新作映画1000本ノック 2019年3月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
「サッドヒルを掘り返せ」 「ギルティ」 「500年の航海」 「アクアマン」

 

「サッドヒルを掘り返せ」

 Sad Hill Unearthed (Desenterrando Sad Hill)

Date:2019 / 03 / 25

みるまえ

  映画ファンが映画の「聖地」であるロケ地にやって来て、すっかり荒廃したその場所を再現すべく動き出す…という「感動のドキュメンタリー」。さぞや映画好 きの僕は期待しているだろう…と、たぶん多くのみなさんには思われているはず。まぁ、確かに興味がそそられる題材ではあるが、その反面…ここだけの話、僕 は少々斜に構えて見ているところもあった。映画ファンであり…おそらくは映画オタクと見られているであろう僕だが、実はファンとかオタクとかサポーターと いう類いの人種に対して…その方々には大変申し訳ないが…あまり共感を持ってはいない。電車の写真が撮りたくて邪魔な沿線住人を罵倒したり、テメエはボー ルに指一本触れた訳でもないのにスポーツ試合で「オレたちは勝った!」と吠えたり…それがすべてとは思わないが、そんな連中の振る舞いには目を背けてしま いたくなる。映画ファンだって、映画を作った訳でも出た訳でも映画評論家でさえないのにまるでテメエが映画人にでもなったかのように錯覚している人たちの 痛さは、ハタで見ているのも辛い。そのあたりのことについては、だいぶ昔むかしに「あの頃ペニー・レインと」 (2000)の感想文でちょっと触れている。若気の至り(笑)で、自分も危うく醜態さらしかけた話だ。要は、僕らはただお客として映画を見させてもらって いるだけなのだから、身の程をわきまえろよということなのだ。それが出来ない人間は、実に見苦しい。本作についても、題材からするとアニメファンなどの 「聖地巡礼」に近い雰囲気がする。正直、そういうのに対しては「だから何なんだ」としか思えない。他人に迷惑さえかけなければ好きな人は勝手に何をやって くれても構わないが、共感を強いられるのはまっぴら御免というのがホンネである。また、このドキュメンタリー映画で取り上げられている題材はまるで映画 「フィールド・オブ・ドリームス」(1989)みたいな話という感じもするが、僕は「フィールド・オブ・ドリームス」も好きではない。なぜか見た当時はピ ンと来なかったのだ。まぁ、今ならどうか…は分からないのだけれど。さらにさらに、ここに出てくるロケ地で撮影された映画とはセルジオ・レオーネのマカロ ニ・ウエスタン「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」(1966)なのだが、僕はこの作品にも特に思い入れがない。本作はマカロニ・ウエスタンの中でも「名 作」と言われているらしく、韓国映画の「グッド・バッド・ウィアード」 (2008)も明らかにこの作品を意識しているくらいに有名な作品だ。僕もおそらくこの映画は中学生ぐらいの時にテレビで見ているが、実は「名作」だとか 衝撃を受けた…というような記憶がない。他のマカロニ・ウエスタン映画と同じく、普通に見て普通に楽しんだというのが正直なところ。見て人生が変わったと いうことはない。だから、なおさら本作に対して素直に期待できなかった。そもそもオタクな行為というものは、思い切り外の世界から「閉じて」いるものだ。 だが、「閉じた」世界というのはどこか不健全なものだろう。それを思い入れもない人間が、果たして楽しむことが出来るのだろうか。そんな訳でどうも見に行 くには気が重かった本作だが、たまたま時間が空いたので見に行った次第。果たしてその結果やいかに?

ないよう

  有名なヘヴィメタル・バンド「メタリカ」のコンサートが、ここスウェーデンで開催されている。ヴォーカルのジェイムズ・ヘットフィールドは、今日も興奮し た観客を煽りに煽る。そのヘットフィールドが楽屋裏で熱く語るのは、ある古い映画への熱過ぎる想いだ…。舞台変わって、ここはスペイン北部、ブルゴス市の 郊外のとある渓谷。そこに、今から50年ほど前に大作映画の撮影が行われたロケ地がある。その大作映画の名は「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」。数ある マカロニ・ウエスタンの中でも「名作」の誉れ高い作品である。その終盤クライマックス場面に出てくる「サッドヒル」…広大な集団墓地が建設された場所がこ の渓谷である。しかしそのロケ地はいつしか忘れ去られて、50年の歳月はこの場所を何センチかの土で覆い尽くしてしまった。今では、それと言われても分か らないような荒れ地になってしまっている。しかし、そんな場所をわざわざ探して訪ねてくる人物が、ポツリポツリと現れた。数年前のその日も、熱心な映画 ファンの二人がビデオカメラを持ち、リュックサックを担いでその場を訪れた。彼らは「夢にまで見た」その場所の発見に、まるで神々しいものを見つけたかの ように興奮している…。同じように、この映画に特別な気持ちを抱く4人の男たちがいた。地元に暮らす彼らは、映画業界に何の縁もゆかりもない素人である。 だが、彼らはそこに「サッドヒル」があると知ると、居ても立ってもいられなくなった。やがて「サッドヒル文化連盟」なる団体を立ち上げた彼らは、とてつも ないことを思い付く。「続・夕陽のガンマン」撮影50周年を記念して、この土と緑に埋め尽くされたサッドヒルにあの墓地のオープンセットを再現しようと考 えついたのだ。だが、それは彼らが想像していた以上の難事業だった。とても彼らだけでは力が足りない。そこでブログを立ち上げてボランティアを募ると、ス ペインのみならずイタリア、フランス、ドイツ…「続・夕陽のガンマン」のファンがヨーロッパ中からやって来るではないか。この映画ではそんな「聖地」復元 の作業を追うとともに、先ほど出て来た「メタリカ」のジェイムズ・ヘットフィールド、映画監督のジョー・ダンテ、著名な映画研究家、そしてエンニオ・モリ コーネなど実際に「続・夕陽のガンマン」に関わった人々…中でも主演を務めたあのクリント・イーストウッドから引き出した、当時の思い出や作品への想いを 語るコメントを挟んでいく…。

みたあと

  前述したように、僕が本作に抱いていた先入観は、正直言ってそれほど熱いものではなかった。…というより、「映画ファン」としては冷淡と言っていいかもし れない。そもそも「聖地」復元だけで話がもつのか…という疑問もあった。せいぜい「続・夕陽のガンマン」のDVDかブルーレイの特典映像どまりの内容では ないか…と思っていた訳だ。そもそも、僕自身に「続・夕陽のガンマン」に対する思い入れがない。マカロニ・ウエスタンは嫌いじゃないしセルジオ・レオーネ 作品も好きだが、果たして本作に出てくる人々に共感できるかというと、いささか心許ない。そんな訳で、僕は意外にノレないかもしれない…と、見る前の段階 ではかなりイヤな予感がしていた。バカバカしいと思ってしまうかもしれない気がしていたのだ。実物の映画を見た結果は…やはり…というか、確かに…という べきか、何ともバカバカしい話だった。バカバカしいにも程があるというか、あまりにバカバカし過ぎるので笑ってしまった。だがその笑いは、決してここに描 かれたことや出てくる人々を蔑むような笑いではなかったのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  もう一度繰り返すが、本作は何ともバカバカしい、実にくだらない試みを取り上げたアホなドキュメンタリーだ。出てくる連中も、どいつもこいつもバカな連中 である。「サッドヒル文化連盟」という仰々しくもアホらしい団体名がすべてを表している。何しろその中心人物のひとりは、サッドヒル再現に夢中になって、 作業に出かけた初日に病気の父親に死なれてしまうバカさ加減だ。誰も彼も一文の得にもならないのに、こんなど田舎でキツい作業に献身する。いや、一文の得 にもならないどころか、逆にカネを使っている。それもヨーロッパ中からクワやシャベルを担いでやってくるというんだから、酔狂な連中である。実にバカバカ しい。登場人物は一人残らずバカな奴らである。だが、彼らは自分を偉そうに見せる訳でもなく正当化する訳でもなく、やっていることが立派なことだとも言っ ていないことに注目すべきだろう。彼らの一人はハッキリと「バカらしいと思う人もいるだろう」と語っていて、そのことについて否定も非難もしない。むし ろ、彼らも世間レベルではそれが「バカらしい」ことだとは分かっている。ホメられたことではないことは百も承知。だが、彼らにとってはそれこそが大切なことなのだ。本作の中には「彼らは映画の一 部になりたがっている」という言葉が出てくるが、だからといって…彼らはサッドヒルを再現することにより、自分たちが映画を作ったスタッフやキャストたち と同列になるとは思っていないはずだ。むしろ埋もれて朽ち果てた「セット」を再現するという作業は、映画があくまで「虚構」でしかないことを再確認するよ うなものだろう。彼らは、あくまで自分たちが入れ込んでいる対象との「距離」を理解している。自分たちが映画の登場人物に成り代わったと思っていないだろ うし、セルジオ・レオーネやイーストウッドのような映画人になったなどとも思っていないだろう。まして、彼らのダチや仲間だとも思っていない。むしろ、あ る種の畏敬の念を抱いて仰ぎ見ている。だから、勘違いしたようなイタい発言は出て来ないのだ。彼らはそれが作り物であり、自分たちはあくまで受け手側の人 間でしかないと分かった上で、映画とそのセットに対して無償の愛を注いでいる。それこそが尊いのだと主張しているのである。そして、あくまで自らの立ち位 置をわきまえた上での「無償の愛」ならば、僕らもそこに敬意を払わない訳にはいかないだろう。僕は本作を見ていて、ここ数年の自分の仕事のことを思い出し ていた。僕がやっている仕事は、それこそ失われたモノ、失われつつあるモノを再現して残していくような仕事だ。それらは決して立派なモノばかりではない。 言ってしまえば、取るに足らないモノばかりである。しかし、ここで自分が動き出さなくては、「それ」は永久に消え去ってしまう。僕もそんな衝動に突き動か されて、ここ数年ジタバタしてきたような気がする。最終的に何冊かの本が出来てはいるが、それはあくまで単なる副産物でしかない。だから本作を見ていて、 サッドヒル再現に尽力する人々の気持ちが分かる気がした。そんなことしなくたって、世の中は一向に問題ない。誰も困らない。まさに無意味な行為である。だ けど、それをやらずにはいられない。僕のやっていることも十分バカだ。本作の登場人物たちをバカだというのなら、僕もまた愚か者なのである。だから、彼ら に共感せずにはいられない。ただ、本作は結局のところサッドヒルを復元するだけの話である。それだけでは途中で話がもたなくなることを恐れたのか、本作で は当時の映画関係者や「続・夕陽のガンマン」を愛する著名人などのコメントも挟んだりしている。だが、それらの要素は正直言って「続・夕陽のガンマン」の メイキングとしては中途半端で、ちょっと微妙であることは白状しなくてはなるまい。それでも…映画は終盤に至って、思いもかけぬ盛り上がりを見せてくれ る。サッドヒル復元作業がある程度出来上がったところで、そこにファンを集めて「続・夕陽のガンマン」上映するという記念イベントが企画されるのだ。映画 上映に先立って、スクリーンにはエンニオ・モリコーネらのメッセージが登場…それだけでもみんな大喜びなのだが、メッセージの「トリ」としてクリント・ イーストウッド御大の映像が映し出されるに至っては…まるでその場に神が降臨したかのように人々が歓喜の涙にむせぶ姿に、僕までついついつられて不覚にも 涙してしまった。まったくバカな奴らである。だが、バカな奴らがバカバカしいことを本気でやってるからこそ、そこには何か美しいモノが見えてくる。愚者た ちの一途な思いこそが、人が崇高な何かにまで到達できる原動力なのだ…とでも言いたくなるような、それは遥かな「高み」なのである。本作では権利問題のせ いか、「続・夕陽のガンマン」のフィルム・クリップやサウンドトラックはほんのわずかしか出て来ない。だが、それでかえって良かった。むしろ映画自体があ まり出て来ないことで、本作には「続・夕陽のガンマン」を知らない人でも共感できる普遍性が出た。さらに「メタリカ」のコンサート場面が最後に出てくると いう趣向も良かった。彼らは、「続・夕陽のガンマン」のフィルム・クリップをコンサートのオープニングに使っているのだ。これをラストに持って来て、モリ コーネの音楽に盛り上がる多くの聴衆たちを見せたことで、本作は「閉じた」不健全さがなくなり「開かれた」映画になったのではないか。本作に描かれている のは、「映画愛」というヌルい言葉ともどこか違う至高の「何か」なのだ。

さいごのひとこと

 聖地巡礼というより遺跡発掘。

 

「ギルティ」

 Den skyldige (The Guilty)

Date:2019 / 03 / 25

みるまえ

  劇場に置いてあるチラシで本作を知ったときから、見たくて見たくてたまらなくなった。警察の通報センターでの電話の会話だけで、事件の捜査が描かれる映画 だという。まずはその発想が素晴らしい。最近では、パソコンのディスプレイ上だけで事件の発端から解決までが描かれる「サーチ」 (2018)なんてのもあった。もっとも「サーチ」は実物を見てみると案外パソコンのディスプレイは饒舌で、おまけにちょっと反則な描き方をしていたので 残念だったが、それでも映画的とは思われない設定で十分映画的…なサスペンス映画の醍醐味を堪能させてもらった。その点、本作はどうも通報センターでの会 話に終始する純度100パーセントの描き方らしいので、大いに期待できそう。脳裏に浮かんでくるのは、トム・ハーディが走行中のクルマの中から電話をかけ まくって仕事とプライベートのトラブルとを何とか解決させていく快作「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」(2013)である。あの映画が大好きな僕としては、本作にも見ない訳にはいかない。ついでに言えば、珍しやデンマークの映画というのも興味をそそるではないか。僕は居ても立ってもいられず、珍しく公開直後に劇場に乗り込んだ。

ないよう

  部屋に着信音が鳴り響く。ヘッドセットを着用して、目の前のボタンを押す。それが、かかって来た電話をとるための手順だ。ここは警察の緊急通報センター。 今夜も他の職員たちとこの部屋でオペレーターとして電話対応をしているのは、警官の制服に身を固めたアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)。酔っぱ らいからの電話を軽く対応すると、次には強盗にあったという男からの電話。すわ犯罪かと、アスガーの対応もいささか先ほどとは異なり、緊迫感が一気に増 す。だが男から経緯を聞き出すにつれ、どうも様子がおかしい。そのうち ディスプレイに表示された電話の発信源から男がいわゆる歓楽街から電話していると知って、状況を察したアスガーは苦笑を禁じ得ない。要は「そのスジ」の女 にダマされただけのこと。大山鳴動ネズミ一匹である。アスガーはおざなりに男に対応を約束した上で、警察の指令センターにパトカー出動を要請。その途中、 アスガーは別の指令センターに誤って連絡を入れてしまうが、図らずも上司が電話に出て来てビックリ。少々ご無沙汰でこの上司と話すことになったアスガー、 どうやら事情あってしばらく本来の部署を離れなくてはならなかったようで、それも近々その部署に復帰できるらしい。そんなこんなでアスガーがホッとしてい るのもつかの間、またしても新たな電話がかかってくる。アスガーがその通話をとると、いきなり妙な息づかいで「ハーイ」と話しかけてくる女の声(イェシ カ・ディナウエ)。アスガーは思わず「酔っぱらっているのか?」と答える。彼がそう思ったのも無理はない。確かにこの女の様子は少々おかしな感じで、なぜ か会話も噛み合わない。どうやらこの女、自分の子供に電話しているような口調なのだ。そのあたりで、アスガーもこの電話が走行中のクルマの中からかけられ ていると気づき始める。「誰かと一緒にいるのか? イエスかノーで答えて。彼は電話の相手を分かってる?」「ノー」…。どうやら女は必死に機転をきかせ て、子供への連絡を装って電話をかけてきたようだ。これにはアスガーも、尋常ではない雰囲気を感じざるを得ない。最初は酔っているように聞こえた女の口調 だったが、よくよく耳をすませばそれは嗚咽を抑えているかのようにも聞こえる。彼は慎重に相手の女に「誘拐された?」と問いかけた。その問いに対し、その 女はしばしの沈黙の後でハッキリとこう答えた。「…イエス!」。

みたあと

  ここから先を長々と書いてしまったところで、感想文としてもまったく面白くない。あとは実物と対峙して、ご自身で大いに堪能してもらいたい。冒頭で「サー チ」のことに言及したが、本作はあれみたいな反則はない。終始一貫して舞台は警察の通報センターから一歩も出ないし、観客である我々に入ってくる情報は、 電話の音声のみ。正確にはその電話が誰の電話からかかっているのか…という情報と、発信されている位置を示すディスプレイ上の情報だけだ。これで全編をも たせてしまっているのである。予想通り、本作は「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」と同様、主人公が一歩も外に出ずに電話の会話だけで大活躍すると いう映画である。本作の上映時間は88分ということだから、このアイディアの映画の上映時間としてはこのあたりが妥当なのかもしれない。ともかく、本作は このアイディアがすべてなのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  先に述べたように、主人公の目の前にあるディスプレイに映る情報を除けば、観客に提示されるのは電話の音声しかない。おまけに、画面は通報センターから一 歩も出ないという徹底ぶりである。似たような設定としては先に挙げた作品だけでなく、ざっと思い起こしただけでも…携帯に誘拐された女からの電話がかかっ てくる…という趣向の「セルラー」(2004)や、自殺防止協会に大量の睡眠薬を飲んだ女から電話がかかってくる…というシドニー・ポラック監督のデ ビュー作「いのちの紐」(1966)…など、枚挙にいとまがない。だが、本作ほど観客が得られる情報が絞られ、ミニマリズムを極めた設定で描かれる作品は あまりないのではないか。そのせいで、何が何でも主人公と電話の相手との会話を聞き逃してはならない…と観客の緊張感は思い切り促進される。まずは、この 発想が効いている。観客はいやが上にも映画に集中せざるを得ないのだ。これではボケッと退屈している訳にも、居眠りこいている訳にもいかない。何ともうま いことを考えたものである。しかも、電話一本しか武器がないのに、主人公はその知力を振り絞って事件解決のために尽力する。ここが本作の真骨頂なのは言う までもなく、それは何度もここで挙げているように「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」と共通するスリリングさだ。ただ、映画を見始める前から気に なっていたのは、チラシに書いてあった「犯人は、音の中に、潜んでいる」という宣伝コピー。そもそもこの手のアイディアものサスペンス映画の場合、どこか でアッと驚くどんでん返しが出てくるのはお約束。そこにこのコピーだから、間違いなく衝撃的な展開になるのは間違いない。その持って行き方も、今回はうま くやったなと言わざるを得ない。実は本作を見ていて気になったのは、主人公の言動にちょっと「???」を感じるところ。主人公だから観客が感情移入できる キャラクターであって欲しいのに、どうもその言動には問題がある。何となくキレやすいのだ。パトカーを手配する指令センターの担当者に毒づいてみたり、自 分の指示で子供の保護に向かわせた警官に無理難題を吹っかけてみたり、同僚刑事を散々コキつかってみたり…と、最初はこんな状況だから仕方がないと大目に 見ていたものが、どんどん擁護できないレベルになってくる。あげくの果てに、センター内のパソコンやレシーバーに八つ当たりの大暴れである。僕も本作を見 ていながら、面白い作品なのに主人公がなぁ…と最初は思ってしまった。だが、この主人公の性格こそが本作の伏線なのだ。実は主人公は本来は刑事としてバリ バリやっていた人物であり、それがこんな緊急通報センターでオペレーターをやる羽目になっていたのには訳があった。それがまさに、主人公のキャラクターの せいなのである。やる気満々で自信もあるが、その自信がいささか過剰で傲慢。おまけに思い込みの強さが時として災いしてしまう…という男なのだ。さらにそ の性格が祟って、ここでまたしても大きな誤算をしでかしてしまう…という展開。それが本作のどんでん返しである。これは実にうまい。この失態に焦りに焦っ た主人公が、ここから果たしてどう出ていくのか? それが、主人公の個人的な事情と絡まり合っていくあたりが秀逸なのである。

こうすれば

 そういう訳で、本作は電話1本、セットひとつで映画が展開していく…というアイディア勝負の作品である。そしてもうひとつ…本作の特筆すべき点は、先に も述べたように主人公が自らの性格のせいで「やらかしてしまっている」こと。本作の物語の中でもまたまた主人公が「やらかし」てしまい、それを何とか挽回 することで自らの「贖罪」へとつなげていくあたりが見事なのだ。だが、実はこの点も必ずしも本作のオリジナルではない…と言ったら、みなさんは驚かされる だろうか。僕は本作を見ているうちに、このアイディアの原点がどこにあるのかに思い当たった。それはトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントンとジョ ン・トラボルタ主演のサスペンス映画「サブウェイ123/激突」 (2009)である。地下鉄乗っ取り犯のリーダーであるトラボルタと、指令センター職員デンゼルの駆け引きが見もののこの作品、見ていて退屈はしないが決 して傑出しているというほどの出来映えでもない。そんな作品の中でトラボルタと音声だけで対峙するデンゼルには、実は不正を犯した苦い過去がある。そこを トラボルタに悟られて、チクチクとえぐられていくという展開である。この「サブウェイ123/激突」はウォルター・マッソー主演「サブウェイ・パニック」 (1974)のリメイクだが、実は犯人と対峙する側が不正を犯している…というシチュエーションはオリジナル作品にはない。だから、おそらく監督・脚本の グスタフ・モーラーは、この「サブウェイ123」を見ているのではないか。そういう意味で、本作「ギルティ」がスゴいオリジナルな発想の映画であるとは必 ずしも言い切れない。おそらく「サブウェイ123」を見たこの監督は、そのアイディアだけには感心しつつ、オレならもっと面白くできるはず…と思って本作 を作り上げたのではないだろうか。そう考えると、実はその映画が元ネタであるということは別に本作のキズではない。せいぜい普通の娯楽映画である「サブ ウェイ123」をヒントに、ここまで強烈な作品を作り上げたグスタフ・モーラーは大したものだ。ここまで持ってきたら、これはほとんどオリジナリティだと 言っても間違いではない。そういった意味でも、本作を大いにホメちぎりたいと思うのだ。

さいごのひとこと

 注意一秒ケガ一生。

 

「500年の航海」

 Balikbayan #1 - Memories of Overdevelopment Redux VI

Date:2019 / 03 / 04

みるまえ

  この映画のことは、ネットで見る映画を選んでいる時に知った。マゼランの世界一周をユニークな語り口で描く異色の歴史ドラマ…と来る。撮ったのはフィリピ ンのインディペンデント作家…と聞いて二度びっくり。当然、巨額の費用をかけて作った大作などではないだろうが、何と35年もかけて作り上げた作品という から尋常ではない。ただ、当然のことながらその語り口はスペクタクルな歴史劇みたいなモノではなく、かなり素朴なモノのようでもある。ひょっとして、この歴史的な出来事を 素朴でミニマライズされた描き方で映画にした…パラジャーノフ映画みたいなユニークな作品かもしれない。こういう映画はスゴく面白いかスゴくつまらない か、どちらかしかない。だが、それを見極めるのが映画好きの醍醐味だ。そう考えたら、とても見ずにはいられない。そんな訳でそろそろ上映が終わりそうな頃 になって、何とか劇場に滑り込んだ次第。

ないよう

 ふんどし姿で頭には鳥 の飾りを付けた先住民の老人が、田んぼの中に水没していた古びた箱を発見する。そこには数多くのフィルム缶が入っていた。フィルムを映し出してみると、そ れはマゼランによる世界一周の航海の物語…というより、その航海に奴隷として付き添っていたエンリケという男の物語だ。実はフィリピン諸島出身のエンリケ (キドラット・タヒミック)は、本当の意味で初めて世界一周を成し遂げた伝説の男なのである。マゼランの航海の同行者であるピガフェッタは紀行文を残し た。イタリアのヴィチェンツァにはピガフェッタの屋敷があり、そこには航海で持ち帰って来た思い出の品々が溢れ返ってもいる。だが、奴隷だったエンリケは 字が書けない。そこで、航海で体験したさまざまな出来事を木に彫って残している。それらを見れば、航海でのさまざまな思い出が蘇って来る。マゼランの帆船 に乗って航海に付き添ったエンリケの最も大事な仕事は、マゼラン(ジョージ・スタインバーグ)に毎日風呂を用意することだった…。一方、舞台変わって現代 のフィリピン。海岸の小屋で絵を描いているヒッピーみたいな画家の男(カワヤン・デ・ギア)がいる。この画家がふと海岸を見ていると、そこには奇妙な老人 (キドラット・タヒミック)がフラフラと歩いているではないか。妙に気になるこの老人は、海岸で倒れてしまう。慌てて老人のもとへ駆けつける画家だが、老 人は拾った石を手にしたまま「ハパオ」とつぶやいて意識を失う。やがてその奇妙な老人は、バスに乗り込んでハパオの村へと向かう。そこは棚田のある山奥の 村だ。奇妙な老人は海岸で拾った石を柱の上に置き、木を彫って彫刻を作りだす…。その頃、例の画家が自分で撮った写真を現像していると、なぜかそこにあの 海岸の老人が二重写しで心霊写真のように写り込んでいるではないか。画家は不思議な運命を感じて、老人の行方を探し始める。バギオにある芸術組合に行けば 何かが分かるのではないか…と思った画家は、早速、現地へ飛んだ。そこはお高くとまって堅苦しいアーティスト的な場所ではなく、芸術家たちが飲んだり語り 合ったりする自由でフランクな雰囲気漂う場所だ。そこで画家は老人の写真を見せて、「彼を知っているか?」と尋ねまくる。だが、手がかりはない。逆に「な ぜ探している?」と聞かれて、「なぜかは分からない」と絶句する画家であった。そんな折り、ある映像作家の事務所を訪ねる画家。すると、彼が編集中のビデ オに例の老人が写っているではないか。それはヨヨイという歌手のミュージック・ビデオだった…。さて、元々のエンリケの物語に戻ると…そもそも彼がなぜマ ゼランの航海に付き添うことになったのかを語らねばなるまい。エンリケは外で洗濯物を干していたところ、突風にさらわれて海に落ちてしまった。そんな彼を 海賊が拾い、中国商人に売り飛ばしてしまう。たまたまこの商人のもとへマゼランが買い物に来た時、大きな箱を買ったのが運命の分かれ道。箱にはエンリケ が潜り込んでいて、箱ごとマゼランが買ってしまうことになったのだ。こうしてエンリケはスペインへと向かう。だが、それはまだエンリケを待ち構える数奇な 運命の、まだほんの始まりに過ぎなかった…。

みたあと

  ここまでストーリー紹介を書いてみて、改めて読み返してみると…自分で言うのも何だが結構面白そうに思える(笑)。実のところ、これほどスッキリと分かり やすいストーリーラインがある訳ではないので、実際の作品はもうちょっと「???」の部分も少なくない。だが、確かに妙に心引かれる映画ではある。以下は そんな本作について思いつくまま述べてみることにする。

みどころ

 そもそも、最初に田んぼからフィルムが発見される…というくだりから、僕はぐっと来てしまった。ピーター・ジャクソンの「光と闇の伝説/コリン・マッケ ンジー」(1995)やらホセ・ルイス・ゲリンの「影の列車」(1997)を思わせるような、ゾクゾクするような始まりである。スクリーンなのかどこかの 白壁か分からないが、いきなり古いフィルムが映し出される。このように、本作はさまざまな映像フォーマットが錯綜する作品である。そのあたりも、前述の 「光と闇の伝説/コリン・マッケンジー」や「影の列車」、さらには「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)みたいなファウンド・フッテージもの的 興味を感じさせる。フィルムもところどころ画像が劣化したようなものもあり、さらにはビデオまで割り込んでくる。それも必ずしも映像がクリアなものではな く、明らかに古いVHSテープらしきもので録画され、ノイズが発生しているようなものまである。これらを狙ったのかどうかは分からない。たまたま監督がズ ボラで保存状態が悪くてダメージを受けているようにも見える(笑)。映画の中でエンリケを演じているキドラット・タヒミック監督がどこか飄々とした風貌 なので、そう感じてしまう。実際のところ、オーソン・ウェルズの「風の向こうへ」(2018)なみに時間がかかった作品で、ファウンド・フッテージもの的である点も「風の向こうへ」に通じている。また、「風の向こうへ」と同様に途中 で中断されたりチビチビ撮り足したりしている作品だ。本作は2015年の東京国際映画祭でも「お里帰り」なるタイトルで上映されたみたいだ が、今回の作品はそれとは微妙に異なるバージョンのようである。そのあたりの感じも実に興味深い作品なのである。お話も過去と現在を行ったり来たりする し、同じ出演者が時代が変わると役を変えて「愛と哀しみのボレロ」(1981)みたいに出て来たり…という趣向も面白い。ただし、先ほどから「光と闇の伝 説/コリン・マッケンジー」などなどのさまざまな作品のタイトルを挙げているが、本作はそれらの作品のような欧米映画にある洗練な語り口は持ち合わせてい ない。至って素朴でぎこちなさすら感じさせる語り口であり、お話もギコギコと行きつ戻りつ、行き当たりばったりに進んでいく。冒頭で僕は「パラジャーノフ 映画みたいなユニークな作品かもしれない」と語ったが、それはあながち間違っていなかった。もちろんパラジャーノフ映画とは根本的に違っているが、ある意 味で不思議な素朴さのある映画なのは間違いない。マゼランの航海を描くのに、実際に巨大帆船を画面に出すようなスペクタクルの方向ではなく、海辺に帆船の オモチャを持って来て撮影するような、一種「能」のようなミニマリズムで語っていく映画なのである。その一方で、画家が不思議な老人(これまたタヒミック 監督演じる)を追いかけていく現代の物語が進行して、こちらはこちらでミステリアスで興味深い。なかなかユニークな作品で、僕はワクワクしながら映画を見 ていた。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  ところが…全編が2時間40分ほどの本作だが、残念ながら1時間半を超えたあたりから雲行きが怪しくなる。本作のお話の中心がマゼランの航海に付き合った 奴隷のエンリケから、例のナゾの老人の方に徐々にシフト。さらにデモ隊が出て来たりして、現実的な場面が出てくるのだ。そのため後半はなぜかドキュメンタ リーか教養番組みたいになり、見ていてどんどん辛くなっていくのである。語り口もユーモラスにやってるつもりなのだろうが、字幕のせいかまったく笑えな い。正直言って、ただただ早く終わって欲しいと願うばかりになってしまった。良識ある映画ファンとしては誉めないといけない雰囲気が漂う本作だが、後半な かなか終わらずもう勘弁して…という気分になったことについては自分を偽れない。たぶん僕にセンスも教養もないからなんだろう。そう言われればそれはまっ たく否定しない(笑)。だが、気になると言えばちょっと気になる点がある。結局、言ってしまえば…マゼランは世界一周航海の途中で死んだのだから、実は世 界初の世界一周は奴隷のエンリケである。つまりは、本来は自分たちの祖先の栄誉だ…とタヒミック監督は言いたいらしいのである。白人のマゼランより奴隷の 方がよほど偉い…というのが、本作の趣旨のようなのだ。だが、ぶっちゃけ言って、天真爛漫そうでユーモラスに見せている主人公=監督が、意外にせせこまし いことを考えていることに少々興ざめしてしまう。おおらかそうに見えるだけに僕は違和感を感じちゃったんだが、そんな奴は僕ひとりだけなんだろうか。確か に白人=支配者側が作った歴史…というのは偏見で一面的なモノだろうし、それに意義を唱えるのは間違いなんだろうが、「本当はオレたちの方がエラかっ た」…というドヤ顔にはハッキリ言ってあまり共感できない。そんなことを言うならエンリケがテメエで船を調達しろよ…と言いたくなってくる。大体がエンリ ケってそんな志もある訳じゃないだろうし(笑)。そう言ってしまったら、僕は「アジア人のくせに白人中心の世界観に毒された奴」ってことになっちゃうんだ ろうか。単純に映画好きとしては、冒頭からしばらくのあのワクワク感が失せてしまったことにガッカリ…としか思えなかった。僕はダメな映画ファンである (笑)。教養人、知識人である皆さんは、キドラット・タヒミック監督の主張を大いに支持していただきたい。だが、僕は申し訳ないがそこまで付き合えない。 素朴なヘタうま感がいいと思っていたのが、途中から「馬を放つ」(2017)のあいつ…キルギスのアクタン・アリム・クバト監督に通じる姑息さを感じて、 騙されたようなイヤ〜な気分になってしまった。主人公を自分で演じているのも、このお二人どこか似ている。フィリピンのインディペンデント映画作家となれ ば、それはそれなりに主張もメッセージも腹にイチモツあるのが当然だろう。だから、むしろ本作でもこういう「反骨の主張」があるのが当然だ。その主張に一 理も二理もある。しかし、一方で心に何の邪念もない素朴なオッサンを演じていながらこれというのもなぁ…。変な「賢人」っぽさがあるのも胡散臭いのであ る。第三世界(この言い方も差別的なのかもしれないが)の監督はみんな純朴でイイ人…というのは、これもまた「偏見」だよな。それは良くない(笑)。

さいごのひとこと

 第三世界にはイヤな奴だっている。

 

「アクアマン」

 Aquaman

Date:2019 / 03 / 04

みるまえ

 正直言ってこちらとしては苦々しく思っているハリウッドのヒーロー・マンガ映画氾濫だが、我が夜の春を謳歌しているマーベルの映画に対して、DCコミックスの映画はイマイチうまくいっていない観があった。よせばいいのにマーベルの「アベンジャーズ」(2012)みたいな展開をマネして、「バットマンvsスーパーマン/ジャスティスの誕生」(2016)あたりから複数ヒーローがツルむ映画を作り出したのが運の尽き。途中で「ワンダーウーマン」(2017)みたいに単発でうまくいったモノもあるが、本格的にツルませた「ジャスティス・リーグ」(2017)はまた興行的にイマイチな結果に終わった。でも、これはDCだけを責められないかもしれない。「ゴジラ」(2014)や「キングコング/髑髏島の巨神」(2017)などのハリウッド怪獣映画もツルみ路線に走ったし、かの「スター・ウォーズ」ですら「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」(2016)あたりから「外伝」を連発してツルみシリーズ化する方向に舵を切った。しかし、世の中そうはうまくいかない。ユニバーサルの怪奇映画でツルみ路線をやろうとした「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」 (2017)は、無惨に大失敗して頓挫。「スター・ウォーズ」も「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」(2018)がコケて、「外伝」製作が尻す ぼみになった。結局、マーベル一人勝ちというイヤ〜なムードで決着が着きそうである。しかし、確かにうまくやっているとはいえ、「マーベルはすべてが素晴 らしい」「マーベルは何をやってもうまくやる」みたいに大政翼賛会みたいなコメントしか聞こえて来ないのが実に不快。正直、鼻についてきたんだよねぇ。そ の点、DCの「ジャスティス・リーグ」はバカ映画ではあるが、僕は個人的にそれほど嫌いではなかった。当初はスーパーマン、バットマン、ワンダーウーマン のメジャー・キャラがいる一方で、3人も無名ヒーローがいる時点でヤバい気しかしなかったこの作品。ところがさにあらず、「ジャスティス・リーグ」で光っ ていたのは、むしろ雑魚キャラと思われていたアクアマン、フラッシュ、サイボーグの三人衆だったから映画というものは分からない。中でもアクアマンはなか なかユーモラスで楽しいキャラだったので、単体映画が作られるというニュースが流れた時から期待していた。監督が「ソウ」(2004)を撮り「ワイルド・スピード SKY MISSION」 (2015)も作ったジェームズ・ワンというのも、ちゃんと娯楽映画が撮れる職人監督が手がけるという意味で心強い。そんなこんなで実際に完成してみた ら、案の定、海の向こうでもこちらでも大評判。今のところは世間ではモテはやされているが、内容的にはすでに馬脚を現し始めているマーベルの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」(2018)のテイタラクを見るにつけ、DCの奇跡の反撃があるのではないか。そんな訳で、僕はいそいそと劇場に足を運んだのだった。

ないよう

  ジュール・ヴェルヌいわく、大海に漂う二つの船はいつか出会う運命にあるという。それは、ある嵐の晩だった。メイン州のとある岬で灯台守を勤めるトーマ ス・カリー(テムエラ・モリソン)は、激しい風に煽られる雨戸をクギで打ち付けるために外に出て、その女を発見した。浜辺に打ち寄せられ意識を失っていた その女は、全身ウロコのような銀色のコスチューム。だが、脇腹に大きなキズを負っていた。トーマスはそんな彼女を手厚く介抱し、彼女の方もそんなトーマス に好意を抱くようになる。彼女の正体は、海底の国アトランティスの女王アトランナ(ニコール・キッドマン)。二人の間には息子アーサーが生まれ、幸せな日 々がいつまでも続くと思っていたのだが…。そんなある日、二人の家に銃を持った白いコスチュームの男たちが乗り込んでくる。それは、アトランティスからア トランナを追ってきた兵士たちだった。その日は何とかアトランナが八面六臂の大活躍で撃退したものの、先行き不安が残るのは間違いない。そこでアトランナ はトーマスの元に息子アーサーを置いて、断腸の思いでアトランティスに帰ることを決断。後ろ髪を引かれる思いを振り切って、夕陽の桟橋から海に飛び込ん だ…。それから二人の息子アーサーは、トーマスが男手ひとつで育てて来た。しかし、無骨なアーサーゆえ行き届かないところがあったか、あるいはアーサーに 流れる血が周囲に何か異質なモノを感じさせたのか、まだ幼いアーサーはどうしても周囲から浮き気味になってしまう。そんなある日、小学校の遠足でアーサー たちが水族館を訪れた際の出来事である。巨大水槽の前に立ち、魚や海の生き物たちを魅入られたように見つめるアーサー。その様子を見ていたいじめっ子たち は格好のいじめネタだと舌なめずり。調子こいてアーサーを小突いて、水槽のガラスに体を押し付けた。だが、これがマズかったのは言うまでもない。いきなり 水槽内の巨大ホオジロザメがガラスに向かって突進。何度も何度もぶつかってガラスにヒビが入るではないか。この異様な事態にいじめっ子は真っ青。そんなホ オジロザメだけでなく水槽内の生き物すべてを従えるかのように、ガラスの前に仁王立ちするアーサー。それ以降、彼をいじめようとする出来の悪いガキが一人 もいなくなったことは言うまでもない…。それから月日が流れて、海中を進むロシア海軍の潜水艦が、ナゾの潜水艇に捕らえられる。艦橋部分に強引に接続した 怪潜水艇から、ロシア潜水艦に乗り込んで来たのは海賊の一団。たちまち乗組員は倒され、海賊の若き指導者デビッド・ケイン(ヤーヤ・アブドゥル=マーティ ン二世)は捕らえられた者も無慈悲に殺害させる。その手際の良さに感心した父である海賊の長老ジェシー・ケイン(マイケル・ビーチ)は、デビッドにリー ダーの証である短剣を渡した。それは、海賊の「王座」が次世代に渡された瞬間だった。デビッドは船室の一部に残りの船員が立てこもっていると知るや、その 連中も捕らえて殺害するために船室を攻撃させようとする。だが、そんなロシア潜水艦にグングンと迫ってくるものが…。「それ」は凄まじいスピードで潜水艦 に近づくと、潜水艦を下から持ち上げて海上に無理矢理浮上させる。それは、何とたった一人の男だった。長髪にヒゲの逞しいその男は、人呼んでアクアマン。 あのアーサー(ジェイソン・モモア)が成長した姿だった。アーサーは船室に侵入すると、中にいた海賊たちを一人ひとりバッタバッタとなぎ倒す。このアクア マン、人間業ではとてもじゃないが太刀打ちできない強さ。異変に気づいたデビッドとアクアマンの戦いでも、圧倒的な強さでアクアマンの勝利。アクアマンは 隠れていた船員たちを助け出して艦外に逃がしてやるが、デビッドとジェシーは性懲りもなくアクアマンにかかっていく。その結果、ジェシーは搭載されていた ミサイルの下敷きになって、身動きがとれなくなった。艦内に浸水が進んで来たためジェシーを助けようとするデビッドだが、すでになす術もない。こうして ジェシーが溺死したことを、ひたすら逆恨みするデビッド。それでもアクアマンのおかげで、ロシア船員たちの多くは無事に潜水艦から脱出することができたの である…。このニュースは、たちまち全世界を駆け巡った。解説者として呼ばれた学者が、ロシア船員たちを救ったナゾの人物を「アクアマン」というアトラン ティスの末裔であると語ると、キャスターたちの失笑が漏れる。だが、それは間違いではなかった…。地元の村の酒場で父トーマスと酒を酌み交わすアーサー は、気は優しくて力持ち。村人たちは彼が「アクアマン」であると知っていたが、それは彼への親しみと畏敬を込めた称号だった。だがその頃、大西洋の海底奥 深くでは、人類たちが夢にも思っていないような出来事が起きていた。サメに乗ったアトランティス王国の騎士団たちとタツノオトシゴに乗ったゼベル王国の騎 士団が、何やら会談を行っていたのである。この会談は、アトランティス王国の王オーム(パトリック・ウィルソン)からの呼びかけで開かれたもの。自らの指 南役バルコ(ウィレム・デフォー)を従えたオームは地上の人類たちの横暴が目に余ると憤り、彼らに戦争を仕掛けるべしというのが自論だった。対するゼベル 王国の王ネレウス(ドルフ・ラングレン)はこれには慎重で、海洋汚染など人類の悪辣さにはそれなりに賛同するものの、戦いを仕掛けることには懐疑的。とこ ろが、そんなところにいきなり潜水艦が出現。両国の騎士たちに向かって魚雷を発射してくるではないか。何とかこの潜水艦を撃退したものの、さすがに人類は 目に余るということで意見が一致。にわかに戦争への機運が高まって来た。そうとは知らぬ地上のアーサーは、酔っぱらった父トーマスを乗せて軽トラックで酒 場から帰宅しようとしていたところ。そんなアーサーの元に、海から上がってしずくを垂らした、光るコスチュームの若い女が近づいてくる。彼女の名はメラ (アンバー・ハード)。ゼベル王国の王女でネレウスの娘である彼女は、実はアーサーの存在もかねてから知っている人物だ。彼女はオームの野望に懸念を抱 き、戦争回避のためにアーサーに立ち上がってもらいたいと頼みに来たのだった。アーサーこそ、アトランティス女王の第一子。人類と海底族の両方の血を引く 彼が王座に就けば、この危機は乗り切れるはず…というのがメラの主張だった。だが、アーサーはアトランティスの王座など興味はない…とにべもない。母に非 常な仕打ちをした海底族に貢献する気もないというアーサーには、説得の余地がなかった。こうしてアーサーがメラと別れた後、トーマスをクルマに乗せて出 発。海沿いの道を走っていると、彼方の水平線がどんどん盛り上がってくるではないか。それは間違いなく、あのオームがアーサーたちを襲うべく起こした大津 波だった…!

みたあと

  前述の通り、「ジャスティス・リーグ」を見るまではフラッシュ、サイボーグとともに単なる雑魚キャラとしか思っていなかったアクアマン。正直言ってアメコ ミなんてまったく興味もないし、未来永劫読むこともないだろうからどうでもいい。だが、「ジャスティス・リーグ」ではバットマンなんかよりこちらの方が好 感持てたから、ちょっとこれは期待できるのではないか?…と思ってしまった。マンガの映画ばかりでウンザリという気持ちには変わりがないが、面白い映画さ え撮ってくれれば問題はない。そして、まさに本作はそんな「面白い映画」にできているのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  そもそも、僕はアメコミ・ヒーロー映画のバカバカしい設定が苦手である。事故に遭っちゃったとかクモに噛まれたとか薬品を浴びたとか、そりゃ最初の1〜2 本なら付き合ってもいいが、こうもそんな話ばかりだとウンザリしてくる。その点、本作はそんな話でないから救われる。…というより、本作はあまりスー パー・ヒーローものの臭いがしない。むしろ正統的な冒険活劇モノの雰囲気が濃厚だ。そして、それが全編にわたって功を奏しているのである。冒頭はニコー ル・キッドマンが出てくる灯台守とアトランティスの女王との出会いの場面で始まるが、ここも何となくおとぎ話のような語り口でいい感じ。そして、何と懐か しのニュージーランド映画「ワンス・ウォリアーズ」(1994)に出て来た先住民族マオリ族の俳優テムエラ・モリソンが出て来たのにのけぞってしまった。 これに限らず、本作はキャスティングがなかなか絶妙。もちろん主演のジェイソン・モモアも、粗野に見えてユーモラスなのがなかなかいい。酒場でケンカを 吹っかけられるかと見えて、実はファンがツーショットを頼んでくる…というくだりなど、彼だから楽しい気分が膨らんでくる。また、彼の相手役として出てく るゼベル王国の王女メラ役のアンバー・ハードは、ジョン・カーペンターの近作「ザ・ウォード/監禁病棟」 (2010)にも出ていたが、まったく興味がなくて知らなかった女優さんだった。本作でも最初見た時にはただケバい女優と思っていたが、映画でよくよく見 るとまた印象が違う。何よりジェイソン・モモアとの相性の良さは抜群で、楽しいケミストリーを発散しているのが好ましく思えるのだ。これもまた大きな嬉し い誤算だった。だが何よりお手柄なのは監督のジェームズ・ワンで、先にも述べたように冒険活劇の匂いが濃厚な作品に仕上がっているのがいい。舞台があちこ ちに変わって、「インディ・ジョーンズ」シリーズみたいな砂漠でのシーンまで出てくる欲張りセットである。海底の場面でもアトランティスの海底都市から海 の主みたいな怪物の暮らす深淵など、それぞれ趣向を凝らした舞台設定が出て来て楽しくなってくる。それよりもジェームズ・ワンの手腕に感心したのは、アク ション場面での描き方のうまさ。昨今のハリウッドではCGを多用したアクション場面が氾濫しているが、正直言ってそれらはほとんどうまくいっていない。ア クションの段取り、位置関係の把握などが下手である。だからゴチャゴチャしてよく分からないし、面白くない。ただただ物量が投じられているだけ…という印 象であり、しかもそれが実体を伴わないCGだから大してありがたみもない。だが、本作はそのあたりがスッキリと整理されて描かれている。一番分かりやすい 例は、シチリアでのアクション場面。悪漢に追いかけられて建物の屋根から屋根へと逃げるアクアマンの向こう側で、同じように逃げるメラが見えているあたり の画面構成を見れば、僕の言いたいことがお分かりいただけると思う。最後の大決戦にしても、やっていることはあまたあるファンタジー大作と同じなのだが、 やはり画面の描き方、多数の人物の捌き方がうまい。そういえば「ワイルド・スピード SKY MISSION」 (2015)でも、何台ものクルマが空から降ってくる…というトンデモ場面も含めて、アクション場面の捌き方はうまかったように思う。これがしっかりして いるから、どこか懐かしいような冒険活劇の楽しさがうまく出たのではないか。そんな訳で、僕は本作を大いに堪能した。単純に娯楽映画として楽しくできてい るのである。

さいごのひとこと

 イマドキの映画にしては潤いたっぷり。

 


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