「山<モンテ>」

  Monte (Mountain)

 (2019/03/11)



見る前の予想

 本作のことを知ったのは、映画紹介サイトでのことである。
 イタリアの山地で辛酸をなめ尽くした男が、山に戦いを挑んでいく…というお話。男がハンマーを持っている場面写真がついていたから、モノの例えではなくて本当にガチで「自力で山と戦う」ってことなのか。考えようによってはバカな話だが、ひょっとすると強烈なドラマである可能性もある。
 監督はイラン出身のアミール・ナデリ。名前は聞いたことがあるが、作品は見たことがない。だが、黒澤明を意識した…とのことらしく、そうなると骨太でダイナミックなドラマが期待できるかもしれない。
 そもそも僕は辺境を舞台にした映画が大好きなので、この映画のことを知ったら居ても立ってもいられない。吉祥寺だけでやっていると聞いて、寒い雨が降る中を慌てて駆けつけた。


あらすじ

 暗く寒々とした大地に、壁のようにそびえ立つ巨大な岩山。その頂は、常にもやがかかって見ることができない。岩山に吹く強風が、まるでうなり声のような音を上げている。麓には木々などもなく、ほとんど緑が見られない荒涼とした土地だ。その場所にへばりつくように、かろうじて何軒かの粗末な家が建っている。
 今まさにそんな集落の住人が集まって、ある「儀式」が営まれようとしていた。「儀式」といっても厳かな衣装や道具がある訳ではない。いたって素朴かつ貧しいその「儀式」とは、この集落の住人の家の葬儀である
 荒れ果てた土地にあるこの集落の「墓地」に、新たな墓が掘られていた。そこに棺桶もない亡骸を収めているのは、アゴスティーノという男(アンドレ・サル トッティ)。亡骸はこのアゴスティーノの幼い娘だ。それを見つめているのは、アゴスティーノの妻ニーナ(クラウディア・ポテンツァ)と息子のジョヴァンニ (ザッカーリア・ザンゲッリーニ)。ニーナは悲しみのあまり呆然自失である。
 やがてアゴスティーノの一家を残して、他の住人はその場を去って行く。アゴスティーノたちは「墓」の上に岩などを乗せたりして何とか墓らしく整えるものの、その貧寒とした佇まいは如何ともしがたい。
 夜ともなれば、強風が立てる音がひときわ大きく聞こえる。しかも、騒音はそれだけでない。あたりにコヨーテが出没し、その鳴き声が聞こえてくるのだ。し かも、コヨーテは賢い。埋葬されたばかりの墓を荒らして、亡骸を食おうとする。それに気づいたアゴスティーノたちは、慌ててコヨーテたちを追い立てに駆け つける。何たることだ。夜でさえ、そして永久の眠りについた者でさえ、この土地では心安らぐことができないのか
 そんな毎日に耐えかねたのか、翌朝、集落の他の住人たちがこの土地を離れることになる。憮然とした表情のアゴスティーノだが、止められないということは分かっていた。
 土地は痩せて作物も出来ず、気候は常に悪い。すべてはあの岩山のせいだ。それでもアゴスティーノは、ここに先祖からの土地があるから離れられない
 だが、さすがに妻のニーナと息子のジョヴァンニには、この不毛の土地での暮らしはつらかろう。アゴスティーノはニーナに「息子を連れて村に住んでいる妹のもとへ行け」と告げるが、彼女は「娘の墓があるから」と応じない。こうしてアゴスティーノの一家だけが、この荒れ果てた土地に留まることになった。
 しかし、夜ともなれば山の頂から転がり落ちた岩が、他の岩を巻き込んで雪崩のように崩れ落ちてくるアリサマ。どこまでも人間の暮らしを拒絶するような岩山ではあった。
 ともかく、このままではいけない。アゴスティーノは木製のおんぼろ荷車にかろうじて収穫できたわずかの作物、夜なべ仕事で作った祖末な人形、木製の食器などの手作り産品を載せた。その荷車を綱でガラガラと引っ張り、山の麓にある村までトボトボ出かけることにした。
 村は山とは打って変わってポカポカと陽が照っていて、人でにぎわっている。アゴスティーノはそこの道ばたに陣取り、持参した品々を買ってもらおうという訳だ。
 だが、そもそも肝心の品が魅力に乏しい。そして、たま〜に品に目をとめる若い娘がいても、その母親がすぐにヒソヒソと彼女の耳もとでささやき、その場から引き離してしまう。アゴスティーノは「山から来た者」として、明らかに差別されていた。刺すような視線と心ないつぶやきにさらされながら、モノも売れないままジッとその場で耐えるアゴスティーノ。
 そんな彼に声をかけたのは、ニーナの妹だった。彼女はアゴスティーノの窮状を見るに見かねて、彼のもとへと駆け寄った。だが、「こんなモノが売れると 思っているの」という彼女の言葉は、図星ではあるが聞いていて辛い。さらに彼女から幾ばくかのカネを施されるに至っては、アゴスティーノもいたたまれな い。
 それでも、生きるためには商いに行かなくてはならない。アゴスティーノは辛い思いをするのも承知の上で、翌日も村の路上で「お店」を広げる。ニーナの妹はそんなアゴスティーノに、今度は首から下げる「お守り」をくれた。そして、アゴスティーノに「信心」の大切さを諭すのだった。
 そんな折りもおり、路上のアゴスティーノに声をかける男がひとり。それは村の地主だった。突然のことに面食らいながらも、地主に従って荷車を引っ張ってついていくアゴスティーノ。辿り着いたのは、地主のお屋敷の敷地内だった。そこでアゴスティーノは、庭の片隅にある薪を運ぶ仕事など雑用を手伝うことになる。さらに敷地の片隅で、昼飯までご馳走になるに至って、アゴスティーノはついつい首から下げた「お守り」をしげしげと見つめずにはいられない。
 こうして飢えと乾きを癒したアゴスティーノだが、庭の片隅にウロウロしている鶏たちを見つめるうちに、ついついその中の1羽を捕まえて荷車に隠してしまう。実はそこからがツラかった。どれほど飢えても貧しくても、盗みは良くない。まして、困りきった時に救いの手を差しのべてくれた家でのことである。先ほども、もらった「お守り」のご利益を実感したばかりではなかったか。悶々と悩み抜いた末、結局、アゴスティーノは捕らえた鶏を放すことにする
 だが何たることか。間の悪いことに、その様子を屋敷の使用人が見ていた。アゴスティーノは挨拶もなしで、その場をそそくさと立ち去るしかなかった。
 そんなこんなで、いよいよ一家の暮らしは行き詰まって来る。ある朝、村に出かけようとするアゴスティーノは、ついに妻ニーナに今まで言わずにいた言葉をつぶやいた。
 「オマエの髪飾りをくれ。カネに替えてくる」…。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 


見た後での感想

 どんな映画かも知らずに劇場に飛び込んでみたら、期待通りの「辺境」映画。いや、期待通りどころか期待以上の辺境だ。
 文字通り草木も生えない不毛の地。そして、常に猛獣が吠えるような風の音が鳴り響く。山の上部はもやがかかったままでハッキリ見えず、絶えずドンヨリと曇って貧寒とした空気が流れる。
 アミール・ナデリ監督は黒澤明を意識して本作を撮った…とのことだが、さもありなん。確かにこの荒れ果てた大地や寒々とした雰囲気には、「蜘蛛巣城」(1957)あたりと共通するものを感じる。ごく一部の場面を除いて徹底的に色を排した映像も、モノクロ・フィルムで撮っていた黄金期黒澤映画のムードが感じられる。もちろん映画としてはまったく別物とは思うが、何よりその骨太さやスペクタクル大作映画でもないのに画面を圧するスケール感に、黒澤映画を彷彿とさせるものが感じられる。
 まず、その強烈さだけでも一見の価値はある映画だ。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 



バケツの底が抜けたような絶望とカタルシス

 先にも述べたように、本作は一部を除いて徹底的に脱色させたようなモノクロ風映像で撮られている。それだけではなく、登場人物も極力絞って、舞台も設定も徹底的にシンプル。おまけにセリフも出来る限り減らされている。まるでジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドによる最初のアルバム「ジョンの魂」の佇まいにも似た、「一筆書き」のような野太さのある映画なのだ。それだけ単純化が押し進められているため、お話は抽象化して一種の寓話の域にまで達している。
 いわゆる「辺境」映画で寓話性が高い映画といえば、僕はかつて見たフレディ・M・ムーラー監督のスイス映画「山の焚火」(1985)あたりを連想したが、そのお話の内容はかなり異なる。ズバリ言うと、シビアさがハンパじゃないのである。
 本作で描かれている物語は、絶望的なまでに救いがなくて涙も乾きそうだ。 あまりに絶望が突き詰められているので、むしろバケツの底が抜けちゃったようで隠隠滅滅な風にはならない。本来、僕は人がイジメられて辛い思いをするのを 見せられるのが苦手だが、本作はそれが行き着くところまで行き着いちゃっているせいか、それとも抽象化のおかげなのか、見ていてイヤ〜な気分になることは ない。先ほども述べたように、涙も出ないほどドライに乾ききってしまっているのである。
 そんな訳で主人公たちは物語の中盤ぐらいまで辛酸をなめ尽くすのだが、後半は一転してとんでもない行動に出る。 果たして、「山に戦いを挑んでいく」というのはその言葉通りのことだった。バカバカしいと言えばまさしくバカバカしい。だが、そこまでの物語が徹底的な絶 望なので、そりゃそうもなるわな…と思わずにいられない。また、物語としても一種の寓話やおとぎ話的な語り口になっているので、いわゆるリアリズムから離れていても見る側は抵抗がない
 そこからの主人公の奮闘ぶりがスゴくて、大して力もなさそうなこの男が、朝から晩まで飽きもせずヨレヨレになりながらハンマーを振るう姿が鬼気迫る。怒りと想いの丈をぶちまけるように、フラフラながら唸り声を上げてハンマーを打ち付ける様が、ほとんど獣のようでもある
 そのあたりのイっちゃってる強烈さ、獣のような荒っぽさに、またしても黒澤映画…例えば「生きものの記録」(1955)の三船敏郎あたりを想起してしまう。あるいは、イエジー・スコリモフスキ監督のエッセンシャル・キリング(2010)に出て来たヴィンセント・ギャロのよう…とでも言った方がいいだろうか。
 セリフがほとんどなくて「映画の原点」を追求しているという意味でも、本作は「エッセンシャル・キリング」とかなり共通点があるように思える。映画の後半は完全にセリフなし、サウンドトラックはただ唸り声とハンマーを打ち下ろす音のみ。これが延々と続いていく。
 しかしながら、さすがにこれがあまりに長くなっていくと単調さを感じてきそうになる。単調さを感じるようになってくると、やっていることはそもそもアホみたいなことだから、いくら寓話と言えどもさすがに少々シラケてきそうだ。この話、一体どう着地させるんだ?
 それでも、この途方もない長さは必要な長さなのだ。それは最後まで見ていけば分かる。
 果てしない無謀な試みの果てに…観客がシラケそうになるスレスレギリギリのところで、映画はとんでもなく壮大なカタルシスを迎える。これには、正直言って唖然呆然である。大バカな話なのだが、あまりにも大バカ過ぎてスカッと感動…というか(笑)、一見徒労にも思えるあの長さがあってこそ…のこのカタルシスなのだ。このバカバカしさ加減や力ワザっぷりは、ヴェルナー・ヘルツォーク「アギーレ/神の怒り」(1972)や「フィツカラルド」(1982)などを連想させるが、突き抜け方が尋常ではない。こんな映画体験はめったにない。まさに演出のパワフルさで強引に持っていかれるのである。
 私事で恐縮だが、実は僕はこの映画を見に行った時、いろいろと行き詰まっていて鬱屈とした気分になっていた。いろいろやってはみたが仕事が暗礁に乗り上 げ、大きな声では言えないがかなりトゲトゲしい気分にもなっていた。だから本作の主人公にはかなり感情移入してしまったし、見終わったらスッカリ元気に なってしまった。この一汗かいたような爽快感。映画というものは実にありがたいものだ。
 アミール・ナデリおそるべし!
 この人の映画って今まで見たことがなかったが、イラン映画時代の代表作と思われるのが「駆ける少年」(1984)で、あのアッバス・キアロスタミの日本における出世作「友だちのうちはどこ? 」(1987)よりも前の作品だから大ベテランである。
 かなり前からイランを出てアメリカで暮らすようになっていたようで、アメリカでも何本か撮っているというから驚きだ。また、日本でも西島秀俊主演で「CUT」(2011)という作品を撮っているらしく、イタリアで撮っている本作といい、どこでも映画が撮れちゃう人らしい。映画の内容も含めて、大変なバイタリティだ。近作ではフランソワ・トリュフォー華氏451(1966)をアメリカでテレビ映画としてリメイクした作品(2018)の脚本も書いているらしいが、これの主演をクリード/チャンプを継ぐ男(2015)のマイケル・B・ジョーダンがやっているというのもさらに驚きである。
 どんだけフトコロが広いんだアミール・ナデリ。
 今後のこの人の活躍に、ちょっと目が離せなくなってきた。大いに注目していきたい。

 

 

 

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