新作映画1000本ノック 2018年10月

Knocking on Movie Heven's Door


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 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」 「リグレッション」 「クレアのカメラ」

 

「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」

 Mission: Impossible - Fallout

Date:2018 / 10 / 08

みるまえ

  「ミッション:インポッシブル」シリーズが始まった当初は、こんなに長寿シリーズになるとは思いもしなかった。何より、これがトム・クルーズの「看板シ リーズ」になるとも思っていなかった。正直言って、一時期は曲がり角にあったトム・クルーズを、このシリーズが救った観すらある。実際、その時期にはこの シリーズ自体も微妙で、「M:I:III」(2006)あたりはキツい感じがした。だが、続くシリーズ第4弾「ゴースト・プロトコル」(2011)ではそんな迷いを一掃。内容的にスカッと面白かっただけでなく興行的にも大成功して、クルーズ自身も低迷から脱出する足がかりを掴んだ。ハッキリ言うと、シリーズの方向性を「バカ映画」に向けて大きく舵を切ったというべきか。第5弾「ローグ・ネイション」 (2015)も多少シリアスに戻したとはいえ、その延長線上にあると言っていい。そして、今回待望の第6弾…という訳である。「ゴースト・プロトコル」か らはクルーズが自身でこなすスタントの見せ場が過激さを増して来て、「ローグ・ネイション」も離陸する大型貨物機の側面にしがみつく場面が話題となった。 そして本作は、撮影中にビルからビルへと飛び移る場面の撮影中にクルーズが負傷した…というニュースが報じられ、またまた猛烈スタントが売りの作品となっ た訳だ。何だかジャッキー・チェンみたいである。監督も「ローグ・ネイション」のクリストファー・マッカリーが続投となり、「ゴースト・プロトコル」以降 のスタイルが踏襲されていると考えられる。そういえば「ゴースト・プロトコル」からは、このシリーズ皆勤賞のヴィング・レイムスにサイモン・ペッグも加え てチーム・プレイを重視。実は「ゴースト・プロトコル」と「ローグ・ネイション」ではここにジェレミー・レナーも入っていたのだが、今回は残念ながら降板 したらしい。だが、当然のごとく本作もこのチーム・プレイは健在のようだ。このように、いろいろな意味で本作は見る前から方向性がある程度読める作品であ る。まぁ、人気シリーズとして安定感のある作品だと言っていい。だが、クルーズの猛烈スタントとスケール感溢れるアクションが売りになっている本シリーズ は、毎回ちょっとずつエスカレートしている。それは、ひとつ間違うとマンネリ化したり大味化する、危険な要素でもある。つまり、ヘタをすると「今回は大し たことないな」とか「またこれかよ」とか言われかねない訳である。果たして本作、シリーズ第6弾「フォールアウト」はそんな危険性を回避できたのか。新 スーパーマンであるヘンリー・カヴィルの出演も楽しみだ。巨大台風接近のため映画館が空くのを見計らって、僕はある晩の最終回に本作を見に行った訳だ。

ないよう

  美しい風景の中、ささやかながら晴れ晴れしい結婚の儀式が営まれようとしていた。新郎はイーサン・ハント(トム・クルーズ)、新婦はジュリア(ミシェル・ モナハン)。たった二人だけの結婚式、その場に立ち会うのは介添人だけ。だが、その介添人の語る誓いの言葉が何やら怪しいモノに変わって…イーサンがハッ と異変に気づいて介添人を見ると、それはイーサンが捕らえた国際犯罪組織「シンジケート」の首領ソロモン・レーン(ショーン・ハリス)ではないか。唖然と するイーサンの目の前で、いきなり核爆弾が炸裂。イーサンもジュリアも一瞬にして灰になってしまう…。突然、イーサンは暗い部屋の中で悪夢から目覚める。 彼が今いるのは北アイルランドのベルファスト。ノックする音を聞いたイーサンが扉を開くと、そこには雨の中を封筒を持った男が立っていた。イーサンとの合 言葉のやりとりの果て、男は封筒を渡してその場を去って行く。封筒にはホメロスに「オデュッセイア」の分厚い本が入っていたが、それは小型録音機を仕込ん だシロモノだった。作動させると、それはイーサンへの指令を伝え始める…。テロリスト集団「アポストル」が世界転覆を狙って、ロシアから盗み出された3つ のプルトニウムを入手しようとしている。「アポストル」はこのプルトニウムを使い、過激思想に取り憑かれたデルブルック博士の手を借りて核爆弾を製造する つもりなのだ。イーサンに下された命令は、その阻止である。舞台変わって、ここはベルリン。イーサンはチームの仲間であるベンジー(サイモン・ペッグ)と ともに、夜のガード下に立っていた。この人けのない場所で、彼らはプルトニウムを盗み出したマフィアと取り引きをすることになっていたのだ。もうひとりの 仲間ルーサー(ヴィング・レイムス)は、近くに停めたクルマから様子を伺っている。やがてマフィアが接触してきて、プルトニウムと引き換えにカネを渡そう ということになったが、肝心の時になってルーサーとの連絡が途絶えた。何者かが邪魔に入ったことから、怪しんだマフィアたちとたちまち銃撃戦。何とかルー サーを奪還してホッとしたのもつかの間、せっかく手に入れたプルトニウムがいつの間にか消えているではないか…。またまた舞台変わって、ここはある病室。 横になっているのは例のデルブルック博士。病室のテレビではバチカン、エルサレム、メッカが核攻撃を受けたとのニュースが報じられている。そこにやって来 たのは、イーサンとルーサーだ。どうやらデルブルック博士は、少々手荒な方法でイーサンたちに身柄を確保されたらしい。怒り狂っているイーサンにデルブ ルック博士は情報を提供するが、もはやそれも手遅れだと嘲笑する。しかし、それはデルブルック博士の誤りだった。病室はすべてセットで、放送されていたテ レビ・ニュースもベンジーがキャスターに変装して演じていた偽物。イーサンはデルブルック博士からまんまと情報を入手することに成功したのである。さぁ、 ここから反転攻勢だ。探すのはプルトニウムを手に入れようとしているナゾの男「ジョン・ラーク」と、彼と取り引きしようとしている「ホワイト・ウィドウ」 という女である。彼らが接触するのはパリだ。イーサンは軍用機でパリまで飛んで行くことになり、飛行場で彼の所属するIMFのハンリー長官(アレック・ ボールドウィン)と落ち合う。ベルリンでの失態を恥じるハントだったが、ハンリー長官は「君のそういう点を買っている」と言ってくれた。だが、イーサンは すぐに厳しい現実と直面させられる。出発直前にCIA長官エリカ・スローン(アンジェラ・バセット)がやってきて、部下のエージェントであるウォーカー (ヘンリー・カヴィル)を同行させるように言って来たのだ。要はお目付け役である。例の失態から、イーサンは信頼を失っていたのだ。それを笠に着てか、 ウォーカーは最初から高飛車な態度でイーサンに当たって来る。おまけにこのウォーカーという男は相当荒っぽい仕事のやり方で知られており、その点もイーサ ンとは相容れなかった。だが、命令は命令。ソリが合おうと合わなかろうと、イーサンに拒む権利はない。こうしてウォーカーと軍用機に乗り込んだイーサン は、二人でパリ上空からスカイ・ダイビングをすることになった訳だが…。

みたあと
  開巻いきなり久々に主人公イーサン・ハントの嫁さんが出てきたと思ったら、「夢でした〜」というオープニング。何だか夢シーンで始まる「寅さん」シリーズ みたいになってきたな(笑)…と思わされる冒頭だが、始まって早々に主人公の立場が思い切り悪くなるのも本シリーズ恒例。テロリストとツルむ科学者を病院 で尋問すると見せかけて、実はペテンだった…と種明かしするあたりは、本シリーズの原型であるテレビの「スパイ大作戦」らしい趣向で嬉しくなった。映画版 はテレビにあったこのペテン要素があまりなくなって、ひたすらトム・クルーズの運動能力を見せつけるシリーズになってしまったのが、ちょっと寂しく思われ ていたのだ。そんな訳でいよいよパリに乗り込もうというところで、今回の「売り」であるヘンリー・カヴィルが登場。出てきて早々にトム・クルーズにキツく 当たってくるからワクワクしてくる。さてさて、ここからどうなっていくのか…?

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 だが、ここからがいけない。そもそも核が奪われて、それを奪還しなくてはならない…という話の仕掛けがゴチャゴチャしすぎて、何だか分かったようでよく 分からない。それでも見せ場に次ぐ見せ場の連続で何となく飽きずに見せられてはしまうのだが、何だか訳分からないままにスゴい「見せ場」だけ見せられても さほど興が乗ってこない。「ゴースト・プロトコル」ほどバカ話という訳でもなく、前提として変に理屈をこねているから話もハジけても来ないのだ。見ていて 「アレレ、これって本筋はどうなってんの?」とか「一体何が一番大事なんだっけ?」「本当はこいつら何をしたかったんだっけ?」と当惑してしまう。本当な ら単純な「お宝探し」の話でしかないのに、これはどうしたことだろう。そんな疑問は、ネット上のある記事を見てすぐに氷解した。本作の監督クリスト ファー・マッカリー監督が来日して受けたインタビューの記事に、その秘密があったのだ。そこでマッカリーが語ったところによれば、撮影中盤でも脚本は未完 成だった…とのこと。つまり満足な脚本もなしで、撮りながら話を作っていったというのである。いやぁ、これは一体どうなのだろう。そして、確かに「脚本ナ シ」で撮っていったと言われれば、「なるほど」と合点がいく点が多い。何だかツジツマが合わなかったり、理屈に合わない部分が多すぎるのである。そもそ も、イーサンたちがパリに行くのに、どうしても空からパラシュートで下りなきゃダメなんだろうか。そうしなきゃならない理由があったはずだが、見終わった 今はもう分からない。逃げるウォーカーを追ってイーサンがロンドンの街をどこまでも駆け抜ける場面もよくよく考えると変で、クルーズが負傷したのも当然… と思わされる猛烈アクションの連続ながら、結局ウォーカーには逃げられてしまう…という「徒労」で終わる。ところが後になって、イーサンはウォーカーを 「わざと逃がした」と豪語しているのだ。その割にはメチャクチャ必死で追いかけてるんですけど(笑)。これってイーサンが「虚勢を張ってる」のか(笑)と 思うほどおかしな設定なのだ。そもそも例のパリにパラシュートで乗り込む場面にしても妙で、天候不順だから大事を取ろうとしたイーサンを「根性なし」など と挑発したウォーカーが、無理矢理に降下を強行してしまう。そしてその結果、ウォーカーは降下途中で意識を失う羽目になり、イーサンに何とか助けられると いう無様なアリサマである。これではイーサンにとって「手強い相手」となるはずのウォーカーが、単なるアホにしか見えないではないか。どう考えても矛盾し ている。これって、僕の見方の方が間違っているだろうか。それもこれも…ちゃんと脚本を作って構成を固めておかなかったから、あちこちにホコロビが生まれ てしまったとは言えないだろうか。例えばウォン・カーウァイ監督が撮った香港映画「ブエノスアイレス」(1997)でも同様に脚本ナシの撮影を進めたた め、物語が行き当たりばったりでヨレヨレな代物になってしまった。公開当時はかなりベタホメされた作品だったが、今見たらこれをホメる奴なんていないん じゃないだろうか。本作もこの「ブエノスアイレス」と近いモノを感じる。見せ場がスゴいからこの雑さが目立たなくなっているものの、構成はあちこちガタガ タ。これなら単純な設定にしておけばいいものを、無理矢理見せ場を増やしたくて設定をこねくり回した結果、ツジツマが合わなくなったのだろう。クリスト ファー・マッカリーは本来ブライアン・シンガー監督の「ユージュアル・サスペクツ」(1995)などの脚本家上がりの人だが、この危うさに気づかなかった のだろうか。それとも脚本家ゆえに自らの力量を過信したのだろうか。ここのところトム・クルーズにやけに気に入られて、本シリーズも監督として前作「ロー グ・ネイション」に引き続いて登板しているが、この人のやり方は少々いかがなものかと思う。そもそも、こんな大作映画をアドリブで撮るなんてムチャクチャ なのである。

みどころ

 そんな訳で、物語がパリやロンドンでドタバタしているうちは物語は頭に入ってこないし、構成もガタガタな本作。いくらスゴいアクションが演じられていて も、ちっともそれが活きてこないというもったいない展開である。それでも舞台がカシミール地方に移ってとっ散らかった話がまとまったら、映画は一気に引き 締まる。だから、やっぱり構成がまずかったのだ。ここからの見せ場の連続はさすがの一言。もっと早くこれをやってくれればよかったのに…と惜しまずにはい られない。まったく残念な話である。この終盤の展開に限らず、実は本作の美点はかなり多いのだ。例えば…嫁さんとイルサという、イーサンを巡る二人の女の 描き方はとても好感が持てる。また、今回の「悪役」を演じたヘンリー・カヴィルもすでに「0011ナポレオン・ソロ」の映画版「コードネーム U.N.C.L.E.」 (2015)でスパイ映画は経験済み。今回はその辛い魅力を活かして好演していた。それだけに何とももったいなくて、構成の杜撰さが悔やまれる。そもそも これだけ壮大な見せ場がてんこ盛りな本作において、実は一番手に汗握る場面となっているのが「トイレの中での男たちの殴り合い」という素朴でシンプルなア クションだったのは、果たしていかがなものだろうか。そんな映画づくりの「皮肉」にこそ、本作の残念さが集約されているような気がするのである。

さいごのひとこと

 次作でのイーサンの上司は、アンジェラ・バセットか?

 

「リグレッション」

 Regression

Date:2018 / 10 / 01

みるまえ
  「オープン・ユア・アイズ」(1997)を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。東京国際映画祭でグランプリを取ったことは知っていたが、どうせ大 した映画じゃないだろうとタカをくくっていた。だから、こっちとしては不意打ちをくらったような気がした訳だ。監督であるアレハンドロ・アメナーバルの名 前も強烈に脳裏に焼き付いた。前作である「次に私が殺される」(1996)まで、名画座に追いかけて見に行ったくらいだ。その後、「オープン・ユア・アイ ズ」を気に入ったトム・クルーズがハリウッド・リメイク権を獲得して、「バニラ・スカイ」(2001)として製作。さらにアメナーバルを気に入ったついで に、当時のクルーズの妻であるニコール・キッドマン主演で「アザーズ」(2001)まで作るという勢い。こりゃあハリウッドに定着するかと思ったが、その 後のアメナーバルは意外な方向に進んだ。この人、ホラーやSF畑でずっとやっていくんだろうな…と漠然と思っていたら、アッと驚く難病もの「海を飛ぶ夢」 (2004)でアカデミー外国語映画賞受賞。ただ、僕としては「安易に感動ものにはしった」ような気がして、この人に一気に失望。この映画も結局見なかっ た。ところが、その後のアメナーバルは一気に寡作家になってしまい、次の「アレクサンドリア」(2009)の発表は5年後。これはスペクタクル史劇だった ので、僕はまたアメナーバルが「こっちの世界」に帰って来たような気がして大いに喜んだ。作品も結構楽しんで見た記憶がある。だが、その後またしてもアメ ナーバルは沈黙。あまりにも不在が長くて、こちらもすっかり存在を忘れていた。そんなアメナーバルの新作がやって来たと聞いてビックリ。しかもアメリカを 舞台に、少女暴行事件を巡ってナゾがナゾを呼ぶサスペンス映画…というから大いに興味が湧く。これは見ない訳にはいかない。僕は他にあまたある話題作を差 し置いて、とりあえず劇場に飛び込んだ。

ないよう

 1980 年以降、アメリカでは悪魔崇拝の事例が各地で告発され、大きな社会不安を呼んだ。これは1990年10月、そんなアメリカのミネソタ州、ホイヤーという田 舎町での出来事である。雨がしじとに降るある日のこと、町の警察署にひとりの冴えない中年男がやって来る。頭からフードを被ったその男ジョン・グレイ (ダーヴィッド・デンシック)は、出て来た署長のクリーブランド(ピーター・マクニール)に呼ばれて奥の部屋へと通される。オドオドとした様子のジョン は、署長から呼び出しを受けてここにやって来たようだ。署長はジョンの娘が教会に匿われていることを告げると、単刀直入に本題に入る。その娘アンジェラ が、父親であるジョンからの性的虐待を訴えたのである。それを聞いたジョンは、大いに狼狽する。だが、なぜか否定はしない。むしろ「あの子はウソはつかな い」と言い出す始末だ。署長に呼ばれたブルース・ケナー刑事(イーサン・ホーク)が彼を尋問しても、とにかくハッキリしない。否定するならまだしも、「記 憶がない」と言われてはどうにも手が出ないのだ。ブルースはとりあえず警官のジョージ(アーロン・アシュモア)とともにジョンの自宅に乗り込み、アンジェ ラを匿っている教会の牧師(ロテール・ブリュトー)立ち会いの下でアンジェラの祖母ローズ(デイル・ディッキー)に話を聞くが、動揺するものの話は要領を 得ない。この家にかつていた弟のロイ(デヴォン・ボスティック)が、今は家を出てどこかに去っていることぐらいしか分からない。そんな収穫なしの状態で ジョンの家を後にしたブルースは、クルマの中で警官のジョージがやけにジョンの肩を持ち、「何かの間違いだ」と繰り返す様子に何か引っかかるものを感じて いた。そして、こうした膠着状態を打開すべく、新たな戦力が警察署に呼ばれた。どこか皮肉っぽいその男は、心理学者のケネス・レインズ教授(デヴィッド・ シューリス)。迷惑そうなケネスではあったが、ブルースは早速ジョンの尋問に参加してもらうことにする。どうやらジョンは、何らかの理由で自らの記憶を閉 ざしている。ならばメトロノームで時を刻ませながら、取調室で退行催眠療法を試みようという訳である。すると…ジョンの口から意外な話が出て来る。アン ジェラが寝室で両手両足を縛られる…というのは分かるが、それに手を下しているのはジョンではなく、「第三者」だと言うではないか。しかも、どうも性的虐 待は一種の「儀式」めいているようでもある。さらに尋問で深く探っていくと、問題の「第三者」が誰かも見えて来る。それは…事もあろうに警官のジョージ だった。これに衝撃を受けたブルースは、慌てて帰宅しようとするジョージを拘束する。何と性的虐待に警察関係者が関与したということもあり、話は単なる田 舎の暴行事件では済まなくなってきた。警察署では署長の下に対策本部を設置。署内の刑事、警官たちを総動員で捜査にあたることになる。参考とするのは、近 年アメリカで騒がれた悪魔崇拝をテーマにしたベストセラー本。こんなモノでもないよりマシである。だが、悲しいかな所詮は田舎警察。どうにもみんなに緊張 感が乏しい。業を煮やしたブルースも、つい声を荒げる始末だ。見かねた署長は「そうピリピリするな」と忠告するが、ブルースはまったく譲らない。逆に、署 長にこうつぶやくくらいだ。「私はね、この事件はもっと大きい事のほんの一部に過ぎないように思えてならんのです」…。ブルースとケネスは教会を訪れ、ア ンジェラ本人の話を聞くことにする。牧師が立ち会う中で姿を見せたアンジェラ(エマ・ワトソン)は、怯えきって混乱しているようだった。話を聞こうにも頑 なな態度を崩さないアンジェラに、ブルースは詳細を紙に書いてくれと頼む。そこに書かれた内容は、驚愕すべきオドロオドロしいものだった…。

みたあと
  ここまで見ていくと、いかにもアメリカの田舎の闇を描いた猟奇サスペンスもの…みたいな雰囲気が濃厚。トビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」 (1974)、「悪魔の沼」(1977)じゃないが、元からあの国の田舎はとてつもなくヤバいイメージがある。本作もまるで新東宝の「九十九本目の生娘」 (1959)アメリカ版(笑)みたいな趣があって、どんどんイヤ〜な空気が立ちこめてなかなかいい感じである。アレハンドロ・アメナーバルは元々猟奇サス ペンスの「次に私が殺される」でキャリアをスタートさせた人だから、こういうのは得意な訳だ。僕もこういった田舎の便所みたいな怖さは大好きである。おま けに劇中のセリフにも出て来るが、「もっと大きい事のほんの一部に過ぎない」ことが示唆されるので、この話はどこまでエスカレートしていくのか…とワクワ クさせられるところだが…。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  巨大な悪魔崇拝の組織やネットワークでも出て来るのか、主人公の刑事にどんな危険や妨害が迫って来るのか、そもそもこれが「もっと大きい事のほんの一部に 過ぎない」ならば話はどこまで広がっていくのか…。いきなり大上段から振りかぶってくるので、どこまでスゴいことになるのか期待がどんどん高まって来る。 そもそも、ちょっと風変わりなサスペンスドラマぐらいのお話だったものが、しまいには壮大なSF的物語まで膨れ上がった「オープン・ユア・アイズ」でのア メナーバルの手口を知っているから、今回までどこまでやるか分からない。ひょっとしたら、またまたジャンル越境の力業を見せるかもしれない。そんなことを 漠然と思いながら見ていたら、案の定…暴行された娘アンジェラの祖母が怪しさ満点になってきたあたりで、いきなり悪魔的なモンスター「そのもの」が画面に 出て来てビックリ。ありゃりゃっ…やはり猟奇サスペンス映画だとばかり思って見ていたら、いつの間にやら「ジャンル越境」して超自然的ホラーになってし まったか。こうなるともう「何でもあり」だからなぁ…と懸念したものの、「それはそれであり」と気を取り直して再度スクリーンと対峙する。しかし、この 「化け物」がチラリと出てきたあたりから、映画の雲行きは断然怪しくなって来る。やたら主人公の刑事が悪夢を見てうなされるのだが、そうなると「化け物」 ですら悪夢の産物ではないか…という懸念が出て来る。この手の映画で一番イヤなオチのつけ方である「夢オチ」の可能性である。ここまで大風呂敷を広げて今 さらそりゃないだろう…と思うが、どうもお話は現実的な話から飛躍する気配がないし、その現実的な話の範囲でもスケールでっかい展開にはいつまでもなって いかない。それどころか、この冴えない田舎町から一歩も出て行く雰囲気がない。おまけに、主人公の刑事の様子がどんどんおかしくなっていく。それが、 ちょっとギャグみたいなレベルに変になっていくから笑っちゃうのだ。ありゃりゃ、これはどうも妙な方向に話が向いていくな…と思いきや…案の定。お話は、 結論としては非常にショボ〜い方向にスケールダウンしていくのである。イヤな予感はしていたが、やっぱりやっちまったか〜。こりゃあおそらく叩かれそうだ な…と見た後でネットで調べてみたら、予想通りかなりコキ下ろされてる。その気持ちは分からないでもない。話をあれだけ大げさにブチ上げておいて、期待を パンパンに膨らませておいての「これ」である。どうしたってチマッとした感じになるのは否めないし、何よりダマされた気がして頭にくるのだろう。しかも、 話が「真相」に迫るターニング・ポイントでは、見ていて突然10分ぐらい強引にカットされたような唐突な展開になる。主人公の刑事が「真相」に気づくあた りの「三段論法」みたいな話のこじつけ方が、あまりに乱暴で笑っちゃうのだ。そもそも、後から考えてもそりゃツジツマが合わないだろう(笑)。しかも、そ んなツジツマの合わない無理までしてこじつけた「真相」も、話の途中であまりに「夢オチ」を多用し過ぎるので早々に割れてしまうから困る。まさか〜みたい なな結論じゃないだろうな?…と思っていたら、まさに「それ」だから観客の怒りを買うのだ。元々がコケ脅しが持ち味のアメナーバルだけに、やっちゃったな 〜と思わされる結末である。
みどころ
 そんな訳で、柱も建て付けもガッタガタの家(笑)みたいなとこがある本作ではあるが、僕はダメな映画と思っているかというと、実はそうでもない。途中ま でのアメリカの田舎のイヤ〜な感じがよく出ているあたりは大好きだし、元々がコテコテのケレン味が結構好きな僕としては、「ケレン派」としてブレないアメ ナーバルはキライになれない。そもそもあのイーサン・ホークを一見ハードボイルドな刑事に見せておいて、途中から本来のひ弱でアレなやり過ぎ大熱演をやら せるあたりが嬉しくなる。すっかりおかしくなっていくイーサン・ホークに、「やっぱり彼はこうでなくっちゃ(笑)」とウキウキしてしまうのだ。何しろ、 やってる芝居が「フッテージ」(2012)とほぼ同じなのである。おまけにエマ・ワトソンに色仕掛けで迫られるあたりの、ドギマギしてる彼も笑っちゃう。ワト ソンの学級委員長みたいな個性も活かされて、僕は文句なく楽しんでしまった。そんな訳で…ホラー・サスペンスと見たらイマイチながらアメナーバル流のコケ 脅し大作と見れば大いに楽しめる本作だが、実は僕はアメナーバルの狙いはもうひとつ別にあったのではないかと思っている。社会派風のお題目がイントロとエ ンディングに並べられているが、あのあたりに真意がコッソリ隠されている気がするのだ。イマドキのご時世では大きな声で言えないが…アメリカという国が昔 から持っている過剰な「極端さ」が生み出した「傾向」というか…。昨今では全世界的に広がりを見せつつある、そんなちょっと加熱気味なある「傾向」に対しての疑念を、さりげなくチラつか せているのではないか。先ほどエマ・ワトソンという女優の個性にちょっと触れたが、本作に「先生に言いつけるわよ」的なキャラの「優等生」風女優ワトソン を持ってきたあたりに、その真意みたいなものが感じられてならないのである。

さいごのひとこと

 魔女狩りならぬオヤジ狩り。

 

「クレアのカメラ」

 Claire's Camera / La caméra de Claire

Date:2018 / 10 / 01

みるまえ

  キム・ミニとコラボしてのホン・サンス作品4本の連続上映がスタートした時、正直言ってあまり見たいとは思っていなかった…というのは、このサイトで何度 も繰り返して語った通りだ。そもそも最後に見たホン・サンス作品「自由が丘で」(2014)がちょっと残念な出来映えだったので、どうしても腰が重くなっ た。おまけに自分の女の自慢話なんて、カネ払ってまで聞かされたくない(笑)。だが、やっぱり面白い…との知人からの報告を聞いて、慌てて映画館に駆けつ けて見た「それから」(2017)はさすがの出来映え。続く「夜の浜辺でひとり」(2017)、「正しい日 間違えた日」(2015)もそれぞれ面白い。 いや、回を重ねるごとにどんどん面白くなってくる。こうなると目下のところのキム・ミニとのコラボ最終作で、「3人のアンヌ」(2012)にも出ていたイ ザベル・ユペールを再び迎えての本作「クレアのカメラ」に大いに期待がかかる。だが、ちょうど仕事の予定が重なったところに油断もあって、残念ながら銀座 での連続上映は終了。僕は最後の1本を見逃すことになってしまった。こうなってみると、何とも「クレアのカメラ」が見たくなる。そもそも最後の締めくくり を見逃すというのが悔しいではないか。そんなこんなで悶々としていたところ、僕にこの連続上映が「面白い!」と教えてくれた例の知人が、下高井戸の名画座 での「クレアのカメラ」上映を知らせてくれた。これは見ない訳にはいかない。僕は雨が降る中を、慌てて下高井戸まで出かけて行ったのだった。

ないよう

  とある事務所の一室で、何やら書類を書いている若い女…その名をマニ(キム・ミニ)という。そんな彼女に、会社の女社長ナム(チャン・ミヒ)が「外に付き 合わないか」と声をかける。それを聞いたマニは、とりあえず仕事を置いてナム社長と共に出かけることにした。その時には、軽い気持ちで事務所を出て行った マニだったのだが…。それからしばらくして、マニは街角のカフェでかつての同僚の女と出会う。かつて…というのは、マニはもう例の会社には在籍していない からだ。久々に会った同僚は、マニに疑問をぶつける。つい先日まで「室長」としてバリバリ働いていたマニが、なぜ突然に辞表を提出したのか不思議だったか らだ。彼女たちがいるこの街は、フランスの観光都市カンヌ。彼女たちは映画会社の一員として、ここで開催されているカンヌ映画祭のためにやって来ていた。 それが、なぜ突然の辞職となったのか。そんな同僚の疑問に応えて、マニは例のナム社長からの呼び出しの顛末を語り出す…。あの日、ナム社長はマニをカフェ に連れ出した。最初はとりとめもない話から始まり、「あなたは純粋ね」とマニに話しかけるナム社長。当然、マニはこれをホメ言葉と受け取った。だが、次に ナム社長が「純粋ならいいってもんじゃない」と言い始めたあたりから、妙に風向きが変わって来る。要は「あなたは正直ではない」「信用出来ない」「会社を 辞めてもらいたい」の驚きの三段論法である。それもここカンヌで、今日にでも辞めろ…というから尋常ではない。何が何だか分からないが、「私の判断だ」の 一点張りで理由を言わない。さすがにマニもショックが大き過ぎて、その場に寝そべる大きな犬をなでて気を紛らわせるしかない。せめて最後にツーショット写 真でも…と、スマホで嫌がるナム社長と写真を撮るのが精一杯だった。そんな訳で会社を辞めたマニだったが、帰りの飛行機は変更出来なかったので、仕方なく カンヌでブラブラしていたのだが…。だが、世の中起きたことには何でも理由がある。その頃、カンヌの海岸を男と歩くナム社長の姿があった。男は映画監督の ソ(チョン・ジニョン)。実はナム社長の会社はこのソ監督の作品を扱っていて、それで彼女たちはカンヌにやって来たのだった。だが、ソ監督の顔色は冴えな い。それもそのはず、ソ監督はどうやら酔ってマニと関係を持ってしまい、それが彼女の解雇につながってしまったようなのだ。実はソ監督はナム社長と長年の 愛人関係にあった。そのため、マニの一件がナム社長の逆鱗に触れたという訳だ。まさに、女の敵は女。ソ監督は「酒のせいだった」「もう二度としない」と防 戦一方。だが、ナム社長もマニを追い出したら気が済んで満足…といい気なものである。さて、そんな彼らとは別に、このカンヌをブラブラしているひとりの人 物がいた。それはフランス女のクレア(イザベル・ユペール)。ここに来たのは映画祭で友人の映画が上映されるからで、本人は映画人ではない単なる教師であ る。そんなクレアが、たまたまカフェでソ監督と出会った。一介の教師ではあるが、カメラで写真を撮ったり詩をつくるのが趣味のクレア。一方、ソ監督は自作 が映画祭で上映される…と自信たっぷりに接近。「我々は芸術家同士」とでも言いたげに、いきなり距離を縮めてくる。だが英語でのやりとりの悲しさ、そこか ら先に話が進まないのがツライところ。そこでソ監督はクレアと一緒に図書館に行き、詩の本をネタにして「詩を暗唱したいからフランス語を教えて」と頼み込 む。この男はこれまでも、このような「芸術の香り」をテコに女に迫っていたに違いない。翌日、ソ監督はレストランでナム社長とランチ。二人は昔からずっと こんな感じの「大人の関係」でやってきたのだろう。そんな二人の席に、ちょうどたまたまレストランの前を通りがかったクレアが参加。クレアはご自慢のカメ ラを取り出し、ソ監督とナム社長を撮影する。クレアいわく、自分が写真を撮った人は、撮られた時に別人になる…とのこと。分かったような分からないような 理屈で煙に巻かれたソ監督とナム社長は、その場でクレアが撮り溜めた写真を見せてもらう。すると…何たる偶然か、そこにはあのマニの写真も混じっているで はないか。クレアはカンヌでたまたまマニと遭遇し、彼女の姿をカメラに収めたのだ。「彼女はまだここにいたのか!」…まるで幽霊でも見たかのように意表を 突かれたソ監督とナム社長。その瞬間から、1枚の写真の出現は二人の間に微妙な影を落とし始めるのであった…。

みたあと
  現在のところ…というべきだろうか、本作はホン・サンスとキム・ミニのコラボの最終作となっているようだ。巷の話題によれば、ふたりはすでに別れていると いう話もある。こんなことばかり書いていると、映画のことではなくてずいぶん下世話な話ばかりすると思われてしまうかもしれないが、そもそも今回の4本連 続上映が二人の関わりを目玉に編成されているのだから、僕に文句を言われても困る。そもそも映画監督が出てきたり、愛人がどうの…などといったお話になっ ていること自体、そう見てもらって結構…と開き直っているのだ。こちらも堂々とそういう観点で見させていただく。…というか、そう見るしかない映画だろ う。実際、映画のファーストシーンに出てくる映画会社のオフィスには、ホン・サンスの旧作「Yourself and yours」(2016)のポスターが貼ってあるあたりからして、「そう見ちゃっていただいて構いません」と言っているようなもんである。というか、むし ろ「そう見せたい」のだろう。そんな意味で今回の4本の中での位置づけを言えば、本作は前作「それから」がさすがの完成度を達成しているのと比べると、実 は少々ユルい。しかし、前々作「夜の浜辺でひとり」がブッ壊れちゃったようなアナーキーさを持っていたのとも異なる。本作は破綻しているわけではなくただ ユルいだけで、もっと肩の力が抜けたお気楽さが身上の映画だ。大体がホン・サンスやキム・ミニ、イザベル・ユペールがカンヌ映画祭に出席するのに合わせ て、サクッと撮っちゃった作品である。上映時間も69分とコンパクト。最近、小の方がやたら近くなってきた僕には、大変ありがたい映画である。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  そんな訳で、どう見たって本作のソ監督とはホン・サンスを指していると言われても仕方がない。そもそも、カンヌでどうの…って話からして、完全な内輪話な のだ。ソ監督を演じるチョン・ジニョンは一応いい男っぽく扱われてはいるが、アングルによっては稲川淳二みたいに見えなくもない(笑)。しかも、怪談を しゃべらない稲川淳二だから魅力も半減である。口を開けばいいかげんなことしか言わないし、とにかく女に汚ない。街でイザベル・ユペール扮するクレアを見 かけたら、早速グイグイ近づいていく。つい先日、キム・ミニ演じるマニという若い女に手を出して、起こさなくてもいいトラブルを起こしたばかりだというの に…この男まったく懲りていないのだ。笑っちゃうのは、カッコつけてフランス女のクレアに近づいていったのはいいが、英語力の限界なのか話題がないのか、 すぐに言葉に詰まってシラ〜ッとしてしまうところだ。あのシラケっぷりのリアルさったらない(笑)。このソ監督という男、古女房みたいな長年の愛人ナム社 長が暑苦しくなってくると、「お互い愛人関係を清算した方がいいパートナーになれる」などとうそぶいて捨てようとする。綺麗事並べてるが、要はこの女を相 手にするのが面倒くさくなっただけだ。だが、ナム社長の狼狽ぶりを見て、おそらく彼女の存在抜きにテメエの商売も立ち行かないということに思い当たったソ 監督は、急に方針転換して彼女をいい気分にするべく甘い言葉を並べ立てる。まさに「大人の事情」である。まったく汚い、汚すぎるぜソ監督。おまけにその後 マニとバッタリ会ったソ監督は、何を血迷ったかテメエの身勝手から職を失う羽目になった彼女に対して、「そんなに脚をムキ出して、男に媚びを売りやがっ て!」と逆ギレ。見てくれこそタキシード姿で男ぶりも上がっているのだが、その言動たるや男を下げまくり。どうしようもないオッサンである。そして、その 愛人であるナム社長も、ソ監督が若い娘マニに手を出した…と知るや、ソ監督を責めるのではなくマニに八つ当たり。それも、社長としての権力を使っての公私 混同ぶりだ。おまけにクビを言い渡す時に、もっともらしい屁理屈を並べるタチの悪さ。もっともクビの理由が「嫉妬」とは、情けなさ過ぎて言える訳もあるま い。こちらも汚さではソ監督といい勝負である。そんな汚い「大人たち」に比べて、キム・ミニ扮する若い女マニは清涼感溢れる人物として描かれる。そして、 どこか子供っぽい。頭に来たら布をジョキジョキ切ってスッキリ…とか、クレアに披露する自作の歌の単純素朴さ…とか、本作では彼女の子供っぽさやイノセン スが強調されている感じである。一方、イザベル・ユペール扮するクレアは狂言回しのようにあちこちに現れる人物で、どこかメリー・ポピンズや妖精みたいな 存在だ。クレアのカメラで人を写すとその人物は別人になる…なんてあたりも、完全に「おとぎ話」風ではないか。そんな彼女がマニを味方するようになる訳だ から、ここでのマニはやはり「おとぎ話」に出てくる「子供」として描かれているのだろう。汚い「大人たち」に取り巻かれている、ピュアな「子供」という構 図である。しかし実際には、この時のキム・ミニはホン・サンスとのスキャンダルの渦中で、公にはドロドロなイメージだったはずだ。そして「夜の浜辺でひと り」を見る限りにおいては、ホン・サンスには自分とキム・ミニとの関係が早晩破綻するとすでに予想がついていたようである。だとすると、本作では不倫の ダーティー・イメージがついてしまったキム・ミニを、セコくて汚い大人が右往左往する中に置かれた「一輪の花」として描いてあげたかったのではないだろう か。大人のズルさセコさ汚さは全部ホン・サンス自身が引き受けてあげる…みたいな感じで(笑)。おそらくはむしろ野心家なキム・ミニに手玉にとられていたのだろ うが(笑)、ホン・サンスは本作で何とか彼女に花を持たせてやろうとしている。まるでルルーシュの「アンナとアントワーヌ/愛の前奏曲<プレリュード>」 (2015)に出てきたクリストファー・ランバートの老いた夫を思わせるような、彼なりのダンディズムである。キム・ミニが作ったという歌が、いくら子供 の歌とはいえ「1、2、3の4、5、6〜」とかいうドレミの歌の出来損ないみたいなアホな歌(笑)というあたりは、ホン・サンス流のちょっと意地悪な描き 方ではあるが…。それでも、バカだけど可愛いげのある善人と描いてあげるなんざ優しいではないか。ホン・サンスとしては関係解消の前に、キム・ミニのイ メージをクリーンにしてあげたいと思ったのだろうか。彼女を送り出してあげるにあたって、これがホン・サンスなりの精一杯のはなむけなのかもしれない。ヤ セ我慢もあるだろうが(笑)、男としては実にアッパレである。そのおかげで本作はとっても後味のいい作品になっており、傑作じゃないだろうが僕はとても気 に入った。イザベル・ユペールも一種のトリックスターとして使っているのが功を奏していて、外国の大スターを出した…という大げさ感を払拭している。ユ ペール本人のフワフワした感じも活かされていて、ホン・サンスのうまさを改めて痛感した。さらに僕が注目したのが、キム・ミニをクビにした女社長。見てい る間は誰だか分からなかったのだが、これが実はチャン・ミヒだと知って僕は驚いた。チャン・ミヒは、僕が初めて韓国映画に注目した「ディープ・ブルー・ナ イト」(1984)のヒロインである。これは1980年代に「韓国のスピルバーグ」と言われて活躍していたペ・チャンホ監督の作品で、チャン・ミヒは「赤 道の花」(1983)に続くペ・チャンホ作品への出演だった。そして、別にチャン・ミヒは当時のペ・チャンホ作品のすべてに出ていた訳でもないのだが、何 となく僕は勝手に彼女をペ・チャンホの「ミューズ」的な存在ではないかと思っていた。…というのは、その後にペ・チャンホ監督が撮った時代劇大作「ファン ジニ(黄真伊)」で、このチャン・ミヒが堂々とヒロインを演じていたから。これは転落するヒロインの生涯を描いたもので、溝口健二の「西鶴一代女」 (1952)を大いに意識した作品。ペ・チャンホ監督にとっては勝負作だったはずの超大作で、チャン・ミヒは田中絹代が演じたような役に起用された訳だ。 ところが、溝口タッチは韓国の映画ファンの口に合わなかったのか、作品は大コケ。ペ・チャンホの不敗神話も崩壊して、これ以降のキャリアは低迷したままに なってしまう。チャン・ミヒとのコラボもこれが最後となってしまった。そんな事情もあって、僕にとってチャン・ミヒには「ここで会ったが百年目」な「運命の 女」的イメージがあったのである。ところが、そんな僕の思い込みは必ずしも無茶なモノではなかったのかもしれない。今回、改めてネットでチャン・ミヒのこ とを調べてみたら…何とこの人は、かつて軍事政権を率いていたチョン・ドファン大統領の「愛人」とウワサされていたというではないか。その真偽のほどは明 らかではないが、やはり「運命の女」的イメージは間違いではなかったのだ。だとすると、本作におけるチャン・ミヒ起用には、いろいろ暗示的な意味も透けて 見えてくるのである。

さいごのひとこと

 虚勢であっても男のダンディズム。

 


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