新作映画1000本ノック 2019年4月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「ザ・クエイク」 「女王陛下のお気に入り」 「ハンターキラー/潜航せよ」 「グリーンブック」 「ソリス」 「天国でまた会おう」 「記者たち/衝撃と畏怖の真実」 「シンプル・フェイバー」 「運び屋」 「アンノウン・ボディーズ」

 

「ザ・クエイク」

 Skjelvet (The Quake)

Date:2019 / 04 / 29

みるまえ

 僕が渋谷の映画館でノルウェーのパニック映画との触れ込みで「ザ・ウェイブ」 (2015)を見たのは、もう3年も前のことになる。珍品好き、パニック映画好きの僕としては絶対に見逃せない作品で、大いに喜び勇んで見に行った。その 結果は…というと、やはりお国柄というのだろうか、主役の男が…これがハリウッド映画じゃ絶対にパニック・アクション映画の主役は張らないわなぁ…と思わ せる線の細さ。それを筆頭に「???」と思わせるドラマの弱点は数々挙げられるものの、それを埋めて余りあるパニック映画としての見せ場と、「ノルウェー のパニック映画」としての珍しさがあったのも間違いない。結果的に、僕は十分この作品を楽しんだ。どうやらそう思ったのは僕だけではなく、世界中にもそん な映画ファンがたくさんいたらしい。その後、「ザ・ウェイブ」のローアル・ユートハウグ監督は「トゥームレイダー/ファースト・ミッション」(2017)を撮ることになり、主役の「線の細い男」クリストッフェル・ヨーネルは「レヴェナント/蘇えりし者」(2015)や「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」 (2018)に出演。どちらもハリウッドに呼ばれるようになるくらいだから、「ザ・ウェイブ」は世界的大成功を収めたのに違いない。これだけならめでたし めでたし…と終わる話だが、何とここへ来て「ザ・クエイク」なる新作がノルウェーから登場。このタイトル、ノルウェー製、おまけにパニック映画だという。 何とどう見たってあの「ザ・ウェイブ」の続編ではないか。チラシを見ると、どうやらあの主人公一家が地震に巻き込まれているようである。おいおい、大津波 の後は大地震かい! 「ダイ・ハード」 (1988)の「世界一運の悪いヤツ」ならぬ、「世界一運の悪い一家」かよ(笑)。だが、そうなるとこれは見ない訳にはいかない。「アベンジャーズ」の新 作なんてくだらない映画を見ている場合ではない。反論は許さない。僕にとって本作は、ゴールデンウィーク最大の問題作だからである。

ないよう

  テレビ・スタジオで、ノルウェーのガイランゲルでの悲劇を特集したトーク・ショーが放映されている。ゲストは、ノルウェー全土で地震監視を行っているノー スター社のヨハネス(スティグ・アンダム)。司会者は、ガイランゲルで起きた大惨事の概要を紹介していく。あの日、断崖で大規模な崩落が起きて、フィヨル ドに大津波が発生。付近の集落に甚大な被害が起きた事件である。そこで司会者は、この日もう一人のゲストがスタジオに招かれていることを語る。それまで カーテンの裏で番組の進行を見ていたその人物こそ、ガイランゲルの悲劇をいち早く察知し、その後も八面六臂の活躍で人々の救出に尽力した男…地質学者のク リスチャン・エイクヨルド(クリストッフェル・ヨーネル)だ。彼はこの番組でスタジオの観客から拍手を持って迎えられる。まさに現代の「英雄」としての登 場だ…。それからしばらくして、静かなフィヨルドを行くフェリーの上に、ひとりの少女が乗っている。彼女はクリスチャンの娘ユリア(エーディト・ホーゲン ルート=サンデ)。ここは、あれから3年の歳月が過ぎた同じガイランゲル。ユリアは休暇を利用して、離れて暮らす父親のクリスチャンに久々に会いに来たの だ。だが、クルマで迎えに来たクリスチャンの様子は、どことなくぎこちない。それもそのはず、クリスチャンの一家は今は少々訳アリの状態なのだ。あれから 3年経っても、クリスチャンは災害の記憶から逃れられない。今でも手が震える。そして、また新たな災害が襲いかかって来るのではないかという恐怖から、過 剰に調査に没頭している。それゆえ妻のイドゥン(アーネ・ダール・トルプ)ともうまくいかず、ずっと別居を続けている訳だ。クリスチャンはここガイランゲ ルに、そしてイドゥンと子供二人はオスロに…と、家族の二重生活が続いたままなのである。だから、せっかくのユリアとの時間もまったく和まない。家は男所 帯にウジが湧く状態だから、汚いダイニングキッチンでユリアにショボいオムレツを食わせるのが関の山だ。スマホに仕事関係の電話が入っていても、ここは我 慢で引き出しにしまい込むクリスチャン。だが、夜中に起き出して来たユリアは、クリスチャンの仕事部屋で「それ」を見つけてしまった。その部屋の壁一面に は、例の津波被害で行方不明になってしまった人々の顔写真でびっしり。クリスチャンはそれを自らの責任と考え、今でも自分を責め苛んでいるのだ。翌朝、ユ リアは早起きして朝食を作ってくれたが、もうクリスチャンの気持ちは晴れない。「オマエの面倒は見ていられない」と、冷たく追い出すしかない。ユリアを乗 せたフェリーが岸壁を離れた時には後悔したものの、今更間に合わないクリスチャンだった…。その頃、オスロ中心部から29キロ離れたオスロフィヨルド・ト ンネルの中心部分にクルマでやって来たひとりの男がいた。ヘルメットをかぶったその男は、地質学者のコンラッド・リンドブロム(ペール・フリッチ)。彼は 何やら気になることがあるらしく、トンネルの横穴に入って懐中電灯で壁面を照らしていた。その時にわずかな揺れを感じて緊張するリンドブロムだったが、そ れはトンネルを通行するクルマの振動だったらしい。いや、ひょっとしたら…。一方、ユリアをフェリー乗り場まで送って行って、やっと自宅に戻って来たクリ スチャン。テレビをつけても見る訳でなく忙しそうに用事を片付けていた彼だったが、ニュースで耳慣れた名前が語られたのを聞きつけて、慌てて画面に目を走 らせる。何とオスロフィヨルド・トンネルで崩落事故が発生し、旧知の地質学者リンドブロムが死んだというのだ。ふと気づいてしまい込んだスマホを取り出し てみると、昨日かかってきた電話もこのリンドブロムからのものだった。さらにクリスチャンは、リンドブロムから郵便物を受け取っていたのに、開けていな かったことを思い出した。慌てて送られていた分厚い封筒を開いてみると、中から出て来たのは膨大な資料の山。いずれも、オスロを中心とする各地の地震の データばかりだ。リンドブロムは例のノースター社で働いていたが、そこで得られたデータに何らかの疑問を持っていたようである。中には彼自身が書いた論文 のコピーもあったが、その表題は何とも衝撃的なものだった。いわく、「近い将来、オスロにはかつての大地震が再現する可能性がある」。もはや伝説の域に達 している1904年のオスロ大地震。それが、またオスロに襲いかかってくるのか…。いつの間にか夜を徹して資料を読み込んでしまったクリスチャンは、その 内容が示唆するものに唖然呆然。慌ててクルマを走らせて一路オスロへと向かった。やって来たのは、オスロ郊外の住宅地ローア地区。そこにあるリンドブロム の自宅を訪れた訳だ。家の中では、リンドブロムの娘マリット(カトリーヌ・トールボリ・ヨハンセン)が彼の葬儀の準備で忙しくしていた。彼女は突然現れた クリスチャンにも親切に応対し、リンドブロムの部屋にも自由に入ることを許した。こうしてリンドブロムの部屋に入ったクリスチャンだが、そこにはオスロ近 郊の地震データ資料の数々が、まるでクリスチャンに調べてくれと言わんばかりに整然と並べられているではないか。またしてもこれらの資料の指し示す結論 に、唖然としてしまうクリスチャン。そこに入って来たマリットも、その尋常ならざる様子を気づかずにはいられない。「オスロにかつて起きたことが再現す る。ただし、1904年の時と同じ程度のモノなんかじゃない」と、クリスチャンはこれらの資料を見て辿り着いた結論を率直に語った。「マグニチュード8… あの時の100万倍の威力で襲ってくるんだ!」…。

みたあと
  この後、主人公クリスチャンはオスロに住む家族と再会するのだが、事が事だけに彼らに告げることも出来ずに悶々とするばかり。そんなこんなしているうちに 異変が起き始め、いよいよ最悪の自体が発生してしまう…。まぁ、お約束のパターンである。で、ここからが問題なのだが…本作は地震を題材にした作品なの で、地震の場面は避けようがない。かつて僕は「日本沈没」 リメイク版(2006)の感想に「地震の見せ場が少なくて物足りない」と書いた際に、読んだ方から「被災者の人たちに対して不謹慎で失礼だ」とのお叱りを いただいた。まぁ、それはそれでごもっともな指摘ではあるが、やっぱり地震を題材にした映画で地震を描かないのはいかがなものか…という意見に変わりはな い。そもそも被災者の人たちだって、「そんなものを追体験したくない」と思うのならわざわざ地震の映画なんか見に行かないのではないか。そんな訳で、今回 もそんな地震を題材にした映画だが、僕としては同じスタンスで語っていくつもりだ。そんなことを書いたらまた同様のご指摘をいただいちゃうリスクがあるか もしれないが、ここはひとつ、そもそも「クエイク」なんてタイトルの映画なんだからそのへんは察している人だけが見ているはず…という認識で語っていきた い。大体、入場料を取って地震の映画を見せておきながら、地震を描かない方が「不謹慎」なんじゃないのか。いやぁ、こういうのってイマドキ何かと窮屈に なってきちゃったよねぇ。

みどころ

 ノルウェーの特撮やCGの技術なんてまったく知らないが、「ザ・ウェイブ」同様に本作もなかなかのモノ。見ている限りではまったく遜色のない出来であ る。地震被害が起きてからの本作の主な舞台は、「ラディソン・ブルー・プラザ・ホテル」という37階建て高層ホテル。映画を見た後で調べてみて、これが実 在しているホテルだと分かった。総じてオスロは高層建築がそう多くないようだが、このホテルがある一角には高層ビルが集中しているらしい。そして、このホ テルがオスロでも抜きん出て目立っているようだ。それが、このホテルを主な舞台にした所以だろう。それ以外にもオスロの市庁舎が崩れる場面やらオスロ・オ ペラ・ハウスが被害に遭う場面もあり、いずれも実物写真を見比べてみた限りではリアルに描かれていた。ノルウェーの人やあちらの土地勘がある人が見たら、 そういったランドマーク的建物が崩壊する様子がリアルに描かれて、かなりドキドキものではないだろうか。ちょうど僕らが、国会議事堂や東京スカイツリー、 東京都庁や六本木ヒルズのタワーが崩れる場面を見るようなものである。ただ、「ラディソン・ブルー・プラザ・ホテル」は劇中でメチャメチャにブッ壊れてし まうので、これってよく許可が出たなと驚いた。オスロ・オペラ・ハウスに至っては「欠陥建築」呼ばわりされてしまうのだけれども、これは果たして大丈夫 だったのだろうか(笑)。あと、ノルウェー全土の地震の調査や情報収集をしている機関を「ノースター社」と字幕では出していたが、これって民間企業なんだ ろうか。それとも国の機関なんだろうか。いずれにせよ、こいつらはまるで責任感がなくていろいろとマズいと思うのだが(笑)。
ここからは映画を見てから!

こうすれば

  相変わらず主役を演じるクリストッフェル・ヨーネルはパニック・アクション大作の主役タイプには到底見えない役者だが、一応、本作もヒーローとしての位置 づけである。ところが、今回は前作での体験がもとでPTSDを煩っているらしく、映画の最初からキツそうである。前作は神経質そうでギャンギャンわめいて いたが、今回はジメッとしていて、またしてもヒーローらしくない。しかも、せっかく遊びにやって来た娘まで追い返してしまうというアリサマである。それこ そ何らかの被災体験がある人に「実際もあんな感じ」と言われちゃったら僕も何も言えないのだが、正直言って1本の娯楽映画として見た場合には、このキャラ クターになかなか共感しづらいというのがホンネである。これって、もうちょっと他の描き方はなかったのだろうか。また、主人公は「オスロに地震発生」を確 信しながら、それなりの権威の人物に一蹴されると、PTSDのせいかシュンとなってしおれてしまう。だから、今回はオスロという大都会を舞台にしながら、 ほとんど身内以外は助ける余裕がない。せっかくの資料を友人から預けられながら、まったく活かせていないのである。資料がまるで無駄になってしまうのだ。 せめて家族にだけは早くから言っておいてもいいのに、なぜかそこでも躊躇して語れない。ちょっとこれは娯楽映画としていただけないではないか。というか、 こいつを主人公にしている意味がまったくない(笑)。さらに地震そのものの描き方もちょっと不思議で、いわゆる僕ら日本人が頭に思い描くような激しく揺れ 動く地震は描かれていない。何となくローランド・エメリッヒの「2012」 (2009)におけるロサンゼルス壊滅場面の「小規模版」みたいな感じで、地面があちこち波打つような描写で終わってしまうのだ。これも僕ら日本人からす るとピンと来ないかもしれない。映画の最後で「ノルウェーでは地震が頻繁にある」と書かれていたが、本作を見る限りではあまり地震を知っているとは言えな いんじゃないだろうか。何となく地震に慣れていないような感覚に思えるのである。また、先にも述べたように後半の舞台はほぼ「ラディソン・ブルー・プラ ザ・ホテル」に絞られるのだが、せっかくオスロという大都会を舞台にしながら、これはちょっともったいなかったのではないだろうか。オスロ全域の被害状況 など、もっと大規模なパニック描写が見たかった気もする。いわゆる「不謹慎」な願望ではあるが…(笑)。だから、主人公は息子ソンドレ(ヨナス・ホッフ・ オフテブロ)のことも助けに行かない。このへんも、今回チマッとしちゃった理由である。そして本作最大の欠陥と言いたいのが、主人公の娘ユリアの存在。前 作ではクリスチャンの家族が一家全員で他人の足を引っ張って被害を拡大するタチの悪さだったが、今回はこのユリアちゃん一人が頑張ってる感じ(笑)。わざ わざノコノコと出てこなくてもいいのにホテル最上階まで両親を探しに来ちゃって、かえって状況を悪くしている。それに限らず、このユリアという女の子が何 度も何度も主人公たちの足を引っ張っているのにウンザリ。本当に迷惑な存在である。地震が起きているビルのベランダで、ボケッとバカみたいに突っ立ってい るのを見るだけでイライラしてくる。僕は映画を見ながら、「クソガキ早く死ね!」とスクリーンに向かって叫びたくなった(笑)。そして、最も噴飯ものなの がその結末で…かなりヤバい絶体絶命な状況に陥りながら、主人公やその娘ユリアたちは最終的に助かってしまう。助かってしまうのは別にいいのだが、傾いた ビルから下に落ちてしまいそうな相当に危険な状況のはずなのに、どうやって主人公たちが危機的状況から脱することができたのか…を描く部分が本作では完全 に省略されてしまう。そこを飛ばして、何とか危機を脱した…とだけ描かれるのだ。これもちょっと理解できない。正直言って、どう見ても助かりそうもない状 況である。そこをどう助かるのかを描くのは大変だから割愛しちゃったんだろうけど、それを描くのが映画だろう(笑)。パニック映画が脱出場面を割愛してど うする。手抜きにも程があるのである。そんなこんなも含めて…本作は前作のローアル・ユートハウグが降板して新たに撮影監督出身のヨン・アンドレアス・ア ナスンが監督に起用されたが、この人の責任ではないだろう。前作も相当お話はキツかったことを考えると、前作と同様に脚本を手がけたヨン・コーレ・ラーケ とハラール・ローセンローヴ=エーグの責任と言うべきではないだろうか。今回は前作と違ってフィヨルドにおける崩落と津波の危険性…といったノルウェーな らではの特異性なども出て来る訳ではないので、いろいろと残念な出来映えとしか言いようがない。オスロ観光をした人だけが楽しめる映画だろう。

さいごのひとこと

 地震が多い割にはノルウェー人は地震に詳しくないね。

 

「女王陛下のお気に入り」

 The Favourite

Date:2019 / 04 / 29

みるまえ

  もうこのサイトをご覧の方は十分ご承知のことかもしれないが、僕はかなり保守的な映画ファンである。新参者の映画作家の作品にすぐには飛びつかず、いつも 出遅れてしまう。フランソワ・オゾンもドゥニ・ヴィルヌーヴも、世間が名前の前に「あの」という冠を付けるようになるまで作品を見ていなかった。特に情報 に疎くなってからは尚更である。本作の監督ヨルゴス・ランティモスもそうである。ここ2作ばかりいきなり日本で紹介されて、みんな生まれた時から知ってい るようなことを言い出したが、僕はなぜか作品を見ることが出来なかった。仕事が忙しかったのか見る気がなかったのかは分からないが、その2作の両方にごひ いきのコリン・ファレルが主演していたのを知っていたのだから、見たいという気にはなっていたのだろう。ただ、どう考えても名前がヨーロッパ…それも非英 語圏の人物らしい監督なのに、いきなり出てきてファレルだとかレイチェル・ワイズだとかニコール・キッドマンだとかというハリウッド・スターを起用できる あたりが何やら胡散臭くもあった(笑)。そして本作では、いよいよオスカー・レースの一角に食い込もうという勢いである。別にアカデミー賞なんざ、今更ク スリにもならないと思っている僕だが、ここまで存在がデカくなると見ない訳にもいかない。そんな訳で、いいかげん公開が終わりそうな頃になって劇場に駆け つけたという訳である。

ないよう

 18世紀初頭のイングラン ドでのこと。時の女王アン(オリヴィア・コールマン)には、常に幼なじみで彼女と浅からぬ縁のサラ(レイチェル・ワイズ)が付き添っていた。その親しさた るや…サラが常に女王の喜ぶことばかり言っていた訳ではないことから見ても、それは察せられるところだ。女王は自らの部屋の片隅に17匹のウサギを飼って 柵に入れていたが、サラはそれらのウサギを「気持ち悪い」と触れようともしなかったのである…。その頃、王宮に向かってひた走る乗合馬車に、ひとりの若い 女が乗り込んでいた。その女アビゲイル(エマ・ストーン)は馬車を降りる際に突き飛ばされ、泥だらけの地面に倒れ込む羽目になる。そんな散々な目に遭った アビゲイルは、王宮内の実力者であるサラのお目通りを願い出る。その実力者ぶりは、周囲の連中へのサラの言動を見ても分かる。現在進行中のフランスとの戦 争をさらに推進し、そのための戦費を調達すべく周囲を叱咤する…いかに彼女が軍の司令官であるモールバラ公爵の妻であるとしても、本来なら一国の命運を左 右する権限などないはず。だが、女王の「側近」であるという特権が、サラにそれを許していたのだ。そんな彼女の様子を見てとったアビゲイルは、臭い泥だら けの哀れな姿でサラに面会する。実は彼女は今でこそ没落した身ではあるが、かつては上流の出でサラの縁者でもあった。アビゲイルがサラを訪ねたのは、もち ろん王宮での仕事を求めてのことである。こうして、アビゲイルは下っ端の侍女として雇われることになる。ある夜のこと、アン女王に「不具合」が生じて宮廷 はてんやわんや。サラも数名の者と一緒に女王にへばりついて一生懸命看病する。新入りのアビゲイルもそこに動員され、痛みを訴える女王の足に包帯を巻くこ とになる。アビゲイルは女王の様子を一目見て、その痛みの原因が分かった。いわゆる「贅沢病」である「痛風」だ。翌朝、アビゲイルは秘かに馬に乗って近く の森へ行き、薬草を摘む。だが、どこからともなく馬に乗った男が現れたため、彼女は慌ててその場を去った。こうして薬草を入手したアビゲイルは、それをす り潰して女王の部屋へと向かう。勝手に部屋に入り込んだアビゲイルは、眠っている女王の足に薬草を塗り付けた。だが、そこにやって来たサラは、無断で女王 の部屋に侵入して勝手なことをしたアビゲイルを叱責。彼女を叩き出してムチ打ちの罰を与える。だが、まもなく目覚めたアン女王は、足の痛みが和らいだと言 い出すではないか。薬草が効果を表したのだ。女中部屋に足を運んだサラは、アビゲイルのムチ打ちの罰を止めさせた。そしてアビゲイルを昇格させ、個人部屋 を与えて良い服も着せるなど好待遇を与えることにした。政治的なアレコレで忙しいサラの、文字通り「側近」として仕えることになったのだ。その頃、イング ランドの議会は、フランスとの戦争に関して大いに揺れていた。ますます重くのしかかる戦費を捻出するため、住民税を増税することが討議されていたのだ。サ ラは戦争推進派で、アン女王に進言して住民税増税を決意させた。これが、戦争終結派の政治家ハーレー(ニコラス・ホルト)を激怒させる。何とか女王に進言 するチャンスを探るハーレーだが、女王との面会の場はあたえらない。女王を自在に操るサラに対して、ますます怒りを募らせるハーレーだったが…。

みたあと
  この後、宮廷内の権謀術数がドロドロと繰り広げられるのは、皆さんのご想像通り。権力を巡る女3人の思惑が絡み合って…という「大奥マル秘物語」(笑)み たいなお話である。女の同性愛が出てくるあたりまで、「大奥マル秘物語」なので笑ってしまった。お恥ずかしながらヨルゴス・ランティモスという監督の作品 は、かなり前から評判になっていながら見るのは今回初めて。オスカー・レースに絡むようになって初めて見るなんてミーハー…と映画ファンの皆さんにバカに されても仕方のない話である。何せ僕は映画にはあまり詳しくないのでねぇ…。なぜ見なかったのかということには、あまり理由がない。単にタイミングが合わ なかったということに過ぎない。ただ、その存在は気になってはいた。最初に気になったのは、「ロブスター」(2015)という映画である。コリン・ファレ ル、レイチェル・ワイズ、ジョン・C・ライリーなどの豪華キャスト(今思えば、今回オスカー主演女優賞をとったオリヴィア・コールマンも出ていたのだ)。 結婚できない奴は動物にされる…という僕のような独り者にはキツい設定だったので記憶に残っているのだろうし、ひょっとしたら…だから腰が重くなって見な かったのかもしれない(笑)。何せ古い知り合いに「オレはオマエと違って子供を作ってお国に貢献している」などと言われるくらいなんで…。もっともそいつ は「国への貢献」はともかく、私生活は浮気しまくって家庭はボロボロなのだが(笑)。閑話休題、この映画は見逃してちょっと後悔していた。次の「聖なる鹿 殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(2017)は、邦題の後にバカみたいにカタカナ原題を入れるセンスのなさに退いてしまったが、コリ ン・ファレルに今度はニコール・キッドマン…というさらなる豪華キャストに驚かされた。しかも、あの捨て犬みたいな顔のファレルに医者をやらせるというあ たりも笑わせる。コリン・ファレル好きには見たくなる作品だったのだが、これまたタイミングを逃して見ることが出来なかった。だが、この「どこか変」な映 画を撮る変な名前の監督は、どう見ても英語圏の監督とは思えない。一体何者なんだ…とオスカー・ノミネーションを機に調べてみたら、何とギリシャ出身の人 なんだねぇ。しかもこの人のギリシャ時代の作品「籠の中の乙女」(2009)という映画についても、存在だけは知ってはいた。これも親父がちょっとアレな 奴で、子供たちを外界から遮断して自宅に閉じ込めているというお話。元々が変な映画を撮る奴だった訳だ。そんなことは、もちろん映画ファンならご承知のこ となのだろうが、この感想は「そんなこと」も知らなかった奴が書いているものだ。それを念頭に置いて読んでいただいた方がいいだろう。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  こういうクセの強い作品を撮ってきた男の作品だから、今回も当然そんな調子の映画だろうとは思っていた。案の定…である。黒い笑いに包まれた作品なのだろ うな…というのも当たっていた。何せ「独身だと動物にされちゃう」話を撮った監督の作品である。僕などは動物以下である(笑)。そんな畜生、虫けら以下の 僕のような人間が僭越にも語らせていただくほどの知識もないのだが、確かに見ていて不思議な面白さがあるし、黒い笑いで人間を見ている割には「見下されて いる」感じが少ないのも好感が持てる。オスカー・ノミネーションまでされちゃった時点で見ているから、こちとらひがみっぽい下層の人間としては、思いっき り意地悪い気分で見ている訳だ。それでも、そのような「高み」から人々を見下ろす感じがないのはちょっと驚いた。こういう監督なら、絶対そういう描き方を するだろう…という、こちらも一種の偏見に凝り固まって見ていたので(笑)。内容の詳細などについては今までこの監督の作品を見て来て、あれこれ熟知して いる人が語ればいいと思うので、僕はここで改めてアレコレ語るつもりはない。広角というより「魚眼」と言った方がいいレンズによる映像を多用しているの は、作品世界とそこに生きている人物たちの「歪み」をも写し取ろうという発想だろう。それは、ある意味でクセが強いというより「素直」な発想に思える。僕 が感心したのはエンディングで、いいかげん侍女アビゲイルの思惑も分かってしまった女王が、彼女に「奉仕」を無理強いしながら幕…というもの。その背景 に、うごめくウサギたちの姿をオーバーラップさせての幕切れである。邪魔な目の上のタンコブであるサラを追い出したものの、結局は女王に「奉仕」させられ る立場に過ぎないと再認識させられるアビゲイル。力でアビゲイルをねじ伏せて「奉仕」させているものの、彼女の心にはひとかけらの誠意もないと承知の女 王。しかも、かつて身近に仕えていたサラにはまだ何がしかの「感情」はあったはずだが、それは自らの愚かさ故に失ってしまった後である。今では一片の信頼 も持ち得ないアビゲイルに「奉仕」させるしかないし、もはや女王にはそんな彼女でもいるだけマシな状態で、他にはもう何もないのである。ウサギは女王が生 まれた子供を失うたびに1匹(1羽だったかな?)ずつ飼って来たものだが、いわば「失われた望み」「満たされない思い」の象徴みたいなものだろう。どうし ようもなくのっぴきならない間柄となってしまった女王とアビゲイルにウサギたちがウヨウヨしている姿が二重写しになるエンディングというのは、そんな、求 めても手に入れることの出来ない望みが二人の(そして、その場にはすでにいないサラの)周辺に空しく増えていくだけ…ということだろうか。果てしない人間 の欲望や願望の空しさを描いて非常に秀逸だと思ったが、ここまでダラダラと書いて来て、いかにも「文系人間」が並べそうな屁理屈だったかと苦笑してしまっ た。ここまで読ませてしまってまことに申し訳ないが、どうか笑ってお忘れいただきたい(笑)。そんなことより、一見文芸作品のような見栄えと設定を持ちな がらも実際には作中に漂う不穏な空気に、一種の邪劇である「ウィッカーマン」(1973)…ニコラス・ケイジ主演のリメイク版(2006) もあるがアメリカを舞台にしたせいかイマイチ感じが出ていない…と共通するものを感じたと言うと、いささかピンボケな感想になるだろうか。ただ、ぶっちゃ け言って「ウィッカーマン」みたい…というのが見た後に真っ先に浮かんで来た感想だったのが正直なところなのだ。

さいごのひとこと

 エマ・ストーンの作品選択は面白いね。

 

「ハンターキラー/潜航せよ」

 Hunter Killer

Date:2019 / 04 / 22

みるまえ

  またまた潜水艦映画の新作がやってくる…と知っただけで、僕の胸は大いに高鳴って来る。往年の傑作「眼下の敵」(1957)を例に挙げるまでもなく、潜水 艦映画…というと大体期待を裏切られなかった。「U・ボート」(1981)、「クリムゾン・タイド」(1995)、本サイトを開設してからも…「U-571」(2000)、「ビロウ」(2002)、「ファントム/開戦前夜」(2012)、「ブラック・シー」(2014)…などなどとなかなかの佳作揃い。そこに本作の登場となると、どうしたってワクワクしてしまう。今回の主演はジェラルド・バトラーというのも期待が持てる。「300」(2007)で出て来たあたりでは大味感がスゴくてピンと来なかったが、「エンド・オブ・ホワイトハウス」(2013)やら「ジオストーム」 (2017)ではホルモン持て余し気味のタフガイぶりが好ましく思えて来た。その大味感すら愛嬌に見えて、作品的にはあまり恵まれていないので個人的に応 援したくなってきたのだ(笑)。そんな彼が、さまざまな男性スターを「男」にしてきた潜水艦映画に登場となれば、どうしたって見ない訳にはいかないだろ う。今回は何と…クーデターで監禁されたロシア大統領を奪還するため、米軍の原子力潜水艦がロシア領海内に侵入するという無茶なお話。でも、ホルモンがこ ぼれそうなバトラーならオッケーだ(笑)。僕は公開間もない劇場に、居ても立ってもいられずに飛び込んだ訳だ。

ないよう

  北極圏のバレンツ海ロシア領海。氷山が浮かぶその海原の下に、一隻のロシア軍潜水艦コネックが潜行していた。だがその後方にアメリカ海軍原潜タンパ・ベイ がピッタリとマークしていることを、当のロシア原潜は知らない。ところが、突然ロシア原潜が爆発。あまりのことに呆然としているタンパ・ベイのクルーだっ たが、その直後に今度は彼ら自身が戦慄する羽目になる。何と、彼ら目がけて魚雷が急接近しているではないか。慌てて方向転換するタンパ・ベイだが、時すで に遅し。彼らは海の藻くずと消えた…。この事態は、遠く離れたアメリカ、ペンタゴンの海軍司令部においても確認されていた。ジョン・フィスク海軍少将(コ モン)はこれをロシアの敵対行為ではないかと疑うが、たまたまその場に居合わせたNSA(米国家安全保障局)職員ジェーン・ノーキスト(リンダ・カーデ リーニ)はそれを疑問視。フィスクに対して腹を割った態度を見せて、彼女たちが掴んでいた情報を明らかにした。ロシア原潜コネックとタンパ・ベイが遭難す るより前に、ロシア大統領ザカリン(アレクサンドル・ディアチェンコ)も付近の軍港に訪問していたのだ。フィスクとジェーンの脳裏に、イヤな予感が漂う。 ともかく何らかの手を打たねばならない。フィスクは「ハンターキラー」との異名を持つ攻撃型原潜アーカンソーの現地派遣を決定。緊急出動のため、海軍兵学 校出ではない異例の新艦長を起用することになった。加えてフィスクは統合参謀本部議長のチャールズ・ドネガン(ゲイリー・オールドマン)にも状況を報告し たが、ドネガンは「何かあれば敵に報復を」と頑なな態度を見せる…。その頃、雪深いスコットランドの高原に、トナカイを仕留めようと物陰から弓矢で狙いを 定めている男がいた。しかし後方からトナカイの子供たちがやってくるのを見た男は、狩りを中止。まるでそれにタイミングを合わせたかのように、男の携帯に 連絡が入った。さらには男を迎えに、山の彼方からヘリコプターまで飛来してくる。男の名前はジョー・グラス(ジェラルド・バトラー)。タンパ・ベイ遭難の 調査のために派遣される、原潜アーカンソーの艦長に起用された男だ。突然の出動命令に、休暇を出されていたクルーは緊急に再招集された。慌ただしく出航の 準備が進む中、艦内では新艦長グラスに関するウワサ話が乱れ飛ぶ。その状況を肌で感じ取ったグラスは、出動前にマイクで艦内に直接呼びかける。果たしてグ ラスは、クルーの心を掌握して難しい任務を全うできるのか…。こうして問題のバレンツ海の海中へとやって来た原潜アーカンソーは、海底に沈んだタンパ・ベ イの残骸を発見。さらにロシア潜水艦コネックも見つけたが、その破壊の跡には理解に苦しむ点があった。爆発による破断面は外側に向かって裂けていることか ら、魚雷による撃沈ではなく内部での爆発による沈没と考えられるのだ。不穏な雰囲気を感じ始めるアーカンソーのクルーたちに、次の瞬間、新たな衝撃が走 る。何と水面近くに潜んでいたロシア原潜から、アーカンソー目がけて魚雷が発射されるではないか…!
ここからは映画を見てから!

みたあと
  この後、沈んでいたロシア原潜にアンドロポフ艦長(ミカエル・ニクヴィスト)らの生存者がいることを察知してアーカンソーに回収。一方、陸にはネイビー シールズの特殊部隊がロシアに潜入。何と、クーデターによりロシア大統領が拉致されたことが分かる。そこでネイビーシールズと原潜アーカンソーによる、陸 海によるソ連大統領奪還作戦が展開される…という奇想天外なお話となる。案の定、友軍の潜水艦を撃沈したかもしれないロシア潜水艦の生存者を救出するべき か…とモメるなどの葛藤があるが、そこは型破りな艦長バトラーの自由裁量で乗り切り、昨今の世界情勢を考えると異例なほどの米ロ協調路線の話となってくる から驚く。そして、娯楽映画としても陸海両面での見せ場がつるべ打ち…という欲張りセットな構成となっているのである。

みどころ

 まず、どこから語ればいいだろうか。「潜水 艦モノにハズレなし」は今回も当てはまっていた…ということから言わねばならないだろう。今回も最大の見せ場として、機雷やソナーな満載の狭いフィヨルド の海中を、敵に感づかれないように潜航していく…という潜水艦映画ならではの趣向が出てくる。相変わらずなかなかヒヤヒヤさせてくれるのだが、特に本作で はロシア領海を熟知するアンドロポフ艦長の協力を得て乗り切っていく…という「デタント仕様」になっているのがミソ。もちろんこういう展開になっていくの はアーカンソーの艦長が何かと型破りなグラスという男だから…という訳で、演じるジェラルド・バトラーは何しろ前作「ジオストーム」でもそうだがお偉いさ んとか管理者の言うことなどまるっきり聞く気のない男(笑)である。今回でも軍の規律とかペンタゴンからの命令などハナっから無視して突っ走る。もちろん 本作に限ってはこれはホメ言葉である。そんな型破り感はバトラーに限らず本作において一貫しており、ネイビーシールズがロシア大統領救出作戦を展開するに あたっても、たまたま一人生き残っていたロシア大統領シークレットサービスのオレグと力を合わせて戦う。おまけにロシア海軍までアーカンソーへの攻撃を止 めるどころか援護。さらにはクーデター首謀者の国防相が立てこもる指令本部をロケット攻撃するという念の入れようである。徹頭徹尾、ルールよりも心意気… というジェラルド・バトラー・イズムが行き渡った作品となっているのだ(笑)。結果的に、本作は友情・努力・勝利の「少年ジャンプ」的な発想の映画という か、「男の子」的な爽快感に満ちた娯楽映画として久々に隅々まで気持ちの良い作品に仕上がっている。ジェラルド・バトラー自体がどう見たって世渡りとか計 算が苦手な男だろうから、本作はこれでいいのである(笑)。バトラー扮するグラス艦長が、ロシア海軍のアンドロポフ艦長と心を通わすあたりも、騎士道精神 やスポーティなフェアプレイ精神みたいなものを感じさせた「眼下の敵」に通じるところがある。だから、潜水艦映画としてはこれは「王道」なのだ。劇中、バ トラーのグラス艦長の方針にいちいち突っかかってくる副官のビーマン(トビー・スティーブンス)も、「クリムゾン・タイド」みたいに反乱でも起こすんじゃ ないかと思わせながら、最後はしっかりグラスに心服。米ネイビーシールズを援護して戦うロシア大統領のシークレットサービスであるオレグなど、最後の最後 まで男気見せて頑張るのだ。このユーリー・コロコルニコフというロシア役者扮するオレグが、なかなかいい味出しているのである。その他にも海軍少将フィス クとNSA職員ジェーンとの連帯…とか、見ていて気分のいい趣向がシッポまでアンコが詰まったたい焼きみたいな感じに、てんこ盛りで盛り込まれている。イ ヤな奴はクーデター首謀者のロシア国防相と、ギャンギャン吠えるゲイリー・オールドマンの統合参謀本部議長だけ(笑)。そこが「少年ジャンプ」映画と呼ん だ所以である。そういえば…さりげなく出ては来たが、アメリカ大統領役が現実より一足先に女性(キャロライン・グッドオール)になっていたのもなかなか面 白い。いろいろな意味で、単なる馬鹿力アクション映画でない面白さが感じられるのである。

こうすれば

  ただし、若干注文をつけたくなる点もある。ネイビーシールズの活躍も悪くはないんだけれども、やはり潜水艦映画は特異なジャンルなので、潜水艦映画に徹し て潜水艦映画としての内容を全うして欲しかった気がする。少々欲張りが過ぎたとでもいうべきだろうか。そして、それより気になったのがゲイリー・オールド マンの芝居。オスカー受賞後第1作ということで、本作でもハクを付けるための共演ということなのだろう。だが、ハクを付けるどころか…ギャンギャンと文句 を言ってばかりでうるさくて仕方がない。そして、やたらめったら善玉側の足を引っ張って邪魔ばかりしようとする。最初はあまりにこいつの横ヤリがひどいの で、ひょっとしたらロシア国防相と裏で結託しているんじゃないか…とさえ思ったくらいだ(笑)。だが、これが敵役や悪役だとしても、悪の重みとか威圧感が まったくないから困ったもの。おまけに悪役でもなくて、最後にはチャッカリと他の連中と事件解決を喜んでいたりする。オスカー・スターとしてこれはどうな のだ。そういえばこの人、日本で撮った「レイン・フォール/雨の牙」 (2009)にも出ていて、そこでもギャンギャンとわめき散らしてうるさくて仕方がなかった。およそ名優としての威厳も気品もなかった。僕も今までこの人 を名優だと思っていたのだが、実はそれって大間違いなんじゃないのか。それは「大人の事情」として言っちゃいけないことなのだろうか(笑)。

さいごのひとこと

 ゲイリー・オールドマン大根説。

 

「グリーンブック」

 Green Book

Date:2019 / 04 / 22

みるまえ

  今年のアカデミー賞作品賞をとった作品である。正直言って作品評価より、受賞を知ってスパイク・リーがキレたという話の方が頭に残っている。まぁ、自分が 負けて他人が勝った場面でそれにガタガタ文句をつけている奴ってのは、僕の感覚ではあまり「カッコいい」とは思えない。ポリティカルなんちゃら…はともか く、僕は悔しくてもこれは恥ずかしいからやりたくない。確かに「黒人の置かれた状況を分かっていない」と言われればそうかもしれないが、僕はアメリカ人 じゃないから正直分からない。申し訳ないが、そこらへん知り尽くしているような「事情通」みたいな訳にはいかない。分かったようなことを言っては、かえっ て向こうの連中に申し訳ないというものだ。だが、それはそれとして…この作品に漂う微妙な「ヌルさ」みたいなモノは、僕ですら感じずにはいられなかった。 黒人と白人の和解をテーマにした話で、ドライバーと同乗者を取り替えた「ドライビングMissデイジー」(1989)みたいな感じ。それでなくても黒人と 白人、富者と貧者、男と女、同国人と外国人…ありとあらゆる階層の人々がいがみ合い、アラを探り合い、叩いて炎上させて謝罪しろと迫るのが大流行りな昨 今、わざわざこんな時期にこんな作品を出して来なくても…と思わずにはいられない。良い悪いではなく、この殺伐とした空気がすでに「夜の大捜査線」 (1967)みたいな作品ですら許さない雰囲気なのだ。キジも鳴かずば撃たれまい。例え良質な作品でも…今のこの時期にはこの手のテーマは、黒人が作って 黒人が主演して黒人がスーパーヒーローか王様か、はたまたシビアな現実を反映してヤクの売人でもして「マザファッカ!」とか言ってなければ、どうやったっ て文句が出そうだ。オレが映画製作者なら絶対にやらない(笑)。っていうか、人種問題を扱った映画なんかどうせイヤな目に遭うだけなのだから作らないだろ う。実は、みんながそう思って「触らぬ神に祟りなし」ってなっちゃう事の方が問題だと思うのだが…スパイク・リー大先生は果たしてどう思ってるんだろう ねぇ。だが、本作の作り手たちは違ったようだ。そうなると…無知で無責任な日本の映画ファンである僕としては、ヴィゴ・モーテンセンと「ムーンライト」 (2016)のマハーシャラ・アリが主演した映画として、単純に見てみたい。四方八方から文句をつけられている要素はともかく、娯楽映画としては良質な気 がするからだ。どうせ映画マスコミやファンや米国通(笑)などは、スパイク・リー様がケナしたというだけで「そうだそうだ!」と賛同しているだけだろう。 オレも含めてイエローモンキーどもに何が分かるというんだ(笑)。そんな訳でうるさい周囲の喧噪が静まった頃になって、ようやく重い腰を上げて見に行った 次第。感想を書いたのは、それからまたずっと後になってしまったのは、僕の怠慢によるものだ。

ないよう

 1962 年、ニューヨーク。夜の娯楽の殿堂、高級クラブ「カパカバーナ」では、トニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)といえばちょいとした「顔」だった。芸能人 からヤバい「そのスジ」の連中まで顔を出すこの店で「用心棒」を勤めるイタリア系のトニーは、腕っぷしだけでなく口八丁手八丁。暴れる客を少々手荒に片付 ける傍ら、やって来た怖いお兄さん方のボスの帽子を拝借。「帽子がなくなった」と大騒ぎになる頃を見計らっては、自分がそれを奪還したと売り込む。これで ボスの覚えもよくなり、ちょっとした小遣いも手に入る。そんな如才のない男がトニーだった。そんな「カパカバーナ」も改装のため一時閉店。トニーの仕事も なくなってしまう。しかし可愛い妻ドローレス(リンダ・カーデリーニ)と2人の子供を養うためには、じっとしてられない。ホットドッグ大食いやら時計を質 に入れるなどしたあげく、新たな仕事を探すことになる。一方、ドローレスはそんなトニーを心から愛していたが、時折り彼が黒人たちに見せる蔑んだ態度に残 念なものを感じていた。そんなある日、トニーは知り合いから「あるドクターがドライバーを探している」という連絡を受ける。早速、そのドクターの住所をも らってその場を訪ねてみるトニー。ところが、着いた場所が驚いた。それもそのはず、そこは何を隠そう「カーネギーホール」。まさかと思いながらホールに 入って従業員に「ドクター」の居場所を聞いてみると、何と「上の階に住んでいる」というではないか。そこで、トニーは上階に上がってみると、そこにはすで に「候補者」がワンサカ。その控え室でしばし待ったあげく、やっとトニーの順番が回ってくる。こうして奥の部屋に通されたトニーが見たものは…見慣れぬ外 国の装飾品やら家具が並べられ、まるで異国の王様が暮らしているような部屋。そしてやたら大げさな椅子に座った、奇妙なガウンを着た黒人の男だった。その 椅子とガウンの印象もまた、「異国の王様」的な印象を強めていたのは言うまでもない。そのガウンの男こそ、トニーが教えられた「ドクター」その人だった。 「ドクター」といっても「医者」ではない。その男ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)は、名の知れたピアニストだった。ドクター・シャーリーが探 していたのは、これから彼が出かける公演ツアーの運転手を勤める人物。ただし、ただのツアーではない。黒人のドクター・シャーリーが、事もあろうに黒人差 別で知られるアメリカ南部のツアーに出かけようとしていたのだった。当然、このツアーにありとあらゆる困難が襲いかかることは想像に難くない。だからこ そ、「用心棒」として定評のあるトニー・リップに声がかかったという訳である。問題なのは黒人であるドクター・シャーリーとトニーの適正だが、仕事が欲し いトニーはとりあえず「大丈夫」と即答。しかし、正直言って大丈夫な訳はなかった。おまけにドクター・シャーリーを連れての南部行きなど、ロクな結果にな らないことは目に見えていた。そこでトニーは例によってハッタリをかませ、高いギャラを吹っかける。すると…当然のことながら交渉は決裂。仕事が手に入ら なかったのは残念ではあるが、正直言ってトニーは少々ホッとしてもいたのだった。ところが後日、朝っぱらから寝ているトニーとドローレスのもとに電話がか かってくる。それは何とドクター・シャーリーからの電話だった。ドクター・シャーリーは例のツアーが二か月間にも渡る長期のモノだったので、妻のドローレ スに「ずっと留守になるがいいのか」と確認するために連絡してきたのだ。ドローレスがそれにオーケーを出すと、ドクター・シャーリーは何とトニーが吹っか けたギャラを承諾すると言って来た。こうしてトニーはドクター・シャーリーに採用され、彼の南部ツアーに同行することになったのだが…。

みたあと
  お恥ずかしい話だが、僕はこの映画を実際に見ることになるまで、監督がピーター・ファレリーだとは知らなかった。そもそも最近ピーター・ファレリーの作品 は未公開になったり、公開されても見る機会がなかったりしていたので、その名前も忘れかけていたような気がする。だが、本作がファレリー作品だと知って、 僕は改めて「なるほど!」と合点がいったような訳だ。そう言われてみれば、確かに本作のような題材はピーター・ファレリーがやりそうなネタだ。「愛しのローズマリー」(2001)、「ふたりにクギづけ」 (2003)…など、日頃「被差別者」側に回らされることの多いキャラクターを中心に据えて、ちょっと毒気をふりまいてのコメディ作品を連発していたこの 人の路線の延長線上に、本作はピッタリとハマるのである。唯一違うところと言えば、本作がコメディではなくシリアス作品としての作りになっていることか。 やはりイマドキは黒人差別の問題はシャレにならないから、さすがのピーター・ファレリーにしても笑い飛ばして済ます訳にはいかなかったのか。昨今はそれで なくてもポリティカル・コレクトネスがうるさいから、ファレリーみたいな映画作家にとっては何かとやりづらいのではないか。彼がいろいろ「ホンネ」路線で 笑い飛ばせた頃とは、時代の空気自体が違っているのではないか。だから、ヴィゴ・モーテンセンとマハーシャラ・アリといった演技派俳優を持って来て、とこ ろどころユーモラスな味付けはしながらも、一応真面目なシリアスな体裁をとってやろうとしたのではないか。そういう配慮をしても各方面の神経を逆なでしな いようにしてもなお、スパイク・リーのような人々のお叱りをいただいてしまうくらいなのだ。真面目な意図で作ってますよ的に殊勝なところを見せなければ、 人々から寛容さが失われた昨今ではどんな非難を受けるか分からないではないか。…ん? 待てよ? 本当にそうなのか? 僕はここで、ハタと思い当たってし まったのだ。本作は果たしてシリアス路線の作品で、コメディではないと言い切れるのだろうか?

ここからは映画を見てから!

みどころ

  スパイク・リーや本作を批判するその他の人々に言わせると、本作は「偽善」であるということになるのだろう。つまり、白人の「理解者」によって救われる黒 人…という設定が黒人から見て不快であるということだ。前述したような「ドライビングMissデイジー」的な作品ということである。ここで「ドライビング Missデイジー」が「悪い作品」の見本として引き合いに出されるのは果たしてどうなんだ…という気はするが、彼らの主張もある程度分からないでもない。 では、果たして本作は「ドライビングMissデイジー」的作品と言っていいのだろうか…ということになってくる訳だが…ここで結論から言ってしまおう。僕 はちょっとそれは当たらないのではないか…と思っている。むしろ、本作は「愛しのローズマリー」や「ふたりにクギづけ」の延長線上にある作品であり、ズバ リ言うと本作はコメディであると思うのだ。一見、ゴチャゴチャとうるさい世間の目をごまかすために偽装を施しているが、間違いなく本作はコメディだ。僕が それを最初に気づいたのは、マハーシャラ・アリ扮するドクター・シャーリーが最初に出て来た場面である。僕は実際のドクター・シャーリーがどんな人物で あったかは知らないし、本作がどの程度史実に基づいているのかも分かっていない。だが、あのドクター・シャーリーが自室でトニーを迎える場面の演出は、明 らかにかなり「作っている」のではないか。僕はあのドクター・シャーリーの部屋の内装、さらに大げさでデカい椅子に座った出で立ちを見て、ある黒人俳優の 主演した作品を連想してしまった。すなわち、エディ・マーフィーが主演した「星の王子ニューヨークへ行く」(1988)である。あの大げさな格好は、どう 見たってマーフィーが演じたアフリカの王子様そのまんまではないか。仮に「星の王子〜」を念頭に置いていなかったとしても、あの描き方は明らかに「笑わそ う」として演出しているとしか思えない。つまり、コメディとしての「それ」である。ヴィゴ・モーテンセンがやたらに下品に食いまくっているあたりもコメ ディ的だと思うが、そのあたりはモーテンセンというシリアス風味の役者を使っていて、うまく脱臭して分からなくしている。だが、本作の構成をよくよく考え ていただきたい。立場も性格も異なる二人の男がたまたま旅を共にする羽目になり、次々とトラブルに巻き込まれていがみ合う。だが、そのうちお互いに対する 理解が芽生えて、特に主人公から見たら不快にしか思えなかった相手が、実は孤独な人物であることに気づく。最後、旅の終わりで別れることになる二人だが、 ちょっとホロリと来る結末がやってくる…。こんな映画、どこかで他になかっただろうか。僕はラストまで見て、「アッ」と気づいてしまった。本作の構成は、 スティーブ・マーティンとジョン・キャンディ主演でジョン・ヒューズが監督したコメディ映画「大災難P.T.A.」(1987)に酷似しているとは思わな いか。これでコメディでない訳がないのだ。本作のラストはシリアス作品と考えれば確かにスパイク・リー的な怒りを買いそうだが、そもそも本作はシリアスな 作品ではない。そして、もうひとつついでに言うならば、ラストを見れば本作が「クリスマス映画」の一種であることは明白である。「大災難P.T.A.」で は感謝祭だったラストが、本作ではクリスマスになっている。そしてクリスマスだからこそ、本来はありそうもない出来事が起きるのである。「ウソ臭い」「偽 善だ」と騒ぐ前によくよく考えていただきたい。「ダイ・ハード」 (1988)で、なぜあんなしがない刑事が超人的な活躍が出来たのか。それは「クリスマスの奇跡」が起きたからではないか。スパイク・リーだってあの作品 については、リアリズムの観点から「テロリストが勝利すべき!」とは言わないだろう。この手の作品をそうケナすのは、大人げないし野暮というものだ。本作 は例えば「三十四丁目の奇蹟」(1947)のような「クリスマス映画」の典型であり、「クリスマスだから奇跡だって起きる」映画なのである。そもそもジャ ンルが違うのだ。怪奇映画を見て「幽霊が出るのはリアリティがない」とケチをつけるようなものなのである。その「三十四丁目の奇蹟」を、ジョン・ヒューズ が「34丁目の奇跡」(1994)としてリメイクしているのも偶然ではない。おそらくピーター・ファレリーの発想は、間違いなく「大災難P.T.A.」に あるに違いない。ケチをつけるのは、それらの映画のことについて考えてからでも遅くはないだろう。老婆心ながら一言申し上げたい。

さいごのひとこと

 黒人版「プリティ・イン・ピンク」も作ってくれ。

 

「ソリス」

 Solis

Date:2019 / 04 / 15

みるまえ

 今年も渋谷の映画館で開催されている劇場未公開作連続上映。今回はジム・キャリーの珍品猟奇サスペンス「ダーク・クライム」(2016)、ベルギー産のこれまた珍品猟奇サスペンス「アンノウン・ボディーズ」 (2017)…と珍品猟奇サスペンスばかり2本も見てしまったが、この連続上映ではいつも楽しみにしているのがSF映画。SF映画好きの僕としては、むし ろそちらの方が目当てなのだ。そんな僕が待っていたのが本作。どうやら太陽が舞台(?)の宇宙SFらしい。…というと、ダニー・ボイルのヘンテコSF「サンシャイン2057」(2007)がチラッと脳裏をよぎるが…(笑)。主演も監督もお話すらまったく分からない。だ が、僕はこういうのを見たかったのだ。ドキドキワクワクしながら、僕はまったく先入観なしにスクリーンと対峙したのだった。

ないよう

  それは、水星付近の小惑星での宇宙船との交信内容である。小惑星の管制は、着陸までの時間を利用して宇宙船に積んである備品の試作品をテストするように指 示。だが、すぐに管制士の声の様子がおかしくなる。どうやら小惑星で地震が発生したらしい。そのうち轟音と共に阿鼻叫喚の様子が聞こえて来て…。漆黒の宇 宙空間を、豆粒のように見える救命艇が凄まじい勢いで飛び去って行く。だが、救命艇は孤独な存在ではなかった。すぐに救命艇に追いつくように、周囲に無数 の岩石群が飛来して来る。それらの岩石群と一緒に猛スピードで宇宙空間を飛んでいく救命艇。弾丸のような形状をしたその小さい救命艇は、どうも自らをコン トロールできていないようだ。その救命艇の操縦席には、一人の男が意識を失ったまま座っていた。その男ハロウェイ(スティーブン・オッグ)が目を覚ます と、頭に鈍い痛みが走る。どうやら後頭部にキズを負ったらしい。彼は思わず隣の席を見たが、すぐに顔を背けてしまう。そこにあったのは、顔をえぐられた同 僚ミルトン(シド・フェニックス)の遺体だった。すべて、あの「事故」のせいなのは間違いない。今、ハロウェイが乗っているのは、緊急救命艇「カペラ2 号」だ。宇宙船のコンピュータを操作しようとするが、うまくいかない。どうやら推進システムや制御システムがすべて壊れてしまったようで、現在作動してい るのは生命維持システムだけのようだ。通信もできない。ハロウェイが困り果てていると、突然、救命艇に振動が走る。どうやら、船が周囲を勢い良く飛んでい る岩石に当たったらしい。だがそのおかげなのか、突然通信が復旧したから何が幸いするか分からない。「こちらハトル18号、応答願います!」と聞こえて来 たのは女の声。救援船の船長代理を務めるロバーツ(アリス・ロウ)である。彼女はハロウェイに何が起きたのか尋ねて来るが、彼だってそんなことは分からな い。とにかく爆発が起きて宇宙船が破壊され、一緒にいた乗組員も死んだ。ハロウェイは何とか緊急救命艇に乗って一命をとりとめたものの、今はコントロール を失って凄まじいスピードで漂流中だ。「今の位置は分かる?」「まったく分からない」「窓の外に何が見える?」「真っ黒な宇宙だ」…まるで話にならない。 ロバーツはハロウェイを落ち着かせようと冷静に話しかけるが、彼はどうにもならない状況に苛立つばかりだ。「地球と交信できないか?」「今、修理していて 1時間はかかる」「そちらのセリザワ船長と話したい」「船長は修理で忙しいの」…と、会話は噛み合ないままだ。そんなやりとりのうちに、救命艇の向きが変 わって来たことによって窓の外の景色がハッキリ見えてくる。そこに見えたのは、巨大な太陽である。何と「カペラ2号」はコントロールを失ったまま、太陽に 向けて一直線に飛んでいるのだ。このままだと、間違いなく太陽に突っ込でしまう…。ビーコンを同期させることで「カペラ2号」の状況を把握したロバーツは、ハロ ウェイに厳しい事実を次々と突きつける。空調システムが不具合を起こしており、しばらくすると救命艇内の気温がどんどん下がり、低体温症になってしまう。 さらに酸素も足りない。救命艇内に備えられた宇宙服を着ればしばらくもつが、それを合わせてもせいぜい70分程度。「ハトル18号」が全速力でハロウェイ 救出のため向かっているというが、「カペラ2号」に追いつくのは75分後だというのだ。その「カペラ2号」は、今も太陽に向かって凄まじいスピードでグン グン接近している…。

みたあと
  映画が始まって間もなく、いきなり「事故」が起きる。それも、観客には音声だけで様子が伝えられる。単刀直入な話の導入部だ。救命艇がすごいスピードで、 コントロールを失いながら宇宙を漂流。船内には主人公がただひとり。最初は通信も不通である。絶対絶命、孤立無援の抜き差しならない事態である。これはど うやら「ゼロ・グラビティ」 (2013)っぽい話になってくるのかな…と思い始めた頃に、岩石が救命艇を直撃して通信が復活。救援船の船長と称する女からの連絡が入る。彼女とのやり とりのうちに、主人公がさらに尋常ならざる危機にさらされていることが分かってくる。空調システムがイカれ、酸素の供給に限界があり、何より救命艇が太陽 に向かって一直線に突き進んでいる。それのどれかひとつでも致命的なのに、全部同時に襲いかかっているという本来ならすでに「消化試合」みたいな状態だ。 もし主人公が何とか生還するとすれば、これらを一人で解決しなくてはならない。頼りはか細い通信でつながっている相手の女だけ…。そのあたりで、僕には徐 々に狙いが分かり始めた。これは「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」(2013)や「ギルティ」(2019)と同じ、要素を徹底的にミニマライズしたドラマではないか!

ここからは映画を見てから!

みどころ

  本作は宇宙SF映画だが、基本的には俳優ひとり(隣に死体役の俳優がひとり横たわってはいるが)、セットひとつの物語だ。船外に出て修理する場面などもあ るにはあるが、ほとんど船内で救援船の女と会話しているだけ。それだけで、絶対絶命な状況を打開していかなくてはならない。まったく無駄がない。まさに 「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」や「ギルティ」と同じシチュエーションで、最も重要な要素は通信相手の女である。だが、やりとりをしていくうち に女は奥歯にモノの挟まったような話し方をしてくるのが分かるし、主人公も訳も言わないで地球との通信をしきりに求める。徐々にドラマは、この二人のやり とりの妙が中心になってくるのだ。本作は「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」や「ギルティ」がそうであったように、一瞬たりとも観客を飽きさせな い。見るからに低予算でアイディア一発勝負の企画だが、出来上がった映画は結構濃厚なドラマである。ハッキリ言って、CG全盛の今日びどんなスペクタクル 画面やアクションをCGで見せられたところで、それに驚嘆する人間などいない。せいぜい作るのが大変だったんだろうな…というぐらいの感想しかない。しか も、CGだったらその「大変」さすら感じられないかもしれない。有り難みなどないのである。そんな作品よりも、本作の方がよっぽど全編に緊張感がみなぎっ ているのだ。おまけにやれ寒いだの熱いだの船がスピンするだの空気が足らないだの、気圧を増さないと脱出できないだの…とピンチのつるべ打ち。まったく観 客を安心させてくれないのである。正直言って、SF映画は十中八九クズである(笑)。だから僕は本作にまったく期待していなかったのだが、結果的にひどく 感心してしまった。所詮は低予算SF映画と思っていたから、まさかこんな濃い映画になっているとは思わなかったのだ。監督・脚本のカール・ストラシーはこ れが長編デビュー作らしいが、なかなか志が高いではないか。主演のスティーヴン・オッグという役者はテレビ・シリーズ「ウォーキング・デッド」に出ている 人らしいが、ちょっと安っぽいジョシュ・ブローリンみたいにドライな感じで悪くない。ともかく、「拾いもの」でトクしたような気分になる作品だ。

こうすれば

  ただし、問題がない訳でもない。主人公には次々とピンチが襲いかかるのだが、その中には自らの軽卒さで招いたものも少なくない。だから、見ていてちょっと イラッとしてしまう。操縦席の真ん前にあるデカい窓などその最たるもので、救命艇が太陽に向かって進んでいるのだから最初から「用心しろよ」と思ってしまう。 手〜のひらを太陽に〜すかしてみれば〜…とか、いちいち歌わなくたって分かりそうなもんだ(笑)。映画のかなり早い段階で「あれはヤバい」と観客は気づい てしまうので、余計に主人公がアホに思えてしまうのだ。また、救援船の女が船長の死を隠している…ということも、かなり早い段階で観客には分かってしま う。そして、主人公がやたらに地球との通信を求める理由も…あれほどもったいつけて出す必要があるかと思わされる。タネを明かせば「やっぱり家族が大 事」…っていうのも、本作では少々弱い気がする。映画的に主人公がそれを痛感していることを伝えられていないし、そもそもそのテーマ自体が凡庸である。「運び屋」 (2018)のイーストウッドじゃあるまいし(笑)、「またかよ」と思ってしまうのは僕自身が家庭を持っていないからなのだろうか。正直言って「それしか ないの?」と言いたくなってしまう。もったいつけている部分が、いずれも凡庸な「オチ」だからちょっとガッカリさせられるのだ。他はかなりしっかり作ろう としているだけに、ツメの部分の甘さが惜しまれてならないのである。

さいごのひとこと

 俳優ひとり、ワン・セットの映画がジャンル化か?

 

「天国でまた会おう」

 Au revoir la-haut (See You Up There)

Date:2019 / 04 / 15

みるまえ

  この映画については存在をまったく知らなかった。有名なミステリー作家ピエール・ルメートルの小説の映画化…なんてことは、映画を見てから知った。では、 なぜ本作を見に行ったかと言えば、ある知人からの推薦があったから。最近はそんなのばっかりだが、とにかく近頃は僕も事情に疎くなったから仕方がない。特 に知人が僕にこの作品を推薦した理由は、本作にフランスの怪優ニエル・アレストリュプが出ていたからだ。ニエル・アレストリュプ…あるいは、ニルス・アレ ストラップと呼ぶのか、僕とこの俳優の付き合いは意外に長い。ミュウ=ミュウとマリア・シュナイダー主演の「夜よ、さようなら」(1979)でヤクザな絶 倫男を演じて、短い出演時間にも関わらず場面をさらったのが最初の出会い。次はイシュトバーン・サボー監督がグレン・クロースはじめ国際的なキャストで描 いた「ミーティング・ヴィーナス」(1991)でエネルギッシュな指揮者を演じて、グッと注目度が増した。だが、残念ながら彼の出演作はあまり日本に来な い。来ても注目を集めないし、そもそも主演を張らない。ところが近年はいきなり彼の出演作が狂い咲きで、「サラの鍵」(2010)と「戦火の馬」(2011)…で、似たような老人役で出て来た時にはビックリ仰天。ホルモンがムンムンで押し出しがやたらに強かった若い頃と違って、すっかりアクが抜けていい味出しているではないか。さらにフォルカー・シュレンドルフ作品に「パリよ、永遠に」(2014)と「男と女、モントーク岬で」 (2017)の2作連続で起用される活躍ぶり。そんなアレストリュプ好きの僕に、知人が「また出演作が来てるよ」と教えてくれたという訳だ。主演も監督も 知らない名前だが、アレストリュプが出ているから見る価値はある。そんな訳で、公開からかなり経っていたものの劇場に駆けつけた訳だ。当然のことながら、 どんな話かはまったく知らないで見に行った。

ないよう

 1920 年、モロッコ。炎天下の中を一人の中年男が兵士たちに引き立てられ、フランスの憲兵事務所に連行されてくる。手錠をかけられたこの男アルベール(アルベー ル・デュポンテル)は、何やら罪を犯した者らしい。早速、憲兵隊長(アンドレ・マルコン)が尋問を始めるが、アルベールの話は1918年…第一次世界大戦 のドイツ・フランスがにらみ合う塹壕での出来事にさかのぼる…。当時は戦争も停戦間近。だから、誰だってやる気がない。最後の戦死者になりたい奴なんてい ない。ドイツ軍だってそうだ。だが、この場の指揮を執っている中尉のプラデル(ローラン・ラフィット)だけは違った。根っからの戦争好き。だから本部から 伝令の犬がやって来て、「即時停戦」のメッセージが伝えられても、この男はそれを握りつぶす。それどころか、若い兵士二人を「偵察」と称して真っ昼間にわ ざわざ前線に行かせる。そんな状況に、ホトホト嫌気がさしていた一兵卒のアルベール。たまたま塹壕に居合わせたエドゥアール(ナウエル・ペレーズ・ビスカ ヤート)は、その場でサラサラッとプラデルをネタにマンガを描いて溜飲を下げていた。間もなく塹壕の外で銃声が聞こえて、案の定、戦場のど真ん中に二人の 兵士が横たわっている。たちまち砲弾や銃弾が飛び交う戦闘状態が再開。意気揚々とし始めたプラデルは、全軍に突撃命令だ。たちまちみんなで銃を持って戦場 へ。だが、みんな途中で銃弾の餌食になってバタバタと倒れていく。そんな折りもおり、たまたま「偵察」に行かされた二人の遺体に駆け寄ったアルベールは、 それが背中から撃たれていることに気づく。背中…すなわち「友軍」側から撃たれたのだ。その時、アルベールはたまたまプラデルと目が合った。マズいと思っ たのか、アルベールに近づいてくるプラデル。だが、次の瞬間に砲弾が近くで炸裂。アルベールは崩れ落ちた穴の中に落ち込んでしまう。そのまま穴の中に生き 埋めになって、あわや窒息死…という時に、たまたま一緒に埋まった馬の遺体の口から空気を吸えたから死なずに済んだ。さらに埋まっていたアルベールを、あ のエドゥアールが掘り出してくれたから助かった。…と、思ったらまたまた砲弾炸裂。今度はエドゥアールが吹っ飛んだ。これはかなりの深手を負ったようだ。 慌ててアルベールは衛生兵を呼ぶ。戦闘が一段落して、担架で運ばれるエドゥアールに付きそうアルベール。だが、その負傷の度合いは深刻だった。顔の下半 分、アゴがなくなってしまったのだ。野戦病院で血だらけで苦しむエドゥアールに、見かねたアルベールはモルヒネをくすねてくる。中毒になると聞かされて も、そうせざるを得ないほどのアリサマだった。やがて痛みが落ち着いたものの、その場にある金属のお盆で自らのキズを見て、またまた衝撃を受けるエドゥ アール。その苦しみを和らげるためには、またしてもモルヒネの力を借りるしかなかった。モルヒネで混濁した意識の中、エドゥアールの脳裏をよぎるのは子供 時代からの思い出。富豪の御曹司だったエドゥアールは子供の頃から絵が好きで才能を開花させていたが、銀行の総裁である父マルセル(ニエル・アレストリュ プ)は厳格な男でそんなエドゥアールを理解しようとしない。そんな父親なのに、いまやこんなカラダになってしまった自分が家に戻って来たら…。考えるだけ で耐え難いと思ったエドゥアールは、アルベールに「家に帰りたくない」と懇願。それを知ったアルベールは、野戦病院の戦死兵のリストを探し出して、身寄り のなさそうな男とエドゥアールの名前をすり替えてしまう。こうしてエドゥアールは戦死したこととなり、その本人は別の野戦病院へと転院。アルベールはひと まず彼と別れることになった。ところが復員兵として駅に到着したアルベールは、何とも間の悪いことにあのプラデルに捕まってしまう。どんな目に遭わされる か…とヒヤヒヤしていると、何とプラデルはあのエドゥアールの姉マドレーヌ(エミリー・ドゥケンヌ)を連れて来るではないか。マドレーヌは弟の墓を見たい と、はるばる遠くからやって来たのだった。もちろんプラデルは事情を薄々感づいているから、アルベールにどこかの墓を見つけて連れて行けとニヤ笑い。とも かくマドレーヌを墓地まで連れて行き、どこかの無縁仏の墓を「それ」と偽った。ここで、アルベールもプラデルも縁が切れた…はずだった。その後、アルベー ルは元の経理の仕事に戻ろうにも思うに任せず、エレベーター係としてしがない貧乏暮らしをすることになる。かつての婚約者も別の男のもとへと去った。結 局、アルベールはエドゥアールを引き取って汚いアパートで一緒に暮らすことにする。だが、エドゥアールがモルヒネを手放すことが出来ないカラダになったた め、傷痍軍人を騙して国から支給されるモルヒネを奪い取るアコギなマネをする羽目になる。だが、エドゥアールのために絵の道具をそろえてみても、肝心の本 人はまるで生きる張り合いを失っていた。ところがある日、二人のアパートに出入りしている孤児のルイーズ(エロイーズ・バルステール)がふさぎ込むエドゥ アールの心を開いた。こうして、ルイーズもアルベールやエドゥアールと共に行動するようになったのである。そんなある日、やけにイキイキしてきたエドゥ アールがアルベールに何か言いたいことがあるという。言葉が不自由なエドゥアールがルイーズの代弁によって見せたのは、まるでベニスのカーニバルで着用す るような凝った仮面。エドゥアールの絵心が十二分に活かされた仮面を見たアルベールは、彼がまた生きる意欲を取り戻して来たことを素直に喜ぶ。だが、エ ドゥアールからはもうひとつの提案があった。彼の絵心を活かしての新商売を考えているというのだ。戦後、あちこちで戦死者を追悼する記念碑が作られつつあ る。これに目をつけて、エドゥアールのデザインによる記念碑建設の提案を売り込もうというのだ。だが、これにアルベールは当惑する。新商売をするには資本 が要る。デザインを売り込んでも、記念碑を作るためのカネもノウハウもない。だが、「心配ない」とエドゥアールに代わってルイーズがご機嫌で語った。「作 る必要はないの、ただ売るだけ。お金をもらったら、後はトンズラよ!」…。

みたあと
  前述したように、本作はただニエル・アレストリュプのみが目当てで見に行った映画である。だから、本作の監督も他の出演者もまったく知らないまま映画を見 た。見終わった後で主演者の片方が監督・脚本も手がけていると知ったのだが、その男アルベール・デュポンテルのこともまったく知らなかった。ところが僕 は、この人物の映画を結構見ているのだ。他の監督作こそ見ていないが、ジャン=ピエール・ジュネの「ロング・エンゲージメント」(2004)や犯罪アクション映画の隠れた快作「ブルー・レクイエム」(2004)、セドリック・クラピッシュの群像ドラマ「PARIS/パリ」(2008)…しかし、これらの映画でどんな役を演じていたかと聞かれたら、まったく答えられない。印象に残っていない。だが、たったひとつだけ強烈に覚えている映画がある。それはあのギャスパー・ノエの怪作「アレックス」 (2002)。知的でおとなしく見えていた人物が、いきなりキレて男の顔を消火器でガンガン殴りつけてぶっ潰してしまう…あの衝撃的な役を演じていたのが このデュポンテルである。本当に顔が変形してつぶれていくまで、執拗に叩き続けるのだから驚いた。あのキレっぷりは只者ではない。さすがに今回はブチギレ 演技は見せないが、その才能の一端は見せつけてくれた。失礼ながら僕としてはまったくノーマークなこの人物が、イマドキ珍しいスケールのでっかいグランド ロマン的な物語を作っているから驚いたのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  前述したように本作の監督・主演を勤めたアルベール・デュポンテルはジャン=ピエール・ジュネの「ロング・エンゲージメント」にも出演しているようだが、 面白いことに本作は第一次大戦下の最前線の塹壕から始まる…という点で、この「ロング・エンゲージメント」と共通する要素を持っている。そして、「ロン グ・エンゲージメント」がグランドロマン的物語だったのと同じように、本作もまたスケールでっかく物語が展開していく。この、こってりとした物語性で話を 引っ張って行くという作り方が、イマドキ珍しい。いわゆる「岩窟王」とか「レ・ミゼラブル」とか、あの手の物語なのだ。あるいは仮面が出てくることから 「オペラ座の怪人」あたりも引き合いに出したくなる。適度なグロ感や復讐話といった趣向が、これらのドラマと共通するような味わいなのである。こういうス ケールのデカい因果話というのは、フランス伝統のものなのだろうか。ゾッとさせながらロマンチックなグロ仮面男ってジャンル(笑)もまた、フランスならで はと思わされる。劇中、エドゥアールがさまざま仮面をとっかえひっかえつけてくる楽しさ。しかも、それぞれの仮面に意味がある。仮面の口の部分を上げたり 下げたりして、エドゥアールの心理を表現するあたりも面白い。仮面劇の趣もあるから、より楽しめるのである。このエドゥアールみたいなキャラクターは、ア メリカだとたぶんバットマンとかスパイダーマンとかの悪役にしかならないだろう。まさにフランスならでは…のキャラなのである。そして、こうしたフランス 伝統のこってりドラマを現代に復活させたあたりが、僕らとしては見ていて嬉しい。まずはそこを最大限評価したい。本作では細かいところに気配りがあって、 悪役が最後を遂げる場面では主人公はなぜか馬ヅラ仮面を持参していて、悪役が生き埋めになる時に冥土の土産にさりげなく一緒に埋めてやるのだ…単に偶然で そうなっちゃうのだが(笑)。主人公が生き埋めになった時も馬がお供だったから、あれは主人公の「武士の情け」だったのか。しかも、悪党は結果的に死ぬこ とになるが主人公は手を汚してない…という点が、何とも心憎い演出である。仮面男エドゥアールの最後も気が利いていて、ちゃんと父親との和解を果たしての 「飛翔」。本人が鳥の仮面をかぶっているという念の入れようである。文字通り昇華していくような飛翔感があって、見ていて爽やかなカタルシスを感じる好場 面だった。あれはハッピーエンドなのだ。映画のラストも主人公に対する粋な計らいがあって、見ていてとても嬉しくなった。最近こういう心遣いのある映画が 少なくなったから、余計に嬉しいのである。こんなこってりしたドラマを構築できたアルベール・デュポンテルにはビックリ仰天。まったく期待していなかった から、これは嬉しい誤算だった。そしてごひいきのニエル・アレストリュプも、何とも食えないジジイぶりがピッタリ。だからこそ、息子との和解シーンがじ〜 んと来る。ともかく、ちゃんと風呂敷の結び目を最後までキチッと結んでるような、端正な作りを感じさせる映画である。アルベール・デュポンテルの次回作に 期待したい。

さいごのひとこと

 マスクマンはマーベルやDCの専売特許じゃない。

 

「記者たち/衝撃と畏怖の真実」

 Shock and Awe

Date:2019 / 04 / 08

みるまえ

 昨年、「LBJ/ケネディの意志を継いだ男」 (2016)を見た時の驚きは、記憶に新しい。かつてロブ・ライナーといえば、ハリウッドきってのヒットメイカーだった。毎度毎度繰り返しちゃうけど、最 初に彼の作品を見た「シュア・シング」(1985)の青春映画としての素晴らしさは、今でも忘れることができない。以来、「プリンセス・ブライド・ストー リー」(1987)、「恋人たちの予感」(1989)、「ミザリー」(1990)…とジャンルを縦横無尽に超越してヒット作を量産。なぜか彼の作品では最 も世評が高い「スタンド・バイ・ミー」(1986)だけは僕にはピンと来なかったが、それ以外の作品は僕もみんな気に入っていた。今世紀に入ってからはイ マイチな作品が続いたものの、「最高の人生の見つけ方」 (2007)で復活。だが、その後はなぜか作品を見ることができず、久々に見たのが前述の「LBJ」という訳だ。彼にしては珍しい政治ドラマ、しかも実 話。何となくイヤな予感がしたが、これが意外な良作。健在ぶりを確認できて、僕はとても嬉しかった。しかも、すでにこの時には次の作品がアメリカでは公開 されていて、またしても政治ネタ、またしてもウディ・ハレルソン主演だというではないか。これには大いに期待した。だから、本作は僕にとって待望の作品と いうことになる。だが、邦題を見て愕然。まるで売ろうという気合いが感じられない。大丈夫なのか。そんな一抹の不安を抱きながら、僕は劇場へと駆け込ん だ。

ないよう

 2006 年のこと、上院傷痍軍人公聴会に礼服を着た車椅子の青年軍人が現れる。彼の名はアダム・グリーン(ルーク・テニー)。議長は彼にウッカリ「起立して片手を 挙げて宣誓」を求めるが、すぐに自らの非礼を詫びた。アダムはフトコロから取り出した原稿を読み始めるが、すぐに読むのを止めた。自分の言葉で語りたいと いうのだ。彼はイラク戦争で派兵され、爆撃で脊髄を損傷したという。「今日は僕の証言を聞きたいとのことですが、その前に僕からも質問があります。なぜ、 あの戦争を始めたのですか?」…。話は、2001年9月11日にさかのぼる。ゲリラらしき男に、記者たちが銃を突きつけられて連行されている。中でも後ろ 手に縛られた記者は、特に目をつけられて小突き回されていた。「オマエはどこの記者だ?」「ナイトリッダーだ」「何だそりゃ?」…このやりとりで機嫌を損 ねたか、ゲリラは記者に銃口を突きつけられた。「そこまで!」…この一連のやりとりは、軍が前線に派遣される記者たちのために行っている訓練のひとコマ。 だが、突然その場にいた記者たちのケータイが一斉に着信音を鳴らせ始めた。これは只事ではない。後ろ手に縛られていた記者も、その場のゲリラ役の男に「早 く手を自由にしてくれ!」と訴える。この記者の名はジョナサン・ランデー(ウディ・ハレルソン)。彼がケータイを見ると、メールがとんでもない知らせを伝 えていた。「ツインタワー・ビルに旅客機が突っ込んだ!」…。その頃、街のバーにやって来たオーナーのグリーン(テレンス・ローズモア)は、店の手伝いを してそのまま店内で眠っていた息子のアダムを起こす。「昨夜の客が遅くまで居座ってたんで」…と言い訳するアダムだったが、グリーンは黙って店のテレビを つけた。すると、そこには崩れ落ちるツインタワー・ビルの映像が写し出されるではないか。「今夜、兵隊さんは店のおごりだ」とグリーンは告げた…。襲われ たのはツインタワーだけでなく、ペンタゴンからも火の手が上がる。むろん、ニュース配信会社の「ナイトリッダー」社ワシントン支局も、この一連の事件に騒 然としていた。社員はホワイトハウスに異変が起きないかと窓にかじりついていたし、妻子を心配して帰宅したがっている者もいた。支局長のジョン・ウォル コット(ロブ・ライナー)も、「窓の近くは危ないぞ」と動揺する社員に伝えるのがやっと。やがて、オサマ・ビンラディン率いるテロ組織アルカイダが一連の 犯行に及んだとされたが、そのあたりからワシントンの政界はにわかにキナ臭い雰囲気が漂い出す。ウォルコットの指示で、記者のランデーとウオーレンス・ス トロベル(ジェームズ・マースデン)が取材を開始する中、なぜかアメリカ政府がビンラディンが潜伏するイラクだけでなく、イラクへの攻撃を考えていること が漏れ聞こえて来たのだ。イラク?…なぜイラクなのだ? ランデーとストロベルは政府関係者たちに次々コンタクトをとって嗅ぎ回るが、なぜイラクが浮上し て来たのかが分からない。そのうち彼らは、政府が「イラクが黒幕である」と思っている訳でなく、「黒幕ということでイラクを叩きたい」のではないかと疑い 出す。そのうち「ある関係筋」の女性(グレッチェン・コーナー)が内部告発したいと申し出て来たのだ。ランデーとストロベルが取材に駆けつけると、彼女は 「ペンタゴン」の人間だった。「政府のウソが我慢できないの。彼らはウソの情報を基に戦争しようとしている!」…。

みたあと
  この後、ナイトリッダーはイラクに大量破壊兵器がない可能性を暴き立てるが、アメリカの他のメディアは政府の主張をそのまま報じて、ご存知の通りイラク戦 争に突入。ナイトリッダーは勲章までもらったベテラン記者を投入するが、国内世論の中でどんどん孤立していく。当時、日本では普通に「イラクに大量破壊兵 器なんてないんじゃないか?」と言われていたような気がするが、アメリカ国内では思っていた以上にそれを言えない空気があったのだろうか。ニューヨーク・ タイムズやワシントン・ポストといった、他の映画では「正義の味方」みたいに描かれる新聞でも、みんなそんな調子だったのかと唖然とさせられる。それどこ ろか、イラクへの攻撃に際してオバマ政権の副大統領だったバイデンやらヒラリー・クリントンまでが賛成していたとは、さすがに驚いた。自分はかくもあちら の事情に疎かったのか…と、改めて呆然とするばかりである。そんな感じで、自分がちゃんと知っていなかったことを知らせてくれるという意味では、本作を見 た意味は十分にあったかもしれない。あと、本作に出てくる「ナイトリッダー」社というニュース配信会社は傘下にある地方新聞にニュースを流す会社のよう で、イメージとしては日本の共同通信みたいな会社のようだ。ただ、気になるのは…本作の評価をいろいろ調べてみると、みんな「記者たちの勇気」だとか「報 道の大切さ」なんてことはベタほめしているのだが、それってどう考えても「映画の評価」ではない。ロブ・ライナーの新作映画としての本作の評価は、ないに 等しいのである。確かに本作は政治映画であり、明らかなメッセージ映画である。だからメッセージさえ発信できれば、作り手としてはそれでいいのかもしれな い。だが、もし政治メッセージ映画を作るならば、どんなメッセージでも無関心層や反対思想の人々に届かなきゃ空しいし、説得できなきゃわざわざ映画にする 意味がない。そうでなけりゃ、内輪のお仲間の中だけで「そうだそうだ」と自己満足しているだけである。ならば、そこでどんな立派なことが語られていたとし ても、映画としての出来の良さこそが重要ではないか。それでは、本作は果たして面白い映画としてうまく出来ているのだろうか?

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 まず、最初に言っておかねばなるまい。正直に言うと、本作は映画としてはあまりうまく出来ていない。本作と近いイメージの作品を挙げるとすると、ロバート・レッドフォードが対テロ戦争を批判した監督作「大いなる陰謀」 (2007)が一番近いだろうか。さすがにロブ・ライナーはドラマづくりに一日の長があるから、レッドフォード作品より面白く作ってはいる。だが、いかん せん…あの冒頭から出てくる傷痍軍人のエピソードはマズいと思う。メッセージがむき出し過ぎて、生硬なテーマが観客に押し付けられてくるように感じられる のだ。まるで「良心的なテーマの韓国映画」みたいな野暮臭い感じ。その意味で、前述の「大いなる陰謀」でのマイケル・ペーニャたちの志願兵のエピソードと まったく同じである。このエピソードさえ入れなければ、おそらくかなりマシな映画にはなっただろうと思われる。ただ、それを抜きにしても映画としてうまく 出来ていないのだ。人々の素直な疑念みたいなものを、主要登場人物…支局長のウォルコット(ロブ・ライナー)、記者のランデー(ウディ・ハレルソン)とス トロベル(ジェームズ・マースデン)の妻や恋人に言わせるあたりが、いささか露骨で図式的で作り物めいている。全部、妻や恋人とのやりとりの中でそれが出 てくる…という配置の仕方が、どうもステレオタイプに見えてしまうのだ。ランデーの妻ヴァラトカ(ミラ・ジョボビッチ)がキレまくったり、ストロベルと付 き合い始めたリサ(ジェシカ・ビール)が一夜漬けで勉強したイラク問題を滔々と語り出すあたりがそもそもわざとらしく見える。実話でそうなっているから仕 方がない…という問題ではない。観客側にそう見えてしまうという点が問題なのだ。同じように、劇中の中盤あたりでロブ・ライナーのウォルコットが大演説を ぶつあたりまで、わざとらしく見えてしまう。これはライナーの演出に問題があるのかもしれない。ライナーはどんなジャンルでも面白く語れる監督だが、その ドラマトゥルギーはいまや懐かしい良質なアメリカ映画の「それ」だから、前作「LBJ」を撮るぶんには良かったのかもしれない。だが、まだ湯気を立ててる ようなアクチュアルなテーマを扱うと、どうしてもヌルく感じられてしまうのかもしれないのだ。「面白く」撮ってしまうことで、お話自体が作りごとめいて見 えてしまうのである。残念ながら、今回はライナーがなまじ「うまい語り口」の映画作家であるということが仇となったのかもしれない。

みどころ

  ただし、本作は悪い点ばかりではない。ウディ・ハレルソン、ジェームズ・マースデン、トミー・リー・ジョーンズ、ミラ・ジョボビッチ、ジェシカ・ビール… とキャスティングが非常に豪華だが、彼らの捌き方は実にうまいのだ。特に感心したのはミラ・ジョボビッチとジェシカ・ビールの女優陣で、本作では二人とも 何ともチャーミング! 僕は彼女たちをこんなに素敵に撮った映画を、他に見たことがない。それまでは、僕は彼女たちを大して魅力的だとも思っていなかっ た。それが、ストーリーの本筋に関わる人物でもないのに、ひどく素敵に見えるのである。これはやはり演出の力だろう。その意味で、やはりライナーは良くも 悪くもウェルメイドなドラマの作家なのだと思わざるを得ないのである。

さいごのひとこと

 邦題はいくら何でも投げやり過ぎだろ。

 

「シンプル・フェイバー」

 A Simple Favor

Date:2019 / 04 / 08

みるまえ

 本作も、見る映画をネットで調べている時に知った。アナ・ケンドリック主演で、突然失踪したママ友のナゾを調べるミステリーものらしい。それだけなら「サーチ」(2018)とか「ゴーン・ガール」(2014)みたいな映画みたいな気もするが、何しろ主演はアナ・ケンドリックである。彼女を有名にした「ピッチ・パーフェクト」(2012)こそ見ていないが、「マイレージ、マイライフ」(2009)で初めて見た時からごひいきの彼女だから、本作だって何かやってくれるはず。おまけに、「ハッピーボイス・キラー」(2015)や「バッド・バディ!私とカレの暗殺デート」(2015)、「ザ・コンサルタント」 (2016)など、彼女の出演作はどこか変な映画が多い(笑)。本作もユニークな作品に仕上がっているのではないか? 共演のブレイク・ライブリーについ ては、恥ずかしながら僕はその名前以外まったく知らない。作品を見た覚えがない。テレビにでも出ているのかゴシップで有名なのか(笑)、そんな印象しかな い。だが、僕は本作は「買い」と見た。そんな訳で、他にたくさんある話題作を横目に映画館に駆け込んだ。

ないよう

  主婦ステファニー(アナ・ケンドリック)のブログは、お料理や家事の知恵をお伝えするささやかなものだが、ここ最近はちょっと趣を異にしていた。それはブ ログ内のムービーで、ステファニー自身が語っている。「今、心配なのは失踪したエミリーのこと。みなさんも心配よね?」…果たしてエミリーとは誰か? エ ミリーに何が起こったのか? その発端は、今からしばらく前のある雨の日にさかのぼる。ステファニーが小学校に息子マイルズ(ジョシュア・サティーン)を 迎えに行くと、マイルズはこれまたママのお迎えを待っているニッキー(イアン・ホー)とツルんで大騒ぎ。そんなところに、そのニッキーのママであるエミ リー(ブレイク・ライブリー)がやって来た。いかにも高級車から颯爽と現れるエミリー。仕立ての良さそうな服を着てゴージャス感漂う彼女は、雨露を避ける ように慌てて駆け寄って来てもファッショナブル。学校のママ友仲間の中でも目を惹く存在だった。そんなエミリーについつい見惚れるステファニーだったが、 ここで会ったが百年目。本来ならカマトト感溢れる主婦のステファニーとクールなキャリアウーマンのエミリーでは住む世界が違うのだが、運命のいたずらが二 人を引き寄せた。息子二人がまだ一緒に遊びたがっていることもあり、ステファニーはエミリーの豪邸にお邪魔することに。そこは、フレンチポップス流れる生 活感ゼロのシャレオツな邸宅だ。そこでは歳の割にブリブリな出で立ちのステファニーは浮きまくっているのだが、なぜかエミリーはそんな彼女を面白がって親 しく話しかける。旦那のショーン(ヘンリー・ゴールディング)はかつてはベストセラー作家だったが、今じゃ書けなくなっているなんてブッチャケ話までして くるに至っては、場違い感たっぷりだったステファニーも何となくエミリーに「ママ友」感を抱くようになっても不思議ではない。ステファニーもステファニー で、そのうち酒の力を借りてお互いの「秘密」を打ち明け合おうという話になり、エミリーは早速、旦那ショーンとそのアシスタントを交えて3Pセックスをい たしたことを語る。そうなると今更引っ込みがつかなくなったステファニーは、自分のとっておきの話をする羽目になる。父親の葬儀の後、やって来た兄に惹か れて寝てしまった話だ。それを聞いたエミリーは「ブラザーファッカー!」とからかう。だが、これで二人の間の垣根が一気になくなったように思えたのも確か だ。他の「ママ友」が関わることができないセレブのエミリーと、ごくごく親しくなれる優越感。そんなステファニーがエミリーから電話を受けて、「ちょっと した頼み」を聞かされたら、引き受けない訳がない。彼女の頼みは、息子を小学校に迎えに行ってくれというもの。彼女は仕事で旦那ショーンもロンドンにいる ため、ステファニーしか頼める人がいないというのだ。これには大いに意気に感じるステファニー。こうしてエミリーの息子ニッキーを連れ帰って来たステファ ニーだが、エミリーはいくら待てど暮らせど現れない。さすがに夜になっても帰らないエミリーに、ステファニーは尋常ではないものを感じ始める。翌日、ロン ドンのショーンに連絡したステファニーは、この異常事態を知らせる。慌てて帰国したショーンは、警察にエミリーの失踪を連絡した。だが、警察がアテになる とは思えない。「マブダチ」エミリーの危機を救えるのは自分しかいないと思い詰めたステファニーは、彼女の仕事場に潜入。そこで、彼女の写真が印刷された 奇妙な紙切れを見つける。エミリーは何かの事件に巻き込まれたのではないか? こうなると、もうステファニーは止まらない。得意のブログで事件についての 呼びかけを行い、読者からの情報を募る。すると、ミシガン州で彼女を見かけた…との目撃情報が届くではないか。こうなったら自分たちで直接現地に行こう… と、ステファニーがショーンと話し合っていたちょうどその時、警察から連絡が入って来た。「ミシガン州の湖で、エミリーらしき女の遺体が発見された」 と…。
ここからは映画を見てから!

みたあと
  ここまでがお話としては真ん中あたりで、警察は湖の遺体をエミリーのものと断定。ところが…という展開になる。あとは二転三転…というお話だ。そんな本作 の冒頭は、カラフルでスタイリッシュな映像に懐かしのフレンチ・ポップス…というシャレオツな趣向。そもそもアメリカ映画でフレンチ・ポップスという時点 で非常にマニアックなテイストである。それと同時に、冒頭から本作がどう考えても深刻で重い映画にはなりっこないことが分かる。案の定、本作は冒頭から ちょっとオシャレで…なおかつ、ちょっとひねったユーモア漂う作品になっているのである。

みどころ

  冒頭だけでなく、本作はあちこちに懐かしのフレンチ・ポップスを配置。アメリカの郊外の住宅街でフレンチ・ポップス…と考えれば、これが単なるオシャレ感 だけでなく少々鼻持ちならない気取り…を意味するということも薄っすら見えてくる。もちろん、これはヒロインの片方…ブレイク・ライブリー演じるセレブな エミリーのキャラクターを象徴した使われ方…ということは、早々に想像がつく。だが、先にも述べたようにアメリカ人がフレンチ・ポップス…というのは、身 の丈を少々ハミ出した憧れと背伸び感もある。だから、ちょっと野暮てんでウブっぽいカマトト主婦である、アナ・ケンドリック扮するステファニーのキャラク ターもそこに投影されていると考えるべきだろう。ついでに言えば、わざわざアメリカ映画でフレンチ・ポップス…それも懐かしの…を流すということから、本 作はジョルジュ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」(1955)やらジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「悪魔のようなあなた」(1967)のような、 「悪女」もののフランス製サスペンス映画的なお話であることを宣言している。しかも、場違いなアメリカでフレンチ・ポップスを流すという「こっけい」さか ら、本作の意地悪なユーモアをも感じさせるのである。冒頭から、いきなりの高等戦術である。先にも述べたように、本作はフランス「悪女」もの映画でいく… と最初から宣言している訳だが、それはもちろんブレイク・ライブリー演じるエミリーのことを指しているのは間違いない。そもそも「事件」はすべてエミリー の企みによって起きている。その出自も含めて、札付きの悪女であることは間違いない。ステファニーはエミリーによって、その善意を利用されてしまう。生来 のお人好しでウブっぽい性格を見透かされて「ちょっとした頼み」を聞かされたあげく、知らず知らずのうちに犯行の片棒を担がされてしまうのである。だが、 そのステファニーも単に「お人好しでウブ」なのか…と言えば、実は少々怪しくなってくる。そもそもステファニーのキャラは、この郊外の住宅街でもいささか 「過剰」にお人好しでウブに見える。そして、エミリーが行方不明になってからというもの、そのお人好しがさらに「過剰」に暴走。自らのブログで、エミリー の個人情報をお構いなしにまき散らして情報提供を呼びかける。そこまでなら…まぁ分からないでもない。だが、エミリーが「死んだ」となってからは、ますま す歯止めが効かない。亡きエミリーの旦那や子供のために…との大義名分を錦の御旗に、彼女のセレブな屋敷にドッカリ居座る。おまけに、彼女の旦那や素敵な 服を手中に収めることにためらいがない。単に「お人好しでウブ」に見えていたステファニーが、実は自らの欲望にかなり忠実な人間だった…という一面が見え てくるのだ。だから、セレブな旦那と屋敷や衣装が転がり込んでくる…となれば、まったく悪びれることなく受け入れる。そもそも彼女は兄と良からぬ関係に陥 ることを止められないような女で、そのせいで結果的に自分の亭主と兄を死に追いやるような人間である。当初から彼女は、モラルのハードルが極めて低い人間 なのだ。結果的にステファニーは「善意」の顔を片時も消さないまま(そしておそらく自らの「善意」をまったく疑わないまま)、エミリーをその居場所から追 い出して自分が成り代わってしまう。やり方はともかく他人が汗水垂らして築き上げたセレブなポジションを、大した苦労もせずに奪い取ってしまって何ら罪悪 感を感じない。こうなると、「悪女」は一体誰だったのか…ということになるのだろう。本作は二転三転するお話の面白さもさることながら、ブラック・ユーモ ア風味の高さも含めて、サスペンスよりキャラクターの妙を楽しむ映画でもある。監督ポール・フェイグは例のキャストを女性に変えてリメイクした「ゴースト バスターズ」(2016)を作った御仁。当然、女にオベンチャラ使ってるような小賢しい男なんだろうとタカをくくっていたが、どうもかなり意地悪い奴のよ うである(笑)。単に「女はコワい」的な映画と見えて、実は「善意」溢れる人間ほどタチの悪いものはない…と暴き立てている。主演二人はいずれもハマって いて、ブレイク・ライブリーはセレブな悪女を適役好演。だが、さらに一枚上手なのがアナ・ケンドリックで…やっぱり彼女の出てる映画っていつもどこか変 で、その中でも彼女っていつもどこか「過剰」な役どころだったよなぁ…と妙に納得。共感できる人物が一人も出て来ないという意味でも、ポール・フェイグと いう男の腹黒さがよく分かる(笑)。こいつって「女性の理解者」みたいな顔して、実は女を心底キライなんじゃないの? オレにはそうとしか思えないな。

さいごのひとこと

 大体が清純派と言われる女にはロクな奴がいない。

 

「運び屋」

 The Mule

Date:2019 / 04 / 08

みるまえ

  クリント・イーストウッド、御年89歳だそうである。その監督主演最新作がまたまたやってくるとは、さすがに予想してはいなかった。監督作はほぼ毎年のよ うに作られていて、昨年も「15時17分、パリ行き」(2018)が公開されるなど、専任の監督としても異常なハイペースで精力的な活動ぶりである。だ が、さすがに俳優としてはキツいのか、これまでで最後の出演作は「人生の特等席」(2012)。その時だって、もう映画には出ないのかと思っていたので ビックリしたものだ。それと言うのも、「人生の特等席」の前の出演作「グラン・トリノ」 (2008)があまりに「遺作」めいていたから。この「グラン・トリノ」は今回と同じく監督・主演兼任で、お話も人生の終焉を感じさせる内容だったので 「遺書」めいて解釈されもした。映画としても味わい深い、素晴らしい出来映えだったと記憶している。実際、僕なんか「グラン・トリノ」で「もう最後なんだ な」と思っていたから、ウッカリ「人生の特等席」に出ていることを忘れていたくらいだ。それにしても、「遺書」とまで言われた「グラン・トリノ」の後に、 単なる雇われ俳優ではなく監督兼任の主演作として本作を撮ったとあれば、そこに込められた特別な「何か」を期待しない者はいないだろう。まことに不謹慎な がら、ポール・マッカートニーの来日じゃないが「今度こそ最後かも」…と足を運ぶ者だって少なくないはずだ。今回のお話は、ちょっとした偶然で麻薬の運び 屋をやることになってしまった老人のお話。イーストウッド主演にしては珍しい「実話」の映画化とのことだが、どう考えても主役はイーストウッドそのものに なっちゃっているだろうことは想像に難くない。「許されざる者」(1992)以降、ウディ・アレン映画みたいに豪華キャスト化したイーストウッド映画だ が、本作も彼の周囲をブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、アンディ・ガルシア、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト…とオール スターで固める鉄壁の布陣である。これが楽しみじゃないと言えばウソになる。僕は「グラン・トリノ」で味わった充足感を再び楽しむことを期待して、イソイ ソと劇場に向かったのだった。

ないよう

 2005年のこと、自らの農場を経営するアール(クリント・イーストウッド)は、ひたすら高級品種の「デイリリー」というユリの花を作っていた。昔なが らのメキシコ人の使用人たちともズケズケひどい言葉で話しかけるツーカーな仲。その日はピックアップトラックにとっておきの「デイリリー」を積んで、おめ かしして花の品評会へとお出かけ。もちろんその会場ではアールはかなりの「顔」で、あちこちでチヤホヤ。新顔の奴がインターネットでの花の販売を宣伝して いたが、「ロクなもんじゃない」と顔をしかめて通り過ぎる。何しろアールは「本格派」だ。その日も品評会で1位を受賞。周囲の喝采を浴びる。だがその時、 アールはちょっと間の悪いことに気がついた。その日はアールの娘アイリス(アリソン・イーストウッド)の結婚式の日。母のメアリー(ダイアン・ウィース ト)は慣れっこになっていて、「どうせ待っても無駄」と忠告していたのだが、アイリスは最後の最後まで花嫁衣装で待っていたのだ。だが、待っていただけに 失望は大きかった。泣きじゃくるアイリスに、メアリーは返す言葉もない…。それから干支ひとつ回った2017年、天罰てきめんとでも言うべきか、アールは 今まさに自慢の農場を畳むところ。あれ以降のインターネット販売の躍進を読めなかった、自らの先見の明のなさを嘆いても仕方ない。自宅も農園も差し押さえ られ、アールは一人さびしくオンボロのピックアップトラックでその場を去らなくてはならなかった。それからしばらくして、アイリスの家にひょっこりアール が顔を出す。この日は孫娘ジニー(タイッサ・ファーミガ)の誕生日。ジニーはこの家の中で唯一残ったアールの味方だ。彼女はアールが誕生日パーティーに来 てくれた…と大喜びだ。だが、その後がいけない。ちょうど帰って来たメアリーとアイリスと鉢合わせして、たちまちクソミソに罵倒されるアール。確かに言わ れても仕方がない。結局、這々の体でオンボロのピックアップトラックに乗って退散…という時に、パーティーから抜け出して来た男がひとり。何を思ったかこ の男、アールのオンボロトラックに目をつけた。ションボリとクルマに乗り込もうとするアールに声をかけたこの男は、彼が無事故無違反だと知って目を輝かせ る。「ちょっとした稼ぎができる」と男が持ちかけたのは、クルマを使った「荷物運び」の仕事。どうせ商売もなくなった、行く場所もない、カネもない…と三 拍子揃ったアールだ。呼ばれりゃ行くよ…ぐらいの気軽な気持ちで「仕事先」に連絡をとった。そんな訳で指定された自動車修理屋へとクルマでやって来たアー ルだが、彼を迎え入れたのはどう見ても物騒な風体の男たちだった…。

みたあと
  本作は「実話」が元ネタとのことだが、見る前の予想以上にイーストウッドにアテ書きしたかのような脚本であった。どう考えても、イーストウッドの人生がそ こにダブってくるお話である。となると、どうしたって「グラン・トリノ」の姉妹編…的な感じに見られるのは仕方ないだろう。僕も「グラン・トリノ」には感 銘を受けたクチなので、本作にもかなり期待した。おまけに、ブラッドリー・クーパー以下の豪華キャストだ。これはなかなかの作品…と期待が膨らむばかり。 では、実際に見た作品の出来映えはどうだったのか。面白いことは面白い…だが、「グラン・トリノ」とは狙いが同じように見えて、かなり趣が異なる作品に仕 上がっていたのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  案の定、世間の本作への評価は大絶賛である。「さすがイーストウッド」「味がある」みたいな大好評。まぁ、確かに楽しませてはくれる。まずはもうすぐ90 になろうという主人公が、いかにもヤバい連中に臆せず渡り合って、いつの間にか連中の中に溶け込んでいるのが笑える。明らかに危ない連中なのに、男同士の いい感じのやりとりをするようになっていくのである。これはハッキリ言って、花なんか作っていた普通の老人のやることじゃない。元ダーティ・ハリーだから 出来る話なのだ(笑)。この爺さんが組織から新たに派遣されてきたコワモテなアンチャンにもまったく動じず、マイペースで鼻歌まじりに「運び屋」稼業を続 け、それを監視するはずの連中まですっかり爺さんのペースに巻き込まれているあたりは見ていて痛快。ユル〜い笑いが漂っていてスッカリ楽しくなってしま う。しかも前述のごとく、かなりの豪華キャストである。それらのスターたちが、いずれも気持ち良さそうに演じているのも魅力だ。それだけでも娯楽映画とし ては及第点だろう。

こうすれば

  しかしながら、それだからといって素晴らしく優れた作品か…といえば、かなり疑問が残る。まずは先に挙げた「豪華キャスト」にしても、出てくるスターたち があまりにも「いかにも」なキャスティングをされているのが気になる。というか、「いかにも」過ぎる。何しろローレンス・フィッシュバーンが麻薬取締局の 主任、アンディ・ガルシアが麻薬カルテルのボスである。「まんま」過ぎる。元々イーストウッド監督作品のキャスティングは意外性がまったくなくて、いわゆ る「適役」のキャスティングしかしていない。だから、冒険した配役などはない。確かに役者たちがみんな気持ち良さそうに演じる訳だよ。誰も無理したり苦労 したりせず、ただ出てくるだけの楽チンで演じられるんだから。イーストウッドは、「見た目」がいかにもな役者を配役すればそれだけでも映画がうまくいく… と、マジで思っていそうなのだ。前作「15時17分、パリ行き」で実際にテロ事件に遭遇した青年3人を主役にして映画を撮ったのも、まったく同じ発想なの ではないか。まるで「トラ・トラ・トラ!」の製作にあたって、黒澤明が海軍軍人の「格に見える」素人を起用したことを連想させるようなエピソードである。 今回、主人公の娘役に自分の娘であるアリソン・イーストウッドを起用していることからして、これは本気で狙っているんだろうと思う。しかし、「らしい」役 者を持って来たらうまくいく…ってほど映画って単純なものではないんじゃないか。ハッキリ言って、これってただのタイプ・キャスティングでしかないだろ う。この時点で、僕は本作のあり方に疑問を感じてしまった。だが、僕が本当に気になったのはそこではない。本作のテーマらしきモノは、「家族」の大切さ… みたいなことのようである。確かに作中でイーストウッド演じる主人公は、「家族をないがしろにして…」などとしおらしいことを言っている。深く深く反省し ているような顔をしている。だが、本作の中で主人公が本当に心底の絶望や挫折を味わっているのかと言えば、それはどうかと思ってしまう。冒頭の花のコンベ ンションでご機嫌なのはともかく、ネット販売に追われて仕事が立ち行かなくなり、家族からも白い目で見られる…という挫折らしきものはあるものの、その後 がいけない。「運び屋」をやり出してカネ回りが良くなったら、たちまち退役軍人の老人会でもチンピラたちの間でもチヤホヤされる。ボスの邸宅での乱痴気騒 ぎでも、ボスからはヨイショされるし女は抱けるしでご本人かなりエンジョイしているではないか。さらには元妻の最後を看取ることで、家族にだって結局は慕 われる。「ホントは愛していた」的にすぐに許されてしまう。徹頭徹尾イーストウッドに都合がいい展開で、さすがに見ていて「イイ気なもんだ」と意地悪な気 分になってしまった。そもそもが、こいつはブラッドリー・クーパーに「家族を大切にしろ」なんてアドバイスをできる立場じゃない(笑)。何を上から目線で 言ってるんだと呆れ返った。そういう意味でいうと…気になったのは、組織から監視のために派遣されたコワモテのヤクザ(イグナシオ・セリッチオ)とのやり とりである。最初はマイペースの主人公にイラつくヤクザだったが、徐々に彼に気を許して親しみを持っていく。前日のボスの邸宅での乱痴気騒ぎの際には、主 人公が彼に「いいかげん足を洗え」的なアドバイスもする。だが、結局はそれまでで、途中から彼は映画から退場して出て来なくなる。実話だから仕方がないの かもしれないが、どうせフィクション満載なお話なはずである。ここでこのヤクザが救出されないまま終わる…というのは、正直言って本作最大のキズではない だろうか。それに引き換え、イーストウッドの主人公は結局は家族との和解も勝ち取って、刑務所で誰にも邪魔されず花づくりを満喫…って、こいつ一人が調子 よすぎる(笑)。裁判所で「私は有罪だ」って大見得切ってみせるが、そりゃ当たり前だよと言いたくなった(笑)。どんだけ自己肯定できるんだと、本作の イーストウッドにはさすがにビックリである。昨今のイーストウッド映画は絶賛また絶賛で、1ミリだってケナせない雰囲気。まるで1990年代以降のローリ ング・ストーンズが、ニュー・アルバムを出すたびに「さすが」、「余裕だね〜」とか「味がある」とか訳の分からないホメられ方をしていたのに似ている。だ が、さすがに本作に「絶賛」は違うんじゃないだろうか。何でもかんでも大絶賛というのは、イーストウッドにとって一種の「ホメ殺し」だ。本作は決して「傑 作」なんかじゃなくて、せいぜい愛すべきグダグダさを味わうべき映画なんじゃないかと思うのだ。

さいごのひとこと

 正直言って、このジイサンに花屋は無理がある。

 

「アンノウン・ボディーズ」

 Het Tweede Gelaat (Control)

Date:2019 / 04 / 01

みるまえ

 このサイトでも何度も取り上げている、渋谷の映画館で例年開催の劇場未公開作連続上映。今年は1月にジム・キャリーがドストエフスキーみたいな顔したポーランド刑事に扮した珍品猟奇サスペンス「ダーク・クライム」 (2016)を見たが、その後は足を運べないままだった。もうとっくに終わっていたかと思ったら、この連続上映まだまだやっているではないか。調べてみる と、ちょうどベルギーの猟奇サスペンスをやっているという。また猟奇サスペンスかよ…と言いたいところだが、ベルギー産というのがちょっと気になる。おま けにチラシによれば向こうでベストセラーになった小説の映画化と来る。気になるではないか。そんな訳で、監督も俳優も分からない、まったく先入観も知識も ゼロのまま、スクリーンと向き合った次第。果たしてその出来映えは?

ないよう

  豪華な音色で鳴り響くカリヨンの鐘楼。それはアントワープを代表する建築物として名高い聖母大聖堂の鐘楼で、そこから市内を一望できる高さである…。その 頃、駅の出口に近づいていった刑事フレディ(ウェルナー・デスメット)は、その出口でひとりの女に呼び止められる。サンドイッチマンみたいな出で立ちのそ の女は、フレディにチラシを差し出す。だが、フレディはすでにそのチラシをもらっていた。それは、行方不明になったその女の娘を探すチラシだ。必死の形相 の彼女の顔を見て、フレディもさすがにチラシを要らないとは言えなくなる…。そんなフレディが向かったのは、フィンケ刑事(ケーン・デ・ボーウ)の家。フ レディがフィンケからの夕食のお誘いに乗ったカタチだ。フィンケは捜査の統括をしているからフレディの「上司」とも言えるのだが、少々ヤンチャなフレディ はそんなことお構いなし。この日も、本来予定していた日の二日前にお邪魔するというマイペースぶりだ。万事がそんな調子で、ワインをしこたま飲んたフレ ディがフィンケ宅で眠り込んでしまうテイタラクだったが、まだ夜明け前に一本の電話がかかってくる。それはフレディとフィンケへの出動の要請だった。まだ 明るくなる前の郊外の原っぱに、フレディとフィンケがクルマで駆けつける。そこには全裸の女の死体が横たわっていた…ただし首なしで。その異様な状況に、 言葉を失うフレディとフィンケ。それにしても、首はどこに行ってしまったのか。警察犬が連れて来られて、早速その場の周辺を探り出す。すると…どうやら犬 は「何か」を見つけたようだ。ところが捜査員たちがホッとしたのもつかの間、別の警察犬がまた「何か」を見つけたようだ。さらにまたまた別の警察犬も…。 結局、この原っぱから埋もれていた遺体が5体出土。最初に発見された1体を含めて、合計6人の連続殺人と判明する。こんな遺体が次々運ばれて来れば、検死 官だって忙しさに悲鳴を上げる。しかも、どれも首なしの上に血が抜かれ、指紋もつぶされている。死因すら分からないアリサマだ。そんなてんてこ舞いの検死 官のもとを訪れようとしていたフレディとフィンケは、廊下にいたひとりの女に呼び止められる。それは、フレディに駅でチラシを渡した女だった。「遺体を見 たい」と食い下がる彼女を何とか抑えながら、フィンケは彼女の娘の特徴を聞き出した。右の脇腹に二つのホクロ…解剖室に入ったフレディとフィンケは、そこ に聞き出した特徴通りの遺体を見つけてしまう。その結果、フレディとフィンケは外の廊下で待っている女に何とも気の重い報告をすることになってしまった。 イヤが上にも、犯人への怒りが溜まっていくフレディとフィンケ。ところがそれから間もなく、フレディとフィンケはある通報から現場に急行する。捜査陣は緊 張して周辺を探しまわるが、そのうちフレディは茂みの中にひとりの女が隠れているのに気づく。その女は、体にベストを羽織っている以外は全裸だった。「あ なたと会ったことがあったかしら?」とフレディに問いかけて来たその女は、精神科医のリナ(ソフィー・ホフラック)。警察の捜査の仕方に常に批判的な人物 として、その界隈では知られている女だった。だが、フレディの前にいるリナは、そんな威勢のいい雰囲気ではなかった。昨夜何者かにさらわれたものの何とか 逃げ出して来た…と言うが、どうやら記憶がハッキリしないらしい。警察としては彼女の話は例の首なし死体とは別件…と判断したようだが、フレディは彼女の 誘拐事件も例の事件と関連があるのではないかと睨む。一方、この首なし殺人の捜査を統括することになったフィンケは、オランダから凶悪犯罪のプロファイ ラーであるアントン・ムルデル(マルセル・ヘンセマ)を起用することを決定。元から型にハマった捜査方法を嫌うフレディは、ムルデル招聘に大いに反発。だ が、間もなくムルデルは捜査陣と合流して、まるでフィンケと成り代わるように捜査チームを統括し始めた。それが面白くないのか、それとも元々の刑事の勘 か…フレディは例のさらわれたというリナという女に接近。その足取りなどを探って行く。やがて残る5人の遺体も身元が次々割れてきたが、学生から娼婦ま で…年齢もバラバラ、髪の色から体格までまったく共通点がない。ところが調べていくうちに、かつてケルンで同種の事件が起きていた事実が発覚。そこで当時 から現在にかけてのケルンからの移住者リストが作成され、何名かの不審者の名前が浮上して来た。それらは米国人コーディ(トラヴィス・オリバー)やゲーム 業者ホイバーグ(クリス・ヴァン・デン・ドゥルペル)など、いずれも一癖も二癖もある人物ばかり。一方でムルデルに反発するだけでなく、警察としては無関 係と判断したリナの件をひたすら探るフレディは、一応の捜査責任者であるフィンケと徐々に対立を深めていくのだが…。

みたあと
 ヨーロッパでベストセラーになった小説の映画化で猟奇サスペンスもの…とくれば、例の「ドラゴン・タトゥーの女」 (2011)の原作となった「ミレニアム」シリーズが脳裏に浮かぶ。すると、こちらも「ミレニアム」シリーズと同様三部作らしく、「Vincke & Verstuyft Trilogy」という三部作らしい。しかも、向こうではすべて同じキャストで映画化(ただし監督は第1作と第2作&第3作で異なるようだ)。「De zaak Alzheimer (The Memory of a Killer / The Alzheimer Case)」(2005)、「Dossier K.」(2009)…に次ぐ最終作が本作ということになるようだ。ちなみに、それぞれ「ザ・ヒットマン」、「HITMAN X./復讐の掟」という邦題でDVDまで出ている。ということは、あちらではかなりの大好評シリーズなのだろう。こちらとしては珍しやベルギーの映画、し かもアートシアター系ではなく娯楽作…というだけで見たくなるクチだから、思わずワクワクしてしまう。こうして見始めた本作は…といえば、別にとてつもな く個性的であったり稚拙であったりもせず、フランスあたりで作られている普通の娯楽映画の語り口だったので、安心するやらちょっと失望するやら。せっかく 珍しい国の珍しい映画を見るのだから、ちょっとは好奇心や物珍しさを刺激する内容を期待したのだが、ハッキリとした「違い」は目で見て分からなかった。逆 に言えば、安心して楽しめる作品であるとも言えよう。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  映画のオープニングは、首なしの全裸死体の発見…それも6体も! なかなかセンセーショナルで猟奇サスペンスとして掴みはオッケーである。主人公はヒゲづ らで長髪のハミ出し刑事と、それを抑える知性派の相棒…の二人組だが、後者が前者の「上司」にあたるようで、ちょっと「リーサル・ウェポン」を思わせる人 間関係だ。これはまぁありがちな設定である。主人公の二人組…特に前者のハミ出し刑事がヒゲづらで汚らしく、目つきもちょっとアレな感じなのは、アメリカ 映画などでは考えにくい感じ。若かった頃のマイケル・キートンがクシャクシャの長髪・ヒゲづらで出て来たら、こんな感じだったかもしれない。こんなちょっ と危なくて汚い感じの役者がヒーロー扱いというあたりが、「お国柄」と言えば言えるのだろうか。「お国柄」と言えば「???」だったのは、この映画の製作 国であるベルギーとオランダとの関係。実は本作では途中でプロファイラーが派遣されて捜査の指揮を執るのだが、そのプロファイラーがオランダ人。オランダ の方が「本場」だとか「レベルが上」だとかということらしいのだが、これってどういうことなのだろう。恥ずかしながら僕はベルギーのことはまったく無知な のだが、ベルギーは大きくオランダ語圏とフランス語圏にほぼ二分されるらしい。僕はそんなこともちゃんと知らなかった(笑)。本作の舞台アントワープはベ ルギー北部のオランダ語圏。だから、オランダからプロファイラーを連れて来ても言語ではまったく苦労していない。ただ、気になるのは例のハミ出し刑事が、 やたらにこのプロファイラーを敵視していること。足で稼ぐ叩き上げ刑事スタイルのこの男とプロファイラーという頭脳労働者との捜査スタイルが合わない…と いうこともあるだろうが、それ以前にハミ出し刑事の側に「オランダから偉そうに来やがって」という意識があるみたいなのである。何となく「本家」から「上 から目線」で来ている…というニュアンスが感じられるのである。これってどういう意味なんだろうか。ベルギーの事情にもオランダ語圏の力関係にも疎い僕に はまったく分からないが、本作の興味深い点といえばこのあたりだろうか。アントワープの聖母大聖堂(らしき建物)も出て来たりして、あちらに観光したい人 には興味津々かもしれない。映画としてもミステリーだけでなく終盤はハミ出し刑事大暴れのアクションもあって、一応飽きさせない仕掛けが作られている。監 督のヤン・フェルヘイエンは手練の職人という感じだろうか。

こうすれば

 ただし、ミステリー映画として本作を見ると、ちょっと首をかしげる点が少なくない。そもそも、主人公のハミ出し刑事が、言動がアホっぽい上に捜査上マズ いことをやらかす。おまけに先日見た「ダーク・クライム」と同じく、劇中で訳アリの捜査対象者とやらかしてしまうのには笑ってしまった。今回の連続上映は こんな映画ばっかりなのか(笑)。さすがにこいつの言動は問題あり過ぎで、ヒーローとしてはいかがなものかと思わざるを得ない。にも関わらず、結果的にこ のアホなハミ出し刑事の方が見立てはある意味で正しかった…というのも、ちょっと困ったものである。「訳アリ女」が出てくるのはこの手の映画としてはお約 束だが、まるで往年の横溝正史シリーズみたいに「訳アリ」過ぎちゃって、出て来た段階ですぐに「こいつがクサい!」とバレバレ。あまりに怪しいので、「こ れはミスリードなのか?」とかえって犯人じゃないように思えてしまうほど。そんな怪しさ満点の女とホイホイつながってしまうハミ出し刑事が、まるでバカに しか見えないのだ。で、そうなると「この女がなぜ?」…というところが見どころとなってくるのだが、これが驚いたことにまったく分からない。劇中で説明さ れていたかと後から思い起こしてみたものの、どう考えても説明されていないようなのだ。肝心要の、なぜ犯人はこんな殺人を繰り返していたのか?…が分から ないのである。ついでに言うと、首をチョン切って保存していた意味はもっと分からない。ただただ強引に事件が解決してしまう、無茶なエンディングなのだ。 原作は何しろヨーロッパの大ベストセラーだから、犯人の動機や理由がちゃんと説明されていないということはないだろう。これはやはり、脚色のカール・ヨー スの不手際と考えるべきではないか。せっかく娯楽映画としてはガッチリ作ってあるだけに、もったいない気がしてならない。ラストに断崖絶壁の上で犯人が長 ゼリフをまくし立てる日本の2時間サスペンス・TVドラマだって、まだちゃんと事件の全容を説明してくれるだけ本作よりマシなのだ。

さいごのひとこと

 これはベルギー版「相棒」なんだろうか?

 


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