「アマンダと僕」

  Amanda

 (2019/09/30)



見る前の予想

 この映画の予告編は、かなり前から何度も見ていた。
 パリが舞台で、若い男が主人公で、ある理由から突然まだ幼い姪の面倒を見なければならなくなる…という「感動」のお話。たぶん、いい話なんだろうなと思ってはいたが、いわゆるチマッとしたフランス映画なんだろうな…とも思っていた。僕が見なきゃならない映画とも思えなかったし、見る必要も感じなかった。
 ところが、ある知人がこの映画を激推し。しかも、後半にとんでもないサプライズがあると言うではないか。これはツリー・オブ・ライフ(2011)みたいにアレとか出て来ちゃうのか、はたまた団地(2015)みたいにコレとか出て来ちゃうのか(笑)。いきなり期待値が猛烈にアップである。
 ただ、仕事の関係で忙しくてなかなか見れない。ところが、もうダメか…と思いきや、まだやっているではないか。僕は仕事をうっちゃらかして、慌てて劇場へと飛び込んだのだった。

あらすじ

 ここはパリの小学校。授業が終わり、校門から生徒たちがゾロゾロと出て来る。
 その子供たちの中に、アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)という7歳の少女もいた。彼女は迎えを待っていたのだが…。
 同じ頃、アマンダの叔父にあたるダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は駅まで人を迎えに行っていた。彼は短期滞在用のアパートで何でも屋みたいな仕事を して生計を立てていて、今日もこのアパートにやって来るインド人観光客を出迎えに来ていたのだ。しかし、客がなかなか到着しないので、ダヴィッドは気が気 じゃない。実はアマンダを学校に迎えに行く約束だったので、内心ヤバいと思っていたのだ。
 アマンダもアマンダで、いつまで待っていてもダヴィッドが来ないので、だんだん表情が暗くなる。
 結局、ダヴィッドは大幅に遅れてしまい、彼女の母親でダヴィッドの姉であるサンドリーヌ(オフェリア・コルブ)も「学校から何度も携帯に電話があった」と お怒りだ。さすがにダヴィッドも面目なくてションボリ。でも、本来はダヴィッドもサンドリーヌも、そしてアマンダもみんな仲良し。サンドリーヌは英語教師 として働く傍ら、シングルマザーとしてアマンダを育てている。ダヴィッドは仲良しの姉にちょくちょく会いに来ては、アマンダを可愛がっていた。楽しくて、いい感じの間柄である。
 そんなアマンダは、サンドリーヌの持っていた「エルヴィスは建物を出ました」と いう奇妙なタイトルの本が気になった。サンドリーヌはこのタイトルの由来をアマンダに教えてあげる。大人気だったエルヴィスのコンサートでは、終わった後 もいつまでも観客がアンコールを求める。主催者側はラチが明かないので、場内放送で「エルヴィスは建物を出ました」と言ったというのだ。もう無駄だから諦めろ…という意味で。
 サンドリーヌはネットで当時の録音を検索してアマンダに聞かせ、ついでにエルヴィスのイケてる歌を聞かせて二人で踊りまくる。サンドリーヌとアマンダの二人は、そんな素敵な母娘だった。
 ダヴィッドはダヴィッドで気ままな暮らし。ある日は街路樹の枝の伐採の仕事に精を出し、別の日は例の短期滞在用のアパートの雑用…という具合。今度のお 客様は、キュートな若い女性。そのレナという女の子(ステイシー・マーティン)に、ダヴィッドはちょっと惹かれた。ちょっとした偶然も手伝って、ダヴィッドはレナと一緒に飲みに行く幸運をつかむ
 そんな幸運は姉のサンドリーヌにも訪れたようで、ダヴィッドがサンドリーヌの家に顔を出すと、どうやらサンドリーヌに新しい恋人ができた様子。まぁ、姉が幸福ならダヴィッドも嬉しい。
 さらにサンドリーヌはご機嫌ついでに、ダヴィッドに切符を3枚見せる。何とテニスのウィンブルドン選手権にダヴィッドとサンドリーヌ、そしてアマンダの3人で行こうというのだ。テニス好きのダヴィッドには願ってもないこと…と言いたいところだが、最初こそ喜んでいたものの途中から微妙な表情になる。
 「ひょっとして、母さんに会おうっていうんじゃないの?
 実は姉弟の母親はイギリス人で、二人がまだ小さい頃に家を出て行ってしまった。サンドリーヌはその後も連絡を取り合っていたようだが、ダヴィッドは母親にあまりいい印象がない。正直言って関わりたくない。だから、ウィンブルドン行きに母親が絡むというなら気が進まないのだ…。
 一方、そんなダヴィッドはレナとどんどん親しくなり、プライベートな話もするようになる。ピアノを教えているというレナに、アマンダを生徒として紹介しようという話も出て来た。こうしてダヴィッドとレナは、いつしか恋人同士になっていくのだった…。
 そんなある日、ピクニック気分を味わおうと、ダヴィッドはサンドリーヌと公園で待ち合わせることにする。そこにレナも合流ということになったが、アマンダは子守りに預けてお留守番だ。ダヴィッド自身はちょっと遅れて自転車で駆けつけることになった。
 ところが、どうも様子がおかしい
 いきなり、目指す公園の方向からバイクが飛び出して走り去る。なぜか、騒然とした雰囲気があたりに漂う。その理由は、公園に到着してすぐに分かった
 公園の芝生に血まみれの人々が転がる。うめいてうずくまる者もいれば、まったく動かない者もいる。こんな平凡な日常のど真ん中、ほのぼのした雰囲気の公園で、事もあろうにテロが行われたというのだ。唖然呆然としていたダヴィッドだが、すぐに我に返る。
 サンドリーヌは…サンドリーヌは一体どうなった?

見た後での感想
 予告編を見ていたので、主人公ダヴィッドの姪アマンダの母親がお話の途中で死んで、二人っきりの生活が始まることは分かっていた。…というか、当然そこがお話のキモだということは分かっていたのだが、どうせ病気か事故で死ぬのだろう…と漠然と考えていた。
 そんな訳で、まさかテロで命を落とすとは思っていなかったからビッ クリ。実はこのくだりも、本当だったらうちのサイトとしては「ここからは映画を見てから!」と括るべきだったのかもしれない。だが、それをやっちゃうとス トーリー紹介としては成り立たなくなっちゃいそうなので、今回はあえてそこまで書いてしまった。
 それに、実はここだけの話、本作のサプライズはそこではない。この後にもっと驚くことがあるのだが、それはお話のどんでん返しみたいなものではない。長年映画ファンやってる僕としては、本当にビックリしたけどね(笑)。
 そもそも、アマンダの母親の死の理由を明かそうがどうしようが、そこは大した問題ではない。この作品はそんな映画ではない。それは一見してもらえば、すぐに分かってもらえるはずだ。
 そして、僕は本作がとても気に入った
 それはまず最初に言っておかねばならない。ひょっとしたら、今年最高にお気に入りの作品になっちゃうかもしれない。だが、どこがそんなに気に入ったのか…と言われると、非常に説明がしにくい作品だ。だからこの感想も書くのに時間がかかったし、正直言ってうまく書けている気がしない。非常に語りづらい作品だ。
 一見シンプルなお話で特に変わったところもない映画に見えるのだが、実はなぜかひと味違う印象を与える作品なのである。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 



実は「よく出来た」作品などではない
 まず最初にお断りしなくてはならないが、僕は本作を上手な作品だとはあまり思っていない
 先に、今年最高にお気に入りの作品になっちゃうかもしれない…などとブチ上げておきながら、この言い草もないとは思うが、実際、「うまい」作品かと言えばそうじゃないだろうと思う。本作はネットなどで絶賛されていて、実際に東京国際映画祭でグランプリを取るほどの評価の高さである。このグランプリについてケチをつけるつもりはないし、僕自身もグランプリをあげたくなるような作品だ。
 だが、だからといって本作がいわゆる「よく出来た」作品であるかと言えば、実はかなり疑問符がつく。ちゃんと計算されていて語り口や構成が巧みな作品、完成度が高い作品…だとはとても思えないのである。
 例えばそれが最も如実に現れているのが、映画が始まってすぐに出て来るエルヴィスの挿話。正直言って印象的なエピソードなので、見ていて「絶対にこれって伏線になるよな」と観客の方が察してしまう。案の定、終盤のウィンブルドンで出て来て「やっぱりな」と思わされる。この「伏線」の張り方は、結構あざといと言えばあざとい。しかも、やすやすと見破られちゃうという意味で、大変に不器用な作りである。
 おまけに姉だけでなく恋人も友人も、関係者の大半がテロに巻き込まれる…という作りも少々乱暴な気がする。みんなそこに持って行っちゃうというのは、ちょっと強引かなという気がしてしまうのだ。このあたりが「強引」に思えてしまうのは、脚本づくりが今ひとつこなれていないのかもしれない。正直言って、あまり上手じゃないように思えるのだ。
 だから、本作は作劇としてうまく出来ているとは少々言い難いと思う。絶賛しているみなさんに水を差してしまうようで気が退けるが、実際そう思えるんだから仕方ないのである。
 だが…では、出来が気に入らないのかと言えば、むしろ真逆だ
 先にも述べたように、「今年最高にお気に入り」になりそうなくらい気に入ったのだ。そりゃまた一体どういう風の吹き回しなのか。そこを説明しない訳にはいくまい。

偶然でそうなったのか、したたかなのか

 映画を見始めてすぐ、僕はこの映画にただならぬものを感じた。
 それは言葉で言うのは難しいのだが、「瑞々しさ」のようなものだ。だから、映画の構成やストーリーのように、理路整然と説明できるものではない。しかし、確かにそれはあった。あったとしか言いようがない。
 具体的には、例えば主人公の青年が街路樹の枝の伐採の仕事をしている場面。木の葉が風に吹かれて一斉にサラサラとそよぐあたりの心地よさはどうだ。これなんて、ロケ現場に扇風機を持っていって風を吹かせた訳でもなく、おそらくは撮影中に偶然に風が吹いてきただけだろう。なのに、他の作品ではあまり見られないような爽やかな気分になった。
 あるいは、姉弟二人で自転車で街を走って行く場面。ただそれだけなのに、何とも言えないいい気分になる。カメラのせいなのか、編集のおかげなのか。理屈じゃない。見ていて目が心地よいと感じる。
 こういう場面が、本作のあちこちに散見される。これは、作者が映画作家として何か非凡なモノを持っているからだろう。本来、僕は世の中で忌み嫌われている「文系」人間だから、どちらかというと設定、構成、脚本… などなどから映画を云々しがちだ。というか、それしか出来ない。また、文章を使って映画を語ろう…殊に「分析」しようとでもいうのなら、そういう方向で語 らないと難しいだろう。僕がカメラのメカニズムやレンズやフレームなどなどに精通していて、それを一般の人に分かりやすく語れるワザを持っていれば違うだ ろうが、そうでなければやはり
設定、構成、脚本あたりをよすがに語らざるを得ない。
 しかし映画というものは、理屈より何より「映像」だし「リズム」「感覚」だったりする。これは他の何よりも優先する要素だったりするのだ。だから、映画を理屈で語るには限界がある。まずは僕みたいな人間は、そこを肝に命じないといけない。
 本作には構成やストーリーの点で、いささか稚拙だったり不器用な点がいくつかあるように感じられる。だから上手な作りではない。だが、それを上回る「映画的な魅力」がある。母娘がエルヴィスの歌に合わせて踊る場面なども素敵だった。あのフレッシュさを誰も否定はできないだろう。
 役者の魅力にも支えられていて、主役の青年の軽妙さもいいが、アマンダを演じた女の子が何とも素晴らしい。なかなか腹が据わった顔をしていて、身体付きも意外にガッチリしているのがかえっていい。可愛いというのも生意気とも違う、ユニークな子だった。さらにグッバイ・ゴダール!(2017)で素敵だったステイシー・マーティンが、ここでも魅力爆発。またまたベッド・シーンでペチャパイをさらしているが、それがまた涼しげでいい。今年の夏みたいな猛暑には、このくらいがちょうどいい(笑)。彼女は実に得難い個性だと思う。
 ドラマとしては、普通は親子でもない二人が一緒にやっていかなきゃならない…となると、もっと悲劇的にしたり反発をドラマティックにしたりするものだが、そういう脚本での「盛り上げ」はあまりないのがかえっていい。そんなエグい「作り」をあまり入れていないから、作為的なモノが感じられないのだ。
 そういう「作り」という意味では最大のものがテロなのだろうが、脚本がうまいのか下手なのか、唐突に出て来てバッサリとそれだけで終わる。それ以前とそれ以後の主人公たちの人生が変わる…という道具立て以上でも以下でもない。まぁ、本作で女は二度決断する(2018)やザ・フォーリナー/復讐者(2017)みたいにされても困る(笑)。このぶっきらぼうなテロの扱い方が、本作には似合っていたのだろう。むしろ、この乱暴さ、ぶっきらぼうさがリアリティになっている。
 そう、本作は不器用でぶっきらぼうだからこそ、リアリティがある。そして、隙間を瑞々しさが埋めていく。だから、クライマックスのウィンブルドンの場面もグッと来る。
 ここで冒頭近くのエルヴィスの挿話が出て来るのは、あざといと言えばあざとい。本来なら、わざとらしくて下手くそな脚本だな…と言いたくなる。だが、前々から語って来たように、ここまでの描き方が必ずしも計算されたキメ細かなモノでなく、むしろぶっきらぼうなモノだったからこそ、あまり作為感が感じられない。だからリアリティが出て来るのだ。
 そして、あのジャガイモを食っていそうなゴツゴツ感のある女の子にリアリティがあり、主人公の青年の軽〜い個性にもリアリティがあるからこそ、見ていてついついやられちゃうのだ。そうだよなぁ、諦めたらそこで試合終了ですよ…。
 本作の監督・脚本を手がけたのは、ミカエル・アースという人物。恥ずかしながら、僕は初めて聞く名前だ。先にも述べたように、脚本やら構成力やらという点では、この人はうまいのかどうか、よく分からない。…というか、むしろ下手なんじゃないかと思う(笑)。
 だが、映画は整ってりゃイイってもんじゃない。それを埋めて余りあ る魅力があるということは、どこか非凡なモノがあるに違いない。単に街路樹の枝葉が風に揺れるだけでイキイキしてくるのは、やはり才能だと思えるからだ。 そして、一見下手くそと思える設定やら脚本やらがリアリティの構築に貢献しているなら、これはやはり一種の「ヘタうま」だと考えるべきかもしれないのだ。
 偶然でそうなったのか、したたかなのか。…いやぁ、偶然でこうなる訳などないだろう。仮に偶然だったとしても、それもまたこの作り手の美点なのである。
 ミカエル・アース、これは今後要注意の監督だろう。



 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た人だけ!

 

 

 

 

 

 

 



古い映画ファンにはうれしいサプライズ
 ここからは前述した「サプライズ」について触れていくから、まだ映画を見ていない賢明なみなさんはぜひとも退避していただきたい。やはりサプライズは、事前に知らないで味わってこそのサプライズだと思うので。
 そうは言っても、実はこのサプライズは若い映画ファンのみなさんにとってはサプライズでも何でもないかもしれない。そもそも…それがサプライズとは分からないかもしれないからだ。
 しかし僕には、それは涙がチョチョ切れそうな嬉しい驚きだった。
 終盤、映画はイギリスに舞台を移す。それは例のウィンブルドンでの試合をヤマ場とするからだが、その前にひとつ、映画はちょっとした見せ場を作っている。
 主人公の母親の登場である。
 すでに映画の序盤で、この母親の存在は意味ありげに語られている。にも関わらず、写真一枚すら出て来ないので、見ているこちらも「こりゃ何かありそう だ」と少々気づいてしまう。このあたりは例の「エルヴィスは建物を出ました」と同じで、見え透いた伏線的な感じがしないでもない。
 だが、終盤に実際にその#05母親が登場して来ると、僕は「ここまでもったいつけてきたのも当然」と妙に納得してしまった。
 お久しぶりの、グレタ・スカッキの登場である。
 イマドキの映画ファンで、グレタ・スカッキと言ってピンと来る人がどれくらいいるだろう。おそらく1980年代後半から1990年代前半ぐらいの映画をリアルタイムで見ていた人でないと、当時、この人が持っていた勢いを分からないかもしれない。
 そもそもグレタ・スカッキはどこの女優さんか…と問われて、僕もハタと当惑してしまった。一応、いろんな意味でイギリスの女優さん…ということになるの だろうか。それとも出身から言ってイタリアか。とにかく彼女の活躍ぶりは国際的だった。各国の個性的な映画作家の作品に、次から次へと起用されたのだ。
 一番最初に話題になったのは、ドゥシャン・マカヴェイエフ監督の「コカコーラ・キッド」(1985)だったと思う。だが、残念ながら僕は見ていない。僕が最初に彼女を見たのは、ディアーヌ・キュリス「ア・マン・イン・ラブ」(1987)ということになる。チネチッタ撮影所での映画製作の話…ということからアメリカの夜(1973)感全開(笑)で、トリュフォー作品常連の作曲家ジョルジュ・ドルリューを起用するという分かりやすさ。そのドルリュー節がまた実にいい。そこでピーター・コヨーテ演じるハリウッド・スターと恋に落ちるグレタ・スカッキの美しさったらない。まさに生涯の当たり役だろう。それにしても、ディアーヌ・キュリスは大好きな監督だったが、最近はどうなってしまったのだろう?
 そのあたりでスカッキ出演作の日本公開が集中。タヴィアーニ兄弟のこれまた映画史秘話「グッドモーニング・バビロン!」(1987)、ジェームズ・アイヴォリー監督の旧作「熱砂の日」(1982)、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督がチェーホフの映画化に挑戦した「三人姉妹」(1988)…などなど作品が目白押し。どれもこれも彼女の美しさが格別で、しかも気前よくバンバン脱ぐ(笑)。
 これほど美人で芝居も出来て作品も粒ぞろいとなると、ハリウッドも放っておかない。ついに満を持してハリウッド・デビューしたのが、ハリソン・フォード主演の「推定無罪」(1990)。
 だが、好事魔多し。次いでハリウッド映画に出た「プラスティック・ナイトメア/仮面の情事」(1991)が、ウォルフガング・ペーターゼン監督、トム・ベレンジャーボブ・ホスキンス共演という充実したメンツを集めたにも関わらず不発。その時、イヤ〜な予感がしたのは僕だけだろうか。
 その後、ロバート・アルトマン監督のアメリカ凱旋作「ザ・プレイヤー」(1992)…なんてのもあったが、概して作品が注目を集めることはなくなってしまった。出演作はいろいろあったはずなのに、たま〜に見ると「エマ」(1996)みたいにいつの間にか脇役に回っていた。ビヨンドtheシー/夢見るように歌えば(2004)やフライトプラン(2005)にも出ていたが、今となってはまったく記憶にない。そのうち、パッタリ顔も見なくなっていた。
 一頃の活躍が目覚ましかっただけに、その後まったく見かけなくなったのが寂しさをそそる。その点で、ヨーロッパから出て来てハリウッドまで進出したこと、一気に人気爆発して出演作が急増しながら急速に消えてしまったこと…など、「ブラック・サンデー」(1977)や「ボビー・デアフィールド」(1977)などに出ていたマルト・ケラーを彷彿とさせるものがある。
 そんなグレタ・スカッキが、いきなりスクリーンに帰って来たのである。これ以上のサプライズがあるだろうか。
 さすがに寄る年波…といっても僕よりひとつ若いのだが(笑)、あの美しさはすでにない。老いさらばえてしまった感が濃厚である。だが、さすがに「大物」感はある。最初は僕も誰だか分からなかったが、映画の最初の頃から「何かありそう」感はずっとチラつかされてきたので、それなりの人が出て来るだろうとは感じていた。
 だから、「ついに出た!」という感じ。ちょっと大げさに言えば、フランシス・コッポラ「地獄の黙示録」(1979)の終盤に出て来るマーロン・ブランドみたいな存在感がある。あるいは、フランソワ・オゾン2重螺旋の恋人(2017)でいきなり出て来たジャクリーン・ビセットみたいなお得感とでも言おうか。
 ともかくグレタ・スカッキとの久々の再会は、僕にとって本作の最大のボーナス・ポイントだったのである。
 

 


 

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