「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

  Once Upon a Time in Hollywood

 (2019/10/21)



見る前の予想

 クエンティン・タランティーノの新作と来れば、そりゃ映画ファンとしちゃ見たいって言わないといけないムードになっている。
 おまけに今回は当代随一のハリウッド・スター二人、レオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの初共演と来る。見たいはずだよね…と周囲も当然のようにそんな圧をかけてくる。まぁ、そりゃ見たくない訳じゃないが、ちょっと待っていただきたい。事はそれほど単純じゃない。そう決めつけられても困ってしまうのだ。
 実は正直なところ、ここ最近のタランティーノ映画には少々疑問がある。前ほど単純には楽しめなくなっているのだ。
 もちろん本作の製作ニュースは耳にしていて、期待もしていない訳じゃなかった。そもそも1960年代という時代が大好きだし、かつてのアメリカ映画が好き、映画づくりの裏話も好き…な僕としては、絶対に見たい題材ではないか。
 だが、それでも僕は何となく躊躇していた。2時間40分を超えるという上映時間の長さも、生理現象的に最近の僕にとってはキツかった(笑)。だが何より…大好きな題材だからこそ、それで妙なことをやらかして欲しくないという気持ちが強かった。おまけに当時のロマン・ポランスキー夫人だったシャロン・テート惨殺事件を扱うと聞いて、イヤな予感がますます高まった。これってシャレにならない事件だからねぇ。
 タランティーノ自身は10本で映画監督を辞めると言っていて、本作は9本目だから後1本となった訳だが、そんな変なもったいつけようも気に入らない。え〜い、誰も止めるな止めるな…と言いながら、実はみんなに止めて欲しくて仕方ないような気がしてきてしまう(笑)。辞めるなら黙って
サッサとひとりで辞めろよ。
 そんな訳でどうしても気が重くなってしまって、仕事の忙しさも手伝って劇場から足が遠のいてしまったのだ。しかし、アレコレ文句は言ったものの、やはり 本作を見ないという選択肢はない。そんな訳で公開からかなり経ってしまったものの、何とか劇場まで駆けつけたという訳である。

あらすじ

 西部の街で暴れ回るその男、人呼んでジェイク・ケーヒル。彼はテレビ西部劇シリーズ「賞金稼ぎの掟」の主人公だ。どんな悪党も手も足も出ない、情け容赦なく撃ち殺す…。
 今日もTVレポーターが、ハリウッド最新情報をお届け。ジェイク・ケーヒル役を演じるスター、リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)と彼のスタントを務めるクリフ・ブース(ブラッド・ピット)に撮影現場でインタビューだ。
 「アクションには危険はつきもの。クリフにはそんな場面を時々手伝ってもらう」「時々?…毎度のことだろ!」
 そんな軽口の叩き合いは、まさに息の合った気の置けない間柄ならではのやり取りだ…。
 ある日のこと、駐車場に停めたクルマに二人の男が乗り込む。ハンドルを握るのは先ほどのクリフ、助手席に座るのはリックだ。二人はこれからどこかに出かけようというところである。
 同じ頃、パンナム機でヨーロッパから到着した旅客の中に、一際目立つカップルがいた。今をときめくポーランド出身の鬼才監督ロマン・ポランスキー(ラ ファル・ザビエルチャ)と彼の新妻で新進女優のシャロン・テート(マーゴット・ロビー)である。二人はまぶしくストロボの光を瞬かせるパパラッチをやり過 ごし、クルマで空港を後にする…。
 さて、リックとクリフの二人はちょっと高級なバーへとやって来る。そこで酒を注文して待っていると、やって来たのは映画プロデューサーのシュワーズ(ア ル・パチーノ)。今日はこのシュワーズとのアポのために、わざわざこの店までやって来たのだ。もちろんプロデューサーから声がかかれば、喜んで馳せ参じる リックだ。オイシイ話がいつ舞い込んで来るか分からないからである。リックはクリフをカウンターに待たせて、シュワーズと二人だけの話し合いを始める。
 とは言いながら、最初はつかみどころのない話だった。シュワーズは最近、自宅の試写室でわざわざリックの主演映画を2本立てで見てくれていたという。撃ちまくり殺しまくるリックに、シュワーズもご機嫌。特にお気に入りは、リックがナチの秘密基地に潜入する第二次大戦中の特殊部隊モノ。リックが作戦室のナチ将校たちを火炎放射器で皆殺しにするクライマックスが、シュワーズにはたまらないようだ。実はリックにとってもこれは映画界での成功を狙った野心作で、わざわざ火炎放射器の使い方を特訓した程。だが、物事は必ずしも期待通りにはいかないものだ。
 いつもリックを贔屓にしてくれているシュワーズだが、それだけにストレートにモノを言って来る。テレビの「賞金稼ぎの掟」が終わって以来、リックはイマ イチ波に乗れていない。映画に進出しようとしてもうまくいかず、今は単発のテレビシリーズのパイロット版ドラマに出るか、人気シリーズのゲスト出演ばか り。「いろいろ出てますよ」とリックは強気を装うが、どうせゲストと言っても悪役、若手の主役の引き立て役だ。それではリックのイメージが下がるばかりではないか。いや、まったくごもっとも。リックはグウの音も出ない。
 そんな彼の窮状を見るに見かねたというシュワーズからの提案は、何とイタリア映画の主演の話。セルジオ・コルブッチという監督が、自作のマカロニ・ウエスタン映画の主役にリックをご所望というのだが…。
 シュワーズとの打合せが終わって店から出て来たリックは、駐車場で思わずクリフに泣きつく。
 「ズバリ言われた、もうオシマイだ、現実を突きつけられた。イタリア映画に出ろとさ」
 「イタリア映画? いいじゃないか、やれよ」
 「冗談だろ? イタリア映画なんかに出るようじゃオレも終わりだ
 プライド崩壊で涙するリックを励ましつつ、彼をクルマに乗せて出発するクリフ。そもそも、なぜクリフがリックの送り迎えをしているか…といえば、リック が酔っぱらい運転で免停をくらったという情けない理由からだ。そんなこんなで徹頭徹尾やることなすこと裏目のリックは、クリフの励ましにもまったくテン ションが上がらない。
 だが、二人を乗せたクルマがリック邸の駐車場に着いた時、隣の屋敷に一台のクルマが走り込んで来る。それは、先ほどのポランスキーとシャロンを乗せたクルマだった。それを見た瞬間、死んだ魚のような目をしていたリックの顔がパッと明るくなる。
 「お隣さんがあの世界的映画監督ポランスキーだぜ! こりゃスゴい!」
 これは何かいいことが転がり込んで来るんじゃないか…と、たちまちリックは元気回復。余りの単純さに笑っちゃうが、こんなことで「相棒」の機嫌が直るならクリフもオッケーだ。
 そんな訳で明日の送り迎えをリックに約束したクリフは、そこに停めてあったボロ車に乗り換えてハリウッドの街へ…。辿り着いたのは、ドライブインシア ター脇にあるトレーラーハウス。そこがクリフのささやかな住まいである。そこには愛犬のランディが、クリフの帰りを今や遅しと待っていた。腹ペコでもクリ フがドッグフードの用意をするのをじっと待っている、まさに「忠犬」そのもののランディである。
 リックは自邸のプールに浮かびながら、酒と音楽をお供にして明日の撮影に備えた台本の練習。その頃、「お隣さん」のポランスキーとシャロンはクルマで外出。向かったのはお城のようなプレイボーイ・マンション。かの有名な「プレイボーイ」誌の総帥ヒュー・ヘフナーの邸宅である。そこでは夜な夜な有名人と美女を集めて、盛大なパーティーが開かれていた。
 もちろんポランスキーと、殊にすこぶる付きの美女であるシャロンはここにふさわしい客だ。彼女には、パーティーに参加していたスティーブ・マックイーン (ダミアン・ルイス)やミシェル・フィリップス(レベッカ・リッテンハウス)らセレブたちも一目置く華やかさがあった。だが、マックイーンはシャロンを取り巻く「大人の事情」を知っていたから、彼女に投げかける眼差しもいささか皮肉なものにならざるを得ない。
 シャロンには「友人」ジェイ・セブリング(エミール・ハーシュ)がいつもピッタリとくっついていた。元はと言えばジェイがシャロンの婚約者で、そこにポ ランスキーが現れてシャロンをさらっていったカタチになっていたのだ。そんな事情を分かっているのかいないのか、留守がちのポランスキーはシャロンの身の 回りの世話をジェイに託していたのだが…。
 翌朝、クリフはまたクルマでリックを撮影所まで送って行く。今日も今日とて、おなじみ人気シリーズのゲスト出演。かつて知ったる西部劇の出演だが、また しても若手主演スターを引き立てる悪役としての登場である。そのクリフはイマイチ浮かないリックの表情に気づいて、気合いを込めた檄を飛ばしたのだった。
 「おい! オマエさんはあのリック・ダルトン様なんだぞ、そいつを忘れんな!」

近年のタランティーノ映画と本作への懸念
 別に自慢でも何でもないが、僕は一応クエンティン・タランティーノの監督デビュー作「レザボア・ドッグス」(1991)から、全作リアルタイムで見ている。
 その後、「パルプ・フィクション」(1994)から映画界では大変な人になっちゃった訳だが、僕はといえば「うまいな」と思いつつ、特に個人的に大好きというほどでもなかった。そして作品としての「うまさ」から言うと、僕にとっては次の「ジャッキー・ブラウン」(1997)で頂点を極めた感がある。その後、何作も作っている彼だが、実はいまだに質的には「ジャッキー・ブラウン」が一番完成度が高いんじゃないか。僕は本気でそう思ったりもしているのだ。
 ただ、個人的には…実は僕が「大好き」になったのは、その次のキル・ビルVol.1(2003)と同Vol.2(2004)で…のことだったと思う。どんな映画だって映画なんだ… というのが僕の自論だったし、正直言って娯楽映画とアート系映画、アジア映画とヨーロッパやアメリカ映画…などなど、やたらめったらカテゴリーで分けて、 映画をランクづけするような風潮が昔からキライだった。実際にはそうは言いながら自分の中でも「独自のランクづけ」はあったりするので、これは自己矛盾と 言えば自己矛盾である。だが、理想的には「そうありたい」というのが僕の正直な気持ちだったから、それをカタチにしてくれたようなこの2作には真面目に感 動した。前々からタランティーノ作品にはその傾向があるにはあったが、それでも「キル・ビル」以前はどこかオタクの閉じた世界に留まる感じがした。だが 「キル・ビル」は、それをもっと大きなスケールで、オタクのサークルからハミ出すカタチでやってくれた気がしたのだ。それ故に、僕はタランティーノを大いに評価した訳である。
 だから、次のデス・プルーフ in グラインドハウス(2007)にも期待した。実際、映画ファンとしては楽しい映画である。「キル・ビル」以上にB級・C級映画へのオマージュ感が強い。場末の映画館の二本立て、三本立てみたいな感じも映画ファンの心をくすぐる。僕も非常に楽しんだクチである。楽しんだクチではあるが…実際にここまでオマージュ感が強いと、これはまたまたオタク的に「閉じた映画」ではないかなと疑問が残ったのも事実である。まぁ、ハッキリ言って内々で楽しんでいる映画である。
 おまけに「デス・プルーフ」はお遊び感が強く、本気出してないという雰囲気も濃厚だった。本気を出せばこんなものではないはずだ。そんな訳で、次作イングロリアス・バスターズ(2009)にまたまた期待がかかる。今回は大スターのブラッド・ピット主演と来るから、さすがにお遊びでは作れまい。案の定、この作品は「デス・プルーフ」にはなかった重量感があった。面白い。僕も本サイトの感想文で大いにホメちぎった
 しかし今だから白状するが、実はちょっとだけ引っかかったところがある。それは、ラストのくだりだ。燃える劇場内で、ヒトラーが撃ち殺されるというヤマ場である。
 ここが欧米の観客に大ウケだったというのは、さもありなん。もちろん「ナチス=悪」なのだから、彼らはそれでいいのだろう。だが、僕は正直そこに引っか かった。いかにタランティーノ映画だから…とはいえ、この映画って「キル・ビル」じゃないだろう。少なくとも、ラストに至るまでは一応マトモな戦争映画のコロモを纏っていた。だとすると、多少いいかげんとはいえ、とりあえずは現代史を扱った映画というカタチをとっているはずだ。それなのに、史実と違えてヒトラーを殺しちゃっていいのか?
 もし仮に、ヒトラーはこの劇場で死んだが、その後は影武者がなりかわってナチスを率いた…などどいうナゾ理論を語って終わるというなら、まだ分からない でもない。だが、そういう訳でもない。単に実際の歴史とは異なる筋書きの「歴史劇」を作るというのは、果たしていかがなものだろう。それでは何でもあり… になってしまうではないか。
 もちろん、これは歴史劇だと思ったらそうでなかった…という作り方もあるだろう。だが、そういうジャンル越境をするならするで、それなりの作り方はある はずだ。そうでなければ、法廷劇に幽霊を出してもいいのか、恋愛映画に宇宙人を出していいのか…みたいな話になってしまう。それはちょっと乱暴だし、雑な のではないか。
 もっと気になるのは、タランティーノがなぜこのような結末にしたか…である。多くの犠牲者を出したヒトラーをここで殺すのは、多くの人々にとって溜飲が下がることではあるだろう。実際、この映画のレビューではこの点を絶賛している人が多い。確かに悪い奴が酷い目に遭えば胸がスカッとはするだろう。そういう意味ではざまを見ろではある。
 だが、これは過去の時代を舞台にした歴史劇のカタチをとっている映画だ。それも、クレオパトラの時代などではない。すでにフィルムも発明されている20 世紀のお話なのだ。そこで…何らウルトラC的な方法をも使わずに…歴史的事実を曲げてしまうのはさすがにマズいのではないか。そもそも、ここで最も溜飲を 下げるだろう人々はヒトラーの被害者たちであろうと思われる訳だが、タランティーノはそういう人々に対して「ボクが仇討ちをしてあげましたよ」というつもりなのだろうか。あるいは「人類の悪」に対して自分が鉄槌を下した…というつもりなのだろうか。
 でも、それってちょっと偽善なのではないか。そんな「良い事」をする自分は善人だ…という、一種の自己満足ではないのだろうか。僕はどうもこれを素直に受け取れないのである。
 そもそも20世紀最大の災厄ともいえるヒトラーとナチスの罪業は、そうそう単純な背景によるものではない。 ヒトラーを叩いて胸がスッとする…とか、ヒトラーひとり殺せば解決…みたいな、そんな問題では済まない話のはずだ。そもそも、誰がヒトラーを首相にしたと 思っているんだ。そんな簡単な話じゃないだろう。それなのに、ヨーロッパを中心に世界的レベルで悲惨な状況を作り上げた問題を、いつもの調子でポップに 扱っているあたりに危うさを感じる。そのあたりからして、非常に現代史を幼稚で乱暴に捉えているような気がしてならないのだ。
 もちろん「イングロリアス・バスターズ」自体は1960〜1970年代あたりに作られたイタリア製B級娯楽戦争アクションの体裁をとっている。だから、 そこで「現代史とは」云々とか「歴史劇とは」云々などと言うのは野暮でナンセンスだと言われればその通りである。だから、ナチスをケチョンケチョンにやっ つけてやったぞ…的な幕切れを用意すること自体は、娯楽映画的には何ら問題はない。確かにそう言えばそうなのだが、そこで歴史を曲げてヒトラーを殺してし まう…という「ありもしないこと」まで持って行くなると、ちょっと事 情は違って来るのではないか。もしそんな作劇が「あり」だというなら、とっくの昔にあまたある戦争アクションが同じようにやっているだろう。タランティー ノだからやれた…という卓抜した発想でも何でもないからである。そんなことをほとんど誰もやって来なかったというなら、それはそうしないだけの理由があったからだろう。それは、最低限の映画のルールというものがあるからである。
 前にもベイビー・ドライバー(2017) の感想文で語ったことだが、映画のジャンルやらルールはダテにそうなっている訳ではない。むろん例外はいくらでもあるが、あえて「掟破り」をするなら、そ れ相応の段取りというものが要る。「映画の生き字引」とでも言うべきクエンティン・タランティーノを捕まえて映画のセオリーを語るほど僕は映画博士でも何 でもない。だから、これは「釈迦に説法」みたいなモノだとは十分承知もしている。だが、残念ながら「イングロリアス・バスターズ」の幕切れには、そこまでの覚悟も意識も感じられなかったのだ。
 むしろ、いかにも自分は良い事してやったぞ…的なタランティーノのドヤ顔が伺えるその結末には、どうしても奥歯で砂を噛んでしまったような違和感を感じずにはいられなかった。ちょっとオマエ、あまりに物事を単純に考えすぎてるんじゃないの?
 続いて発表されたのが、西部劇ジャンゴ/繋がれざる者(2012)である。「キル・ビル」あたりからさまざまな映画のジャンルを横断していく気配が見えていたので、西部劇に手を出すのは時間の問題だとは思っていた。セルジオ・レオーネエンニオ・モリコーネへの傾倒が前々から顕著だったので、それがマカロニ・ウエスタン…というのも容易に想像がついた。僕も西部劇は大好きだったので、タランティーノのような才人がこのジャンルを手がけてくれるのは、個人的に大変嬉しかった訳だ。だから、またまた期待した。
 だが、これも何となく引っかかってならなかった。当然、この題材でこう描くとなると、黒人差別問題に言及していることは想像がついた。ちょうど世の中もそういう機運が強まって来た頃だ。確か2012年か2013年のオスカー授賞式あたりから、人種差別や性差別などなどが強く言われるような雰囲気になっていた。だから、この映画もそういうテーマの一環と考えるべきなんだろう。
 もちろんタランティーノが「社会派」的発言を映画でしたって、別に悪い訳ではない。それをマカロニ・ウエスタンのカタチでやろうというのも、この人らし いといえばこの人らしい。だが、前作に引き続いて「タランティーノが斬る」みたいにやられると、ちょっと微妙な感じがしないでもない。前作の場合、ヤケに 物事を単純に捉えちゃったために、問題が矮小化してしまったような気がした。それを考えると、この「ジャンゴ」だって同じように見えてくる。おまけに、あ まりにタイムリーなテーマなので、いかにも世の中の空気を読んで時流に沿って主張させていただきました…的に感じてしまうのだ。
 しかも、2作とも誰が見ても「悪」と見なされていて文句のつけようもないモノを、特にこれといった独自の視点もなしにコテンパンにしているあたりがどうかと思う。この作品だけを見たらここまで思わなかったかもしれないが、前作「イングロリアス・バスターズ」があんな結末だったので、「また社会派ごっこかよ」と意地悪な見方しか出来なくなってしまった。まぁ、確かに僕はひねくれているかもしれない。それは単なる言いがかりと言われても仕方がない。
 だが今の時点で、タランティーノほど名声を得た人間があえて「社会派」をやるなら、そこに新たな視点や考えを盛り込んだ上でやらなきゃ意味がないのではないか。タランティーノという人は、ここまで余人を持って代え難い非凡な切り口で映画を撮ってきた映画作家である。その割には、あえて打ち出された「社会派」メッセージがあまりに単純で芸がないように思えたのだ。
 そんな悶々とした思いを抱かされた僕は、タランティーノの次の作品が再度の西部劇だと聞いて、またまた複雑な思いがした。イヤな予感がしたのである。ただし、今回のヘイトフル・エイト(2015)は室内劇、それもミステリー劇仕立てである。
 この作品では、ほとんど室内劇なのに70ミリ・フィルムで撮るとか、ちょっと面白いことをやってはいる。そして、今回もちょっと「社会派」の味付けである。ただし、さすがに3作続けてその手の作品を作るとなると、タランティーノだって少しはコツが分かって来たのだろう。今回はアメリカの血塗られた歴史の告発…というのがテーマで、前作、前々作のような単純な発想ではない。もうちょっと自国の歴史について複雑な視点で描いている。それまでは「ヒトラーが悪い」「差別は悪い」と子供みたいに簡単に言っていたタランティーノだが、ここではアメリカの歴史そのものが持つ歪みについて言及している。その意味では、だいぶ大人の視点で描いているように思える訳だ。
 だが…これを言ったら異論反論を多くいただいてしまうかもしれないが、どちらにせよ「タランティーノ差別に物申す」「アメリカを斬る」的なテーマであるのは否めない。言っちゃ悪いが「上から目線」の語り口なのである。
 ファンと言うものはまことに勝手なものである。それは僕も分かる。分かるけれども、そもそもはタランティーノって貸しビデオ屋の店員が上り詰めて映画監督になった…みたいなところが「売り」ではなかったか。だから好きになれたし、本当の映画に対する愛情が感じられて共感できたのだ。それが大上段から振りかぶって「社会派」ぶられたって、違和感を感じない訳にはいかない。
 おまけに、それがそれなりの思索を重ねた上で、新たな知見による告発がなされるならばそれでもいいだろうが、「ウソは良くない」「親孝行をしよう」レベルのガキみたいなことしか言ってないならば、わざわざこいつに偉そうに言われたくないというのがホンネである。確かに正しいことは言っているけれども、結局のところ「ボク良いこと言ってます」とアピールしたいだけでしかない気がするのだ。
 また、劇中でサミュエル・L・ジャクソンブルース・ダーンをネチネチと言葉で延々いたぶる場面も、僕にとっては見るに耐えなかった。もちろん長ったらしい描写はタランティーノの十八番で、マカロニ・ウエスタンへの傾倒ぶりを見てもセルジオ・レオーネのゆったりした描写の彼なりの模倣であることは明らかだろう。グダグダした戯言をしゃべる場面も、「レザボア・ドッグス」冒頭でのマドンナ談義以来のタランティーノの意匠である。しかしこの映画での言葉でのネチネチしたいたぶりは、少々度を超している。ここまでやる意味が分からないし、ハッキリ言って不快だ。おまけに映画全体でこの描写がこうあるべき役割も分からない。ここまでやる必要がない。感じられるのは、ただただ「オレはここまで徹底的にやっちゃうよ」的な自己陶酔か自己満足である。ハッキリ言って悪ノリでしかない。
 それもこれも含めて、僕はすっかりタランティーノに失望してしまった。実は映画への愛も、映画に描かれた題材や登場人物への愛も、さらには見る観客へのもてなしの心もない。あるのは、単に自分への愛だけである。「こんなことを言うオレって善人」「ここまでやっちゃうオレはハンパない」みたいなうぬぼれだけだ。
 これってただエラソーなだけなのである。映画が好きで夢中だったはずの気のいい男が、今ではすっかり傲慢な成り上がり者になってしまったとしか思えなかったのだ。
 だから、2大スター共演、大好きな1960年代、大好きな映画界裏話…の新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の話を聞いても、イマイチ気持ちが乗らなかった。
 おまけに、そこで扱われるのは当時のロマン・ポランスキー夫人であるシャロン・テートの惨殺事件だというから、またまたちょっとイヤな気分になった。
 実際に起こった事件だから、映画として取り上げることは自由だ。だが悲惨な目にあった被害者や遺族がいる事件を、あのタランティーノお得意のポップでエグいタッチで描くのはいかがなものだろう。面白がってハシャぐのはいかがなものか。ちょっとオマエそれは傲慢が過ぎるんじゃないのか。どうもイヤな予感しかしないのだよね。
 肝心の2大スター共演についても、何となくイヤな予感がした。例を挙げれば、かつてのタワーリング・インフェルノ(1974)でのポール・ニューマンスティーブ・マックイーンのような、当代随一のスターの共演だ。もちろん大したスターじゃないとか昔のスターには負けるとか、そんな異論をお持ちのヘソ曲がりや半可通もいるにはいるだろうが、普通に考えればイマドキのトップスター共 演である。だから、ファンでなくても期待はするだろう。だが、レオとブラピの二人って現役ではあまりに大スター同士なので、共演ってどうなんだろう…とい う気持ちがしないでもない。もちろん、あまりに大スター同士過ぎて共演させようという発想がなかなか出なかったという点では、ドラゴン・キングダム(2008)のジャッキー・チェンジェット・リーみたいな感じもある。だがその一方で、そもそもこの二人って食い合わせが悪いのではないか…という懸念もある。
 タランティーノもこんなコテコテの大スター二人を共演させるってあたり、オレくらい大物だからこういう事が出来るんだよ…的な驕りが感じられて、これまたちょっとイヤな感じである。どう見たって、タランティーノ自身が言っているように「単純に適役だったから」…だとは思えないのだ。
 そんな訳で、イヤな予感しかしないタランティーノの新作。果たしてその結果やいかに。


見た後での感想
 随分長々とタランティーノのフィルモグラフィーにケチをつけてしまった。我ながらひどい事を言ったものだと思う。半分以上言いがかりだと言われても仕方がない。だが、本当にそう思ってしまったのだから、そのように言わない訳にもいくまい。
 実際、僕はこの映画への期待値がかなり低かった。なぜなら、前述したようにリスキーな要素が満載だったからだ。こりゃあロクなもんにならねぇぞ…と覚悟していた。
 先にも述べたように、10作目で辞める…なんて「やめるやめる詐欺」みたいなことを言い出したのもウンザリさせられた。宮崎駿だってリュック・ベッソンだって、辞める辞める言って一向に辞めなかったじゃないか。辞めるなら早く辞めろ。オレだってもう辞めた方がいいと思うよ、いいかげん鼻についてきたし。
 そんな訳で気乗りしないまま劇場に見に行った本作だが…結論から言ってしまおう。
 気に入った!
 久々にタランティーノ映画を無条件に楽しませてもらった。これは僕が好きな映画である。完成度云々は僕にはあまりよく分からないし、語るつもりもない。だが、好きであることは間違いない。そういう意味では「キル・ビル」以来の快作ではないだろうか。
 そして、もうひとつ確信したことがある。
 タランティーノは間違いなく10作目で映画監督を辞める。本作を見て、それはどうやら本気だと感じた。全編に漂うただならぬ気配に、それを察したのだ。というか、本作を見たらそうしかならざるを得ないと確信したのである…。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 



完成度は決して高くない本作だが
 本作はまず、映画ファンには嬉しい作品である。
 映画が始まってすぐ、画面に出て来る「コロンビア映画」のカンパニー・ロゴからして凝っている。アルゴ(2012)のワーナー映画のロゴが物語の時代背景に合わせて1970年代〜1980年代前半に使われていたモノに変えられていたように、本作のコロンビア映画ロゴもまた1969年当時のモノになっている。「戦場にかける橋」(1957)や「ナバロンの要塞」(1961)などと同じ「あれ」である。
 映画界の話だから、当然のごとく映画の小ネタ満載。特に嬉しいのは、ディカプリオ扮するテレビスターのリック・ダルトンがイタリアで出演する3作品の場面だろうか。
 1960年代の映画をテレビで死ぬほど見た僕などからすると、あそこに出て来るリック・ダルトンの主演作は、どれもこれも「感じ」を出してて嬉しくな る。いずれも本作のために作られたフェイク映画で、その意味では「デス・プルーフ in グラインドハウス」の延長線上にある。だが、「グラインドハウス」のそれはいささか悪ノリやり過ぎ感が濃厚で、かなりディープな「そっち」系の映画ファン しか楽しめないシロモノだった。ハッキリ言って「閉じた」描写だった。今回は一般観客にもそれなりに楽しめるレベルにとどめる程のよさがあり、タランティーノの趣味も抑制が利いていると思う。
 リック・ダルトンの出演しているテレビ西部劇なども、西部劇が好きな僕には嬉しかったし、なおかつ「あの時代」の映画やテレビの雰囲気を漂わせてはいる が、決して一般観客を置いてけぼりにはしない配慮がなされていたと思う。それらを知らなくても何ら問題はない。単に「知っていたらさらに楽しい」…レベル でしかない。
 これは、ちょっとしたタランティーノの成熟ではないだろうか。
 ただ、そうした配慮や抑制が利いている一方で、本作にはいささかユルい面があることは否めない。例えば、ブラピがロサンゼルスの街並みでクルマを走らせる場面な どがそうである。タランティーノ一流のこだわりで、今回はCGを使わないで街並みの再現が行なわれたようである。ロサンゼルスの何ブロックかを閉鎖して、 実際の街をオープンセット化して撮影された再現度は圧巻。このブラピのクルマ運転場面は延々と長いが、素晴らしい効果が発揮されている。
 ただ、この場面がこの長さを必要としていたかというと、確かに難しい面もある。
 僕などはここで延々とかつてのロサンゼルスを再現したからこそ、時代色が濃厚に出たと思っていたりもする。実際、僕は本作を見ていて、久々に自分がロサ ンゼルスに行ったときのことを思い出した。これまで実際にロサンゼルスで撮影された映画を見ても、そんなことは滅多になかった。しかし本作でのロサンゼル スの街並み描写は、まるでニオイまで感じられるようなリアルさだった。綺麗事でないロサンゼルスが描かれていたと思えるのである(…なんてことも、実際に 住んでいる人や頻繁に行っている人から見れば笑止千万だろうと思えるので先に言っておくが)。
 その一方で、正直に言ってクルマの場面は少々長過ぎだというのも分かる。本作の上映時間は2時間40分以上。さすがに長い。その理由は、こうした長々した描写が多いからだ。長いシークエンスを撮ってもタイトに見せる演出がなされていればいいが、残念ながら僕が見ていても長いと感じるのだから、実際に引き締まった描き方はされていないのだろう。つまり、ユルユルなのである。
 しかも、クルマの場面に限らず、本作は全編に渡ってユルユルである。
 一例を挙げれば、マンソン・ファミリーが占拠している「スパーン牧場」にブラピが乗り込んで行く場面。不穏な空気が立ちこめて、終盤のヤマ場につながっていく結構重要な場面だ。何かが起きそうな、ただならぬ雰囲気が延々と続く場面である。
 おそらくは、またまたセルジオ・レオーネを見習った長々した描写ということなのだろう。本作のタイトルはレオーネの傑作「ウエスタン」(1968)…原題は「Once Upon a Time in the West」…や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)から採られたと思われるので、おそらくはそのはずだ。しかしながら、レオーネばりに全編緊張感が漂う場面かというと、結構ダラダラしている。あの息詰まる感じはない。それどころか、タランティーノの過去作品と比べても何となくユルいのだ。
 そのユルさは、映画そのものの構成に関しても言える。本作は筋書きがあるように見えて、実はあまりキッチリした構成では組み立てられていない。一本筋の通ったストーリーラインがある訳ではなく、まったく映画としての内容や質は異なるが…ある意味でアルフォンソ・キュアロンROMA/ローマ(2018)にも通じるようなエピソード羅列型の構成である。
 そこでの各エピソードの描き方も、結構グダグダと言えばグダグダである。これまた例を挙げれば、ブラピがブルース・リー(マイク・モー)と戦うくだりがそれだ。お話自体は映画ファンにはお楽しみのエピソードになっているが、問題はその描き方。おそらく観客のうち何割かは、このブラピ対ブルース・リーの戦いが本編のお話と同日、同じ時系列で起こっていると 思ってしまうのではないか。実はこれっていわゆる「回想」シーンで、本編の日より前に起きたことを描いているに過ぎない。だが、そのあたりが混乱してとっ 散らかされたカタチで描かれてしまっている。案の定、ネット上のレビューなどもこのあたりを勘違いしていると思われるものが散見できる。だが、そう思われ ても仕方がない。これは明らかに演出ミスだと思うのだが、いかがだろうか。
 これが以前のタランティーノだったら、こんなだらしない描き方はしない。あるいは時系列をいじるにしても、いじったことが後でちゃんと伏線になったりする描き方をするはずだ。だが、本作では単に混乱させたに過ぎない。正直言って「うまい」とは言い難い描き方だ。とてもじゃないが、「パルプ・フィクション」で構成の妙を見せたタランティーノとは思えない描き方なのである。
 しかもこのブルース・リー登場場面は、劇構成上カットしてしまってもまったく問題はない。いや、物語を語る上ではカットした方が通りがいいかもしれないのである。つまりは無駄なのだ。単にタランティーノのお楽しみで入れた場面なのである。
 もうひとつイマイチな点を追加すれば、本作でのシャロン・テートの描き方も極めて薄っぺらである。マーゴット・ロビーというスーサイド・スクワッド(2016)、「アイ、トーニャ/史上最大のスキャンダル」(2017)で今や旬の女優さんが演じて「もうひとりの主役」的な扱いにされているにも関わらず、キレイだが頭空っぽのお人好しにしか描かれていない。まぁ、シャロン・テートはそういう人だった…と言われれば仕方がないし、上り調子のハリウッドスターの典型として描いている部分もあるのだろうから「そういう描き方もアリ」なんだろうが、あまりにペラッペラな人物像なのは否定できないだろう。これも残念な部分ではある。
 また、ブラッド・ピット扮するクリフがクルマで拾うヒッピー娘プッシーキャット(マーガレット・クアリー)が、非常に重要人物然として出て来ながら肝心のヤマ場に出て来ない。同じく、本作の最大の悪役であるはずのチャールズ・マンソン(デイモン・ヘリマン)も、チラッと曖昧なカタチで出て来るだけでそのまま映画から退場してしまう。 むろんこれらは実在人物だから、事実に即して描くとそうは都合良く登場させられない…ということなのだろう。しかし、それならそれで別に描きようがあった のではないか。しかも、後述する本作の「描き方」から考えてそれは言い訳にならない。やはり本作の構成はあまりうまくいっていないのである。
 だから、本作は決して映画としての完成度は高くない。「ジャッキー・ブラウン」を見て感心した時のように、絶賛できる出来映えとは必ずしも言えないのである。

誰にも忍び寄ってくる「衰え」の時

 そんな訳で、映画ファンの心をくすぐる趣向を盛り込んで、1969年のハリウッドの時代色をたっぷり打ち出した本作。そんな素晴らしさの一方でグダグダ感、ユルユル感満載なだらしなさもあって、何とも評価に苦しむ作品ではある。
 だが本作の真骨頂は、実はそこではない。それは主に、レオナルド・ディカプリオ扮するテレビスター、リック・ダルトンの描写にある。
 ご存知の通り、リックはスターとしても中途半端で、しかもそろそろ峠を超えちゃっている人物である。時代からも取り残されつつあり、もがいてもどうにかなるとは思えない状況だ。本編の前半部分はリックが若手スター主演の西部劇シリーズにゲスト出演しているという設定で、彼の役は悪役。あくまで若手スターの引き立て役という位置づけである。
 当然、彼は仕事をしていても今ひとつ気が入らない。休み時間に気晴らしに本でも読もうとして、子役スター(ジュリア・バターズ)が休んでいる隣へとやっ て来る。この子役スターが歳の割にはプロ意識強くて、不甲斐ないリックとの落差が激しくて大いに笑えるのだが、実は興味深いのはその後。子役スターに読ん でいる本の内容を問われたリックは、ストーリーを説明しながら突然泣き出してしまう。その本に描かれた人物の境遇が、どこか自分に重なると説明しながら感じてしまうからだ。どんどん衰えて落ち目になっていくということを、自ら痛感せざるを得ないからである。
 先ほど「時代からも取り残されつつあり」…と書いたが、実は問題はそれだけとは言えない。人間は乗りに乗っている時期はそう長くはない。どんなスターでもアーティストでも名人でも、実はそのキャリアのピークはせいぜい10年ぐらいのものだ。その後は、どんな偉大な業績を残した人物でも必ず下り坂になる。その例を挙げるには、別にオーソン・ウェルズエリッヒ・フォン・シュトロハイムマイケル・チミノみたいに悲劇的な末路を辿った人物を挙げる必要はない。普通に誰でもそうなる。スタンリー・キューブリックは早死にしたから分からないが、もうちょっと生きていたら彼だってどうなったか分からない。稀に何度かピークをつかまえることが出来る人間もいるが、それだっていつか終わる。スピルバーグだってうまくごまかしてはいるが、浮き沈みは結構激しかった。誰だっていつまでもピークではいられないのだ。
 また、そこまで傑出した人物を例えに挙げなくても、このリックの焦燥感は容易に理解できる。誰でも普通に歳をとれば衰える。それは能力やセンスだって同じ事だ。実は僕だってそうだ。
 単純な話、昔は何の苦労もなくいくらだって文章を紡ぐことが出来た。今考えればどれも大したシロモノではなかったかもしれないが、それでもまったく悩む ことなくドンドン書けた。今ではちょっと書いていてもつっかえつっかえで、どこかで止まってしまうこともしばしばである。
 明らかに自分は以前より衰えている。
 いずれ書けなくなってしまう日が来るに違いない。また、センスが錆びてしまったり頭が固くなったり…ということも、遠からぬ将来に我が身に降りかかって くるだろう。いや、もうそれは始まっている。それは時間の問題である。そういう逃げられない恐怖を、常日頃から抱えているのだ。
 だから、リックの絶望感と焦燥感は人ごとではない。むしろ、歳をとってきた自分こそ切実である。まるで我がことのように思える。
 そして、それは当年とって56歳になるクエンティン・タランティーノその人にとっても同じことだろう。
 子役スターにリックが自らの不安と焦燥を吐露するあの場面は、シャレにならない実感が伴っていた。あれは絶対に、作り手だって人ごとだとは思っていないだろう。本作がタランティーノの「職場」であるハリウッドを舞台にしているのは、単なる映画マニア的意味合いだけではないはずだ。「これは自分の物語だ」という、観客に対する一種の目配せであるに違いない。
 そもそも、他の誰よりも才気走った作風が売りのタランティーノは、それだけに自らのセンスの錆び付きやスキルの衰えに敏感なはずである。そして、タランティーノの作風が過去の映画作品からの「引用」を多用していることも、彼に自らの衰えを余計に強く感じさせるかもしれない。
 タランティーノは浴びるほど見て来た古今東西の映画の知識と記憶から、さまざまなエッセンスを吸収して自分の作品に注ぎ込んで来た。むろんそんじょそこ らの映画ファン風情では太刀打ちできないほどの映画知識を持っている彼ではあるだろうが、それでもそのエッセンスをふんだんに自らの作品に注入していった としたら、いずれは引き出しの中身も枯渇するのではないか。少なくとも、そういう不安に襲われても不思議はない。
 そして、世間の評価は相変わらず高かったものの、実は僕が感じていたような近作の微妙な違和感は、タランティーノ自身もどこかで感じていたのかもしれない。
 アブラが乗り切っている時には、あるいは勢いに乗りまくっている時には、何をどうしたってうまくいくものである。だが、それにもいつか終わりがやって来る。いつか徐々に衰えがやって来て、少しずつ世間や大衆の空気からズレていくものだ。実はタランティーノの「10作目で引退」発言はこのへんから来ているように思われるのだ。
 だとすると、いろいろとツジツマは合って来る。先に挙げたようなユルさやらグダグダ感は、タランティーノの衰えの現れかもしれない。観客や批評家はまだ気づかなくても、自分のことはダマせない。だからこそ、自分と同じ「映画人」であるリックに託して、自らの真情を告白したのかもしれないのだ。



 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た人だけ!

 

 

 

 

 

 

 



「老いのユルみが「怪我の功名」となったか?
 では、本作はタランティーノの「衰え」によって、残念でダメな作品になっているのか。
 実は…これがそうはなっていないから、映画というものは面白い。確かに作品的な「完成度」という点では必ずしも高くはないのかもしれない。だが、それが映画としての面白さや…何よりも「好ましさ」という点で劣っているということにはならない。だから映画というものは不思議なものなのだ。
 例えば前述したように、長々とクルマの走行場面で街並みを見せていくのは映画のリズムとしてはユルい部分だが、当時の時代色をリアルに実感させるためにはあの長さが必要だった。本来ならキズになりかねない点が、本作にとっては美点になっている部分もかなりあるのだ。
 特に僕が感じたのは、今までのタランティーノ作品になかったような血の通った「ぬくもり」である。
 従来の彼の作品は、才気走ってセンスを感じさせてはいたが、あまりにもそれをやり過ぎていて「取りつくシマもない」ようなところもあった。確かに面白い しテクニックも見事なものだった。「うまくやったな」と思わせる作品に仕上がっていて、そこに「隙」を感じさせなかった。タランティーノ本人はオタク風の ラフで気のいい男というキャラに見えたが、彼が作っている映画はB級映画やら俗悪な文化の影響を強く感じさせながら、実は意外なほどにカッチリと作ってあったように思う。
 おまけにポップでハードボイルドな語り口が作品の基調となっていることもあり、作品の主人公なども割とドライに見つめていたりした。つまりは野暮さがないのである。いや、野暮に描いていても、それはあえて狙った野暮なのであった。
 だが、本作はあちこちがユルユルでグダグダなせいか、作品にどこか「隙」が感じられる。それは、一種の「人なつこさ」と言ってもいい。いつもは「うまい」ながらもどこかタランティーノの「したり顔」しか感じられず、イマイチ心底好きにはなれなかった彼の作品だが、本作はユルさのおかげで作品に対して「共感」を持てるのである。これが本作の最大の美点だろう。
 それの最たるものは、先に述べたリックの場面である。自らの苦しい胸の内を吐露して、子役スターの前で涙するリック。その後、撮影でトチりまくり、さら にその焦燥感が増していく。だが、リックはここで奮起一番、気合いを入れ直して撮影に臨むのだ。アドリブまで入れての大熱演に、監督も大絶賛。だが、一番 嬉しかったのは子役スターの一言だ。
 「私が生きて来た中で最高の名演よ」
 これにはリックも涙してしまうが、見ているこっちも思わずグッと来る。
 あるいは、シャロン・テートが自分が出演した「サイレンサー第4弾/破壊部隊」(1968) を映画館で見るくだりである。本作では人は良さそうだが少々オツムが軽い女の子という設定の、ちょっと残念な彼女。だが、スクリーンでのドタバタ演技や苦 労したアクションが客席でウケているのを感じて、満足げに幸せを噛み締める。前述したようにキャラクターとしてはペラッペラな描き方をされている彼女だ が、このあたりは見ているこちらも微笑ましい気持ちになってくるのだ。
 そしてこの多幸感は、かつてのタランティーノにはあまり感じられなかったもの。今回は彼が好きな「映画」「映画業界」を真っ正面から取り上げた作品だからかもしれないが、登場人物に向ける視点に暖かさが感じられるのである。
 だが、これはひょっとしたら、彼の「老い」がそうさせているのかもしれない。
 どちらかと言えば偽悪者的にエグい笑いで題材を描いていたタランティーノは、登場人物も取り付くシマもない描き方をしていたことが多い。だが、このリックやシャロン・テートの描き方は従来の彼にはなかった「暖かみ」を感じさせる。前ならばドライに笑い飛ばしたり実もフタもない俗悪な描き方をしていたかもしれないのに、意外にも割とストレートな眼差しで描いているのだ。
 これが彼の演出などが「老い」でユルみ始めていることから生じているのなら、それはそれで「怪我の功名」とでも言い たくなる。少なくとも、それなら僕は本作の登場人物に共感できる。作品的完成度は落ちているのかもしれないが、そんなもの何の意味があるだろう。僕は映画 というものにおいて…ことに娯楽映画というものにおいて、「完成度」が最優先であるとは現在必ずしも思っていない。そんなものよりもっと大事なものがあるはずだろうと思っているのである。
 つまりは、本作にはハートが感じられるのである。
 これって非常に曖昧なことで、だからオマエの主観だろと言われればそれまでである。いや、完全に主観である。だが、僕が「ある」と思えるのだからそう言 うしかない。そして、その手がかりはあちこちに散見できる。例えば、先に挙げたリック・ダルトンの焦燥感などがそうだろう。
 だが、その最たるものは本作のヤマ場に見られる。ご存知の通り、リックとクリフがマンソン・ファミリーのヒッピーを徹底的にボコボコにするくだりである。
 実際にはこのヒッピーたちは隣のポランスキー邸に侵入して、悪逆非道の限りを尽くした。一片の弁護の余地もないくらいな酷さである。それは本作を見る観客の大半が知っていることで、だから劇中に出て来るシャロン・テートの無邪気な言動は見ていて心が痛くなって来る。これから彼女を待ち受ける運命に、何とも辛い気分になって来るのである。
 ところが本作では、それを最後の最後、ウルトラC的な力業で救出してしまう。 その上で、何とリックとクリフの二人の手で犯人どもをギッタンギッタンに痛めつけて殺してしまうのだ。正直に言って、映画ファンにとって彼らは弁護の余地 がない悪党である。シャロン・テートは残虐な方法で殺されおり、しかも当時妊娠中という惨たらしさだ。加えて夫のポランスキーも計り知れないダメージを受 けた。まったく許すべきことなど欠片もない連中である。
 だから、映画ファンなら…いや、本作を見る観客ならみんな、この顛末に溜飲を下げて喝采を送ってしまう
 むろん、僕も大いに楽しんだ。ひょっとしてこの事件をいつもの調子で悪ノリしてポップに描くのかと思っていたから、安堵するとともに大いに嬉しくなった訳である。


「ヒトラー殺し」と今回はどこが違うのか?
 だが、ここまで感想文をお読みのみなさんは、当然、ある疑問を抱くに違いない。これって「イングロリアス・バスターズ」のエンディングとどこが違うのか…と。
 無茶と言えば無茶な話である。というか、これだって歴史の改ざんである。確かに憎むべき罪悪ではあるが、だからといって歴史的事実を曲げて、明らかになかったことをあったとしてまで溜飲を下げるというのは、いかがなものだろうか…。
 確かにそう言われればそうなのだ。やってることは変わりない。なのに、「イングロ〜」は気になって仕方なかったのに、こちらは気にならないどころか一緒に溜飲を下げている。どうして結果が180度違って受け取れるのだろう。
 オマエも調子いいな…と言われること承知で、ここでなぜそう違いが出たのかを考えてみたい。
 まず、起きたことの重大性と事件としての意義や位置づけの違い…というのはあるかもしれない。片や現代史の中の一大汚点であり、それによって数多くの国々と民族の運命が一転してしまった。いわば歴史の教科書にまで出て来るレベルの大災厄で ある。それと、被害に遭った関係者にとってはおぞましくもひどい話で許し難いことであるが、こう言っては何だが「事件」のレベルの出来事だ。そのインパク トと規模が段違いであることは否めない。もちろん災いをその受けた人数と規模で比べてしまうのは適切ではないと言っても、どうしたってそれは無視できない 要素だろう。
 例えば「ナバロンの要塞」にあり得ないほど超巨大なナチの大砲が出て来ることは許されても、さすがにあっけらかんとヒトラーを「殺す」のはいかがなものか。これが「戦国自衛隊」みたいなSFならまだしも、「イングロ〜」は別にそういう映画ではないからである。ここまで長々と書いたが、結局、僕が先に述べたことを繰り返したに過ぎない。そういうヒトラー云々と比べたら、本作程度の歴史のウソは許される範囲のものだろうということである。
 だが、それは正直に言うと大きな問題ではない。言ってみればそう言えなくもない…程度の理由でしかない。「イングロ〜」がダメで本作がオーケーと思わされた最大の要素は、そんなことより別の部分にあるように思えるのだ。
 それは、作り手の「立ち位置」と「姿勢」である。
 タランティーノは1963年生まれ。僕よりも4歳年下の「戦争を知らない世代」である。また、自身はアメリカ生まれでナチスに蹂躙されたヨーロッパ生ま れでもない。さらに言えば、ナチスに虐待されたユダヤ人でもないし、占領されたフランスやポーランドなどとも関係はない。だからこの件について発言権はな い…とは言わないが、どこか「人ごと」であることは間違いないだろう。
 そんな彼があの作品でヒトラーを殺すのは、せいぜい「みんなが悪いと言っている奴をやっつけた」に過ぎない。あの「イングロ〜」のラストがなぜかスッキリしないのは、タランティーノがどれほど強い怒りをヒトラーに感じてあのような結末を用意したか知らないが、結局は「ウケ狙い」でしかないからある。そんなことでテメエが「いいことをした」気分になっているんだったら、そりゃえらく単純でおめでたい発想だと思えるからである。
 だが、本作のマンソン・ファミリーは違う
 僕らはタランティーノが無類の映画ファン、あるいはマニアと言われる類いの人間だと知っている。それはメディアの報道を見なくても、彼の作品に触れるだ けで誰でも分かる。その作品のどこをザックリ切ってみても、映画のエッセンスがにじみ出るほどだ。そんな彼が過去のハリウッドを舞台にした物語を撮るとな れば、その題材に深い愛情を注いで描くのは間違いない。確かに、イマドキは映画ファンに迎合しようと「映画愛」をアピールする映画作家もいるにはいるが、 さすがにタランティーノの作品にそんな打算のニオイを嗅ぎ取るのは難しいだろう。これを算盤ずくでやっているというなら、どこの誰もが映画好きとは言えな くなってしまいそうだ。
 そんな彼がハリウッドの真っ只中、新進女優シャロン・テートを襲った悲劇を本作のようなカタチでねじ曲げるなら、それはもはや「ウケ狙い」とは思えない。
 それは、「仇討ち」ではないのか?
 才能があったかどうかは分からないが、映画の世界の住人でまだ若く前途があったであろう女性を踏みにじり、輝かしい「映画の都」を汚した不届き者たち。 彼らはすでに逮捕されて法の裁きは受けているものの、その罰は罪に見合ったものとは…少なくとも映画を愛する人間には…到底思えない。ならば、せめて映画の虚構の世界の中でだけでも、それ相応の「かくあるべき」結末を用意するのが「映画好き」としての流儀ではないのか。それが映画の世界に生きていた「その人」に対する「鎮魂」ではないのか。つまりは、これは一種の「映画葬」だ。
 そうなるとこれはもう「人ごと」ではない。映画を人一倍愛するタランティーノならば、「個人的な怒り」をぶつけるに値いすることのはずである。
 それが「映画葬」であるならば、見ている者たちもその参列者として「映画を愛する者」として、犯人の処刑に立ち会ってもらうべきだろう。いや、積極的に「共犯者」になってもらおうという訳である。これは「イングロ〜」における「それ」とは明らかに違う。何か「いいことしてるつもりになっている」訳ではない、ハッキリと「怒り」をぶつけているからである。そして往ってしまった人への「弔い」でもある。映画の世界に生きていた故人に、映画というカタチで成仏してもらおうという心遣いでもある。
 だからこそ、そのやっつけ方も前回とは大きく異なる。「イングロ〜」では上から機関銃でバリバリ撃って、「どうだ!」とばかりスッキリするという単純さである。昔の谷岡ヤスジのマンガの「鼻血ブーッ!」ではないが、まさに溜飲を下げる…といった具合である。そこには…何ら特別な思い入れや覚悟はない。
 しかし本作では、リックとクリフによる「処刑」は極めてねちっこく描かれる。これでもかこれでもか…と、マンソン・ファミリーは執拗なまでにいたぶられる。それは彼らがシャロン・テートたちに行なった残虐に見合う「罰」を与えるかのようである。ボコボコに殴り、犬をけしかけて噛み付かせ、ナイフで突き刺したあげくにこんがりと焼き殺すという徹底ぶりである。正直言ってその痛めつけっぷりだけを見たら、やり過ぎ感すらあるボコりっぷりである。それは残酷であると同時に、どこか滑稽だ。さぁ笑っていただきましょう…と言わんばかりの辛辣さである。そこにはタランティーノの「怒り」の程が伺えるのである。
 そして「イングロ〜」と本作との「殺し方」の違いに、現在のタランティーノのホンネがチラついているようにも思える。
 「イングロ〜」のヒトラー殺しは本作でパロディ化されていて、リック・ダルトンが出演する映画の一場面として再現されている。火炎放射器でナチ将校たちを焼き払うくだりが「それ」である。それらが「陳腐」な場面として登場してくるあたりをご注目いただきたい。タランティーノ自身もまた、今となってはあの「イングロ〜」の結末をよろしくないと思っているのではないだろうか。どう考えても、あれは「茶番」として描かれているのである。
 だとすると、あの作品以降何作か続いたタランティーノの「社会派」路線に対して、彼自身もまた内心「マズかった」と思っているのではないだろうか
 思えば、「レザボア・ドッグス」以降の彼のフィルモグラフィーは、良くも悪くも「映画好き」志向が前面に打ち出されたものばかりだった。多少そのエグさに辟易する人もいただろうが、誰もがタランティーノを評価せざるを得なかったのは、少なくともそこに「映画への無私の愛」が伺えたからではないか。「自分を善人に見せたい」「利口に見せたい」という邪念の入り込む隙がないほど、映画について饒舌に語りたいという思いが充満していたように思う。
 だが「イングロ〜」以降の彼の作品には、必ず「社会派テーマ」がつ いて回った。いずれもごもっともなご意見だったが、それが彼ならではのオリジナリティがあるモノだったかというと、決してそうではなかった。彼の作る作品 がどこを切っても金太郎飴みたいにタランティーノの意匠が滲み出るシロモノで、なおかつ他人にはマネが絶対に出来ないほどの独自性があるのに対して、彼が 取り上げる「社会派」テーマはアホみたいに「当たり前」なモノでしかない。彼の作品があれほど「彼らしさ」に包まれているのに対して、
それはあまりに「手垢がついた」「借り物」だったのである。だからこそ、僕は違和感を覚えたのに違いないのだ。それは、彼が自作に込めた「映画好きらしさ」ほど邪念がないモノとは思えなかった。それをタランティーノ自身も、どこかで気づいたのではないか。
 だとすると、彼はそれもまた「衰え」だと思ったのではないか
 功なり名を遂げた「大家」となったタランティーノとしては、やはり世間に対して一言いいたくなったのかもしれない。それは、成り上がった経営者が部下や 周囲に対して、自らの立志伝と説教のひとつもブチたくなるのに似ている。彼の持つ発言力や社会的インパクトからすれば、そうなるのも分からないでもない。だが、それって実際には新橋の居酒屋で中間管理職のサラリーマンが酔いに任せて「イマドキの若いもんは!」「世の中がなっとらん!」などと偉そうな戯言を言っているのと大差ない
 非常に見苦しい。これが「衰え」でなくて何だろう。まさに老害。センスが売りだった映画作家が、実にセンスのないことをやり出してしまったのである。
 それに気づいたタランティーノは、果たしてどう感じただろうか。まるで冷水を浴びせられたような思いを抱いたのではないか。そして、こうも思ったかもしれない。これ以上の生き恥をさらす前に、そして人に偉そうな戯言をホザく前に…まだ理性のあるうちに「この仕事」を辞めよう。ボケて若い世代の人々を轢き殺す前に、運転免許を返上しておくようなものである。タランティーノの「生涯10作」宣言は、そうした経緯から発せられたのではないか。
 だとすると、本作がハリウッドと映画業界を舞台にしていて、なおかつ「衰え」「老い」「落ち目」をテーマにしているのも頷けるのである。これはやはり彼自身の物語だと分かるのだ。
 そしてだからこそ、過去の「イングロ〜」と同じ「歴史改ざん」をあえてやってみた。ただし、今回は老練で熟達した映画の達人として、頭が冷えているうちに彼なりにもう一度やり直そうという試みだ。
 先にも述べたように、「イングロ〜」と本作では悪党の「殺しっぷり」に大きな違いがある。だが、実はそれ以外にも語り口に細かい配慮がなされている。それらがいずれも、「イングロ〜」の反省から生まれたモノのように思えるのだ。
 例えば、「イングロ〜」の「ドヤ顔」の殺しっぷりとは意図も思い入れも異なる今回のマンソン・ファミリー殺しは、それだけ念入りに徹底して殺さねばならなかった。だがその反面、前述したように「やり過ぎ」感も漂う。ひとつ間違えば観客に嫌悪感を抱かせかねなくなり、娯楽映画としてこれを「楽しく」見せられなくなる。後味も最悪になってしまうところだった。
 そこでタランティーノは、これが「やり過ぎ」に受け取られないように、細心の注意を払いながらあちこちに予防線を張っている。
 ひとつは、クリフがLSD入り煙草を吸ってトリップ中だったという ことにして、その残虐なまでのいたぶり方のアリバイを作っていることである。クリフがこの煙草を入手したのが1969年の2月で、たまたまそれをリックの 煙草入れに入れておいたという設定であるが、それをたまたま半年後に取り出して吸うというのもいささか強引な話である。完全にクリフの乱暴狼藉を彼の本意 ではないと見せるための伏線だろう。さらに、その煙草自体がマンソン・ファミリーの一員であるプッシーキャットからもらったモノと描いているのも興味深い 点である。ある意味で、これを「天の配剤」と描いているのである。
 ヒッピーたちがポランスキー邸ではなく隣にやって来るキッカケを作った当人リックが、何が起きているのかまったく知らずにヘッドフォンで音楽を聴いている設定に なっているのも巧みだ。ヒッピーを挑発した当人であるリックが彼らを迎え討ってやっつけるというのは、いかに正当防衛とはいえあまり印象は良くない。そも そもヒッピーに毒づいたリックの言い草もいささか傲慢だから、そんな彼が意識して惨たらしい殺し方をしたらイヤ〜な後味になりかねない。そこでリックは まったく事態を気づかず、いきなりモンスターのように飛び出して来たヒッピーに驚くという設定にした。そのヒッピーが血だらけの瀕死の状態にも関わらず、 これまたホラー映画の怪物のように暴れ回って銃を乱射するというのも、リックが「気持ちよく」焼き殺せるための口実となっている。
 以前のタランティーノ作品では、登場人物がトゥマッチな暴力を振るう際にもここまでの配慮はしていなかった。それが今回は、細心の注意を払っての気の配りようである。これこそ彼の成熟だと言うべきだろう。明らかに、以前の作品への反省が感じられる点である。
 そして本作最大の「配慮」が、最後の最後に仕掛けられている。
 マンソン・ファミリー乱入のてんやわんやが片付き、クリフも救急車で運ばれた。この時、画面から退場せずに最後まで残る主人公がクリフではなくリックの 方である…という点から見ても、本作の真の主人公であり、作者自らを仮託した人物がリックであることは、ほぼ間違いないだろう。故に、リックが吐露した自らの衰えに対する不安は、タランティーノ自身のものであると裏付けられる。やはり本作は、タランティーノの「衰え」に関する物語なのだ。
 そしてリックは、「いずれ良い事があるかも」と期待していたお隣さんに声をかけられる。本来だったらマンソン・ファミリーに惨殺されていたはずのポラン スキー邸のジェイ・セブリング(エミール・ハーシュ)と、偶然に話す機会を得る訳だ。だから、これはあり得ない展開である。こうしてリックはジェイに誘わ れてポランスキー邸に入ることを許され、シャロン・テートに挨拶するところで映画は幕を下ろす。ひょっとしたら、リックにも新たなチャンスが巡ってくるか も…と予感させるハッピーエンディングである。
 先に述べたように、実際にはポランスキー邸の人々は惨殺されたので、これはあり得ない話だ。それ故に、リックの淡い期待も含めて映画には哀愁が漂う。「こうなれば良かったのに」と思わせる、切ないエンディングだ。そして本作のタイトルが、スクリーンに文字で浮かび上がる。「Once Upon a Time in Hollywood」…昔むかしハリウッドで…。
 「昔むかし」はおとぎ話の常套句である。だから、本作もまたおとぎ話だ。おとぎ話だからシャロン・テート救出も「歴史改ざん」というには及ばない…というアリバイになる。これは単なるおとぎ話だ。そこでは何だって起きる。リックだって救われるのだ。
 このようなプロセスを踏んでいるので、乱暴な展開に見えながら破綻にはならない。そして過去作品と同様の描き方をしながら、それらとは一線を画している。反省をした上で、見事にその穴を埋めているのである。
 それは今までずっと前のめりで映画を作っていたタランティーノからすれば、「老成」とも言うべきものではないかと思う。過去の自作の反省をすること、観客と物語に対する心配りをすること、登場人物に対して血の通った眼差しを送ること…は、それまでの彼にはあまり見られなかったことだ。だとすると、「衰え」は必ずしも悪いことばかりではなかったのである。
 それでも、彼はおそらく頑ななまでに「生涯10作」を貫くのではないかと思う。
 火炎放射器でヒッピーを異様なほど念入りに焼き上げたリック。先にも述べたように、リック・イコール・タランティーノである。その火炎放射器が「イング ロ〜」パロディでも使われたということは、それが意識的に行なわれたことを意味する。すなわち、あそこで焼かれたのは「イングロ〜」における反省すべき点 であり、それを同作品にもたらしてしまう原因となったもの…ではなかったか。ならば、リックがあれほど執拗に焼き尽くした理由も分かる。それが徹底的に生き返る可能性がな くなるまで、黒焦げになるほど焼かねば気が済まなかったのだろう。
 
だから火炎放射器で焼かれたのは、憎むべきマンソン・ファミリーなどではない。
 タランティーノが完膚なきまでに焼き尽くしたのは、過去の自らの「傲慢さ」だったのである。


 


 

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