「魂のゆくえ」

  First Reformed

 (2019/06/17)



見る前の予想

 ポール・シュレイダーの新作…と聞いてピンと来る人…は、もうかなりのお歳の方ってことになるんじゃないだろうか。
 それも、映画ファンの中でも限られた人ってことになるかもしれない。
 今回の映画のチラシに大きく書かれた「ポール・シュレイダー」の名前の上に、肩書きのごとく「『タクシードライバー』(脚本)」と置かれているあたりからして、この人の微妙な位置づけを如実に表している。どちらかと言えば監督としてより脚本家としての名声の方が高い人だ。しかも、近年はかなり「落ち目」な印象が強い。だから、ここで今さら新作…という気がしないでもない。
 だが、今回は牧師を主人公にしたお話と聞いて、なぜか僕は胸騒ぎがした。今回の作品は結構いけるんじゃないか? 主人公を演じるのがイーサン・ホークというのも、何となく今回の題材にしっくり来るではないか。近年のイーサン・ホークのひとクセある作品選択を考えても、ひょっとするとひょっとするかもしれない。
 そんな訳で、あまり期待しないで期待する…という、ちょっと奇妙な心境で本作を見に行った訳である。

あらすじ

 今日から日記をつけることにした。パソコンでなく手書きで。日々の出来事や思ったことを包み隠さず書くつもりだ…。
 ここは、ニューヨーク近郊の住宅街にあるちっぽけな教会「ファースト・リフォームド」。今日もいつものように、初老のトラー牧師(イーサン・ホーク)が礼拝を執り行う。日記を始めたのは、このトラー牧師だ。だが、ファースト・リフォームド教会は弱小教会。今では礼拝に訪れる人もまばらである。今日だって教会の中はパラッパラだ。
 ところが礼拝後に、信徒のひとりメアリー(アマンダ・セイフライド)がトラーに相談を持ちかける。今、メアリーは妊娠中だが、夫のマイケルが子供を産むなと言い始めたらしいのだ。しかも、その理由も地球環境悪化…というから困ったものだ。困惑するメアリーに乞われ、トラーはマイケルと会って話をすることにする。
 こうして訪れたマイケルとメアリーの家。マイケルは環境保護活動家として、つい先日も逮捕されたばかりの筋金入り。話は穏やかに始まったものの、マイケ ルは一歩も退く気がなさそうだ。地球環境の悪化が止められない。止めようと活動する者は虐げられる。こんな世の中に新たな命を生み出したくない。子供にこ う言われたらどうするんだ? 
 「パパはこうなると分かってんだろ?」
 話がどんどん袋小路に陥りそうになり、どうにも収拾がつかなくなってきた。そこで、トラーはおもむろに自分のとっておきの話を持ち出した。
 実は、彼のひとり息子はイラク戦争で亡くなっている。従軍牧師として息子を戦場へ送り出したのは、他ならぬトラー自身。代々が牧師として軍に付き添って来た家柄だから、そこにためらいはなかった。
 だが、息子は戦場で死んだ。それをキッカケに妻も去った。苦しみのドン底にいた彼が今日何とか平静を保っているのは、恩人であるジェファーズ牧師が救ってくれたからだ。だが、やはり子を失う親は辛い…。
 この重たい告白で何とかその場を収めたトラーは、マイケルにまた明日会おうと約束した。一息ついて自宅に戻るトラーはまた日記をしたためるが、この日の重苦しい問答を思い浮かべると、どうしても深酒をしないではいられない
 だが、実はそんな日々が、トラーのカラダを徐々に…しかし確実に蝕んでいた。彼自身もそれはよく分かっていたのだ。今夜も便器を真っ赤に染める血尿を見て、暗澹たる気分にならざるを得ないトラーだった。
 翌日、トラーは街まで足を伸ばして、アバンダント・ライフ教会の本部に顔を出す。アバンダント・ライフ教会は巨大組織と数多くの信徒を抱えるいわゆる「メガ・チャーチ」。トラーの属するファースト・リフォームド教会もその傘下にある。そもそも今日びファースト・リフォームドのように信徒も少ない弱小教会は、「メガ・チャーチ」の後ろ盾がなければやっていける訳がないのだ。
 トラーは今日、そのアバンダント・ライフ教会の幹部の一人であるジェファーズ牧師(セドリック・カイルズ)と面会するためにやって来た。ジェファーズとは、トラーがマイケルに「恩人」として名を挙げた、あのジェファーズである。
 今日の面会の趣旨は、ファースト・リフォームド教会の250周年記念イベントに関する打ち合わせだった。ちっぽけな 教会ではあるが、ファースト・リフォームド教会はそれなりに由緒ある教会だったのだ。盛大な式典をやり立派な来賓を招いて…ジェファーズはすでにしっかり としたプランを固めているようだが、トラーはどこか「心ここにあらず」な表情。その「華やか」なプランは、こぢんまりしたファースト・リフォームド教会に も、トラーにも似つかわしいとは思えない。
 打ち合わせ後、トラーは大講堂で賛美歌の練習をしている子供たちのところへ足を運ぶ。彼が話しかけたのは、賛美歌の指揮をしていた女性エスター(ヴィクトリア・ヒル)。彼女はトラーの身を案じており、特に彼の健康を心配していた。それもそのはず、トリーの息子亡き後に別れた妻とは、どうやらエスターのことだったらしいのだ…。
 そんなトリーにあのメアリーから緊急の連絡が入る。実はこの日のマイケルとの面会は、事前にキャンセルが入っていた。ところが今度はメアリーから自宅に来てくれとの連絡だ。これは一体何が起こったのか?
 慌てて二人の家に駆けつけるトリー。メアリーはトリーをガレージへと連れて行く。すると、そこに隠されていたものは…。
 爆薬が縫い付けられたマイケルお手製の「自爆用ベスト」
 偶然これを見つけて驚愕したメアリーが、トリーに緊急連絡を入れたという訳だ。マイケルはこれを着て、一体何をしようとしているのか? 想像するだに恐ろしいではないか。自らも気が動転するトラーではあるが、とりあえずこの「自爆用ベスト」は彼が預かることで、何とか事を丸く収めようとした
 しかし翌日、トラーはマイケルから公園へと呼び出される。漠然とした不安を抱きながら公園に向かったトラーは、そこで予想外のモノを発見して足を止めた。
 地面に積もった雪が、そこで真っ赤に染まっている。
 それは、自らの頭をショットガンで粉々に吹き飛ばした、あのマイケルの遺体だった…!

ポール・シュレイダーの「落ち目」と「挫折」

 ポール・シュレイダーについては、イマドキの映画ファンにはちょっとばっかし説明が要るのかもしれない。
 何しろ僕だってこのサイトを開いて20年にもなるのに、その中でシュレイダー作品を取り上げたのはたったの2回。やっぱり(脚本を手がけただけではあるが)「タクシードライバー」(1976)の人って感じだから、すでに「過去の人」感はあった。
 そもそもこの人が映画の最前線に立っていた時って、今から30〜40年前になっちゃうんじゃないだろうか。「タクシードライバー」と前後して、ブライアン・デパーマ「愛のメモリー」(1976)やジョン・フリン「ローリング・サンダー」(1977)などの脚本で確実に評価を高め、すでに何本か監督作を発表していたあたりでも、それこそスコセッシやデパーマみたいな若手映画作家みたいな派手派手しさはなかった。
 それがいきなり「アメリカン・ジゴロ」(1980)、「キャット・ピープル」(1981)、「MISHIMA」(1985)…と話題の監督作を連発。それらとマーティン・スコセッシ「レイジング・ブル」(1980)に脚本を提供していた1980年代前半あたりで、彼は絶好調を迎えた…という記憶がある。間違いなく、このあたりがシュレイダーの最盛期と言うべき時代だろう。
 これらの中では、やはりリチャード・ギアを一気にスターダムにのし上げた「アメリカン・ジゴロ」の影響が大きかったと思う。ブロンディ「コール・ミー」が流れるイントロがすべて…みたいな「アメリカン・ジゴロ」ではあったが、イキの良さと華だけは間違いなくあった。比較的に地味でひとクセあるシュレイダー作品の中では、「アメリカン・ジゴロ」と「キャット・ピープル」はハリウッドの商業性と何とかうまく折り合いがつけられていた稀有な作品だったような気がする。確かに彼の作品の中では、この2本が抜きん出て華やかだ。
 だが、その後はズルズルとジリ貧となって作品発表頻度も落ちていった。否、発表はされているんだが、全然評判になっていなくて見逃してしまったりした。そのポール・シュレイダーの「落ち目」に拍車をかけてしまったと思われるのが、エクソシスト・ビギニング(2004)監督降板事件である。
 シュレイダーがあの「エクソシスト」(1973)の「ビギニング」モノを監督する…というのもどうかと思うが、出来上がった映画があまりに「地味」と判断されてしまったため、レニー・ハーリンに監督交替。ほとんどの場面を撮り直されて、ハーリン版の方が一般公開されるという事態になってしまったようなのだ。しかも撮ってる途中で降板させられたのかと思っていたら、撮り終わってほぼ作品が完成してからクビ…という酷い話だったらしい。
 近年ではこのシュレイダー版「ビギニング」も、DVDというカタチで見ることができるようになったらしい。だが残念ながら、今のところ僕はこれを見てい ない。だから、完成したレニー・ハーリン版がどの程度シュレイダーのオリジナルを踏襲しているのかは分からないが、公開版に残っているモラルや良心、そして神への言及などの要素から察するに、これらをもっと真摯で真面目なアプローチで作っていただろうということは容易に想像できる。それは、彼の過去のフィルモグラフィーからも何となく透けて見えて来るのだ。
 「タクシードライバー」、「レイジング・ブル」、「最後の誘惑」(1988)、「救命士」(1999)…と、ポール・シュレイダーは脚本家として4度もマーティン・スコセッシと組んでいる。それはシュレイダーが、スコセッシとかなり共通する部分を持っていたからだ。モラルや良心をテーマにしていながら、暴力や俗悪な世界を好んで題材にする…というあたりが、この二人の共通点である。そんなシュレイダーだから、公開されたレニー・ハーリン版から考えてもどんな作品になったかある程度想像はつく。
 それは、彼にとって初めて真っ正面から「神」を取り上げた作品になっていたのは間違いない。
 それまでの彼のキャリアで「神」を真っ向から扱った作品は、唯一「最後の誘惑」の脚本があるだけ。自らがイニシアティブをとった監督作としては皆無である。モラルや良心をテーマにしてきたシュレイダーだが、ストレートに教会やら神やらを前面に出して描いたことはなかったのだ。「ビギニング」は所詮「エクソシスト」の前日談なのでシュレイダーとしては雇われ仕事だった可能性が高いが、それでも彼にとってはかなりの「意欲作」だった可能性がある訳だ。
 だが、そんなシュレイダーの作品は、スコセッシのような派手さや商業性に乏しい。スコセッシは華麗なるスローモーションなどの映像テクニックやロック・ミュージックを駆使して、作品に彩りをつけることが出来る。しかし、シュレイダーにその才気はない。「アメリカン・ジゴロ」の「コール・ミー」は幸運な例外だ。融通が利かない地味さが身上なのが正直なところである。
 例えば、「アメリカン・ジゴロ」でヒットを飛ばす前の監督作「ハードコアの夜」(1979)を挙げてもいい。ポルノ女優に身を落とした自分の娘を救い出すために、単身ロサンゼルスのポルノ界に飛び込んで行く頑固親父(ジョージ・C・スコット)を描いた作品。それこそ題材としては「タクシードライバー」的にも作れそうだし、96時間(2008)みたいに派手に作ろうと思えば作れる。だが、実際に出来上がった作品は、妙にクセが強い上に極めて暗くて地味。いかにも融通がきかなそうで、華やかさには欠ける。だから「ビギニング」シュレイダー版にしても、確かにあの「エクソシスト」の前日談としてはかなり地味で、商業的にはキツかったかもしれない。「ビギニング」プロデューサーの気持ちも、何となく分からないでもないのだ。
 だが、それにしても…一旦完成しかかった作品をお蔵入りされた上に他人の手でまるっきり撮り直されるなんて、さすがに前代未聞ではないか。それなりに実績もあった映画作家として、これほどの屈辱はないだろう。彼の作品を公開するくらいなら、もう1本分のカネを出して一から作り直した方がマシということなのだ。さらに、彼にとっては初めて神や教会を前面に打ち出した「意欲作」だったはずだから、発表の機会を奪われたことの失望感も大きかったに違いない。
 この「挫折」がシュレイダーのメンタルに与えたキズの深さは、想像するに余りある。それでなくても「落ち目」感の出ていたシュレイダーだっただけに、そのダメージには計り知れないものがあったに違いない。
 先に僕がこのサイトでシュレイダー作品を取り上げたのはたった2回と語ったが、その最初の1回はニック・ノルティ主演の白い刻印(1998)。これはジェームズ・コバーンがアカデミー助演男優賞を取ったので脚光を浴びたものの、映画そのものは陰々滅々たるお話だった。その後、「ビギニング」事件を挟んでの2回目は、ニコラス・ケイジ主演のラスト・リベンジ(2014)なる作品。だが、これまた何とも気勢の上がらない作品で、正直言って退屈そのものだった。しかも、シュレイダーはまたしても途中で監督解任。最終編集権を奪われてしまったらしい。「ビギニング」の悲劇再びである。とにかく、どちらも元気や覇気のない作品であったことは間違いない。
 …という訳で、名の知れた映画作家のポール・シュレイダーではあるが、ここ30年ぐらいはずっと「落ち目」感漂う状態であったと言える。中でも「エクソシスト・ビギニング」での挫折は、彼の映画作家としてのキャリアに大きな傷跡を残してしまったように思えるのだ。

見た後での感想
 そんなシュレイダーの新作だから、僕も正直言って少々覚悟していたことは確かだ。
 ぶっちゃけ、作品の出来は期待できないかもしれない…と半ば諦めてもいた。第一線からはずれて、ずいぶん年月も経っている。もう結構な年齢だから、いろいろと勘も鈍っていておかしくない。
 おまけに見た日は僕の体調も絶好調とは言い難く、少々眠気も感じていた。だから、途中で睡魔に教われても仕方ないかな…と思ってもいた。そうなったら、そうなったでしょうがない。
 だが、僕はそんなナメた気持ちで本作を見ていて、心底ビックリしてしまった。
 一睡も出来ない。
 それどころか、画面から目を離せない。とにかく始まってすぐに、スクリーンからただならぬ気配が漂って来る。
 ずっと元気がなかったシュレイダーが、久々に蘇った。それも「アメリカン・ジゴロ」のような華やかさで蘇った訳ではない。あの「タクシードライバー」の頃の、エッジの立った強烈さで復活したのである。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 



一見、地味な佇まいに見える作品だが
 本作は、イーサン・ホーク扮する主人公の牧師が日記をつけるところから始まる。日記とモノローグである。何とも地味なオープニングだ。
 最初に出て来るのは、主人公が働くファースト・リフォームド教会。ちっぽけな白い教会である。まったく建物に装飾もない、地味な佇まいである。それを、イマドキでは珍しいスタンダード・サイズの映像で捉えている。
カメラも動きがなく、据えっぱなしでシンプル。何となく最初はグランド・ブダペスト・ホテル(2013)などウェス・アンダーソン作品みたいな、シンメトリーな構図が多い。そのへんも、何となくこぢんまり感が漂って来る所以である。しかも劇音楽もほとんど…いや、多少なりともあったのだろうか? 劇中で現実音として流れる教会音楽以外は、音楽なんて流れないのではないか。
 地味である。
 それでなくても地味なシュレイダー作品だが、その中でもとびきりに地味な作りである。先にも述べたように、モラルや良心をテーマにしてきたシュレイダーだったが、舞台となるのは暴力や薄汚い俗悪な世界であった。ところが、本作はストレートに教会が舞台である。全体的に静かで抑えた語り口は、まるで岩波ホールでかかるアート系映画のような語り口だ。
 この時点で、僕は本作を最後まで見られるかを大いに危ぶんだ。これは寝てしまうかも…と、かなり絶望視していた訳だ。だが、やがてすぐにそれは杞憂となる
 話も非常にシンプルな牧師の日常から始まるのだが、信徒のひとりである女が、自分の夫のことで相談を持ちかけて来たことからお話が動き出す。この信徒の女が相談してきたのは、環境問題が心配過ぎて自分の子供を生ませたくない…という、被害妄想が高じたような男のことについてである。
 結局、主人公の牧師は自らこの男に話をしてみることになるのだが、相手はさすがに環境問題の「闘士」だけあって、理論武装もバッチリ。ああ言えばこう言うで話にラチが空かない。
 そこで主人公が持ち出したのが、「とっておき」の死んだ息子の話。おそらく主人公は平静な顔はしていたものの、この時「これでキマリだな」と少しは心の中でドヤ顔していたのではないか。死んだ身内の話をされたら、ぶっちゃけ反則である。案の定、これが効いたのか話は一旦落ち着いた。
 ところが環境活動家の男は少しは考えが好転すると思いきや、実はますます悪化。自爆テロのための「自爆用ベスト」なんて物騒なシロモノを隠していたから、全然懲りていない。さらにはこの男が自ら死を選んでしまったことから、話はどんどん不穏でただならぬ方向へと動き出して行く…。
 このあたりになると、見ている方としてはもう「地味」なんて言っている場合ではない。画面は相変わらずおとなしいしこぢんまりとしているのだが、とにかく見ていて緊張感がスゴい。不穏な雰囲気が漂い始めて、見ていてイヤな予感しかして来ないのだ。
 そもそも最初の頃から主人公は健康を害しているらしく、その病状の悪化が劇中で次々と描かれる。だが、もっとヤバいのは主人公のメンタルで、環境活動家 の男の死以来どんどん追いつめられて行く。そのへんで、ようやく僕らも気づいて来る訳なのだ。教会という厳格な世界を扱ってはいるが、これはひょっとした ら「タクシードライバー」以来の「過激な作品」になるのではないか…と。
 なぜなら、主人公の手元にはあの「自爆用ベスト」があるから。
 観客の脳裏には、よせばいいのに主人公が自宅に持って帰って来てしまった、例の「自爆用ベスト」がチラついているからである。おまけに、主人公は物語の進行とともに、どんどん心身ともに追いつめられていく。まさか、最後は「アレ」を使っちまうんじゃないだろうな?

 何のことはない。今までシュレイダーが描いて来た暴力と俗悪から程遠い、ダントツで地味〜な作品になると思いきや、それらなどブッチ切りでヤバい作品になってしまいそうではないか!

これはシュレイダーの「敗者復活戦」なのか?
 主人公がどんどん思い詰めていく過程で、なるほど本作の主演がイーサン・ホークになった理由が理解できた。
 根が真面目だからいいかげんに出来ない…というキャラクター。それが高じて、思い詰めたあげくにほとんど妄想の域まで達してしまう男…フッテージ(2012)やリグレッション(2015)で彼が演じたのは、そんな人物である。それは本作にもすっかり当てはまってしまう。
 最初は環境活動家の男を諌めるつもりだったはずの主人公が、男の死によっていつの間にか彼の思いが乗り移ってしまったかのように変貌していく。そうなると、根が真面目で思い詰め型の性格だから、適当なところで切り上げることができない。現実や世間とうまいこと折り合いをつけていくことが出来ない。そもそも元から存在していた現実世界の矛盾や欺瞞までどんどん目につくようになってきて、収まりがつかなくなっていくのである。
 そういう意味では、主人公が核兵器の恐怖に取り憑かれ、一族郎党を無理矢理ブラジルに移住させようと暴走し始める黒澤明「生きものの記録」(1955)と共通するような話にも思える。ただ、「生きものの記録」で三船敏郎が演じた主人公は動物的な本能みたいなモノに突き動かされていたのに対して、こちらはむしろ牧師としての「本来かくあるべき良心」や「倫理観」に基づいて考えていった結果、どんどん追いつめられていくのである。

 現実社会との折り合いをつけていくと、そんな考えは「狂気の沙汰」でしかない。しかし、折り合いをつける…ということは「なあなあ」にすることでもある。宗教人として真摯に考えていけば、「過激」な考え方こそが「真っ当」ではないのか…。
 良心を突き詰めていくと、過激にならざるを得ない。それは、主人公の良心が人並外れて研ぎすまされているが故…と言うことができる。純粋に考 えているが故のことと見ることもできる。だがその一方で、第三者的に主人公が社会の不正や矛盾を訴えている様子を見つめていると、やはり常軌を逸した振る 舞いに見える。いかにもヤバい人、いわゆる「狂気の沙汰」である。人間、良心を突き詰めていくと狂気に行き着かざるを得ないのか。

 これは、果たしてどのように受け止めればいいのだろう。見ているこちらも、非常に心中穏やかではなくなってくる。
 そんな葛藤の中、いよいよその舞台となる教会250周年記念イベントの日がやって来る。当然のごとく、例の「自爆ベスト」を着用に及ぶ主人公。あぁ、やっぱり「やる」んだな…と観客が思っていると、思わぬアクシデントによって主人公がその初志を貫徹できなくなってしまう。
 ところがここで、映画はさらに「過激さ」を増した結末へと導かれていくのだ。ある意味で、当初の予定通り主人公が「自爆ベスト」を使ってしまうことよりもさらに衝撃的である。しかも、いかようにでも解釈できる結末なので、なおさら衝撃は深い。
 これならいっそ「自爆ベスト」を使ってくれた方が、ひょっとしたら昔の谷岡ヤスジのマンガみたいな「鼻血ブーッ」的アナーキーな爽快感やカタルシスが あったかもしれない。見た目だけでも派手な映像が撮れたかもしれない。だが、インパクトはおそらく現状のエンディングには及ばなかったはずだ。それくら い、本作のエンディングは重いボディ・ブローを食らったような、何ともハードな衝撃なのである。
 聞くところによれば、本作は「構想50年」との触れ込みだそうである。だとすると、それこそ「タクシードライバー」よりも前から暖めていた企画…ということになる。だが、それをこの時期になって、なぜこのタイミングで発表しなくてはならなかったのか。
 シュレイダーに長年暖めていた企画を具体化させるトリガーとなった要素とは、一体何なのだろうか。
 本作の切羽詰まったような切迫感は、まるでシュレイダー自身もイーサン・ホークの主人公のように、思い詰めて本作を作っていたのではないか…と思わせる。神と教会を前面に押し出した作品…という点も含めて、僕はどうしても「ある妄想」を抱かずにはいられないのだ。
 降板させられた「エクソシスト・ビギニング」、シュレイダーはその「敗者復活戦」をどこかでやらずにはいられなかったのではないか?
 正直言って、近年は完全に錆び付いてしまったような映画作家となっていたポール・シュレイダーが、どうしてここでかくも強烈なインパクトを取り戻すに至ったのか。僕はむしろそちらの方が、映画の結末よりも気になって仕方ないのである。

 

 

 

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