新作映画1000本ノック 2019年2月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「ファースト・マン」 「クリード/炎の宿敵」

 

「ファースト・マン」

 First Man

Date:2019 / 02 / 25

みるまえ

 「ラ・ラ・ランド」 (2016)でいきなりオスカーをかっさらってしまったデイミアン・チャゼルの新作が、アポロ11号で月面に着陸し、人類で最初に月への第一歩を記した ニール・アームストロング船長の話だと聞いて、僕はちょっと驚いてしまった。まず「驚き」については、この監督は「セッション」(2014)から「ラ・ ラ・ランド」…と来ているので、てっきり音楽ネタ専門の監督と思ったからだし、ある意味でファンタジーの世界であるべきミュージカルから実話の映画化とい う180度異なる題材に移行したことに素直にビックリしたからだ。そして、SF映画好きで宇宙開発に興味がある僕としては、リアルなアポロ計画を見てみた いということもある。また、時代背景は1960年代になるはずなので、1960年代好きの僕としては当時の服装やクルマが見れるだけで嬉しい。男たちがみ んな髪を短く切りそろえ、白いワイシャツを来ていたあの当時が最高にカッコいいと思っている僕にとっては、「グッドナイト&グッドラック」 (2005)などもワイシャツ男を見たさに劇場に駆け込んだようなものだった。そんな訳で、僕にとって絶対見なければならない映画の筆頭となっていた本 作。いつもはどんな映画も公開が終わりそうな頃になって慌てて劇場に駆けつける僕だったが、本作は公開2日目に早くも見に行った。本当はアイマックスで見 たかった本作だったが、都合により普通の画面で見ることになったのが唯一心残りである。

ないよう

  狭いコクピットが騒音と共に激しく揺れている。ここは雲を突き抜けた夜明けの空で、周囲は徐々に明るさを増していこうとしていた。今、高高度極超音速実験 機「X-15」のコックピットに座るニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、ルイス飛行推進研究所のテスト・パイロットだった。激しい振動 に、今にも機体はバラバラになりそう。それが落ち着いたところで、さらにエンジン点火。再度機体は激しい揺れに襲われ、徐々に機首を上げていく。機体の先 端は赤くなって熱を持ち、コックピット内のニールにもその熱が伝わるほど。だが、その騒音と振動がまたしても止んだとたん、ニールは機体が何かの壁を「抜 けた」のを感じた。成層圏の突破である。眼下に広がるのは地球の明るい青。そして頭上には…漆黒の宇宙空間が見えていた。目指していた「高み」は、まさに ここだった。こうして目的を果たし、地上へ降りていこうとしたニールだったが…なぜかすぐに機体はまた高度を上げていくではないか。まるで成層圏の上でバ ウンドするように、機体ははじかれて高度を上げていく。マズいと気づいたニールは、機体の横から噴射を繰り返し、バランスを崩したカタチながら成層圏への 再突入を果たす。またまた激しい騒音と振動に襲われる機体は、何とか体勢を立て直して荒野のど真ん中に着陸。やがて消防車や出迎えのクルマがやって来た が、中にはニールの無茶っぷりを責める者もいた。しかし、ニールはそんな周囲の喧噪を冷ややかに見つめるばかり。心ここにあらずといった表情だ。それはま さに言い得て妙、彼の心はここにはなかった。ニールには、妻のジャネット(クレア・フォイ)、息子のリック、娘のカレン(ルーシー・スタフォード)…の大 切な家族がいる。そのうち娘のカレンは、重大な病いに冒されていた。その治療のつらさに泣く幼い娘の姿に、心を痛めるニール。そんな彼に、NASAから新 たにスタートするジェミニ計画の宇宙飛行士に…との打診があるが、娘のことが心配なニールは辞退するしかない。夜にはひとり娘の病いについて調べ、何とか 治せないかと心を砕く。だが、そんな思いも空しく、カレンは天に召されてしまう。虚ろな表情で葬儀に参列し、じっと感情を抑えていたニール。だが、書斎に 入ってひとりになると、ニールは初めて嗚咽を漏らして感情を露にする。そんな彼もカレンの形見であるブレスレットを引き出しにしまうと、悲しいという感情 も心の奥底にしまい込んだ。ニールがかつて断っていたジェミニ計画の宇宙飛行士の話に応募を決めたのは、それから間もなくのことだった。かくしてニールは 面接試験会場にやって来るが、面接会場にやって来た志望者は軍人ばかり。民間人はニールともうひとり…エリオット・シー(パトリック・フュジット)だけ だった。そんな縁で、まずはエリオットと親しくなるニール。やがて、ニールに面接の順番がやってくる。さまざまな質問に無難に答えていくニールだったが、 ある面接官は少々キツい質問をぶつけてくる。いわく「娘の死がミッションに影響すると思うか」…。そんなシビアな問いをぶつけられると、「そう考えるのが 自然でしょう」と答えるのが精一杯のニールではあった。それでも、面接の結果は合格。早速、ニール一家はNASAの居住地域に引っ越してくる。隣人は一緒 に飛行士に合格したエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)の一家。その妻のパット(オリビア・ハミルトン)とジャネットも、すぐに親しくなった。飛行士 たちの訓練もすぐに本格化。ニールは上下左右に激しく回転する訓練装置に一番手として乗り込むことになる。強烈な回転でも意識を失わずにコントロール・レ バーで操縦することを目的とした訓練だったが、あまりの激しさにすぐに意識を失ってしまうニール。それでも負けん気の強いニールは、すぐに再訓練を頼み込 む。その結果、飛行士たちは次々とトイレで吐く羽目になった。それでも直後には、真っ青な顔をしたニールたちに宇宙船に関する授業が容赦なく詰め込まれ る。それもこれも、ソ連に大きく水をあけられている宇宙開発を、何とか追いつき追い越せするための猛特訓だった。そんな中、エドがジェミニ5号で宇宙に出 て行くことになり、人類初の宇宙遊泳も行うことが決まる。意気揚々と訓練を続けていたニールやエドたちだったが、ソ連が一足先に宇宙遊泳を成功させたとの ニュースが飛び込んで来て、一同は冷水を浴びせかけられる思いをする。こと宇宙開発においては、今のところアメリカはソ連の背中も見えないというのが現実 だった。そんなある日、ジェミニ8号で船長を務めることを命じられるニール。ところがそんな折りもおり、ニールが最初から親しくしていたエリオットが、訓 練機の事故で亡くなった。飛行士の仲間たちはみな押し黙って葬儀に参列する。飛行士のひとりバズ・オルドリン(コリー・ストール)は、何を思ったか「エリ オットの操縦に問題があった」と暴言を吐いた。たちまちその場の空気にイヤな雰囲気が流れる。それを断ち切ったのは、ニールの「調査も済んでいないのだか ら、本当のところは分からない」という冷静な一言。それでも、「明日は我が身」という沈んだ気分は変わらない。そんなニールの目には、亡くなった娘カレン の幻影が見えた。冷静さを失ったニールは、妻のジャネットに帰宅を促す。だが、彼女がエリオットの妻を手伝うのですぐには帰れないと知るや、なぜかニール は黙ってひとりでクルマで帰ってしまう。仕方なくジャネットは、エド夫妻のクルマに乗せてもらうことになった。以前より身近なパイロットたちの死を目の当 たりにしてきたニールは、「死」に敏感になっているのか。ニールはエドにも、それどころかジャネットにさえも、あれからカレンのことを話題にしていなかっ たのだ…。こうしてやって来た、ジェミニ8号打ち上げの日。ニールはデビッド・スコット(ジョン・バーンサル)と共に狭い船内に乗り込んだ。カウントダウ ン、エンジン点火…たちまち船内は強烈な騒音と激しい振動に襲われる。さらにロケットの打ち上げによって、騒音と振動に凄まじい圧力が加わる。その程度 は、「X-15」に乗っていた時の比ではない。こうして何とか宇宙空間へと達したジェミニ8号だったのだが…。

みたあと

  本作がアイマックスで上映されていることを知っていた僕は、ぜひアイマックスで見たいものだと思っていた。だが、見に行った日は時間の関係でそれは叶わ ず、普通のスクリーンでの鑑賞となる。これには少々ガックリ来た僕だったが…結果的に言うと、実はそれで正解だったのかもしれない。おそらく究極の体験と してはアイマックスで見るのが最適なんだろうとは思ったが、見終わった時の正直な気持ちは「アイマックスで見なくて良かった!」。確かにリアルな体験が味 わえたかもしれないが、それは同時に少々キツい映画体験になったかもしれないのだ。実はそれぐらい、本作での宇宙飛行の場面はリアルでシビアだったのであ る。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  ともかく映画が始まってすぐ、いきなり狭くて暗いコックピットである。それが凄まじく揺れて今にも壊れそうだ。これは成層圏ギリギリまで飛ぶ実験機での場 面だが、本作全体を象徴する場面でもある。その後も終始、観客は主人公目線で狭いコクピットに押し込められる。本作は本来はアイマックスで見るべきとされ る大型スクリーンの映画だが、その大スクリーンを使って描かれるのは狭いコックピットの風景。つまり、クリストファー・ノーランが「ダンケルク」 (2017)で試みたような、大スクリーンの新たな使い方である。何も遠景ショットでスペクタクル映像を見せるばかりが大スクリーンの使い方ではない。閉 所恐怖症になりそうなミクロな映像こそ、その新たな可能性なのである。本作ではそこに強烈な振動と騒音を加えて、見る者に宇宙飛行の疑似体験を味あわせ る。それも、今にもビスがはずれそうな激しい振動である。当時、宇宙飛行士たちがいかに過酷な状況で旅立って行ったか、我々はそのシビアさの何パーセント かでも追体験できるのだ。確かにこのリアリティは今までなかったものだ。宇宙飛行を体験する…というのなら、遠景から見たスペクタキュラーなショットなど 必要ないのである。当時のアメリカの宇宙開発をリアルに描いた作品としては「ライトスタッフ」(1983)があり、時代背景的にも題材的にも微妙に重なっ てくる内容だ。僕は、本作と比べて「ライトスタッフ」が大きく劣る…とは言わない。両者はまったく異なる作品である。本作は、もっとパーソナルな体験とし ての宇宙飛行を描いたものだ。あくまで、主人公の視点を中心にして描いた宇宙飛行だからである。そうした宇宙飛行の新しい描き方、大スクリーンの新たな活 用の仕方こそが、本作最大の魅力でありオリジナリティだ。そういう意味で、本作は「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼルらしい作品だと言える。最初は 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」…と来ることから音楽ネタ専門の監督だと思っていたが、どうやらその見方は間違っていたようだ。「ラ・ラ・ランド」は 本来が作り物であるミュージカル映画を今日の「リアリティ」基調の映画の中で、どうやって溶かし込んで描こうか…という課題に果敢にチャレンジした作品 だったように思う。本作はどうしても映画の中でスペクタキュラーに描かれがちだった宇宙飛行を、大スクリーンを使いながらも極めてパーソナルでミクロな視 点から描き、個人が実感する「リアリティ」を再現したものだ。さらに日常生活を描いた場面にも、テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」 (2011)の家族の場面にも似た生々しさを感じた。それはまるで、「今」ではなくて「追憶」のような「リアリティ」だ。どうやらデイミアン・チャゼルと いう人は、映画における「リアリティ」に非常に意識的な映画作家らしいのである。だが、本作にはそれとは別に、もう一つの側面がある。それは、「死」への 誘いだ。主人公はパイロットとして同僚の死に何度も遭遇しており、かつ幼い娘を亡くしてもいる。「死」がいつも身近にあり、その悲しみに抗するためにいつ しか感情を抑制するようになっている。ライアン・ゴズリングという役者は、どこか何を考えているのか分からないような個性を見せる人だが、今回はそれが 100パーセント活かされた。何とも掴みどころのない感じが、この主人公にはぴったりなのだ。主人公は娘を亡くした悲しみを封印しているが、それを忘れる ことはない。それどころか、身近で「死」が繰り返されるたびに、それを思い出さずにはいられない。冒頭の実験機での成層圏突破の折り、主人公は彼方に宇宙 空間の漆黒を垣間見る。「ライトスタッフ」でもチャック・イェーガーの実験機飛行場面で同様のショットが出て来たが、こちらの「それ」はもっとヒンヤリと した闇を感じる。ぶっちゃけ言うと、それは「黄泉の国」を見るようなものなのだ。主人公は狭苦しいコックピットで激しい騒音と振動に苛まれながら、命を賭 けて宇宙飛行を繰り返す。それは、どこかマゾヒスティックな行為にすら見える。あの掴みどころのないライアン・ゴズリングだからこそ、まるでドM男のよう に思えてくる。わざと辛いこと苦しいことをしたがっているというか…もっとハッキリ言うと「死にたがっている」かのように見えるのだ。まるで幼い娘や往っ てしまった仲間たちのもとへ行きたいと願い、彼らがいる世界が宇宙の漆黒の彼方にあるかのように、主人公は宇宙飛行に挑むのである。当然、現世に生きる妻 や息子とは壁ができてきて当然だ。彼が家族に何も言わずに黙々と宇宙を目指すのは、そういうことだろう。だから月面に降り立つ際にパーッと視野が広がるく だりは、やっとあの世に到達した…というような幸福感がある。しかも、そこには「死」のような底なしの闇もある。体温が感じられないようなライアン・ゴズ リングだからこそ、この主人公の感じがよく出ている。そして、本作の人気がアメリカでもイマイチ盛り上がっていない理由は、そんなところにもあるのではな いか。これはむしろ、我々日本人の方がピンと来る感情なのかもしれない。そんな本作ではあるが、聞くところによると海の向こうでは「ファースト・“マ ン”」というタイトルからして男性中心的であるとか、白人中心主義だとか批判する向きがあったらしい。そんな一方で、「月面に旗を立てる場面がない」と抗 議した某国の大統領もいたという。どっちの立場に立っているにせよ、こういう人たちってちょっと…大丈夫なんだろうか。こんなことばかり聞かされる昨今… まだ年若い人々やお子さんには大変お気の毒だと思うが、僕はいいかげん人類も核戦争でも起こしてみんな「黄泉の国」にでも召された方がいいんじゃないかと 思っている。割とマジで。

さいごのひとこと

 まさしく空飛ぶ棺桶。

 

「クリード/炎の宿敵」

 Creed II

Date:2019 / 02 / 18

みるまえ

 一度は終わったと思った「ロッキー」(1976)シリーズが、「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006)によって息を吹き返しただけでなく、予想外に素晴らしい出来映えを見せたのには本当に驚かされた。だが、今度こそ終わったと思ったシリーズが「外伝」というか「スピンオフ」というべきか…ロッキーのライバルにして親友アポロの隠し子を担ぎ出して、「クリード/チャンプを継ぐ男」 (2015)としてまたまた復活したのには二度ビックリ。しかも、ある意味ではシリーズを無理矢理蘇生させたカタチになっているのに、これまた出来映えが 良かった。本家「ロッキー」シリーズの4作〜5作目あたりは悲惨な内容だったことを考えると、まさに驚嘆すべきことである。さらに興味深かったのは、 「ロッキー」の復活というより「ロッキー」を黒人映画として再構築したことで新風を吹き込んだ点。これを成し遂げた監督のライアン・クーグラーは大したも のだと大いに感心した。ところがそんな「外伝」に続編まで誕生と来ると、さすがに心配になってくる。「死んだはずだよ、お富さん」じゃないが、とっくに死 んだシリーズを何度も何度も蘇生させて、そうそう毎回成功を収められる訳はないだろう。しかも、今回は前作のクーグラーが監督から離脱。まぁ、正直言って クーグラーが「クリード」後に手がけた「ブラックパンサー」 (2018)は、世間で大評判だった程には僕には映画として魅力的とは思えなかった。だから、彼の離脱はそれほど痛いと思わなかった。それより今回の作品 が、何と「ロッキー4/炎の友情」(1985)の後日談になっていると聞いて、さすがに不安になってきた。この作品、ヒットはしたもののシリーズ中でもあ まりホメられた内容ではないからである。おまけに、お話も「ロッキー4」に出て来た強敵のソ連ボクサーが鍛えた息子を連れて来て因縁の対決…という、無理 矢理感溢れる内容だとのこと。もはや、イヤな予感しかしない。ところが先に見たある知人から、「面白い!」との報告が入ってくるではないか。それを聞いて 安心したものの、仕事が忙しくてなかなか見に行けない。何と公開最終日になってやっとこ劇場に駆けつけられたというアリサマである。

ないよう

  まだ薄暗い早朝、貧しいアパートの一室で目覚めた初老の男が、ソファで眠っている若い男をドツいて起こした。その初老の男は、アパートのベランダから街を 見下ろす。ここはウクライナはキエフの街。初老の男の名はイワン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)。かつて戦闘マシーンのごとき強さでアメリカにまで進出し た不世出のボクサーだったが、ロッキー・バルボアとの一戦で敗れ去った男だ。それから彼の運命は一転、今はこうして貧寒とした生活を送っている。若い男は その息子ヴィクター(フローリアン・ムンテラヌ)。イワンはヴィクターを男手一つで育て、ボクサーとして仕込んで来た。今日もこれから、地元の体育館で行 われるボクシング試合に出場するところ。殺風景な会場で行われるささやかな試合ではあるが、集まった男たちの熱気でムンムン。リングに上がったヴィクター は、鍛え上げた肉体を見せつける。だが、真に感嘆すべきはそのファイティング・スタイルで、獰猛かつパワフル。あっという間に相手をマットにねじ伏せる。 そんなヴィクターの圧倒的勝利に大いに湧く客席の中に、明らかに異質な男がひとり紛れ込んでいた。その男バディ・マーセル(ラッセル・ホーンズビー)は、 アメリカのボクシング・プロモーターだった…。一方、こちらは華やかで巨大なボクシング会場に、若い女が入ってくる。耳に補聴器を付けたその女の名はビア ンカ(テッサ・トンプソン)。今日は彼女の恋人であるアドニス・クリード(マイケル・B・ジョーダン)の試合を見るために、ここラスベガスのMGMグラン ドホテル特設リングまでやって来た。その控え室では、アドニスが試合前の緊張した時を過ごしているところ。この日の試合は、彼がヘビー級世界チャンピオン のダニー・ウィーラー(アンドレ・ウォード)と戦うタイトルマッチだ。他の試合と格が違う。そんなアドニスに、トレーナーとして就いているロッキー・バル ボア(シルベスター・スタローン)は静かにアドバイスを授ける。こうしてアドニスは、気持ちを高めながらリングへと上がった。試合は気力・体力ともに充実 したアドニスが、終始チャンプであるウィーラーを圧倒。見事KOで勝利を収めて、チャンピオン・ベルトを手中にした。だが、アドニスにはもうひとつ大事な ミッションがあった。宿泊先のホテルの廊下で、アドニスはロッキーに新たな教えを請う。それは、プロポーズの仕方だった。膝をついて指輪を差し出せ…など とロッキーに励まされたアドニスは、早速ホテルの部屋でビアンカにプロポーズ。彼女が補聴器の音声を切っていたのでまったく聞いていなかった…などとトホ ホな一幕もあったものの、無事に求婚は受け入れられた。かくて、ラスベガスの夜は更ける…。その頃、ウクライナの街で今日も肉体労働に精を出すヴィクター は、夜は父イワンとの父子鷹でリングを席巻。勝利の余韻に酔いながら家路に就こうとしていた二人の前に、あのバディが姿を見せる。いよいよ時は熟したの だ…。さて、試合から一段落ついたアドニスだが、ビアンカからロサンゼルスに引っ越す話を持ち出されて思案中。ロスには義母のマリー・アン(フィリシア・ ラシャド)が住んでいるし、レコード会社も多くビアンカにも好都合だ。それでもロッキーを置いてフィラデルフィアを去ることを戸惑うアドニスだったが、ビ アンカに「彼には彼の人生がある」と説得されて複雑な思いだ。当のロッキーは…といえば、いつものようにエイドリアンの墓の前に座って近況報告。彼は決別 以来顔を合わせていない息子ロバートのことを案じながら、いまだに電話一本かけられないことを悔やんでいた。一方、アドニスはビアンカを引き連れて馴染み の店に繰り出し、その場に居合わせた客たちに勝利を祝福される。大いに気を良くしていたアドニスだったが、客のうちの一人が発した「奴をやっつけてやれ よ!」の声に怪訝そうな顔をする。店内に置かれた液晶テレビでは、スポーツ・ニュースで驚くべき話題を伝えていた。それは、かつてソ連からプロボクシング 界に殴り込みをかけ、アドニスの父アポロ・クリードを倒して亡きものにした後、モスクワの地でロッキーに倒されたイワン・ドラゴに関するニュースだ。今度 はイワン・ドラゴが手塩にかけた息子ヴィクターが、アメリカ・ボクシング界に再挑戦するというのだ。同じ頃、自らの店「エイドリアンズ」に姿を見せたロッ キーは、店の中で大男が自分を待っていることを知らされる。その大男こそ、かつてロッキーに敗れ去ったイワン・ドラゴその人だったのである…。

みたあと

 大して期待もせず見に行って、その出来映えに大いに驚かされた前作「ク リード/チャンプを継ぐ男」。一度終わったシリーズを無理矢理引き継いだような設定からして、いかがなものかという気にさせられていたこの作品。そもそも 「ロッキー」シリーズ自体が1作目と「ファイナル」以外は結構大味な作品ばかり…ということもあり、「クリード」の娯楽映画としてキッチリ作られた丁重さ にビックリさせられたのがホンネだった。ただ、続編もそううまくいくかと言えば、またしても疑念が脳裏をよぎる。おまけに前述したように、今回の作品の下 敷きになった「ロッキー4」という作品そのものがシリーズ中でもいささか雑に作られた作品だった。アメリカのプロ・ボクシング界にソ連ボクサーが殴り込み をかけて来る…という無茶な設定、敵となるイワン・ドラゴがまるでボクシング・ロボットみたいな非人間的キャラクター…と、まるでマンガみたいなお話。そ れでも大ヒットしちゃったのは、レーガン政権時代の空気が反ソ連的な物語とマッチしていたからだろう。スタローンもこの作品と「ランボー/怒りの脱出」 (1985)で勘違いしちゃったのか、レーガン政権のスポークスマンみたいになってしまった。作品の出来映えそのものはシリーズ中でも最も大味で、その単 細胞さに嫌気がさしたのか音楽担当のビル・コンティもこの作品にだけは関わっていない。シリーズ中で、唯一「ロッキー」のテーマが鳴り響かない作品なので ある。大体があまりにイワン・ドラゴを一方的な悪役に仕立てた作風も頭が悪そうで、最後はモスクワの観客たちもみんなでロッキーを応援。何も悪くないドラ ゴがボロクソになって倒されてしまうエンディングはどうも好きになれなかった。個人的には、ドラゴにひどく同情してしまった記憶がある。そんな作品を下敷 きにしただけでなく、今度はドラゴの息子が登場…という設定は無理矢理にも程がある。おまけに、前作を成功に導いたライアン・クーグラーも降板。そんな訳 で、僕は本作にあまり期待をしなかった訳だ。正直言って、本作を取り巻く状況はかなり不利と言っていい。普通ならダメ映画決定の条件が揃いすぎているの だ。知人からのオススメがなければ、今回はパスしてもおかしくはなかった。そうして見に行った本作の感想はと言えば…これが面白いのである。どう考えても ヤバい要素が山積しているにも関わらず、娯楽映画としてよく出来ているのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  ロッキーとその息子のような存在であるクリード、対するは宿敵イワン・ドラゴとその息子ヴィクター。これをまるでシンメトリーのように配置した本作は、そ のポスターの絵柄を見るまでもなく「図式的」なお話である。おまけに、ロッキーと「実の息子」ロバートとの葛藤…というサイド・ストーリーまであって、ど こまでも徹底的に「図式的」である。本来なら、「図式的」な映画はリアリティがなくてウソっぽくなるものだ。それこそ本作の下敷きとなった「ロッキー4」 の、米ソ冷戦=東西対立がロッキー対ドラゴとダブル・イメージになっているのと同じ。故に「4」は単純単細胞で、マンガみたいな映画になってしまった。だ から普通の場合は露骨な「図式的」設定になることを避けるし、そうは見えないように工夫をするものだ。だが、本作は隠しようにも隠せないほど、「図式的」 設定がクッキリしている。ならば、なぜ下敷きにした「4」のようにアホ映画にならなかったのか。…実は、正直言ってそうなった理由は僕にも分からない。た だ、どうも意識的に「リアリティの増量」を図って、バカバカしくなるのを回避した形跡がある。映画が始まるとすぐに、物語はウクライナのキエフへと飛ぶ。 実際にはどこで撮影したのかは分からないが、少なくとも見た目にはリアルに見えるキエフだ。そこで出てくるのは「4」から30年以上経ったドルフ・ラング レン扮するイワン・ドラゴだが、その顔には当然のことながら同じく30年を超える時の流れが刻まれている。実はたったこれだけの当たり前なことで、本作は 「4」よりも段違いのリアリティを獲得しているのだ。面白いことに、回を重ねるごとに単純でバカバカしくなっていった「ロッキー」のシリーズだが、16年 後に「ザ・ファイナル」で復活した際にはそれまでとは段違いのリアリティを獲得した。それは、ロッキーに刻まれた年輪のせいである。同じ俳優がシリーズを 通して演じ続けて来たが故に、そこには作り物では得られない「リアリティ」が生まれたのである。その点において本作は、イワンの妻役だったブリジット・ ニールセンを小さな役に復帰させるところまで、過ぎ去った年月の再現が徹底している。だから、あれほどバカバカしかった「4」の設定がそのまま持ち込まれ ても、本作はアホ映画にはならない。そこに登場するイワン・ドラゴが、本当に30年以上経過した同一人物だからである。「ロッキー」シリーズはある意味で スタローン本人の人生記録となっており、その点で…少々大げさに言ってしまえば「大人は判ってくれない」(1959)に始まるフランソワ・トリュフォーの 「アントワーヌ・ドワネル」シリーズやリチャード・リンクレイターの「6才のボクが、大人になるまで。」 (2014)にも通じる内容だ。シリーズ中に作品的な出来不出来のムラはあるものの、全体を通してテクニックやスキルでは描き得ない人生の重みがのしかか る。これは、どんなSFXでも多額の制作費でも獲得できないエフェクトだ。かくして本作は、「4」の設定を踏襲しながらも格段の重みと説得力のある映画に なっているのである。さらにお手柄なのは、イワン・ドラゴのキャラクターの描き方に以前とは明らかな違いがあること。「4」は完全にマンガのように非人間 的ロボットとして描かれていたが、ここでは人間臭く苦悩する人物として登場する。イワンの妻役ブリジット・ニールセンをわざわざ引っ張り出したのが効いて いる。ただし、エンディングはクリードがヴィクターを倒すのがお約束な訳で、そうなると結果的に「4」と変わらなくなってしまう…と懸念していたら、最後 にイワンがタオルを投げることで決着…という粋な終わり方。イワンを人間味溢れるキャラクターとして描いた点が今回の新味で、これによって作品の格がグッ と上がった。特に僕にとっては「4」でのイワンは観客には応援されないわ共産党幹部には文句言われるわ…で可哀想過ぎたので、今回報われはしなかったが父 子でまた黙々と練習を再開するラストには嬉しくなった。どう考えても金儲けのためのこじつけ映画にしかならない題材をここまで持って来た、新鋭のスティー ブン・ケイプル・ジュニア監督の腕前には大いに感心。マンガみたいな単細胞な物語を、それなりに風格のある娯楽映画に仕上げていて、実に素晴らしいのであ る。

さいごのひとこと

 ロッキーのどこまでやるの。

 


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