新作映画1000本ノック 2018年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 「女は二度決断する」

 

「ウィンストン・チャーチル
 /ヒトラーから世界を救った男」

 Darkest Hour

Date:2018 / 07 / 09

みるまえ

  今年のゲイリー・オールドマンがアカデミー賞で主演男優賞を取った作品。何だか最初から彼がガチガチの大本命みたいなムードが漂っていて、取って当たり前 な雰囲気。日本では映画ファン・レベルではまだ誰も作品を見ていなかったのに、アレは一体何だったのだろう。イギリスのチャーチル首相を描いた映画という 話も伝わっていて、特殊メイクを施した日本人アーティストもオスカーを受賞。となると、「そっくりさん」ぶりが評価されたということなのか。正直言って、 この作品に対する僕の食いつきは悪かった。毎年オスカーの演技賞はこうした有名人の伝記映画みたいのが候補にのぼるが、「そっくりショー」みたいな見事さ は分かるが、見てから長く経ってまで覚えているほど素晴らしい作品はマレだ。ジェイミー・フォックスのレイ・チャールズとかメリル・ストリープのサッ チャーを、今になっても見たいと思うかという話だ。正直、食指がそそらない。それでも劇場まで足を運んだのは、ゲイリー・オールドマンへのご祝儀みたいな ものである。

ないよう

 1940 年5月、ヨーロッパはナチス・ドイツの猛威に震えていた。東欧や北欧を制圧し、ベルギーやフランスももはや時間の問題。イギリス議会はヒトラーの台頭に手 をこまねいていただけのチェンバレン首相(ロナルド・ピックアップ)吊るし上げで、大いに紛糾していた。野党の労働党は挙国一致の連立内閣を提案するが、 その条件はチェンバレンの退陣である。それはもはやチェンバレン自身も避けられないと自覚しており、与党の保守党内部でも「後継」が模索されていた。チェ ンバレンが指名を考えていたのは、外務大臣のハリファックス(スティーヴン・デレイン)。だがハリファックスはこの状況に、慎重な態度を崩さなかった。ま た、野党側が求めていた首相候補も、ハリファックスではなかった。そこで挙がった名前はたったひとつ…だが、それはチェンバレンもハリファックスも、そも そも保守党全体でも望ましいと思っていない人物だった。その頃、ロンドンのある邸宅に、ひとりの若い女がやって来る。彼女エリザベス・レイトン(リリー・ ジェームズ)は、この邸宅で秘書兼タイピストとして雇われた人物だった。彼女を邸宅内に迎えた執事は、エリザベスにこれから仕える人物の気難しさについて 伝え始める。不安になっていくエリザベスは、ベッドで目覚めたばかりの「その人物」が佇む寝室へと連れて来られた。寝起きでいきなりヨーロッパの厳しい戦 況を聞かされ、不機嫌そのものの「その人物」は、いきなり前触れもなしにエリザベスに口述タイプを求める。だが、何しろ準備なしで言われたあげく「その人 物」の言葉の脈絡のなさ、発音の悪さも手伝って、思うようにはタイプできない。それを見た「その人物」は、いきなりエリザベスを罵倒しまくるではないか。 さすがに耐えきれなくなったエリザベスは、泣き出して部屋を飛び出してしまう。だが、階段を駆け下りるエリザベスの涙を、ちょうど帰宅した「その人物」の 妻クレメンティン(クリスティン・スコット・トーマス)が目ざとく見つけた。「あの人が言ったのね? キッチリ言ってあげないといけないわ!」…寝室に飛 び込んだクレメンティンは、「その人物」に向ってキッパリとたしなめるのだった。「近頃のあなたは傲慢で気難しいイヤな人物になってしまっているわ。これ からはそれではいけない」…なぜなら、「その人物」はいまやイギリス首相になるかという岐路に立っていたからだ。「その人物」こそ、戦乱に突入していくイ ギリスを強いリーダーシップで引っ張っていったウィンストン・チャーチルその人(ゲイリー・オールドマン)であった…。

みたあと

  本作を見ていて、さすがにゲイリー・オールドマンのこれまでの足跡を思い起こして、感慨にふけってしまった。考えてみれば、オールドマンを最初に見たのは 初主演作「シド・アンド・ナンシー」(1986)からだから、もう30年前になる。セックス・ピストルズのシド・ビシャスを演じたオールドマンは、僕らに 強烈なインパクトを与えた。その後、コッポラの「ドラキュラ」(1992)、リュック・ベッソンの「レオン」(1994)、著名な楽聖を描いた「不滅の恋 /ベートーヴェン」(1994)…とそのキレッキレな個性で注目を集めたが、いつしか「エアフォース・ワン」(1997)などハリウッドで悪役俳優として 重宝されるようになる。この時期はアニメの声優やっても「キャメロット」(1998)みたいに悪役だったから、徹底していたものだ。ただ、ご本人としては これは不本意だったようで、実際見ている側からもちょっとワンパターン化しちゃったかなとは思っていた。それが微妙に変わって来たのは、大ヒット・シリー ズに参加した「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2004)あたりから。これもまた悪役かよ…と思いきや微妙に違う面を見せていくあたりが、ご本人の悪役イメージ払拭に大いに役立ったように思う。その後、「レイン・フォール/雨の牙」 (2009)では日本映画に出演しながらも「アレレ…?」な怪演を見せたりしてイマイチ不安定な感じではあったが、近年ではすっかり味わい深い芝居を見せ るようになっていた。ただ、どうしても脇に回る役どころが多くなってしまうので、「主役」を演じた作品は少なかったのが正直なところ。そういう意味では、 本作はオールドマン自身としてもチャンスだったし、会心の作品だったのではないだろうか。果たして本作は作品の出来はともかく、オールドマンを見る映画と しては素晴らしい出来映えとなっているのである。

みどころ

  誰しもが指摘するところだし、アカデミー賞まで取ってしまっているから今さら改めて僕がどうこう言うこともないのだが、やはりゲイリー・オールドマンは素 晴らしかった。特殊メイクの力を借りているとはいえ、誰もが知っているあのチャーチルに見えるから大変なものだ。しかも、「そっくりさん」という訳でもな い。当たり前のことながら、「ゲイリー・オールドマンのチャーチル」になっているから見事なのである。特にチャーチルが突然カメラを向けて来た報道陣に対 していきなりVサインを見せつける場面などは、あの「シド・アンド・ナンシー」でのシド・ビシャスの演技を彷彿とさせるところがあって、僕は個人的に嬉し くなった。また、どうしてもオールドマンばかりに話題が集中しがちだが、チャーチルの妻を演じたクリスティン・スコット・トーマスも見逃せない。最近では 「サラの鍵」(2010)での好演が印象的だったが、僕はプリンス監督・主演の「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」(1986)での彼女も知っているだけに、感慨深いものがあった。そしてつまらないことではあるが、「ダンケルク」(2017)、「人生はシネマティック」(2016)や「英国王のスピーチ」 (2010)などに描かれた、イギリス現代史の断面が本作にも描かれていて興味深い。それぞれの映画で描かれたエピソードの断片について、なるほどこうい う話の繋がり方をするのか…と納得させられるのである。たぶんそんな事は誰でも知っているのだろうが、無知な僕としては改めて感心させられた。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 では、本作全体にも大いに感心したかと言えば…確かに現代史の断面を巧みに切り取って描いた作品として面白く出来てはいる。ナチス・ドイツとの妥協を模 索する方向で動いていたイギリス政界のなかで、ひとりヒトラーとの徹底抗戦を貫いたチャーチルの英雄的な姿勢を賞賛するお話として、大いに盛り上がる作り 方になっている。大衆映画としてはうまく作られているんだろう。ただ、この時点でヒトラーやナチスドイツの本質を誰もがどれだけ知っていたのか…といえ ば、今日の我々には明白に分かっていることも、実際はチャーチルを含めてどれほど分かっていたのか怪しいところではないだろうか。また当然のことながら、 この戦争の行方がどうなるのかということにしても、当時は分かっているはずがない。つまり、ここで英雄的に描かれていることは、すべて「結果論」でしかな い。それをまるで「ロッキー」(1976)のような恐るべき単純さで描いてしまった作品が本作なのだと思う。実際にはこんなに単純明快で盛り上がる話な訳 がないのだ。このあたり、「プライドと偏見」 (2005)や「つぐない」(2007)のジョー・ライト監督は、どうもモノの見方が単純単細胞過ぎる気がする。そもそもジェーン・オースティンの有名な 作品を「プライドと偏見」として映画化するにあたって、冒頭からいきなりキーラ・ナイトレイに本を持たせて「向学心にあふれた知的な女」と見せる、まるで 芸のない「まんま」演出をやらかした男だ。この人には、どうやら含蓄とかそういう概念はないみたいなのである。そんな男が現代史みたいな複雑なモノを安易 に扱ってはいけないように思う。少なくともクリストファー・ノーランが「ダンケルク」で見せた冷静な視点が、ここには完全に欠けている。ハッキリ言って、 ちょっと頭が悪そうな映画に見えるのだ。結局、本作はゲイリー・オールドマンを見るため「だけ」の映画だと言うべきなのである。

さいごのひとこと

 発想はエクスペンダブルズと大差なさそう。

 

「女は二度決断する」

 Aus dem Nichts (In the Fade)

Date:2018 / 07 / 09

みるまえ

 ダイアン・クルーガーといえば、ドイツ出身の美人女優である。リュック・ベッソン・プレゼンツの「ミシェル・ヴァイヨン」(2003)に出たかと思ったら、アッという間にブラピのスペクタクル史劇「トロイ」 (2004)でハリウッド上陸。ただ、正直クール・ビューティーではあると思ったが、所詮はモデル上がりの人。芝居のうまい女優さんとはまったく思わな かった。だが、それに続く「ナショナル・トレジャー」(2004)では軽妙な味を見せ、「敬愛なるベートーヴェン」 (2006)ではなかなか達者なので「アレッ?」と思わされた。だが、その後もコンスタントに「イングロリアス・バスターズ」(2009)、「ミスター・ ノーバディ」(2009)、「アンノウン」(2011)…と作品が続くが、正直やはり「美人女優」ワクの人だと思っていたわけだ。ところが今回は、作品の 佇まいからして違う。夫と息子を爆弾テロで失った女の話というあたりからして、これまでの彼女のフィルモグラフィーとは様変わりだ。そもそもこの作品が ファティ・アキンの監督作という時点で、佇まいが違う訳だ。このトルコ移民出身のドイツの監督は、「ソウル・キッチン」(2009)などで名前は知ってい た。残念ながら僕は縁がなくて今まで作品を見ていなかったが、映画祭で受賞したなどという話題で名前ぐらいはよく聞いていたのだ。正直言って、従来のダイ アン・クルーガーの出演作とはちょっと違う。おまけに、本作でカンヌ映画祭の主演女優賞を取ったというから、只事ではない。だが、そうなってくるとちょっ とイヤな予感もしてくる。美人女優で名高い女優さんは、どうしてもどこかで演技を評価されたくなる。それで過剰な熱演をやらかし、周囲もそれを誤解して賞 賛するというイヤ〜なパターンになる訳だ。本作だってそんなところじゃないの? やたら暑苦しい熱演見せられて辟易しそうなんだよな。だからちょっと本作 にはドン引きだったのだが、ある知人からオススメと聞いて見ることにした。そろそろ劇場も先細ってきたある日、銀座まで見に行った訳である。

ないよう

  刑務所の檻の中から出て来た男が、他の囚人たちのやんやの声援を受けて颯爽と歩いて来る。やけにめかした格好だが、どうも「出所」ではなさそうだ。誰かが ラジカセでテンプテーションズの「マイ・ガール」を流して、これをBGMに刑務所内の広間にやって来ると、そこには花嫁衣裳の女と介添人の友人たちがい た。今日はこの新郎・トルコ系移民のヌーリ(ヌーマン・アチャル)と生粋のドイツ女カティア(ダイアン・クルーガー)の獄中結婚式である。幸せそうな二人 の指輪交換は、お互いの指に彫られたタトゥーの指輪だ…。それから時が経って…ヌーリとカティアの間には可愛い息子ロッコ(ラファエル・サンタナ)も生ま れ、幸せな日々を送っていた。そんなある日、カティアは友人ビルギット(サミア・ムリエル・シャンクラン)と出かけるため、ヌーリの会社の事務所にロッコ を預けに行く。出所後のヌーリはヤバい稼業からすっかり足を洗い、自分で外国人相手の事業を興していたのだ。カティアが事務所を出て来ると、たまたま事務 所の前に自転車を停めたまま、カギもかけずに離れようとしている若い女がいた。カティアはその女にふと「自転車が盗まれちゃうわよ」と声をかけるが、女は 「すぐ戻るから」と意に介さない。カティアもそんな女の返答に何ら疑問も抱かず、その場を離れて行った。それが後にカティアを悩ませることになるとは、そ の時はまったく思っていなかった。ビルギットと合流したカティアは、スパでゆったりとくつろぐ。カティアは脇腹に入れた「サムライ」タトゥーをビルギット に見せて、ヌーリが嫌がるから「これが最後」と語る。なるほど、カティアのカラダにはあちこちタトゥーが入っているではないか。それは、彼女がヤンチャを していた名残でもあった。こうしてすっかり気分一新して、ヌーリの事務所へ戻ろうとするカティア。だが、何があったのか周囲は多くの人だかりが出来ていて 騒然。おまけにパトカーや警官がやたらに目に付く。イヤな予感がしたカティアが事務所に近づこうとするが、群衆や警官が多くて前進もままならない。聞けば 「爆発事故」があったというではないか。慌てて駆け出してみると、そこにはもはやガレキの山となったヌーリの事務所が…。降りしきる雨の中を捜査官に連れ られて自宅に戻ったカティアは、彼らにヌーリとロッコの歯ブラシを託す。そのDNA鑑定の結果、ふたりの死亡が確定した。カティアは失意のドン底へと突き 落とされる。だが、その場にやって来たレーツ警部(ヘニング・ペカー)は、「犯人を捕らえるため」と言ってカティアに執拗に質問を投げかける。その内容た るや、まるでヌーリに事件の原因があるかのような尋ねようである。さすがにカティアがそれに耐えかねた時、不意に例の自転車の女のことを思い出した。そう いえば荷台に箱が載せてあった…。だが、そんなカティアの訴えはレーツ警部に届いたかどうか。外にはカティアの気持ちを察したかのように、ひたすら冷たい 雨が降り続いていた…。翌朝のニュースでは、もっぱらヌーリの前科を重視するような報道ばかり。カティアの気持ちは逆なでされる一方だ。知人の弁護士ダ ニーロ(デニス・モシット)を訪ねたカティアは、彼に悶々とした気持ちをぶつけるように「ネオナチ」が犯人だと訴える。そんなカティアを見かねたダニーロ は、手元にあったちょっとしたクスリを彼女に渡すのだった。そこでカティアは自宅に戻ってから、悲しみを癒すべくクスリを使ってみる。だが、それがマズ かった。何とも悪いタイミングで、捜査員がカティアの自宅に乗り込んで来る。彼らはあくまで、ヌーリの死はクスリを巡る報復というセンで捜査していたの だ。カティアはクスリは自分のモノで、ヌーリは関係ないと主張。だが、それはいかにも説得力がない言い分だ。「ヌーリのモノだと言えば良かったのに」と口 走る自分の母親にも、不信感が募る。義父母も遺体をトルコに持って帰りたいと言い出し、カティアの心痛には思い至らない。こうなると、心配して付き添って くれる親友ビルギットの存在さえ鬱陶しい。カティアは心配して集まって来た人々すべてを帰し、自宅にひとりで引きこもった。あの日から、ひたすら雨ばかり が降りしきる。湯船に浸かったカティアが、手首を切ってこの世を去ろうと目を閉じたその時…いきなり電話が鳴り出すではないか。それは何よりもカティアが 待ち望んでいた知らせ…爆破事件の容疑者として、ネオナチの男女が逮捕されたという報告だった…。

みたあと
 移民問題と テロ…という、ヨーロッパの映画としては非常にタイムリーな題材。まったく人ごとみたいな平和ボケ丸出しのことしか言えないが、この映画に関しては率直な ところそんな印象しかなかった。そして、実際にもそういうお話ではあったのだが…実物を見終わった印象は、映画としてパワフルでよく出来ているということ に尽きる。政治的なメッセージなりを感じ取ろうとすると、見ている人それぞれでいろいろに取れる内容で、かつ作り手もそれを意図しているように思える。作 者であるファティ・アキン自身のインタビューでの発言なども、だからあまりアテにはないように思える。これを言ってしまうと怒られてしまうかもしれない が…実際のところ、本作は「メッセージ」を発信するということ自体が第一目的ではないのかもしれないのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 本作については語りどこ ろが多いのだが、この手の作品にありがちな「典型」から逃れている…という点をまず挙げなくてはならないだろう。映画の冒頭から見ていれば分かるように、 実は本作で犠牲になるヒロインの夫は、いわゆる「善良」で「品行方正」な人物ではない。いや、被害に遭った時点ではそうだったかもしれないが、世間的に見 れば「いい人」には見られるのは難しいだろう。何しろ麻薬の売人として捕まり、服役した人物なのである。そんな男と「獄中で結婚」するヒロインも大概であ り、冒頭からカラダのあちこちにタトゥーを入れていることがハッキリ明示されている。タトゥーを入れているからよろしくない人物だというのは偏見だろう が、正直に言って「真面目」な人物と見られるかと言えばそれは「否」だろう。そんな二人が知り合った背景も、大体想像がつく。夫と息子の死によって気落ち したヒロインが、ついつい「クスリ」に手を出してしまうあたりも、いわゆる「いい人」の範疇からは逸脱しているだろう。本作ではそのあたりが仇となって、 ヒロインは追いつめられ、事件の裁判もどんどん不利な状況になっていく。だがそのあたりの理不尽さを告発するためにそういう設定にしたのかと言えば…確か にそういう要素もあっただろうことは否定できないが、それが主たる目的ではなかったように思えるのだ。例えばこの手のドラマを描く場合、一般的には主人公 たちを思い切り「善良」に描くのが定石であろうと思われる。その方が観客の共感を集めやすく、かつ「そんな善良な人がこんなひどい目に遭った」…というこ とで悲劇的要素を高めやすい。怒りや悲しみという感情的な要素を盛り上げやすい訳だ。だが、それは非常に単純な感情操作であるとも言える。素朴であり、実 はちょっと幼稚だ。また、ひたすら「善良」さだけを強調した場合、その人物たちから著しくリアリティが欠落するというマイナス部分もある。実際には、我々 はそんなに「善良」でもなければ「品行方正」でもないからである。それ故に「善良」さだけを強調されると、ひどく「キレイごと」で「ウソ臭く」見えてしま うのだ。このあたりの雰囲気については、引き合いに出しては申し訳ないが、例えば韓国映画「ブラザーフッド」(2004)の冒頭部分などを想起していただ ければお分かりいただけると思う。本作では主人公たちのネガティブ要素もあえて見せていくことで、主人公たちの「リアリティ」を生々しく見せていく。しか も、そのヒロインをダイアン・クルーガーに演じさせたことが効いている。クール・ビューティーのクルーガーが演じているからこそ、少々ハスッパなところも あるヒロインが、大多数の観客にとってついていけなくなるほど「よろしくない女」には見えない。タトゥーもクスリも、せいぜいちょっとハメをはずしたヤン チャ程度に見える。これはなかなか絶妙な計算である。クルーガーが演じているから、どうしたって下品で下卑た女には見えないのだ。逆にこういう設定だから こそ、整った美人のクルーガーでもシラジラしい「キレイごと」に見えて来ないという相互関係になっているのである。まさに絶妙のバランス。これによって、 我々はヒロインに深い感情移入ができる訳だ。またリアリティという点では、「事件」後に延々冷たい雨が降りしきるという描写が実に「感じ」を出している。 実際には事件が起きて以来何日もずっと雨ばかり降っているというのはなかなかないことだろうが、ここでは現実のリアリティではなく感情におけるリアリティ を優先したとでも言うべきだろうか。とにかく降りしきる雨の陰鬱さ、冷え冷えとした感じが、ヒロインの心象風景とピタリと重なって効果を出している。もう ひとつうまいと思ったのは、お話が後半に移ってから。裁判を不調に追いやったギリシャのホテル支配人の身辺を、ヒロインが探るあたりの緊迫感がスゴい。サ スペンス映画としてもよく出来ているのだ。本作は世間ではいわゆる「問題作」として扱われていて、監督もこういう人だから「移民の代表」とか「移民のス ポークスマン」的に見られがちで、どうやら本人もそう自覚しているらしい。そのため、どうしても「社会派」作品を作ったような発言をインタビューでしてい たりするのだが、それって本当にホンネなんだろうか。おまけに公に対してはタテマエとして「復讐は何も生まない」という風に言わなきゃいけないから、本作 の結末とは明らかに矛盾した発言になっちゃったりしている。言ってることとやってることが違うだろ…みたいで、何だか変なのだ。これは本作を社会的なメッ セージとしちゃうからおかしくなるのであって、本来は「移民」とか「テロ」とか、そんなことに対するメッセージ映画を撮るつもりじゃなかったんじゃないの か。僕はどう考えても、人間としての「矜持」というか…そんなようなものを描こうとしているようにしか思えないのだ。一度復讐を試みながら止めたヒロインが辿 り着く結末を見ると、そういう風に感じざるを得ない。これを社会派メッセージとしちゃうから、ファティ・アキンも訳の分からない苦しい弁解をしなくちゃな らなくなるんじゃないのか。もっとも、ファティ・アキン自身もそう受け止められるような誘導をしちゃっているからいけないのだが、この人の立場としてはそ ういう発言を期待されちゃっているのだろうし、商業的にもそういう作品と見せかけた方が「問題作」として商売になるのだろう。だが、それはこの作品本来の目 指しているところではないように思う。いろいろな意味で際どい作品だが、そういうこととは関係なしにヒロインの「おとしまえ」の付け方と、それを演じるダ イアン・クルーガーを見る映画になっているのである。

さいごのひとこと

 ヒロインは侍スピリットを誤解してそうだが。

 


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