「ROMA/ローマ」

  Roma

 (2019/07/01)



見る前の予想

 ヴェネチアで金獅子賞をとり、アカデミー賞でも監督賞をとるという快挙。全世界大絶賛で、昨年から今年にかけての最大の話題作である。ところが、これがただの映画でなくネットフリックスのオリジナル配信映画だったから、事はいろいろややこしくなった。
 スピルバーグが本作を「映画とは認められない」と言って閉め出そうとしたと大顰蹙を買い、作った側のアルフォンソ・キュアロンもこれに反論。いかにもイマドキな「多様性も必要」という殺し文句を持ち出した。こうなると「ネット配信を閉め出そうとするのは時代遅れ」「既得権益にしがみつく老害」みたいな話になって、スピルバーグが炎上したあげく終わった。まぁ、誰もが他人を罵倒して謝罪を要求する、ウンザリするようなイマドキのネット風景である。やれやれ。
 だが、これってよくよく見てみると、そんな話じゃない。スピルバーグが言っているのはごく当たり前の話で、テレビでやるドラマはエミー賞でアカデミー賞 ではない、ならばネット配信でやるのだってアカデミー賞ではないだろう…ってだけの話だ。つまり「ネット配信アワード」みたいの作ればいいじゃん…ってだ けの話だ。カマボコ買いに行くなら電器屋じゃないよってだけの話なのである。だから、ネットフリックスは映画の未来か害悪かとか、どっちが劣る勝る…って話とは根本的に異なる話なのだ。
 スピルバーグ・シンパを自認しながらもこいつの偽善性もよく分かっているつもりの僕だが、今度ばかりは言ってることを巧みにスリ変えられて、曲解されて炎上させられちゃった感じだ。みんなうまく丸め込まれちゃったんだよね。ちょっとこれ、キュアロンこそ偽善なんじゃないのか
 ネットフリックスの連中も「より良い映画を作りたい」とか言ってるし、映画作家たちも今のところ優遇されているから「ネットフリックス最高!」みたいに 言ってるけど、そりゃたぶん今だけの話だ。今のところは現行の映画に対する優越性を見せつけるために「いい企画にはカネを出す」的な綺麗事を言っている が、おそらくすぐにそんな事もなくなっちゃうだろう。映画館のない所でも映画を見せたい…なんて「田舎の移動図書館」みたいな理想でやってる訳ではないは ずだ。こちとら60年も生きていると、そんな善意や誠実さで商売している奴なんていないと分かっている(笑)。IT長者みたいな奴らにダマされるほどウブ じゃない。そもそも「いいことずくめ」みたいな言われようからして胡散臭い。
 僕はスクリーン至上主義者ではないけれど、明らかに劇場で映画を見るのと自宅でテレビやパソコンで見るのは違うと 思う。どっちがいいとかではない。ただ、違う。イカの刺身とスルメが違い、海の水と水道水が違うように、違うものは違うのだ。うちのテレビを見る時に、部 屋を暗くしたってそうはならない。そもそも、「同じ」って言ってる奴らだって、まさかわざわざ部屋暗くしてテレビ見やしないだろ(笑)。ウソを言っちゃい けない。
 だから、「悪徳」スクリーン至上主義者や既得権益にしがみついている老害どもが、「良心的」で「映画の未来」であるネット配信映画を閉め出そうとした…っ てのは、いやらしいフェイクでしかないと思う。まぁ、でもこれはそう思いたい人の気持ちは変えられないだろうから、これ以上言っても仕方がない。シーザーいわく、「人は見たいように見る」だ。そもそ も、ネットが「未来」ですべて好ましきもの…という発想ですら、すでに早くも時代遅れのイデオロギーに過ぎないように思えるのだが…。
 実は僕も今年の初めにネットフリックスお試し体験をして…ってな話は、オーソン・ウェルズの遺作風の向こうへ(2018)の感想文でも書いている。そこに書いたのが僕の偽らざるネットフリックス観だ。廃人になっちゃいそうだから、あんまり深入りはしたくないんだな。
 で、そのお試し期間中に何度もこの「ROMA/ローマ」も見ようかと思った。でも、やっぱり断念してしまった。何となく、この映画はオレのMacの画面なんてモノで見たくないな…と思っていた。それで結局見逃したままお試し期間は終わっちゃったのだが、何とその後に劇場公開が決まったのだよねぇ。これはラッキーだ。
 しかし、それでも僕はなかなか見に行く気になれなかった。やはりお預けくらっちゃっているうちにちょっと萎えちゃって、見る気が失せた…ということはあるだろう。でも、それだけじゃない。
 そもそもキュアロンに対して、僕はちょっと微妙な感情を抱いていたのだ。ギレルモ・デル・トロアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥと並んで「メキシコ出身三羽烏」のキュアロンだが、前の2人と比べるとイマイチこの人の作家としての立ち位置ってよく分からない。日本に紹介されてからのフィルモグラフィーもナゾだらけで、僕が見た作品を並べてみても、「リトル・プリンセス」(1995)は「小公女」の映画化、「大いなる遺産」(1998)はディケンズの小説の現代版映画化、天国の口、終わりの楽園。(2001)でようやくこの人の「作家性」みたいなモノがこっちにも見えてきたかと思えば、ハリー・ポッターとアズカバンの囚人(2004)もやっちゃう、トゥモロー・ワールド(2006)なんて未来SFも撮っちゃう。そしてゼロ・グラビティ(2013)でアカデミー監督賞受賞というキャリアである。何だか分かったような分からないような、どこか「ヌエ」のような立ち位置なのだ。
 今回この「ROMA/ローマ」が評判になってから、急に批評する側が無理矢理今までの作品を通じてのキュアロンの「作家性」みたいなモノを語り始めたよ うだが、それってちょっと苦しくないか。それって、そう見ようとすれば見れなくもない…レベルの共通性でしかない。それをキュアロンの「個性」です「作家 性」ですって言われても…本当にみんなそう思ってるの? 
 そんなキュアロンが、今度は無名俳優だけでスペイン語の地味なモノクロ作品を撮った…というんだから、ますます掴みどころがない。急にメチャクチャ「作家性」を前面に出されてもねぇ。
 第一、こちとら「ローマ」とくれば「フェリーニの」と冠が付かないとピンと来ない(笑)。最近、安易に旧作や古典的作品と丸かぶりのタイトルつけるの流行ってるけど(「君のなんちゃらは。」とかいうアニメとか)、アレって歳いった奴らにケンカ売ってるのかねぇ。イマドキはこっちが主流…みたいな。まぁ、どうでもいいけど。
 それはともかく、何だかあちらこちら引っかかりばかりがある作品なのだ。質の高さは各方面で証明されているとはいえ、それがどうにも気になって、これほど見るのが遅れた次第。まずは、何となく引っかかる(笑)…というのがその理由である。

あらすじ

 磨かれた石の床を、モップでゴシゴシと掃いている音が聞こえて来る。やがてそこに水が勢い良くかけられて、床が一気に洗い流される。
 そこは長い屋内の廊下で、掃いていたのは家の家政婦であるクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)。ワンワン吠えるアホ犬をいなしながら、クレオは部屋の洗濯モノをまとめて、さまざまな家事をテキパキこなす。お供は、ひっきりなしに流行歌を流しているラジオだ。
 時間が来たら、学校に子供を迎えにも行く。クレオが住み込みで働いているこの家は、メキシコシティのコロニア・ローマ地区にある。この家には「奥様」の ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)と4人の幼い子どもたち、ソフィアの母のテレサ(ヴェロニカ・ガルシア)が暮らし、彼らをクレオとアデラ(ナンシー・ ガルシア)の二人の家政婦が世話している。
 おっと…ソフィアの夫アントニオを忘れてはいけない。医者であるアントニオは、今夜もバカでかいアメ車でご帰宅。例の細長い廊下はガレージを兼ねてい て、そこにアメ車で車庫入れだ。だが、デカいアメ車に狭い廊下で、何度もハンドルで切り返ししてやっとこ駐車できる。おまけにタイヤでアホ犬のフンまで踏 んでしまうアリサマだ。アントニオは平静を保ちながらも、どこかイラついていた。そのイラつきは、廊下の狭さや犬のフンのせいばかりであろうか。
 ともかく朝から晩まで、クレオとアデラはこのご一家の世話を焼きっぱなしで一日が終わるのだった…。
 ある日、ご主人のアントニオが出張ということで、慌ただしく家から出発。カナダのケベックで学会の会議だということだが、クルマで出発する際にソフィア がアントニオにしがみつく姿は、まるで「今生の別れ」ででもあるかのようである。そんなソフィアを振り切って、アントニオは出張へと出かけて行ったのだ が…。
 そんなクレオにも、たまの休みの日がある。アデラと二人で喫茶店で待っていると、そこにやって来たのはラモン(マヌエル・ゲレロ・メンドーサ)とフェル ミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)の二人の若者。ラモンはアデラの、フェルミンはクレオのお相手で、これから映画館へダブルデートという訳である。
 だが映画館の前まで来て、フェルミンはクレオに「映画はやめて散歩に行こう」と誘う。結局、クレオとフェルミンがシケ込んだのは、狭い寝室。フェルミン はそこで全裸で武道のカタを見せ、イチモツをブラつかせながら「荒んでいたオレを武道が救ってくれた」などと語るのだったが…。

見た後での感想
 まず、冒頭でまずネットフリックス絡みの話であちこちにケンカを売ってしまった僕だが(笑)、結果から言うとこれは劇場で見て良かった。こんなことを言っちゃうとスクリーン原理主義者みたいでイヤなのだが、これが偽らざる気持ちだ。
 もちろんネット配信で見ても、テレビ画面で見ても素晴らしい作品であろうことは想像に難くない。だが、僕はこの作品をスクリーンで見ることが出来て良 かったと心から思う。暗がりで、大きな画面で、集中したカタチで見ることが出来てこそ…そのすべてを味わえる作品だと思うのだ。
 何しろどうやらこの作品、65ミリ(…ということは70ミリ)のフィルムで撮影されているらしい。さらにハイ・クオリティのドルビー・アトモス音響。こ んな高画質、高音質の作品を、自宅でチマチマと見ちゃうのはさすがにもったいない。ましてスマホの画面など、考えたくもない。ある程度の鑑賞条件を発揮し てこそ、本作はその作品世界に浸れるという部分が確実にある。僕はこうして劇場で見ることが出来たが、基本的にネット配信のみでリリースされることになる 作品にこのハイ・クオリティはどうなんだろうと思ってしまう。
 ただ、これがハリウッドで…あるいはキュアロンの母国のメキシコで、劇場映画として作ることが出来るのかといえば、残念ながらかなり難しいと言わざるを得ない。
 何しろ全編モノクロの映画である。出て来る人はメキシコ人でスターはいない。そもそも、職業俳優ではなく素人みたいな人を多く起用しているようである。 アクションもスペクタクルもなくショック描写もなく、有名な原作もなくて太い幹のようなストーリーラインもない。そして、ショットは延々長回しばかり。劇 音楽すらなくて、劇中で聞こえてくる音楽はラジオなどから流れる既製楽曲ばかり。効果音的な扱いである。最も問題なのは英語でなくてスペイン語の映画であ り、しかもかなりの部分にメキシコの少数民族の言語が出て来ること。これではさすがにハリウッドでは製作のためのカネを出す人はいないだろうし、これが ヨーロッパでも難しいのではないだろうか。
 だからと言って、そうした既存のプロデューサーたちがカネを出さないことを責める気にもならない。アカデミー賞まで取って実績のあるキュアロンの新作で あっても、まったく派手さがない。劇場で当たる要素が微塵もないのである。それはプロデューサーの見る目のなさを叩くより、むしろイマドキの映画観客の方を問題視すべき案件だ。今、劇場に客が入っているのは、さまざまな映画祭などで賞を取ったり話題になったから。たまたま…なのであ る。
 だから、彼がネットフリックスにすがったのは分かる気がする。というか、現段階では本作を実現できるのはそこしかないだろう。
 僕はネットフリックスと映画作家の蜜月は「どうせ今だけのものだろう」と意地悪く見てはいるが、ひょっとすると全世界でネット配信で見る人々の数が莫大 であることを考えると、ある程度ファンがいる映画作家の作品なら十分ペイできてしまうのかもしれない。僕自身がショボい本1冊企画を通すのに苦労している 身なので、このあたりの苦渋の選択は理解できるのだ。ならば、ネトフリで作るのもアリ…かもしれない。
 それでも、本作は劇場で見て欲しい作品ではある。キュアロン自身だってそう思っているに違いない(だからこその、あのハイ・クオリティだろう)。そして、見るまではいろいろブツブツ言っていたが、とりあえず見て良かったと思える作品でもあった。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 



あまりにも「うま過ぎる」映画
 たぶんどこのレビューを見ても同じようなことが書いてあるので、僕が改めてクドクド言うのはいかがなものかとは思うが…。
 うまい、うま過ぎる。
 映画の語り口がすでに円熟の境地みたいなタッチである。この人、「ゼロ・グラビティ」の人だよねぇ? 「トゥモロー・ワールド」を撮った人だよねぇ?  何だかまるで人が変わってしまったような、もう巨匠みたいな佇まいなのである。ウマ過ぎちゃって、イマドキの監督って気がしないほどだ。まるで「古典」の ような安定感すらある。こんな立派な映画作家になっちゃってるとは、まったく予想もしなかった。正直に言って驚きである。
 あまりゴチャゴチャ言うこともないし実際出来ないのだが、この作品の成熟した語り口は、ちょっと昔の映画の「それ」に似ている。実は、僕が本作を見てい るうちに連想したのは、成瀬巳喜男の作品だった。題材やその描き方などが、いかにもそれっぽい。中でも田中絹代が主演した「おかあさん」(1952)と 「流れる」(1956)の2作にかなり共通性を感じた。前者は市井の人々の暮らしを太いストーリーラインでなく細々としたエピソードの羅列で描いていたこ と、後者は芸者置屋に暮らす人々を女中の目から見たかたちで描いていたこと…が共通性である。
 ただし、映画のテクニックとしてはかなり隔たりがある。成瀬は小刻みにカットを切っていたことを考えると、本作では延々と続く長回しを多用している。こ のあたりは、同じ日本の巨匠である溝口健二から持って来ているのかもしれない。「長回し」っていうとバカのひとつ覚えに「ミゾグチ」っていうのもどうかとは思うが、溝口は溝口でシビアな状況に置かれた女性たちを好んで描いた映画作家だからであ る。いずれにせよ、本作がモノクロ作品である…というあたり(本作の時代背景となる1970年前半は、すでに人々の心象風景がモノクロやセピアでなくカ ラーとなっていた時代のはずである)から、溝口や成瀬が活躍していた時代の日本映画をイメージしているように思える。
 さすがにヒロインである家政婦の恋人だった男がフルチン(笑)で武道をやってるあたりから「日本映画」への目配せ…と受け取るのは乱暴かもしれないが、 あながちそれも見当はずれじゃない気がしてしまう。どうも僕には、本作に成瀬や溝口への心酔ぶりが感じられてならないのだ。
 例えば、あるシークエンスの終わりと次のシークエンスの始まりが微妙にシンクロしている…という描き方が何度か出て来る。実例を挙げれば、病院で地震が 起きて、赤ん坊の保育器にがれきが落ちているショットの次に、いきなり墓碑の十字架のショットが来る…とか、自分を捨てた男に会いに行ったヒロインが罵ら れ脅されるというショットの次に、むせび泣く女の声(実はそれは女主人の声なのだが)が聞こえるショットが来る…というように、微妙にズラしながらも前の シークエンスを受けたカタチで次のシークエンスが始まるという演出である。こういう描き方は、成瀬の映画では十八番としてよく使われたテクニックだった。
 ただし、正直言ってこの手の描き方は、別に成瀬ばかりが使ったテクニックではない。かつての巨匠たちがよく使った手で、例えばデビッド・リーン「ドクトル・ジバゴ」(1965)でも、悪徳弁護士(ロッド・スタイガー)によってヒロインのラーラ(ジュリー・クリスティ)が処女を失う場面と、帝国軍による民衆の弾圧によって積もった雪に血が飛び散る場面が交差する…といった具合だ。極めて古典的な語り口ではあろう。
 そんな古典的テクニックを駆使するあたりも、熟達したワザと感じられる所以だ。こういうテクニックは今ではあまり見られない。かつて丁重に作られた映画に多く使われたテクニックなのだ。だからこそ、僕あたりは「うま過ぎる」と思ったのだろう。
 また、長い長いショットの多用は、溝口的な長回しテクニックとはまた違った感興も味合わせてくれる。僕が最も感心したのは映画の終盤、女の子が海で遊ん でいて波にさらわれそうになり、泳げない家政婦が砂浜からどんどん波の中へと入っていく場面である。これを横移動で延々と長回しで撮っているのだが、実に 素晴らしい。海で水に浸かる場面というとムーンライト(2016)での海水浴場面が出色で、とにかくあの実感溢れるタッチが忘れ難かった。今回の海の 場面は、それと同じくらいに海の「あの」感じを出していた。自分も海の中に入って行くような生々しさとそれでいて追憶にも似た「あの」感じがあった。
 このあたりの演出も只事ではない。ただただ、見事だとしか言いようがない描きっぷりなのである。

どうしても引っかかるキュアロンの胡散臭さ

 …という訳なので、「うま過ぎた」で感想を終わらせてもいい…と一瞬思いかけた。実際に大半のレビューがそれで終わっているはずだ。
 実際にうまいからである。うま過ぎる。
 ただ、「過ぎる」と書かせてもらったあたりで察していただきたいのだが、物事何でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」…ということがある。以降は、あくま で僕の言いがかりと考えていただきたいが、僕はぶっちゃけ本作が素晴らしいと思いつつ…若干、いや、かなり引っかかる点を感じていた。
 僕が最初に「???」を感じたのは、ある場面における違和感である。それはヒロインの家政婦が自分を捨てた男を追って、武道の訓練をしている広場にやってくるくだりだ。
 指導者が武道の極意はテクニックでなく精神の鍛錬だと言って、片足で立ってバランスをとるポーズをやってみせる。そこで鍛えていた男連中は最初はバカに しているが、実際にやってみると誰も出来ない。実はそのそばで立って見ていた、ヒロインの家政婦だけがそれを出来ていた…というオチである。
 言いたいことは分かる。そこにいる男たちの誰よりも、ヒロインの精神が美しく強い…ということである。
 本作では終始出て来る男どもがどれもこれもクズで、程度こそ違えど女たちがみんな虐げられている。最後にはそれらクズ男どもはみんなドラマから退けられ て、正しく強い女たちだけで生きていく決心をして映画は幕を閉じる。本作はキュアロンの自伝的作品だそうだが、意図は明白である。
 まぁ、身もフタもない言い方をしてしまえば、女はすべて素晴らしくて男はすべてクズということである。少なくとも、この映画の中においては。
 それって、ある意味で「イマドキのヒーロー映画」としてこしらえられたキャプテン・マーベル(2019)と近いものを感じる。他のマーベルの男ヒーローた ちはみんなどこか人間的弱さを持っていて、それが愛嬌や楽しさにもなっているのだが、女性ヒーローであるキャプテン・マーベルだけは完全無欠。その完全 無欠さの中でも重要視されているのは「正しさ」のようだ。そのあたり、イマドキ世間の風向きを読む術に長けているマーベルとディズニーである。それが、時代の空気というものなのだろ う。マーベル初の黒人ヒーローであるブラックパンサー(2018)がやはり一種の「完全無欠」マンであったことも、これを裏書きしているように思える。
 だが、そこには血の通った人間味は乏しい。ブリー・ラーソンという魅力的なスターを投入して何とかボリューム感を出しているものの、本来ならば人間像として「面白み」には欠けている設定のはずだ。
 一方、本作のヒロインである家政婦も、武道の師匠のお墨付きで素晴らしい完全無欠人間ということになる。まぁ、あの安っぽい男にダマされてるあたりで完全無欠はどうか…とは思うが、先にも述べたように武道の師匠いわく「心・技・体」ともに勝っている横綱みた いな(笑)「格上」の人物のはずである。そうなるとクソ面白くもない人物像になってしまいそうだが、そこはそれ、さすがにアルフォンソ・キュアロンは並みの演出家で はない。今回あえて素人を起用してのリアリティ醸成に、一日の長を感じさせる。逆に、「素人のリアリティ」ゆえに押し切ることができた部分もあるかもしれ ない。
 ただ、基本的には彼女だって「正しさ」は折り紙付きなのだから、メキシコの「キャプテン・マーベル」なのである。
 さて、ここから先は僕自身が男なのでどうしても微妙な感じになっちゃうのだが、それでもあえて言わなきゃ話が始まらないだろう。この映画が男のクズっぷり、チ ンケさを告発していることは、ちゃんと映像にも刻印されている。例の「フルチン武道(笑)」のシーンで、家政婦の恋人が大真面目な顔でイチモツをプルプル 振りながらカタを見せていくくだりの滑稽さを見よ。バカ丸出し、アレも丸出しである。男の象徴のイチモツを見せる(しかも、それは大してご立派なモノでも ない)ということは、男のくだらなさチンケさを見せたいということだろう。
 では、そこでちょっと問いたいのだが…アルフォンソ・キュアロン、アンタは一体 何者なの?
 大見得切って男を糾弾するのはいいとして、そのコキ下ろしている「男」の中には当然アンタ自身も含まれるんだよね? アンタも、チンケなイチモツプルプル(笑)側の人間のはずだよね?
 ところが…他の男たちはみんなクズだけど、ボクだけは違うよ…というのが、どうやら本作のスタンスらしいのである。オレはイイ人間だと言いたいのか、オレのイチモツだけはデカいと言いたいのかは知らない(笑)が、他の男どもとは別…とは言いたいらしい。
 女性を賛美する映画の作り手なのだから、自然とそういうことになる…というだけではない。本作はどうやらキュアロンの自伝的作品のようで、そうなると彼 自身に当たるのは家政婦が育てているブルジョアの子供たちのうち男の子のどちらかだろう。その子供たちはラスト近くの海岸の場面で、ヒロインの家政婦と女主人がガッチリ抱 き合いスクラムを組むその真っ只中にいる。つまり「そっち側」の人間というワケなのだ。
 だから、キュアロンは、唯一例外的に「違いが分かる男」…ということらしいのである。女性の正しさ強さ素晴らしさが分かっているのは、キュアロンだけ。キュアロン先生の作品が見れるのはジャンプだけ…じゃなくてネットフリックスだけ(笑)。ボクだけは信用できますよ、女性のみなさん!
 なるほど、スピルバーグが本作をアカデミー賞から閉め出そうとした際に、キュアロンが怒って文句を言うワケである。せっかくアカデミー賞取りたくてイマドキの空気読んで作ったのに、余計なことを言うな!…ということにも思える。そりゃもう必死なワケだわな。
 もちろん、これは僕の言いがかりでイヤミである。つくづく僕もひどいことを言っていると思う。これはひねくれた奴のイチャモンでしかない。たぶん、僕が男だからこんな嫌がらせみたいなことを言っているに違いない。僕は偏見に満ちた人間なのだ。ここまで読ん で腹に据えかねている方も多々いらっしゃるだろう。「そっち」系の人なら尚更である。それはそれで、まったく弁解の余地はない。
 でも、そう思ったものはそう思ったんだから仕方がない。
 大体が、あまりに露骨なヨイショが見苦しいのである。経験から言わせてもらうと…誰かを過剰に持ち上げている奴って、実際にはそいつを腹の底でバカにし ていることが多い。オレみたいなひねくれ者から言わせてもらえば、こいつが本心で女性にリスペクトしているとは思えないのよ(笑)。少なくとも本当にリス ペクトしている奴は、
「心・技・体」ともに完璧ィ!…なんて見え透いたオベンチャラは言わないんじゃないか (笑)。「他の男たちはクソだけど、オレだけはアナタたちをリスペクトしてるよ」なんて、品格の欠片でも持ち合わせているなら、そんなことを言うのは恥ずかしいと分かっているはずだ。ヨイショも過ぎればイヤミだよ。
 先ほども述べたように、キュアロン自身は家政婦に育てられた男の子のどちらかにあたる…ということなのだろう。イイトコの子である。そのイイトコの子であったうま みを120パーセント享受して育ってきた男が、今になって「少数民族の人は大変」「家政婦の人は大変」と理解のあることを言っている。そのつい でに「女は素晴らしい、男はクソ」などと言ってみたりもする。何て心の広いお子さんなんだろう。
 そこに、自分の側の後ろめたさは微塵もない。まるで人ごとである。ブルジョアで男である自分のことはまるっきり棚に上げている。ボク、子供だったから仕方なかったんだも〜ん…である。
 確かに子供時代のことまで責任持てないということは分かる。僕自身だって世界のすべてのことに責任はとれない。とれないんだけど…だったら火の見櫓の上 に登ったうえでエラそうなことなんか声高に言うべきじゃないだろう。なまじっか本作では良心的で問題意識があるように描いているだけに、どうしても「いい 気なもんだ」という気持ちは拭えない。モヤモヤは残る。調子良過ぎるだろそれって。
 むしろ、これって女をバカにしているんじゃないだろうか。こう言っときゃ喜ぶ…とナメてるだろ。すべては邪推が過ぎると僕も思うが、言い出したついでだからこの際言い切っちゃった方がいいわな。ホントは心にもないくせに、イマドキの時流に乗って媚びようとした…という「打算」が見えるからイヤなのである。
 だってこいつは、「小公女」や「大いなる遺産」も「ハリポタ」も撮って、「トゥモロー・ワールド」や「ゼロ・グラビティ」も撮っちゃう男だよ。そういうことがシレッと出来る男なんだよ。そこに何の疑問もためらいもない男なのだ。そこんとこを忘れちゃいけない。
 メキシコ出身三羽烏の他の二人…デル・トロやイニャリトゥはそれなりに映画作家としての意匠が見えるのに、この男だけはそれが極めて見えにくい。映像ス タイルにも題材の選び方、描き方にこの人ならではの一貫性があまり感じられない。そりゃあ仔細に見ていけば、曖昧な中にも何がしかの連続性や共通性は見いだせるのかもし れない。だが、そこには普通一般に受け止められる「意匠」は、あまり認められないように思えるのだ。
 こんな「ヌエ」みたいに掴みどころがない、得体の知れない男はどうも信用できない。
 率直な気持ちとして、言ってることが胡散臭いのである。テクニックがあるのは分かるしうまくやっていると思うが、うまくやられ過ぎててダマされた感がスゴいのだ。
 そうなっちゃうといちいち引っかかってしまって、劇中で映画館が何度も出て来るのも映画ファンへの目配せや媚びみたいで気持ちが悪い。ちょっと、ギレル モ・デル・トロシェイプ・オブ・ウォーター(2017)に出て来る映画館みたいな感じ。劇中に出て来る映画の数々も…ルイ・ド・フュネスが出てる 「大進撃」(1966)は純粋にかつての追憶で描いているんだろうが、ジョン・スタージェス監督の「宇宙からの脱出」(1969)をわざわざ一場面引用し ているのは、これがオレの「ゼロ・グラビティ」の元ネタだぜ〜ってタネ明かししてるみたいで、得意げな感じがまた何とも不快である。こうなってくると、あ の「フルチン武道(笑)」も本当に「日本映画」への目配せなのかもしれない。オレたちをナメとんのかこの野郎という気にもなってくる(笑)。スピルバーグ がわざわざあんな炎上必至な発言をしたのは、「映画好き」としてこいつの胡散臭さを本能的に感じ取ったからではないか。
 そもそも自伝的と思われる話で、太い幹みたいなストーリーラインはなくてエピソードの羅列みたいな映画…ってあたりで、やはり本作は「フェリーニのロー マ」(1972)を大いに意識していたような気もして来る。もちろん両者は大きく内容が異なる…どちらかと言えばフェリーニ作品でも「ローマ」より「アマルコルド」(1973)の方が近い気もする…が、ドラマ性が売りではない点は共通しているはずだ。だとす ると、根本的にここが最大に胡散臭い
 だって、この映画に「ローマ」って言葉はひとつも出て来ない。見てても「ローマ」って何だか一向に分からない。この映画の舞台がメキシコシティのコロニ ア・ローマ地区だなんてことは、ネットなどの後付けの情報でしか分からない。劇中にはまったく説明がない。もしこの映画を見るだけだとしたら、よほどの 「メキシコ通」でもなけりゃそんなことはまったく分からないのだ。なのに、タイトルはいきなりドヤッと「ローマ」。例えば…やっぱり地名タイトルで「アレ レ?」となる「パリ、テキサス」(1984)なんかとも、本作はちょっとニュアンスが違うだろう。
 ぶっちゃけこの映画って、本当は題名に「キュアロンのローマ」って付けたかったんじゃないの(笑)? それが本当のホンネだろ、これからは「フェリーニ」じゃなくてこのオレ様、キュアロン様の時代…とか。
 いきなりそれまでのキュアロン作品にはなかったほど「アートな香り」が漂っ ているあたりにも、そんなインチキ臭さを感じてしまう。だってこんなに高尚じゃなかったよな、こいつの映画って。何だか本作には、そういう「物欲しげ」な 感じすら透けて見える。
 作品自体は良く出来ているとは思うが、「心からのもの」…というか、観客や題材や登場人物への愛、女性への賛美の気持ち、ヒロインのモデルとなった家政 婦への感謝…純粋にそんなモノから作られているようには素直に受け取れない。そもそも、アレほど映画テクニックを駆使して映画へのオマージュも盛り込んでいるのに、肝心要の「映画への愛」がないような気がする。そう感じられる理由は、ここまで僕が言って来た通りだ。 うまいことはうまいけどすべてが計算づくで、「愛」があるとしたら「オレ様スゴい」「オレって善人」みたいに自分への「愛」だけって気がする。自分の首筋にキスしているような気持ち悪さがある。 だからって別に罪でも何でもないが、見ている側としては心地よくは酔えないのだ。
 …いやぁ、我ながら本当にひどいブッ叩きようである。どんだけ曲解するんだよというか、全世界が絶賛のこの映画をこんなにケナしちゃって大丈夫なのかと 思ってしまう。実際、この映画は実によく出来ていることは認めざるを得ないし、ここで言っていることは重箱の隅をつつくレベルの話でしかないことは承知も している。何てひねくれて性格が悪いんだろうね、オレって(笑)。根が品性下劣で下衆な男なんでねぇ。人を悪くしか思わない、実にイヤな男なんだよオレ は。
 だけど、これもまたホンネなんだよなぁ。見事に出来ていてうまくて素晴らしい出来映えで、映画館で見ることが出来て良かったと心から思う作品ではあるが、何だか妙に引っかかる。引っかかり過ぎる。引っかかるということを、どうしても見過ごすことができない。
 それもすべて…大変申し訳ないが、このキュアロンという男の胡散臭さゆえ…なのである。
 

 


 

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