らかの「セレモニー」的なものが必要だったから、本作に描かれる「自己犠牲」のう ち、2つ目のモノについては僕も必要だったと理解できる。本作は「アイアンマン」第1作から続いて来た大河ドラマの総決算なので、こうした「幕切れ」を大 から小までいくつも用意して、それらを風呂敷のように次々と丁寧に結んでいくような作り方である。このあたりも、最近は荒っぽい作り方になっていたマーベ ル作品にしては久々に好感が持てた。最後に、キャプテン・アメリカのエピソードでケリをつけたあたりも粋ではないか。これはおそらく、「キャプテン・アメ リカ/ザ・ファースト・アベンジャー」(2011)を作った時から決めていたエンディングだったのだろう。そういう意味で、「キャプテン・アメリカ/ウィ ンター・ソルジャー」(2014)を面白く作ったアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟の演出もさることながら、これはやはり「ザ・ファースト・アベンジャー」 から「キャプテン・アメリカ」シリーズを手がけて来たクセモノ脚本家コンビ、クリストファー・マルクスとスティーブン・マクフィーリーの功績であろう。 「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」(2016)、そして前作「インフィニティ・ウォー」とちょっと「アレレ?」と思ってしまう作品が続いてしまっ た脚本家二人だったが、ここへ来て本来の味わいが出た。このエンディングならば、近年の迷走は水に流したい。映画の最後に、いいかげん鼻についてきた恒例 のオマケ・シーンがなかったことも好印象だ。アレはそろそろ目障りだったんだよねぇ。これだけのキャラクターを動員しても混乱なくキチンと交通整理が出来 ていたこと、集大成としてある程度納得できる終わり方が出来たこと、何よりお客さんをもてなすことに専念していたこと…など、評価すべき点は多い。ともか くこれだけのスケールの大きい構想を具体化して、何とか収拾を付けたということに敬意を評したい。この物量と長さがあったればこそ…の感慨があるからだ。 でも、もう十分だ。マーベルよ、長い間おつかれさま、ありがとう、さようなら(笑)!

さいごのひとこと

 僕は面白く作ってくれればホメるよ。

 

「ドント・ウォーリー」

 Don't Worry, He Won't Get Far on Foot

Date:2019 / 06 / 17

みるまえ

 ガス・ヴァン・サントの映画って、僕は相性がいいんだか悪いんだか分からない。全部見ている訳でもないし、スゴく好きな映画があった訳でもない。だが、こいつはずっと気になっていた。まずは前作の「追憶の森」(2015)が世評は散々だったが僕は気に入っていたことがあるし、何よりホアキン・フェニックスが主演と来る。ホアキンと来れば、昨年の「ビューテュフル・デイ」 (2017)がこれまた素晴らしかったではないか。本作も結構良さそうな気がする。毒のあるマンガを描く車椅子のマンガ家が主人公のお話らしいが、身障者 を描いてもガス・ヴァン・サントならイヤミがない作品にしてくれるのではないか。そんな訳で、結構ノリノリで見に行った本作。感想がこんなに遅くなったの は、自分でも理由が分からない。

ないよう

  そこは、アル中の人々が集う禁酒のためのピアカウンセリング会。ヒゲの男ドニー(ジョナ・ヒル)が主宰するこの会に、ひとりの車椅子の男が参加している。 彼の名前はジョン・キャラハン(ホアキン・フェニックス)。場面変わって、大きなホールで開催されている講演会。そこで車椅子のジョンはマンガ家として紹 介され、壇上から自らの人生について語り始める…。場面変わって、ジョンは住宅街を荒っぽく車椅子で暴走。調子に乗ってスピードを出し過ぎて転倒してしま う。持っていた文具と共に、路上に投げ出されるジョン。そこにたまたま通りかかったスケボー少年たちが、ジョンに興味を持って彼を助けようとする。他の諸 々のモノと一緒に排泄物のための袋まで投げ出されたため、その悪臭に辟易する少年たちだったが、それも子供ならではの素直な感想。彼らのおかげで何とか助 け起こされ、ジョンは車椅子に再び座ることが出来た。少年たちの一人は、ジョンが描いていたマンガに目を留める。それは、すっとぼけた絵柄とちょっぴり毒 を持ったマンガだった。ジョンがそんなマンガを描くに至るまでの道のりは、果たしてどのようなものだったのか…。今でこそ車椅子に座るジョンだが、かつて は五体満足で怠惰な生活を送っていた。朝起きたら、まずは酒だ。とにかく酒は切らせないから、家を出て店で酒を調達。酒浸りで常に酔いどれていたジョン だった。パーティーでデクスター(ジャック・ブラック)という男と会って意気投合しても、とにかく酒。ジョンとデクスターは場所を変えてはまたまた酒。酔 えるだけ酔っていいかげんフラフラなのに、デクスターの運転するクルマで移動しようとしたのが運の尽き。気づいたら、ジョンは病院にいた。クルマは大破。 だが、運転していたデクスターはかすり傷ですぐに退院できた。問題はジョンだ。彼は腕を動かすことは出来たが、それ以外は全身が麻痺状態。この状態は一生 変わらないという。だが、まるで現実感のないジョンだった。ある日、そんなジョンの前にボランティアの女性アヌー(ルーニー・マーラ)が現れ、忘れ難い印 象を残してまた去って行く。だが、闘病生活で良かったのはそれくらいのものだ。電動車椅子を手に入れて移動は出来るようになったものの、不自由なのは否め ない。好きに酒も飲めない。介護人のティム(トニー・グリーンハンド)を紹介されて身の回りの世話を焼いてもらえるようになったものの、カユいところに手 が届くようにはいかない。思うに任せない毎日にますます酒に溺れるが、その酒すら自由に飲めない辛さについつい当たり散らす。そんな泥沼状態のジョンだっ たが、ある日、天啓とも言うべき出来事が起きて…。

みたあと

  冒頭にも書いたように、僕はガス・ヴァン・サント作品の熱心なファンとは言えない。そもそもすべての作品を見ている訳ではないし、作品を心待ちにしてもい ない。非常に世評の高いガス・ヴァン・サント作品ではあるが、見た作品の中にはどうにも好きになれないモノさえあった。だが、前作「追憶の森」はそれまで のガス・ヴァン・サント作品とは異なり、妙に心に残る作品だった。必ずしも世評は高くなかっただけに、なぜこの作品が僕の心に刺さったのかは分からない。 だがそれ以来、彼の作品に関心が湧いて来たのは確かだ。今回は車椅子のマンガ家の話。それも事故に遭ってカラダが不自由になってしまい、挫折を経験してい る男の物語だ。自殺しようとわざわざ日本の富士山の樹海にやって来る男を描いた「追憶の森」と、どことなく共通するニオイがするではないか。案の定、本作 もまた、僕にとって大いに共感できるガス・ヴァン・サント作品となったのである。

こ こからは映画を見てから!

みどころ

  さぁて、どこからこの映画の「良さ」を語ろうかと考えてみたが、そこでハタと思い当たった。本作は、「良さ」を指摘するのが非常に難しい。実は「よく出来 た映画」ということで考えると、むしろそれとは逆の要素を挙げる方がたやすい。バランスも悪い。緻密さなんて欠片もない。太い幹のように伸びる、揺るぎな いストーリー展開がある訳でもない…。ケナしているのではない。だが、本作について語っていくと、そういうことの方がすぐに浮かんで来る。イヤ〜困った。 ただ、これだけはハッキリ言えるかな。この映画は大ケガをして身障者になった人物を主人公にした映画で、確かに劇中で主人公はそれを苦痛に感じたり憤りを 感じたりもしているが、観客が本作を見る前に想像したほど、それを描くことに「重き」を置いていない。本作では主人公が身障者になってしまうことは大きな ファクターであり、それによって主人公の人生は大きく変わってしまうのだが、にも関わらずそれをことさらに深刻には描いていないのである。主人公は苦渋の 表情を見せたりしないし、酒浸りになるのだから悩んではいるのだろうが、そもそもこいつは元から酒浸りだし(笑)。一番怒っていることも、自由に酒が飲め ない…ってケッタイな不満だし。大体がこいつは元来がふざけた奴だし…。割とそのあたりが軽〜いノリだから…そんなことを言ってしまっては申し訳ないのだ が、観客としては非常に見やすい。大体がルーニー・マーラみたいな可愛いスッチーとすぐに付き合えちゃったりする訳だし、結構調子良くやっている。だか ら、変に深刻でクソ真面目な話にならずに済んでいるのだ。それに、先に「バランスも悪い」「緻密さなんて欠片もない」などと言ったけれども、その余白だら けでスカスカ感があるから、楽しく見ていられる題材なのかもしれない。これを身障者の苦悩とかでギチギチにやられたら、見ている方だってシンドイ。前作 「追憶の森」もかなりスカスカ感がある映画で、それ故に世評は芳しくなかったのだが、僕はかなり気に入っていた。本作もスカスカだから可愛げのある楽しい 映画になっているのである。これは、計算された「あえて」のスカスカだ。俳優陣はみんな素晴らしくて、別人のように化けたジョナ・ヒルにはビックリだし、 ルーニー・マーラもキラキラ透明感があってフレンチ・ポップスのアイドルみたいで素敵。いろいろ見どころは多い。だが、僕が一番感心したのはジャック・ブ ラックで、いつもの彼らしいC調男で登場しながら、後半に再度出て来た時は頭を丸刈りにしてガラリ様変わり。その丸刈りだけで、いかに彼が心にダメージを 受けたかが分かる好演ぶり。以前はアクがだんだん鼻についてきた感じだったが、「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」 (2017)あたりからちょっと方向性を変えて来た気がする。もちろんホアキン・フェニックスも素晴らしくて、今回は彼の愛嬌が十二分に発揮されたから、 主人公がイヤな奴にならずに済んでいる。とにかく身障者になったことはファクターのひとつでしかないという描き方で、身障者になったキツさをあまり出さな いのが正解だった。実はそれよりもっと「深刻なこと」がある…という点がミソで、映画は主人公の内面に潜んでいたトラウマを掘り下げていく。そうなると… こういう言い方は語弊があるかもしれないが…実は災難や不幸だったと思えることが、逆に本人の人生の中ではラッキーだったのかもしれないと思えて来る。実 は、ここが本作で一番重要なところではないか。後半に出て来る「許し」の問題といい、僕自身がこれからの人生どうやっていこうかと思っているので、大いに 身につまされて共感してしまった。もっとも、僕は悟りなど開いていないので、「許し」なんて与えてやるつもりは毛頭ないが(笑)。

さいごのひとこと

 スッチーの彼女にやることやっててビックリ(笑)。

 

「ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ」

 Godzilla - King of the Monsters

Date:2019 / 06 / 10

みるまえ

  今年最大の話題作としては、例の「アベンジャーズ」の4作目とこいつだろう。正直言って「アベンジャーズ」なんかどうでもいいけど、こちらは気になる。前 々から語って来ているように、こちとら怪獣映画にもゴジラにもシンパシーはないが、SF映画や特殊効果を使った映画には多少なりとも関心はある。だから、 これは無視できないのだ。不安材料は、これがレジェンダリー・ピクチャーズがやり始めた「モンスター・バース」なるシリーズの1本となっていること。マー ベル一派が始めた「なんちゃらユニバース」やら「なんちゃらバース」といった複数の映画をやたらに数珠つなぎにする手法は、最初は面白かったがミソもクソ もそれでは飽きがくる。案の定、途中で頓挫しかかっている数珠つなぎモノもあるみたいだが、こちら「モンスター・バース」はハリウッド版「ゴジラ」(2014)、「キングコング/髑髏島の巨神」 (2017)…と概ね好調。だから、本作もそれなりのクオリティを保っていて欲しいところだ。前評判的には…というと、どうやら怪獣大暴れで怪獣映画ファ ンとしては大喜びらしい。だが、別に怪獣映画が昔から興味がないオレとしては、ハッキリ言ってキツイ映画かもしれない。こうなると派手派手しさを最大限に 体感して楽しむより他はない。そこで今回は、満を持してIMAXの3Dで見ることにした。4DXにしなかったのは、揺さぶられたり水しぶきかけられたり、 臭いを嗅がされたりするのが単純に不快だからだ。そんな訳で、今回はあくまでIMAXの3Dでの鑑賞による感想文である。

ないよう

 2014 年、サンフランシスコ。ゴジラの出現により街は壊滅。そんな荒廃した街を、マーク(カイル・チャンドラー)とエマ(ヴェラ・ファーミガ)の夫婦、そして長 女のマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)が、声を枯らして幼い息子アンドリューの名前を呼んで探しまわっている。しかし、アンドリューの姿はどこにも 見当たらなかった…。それから5年、「あの出来事」の後にエマとマディソンはマークと別れて暮らしていた。息子の死が、夫婦の間に亀裂をもたらしたのだ。 だがマディソンは最近様子がおかしい母エマのことを心配して、こっそり父マークにメールで連絡を入れていた。そんなエマとマディソンが暮らしているのは、 中国雲南省の密林の奥。その古代遺跡に秘密組織「モナーク」が建設した「隔離基地」で、エマは純古生物学者として働いていたのだ。そこには「何者か」の巨 大な卵が太古から眠っており、「モナーク」はこれを長年監視し続けて来たのだが、ここで卵に何やら変化が芽生えた。いよいよ卵が孵化するのか。「モナー ク」スタッフに緊張がはしる。こうして卵から孵化した巨大な幼虫は、周囲にいる警備兵たちを敵視。慌てた警備兵が発砲したことから、幼虫は凶暴さを増して いく。見かねたエマは何やら小型の「装置」を持って、幼虫の目の前に飛び出した。そして必死に装置を操作し始めると、何やら不思議な生き物の鳴き声が響き 渡る。だが、それらの声も幼虫を抑えることが出来ない。いよいよ幼虫がエマに襲いかかろうとした時、装置が発生する鳴き声がようやく功を奏したのか、いき なり幼虫がおとなしくなるではないか。それは、先ほどまでの荒れ狂いぶりがウソのような落ち着き方。思わず近づいたマディソンがその頭をなでても、友好的 にじっとしているほどである。だが、喜んだのもつかの間。いきなり基地内に武装集団が侵入し、警備兵やスタッフを皆殺しにしていく。そのリーダー格である アラン・ジョナ(チャールズ・ダンス)は、エマとマディソンの生け捕りを指示した…。その頃、議会では公聴会が開かれ、「モナーク」の代表たちが批判の矢 面に立たされていた。言うまでもなく、「モナーク」が秘密裏に調査を進めて来た結果、大きな怪獣被害が発生した責任を問われているのである。代表として質 問されていたのは、「モナーク」渉外担当のサム・コールマン(トーマス・ミドルディッチ)、ヴィヴィアン・グレアム博士(サリー・ホーキンス)、芹沢 猪四郎博士(渡辺謙)。その場には怪獣との戦いで指揮を執ったウィリアム・ステンツ大将(デビッド・ストラザーン)らも出席していた。サムの証言では、全 世界で「モナーク」が確認している怪獣たちは全部で17頭。「モナーク」ではそれらすべてに「隔離基地」を設けて、監視を続けているという。当然、怪獣た ちによる被害が心配されるが、芹沢博士は、それらの中には我々を脅かす明らかな敵のほかに、地球を守る立場に回るものもいるはずだと主張する。芹沢博士は それがゴジラだというのだ。公聴会の議長は芹沢博士に「ゴジラを人類のペットにするの?」と皮肉っぽく尋ねる。議場の中に笑いが漏れるが、芹沢博士は至っ て真剣な顔で答えた。「いえ…人類が彼のペットとなるのです」…。この答えに議場は再び沈黙に包まれる。だがそんな時、緊急事態の発生で芹沢博士とグレア ム博士はその場を中座することになる…。その頃、マークは山の中で大自然を満喫中。息子亡き後の気晴らしを続けていた。ところがそんなマークの安らぎの時に、いきな り邪魔が入る。軍用ヘリコプターが爆音を立てて、何者かがマークを迎えにやって来たのだった…。マークを呼び寄せたのは、あの「モナーク」の人々である。 実はマークも、かつて動物学者として「モナーク」で働いていた。だが「例の一件」からゴジラを憎み、怪獣たちを殺せと主張して「モナーク」を離れた。その 際に自身が開発した怪獣と交信する装置「オルカ」も破壊して去ったはずだが、妻だったエマはそれを再現。例の巨大幼虫に使っていた装置こそ、その「オル カ」だったのだ。だが、マークは「オルカ」が試作段階の装置であり、その使用が危険を伴うことを知っていた。さらに怪獣たちの復活を狙う環境テロリストの 手によって、エマとマディソンが誘拐されたと聞いて、マークとしてもこれを放ってはおけなくなった。だが、ジョナ率いる環境テロリストは、先手必勝を狙っ て「モナーク」が南極に建設した隔離基地へと向かっていた。そこには「モンスター・ゼロ」なる未知の巨大生物が、大昔から氷付けになって眠っているのだっ た…。

みたあと
  冒頭にも述べたように、僕は本作をIMAXの3Dで見た。結果的に、これは本作を楽しむ上では大正解だったと思う。とにかく、この映画は大スクリーンで見 なければ意味がない。音楽も音響も、フル・ボリュームで流さないと本当に楽しんだとは言えない。そのくらい、物量の大きさ、過剰さで押しまくる映画であ る。その是非はともかく、これはそういう映画なんだと思ってもらわなくては話にならない。その点だけは、まず最初に念押しをしておかねばいけないだろう。 だから本作をホメるにもケナすにも、まずは物量で押しまくる映画なのだ…ということを前提にした上でするべきだ。ハリウッドの資本力がどうの…などという 話は、また別の問題だ。ここではそういう話は抜きで語らせていただく。

みどころ

  本作の世評は大方のところ、映画の内容は怪獣の戦いに徹していて人間ドラマはほとんどない、だがそれでいい…というようなもの。例えば「ジュラシック・ パーク」(1993)が「人間ドラマがない」と批評でケナされた時、あの作品で人間ドラマなんて見たい奴はいない…と暴論を吐いた僕だ(笑)。今回だって 人間ドラマは二の次、三の次…ってことぐらい理解はしている。ただ、正直言って僕は、ゴジラも怪獣映画もあまり興味なしで育って来た男だ。特に東宝の「ゴ ジラ」シリーズあたりが苦手だったのは、怪獣が「対戦」する…というアホらしさだった。怪獣が出て来て大暴れ…というなら、アメリカあたりのSF映画にゴマン とある。それらはむしろ僕にとって大好物だ。好きな映画を挙げたら枚挙にいとまがない。だが、どうして僕が日本の怪獣映画に走らなかったかと言えば、「怪 獣バトル」が苦手…という点に尽きる。これは好きずきだし趣味の問題なので何とも言えないのだが、チャチさをあえて愛でる日本の特撮映画ファンの有り様が 苦手だった以前の問題として、この「怪獣バトル」が何とも納得できない。映画の題名がプロレス興行みたいに「なんちゃら対なんちゃら」的なタイトルになっ ちゃうのが、どうにも腑に落ちなかったのだ。実際の映画でも、怪獣同士が組んずほぐれつ…という「着ぐるみ格闘技」を見てどこが面白いんだと思っちゃうの で、最初から興味が湧かない。だから本作が「怪獣の戦いに終始」と聞いて、ちょっと腰が退けちゃったのも事実なのだ。おまけに先行した情報で、ゴジラの他 にモスラやキングギドラなども登場…と聞いていたから、大丈夫なのかと心配になって来る。「エイリアンVS.プレデター」 (2004)の企画を聞いた時も、かなりシラ〜ッとしちゃった僕だからねぇ。そんな訳で、東宝特撮映画にもゴジラにも思い入れゼロの僕は、相当に警戒して 見に行った訳だ。で、結果から言うと…まぁ、こういう映画なんだろうなとは思っていたが、人間ドラマが少ない…という点は大して不満には感じなかった。ま た、怪獣プロレスについても、それほど抵抗はなかった。さすがにIMAXの3Dで見ると、その物量エネルギーには圧倒させられない訳にいかない。バカ話も ここまでやれば大したものである。それは誰しも認めざるを得ないのではないだろうか。見終わった時には、さすがに疲れを感じたからねぇ。そのくらいスゴ い。中身はビックリするほど空っぽだが、そこに投じられたエネルギーは物凄い。これは皮肉ではなくてホンネだ。ゴジラがのし歩いて行くその後方から、人類 の戦闘機の編隊がパーッと飛んで来るあたりなんか完全にマンガの絵なんだけど、これを実写(と言いながらCGなんだろうが)の映像で見せられちゃうと文句 の言いようがない。怪獣の邪悪さや破壊の凄まじさも、これだけコッテリ見せられてしまうとケチがつけられないのだ。特にキングギドラやモスラなどの質感の 素晴らしさは、残念ながら従来の東宝の怪獣映画では見られなかったものではないだろうか。特撮ファンはCGの効用など認めたくはないだろうが、これこそは CG時代になって初めて実現できたものなのだろう。また、映像だけでなくオーケストラによる分厚いサウンドも本作の迫力を増していて、このあたりはハリ ウッド映画でないと味わえない醍醐味になっていることは言うまでもない。世評にもあるように東宝怪獣に対するリスペクトが随所に見受けられ、このあたりに は疎い僕あたりでも感じられたのだから、昔からのファンはたまらないのではないだろうか。案の定、オレは昔からゴジラ・ファンだったので感激した…という 人々が大増殖中だが、そういやそんな奴らはついこないだまで「オレは実はクイーン・ファン」とか「昔からスター・ウォーズ・ファン」とか言ってた気もする ので、まぁ話半分に聞いてはいるが…(笑)。ともかく東宝怪獣に対する敬意を最大限に払いつつ、欧米の映画ファンの感覚に沿うカタチの着地点として、怪獣 たちを一種の「神々」として畏敬の念を持って描いたのは正解だったと思う。その辺りの怪獣の扱いは、「ガメラ/大怪獣空中決戦」(1995)、「ガメラ 2/レギオン襲来」(1996)、「ガメラ3/邪神<イリス>覚醒」(1999)…の「平成ガメラ」三部作からかなり影響を受けているのではないか。ゴジ ラを地球環境を守るための存在と描いたり、その出自が海底に沈んだアトランティスにあったらしい(遺跡にカタカナで「ゴジラ」と書いてあったのはご愛嬌だ が)と描いている点がそれである。また怪獣たちを「タイタンズ」と総称しているのも同様で、レイ・ハリーハウゼンの「タイタンの戦い」(1981)やそのリメイク作品(2010)に出て来た「神々」みたいなものということのようだ。確かにどちらも邪悪だったり破壊しまくったりする訳で、そのあたりが欧米人にはしっくりくる落としどころなのだろう。本作の監督であるマイケル・ドハティなる人物は、これまで「スーパーマン・リターンズ」 (2006)や「X-MEN アポカリプス」(2016)などのブライアン・シンガー作品の脚本やら原案に参画していたらしいが、長年の怪獣映画ファンだったことは間違いないようだ。 そういう意味で、従来のファンが熱狂するのはよく分かる。一方、そんなファンたちの意向とは別に、僕には個人的に本作にアッと驚くツボがあった。本作初め の頃の議会での場面に、議長として出て来た黒人女優に見覚えがあったのだ。これが何と、パーシー・アドロン監督の「バグダッド・カフェ」(1987)に出 て来たCCH・パウンダーだったとは! まさに久々の再会。これだけで、僕としてはどんな怪獣登場よりも嬉しかったよ(笑)。

こ こからは映画を見てから!

こうすれば

 そんな訳で、ファンは熱狂したんだしめでたしめで たし…と終われば申し分ないが、残念ながらこの作品は「映画」である。映画としてのフォーマットで作られている以上、映画としての出来映えを問わねばなら ないのは言うまでもない。残念ながら、本作の脚本はかなりお粗末と言わざるを得ない。「人間ドラマが少ない」のは結構だが、物語自体や語り口が下手なのは マズいのだ。今回の映画ではマークとエマ、そしてマディソン…の一家がどうやら物語の中心である。そこで問題なのは、何をどう見てもこのご一家がハタ迷惑 なことで、特にエマとマディソンの母娘が酷い。彼らのおかげで世界はメチャクチャ…という印象になってしまうことだ。本作は前述の「ガメラ3/邪神<イリ ス>覚醒」に続いて「怪獣被害」を作品の中心に据えた作品だが、息子の死によって一家が離散してしまうのはともかく、エマの考え方があのように歪んでしま う理由にはなりにくいのではないか。何をどう考えても理屈に合わない。発狂してしまった…とするならいいのだろうが、どうもそうではないようだし、ちょっ と無理があり過ぎるのだ。また、途中でマークが「とにかくエマとマディソンを探さなくちゃ」と何のアテも手段もないのに出かけようとするあたりも、「何を考えて いるんだ?」と見ていてポカ〜ンとしてしまう。また、気になるのは本作の脚本で多用される「繰り返し」っぷりで、やはりいかに物量を投じたところで「怪獣 バトル」もこれほど本編で何度も繰り返されるといささか単調にならざるを得なかったという印象がある。「これが見たい」というファンのお気持ち(笑)は分 かるが、それにしてもちょっと飽きてきちゃうかな…というギリギリのセンだったような気がする。もうひとつの「繰り返し」はもっと深刻な問題で、劇中で重 要人物が二人も「自己犠牲」で命を落とすこと。さすがに二人もこれで死ぬと、そのインパクトも減殺されてしまう。これはもったいなかったのではないだろう か。片方については見ているうちに「死で終わらざるを得ないだろう」と察しはついていたが、「自己犠牲の死」が乱発されちゃうのはいかがなものか。本作が日本映画の美点だけでなく悪い点も受け継いでいるかのよ うで、ちょっと残念である。早い話が、リスペクトすりゃいい…という訳でもないのである。また、映画ファンとしてはせっかく「シェイプ・オブ・ウォーター」 (2017)で役者としての格がぐっと上がったサリー・ホーキンズを出しながら、あのつまんない「使い捨て」みたいな起用の仕方に失望した。アレはいくら 何でもないだろう。チャン・ツィイー起用は本作を作ったレジェンダリーのオーナーである中国企業の意向だろうが、これまた超大物を出して来ながらのつまら なさ。まったくどんな人物なのかも分からない描き方である。どうやら双子の設定だったようで、それって「モスラ」(1961)のザ・ピーナッツ的な発想なのだろうが、見ているだけではそのことが僕には分からなかった。他にも芹沢博士と核の関わりが 描かれて来ただけに、あの決着のつけ方はどうなの?…といった疑問もあるが、それを言い出しちゃうと別の面倒くさい問題が絡んでくるのでここでは割愛。「パシフィック・リム/アップライジング」 (2018)の菊地凛子といい本作といい、レジェンダリーの怪獣映画では東洋人ワクを日本人から中国人に差し替えるつもりなのだろうか(笑)という愚問 も、またまた話が面倒くさくなりそうなのでやめておく。正直言って最初の「ゴジラ」、「キングコング/髑髏島の巨神」…と比べると物語としてはかなり落ち る。特に「髑髏島の巨神」のワクワク感がなかったのはガックリだった。次も対戦モノである「ゴジラVSコング」と聞いているので、いささか「モンス ター・バース」の先行きが不安になる今日この頃である。

さいごのひとこと

 こんな親じゃ家出したくなる…は言い得て妙だった(笑)。

 

「バイス」

 Vice

Date:2019 / 06 / 10

みるまえ

  ブッシュ政権下の副大統領として、何かと悪名が高いディック・チェイニーを描いた作品。今年のアカデミー賞作品賞ノミネートの1本である。当然のことなが ら、アメリカ映画は実話モノを描いた時の「そっくり度」が極めて高い。チェイニー役クリスチャン・ベイルは凝ったメイクに大規模な増量を行っての「なりき り」ぶり。他の面々も、サム・ロックウェルのブッシュ大統領…あたりは、「なるほど!」と思わず膝を叩いてしまいそうなほどのハマり具合である。正直言っ て、彼らの「そっくり」ぶりが本作を見るお楽しみのうちかなりの部分を占めていると言っていい。お話は、どこをどう見たってチェイニーと彼が仕切ったブッ シュ政権の悪辣さを糾弾する内容になっているのに決まっている。つまり、サプライズがなさそうな内容だ。そんな訳で「見たい」と思ってはいたが劇場に足を 運ぶのが遅れて、見たのは上映も終了間近な頃だった。

ないよう

  本作を製作するにあたってはディック・チェイニーに関して綿密な調査を行ったが、その徹底した秘密主義ゆえに不明点も少なくない。しかし、作り手はその中 でも最善を尽くして本作を製作した…。1963年、ワイオミングの田舎町。夜中に飲んだくれてクルマを飛ばしている若者がいた。顔に青タンを作ってベロン ベロンのその若者、ディック・チェイニー(クリスチャン・ベイル)御歳22歳…。それからほぼ40年後の2001年9月11日、テレビでニューヨークのツ インタワー・ビルがテロ攻撃されている様子が写し出される中、大統領危機管理センターに詰めていたブッシュ政権の閣僚はじめスタッフたちは騒然としてい た。しかも、ホワイトハウスの主であるブッシュ大統領は不在。だがその大混乱の中、副大統領のディック・チェイニーだけは不思議なほど落ち着いて事態を見 守っていた。そんな彼のもとに、ラムズフェルド国防長官から電話がかかってくる。ラムズフェルドが彼に尋ねたのは、非常時の際の交戦規定。つまり、危険と 見られる航空機を撃墜してもいいのか…というデリケートな問題だった。それを答えるべきは、本来ならば大統領のはず。だが、チェイニーはためらうことな く、即座に「撃墜できる」と断言した。チェイニーはまさにこの時、これを「チャンスだ」と見なしたのである…。話を再び1963年に戻そう。その頃、チェ イニーは若造だった。おまけに、かなりのボンクラでもあった。付き合っていた恋人のリンの叱咤激励のおかげで何とかイェール大学に入れたものの、すぐに酒 に溺れて退学。その頃は電気工として働いていて、電柱に上って危険な作業に従事。夜は酒場で飲んだくれ…というザマである。その日も酒場でケンカの後、飲 酒運転をしていて警察に捕まってしまう。そんな彼の身柄を警察まで引き取りに行ったのは、またしても恋人のリン(エイミー・アダムス)であった。彼女が警 察に行かされたのは、これで2度目。さすがの情けなさ不甲斐なさに、リンはチェイニーを泣いて責め立てる。元々が才女のリンは、世が世なら人の上に立てる 素質の持ち主。だが、保守的な土地柄と時代が悪かった。だからこそ、彼女は夢をチェイニーに託していたのだ。そんなリンの涙ながらの訴えに、ボンクラな チェイニーもさすがに心を入れ替えざるを得ない。そんなこんなの甲斐あって、1968年にチェイニーはワシントンD.Cで連邦議会のインターシップに参加 する機会を得るところまで辿り着く。そこでインターンの若者たち相手にズケズケとスピーチをブチかました共和党の下院議員ドナルド・ラムズフェルド(ス ティーブ・カレル)に、チェイニーはたちまち魅了される。共和党、民主党どちらのインターンになるか…という選択をする際に、ためらうことなくラムズフェ ルドのいる共和党を選んだチェイニーだった。こうしてラムズフェルドの下で働くことになったチェイニーは、彼から「口は堅くせよ」「指示を守れ」「忠誠心 を持て」…と3つのセオリーを叩き込まれる。そんなある日、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官が部屋で密談を交わしているのを見たラムズフェルドは、 チェイニーから「これからカンボジアが爆撃されるぞ。覚えておけ、ここでは多くの人々の運命を変える力が動いている」と教えられた。これを聞いて、ラムズ フェルドに「でも、理念はないのですか?」と思わず問うてしまうチェイニー。だがラムズフェルドは、「理念だって?」と言った後、爆笑しながらチェイニー の前から去ってしまうのだった…。

みたあと

  本作は俳優たちはシリアスな演技をしているが、作風はまぎれもなくコメディだ。監督は何年か前にオスカー作品賞候補になった、「マネー・ショート/華麗な る大逆転」(2015)のアダム・マッケイ。残念ながら僕は「マネー・ショート」を見ていないが、人に聞いてみるとどうやら本作は前作に通じる作風らし い。ディック・チェイニーの「伝記映画」の体裁をとってはいるが、もちろんその主な部分はブッシュ政権下での「やりたい放題」ぶりである。つまり、お話と してはオリバー・ストーンの「ブッシュ」(2008)、つい先日見たばかりの「記者たち/衝撃と畏怖の真実」(2017)、そしてマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画(と言っていいのかどうか分からないが)「華氏911」(2004)あたりとかぶってくる内容である。また、僕としても記憶に新しい時期の出来事を描いた作品だ。今となっては「イラクに大量破壊兵器などはなかった」と明らかになった時点での、イラク侵攻映画ということになる。

こ こからは映画を見てから!

みどころ

  そんな上記の内容を描くという点で、本作はまさに申し分ない出来映えだ。正直言って日本にいる僕ら…しかも大して政治に関心があるとは言い難い僕らからす れば、大統領のブッシュがどうの…ということは一応言えても、副大統領のディック・チェイニーがいかに悪かったのか…ということまで言及できる人はあまり 多くないだろう。そもそも副大統領そのものの知名度がない。顔が分からない。そんな人が大半ではないだろうか。それについては、「無知」だとことさらに騒 ぐつもりは毛頭ない。僕だってそれに毛が生えたようなものである。チェイニーはとかく悪名が高いが、それだって評判が悪いブッシュ政権の閣僚なら当然だろ うぐらいにしか思わない。そんな内実を…劇映画なのでどこまで本当かは分からないが…本作はド素人にも分かりやすく語ってくれる。作風としては「華氏 911」がブッシュ政権をオチャラカして批判していたのと同じスタイルで、ただあちらは実写映像でそれをやっていたのを、こちらは劇映画のカタチでやって いる。だから内容的にはブラック・コメディだが、演じている役者のスタイルはあくまでシリアスである。例えば劇中でチェイニー夫妻のセリフがシェイクスピ ア劇のそれになったり(おそらくは妻が夫の尻を叩いて悪事に駆り立てるあたりから、「マクベス」を連想させようという趣向だろう)、ナレーターが画面に出 て来てカメラ(と観客)の方を見て語りかけたり、映画の中盤あたりで感動的な曲が流れてエンド・クレジットが出て来るフィナーレ的な雰囲気になったり…と いった具合。映画のスタイルとしては、例えばウディ・アレンの「アニー・ホール」 (1977)政治版…みたいな趣である。なかなか語り口は才気走っている。チェイニーの人物像も興味深く、僕などはそれまでまったく知らなかった だけに面白く見ることができた。妻に尻を叩かれてやっと奮起するくだりや、大して才能があった訳でもなかったらしい若手時代、同性愛の末娘への気遣い…な どは、チェイニーを単純な悪徳政治家と描くだけではないような意欲を感じさせた。ウンザリするのは…イラク侵攻を諸手を挙げて大賛成した当時のアメリカの 様子で、「記者たち/衝撃と畏怖の真実」に続いてまたまたヒラリー・クリントンが賛成票を投じた場面が描かれたりして、当時の時代の気分を感じさせる。さ らに目を見張ったのは当時のブッシュ政権の閣僚たちを「いかにも」なそっくりぶりで描いていることで、これは予想以上。オリバー・ストーンの「ブッシュ」を 見た時には、ブッシュをジョシュ・ブローリン、チェイニーをリチャード・ドレイファス、ラムズフェルドをスコット・グレン、パウエルをジェフリー・ライ ト、ライスをタンディ・ニュートン…という鉄壁の布陣で描いて、これ以上「らしい」キャスティングはない…と唸らされた。だが、今回も相当なものである。 特に予告編を見た時から「アッ」と驚かされた、ブッシュ役のサム・ロックウェルは圧巻。その小物ぶりまでピッタリである。「スリー・ビルボード」(2017)の彼だから出せる「小物」感なのだ。さらに、ラムズフェルド役のスティーブ・カレルに至っては…「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」(2017) でのボビー・リッグス役以来の衝撃である。これほどまでに実在人物の役になりきりながら、そこにいるのはどう見てもエグい芸風のスティーブ・カレルその 人…という、どうやったら実現できるのか分からないアクロバット的な至芸を見せつける。他にも前述したようにマクベス夫人的な妻の役を演じたエイミー・ア ダムスといい、キャストの充実ぶりはなかなか他に例を見ない。もちろんチェイニーを演じるクリスチャン・ベイルもなりきっているが、この人ならこれくらい は当然…と思ってしまうからお気の毒なくらいだ。ともかくドサクサに紛れてホワイトハウスをテメエがコントロールできちゃうという状況を、チェイニーという男が 作った…ということを分かりやすく描いていて、メッセージ映画としては秀逸だと思う。それからずっとアメリカも世界もおかしくなった…ということも、本作を見て 分かったような気になった。分かった「ような」…というのは、映画1本で本当に分かることなど到底無理だからだ。ともかく、そういうことを映画で面白おか しくキッチリ伝えた…という点では、確かに賞賛に値しよう。

こうすれば

  という訳で、作り手の言いたい政治メッセージはバッチリ伝わった。「なるほどな」とも思わされた。世評もかなり高評価で、チェイニーがアメリカと世界に与 えた悪影響をハッキリ描いた…と好評である。なるほど、まったくその通りだ。だが、具体的にどう「悪い」のかを教えてくれたのは大変ありがたいが、そもそ もがブッシュ政権時代の「悪さ」ならそれなりの誰もが知っていることだ。むしろすでに低評価が確定していて、いくらでも叩いてオッケーの案件になっている。 確かにこれが今のトランプ時代に続いているんだな…という点は「新しい」部分かもしれないが、それすらおそらくみんな(支持者は除いて)薄々感づいている はずだ。だから…こんなことを申し上げてまことに申し訳ないが、その部分はあまりサプライズではない。問題は、それ以外の部分である。本作は一応ディッ ク・チェイニーの青年期から現在までを追って話が進んでいるから、彼の伝記映画であると言えるだろう。伝記映画ということは、チェイニーの人間像を浮き彫 りにして見せてくれなければならないはずだ。だが、本作では意外なほどチェイニーという人物の「人となり」が見えない。一応は「それらしい」モノが語られ ている。前述したように、ボンクラな若者だったチェイニーが嫁に尻を叩かれて立ち直るくだりや、嫁を喜ばせたい一心でのし上がっていったこと、実は嫁さん の方が有能だったらしいこと、冷酷な政治家としての顔とは別に末娘を案じる優しい一面を持つこと…など、チェイニーを幅と深みのある人物像として描こうと した形跡はある。あるいは、「描いているつもりになった」形跡は…だ。だが、それは必ずしも成功していない。なぜなら、一向にチェイニーその人の人物像が 明確には浮かび上がって来ないからだ。演じたクリスチャン・ベイルがあれほどカラダを張った熱演をしているのに、まったくチェイニーその人のキャラクター が印象に残らない。前述のキャスティングに触れた部分で、クリスチャン・ベイルについて言及したのが最後になったのにも理由がある。錚々たるメンツの中 で、主役にも関わらずチェイニーその人がまるで目立って来ないのだ。つまり、単なる「そっくりショー」でしかない。そのキャラクターの描き足らなさなる や、「ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ」(2019)の登場人物たちといい勝負なくらい。それくらい人物像が描かれてない。そもそも、オープニングか らしてよく分からない。若い頃はボンクラだったのは分かった。それが妻の励ましで立ち直ったことも分かった。だが、次の場面で、いつの間にか彼は連邦議会 のインターシップに参加している。妻の励ましだけで、一介の電気工が果たして連邦議会のインターシップに参加するところまでいけるだろうか。チェイニー自身も相当優秀で なければそうはならないだろう。ここを一足飛びで描いてしまうというのは、果たしていかがなものだろうか。一方で、チェイニーはまるで演説下手で、嫁の方 がずっと上であると描かれる。それはどうやら演説の手腕だけでなさそうだ…というのも、ベイルの演技からして愚鈍さを強調しているように見えるからであ る。ドラマとしては、そんな愚鈍な奴が副大統領まで上りつめて、政権の実権を握るところまでいってしまった…となれば、それはそれで皮肉な味は出るだろ う。だが、もしチェイニーがそんな愚鈍な奴だったら、到底連邦議会のインターシップに参加できる訳などない。仮に、嫁の叱咤だけが原動力であそこまでいっ たとするなら、いかにチェイニーが嫁に愛情を注いでいたかをその前段階で具体的に描かないといけないはずだ。それも本作は怠っている。また、嫁の操り人形 であるというならそっちはそっちで面白いのだが、後年にブッシュ政権の実権を奪ってしまうのはあくまでチェイニー本人による発案と実行である。それをチェ イニーは、自身の無類のしたたかさでやり遂げている。だから、彼は決して妻にコントロールされている訳でもない(故に、チェイニー夫人の「マクベス夫人」 的な例えは少々的確とは言えない)。ツジツマが合わないのだ。結局、「そうなる」ための原因や過程をキチンと描いていないから、あちこちでチェイニーの人 物像がボケてしまう。確かに矛盾は矛盾として、不可解なそのままを提示して描くという方法はある。その不可解さこそを「人間」の不思議さ面白さとして描く という手もある。だが、それはドキュメンタリー映画の実際の映像コラージュや、さまざまな公式文書や報道記事、関係者の証言などで構成する場合にのみ有効 ではないだろうか。あるいは劇映画でも、リアルな描写で出来るだけ時系列に沿って語る作品に限られるだろう。例えばウォーレン・ベイティの「レッズ」(1981)みたいな映画である。本作のように「アニー・ホール」のような自由 闊達な語り口で描く映画なら、ある程度は人物像は明確に提示すべきだ。そのための奔放な「アニー・ホール」スタイルではないか。冒頭に掲げた文章で「チェイニー は秘密主義なので分からないことも多かったが」云々とか書いているが、それは作り手の「言い訳」めいて見える。それは「甘え」か「怠慢」でしかないように 思えるのだ。また本作では、話の途中に何度も疑似餌を使った釣りのショットが割り込んで来て、チェイニーが狙った獲物を引っかけ、ガッチリ捕まえるイメージとし て描いている。また、ナゾのナレーターが映画の初めの頃から登場して、最後にそれがチェイニーに心臓移植をするドナーであることが明らかにされる。後者 は、チェイニーに「ハートがない」とか何とかそのあたりの比喩だろう。どちらも、ハッキリ言ってバカでも分かる比喩である。しかも、見え透いていて大して 面白くもない。凡庸で手垢が尽きすぎたメタファーである。例えば前者の「釣り」だが、それがチェイニーの幼少期の何かの記憶と結びついている…とまで描かれ ているならば、映画としては幾分効果的に働いただろう。例えば「市民ケーン」(1941)の「バラのつぼみ」みたいなモノである。それが彼の人間性に強烈 に焼き付いていて、「ここぞ」という時にオブセッションとして出て来る…というなら意味がある訳だ。だが本作では、家族のバカンス場面でチェイニーが娘か ら「お魚をダマすの?」と聞かれる…というくだりが出て来るだけ。「ダマす」「捕まえる」というほぼ「まんま」の比喩として出て来るだけだ。それ以外、 それ以上の意味はまったくない。これってさすがに描き方が陳腐ではないか。この程度の比喩的描き方では、何だか田舎の高校で映研が作った素人映画並みの幼稚 さだ。あまりに「芸」がないだろう。そして最大のイヤな点は、終盤に出て来る。本作の楽屋オチよろしく保守系の人とリベラル系の人がケンカを始めている傍 らで、そこに居合わせた女が「今度の『ワイルドスピード』楽しみね」などと言ったりする。つまり、一般大衆は政治のことなどちゃんと考えず、「ワイルドス ピード」みたいなアホ映画見ているアホどもだ…と言いたい訳だ。これに対して「愕然とさせられた」とか「観客に向けられた刃だ」とか何とか評している人も 多いけれども、そんなことを真面目に思ってやる必要などない。こんなことを書いたら僕は各方面から叩かれそうだが、あえて苦言を言わせてもらう。本作はいまや評価がある 程度定着して、「いくらでも叩いて良い」対象となった事件・人物たちを描いている。だから、叩くだけなら別に勇気も知恵も要らない。あえて言わせてもらう なら、政治批判としては最も安易な類いのモノだ。ならば何か新しい知見がそこになければならないが、ハッキリ言って本作にはそれほどのモノもない。そして メッセージだけ伝えられたとしても、肝心の映画としての「ハート」がない。「ワイルドスピード」ごときが…と見下して、そんな映画を見 ている人間も…もっと言うとその映画を作っている人間もコキ下ろしているのが問題だ。それって別の見方をすれば、「ワイルドスピード」を見たり作ったりしている連中 よりも、本作の作り手たる自分の方が政治について考えているずっと高級な人間なんだ…と言っているのと同じだ。これは驕りである。大衆は愚かだと言うにし ても、言い方というものがある。そこに自分も含まれるというならば、まだ理解できる。誠実さも感じる。だが、この映画の作り手は、チェイニー以下登場人物だけでなく「ワイ ルドスピード」みたいな映画を作っている人々や、こともあろうに観客をもバカにして、自分だけは賢くてリッパだと言っている。僕はちょっとそこが看過でき ない。本作と同じ「映画」の名前を引き合いに出してバカにするということは、そういう意味にとられても仕方ないだろう。そういえば本作では、冒頭近くで 「生活が大変な時には大衆は政治のことなど考えていられない」とナレーションを入れながら、アヘ顔で踊り狂うバカな女たちの顔を出したりしている。もちろ ん言いたいことは分かる。僕だって「ワイルドスピード」を大した映画だとは思っていない。大衆もおそらくご指摘通り愚かだろう。だが、この映画は登場人物 にもこの映画の題材にも、まして観客たちに対しても「愛」が感じられない。作り手である自分への「愛」しかない。テメエがエラいとしか言っていない。愛のない映画は不毛である。うぬ ぼれは愚行である。大衆はアホ…としたり顔で見下している時点で、この作り手はディック・チェイニーと五十歩百歩の人間になり下がってしまっている。この作り 手にチェイニーを批判する資格などないのである。そもそも「オ レだけは高級で賢い」なんてことをテメエで言う奴は、少なくともご本人が思っているほど高級でも賢くもないんじゃないだろうか。「ワイルドスピード」みた いなアホ映画より上だとか、「ワイルドスピード」を見るような奴よりは賢い…なんてことを言うのは、チェイニーの伝記映画でちゃんとチェイニーその人が描 けるようなイッチョマエの映画作家になってからにしていただきたい。それまでは、とてもじゃないが「ワイルドスピード」をバカにすべきではないと思う。

さいごのひとこと

 アンタが「ワイルドスピード」を面白く撮れてから言ってくれ。

 


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