新作映画1000本ノック 2019年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「ダーク・クライム」 「メアリーの総て」 「おかえり、ブルゴーニュへ」

 

「ダーク・クライム」

 Dark Crimes

Date:2019 / 01 / 21

みるまえ

  この年末年始は、何だかんだと猛烈に忙しかった。何となく浮き足立った感じで、映画など見に行く気にならなかった。そのうちズルズルと劇場から足が遠のい てしまっていたのだが、これではいかん…と重い腰を上げたのが、ちょうど月の半分を過ぎた日のこと。たまたまネットで映画のスケジュールを見ていたら、例 年、渋谷の映画館で開催されている、劇場未公開作の連続上映が今年も行われていたのだった。この催し、アメリカだけでなく各国の玉石混淆の作品が上映され て、僕はいつも楽しみにしているのだ。ハッキリ言って玉石…のうち石の方が圧倒的に多いのだが(笑)、時に珍しい国の珍品に巡り会うこともある。そんな 中、ついつい目に留まったのが本作である。どうもジム・キャリーの刑事サスペンスものらしいのだ。ジム・キャリーというと、正直言って僕は昔から苦手な部 類だった。コメディ作品ではあのアクと臭みがキツ過ぎる。シリアス作品だと過剰な善人ヅラが白々しくてイヤミにしかならない。そんな訳で出来るだけ作品を 回避していたら、「ナンバー23」 (2007)以降、彼の作品をパッタリ見なくなってしまった。そんな訳でジム・キャリーがどうやらシリアスな刑事ものをやる…というだけなら、別に見る気 にもならなかった。ところがどうやらかなりダークなイメージの作品らしく、しかも共演がシャルロット・ゲンズブールと聞くからただ事ではない。一体この作 品は何なのだ? これはとてつもない珍品で、後になったら見たことを自慢できる類いの作品かもしれない。そう思うと居ても立ってもいられず、劇場へと駆け つけた僕であった。

ないよう

  それは殺風景な建物の奥深くで、秘密裏に行われていた。男たちが全裸の女たちを連れて、それぞれの部屋へと散っていく。ある女は両手をしばられて天井から ぶら下げられ、ある女は複数の男たちに犯されている。そのような爛れた情交が深夜に行われている、ここは「ケージ」と呼ばれる秘密のセックス・クラブだ。 その怪しげな建物から出て来た男の一人が、クルマに乗って去って行く。そのクルマが行き着いた先は、立派な屋敷のガレージだった…。それからしばしの時が 経ち…、ここはあるアパートの一室。初老の刑事タデック(ジム・キャリー)が、妻マルタ(アガタ・クレシャ)、娘と一緒に朝の食卓を囲んでいる。だが、タ デックが神経質に目玉焼きをフォークで切り捌く音が聞こえてくるほど、その食卓は静まり返っている。この日もタデックは警察署に出勤してくるが、彼の役割 は記録係。どうやらかつて何らかの失態で降格させられ、このポジションに落とされたらしい。夜ともなれば、郊外の老人ホームに独りで暮らす母親(アンナ・ ポロニー)のもとに訪問。「自分を見捨てないで」と語る母親を静かに慰めるタデックだった。そんな彼がかつての事件資料から引っ張り出したのは、1本のビ デオテープ。そこには、ある殺人事件のニュース報道が録画されていた。川から揚げられた水死体、その両手は不審な結び方で締め上げられていた。被害者の名 前から名付けて「サドウスキー殺害事件」。その事件は例の秘密セックス・クラブ「ケージ」が関わっていたらしいのだが、結局は未解決のまま闇に葬られたの だった。だが、タデックはこれを掘り起こそうとしていた。若い相棒であるヴィクター(ピョートル・グロヴァツキ)が当時の担当者は誰だったのかとタデック に尋ねると、彼は「グレガーだ」と即答。グレガー(ロベルト・ビェンツキェヴィチ)とは、現在、この警察組織の主任として権勢を振るっている人物である。 この再捜査はグレガーを告発する…という意味合いを帯びる。当然、上の人間はこの捜査に難色を示した。タデックは直属の上司であるマリノウスカ女史(カ ティ・オウティネン)に直訴するが、「あなたを何とか残すのに、どれだけ苦労したと思っているの?」と厳しい言葉が返ってくる。だが、誰しもグレガーが腐 敗した人物であること疑ってはいなかった。そこでマリノウスカ女史もキツい指摘をしながら、タデックの再捜査を黙認。さらに上の上司であるピョートル(ヴ ラド・イヴァノフ)も、タデックを陰ながら後押ししていた。こうした背景から意を強くしたタデックは、例の「ケージ」に秘密があると注目。クラブが入って いた建物の大家ルーカス(ズビグニエフ・ザマホフスキ)から当時の監視カメラの映像を入手し、そこに有名な作家のコズロフ(マートン・ソーカス)が関わっ ていたことを突き止める。助手ヴィクターもファンだというコズロフの小説は、倒錯的な内容の作品だった。興味を持ったタデックは、コズロフ自らが作品を朗 読する音声データを購入。これをクルマでも自宅でも構わずに延々と聞き始める。案の定、それは例の「ケージ」での見聞を思わせる官能的な描写を多分に含む ものであり、例の殺しのことを具体的に語っているような部分すらあった。コズロフの周辺を探っていくと、時折、シングルマザーの愛人カシア(シャルロッ ト・ゲンズブール)のもとを訪ねる様子が伺える。幸薄そうなカシアとの関係も、何か意味有りげだ。一方、あまりコズロフの作品をあたり構わず聞き込んでい たタデックは、妻のマルタからも顰蹙を買うようになる。もはや定年も目前にして何をやっているんだ…と、苦言を呈されるアリサマだ。だが、タデックはもう 止まらない。作品を聞き込むに従ってコズロフが「真犯人」に違いないと確信したタデックは、ついに人気作家である彼の逮捕に踏み切るのだったが…。

みたあと

 見る前は「ジ ム・キャリーの刑事もの」ぐらいしか情報を持っていなかった僕だが、いざ映画が始まってみて驚いた。驚いたのは、冒頭に出てくる秘密セックス・クラブの描 写…にではない。何とジム・キャリーの役は刑事は刑事でも、ロスやニューヨークの刑事ではない。そもそもアメリカ人ではない。事もあろうにポーランド人の 刑事の役なのだ。これには正直たまげた。頭髪も薄めに刈り込み、ムサ苦しいアゴヒゲをたくわえての登場。まるでドストエフスキーとかロシアの作家みたいな 陰鬱な見た目で、東欧人のパロディみたいな様変わりぶりである。だが、本作はパロディでもないしコメディでもない。本気も本気。ポーランドにオールロケし て、完全なポーランドのお話として作っている。先ほど冒頭に秘密セックス・クラブの描写が出てくると述べたが、その描写のショッキングさなど大したことは ない。このジム・キャリーのポーランド刑事ぶりの方が、よっぽどショッキングなのだ。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  そんな訳で、お話はずっとポーランドの街(ワルシャワではなくどこか地方都市らしい)で展開。その殺風景な建物や風景と加えて、最初から最後までドンヨリ とした曇天が続くので見ていて憂鬱になっていく。おまけにお話も演出もひたすら淡々と単調で、主人公をはじめ寡黙な人物ばかりなので、誰も彼もが何を考え ているのか分からない。それだけなら…ヨーロッパ映画でそのようなスタイルをとっている出来の良い作品がいくらでもあるので問題ないが、余計な枝葉を剥ぎ 取ったお話の根幹はすこぶるお寒いのだ。結局、何かやらかして冷や飯食いになった主人公が、一発大逆転のリベンジを目論んで頑張ったはいいが、大ハズシし て自滅…という話。その主人公の言動が、よくよく考えてみると相当にアホだから始末に負えない。巨悪に立ち向かうため相当の覚悟と準備が必要と上司から念 を押されているにも関わらず、単なる勢いで容疑者を捕まえながら何も策がないという無能ぶり。何か裏付けがあってやるならそれもいいが、とりあえず捕まえ るというのではどうにもならない。捕まえたら捕まえたで、ただただ凄んでるだけ。さらには容疑者の女に衝動的に手を出すという、理解に苦しむ行動に出てし まう。おまけに最終的に容疑者を「真犯人」として捕らえる決め手が、ほとんどこれは脅迫ではないかという手口。しかも供述書にサイン…というだけの証拠ら しい証拠もない逮捕である。さらにさらに、実は真相は「????」…という杜撰さ。嫁や娘には逃げられ、母親は捜査に夢中で放置したため死んでしまうとい う散々な目に遭ったあげく、しまいには…という信じられないアホっぷりである。ジム・キャリーは終始深刻な顔をして芝居しているし、演出もシリアスで一瞬 のユーモアも見せない描き方だが、それがなければコメディじゃないかと思いそうな主人公の与太郎ぶりなのである。これはマズいだろ。オープニングにはおど ろおどろしい秘密セックス・クラブの様子が出て来て、これは猟奇サスペンスとして描くんだろうなと思っていたが、実はそれってほとんど本筋とは関係ない。 実際、事件の根幹は別にセックス・クラブなくても成立しそうな話なのだ。あのコケ脅しみたいなオープニングは何だったのか。監督のアレクサンドロス・アヴ ラナスって人はギリシャの人らしく、何でポーランドを舞台にしたアメリカ映画に起用されたのかはナゾ。この人がひたすら淡々と描いていてヤマ場なしという のも、本作が退屈になった一因。いきなりハリウッド映画抜擢だから喜んじゃって脚本をロクに見なかったのか、それともギリシャ人だから英語の脚本がキッチ リ読めていなかったのか。というのは、この脚本ではどう考えても面白い映画になりようがないと思えるから。脚本を書いたのは、「ラストキング・オブ・スコットランド」 (2006)の脚本家ジェレミー・ブロック。どうやらこのお話自体は実話だったらしいので、自由に改変できない縛りがあったのかもしれないが、それにし たって不出来な脚本だと思う。それよりそもそも、何でこんな映画をアメリカ映画として作ったか…だよねぇ。おそらく本作の最大の「売り」としては、ジム・ キャリーの化けっぷり…ということになるのだろうが、それもいかがなものか。ジム・キャリーはいつもの彼らしさを徹底的に消して、終始ドストエフスキーみ たいな顔をして出てくる(笑)。それはそれでスゴいことなのかもしれないが、そうなると別にジム・キャリーでなくてもいいじゃないか…ということになりは しないか。そんなこんなで、すべてが完全に誤算となっている作品なのだ。ジム・キャリーがなぜこんな映画に飛びついちゃったのかは不明。何でもいいからシ リアス映画をやりたかったのかねぇ。

みどころ

 案の定、本国でもクソミソに叩かれており、大コケし た本作。実は2016年の作品ながら公開が大幅に遅れたのも当たり前である。わが国でもネットでは総スカンをくらっているが、それがマトモな反応だろう。 何しろ本質はバカバカしくて退屈な話なんだから。ただ、僕は東欧にすごく興味があるので、ポーランドの煤けて殺風景な街並みや建物が見れるだけでご馳走。 これは理屈抜きなのだ。おまけに「マッチ工場の少女」(1990)、「過去のない男」(2002)、「街のあかり」(2006)、「ル・アーヴルの靴みがき」(2011)…などアキ・カウリスマキ作品常連でオバサン顔をしたカティ・オウティネンを筆頭に、アンジェイ・ワイダの「ワレサ/連帯の男」(2013)でワレサその人を演じたロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、「トリコロール/白の愛」(1994)にも出ていたズビグニエフ・ザマホフスキ…など、普段ならアメリカ映画でお目にかからない俳優たちが大挙して出て来て僕としては狂喜乱舞。また、「ニンフォマニアックVol.1」(2013)、「同Vol.2」(2013)のイメージを引きずってのシャルロット・ゲンズブールも出演。せっかくハリウッド映画に出ても「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 (2016)とかこれみたいにカスばかり掴んじゃって気の毒なこの人だが、個人的にはこういう珍品で見ることが出来て嬉しかった。ただし、これはあくまで 個人的な好みの問題でしかなくて、映画そのものの評価とは別の話。とてもじゃないがマトモな皆様にはオススメ出来かねると言わなくてはならないだろう。

さいごのひとこと

 ポーランド好きしか楽しめない。

 

「メアリーの総て」

 Mary Shelley

Date:2019 / 01 / 21

みるまえ

  メアリー・シェリーの伝記映画が来る、主演はエル・ファニング…ということを知ったのは、結構前のことだった。どこかの映画館でチラシを手にして、本作の 存在を知ったのだと思う。あの「フランケンシュタイン」の作者の話である。中学生の頃に文庫本で手に入れた時、著者名として「シェリー夫人」と書いてあっ たあの人物のことだ。そうなると、ちょっと興味がわくではないか。そして古典的コスチュームに身を包んだエル・ファニングの佇まいは、僕にある作品のこと を思い出させた。それはスッカリ巨匠っぽさが影を潜めたフランシス・コッポラが、数年前に発表したファンタジック・ホラー「ヴァージニア」 (2011)。この作品はとてもコッポラ作品とは思えない小品で、上映時間が短いにも関わらずダラダラ退屈な作品。なのに、なぜか捨てがたい魅力のある作 品でもあった。この作品の中でエル・ファニングは主人公の夢の中に出てくる不気味な少女を演じて、何とも異彩を放っていたのだった。今回も題材が題材なだ けに、あの不思議な魅力を遺憾なく発揮してくれるような気がする。おまけに監督はちょっと話題になった「少女は自転車にのって」(2012)の人だとい う。僕はこの作品を見逃してしまったが、監督は確かサウジアラビアの人である。そこらあたりも妙に引っかかるではないか。だが、それから身辺が忙しくなる につれて、僕は本作のことをスッカリ忘れた。思い出したのは、年末になってある知人から本作を勧められた時である。もう公開がいつ終わってもおかしくない 時期になって、僕はあわてて本作を見るために劇場へと向かったのだった。

ないよう

  曇り空の下、墓地でひたすらノートに何か書き留めている少女がいた。彼女の名はメアリー・ゴドウィン(エル・ファニング)。書き留めているのは、何から怪 奇小説らしきもののようである。やがてメアリーはノートを閉じて、街の喧噪の中へ。彼女の生家は、父親が営んでいる本屋だ。実母はすでに亡く、メアリーは 妹クレア(ベル・パウリー)や幼い弟と一緒に継母(ジョアンヌ・フロガット)に育てられている。だが、案の定この継母との折り合いは悪い。何かと自分の世 界に入り込みたいメアリーを、継母は快く思っていない。そもそも継母は先妻のすべてを快く思っていないのだ。メアリーの実母メアリ・ウルストンクラフト は、女性の権利を主張する社会活動家。しかも恋愛にも激しい女で、その一生を完全燃焼して、若くして亡くなったのだった。父ウィリアム・ゴドウィン(ス ティーヴン・ディレイン)も政治などについてひとかどの意見を持つ思想家だったが、現実にはしがない本屋を営んで食うや食わずの苦しい生活をしている。イ ンテリの父ウィリアムはメアリーが毎日本を読んでいることを喜んでいたが、それが怪奇小説だと知ったら良い顔はしないだろう。まして創作となったら推して 知るべし。結局、この家でのメアリーの理解者は妹クレアだけ。そんなある日、懸念していたことが起こる。メアリーがノートに小説を書き留めているところを 継母に見つけられ、ついに正面衝突してしまう。後妻には強く出ることができない父ウィリアムは、娘のためを思ってメアリーをスコットランドに住む友人ウィ リアム・バクスターの元へ送り込むことにする。メアリーが家を去るにあたっては、「借り物の言葉でなく自分の言葉で語れ」という父の言葉が餞別代わりだっ た。こうして向かったスコットランドの土地。これから自分にどんなイバラの道が待っているかと想像していたメアリーは、意外にもここでの生活が楽しく心地 よいことに驚かされることになる。メアリーを受け入れてくれたバクスター家の娘イザベル(メイジー・ウィリアムズ)が、彼女に親しく接してくれたのがあり がたかった。そんなある日、メアリーはバクスター家を訪れた若き詩人パーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と衝撃的な出会いを果たすのである…。
ここからは映画を見てから!

みたあと

 前述の物語は、まだ映画のほんの冒頭部分のみ。お 話はメアリーとこの詩人パーシー・シェリーとの出会いからが本題である。一旦は実家に戻るメアリーだが、パーシーは彼女を追って来る。だが、パーシーには 実は妻子もいた。当然のごとく両親に反対された二人だが、よせばいいのに駆け落ち。そこに妹クレアもついてきて、新生活が始まる。だが、潤沢な親の資金で 贅沢していたパーシーが、勘当されてたちまちジリ貧。借金で夜逃げの末、生まれたばかりの赤ん坊を失う羽目になる。そんなどん底生活の果て、クレアが色仕 掛けで高名な詩人でもあるバイロン卿と親しくなった縁で、彼のお屋敷に一家で転がり込むことになる。ここで贅沢三昧の暮らしをする彼らだが、そこでバイロ ン卿が「退屈しのぎにみんなで怪談でも書こう」と言い出すのが、メアリーが「フランケンシュタイン」を書く動機となる…という訳だ。そこに、メアリーが電 気の公開実験を見に行って、死んだカエルの脚が電流で動くのを見るエピソードなどを入れつつ、パーシーと結婚してからの不幸がメアリーに「フランケンシュ タイン」を書かせる糧となったと語る訳である。

こうすれば

 だ が、映画前半でのメアリーのありようは、正直言ってグダグダである。誰がどう見てもクズなパーシーと駆け落ちしたはいいが、案の定、生活はたちまち行き詰 まる。特に僕はブ男でひがみっぽいので(笑)、クズなイケメンに勝手に入れ込んで自滅するメアリーにまったく共感できない。バカな女としか思えない。どん どん追いつめられても「ざまぁ」としか思えないのだ(笑)。特に自らを知的で進歩派と自任するメアリーは、「自由恋愛」を錦の御旗に掲げられるとヤリチン 男のパーシーに一切反駁できない。このバカさ加減に心底イライラさせられるのだ。そんなグダグダ話が盛り返してくるのは中盤以降。バイロン卿の家で「怪談 話」を考え始めるあたりから。なるほどこうして「フランケンシュタイン」が生まれたのだな…と、素直にいろいろと感心した。だが、せっかく盛り上がって来 た話も、エンディングで「???」となる。やっとこ出版に漕ぎ着けた「フランケンシュタイン」だが、出版社は女の書いた小説では…と作者名ナシで出版。あ たかもパーシーが書いたのごとき雰囲気を漂わせる。無念の思いを抱きながらもどうすることも出来ないメアリーだったが、久々に父の書店に立ち寄ってみる と、父親は人々を集めて「フランケンシュタイン」出版を祝す集いを催し、その場に現れたパーシーが同作が彼女の創作であると明かす。そこでメアリーとパー シーは向き合って「めでたしめでたし」…って、んな訳はねぇだろボケ! まず、この生温いエンディングがぶち壊しである。最後の大事なところでメアリーが 夫に対して「選択には自分に責任がある」と発言したのは、簡単に言っちゃうと「こんなクズ男を選んだ私がバカでした」という意味なので、もはや自分を「被 害者」とも思わないということだろう。それって、ある意味で夫パーシーへの依存から脱していて、ズバリといえば「彼を見限った」ともいえるはずだ。ところ が、そこがサラッと流されてしまった。おまけに「見つめ合う二人」…みたいな描かれ方で、ヌル〜くて甘いエンディングになってしまった。これでは単にイケ メン亭主と和解する…という大甘なハーレクインロマンス的な幕切れではないか…と大いに憤慨してしまった。これはどうせ男の監督だからだな…と思っていた ら、「少女は自転車にのって」のサウジアラビアのハイファ・アル=マンスール監督って女だそうではないか。えええええ〜?…と大いに驚いてしまった。こ りゃ一体どういう訳なんだ。何でもかんでも男が悪いというフェミニズム映画を見せられるのはまっぴらだが、こんなヌルい映画を女が撮ってどうする。そこま ではかなりグイグイ来ていたのに、何でこんなエンディングになっちまったのか。それはやはり、イケメンには弱いという女の監督ゆえの弱点(笑)だったの か。そのイケメン詩人のイケメンぶりですら、何だか田舎のホストかムード歌謡グループ「純烈」のDVメンバーなみ(笑)の安っぽさなのも寒々しい。女の自 立テーマだから女の監督…と思っていたら、とんだ盲点だったか。申し訳ないが、そうとしか思えない。

みどころ

 そんな訳で ケチをつけてしまった本作だが、全体的には悪い印象はない。それというのは、「フランケンシュタイン」誕生秘話…という部分が説得力を持って描かれていた からだ。「怪物」を生んだのはメアリーの不幸の故である…というそのプロセスが、非常に分かりやすく語られていたからである。故に、すでによく知っていた と思っていた「フランケンシュタイン」の物語が別の意味で見えてくる…という構造も素晴らしい。さらに僕が個人的に気に入ったのは、「フランケンシュタイ ン」を書き上げたメアリーが、これを出版社に売り込むくだり。無名作家が自作を版元に売り込むのは、本当に至難の業である。私もこれを何年も経験したから 分かる。その最初の壁を突破するまでが大変なのだ。さらに出版が決まってからも、自分の名前が作者としてクレジットされない悔しさ。私自身、それと同じよ うな経験をして来たから分かる。自分の名前を自作の本に刻むために、私もずっと戦い続けたのだ。だから人ごとではない。共感せずにはいられない。これはも う男とか女とかじゃない。だから、最後にクズ亭主とヌルい和解などして欲しくなかった(笑)。ともかくメアリーの名前が最終的にクレジットされたというこ とに、僕は我が事のように嬉しくなったのである。

さいごのひとこと

 DVやヒモ体質の男が臭いポエム好きってのは今も同じ。

 

「おかえり、ブルゴーニュへ」

 Ce qui nous lie (Back to Burgundy)

Date:2019 / 01 / 07

みるまえ

  セドリック・クラピッシュの新作が公開されると聞いたのは、かなり前のことだ。その時はちょうど僕の仕事が忙しくなって来た頃で、正直言って映画のことな んて考えてられなかった。それに、そもそもクラピッシュ監督の作品自体が久々すぎた。前にどんな作品を見たか…さえ記憶も定かではない。それでも、僕が最 初に見たクラピッシュ作品「猫が行方不明」(1996)の鮮烈な印象は忘れることができない。そのフレッシュさから、僕はまったく新しいフランスの映画作 家の登場を痛感した。それから日本に到来したクラピッシュの旧作やら「家族の気分」(1996)などの作品にも大いに興奮。このサイトを僕が開設してから は、まず「パリの確率」 (1999)が公開された。本作は初のSF仕立ての作品、何と伝説的スターのジャン=ポール・ベルモンドが出演…と嬉しい要素もあり、僕も大いに楽しんで 見た記憶がある。だが…今考えてみると、楽しんで見てはいたものの、この作品あたりから何となく違和感を感じていたような気もするのだ。続く「スパニッシュ・アパートメント」(2002)も気に入った、そして群像劇「PARIS/パリ」 (2008)も楽しかった。どれも好きだったはずなのだが…今となってはほとんど記憶に残っていない。しかも「スパニッシュ・アパートメント」はその後の 「ロシアン・ドールズ」(2005)、「ニューヨークの巴里夫」(2013)…を合わせて三部作を形成しているのだが、なぜか僕は2作目、3作目を見逃し てしまった。それもあって、「PARIS/パリ」以降の彼の作品をずっと見ていなかった。そのうちクラピッシュという映画作家の存在すら忘れかけていたよ うな訳だ。あんなに好きだったクラピッシュなのに、今じゃその記憶すら曖昧。これでいいのか…と思っていたある日、映画情報を見たら何とその日が最新作 「おかえり、ブルゴーニュへ」の公開最終日と気づいた。こりゃマズい。何となくこの新作は見なくちゃいけない。僕は他の予定を全部うっちゃって、慌てて劇 場へと駆け込んだ。

ないよう

  子供の頃、窓を開けて外を見ると、毎日変化があった。窓の外に広がるブドウ園。それは四季折々に変化を続けていた。だが、彼…ジャン(ピオ・マルマイ)が 成長するに従って、ここでは何も変わらないと悟り始める。友人たちは大学に行くため、この土地を出て行った。ジャンは父親にブドウ園を継ぐように言われて 嫌々留まったものの、やがて耐えきれずにこの土地を飛び出した。それから10年…。世界を見て回ったジャンは、再びこの土地に戻って来た。父親が重い病い に倒れたと聞いて、今やヒゲづら男となった彼は実家に戻って来た訳だ。懐かしい家の門をくぐると、出迎えたのはこのブドウ園で長く働くマルセル(ジャン= マルク・ルーロ)。彼に招かれて、ジャンは久々に実家の中に入って行く。翌朝、そこにやって来たのは妹のジュリエット(アナ・ジラルド)。二人は久々の再 会を大いに喜ぶ。だが、次いでやって来た弟のジェレミー(フランソワ・シビル)の場合は微妙だった。何しろ10年の間ほとんど音信不通。母親の葬儀にも 帰って来なかったのだ。今頃ひょっこり戻って来て、大歓迎されると思うなよ…とイヤミのひとつも言いたくなる。だが、それもつかの間のこと。マルセルが倉 庫で重い機材の移動に力を貸してくれ…と呼びかけ、3人で力を合わせて機材を動かすうち、お互いのわだかまりも徐々に溶けて消えていく。実はジェレミーの 妻(ヤメ・クチュール)は別のブドウ園のオーナーの娘で、義父は少々高圧的な男だった。それ故、時々苛立ちを隠せなくなるジェレミーではあった。だが、そ れから間もなく事態は急転。ある朝、眠っているジャンのもとにジュリエットとジェレミーが沈痛な表情でやってくる。父親がついに亡くなったのだ。こうして 葬儀が営まれることになるのだが、その際にジャンは母親の葬儀に行けなかった理由を語り始める。ジャンの子供の誕生が、ちょうど同じタイミングだったの だ。実はジャンの妻子が地球の裏側にいるという事実に、軽い衝撃を受けるジュリエットとジェレミーだった。そんなジャンたち兄妹とマルセルはブドウ園に分 け入り、その実を口に含んで収穫する日を決めようとする。その成熟度を見極めるには、経験とセンスが必要だ。ここでジュリエットとジャンの意見が割れる が、とりあえずは今週の木曜日…と日にちが決まった。一方、ジャンたち3人が法律事務所に呼び出され、父親の遺産の相続問題を話し合うことになる。その場 で彼らが聞かされた話は、何とも微妙な話だった。いわく、3人は相続税を払わなければならないが、そのためには在庫のワインを売っても足らない。しかし土 地を処分しようにもそれには3人全員の合意が必要で、土地を3人で分割することはできないというのだ。そんなジャンたち兄妹だったが、ブドウ園の状況は彼 らを待ってはくれない。そこには収穫を待つブドウが待っていた…。

みたあと

 まずは白状しな くてはならないのだが、僕に常識がないのか教養がないのか、本作のことを書いたレビューやら何やらにやたら出てくる「ドメーヌ」という言葉を知らなかっ た。これってブルゴーニュ地方におけるワイン生産者のことを表す言葉なんだそうな。恥ずかしながらワインをたしなむ習慣もない僕は、まったく知らなかっ た。知ってるフリをしても仕方ないので、ハッキリと言わせていただく。いやぁ、まったくモノを知らないねぇオレは(笑)。それはともかく、僕は本作に好感 を持った。今までもセドリック・クラピッシュの映画はいつも気に入っていたのだが、本作には年齢を重ねたからこそ分かる部分も少なくなかった。まずはその ことを最初に言わねばならないだろう、「ドメーヌ」なんて言葉よりも(笑)。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  そんな訳で、僕はこの作品を好意的に見たのだが、正直に言うとちょっと困ったところもない訳ではない。まず見ていて気になったのは、オーストラリアに妻子 がいて、しかもそこにブドウ園まで持っているという長男が、1年もの間それらを放ったらかして故郷でウダウダしていていいのか…という素朴な疑問。途中、 その妻子がフランスまで来ちゃうのだが、それはそれでブドウ園はどうなるのか?…と、もっと気になってしまう。つまりは、これは不自然な設定なのだ。もう ひとつ気になる点といえば、長男や次男のプライベートは掘り下げられているのに、長女に関してはその手の説明が一切ないところか。ブドウ摘み要因の男にナ ンパされているだけで、なぜかスルーになっているのは解せない。それを言ったら、あれほど主人公たちを悩ませた相続税の問題が、ラストでアッサリ解決して ハッピーエンドってのもどうなんだと言いたくなる。アレもコレも、たぶんツジツマ合わせによるホコロビなのだろうと思うのだ。

みどころ

  そんなアレコレを挙げたら、本作の脚本はガタガタでヌルい出来映えの映画だと思われてしまうかもしれない。確かに脚本にはあちこち無理はあるのだが、本作 にはそれを埋めて余りある美点がある。それは、映画始まってすぐのオープニング・タイトルバックですでに現れている。高速度撮影やコマ撮り撮影によって、 時間の流れを猛スピードで表現。ブドウ園の緑があっという間に茶褐色になり、さらにそれらの葉が落ちて辺り一面雪化粧。その後、再び瑞々しい緑が戻ってく る…という、季節の移り変わりを見せる手の込んだショットが何度も積み重なる。このオープニングだけに限らず、本編もほぼ1年かけてブドウ園とワインづく りの実際をじっくりと描いていくのだ。この手間ひまかけた贅沢な撮影ぶりに驚かされた。絶対に、これは実際に1年かけなければ撮れない。そして、こうした じっくりした撮影でなければ、本編のドラマもうまく描けなかっただろう。大人にはどうしても現実がかぶさって来てしまうことや身内の煩わしさ、それでも何 とかしていくしかないというメッセージ…これらはじっくりと描かれたブドウ園の営み、ワインづくりの描かれ方がなければ語り得なかった。このじっくりと1 年かかって撮ったという「リアル」があるから、多少の話の甘さがあっても許せる。説得力が出てくるのである。本来なら兄弟の話に愛憎ドロドロのクソリアリ ズムが出てきそうなものなのだが、ここではそうはなっていない。「それが現実だ!」なんて野暮な話になっていないところが個人的には嬉しい。じっくりとし たワインづくりの描写にも通じる「大人の映画」になっているのである。だから、結論も甘いと言えば甘いのかもしれないが、逆に「それこそが成熟なのだ」と いう気になる。あのセドリック・クラピッシュがこんなに成熟したのか…と感慨に耽ってしまった。長男が1年も自分の家を放っておくのは不自然…と先に述べ たが、あえて不自然さが出てしまっても、このワインづくりを1年じっくり追いかける…というところから生まれる映画としての「うまみ」の方を優先した結果 なのだろう。そして、クラピッシュは見事に勝利した訳である。僕らが知らないワインづくりの実際の詳細に描いてくれるのも、見ていて大変面白い。

さいごのひとこと

 ワイン好きじゃなくても味わい深い。

 


 to : Review 2019

 to : Classics Index 

 to : HOME