新作映画1000本ノック 2018年7月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
「タクシー運転手/約束は海を越えて」 「それから」 「死 の谷間」 「ビューテュフル・デイ」 「犬ヶ 島」
 「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 「女は二度決断する」

 

「タクシー運転手/約束は海を越えて」

 A Taxi Driver

Date:2018 / 07 / 30

みるまえ

 本作の評判は、かなり前から聞いていた。韓国で大ヒット、大絶賛。光州事件を取材するために潜入したドイツ人ジャーナリストと、彼を運んだタクシーの運ちゃんの物語。そして運ちゃんを演じるのが、韓国を代表する名優のソン・ガンホである。監督はやはりソン・ガンホ主演「義兄弟」(2010)でイイ味出していたチャン・フン。コレは見なくてはいけない。そしてソン・ガンホ演じる庶民の目から見た韓国現代史…ということは、あの傑作「大統領の理髪師」(2004)の路線であろう。さすが名優ソン・ガンホにハズシなしだ。しかし考えてみると…実はそのソン・ガンホの主演作を、僕はポン・ジュノの「スノーピアサー」(2013)以来見ていない。昨年公開された話題作の「密偵」(2016)ですら見逃しているのだ。そしてよくよく考えてみると、前々からソン・ガンホにハズシなし…と言い続けて来たにも関わらず、それは「義兄弟」あたりまでの話。「青い塩」(2011)、「凍える牙」 (2012)…と調子を落として来て、「スノーピアサー」も作品としては少々難のある出来映えだった。近年は、僕はソン・ガンホらしい快作にずっと巡り会 えてなかったようなのである。これは絶対にマズい。だから本作は必ず見なくては…と思ったものの、かなりヒットしているらしくて激混みらしいと聞き、なか なか見れるチャンスがなかった。いよいよ公開が先細って来た頃になって、やっとこ劇場に駆けつけたという訳である。

ないよう

 1980 年のソウル。タクシーの運ちゃんをしているマンソプ(ソン・ガンホ)は、今日も今日とて鼻歌をうたいながら街中をクルマで流していた。カーラジオからはあ ちこちで揉めているニュースが流れていたものの、マンソプは政治なんぞに関心はない。関心があるのは商売のこと、景気のこと、そして今日の交通事情だ。渋 滞となれば、即フトコロ具合に響く。現に今日もデモで道路が詰まっていて、こちとら商売上がったり。おまけに急に飛び出して来たデモ隊の学生のおかげで、 サイドミラーを壊してしまった。学生はデモなんかやってないで勉強しろ…と言いたい。そんな折り、今度は産気づいた女と亭主を乗せて病院へ急ぐが、街はデ モ隊と機動隊があっちこっちで睨み合っていてまっすぐ走れない。仕方なくマンソプのクルマも街を東奔西走だ。そんなマンソプがアパートに戻ると、待ってい たのは可愛いひとり娘。だが、暮らし向きは決してラクではない。実は家賃もかなり溜め込んでいて、家主の女房にイヤミを言われる始末だ。その頃、東京のホ テルでは、外国人ジャーナリストたちがバーにたむろして雑談に興じていた。そんな中に、ドイツから派遣されていたテレビ記者のピーター(トーマス・クレッ チマン)もいた。毎日がよく言えば平穏、悪く言えば退屈な日本に飽き飽きしていたピーターは、最近韓国から逃げて来たというイギリス人記者(ダニエル・ ジョーイ・オルブライト)の話に興味を持つ。朴正煕大統領が暗殺されて以来、韓国は揺れていた。さらに全斗煥によるクーデターで緊迫感が増して、光州では かなり殺気立った状況になっているらしい。すでに電話もつながらない。外国人記者がいられる雰囲気じゃない。だが、報道は一切されていない。ここ日本で も、そんなヤバい状況になっていることは知られていないのだ。そんなイギリス人記者の話を聞いて、昼行灯みたいな毎日を送っていたピーターの中の野心に火 がついた。思い立ったら即実行。アッという間に、ピーターはソウルは金浦空港に降り立っていた。ただし、正直にジャーナリストなんて名乗るほどバカじゃな い。あくまで宣教師と名乗っての入国だ。すでに、政府はあちこちに目を光らせていたのである。早速、旧知の韓国人ジャーナリストと落ち合うが、彼はかなり 事態を深刻に受け止めていた。外国人が光州入りすることも、あまり賛成できないようだ。それでもピーターに「ぜひに!」と頼まれれば、韓国人ジャーナリス トも何とか力を貸そうと約束してくれた。その頃、マンソプは自分の友人であるアパートの家主とメシを食いながら、溜まった家賃など金策の相談をしていた。 その食堂はタクシー運転手たちがたむろする店。マンソプたちが見知った顔もあちこちにいた。そんな中、得意げに今日の自分の仕事についてデカい声で自慢す る男がひとり。何でも外国人を光州まで運んで、破格のタクシー代を稼げるらしい。その男を見ていた家主が視線を元に戻すと、もうそこにマンソプの姿はいな かった。もちろん、マンソプが先回りして例の男を出し抜く気マンマンである。その男の自慢話で、集合場所についてもすでに聞いていた。あとは度胸とハッタ リで勝負。集合場所の映画館前にいち早く到着すると、不審げに見つめる韓国人ジャーナリストの冷たい視線をよそに、調子よく自分のタクシーの中に問題の外 国人…ピーターを引っ張り込んだ。もちろん、英語なんてちゃんと習ったこともないが、そんなこたぁ関係ねぇ。「大丈夫、大丈夫! レッツゴー、クァン ジュ!」と相手の気が変わらないうちにクルマをスタートだ。これでデカい稼ぎをモノにできると、マンソプは上機嫌でハンドルを握る。だが、彼は知らなかっ た。いや、実はピーターですら本当に分かってはいなかったのだ。それが、彼らにとっての「地獄の一丁目」になるということを…。

みたあと

  実はこの映画については、あまり多くのことを語れない。仮に語れたにしても、他の人々が語っていることと違ったことを言えるとも思えない。おそらく大して 代わり映えのしないことしか言えないだろう。本作はそういう映画である。単刀直入に言えば、ただ一言…面白い! またしても、そんなありふれたフレーズを 繰り返すしかない。今回もまた、さすがの名優ソン・ガンホにハズシはなかったのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  もちろん今回も、ソン・ガンホ演じる「庶民の目から見た韓国現代史」であることは間違いない。ソン.ガンホは、とにかく歴史に弄ばれる市井の人を演じさせ たらピカイチ。そして何が一番素晴らしいかと言うと、映画の中で彼の演じる人物が善良ではあるが、それなりに世俗にまみれてズルくてセコくもある点。これ が抜群のリアリティになっているのである。というのも、一般に韓国映画は(そして日本映画でもありがちなのだが)極限状況に直面した一般人をことさらに善 人に描きすぎる。毎度引き合いに出しては申し訳ないが、映画としてはまことに真摯に作られていたはずの「ブラザーフッド」 (2004)の冒頭部分などがその顕著な例である。その方が悲劇が強調されるから…という狙いなのだろうが、一点の曇りもなく、善良で健気で誠実な人々ば かりが出て来る。だが、これってお話をキレイごとにしてしまい、同時にウソっぽくインチキ臭くもしてしまうのだ。その点、我らがソン・ガンホが出て来ると そうはいかない。こすズルく立ち回り、ふてぶてしくも図々しい。だが、そこはソン・ガンホの愛嬌でカバー。根は優しくてひょうきんな男なのだ。そんなズル くてセコいが陽気な男が、逞しくしたたかに生きているリアルな庶民像に見えて来る。映画の中心にソン・ガンホひとり置けば、たちまちお話がリアルに見えて くるのだ。これは最大最強のアドバンテージである。そして映画の前半部分を通して、ソン・ガンホはこの韓国現代史最大の事件に対峙しながら、本人は早く事 を終えて、面倒事に関わらず、うまいこと立ち回ってカネだけ巻き上げてズラかりたい…と終始様子を伺っている。まるで黒澤明の「隠し砦の三悪人」 (1958)に出て来た、千秋実と藤原釜足を足して二で割ったような人物である。この彼の言動を見ているだけで笑ってしまう。本作はシビアな韓国現代史を 描く作品ではあるが、それよりまず大衆娯楽映画の面白さをあえて守って作っている作品なのである。だが、そんなソン・ガンホ演じる主人公も、光州の人々の 人情味に触れ、悲惨で醜悪な現実に直面することで、徐々に考えを改めていく。それでも彼には、「親ひとり子ひとり」の可愛いひとり娘がいる。ここで死ぬ訳 にはいかない。断腸の思いでその場を立ち去ろうとする朝、主人公は現地の運ちゃん仲間に見つかってしまう。だが、すでに主人公を雇ったドイツ人記者は彼を 帰そうと決意していたし、現地の運ちゃんもただ淡々と語るのみだ。「あんたが悪いんじゃない、悪いのは他にいるよ」…もうこのあたりで、見ているこちらは 血圧がどんどん上がっていく。こうして一旦は光州を離れた主人公だが、事実を伝えないテレビのニュースや何も知らない一般の人々の会話によって、彼の思い は千々に乱れていく。そして、いよいよ帰路に就こうという踏切を前に、主人公は悶々と逡巡しながら、ついにタクシーのハンドルを切って元来た道を戻るの だ。このあたりの主人公の葛藤は、演出も素晴らしいがもちろんソン・ガンホの演技も至高。余人をもって替え難いとは、まさにこのことである。浪花節なんだ けど理屈抜きにいい。本作は韓国現代史の一断面を切り取ったお話ではあるが、先ほど述べたようにあくまで大衆娯楽映画の基本を忘れない。…というより、 ちょっと面白くしすぎ(笑)じゃないかとも思えるところすらある。終盤に繰り広げられる軍とタクシー軍団とのカーアクションなど、「マッドマックス/怒りのデス・ロード」 (2015)じゃあるまいし(笑)サービス精神あり過ぎだと思えるかもしれない。だが、ここは「ソン・ガンホ庶民の現代史シリーズ」の流儀なのだと、僕は 肯定的に解釈した。この映画は大衆に届かなくちゃいけないんだから、これで正解なのだ。「義兄弟」を撮ったチャン・フン監督の作品なのだから、もちろん熱 い作品になるのは当たり前なのである。役者はソン・ガンホだけでなく脇の人物も素晴らしい。地元の運ちゃんを演じるユ・ヘジン、デモに加わっている学生を 演じるリュ・ジュンヨル…など、そのツラ構えの個性的なこと。先ほど黒澤明の話を持ち出したが、まるでアブラが乗り切った1950年代〜1960年代前半 の黒澤組の常連役者たちを見るような、味のある顔がズラリと並ぶ。残念ながらこの点に関しては、わが国の映画は韓国映画になかなか太刀打ちできないかもし れない。そして今回ドイツから客演のトーマス・クレッチマンも、程をわきまえた控えめな好演。この人はポランスキーの「戦場のピアニスト」(2002)で一気に注目を集めたが、本当に素晴らしかったのはチャールトン・ヘストンと共演した「マイ・ファーザー」(2004)。ヘストン扮するナチ戦犯ヨゼフ・メンゲレとクレッチマン扮するその息子のお話だが、ここでのクレッチマンが地味ながら実にいいのである。何しろ「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」 (2015)にも出ていたというのに、まったく印象に残っていない地味さ(笑)。この人の控えめさこそが、本作ではプラスに働いている。外国スターが出て 来てやった…という晴れがましさがまったくないからこそ、アンサンブル・キャストにしっくり溶け込んでいるのである。同じ韓国映画でいえば、「オペレーション・クロマイト」 (2016)でマッカーサーを演じたリーアム・ニーソンの真逆…とでも言うべきだろうか。クレッチマンをキャスティングした人物は、まさにお手柄。ともか く、久々に面白くて素晴らしい、王道の韓国映画を見た…という気がする。いくらホメてもホメ足りない。ソン・ガンホおそるべし。

さいごのひとこと

 ソン・ガンホの我流英語が楽しい。

 

「それから」

 The Day After

Date:2018 / 07 / 23

みるまえ

 ホン・サンスの作品ってのは、こういうカタチでしか公開されないんだろうか。いつぞやに引き続き、いきなり4作立て続けの公開である。ホン・サンスの作 品はキライじゃないので、嬉しいことは嬉しい。だが、今回の公開は少々複雑な心境で迎えることになった。元々は「江 原道の力」(1998)で初めて見てビックリ。続いて見た「気まぐれな唇」(2002)で、エリック・ロメールみたい…いや、それ以上だと大興奮した。それからというも の、作品が公開されるたびにむさぼるように見に行ったものだが、「3人のアンヌ」(2012)あたりから微妙な雰囲気が流れ始めた。国際的な名声が高まったことから外国スター を出演させたりし始めたのだが、日本から加瀬亮を呼んだ「自由が丘で」(2014)で、ついに平均台から落ちてしまったようである。つまらないのだ。初めてホン・サン ス作品をつまらないと思った。他の誰もが絶賛していたこの作品だったが、ハッキリ言って面白くない。明らかに「国際映画祭病」を発症しているように思え た。ホン・サンスのような頭の良さそうな人でもこうなってしまうのかなぁ…と、ひどく残念に思ったものだった。そして今回、またまた4作連続公開である。 あの「自由が丘で」以来の新作…というだけでも複雑な気持ちなのだが、今回はそこにもうひとつ気の重い要素が加わった。4作ともここ最近のホン・サンス作 品で主演を務めるキム・ミニなる女優さんの作品だからである。文字通り近年のホン・サンスの「ミューズ」だそうなのだが、ハッキリ言ってお手つき女優の話 を延々見せられるのもどうなんだろう。ホン・サンスの映画って、いつもホン・サンスその人を思わせる主人公に若い女が絡んで、男と女の下心ムンムンなお話 が展開するのだが、そこにモノホンの愛人を出して来られてもシャレにならないではないか。おまけに4本のうち2本が海外ネタ…それも女優がどうしたとか映 画祭がどうだとかいう話となると、「世界的巨匠のオレ」アピールな作品である恐れは大。ちょっと前の作品でもイザベル・ユペールやジェーン・バーキンを出 して来たりして、何だかそのへんから雲行きが怪しくなって来たのである。何だか今回の4本も調子こきまくりのオナニーみたいな作品になっていそうで、正直 言って見るのが億劫になっていた。知人からはオススメの言葉をいただいていながら、どうも気が進まない。4本のうちの第1弾「それから」の上映が先細りに ならないうちに…と、何とか映画館に滑り込んだような訳だった。

ないよう

 まだ夜も明けきらない暗いうちから、マンションの自室で起き出す中年男ボンワン(クォン・へヒョ)。ダイニングキッチンで一人で早い朝飯を食い始めたボ ンワンに、女房(チョ・ユニ)がいろいろ話しかける。そもそも、何でまたこんな朝早くから出勤するのか。眠れないから…という説明では納得できない。最 近、妙に体型を気にして痩せて来たのもヘンだ。そこから女房はズバリと核心を突いて来る。「女がいるんでしょ?」…そんな妻の執拗な問いかけにも、黙々と メシを食いつつ苦笑しながら答えないボンワン。そりゃあそうだ。図星だからである。前の晩にもボンワンは部下の若い愛人チャンスク(キム・セビョク)と一 杯やって、アツアツで夜の町を歩いていた。帰宅しなきゃならんと分かっていても、何とも離れ難い。それで翌朝、お互いに仕事場に早く来よう…という話に なっていたという訳だったのだが…。ボンワンの仕事場とは、彼が経営している小さな出版社の事務所だ。そこに朝からやって来たのは…アルム(キム・ミニ) という若い女。ある大学教授の紹介で、ボンワンの出版社に入ることになった「新人」である。早速、打合せテーブルでアルムと話を始めるボンワン。ボンワン はこの出版社を経営する傍ら文芸評論も行っており、小説家志望のアルムは羨望の眼差し。そんなアルムはボンワンに自分の身の上について話すうちに、ついつ い亡くなった父や姉のことを思い出して涙ぐむ。どうやら彼女は思い詰め型の女性らしい。そんなアルムを近くの中華屋に昼メシに誘うボンワンは、予想外にも 彼女に論戦を仕掛けられてタジタジ。恋愛でも何でも言葉で語るモノなど信じられない、実体のあるモノしか信じない…と語るボンワンに、アルムは「卑怯だ」 と挑むように突っ込む。これには小さいながらも出版社の「社長」であるボンワンとしては、退くに退けない状況になってしまう。そもそもボンワンは、「卑 怯」という言葉に対して身に覚えがあった。ある日、同じ中華屋でチャンスクに絡まれ、家庭と自分との間で煮え切らない態度のボンワンは、彼女から「卑怯 だ!」と散々罵られたのだった…。実はこれが原因で、ボンワンはチャンスクと別れることになる。アルムはその後任として雇われたのである。ところがボンワ ンの留守中、事務所に彼の女房が現れた。女房はアルムを見ると、いきなり彼女をボンワンの「愛人」と決めつけて逆上。思い切り引っぱたいて来るからたまら ない。大揉めに揉めたあげく、慌ててボンワンを呼んで来るアルム。こうして何とも奇妙な三者会談が始まる。そもそも女房は、アルムが愛人ではない…という ボンワンの言い分など聞こうとしない。一方、問答無用で引っぱたかれたアルムもカンカンである。ボンワンは頭を抱えるしかない。納得したかどうかは分から ないが、ともかく女房は帰って行った。夜、ボンワンは例の中華屋にアルムを連れ出して一杯やるが、もう彼女は昼間の一件でウンザリして、出社一日で辞める 気になっていた。そんなアルムに、ボンワンは辞められたら困ると何とか説得を試みる。こうして当座は居残ることになったアルムを席に残して、ボンワンはト イレに立つ。やがて自分もトイレに行こうとしたアルムがその場で見たものは…別れた愛人チャンスクとの再会で燃え上がり、彼女とガッチリ抱き合うボンワン の姿だった…。

みたあと

 ホン・サンス作品といえば、男と女の下心丸出しのやりとりであり、出来事をいろいろな視点から見て行く独特の話法が特徴 である。特に時制をいじくることにかけては、「ダ ンケルク」(2017)のクリストファー・ノーラン以上のこだわりを感じる。今回もまた、毎度おなじみの展開である。冒頭にも述べたように、僕は 今回の作品に対してはあまりいい印象を持たずに接していた。特にお手つき女優キム・ミニを前面に出したオナニー映画みたいなモノを見せられたらたまらん… と思っていたので、かなり意地悪な気分でスクリーンに対峙していたと思う。我ながら「映画ゲイジュツ」的な見方でなく、あまりに下世話な見方で申し訳ない (笑)。でも、そういう目でしか見れないわな。否、他の高等なシネフィルの皆様は違うんだろうが、それほどの「鑑賞眼」(笑)のないオレにはそう見えちゃ うんだから仕方がない。案の定、始まってすぐに男女のやりとりに不穏な雰囲気が漂い、問題のキム・ミニ登場のあたりで例の「時制のいじくり」がチラつき出 す。毎度おなじみホン・サンス作品の十八番である。昼メシを食いに行った中華屋で、キム・ミニが堂々と自説をブチまくったあげく、自分が雇われた会社の社 長相手に「卑怯」だと言い張るあたりで、僕はすっかり自分の予想が当たってしまったと思い始めた。おいでなすった、典型的な頭デッカチ娘の屁理屈が炸裂だ よ。こういう娘には敵わないと持ち上げて食っちまうあたりが、いかにもなエロオヤジの手口である。こっちはそういう目でしか見てないから、ヤレヤレ…とい う気分にしかならない。キム・ミニがまさに私が頭に思い描いていたようなキャラクターらしいセリフを吐き始めたので、僕は早くも「今回の映画もこりゃダメ だな」と思い始めたのだったが…。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 結果から言うと、キム・ミニを不倫の当事者でなくて「傍観者」的人物に設定するという、ちょっとハズした配役にしたのが効いている。お話をどう解釈する かについて逐一説明するとメチャクチャつまらなくなってきそうだし、それほど細かいところまで理解出来ている訳ではないから割愛するが、例のホン・サンス お得意の時制のいじくりが効いている。見ていて「アレッ? これってさっきの場面の続き? それとも…」と、場面が変わるたびに今見ている場面はいつの時 点なのか…とハッキリ分からせず、それによって微妙な効果を出しているのが相変わらずうまい。笑っちゃうのと同時にゾッとする…あるいはシンミリしてしま うのは終盤で、スッタモンダのあげくにキム・ミニ扮する新入社員が、辞めた後しばらくして本作の主人公の男のもとへ再びやって来る場面。観客にはその場面がど の時点のエピソードか最初は分からないように作ってあり、見ているうちに分かるような仕組みになっている。すると…主人公の男はキム・ミニ扮する女が誰だ か最初は気づかず、その前に交わしたような会話を再度繰り返すのだ。あんなスッタモンダがあったのに、彼女のことをすっかり忘れちゃってるのである。一 方、よくよく考えてみるとキム・ミニ扮する女の方も、そんなことがあって懲りたはずなのにすっかり忘れちゃったのか水に流したのか、ノコノコと主人公をお 祝いにやってくる。さらにこの時点では…主人公と不倫でつき合っていた女の子との関係も、あんなに「やっぱり離れられないわぁ」みたいな腐れ縁みたいだっ たのに、いざ同棲してみたら「家が狭かった」ぐらいのことですぐに別れちゃっている…。まぁ、世の中そんなもんなのである。そこに漂う諦感とも達観ともい える感情が、見ている我々にまるで「人生の真実味」のように感じられるのだ。そして、ラストで主人公がキム・ミニに夏目漱石を渡すくだりで、やっとこ本作 のタイトルの意味が腑に落ちる。「それから」って、あの「それから」だったのか! それと同時に、「それから」に描かれた三角関係とこの映画の無様な三角 関係が合わせて想起されて笑ってしまう。主人公はおそらく自らのショボい女との関係を「それから」の恋愛に重ね合わせたつもりで、大見得切ってキム・ミニ に本を渡したに違いない。そのコッケイさに思わず笑ってしまうのだ。そしてキム・ミニが去って行き、それを見送る主人公の男…余韻たっぷりの長回しが続い て何となく感慨深い時が流れるが、去って行くキム・ミニの後ろ姿と入れ替わるようにやって来るのは中華の出前…というオチ(笑)。まるで「第三の男」 (1949)のエンディングみたいな、典型的な「映画のラスト・シーン」風の余韻のあるショットで、ホン・サンス最後の最後にやってくれる。実際、現実っ てそうなんだよねぇ。余韻に浸って大見得切っていても、やって来るのは出前のジャージャー麺(笑)。これはやっぱり笑いどころだろう。ホン・サンス、やっ ぱりうまいのである。ひとつだけ気になるのは、途中で何度も流れる、古いフランス映画のサウンドトラックから取ったような音楽。アレは一体何なのだろう?  誰か分かる人はいないだろうか?

さいごのひとこと

 アラを探そうとしたのに結局うまさに負けた。

 

「死の谷間」

 Z for Zachariah

Date:2018 / 07 / 23

みるまえ

  僕は自他共に認めるSF映画好きである。だから、SF映画が公開されると聞けば、とにかく見たくなる。大作、話題作でなくても…いや、むしろ小品の映画の 方が見たくなる。実際、そういうSF映画の方が「隠れた傑作」である確率が高いからである。そんな僕がずっと気にしていた作品が、この「死の谷間」。タイ トルからしていい。登場人物が3人だけで、人類がほぼ滅亡した世界の物語。どこかの限界集落みたいなゴーストタウン化した田舎町でロケしたらしく、予告編 をチラリと見たら実に魅力的な廃墟が映し出されていた。ライアン・ゴズリングの初監督作「ロスト・リバー」(2014)にも通じ る、美しい廃墟が見られそうではないか。そんな予算もかかってなさそうなのに、登場人物3人がそれぞれ、「スーサイド・スクワッド」(2016)や 「アイ、トーニャ/史上最大のスキャンダル」(2017)で大売り出し中のマーゴット・ロビー、「それでも夜は明ける」(2013)や「ドクター・ストレンジ」(2016)など の黒人スターであるキウェテル・イジョフォー、リニューアル版「スター・トレック」(2009)や「ワンダーウーマン」 (2017)でおなじみクリス・パイン…とそれなりのビッグネームなのも期待させてくれる。90分というコンパクトさもいいではないか。元々、人類滅亡 テーマのSFは大好きな僕だが、さりげなく公開されるこの手のジャンル映画は、デンゼル・ワシントン主演の「ザ・ウォーカー」(2010)やヴィゴ・モー テンセン主演「ザ・ロード」(2009)みたいについつい見逃してしまって悔やむことが多い。今回はその轍を踏んではならない。そんな訳で、わざわざ夜の 最終回に劇場へ駆けつけたという訳だ。

ないよう

  山間部の辺鄙な町は、今や人けのない廃墟と化している。そんな崩れかけた町の中を、手押し車を押して歩くひとりの若い女がいた。レインコートの上にビニー ルの雨ガッパをかぶり、防御マスクに酸素ボンベをつけて完全防備でうろつくその女は、町にある図書館の建物に侵入すると、本棚にあった本から何冊かを物 色。やがて腕時計が何かの時刻を知らせると、彼女はそそくさと町から撤退。どんどんと山道を上って行く。そんな彼女を迎える一匹の犬。その犬を見た彼女 は、ようやく雨ガッパやマスクをはずしてホッと一息つく。まだ若い白人娘である彼女がようやく辿り着いたのは、人里離れた谷間。そこには一軒の教会と何軒 かの人家があった。屋内の浴槽に浸かると、必死にブラシで自分のカラダをこする。そうしてようやく安心してベッドで眠りにつく彼女の名は、アン・バーデン (マーゴット・ロビー)。たった一人でこの谷間に住む彼女の日課は、いつもこのようなものだ。知り合いは、先ほどの犬が一匹だけ。だが、むしろ他者の訪問 は望んでいないかもしれない。自らの農地に鉄条網でフェンスを張って、警戒を怠らない。世の中が「こう」なってからは、誰も信用できなくなった。そんなあ る日、愛犬とライフルを持って見回り中のアンは、山道にスチール製の作業台車が停められているのを見つける。物陰に隠れて観察していると、そこに現れたの は防護服に身を固めた人物。その人物は作業台車を引っ張りながら、山道を谷間めざして上って行くではないか。やがてその人物は谷間までやって来ると、ガイ ガーカウンターで周囲の放射線量を測る。数値を見たその人物は、大袈裟とも思える防護服を開いて顔を出した。その人物は、ジョン・ルーミスという黒人男 (キウェテル・イジョフォー)。ジョンは感嘆した表情で周囲を見回すと、防護服をむしり取るように脱ぎ捨てて歓声を挙げた。そして何を思ったか、ジョンは 道から駆け下りて姿を消した。その瞬間、イヤな予感がしたアンは、慌ててジョンを追って下に駆け下りる。すると、ジョンは崖から流れ落ちる滝壺に身を浸し ているではないか。それを見たアンはとっさに「そこから出て!」と叫ぶが、ライフルを持った彼女に驚いたジョンはピストルを向けた。たちまち一触即発の状 況。だが、アンが銃を捨てて「その水は外から流れて来て汚染されている」と説明すると、状況を察したジョンは突然グッタリして水から上がった。彼を引きず るように作業台車まで連れて来ると、そこには「汚染」された時の応急処置としてのクスリがあった。すっかり弱ったジョンに指示されるまま、クスリを注射。 さらに自宅までジョンを引っ張って行ったアンは、彼を浴槽でゴシゴシと洗う。悪寒と発熱ですっかりグッタリしたジョンは、アンの家の寝室でベッドに横た わった。こうしてアンの献身的な看病によって、徐々に体調を取り戻して来たジョンだったが…。

みたあと
  第3の登場人物であるケイレブ(クリス・パイン)登場のずっと前に話を端折ってしまって、まことに申し訳ない。だが、ここからがまた長いのである。健康に なって来たジョンはアンと親しくなっていって、アンの方でも彼を大いに意識し始めるのだが、なぜかジョンは彼女を押しとどめてしまう。その一方で、科学者 で無神論者のジョンと牧師の娘で信心深いアンの間での相違もチラつき始める。そんな矢先、第3の男で地元を良く知る白人男のケイレブがやって来る…という 展開である。当然、この後でどんな話になっていくかはお察しのことと思う。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 先ほど「お察しのことと思う」とまとめちゃったのでも分かる通り、実は本作は予想通りの内容となる。信心深い白人の田舎娘に、結構トシのいった不信心な 科学者の黒人男、そこに一応信心深いような地元の若い白人男…という構図である。そういう意味で、後の展開にはまったく意外性はない。そもそもが発展性の ない話である。今回のクリス・パインは「アン ストッパブル」 (2010)などでの田舎のアンちゃんっぽさを買われての起用で、しかもいつもの好青年ぶりとはいささか異なるダークな一面を見せている。ハッキリ言って どんよりした話になっていく訳で、エンディングはぼやかしているものの、たぶんイヤ〜な結果になっちゃったんだろうな…と思わせる幕切れである。監督のク レイグ・ゾベルという人は、実際にマクドナルドのお店で起きた後味の悪い事件の実話映画化「コンプライアンス/服従の心理」(2012)を撮った人なの で、この手の「後味悪い」系の映画(笑)が専門なのかもしれない。原題の「Z for Zachariah」は「AはアダムのA」から始まるアルファベットの「Z」…「最後の人」的な意味合いがあって、なおかつキリスト教的な背景のある言 葉。水力発電のために教会を壊さねばならない…とか、信心深いかそうでないかが3人を大きく分ける要素のひとつになってくるあたりとか、ちょっと「図式 的」にやり過ぎてる感じもしないでもない。そもそも「教会を壊さねば、他に木材を手に入れる方法がない」というジョンの説が、無理矢理っぽくて説得力を 持っていないように思えてしまう。他に家はないのか(外界に人を探しに行った人々の家はどうなった?)…とか山の木を切ろうという気はないのか…とか、無 理矢理に教会を壊す話にしちゃっているみたいで、見ていてちょっと引っかかる。さらに個人的に残念な点としては、映画冒頭に出てきた見事な廃墟がその後 まったく出て来なかったこと。廃墟が好きな僕としては、アレだけでも見せてくれればご飯三杯はいけそうだったのだが(笑)。

みどころ

 そんな訳で、本作はひょっとしたら「ちょっと難がある」映画なのかもしれないのだが、僕は何だかんだいって楽しんでしまった。やはり人類滅亡テーマが好 きだし、登場人物が3人だけというミニマム感もこの作品の佇まいに合っている。それだけでちゃんとお話が成り立っているのも感心した。そしてこの3人の対 立の構図が現代の縮図みたいになっている点も、SFは常に「時代の鏡」みたいなモノであるという点から考えると、確かにうまく出来てはいる。さらに僕が見 ていて驚いたのは、本作の物語に「見覚え」があったこと。実は非常に似た映画をかつて見たことがあったのである。それは「SF地球全滅」というタイトルで テレビ放映されたモノクロ映画で、原題は「The World, the Flesh and the Devil」という1959年(僕の生まれた年である!)のアメリカ映画だ。僕はこの作品をおそらく中学〜高校で見ていたから、テレビ放映されたのは 1970年代半ばぐらいだろう。内容はと言うと…炭坑に閉じ込められていた黒人男が、地上に出て来ると最終戦争が起きていて人類は滅亡している。彼が無人 のニューヨークをさすらううちに白人女と出会ってお互い好意を持つようになるが、そこに新たに白人男が現れて男ふたりの間で早くも「第四次世界大戦」が勃 発してしまう…というお話。黒人男を演じるのが歌手としておなじみハリー・ベラフォンテ、白人女がインガー・スティーヴンス、白人男が元オードリー・ヘプ バーンの夫だったメル・ファーラーという布陣。白人女が黒人男に好意を持って積極的に迫っていく場面があったり、男たちの対立が聖書の中の文言によって収 まるというキリスト教的な趣向があったり…と、本作と共通する点が多い。僕は本作を見ていて、てっきりこれは「SF地球全滅」のリメイクではないか…と 思ったくらいだ。実は本作には原作小説があり、それは1970年代の作品らしいので本作は「地球全滅」のリメイクではない。だが、さらに調べてみると、原 作小説には第3の登場人物であるケイレブに当たるキャラクターは出て来ないらしい。当然、白人対黒人という対立も出て来ないということになる訳で、本作の 脚色はかなり意識的なモノであると考えられるのだ。そう考えると、本作の作り手が「SF地球全滅」を意識していたのは間違いないのではないか。あわよく ば、この題材で「SF地球全滅」的なテーマを描けるかも…と、内容を乗っ取ってしまった観もあるのだ。だからこそ、何となく本作の結末には胡散臭さが漂っ てしまうのかもしれないが…。それにしても、テレビで見てから40年近く経ってから再び「SF地球全滅」を思い出すことになるとは…個人的にはひどく感慨 深い映画体験だった。また、キウェテル・イジョフォー演じるジョンの女に対する言動のタイミングが、いちいち悪手ばかりなのには居たたまれなくなった。自 分も若い頃に女への対応がいちいち下手過ぎて、いろいろ残念な思いをしたことが思い出されたのだ(笑)。なるほど、だからオレはうまく女が口説けなかった んだなぁ。これじゃモテないわ(笑)。こういう事ってのは、ホントに何も考えずにすぐ手を出しちゃった方が「勝ち」なんだよねぇ。もっともその女とデキ ちゃうことが本当に「勝ち」なのかどうかは、またちょっと別問題なのだが(笑)。そんな女にまつわるアレコレは別にしても…本作では信心があるかないかが 登場人物の間で問題になっていたが、そんないろいろな要素で居心地悪くなったり立場が不利になったりということは、僕は実生活でいつも経験していたことな のでかなり身につまされた。いろんなことでいつの間にか見下されたりよそよそしくされたりって、実際にあるんだよねぇ。人間ってそういう事をやってくるか らね。全然そういうのが気にならない「鈍感力」がある人なら平気かもしれないが、僕はどうしたって気に病んでしまう。そういう意味でも、本作は個人的に見 ていて「共感」の度合いが強い作品となったのである。

さいごのひとこと

 主人公の要領の悪さが人ごととは思えない映画。

 

「ビューテュフル・デイ」

 You Were Never Really Here

Date:2018 / 07 / 23

みるまえ

  この映画については、ある知人から強く強く推されたために見に行った。主演はお久しぶりホアキン・フェニックス。監督は「少年は残酷な弓を射る」のリン・ ラムジー…とは言っても、僕はその作品を見ていないので何とも言えない。何となくこの作品の名も監督の名も聞いてはいたが、どういう作品かは分からない。 本作についても…どうやら一種の犯罪サスペンスものらしき雰囲気だが、どういう映画か想像がつかない。ハッキリ言って事前情報ほとんどナシで、僕は映画館 に飛び込んだ訳だ。

ないよう

 まっすぐ立て、しっかりし ろ…。脳裏をよぎるさまざまなトラウマ。ジョー(ホアキン・フェニックス)はビニール袋をかぶってベッドに横たわっているが、やがて苦しさに耐えかねて顔 からビニールをはぎとる。死ねない、死ねやしない。それは、同じようにビニールを被ったあの幼い日もそうだった。一息ついて、「仕事」に使ったカナヅチを 清める。血に汚れたティッシュはトイレから流す。ここはモーテルの一室で、ジョーは「現場」の片付けが済むとそそくさとその場を離れる。最初は正面玄関か ら出ようとしたジョーだったが、すでに通報が行っていたのか外にはパトロールカーが到着している様子。慌てず騒がずジョーはそのまま裏口へと向かい、そこ からモーテルの外に出る。ところが、暗闇に潜んでいた賊がいきなりジョーに襲いかかり、肩に棒で一撃をくらわせるではないか。しかしジョーはこれにも慌て ず騒がず、持っていたカナヅチを何度か振り下ろして撃退。こうしてその場を離れたジョーが辿り着いたのは、人けのなくなった夜の空港。ジョーはそこで飛行 機に乗る訳でもなく、公衆電話で「済んだ」と一言だけ連絡を入れただけ。すぐに空港を後にして、夜の街に去って行くジョーだった。そんなジョーがわが家に 戻って来ると、近所の家から若者がベランダからジョーを見下ろしているではないか。だが、若者は何か不吉なものを感じたか、ベランダから離れた。ジョーは その様子を黙って見つめながら、家に入って行った…。ジョーは老いた母親(ジュディス・ロバーツ)と二人暮らし。その日もベッドに横になりながらテレビで 映画「サイコ」を見ていて眠れなくなったという。そんな母親を、ジョーは優しく寝かしつける。しかし翌朝には、母親は洗面所に篭ってそこらじゅうを水浸し にしてしまう。そんなこともいつものこと。ジョーは「サイコ」のテーマを口ずさんで、例のシャワー・ルームの場面よろしくナイフを振りかざす仕種をしては みたものの、結局は黙々と洗面所の床を雑巾で拭いていく。母ひとり子ひとり、苛立っても仕方がないと達観しているような毎日、それがジョーの日常であっ た。さて、ジョーは街中の店に入って行き、その店主エンジェル(フランク・パンドー)からカネを受け取る。この男は、ジョーの「仕事」の仲介をウラ稼業に している人物。ジョーとの付き合いも長い。実は昨夜、ジョーの帰宅を目撃したのは、このエンジェルの息子。エンジェルは気にする必要はない…となだめる が、ジョーはどうしてもそれが気になって仕方がない。そんなジョーに、エンジェルは「仕事」の元締めに会わないか?…と提案する。正直言ってエンジェルの 息子に「仕事」帰りを見られたこともあり、ジョーもこの男と付き合いもこれまでか…と思い始めていた。じかに元締めと会うのもやぶさかではない。こうして 直接、元締めであるジョン・マクリアリー(ジョン・ドーマン)と会ったジョーは、そこで新しい「仕事」の話を持ちかけられる。こうしてジョーは、次の「仕 事」について依頼人から直接話を聞くことになった。その依頼人とは、上院議員のアルバート・ヴォット(アレックス・マネット)。彼の依頼は、攫われた自分 の娘ニーナの奪還である。「君は残忍だと聞いた」と尋ねるヴォットに、「時にはね」と答えるジョー。そんなジョーに、ヴォットは「相手を残忍な目に遭わせ てもらいたい」と怒りを噛み殺しながら訴えるのだった。ニーナが捕らえられているのは、ある売春宿。ジョーはその売春宿のある建物を張り込み、じっと外か ら様子を見張っている。やがてまたまたカナヅチを持参して建物に侵入。無駄のない動きで建物内を動くジョーは、中にいた用心棒どもを次々殺害。無事にニー ナ(エカテリーナ・サムソノフ)奪還に成功するが、肝心のニーナは放心状態でまったくの無反応に陥っていた。ともかくニーナを連れ出したジョーは、モーテ ルに部屋をとって休む。そこで連絡係と接触する手はずになっていた。だが部屋でテレビを見ていたジョーは、そこで例のヴォット上院議員の死を知って呆然。 そんなところに部屋に連絡員がやって来るが、彼はすぐ後ろから近づいて来た警官に頭を撃ち抜かれた。さらにやって来た警官がジョーを襲う間に、もうひとり の警官がニーナを攫ってしまうではないか。何とか警官を殺害したジョーは、慌ててモーテルを脱出。イヤな予感がしてマクリアリーの元を訪ねたジョーだった が、その予感は当たっていた。マクリアリーも、そしてエンジェルも、すでに殺害された後。ならば…と事態を察知したジョーは、自宅2階の窓から侵入。案の 定、母親もベッドで片目を撃ち抜かれて死んでいた。下の階に人けがあると感じたジョーは、静かに下に降りて行く。電光石火でそこにいた2人を撃ったジョー は、虫の息ながらまだ生きているひとりに事の次第を尋ねた。彼らは要人用のSPで、すべては州知事ウィリアムズの命令だった。ニーナはウィリアムズのお気 に入りだったのである。だが、愛する母親を失ったジョーには、もはや生きる気力がなかった。黒に身を固めたジョーは、母の遺体をクルマに乗せて山中の湖へ と向う。そこで母の遺体を抱きながら自らも入水しようとするが、水中で攫われたニーナの幻影を見たジョーは、次の瞬間に決意を翻した。服のポケットに詰め た石をすべて出して、水面に浮上。ジョーは湖から上がって、クルマに乗り込んだ。もちろん、行き先は決まっている。目指すのはすべての元凶、州知事ウィリ アムズの屋敷であった…。

みたあと

  本作については、「タクシードライバー」(1976)を引き合いに出す評が結構目につく。さもありなん。誰がどう見ても、設定その他に共通する要素が多い ことは間違いない。壊れてしまった主人公の話であり、暴力で何かを為そうとする人物の話である。少女娼婦の奪還というストーリーラインも重なる。かく言う 僕も、本作を見ていてまず思ったのは「タクシードライバー」のことだった。それと同時に、本作は「タクシードライバー」とは全然違う!…と主張する人たち も巷には多い。実は、それもよく分かる。もちろん両者はまったく別の映画だ。だからこんな言い方をしたら誤解を招くと承知はしているが、僕は本作を見て、 やっぱり公開当時に見た「タクシードライバー」の衝撃を思い出した。そのインパクトから言って、本作にはまるで「タクシードライバー」の21世紀バージョ ン…的な何かを想起させられたのである。本作は題材としてはジャンル映画のはずで、いわゆるクライム・サスペンスとかのはずなのに、まったく典型的な「そ れ」ではない。そうなるとアート系映画などにありがちな難解な作品ということになりそうなものなのだが、難解でもない。何とも形容し難い、実に不思議な映 画なのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  本作については、思いつくままポコポコと出て来る泡のようにつぶやくしかない。見ていてまるでヒリヒリしてくるような皮膚感覚の映画で、音楽がまるで音響 効果のようであり、かつ見る側にガンガン響くように迫って来るあたりも効果的。先に「皮膚感覚」と述べたのは、そういう点も含めてのことだ。例えば主人公 は「仕事」の際にいつもカナヅチを愛用しているのだが、それは「やられる側の痛み」まで感じたいから…ではないかと思われる。主人公は映画の冒頭近くでい きなり賊に不意打ちで襲われるが、まったくこたえてない。後で見ると結構なアザになっているのに、その時は微動だにしない。それは、彼の中で神経や感覚が 磨耗してしまって、痛みが感じられなくなっている…ということなのではないか。だからせめて、自分が他者に災いをもたらす時ぐらいは、その痛みを実感とし て感じたい…そんな設定らしいのである。邦題の「ビューティフル・デイ」は終盤近くのセリフから取られたものだが、原題は「You Were Never Really Here」…自分はここにいない、これは現実ではない…ということなのだろう。それくらい「リアリティ」を失ってしまった主人公なのだが、映画はそのあた りのことを見ている僕らに手に取るように感じさせてくれる。その点がまさに「皮膚感覚」なのである。だが、主人公の過去やバックグラウンドは、決してクド クド説明されてはいない。主人公はイラクだかどこだかの戦場で徹底的に精神をやられてしまったようなのだが、そのことは直接語られることはない。映画の導 入部分などは何が描かれているのかほとんど分からないくらいだ。だが、難解かというとそうではない。そのあたりのさじ加減が、実に非凡なのである。ありが ちなミニシアター系映画を狭苦しさを飛び越える、パワーやスケール感が感じられるのだ。優れた点は挙げようと思えばいくらでも挙げられる。自宅風呂場の前 で母親に苛立ちサイコの真似するくだり…いやぁ、これはよく分かる(笑)。女郎屋に侵入する場面では建物の監視モニターの映像をモンタージュしているのだ が、これがちょっとずつ時間をいじくっていて不思議な効果を挙げている。フワフワとした現実味のない感じとでも言おうか…。また、主人公は自宅を襲った男 二人を倒すが、そのうち片方は即死せずに虫の息でしばらく生きている。すると主人公はこの男から必要な情報を聞き出すだけでなく、二人で横たわったまま静 かに歌を歌ったりもするのだ! この歌は僕がまだ学生だった頃に大ヒットした「愛はかげろうのように(I've Never Been to Me)」なのだが、この歌をこんな風に使うあたりにも衝撃を受けた。いつまでも心に残りそうな場面ではある。また、女の子を奪還するために知事の家に気合 い充分で乗り込んで行ったら、もう殺されてて気が抜けて泣いちゃうあたりも実感があった。そんな風に、いちいち理屈でなく感覚で納得させられるような、非 常に珍しいタイプの作品なのである。リン・ラムジーの以前の作品は見たことがないので分からないが、今後は要注意だろう。何から何まですべてがユニークな 作品である。

さいごのひとこと

 カナヅチは使っても、水の中ではカナヅチじゃなかった。

 

「犬ヶ島」

 Isle Of Dogs

Date:2018 / 07 / 23

みるまえ

 アメリカの映画監督で、実写映画とともにコマ撮りのストップモーション・アニメ製作に熱心なのが、ティム・バートンと ウェス・アンダーソンである。後者のウェス・アンダーソンは「ライフ・アクアティック」(2005)の海中シーンをこのコマ撮りアニメで撮ったのに味を占めたのか、「ファ ンタスティック Mr.FOX」(2009)を全編アニメで製作。さらに「グランド・ブダペスト・ホテル」 (2014)に次ぐ新作として本作「犬ヶ島」もアニメとして製作した。毎度毎度豪華なクセ者オールスターを並べるアンダーソンだが、アニメを手がけても声 優がオールスターであることは変わらない。だが今回のミソは、何と舞台を日本にしていること。登場キャラクターの大半は犬でこれらは英語をしゃべるのだ が、人間側はほとんどが日本人で日本語をしゃべるという異色作。「ウェス・アンダーソンが日本への愛を込めて贈る」…云々という宣伝コピーは話半分にして も、ここまで日本色を濃く描くのはハンパじゃない。そして、いわゆる外国映画における「日本トンデモ映画」が大好物の僕にとっても、決して無視出来ない映 画である。そんな訳で、早速劇場へと駆け込んだ訳だ。

ないよう

  今から千年ほど前のこと、犬たちは自由を謳歌して勢力を拡大していた。猫を愛する小林家はこれに戦いを挑み無防備な犬たちを殺戮。いよいよ全滅かと思われ たその時、ある少年侍が敗走する犬たちに同情して、小林家の頭の首をはねた。戦が終わり、犬たちはもはや力がなくペットと化したが、その代り繁殖して栄え もした。だが、小林家は犬への恨みを忘れなかった…。今から20年後、ここは日本のメガ崎市。犬たちに原因不明の「ドッグ病」が蔓延し、人間への感染の恐 れが出てきた。そこでメガ崎市を統治する小林市長(野村訓市)は、市民たちを集めて公聴会を開いてこの件についての重大な発表を行うことにした。通訳のネ ルソン(フランシス・マクドーマンド)による英語同時通訳もつけての、公的な集会の開催である。ここで行われるのは、野良犬もペットの犬もすべて例外な く、ゴミの島である「犬ヶ島」に隔離してしまおうという決定。だが、一応民主的プロセスに従う形式をとるため、この決定に対する反対意見も聞くことになっ ていた。出席したのは、「ドッグ病」を研究している渡辺教授(伊藤晃)。渡辺教授は研究の結果、「ドッグ病」を治療できる可能性が出てきたと主張するが、 小林市長は耳を傾けない。その場に集まった市民たちの空気も、「犬の隔離」一色に傾いていた。こうして隔離が本決まりになると、小林市長はその象徴的な行 動として、自らの家で飼っていた犬であるスポッツ(リーブ・シュレイバー)を補佐のメジャー・ドウモ(高山明)にその場に連れて来させ、島への隔離第1号 として檻ごと運ばせてしまった。こうしてメガ崎市の犬という犬は、有無を言わさず「犬ヶ島」へと隔離されてしまったのである…。それから6か月。「犬ヶ 島」には腹を空かせた犬たちが、絶望に打ちひしがれて暮らしていた。そんな「犬ヶ島」に、シビアな状況を生き抜く5匹のグループがあった。その5匹とは、 かつて教師に飼われていたリーダー格の犬であるレックス(エドワード・ノートン)、ドッグフードのCMに数多く出演経験があるタレント犬だったキング(ボ ブ・バラバン)、高校野球チームのマスコット犬だったボス(ビル・マーレイ)、かつては女性の飼い主に大切にされていたゴシップ好きのデューク(ジェフ・ ゴールドブラム)、そして元から野良犬上がりのアウトロー体質で、少々荒っぽい気性のチーフ(ブライアン・クランストン)…という面々。ところがそんな5 匹の目の前で、平凡な日常を一変させるような出来事が起きる。どこからともなく飛んで来た軽飛行機が、「犬ヶ島」目がけてやって来たのである。前述したよ うな事情から、「犬ヶ島」に来ようとする人間などいないはずだ。驚く5匹たちの目の前で、軽飛行機は島に不時着。5匹は慌てて飛行機まで駆け寄ると、そこ に乗っていたのはひとりの少年である。実はこの少年アタリ(コーユー・ランキン)が「犬ヶ島」にやって来た経緯には、ちょっとした事情があった。アタリは 列車事故で両親を失い、天涯孤独の身。たまたま例の小林市長の遠縁にあたるため、市長に引き取られて養子となったのだった。自らも事故の大ケガで病床にい たアタリに「護衛犬」としてあてがわれたのが、「犬ヶ島」隔離第一号となったあのスポッツだったのだ。たった一人になってしまったアタリにとって、スポッ ツは大事な友だちとなった。だからアタリは、スポッツを取り戻すために単身「犬ヶ島」へとやって来たのである。それを知った5匹の犬たちは…レックスはじ めキング、ボス、デュークの4匹は、愛犬探しにわざわざやって来たアタリに大いに同情。何とか協力しようと決意する。だが、チーフは違った。彼はこれまで 野良犬として生きて来て、人間というものにはむしろ不信感さえ抱いて来た。だから、どうしても人間であるアタリのために一肌脱ぐ気にはなれなかったのだ が…。

みたあと
  本作は日本を舞台にした日本の話であり、何とセリフの多くも日本語である。オープニング・クレジットですら英語・日本語併記というスタイル。だから日本で は好意的に受け入れられているようで、評価も概ね好評のようである。宣伝コピーからして、「新しいのに懐かしい、“日本”が舞台のワンダフル!!アドベン チャー」とか、「ウェス・アンダーソン監督が日本への愛をこめて贈る」とか、そんな調子。外国人が日本をヨイショするのを見て溜飲を下げる、テレビの「日 本スゴい」番組みたいな推されようである。この受け入れられ方を見ると、本作は日本と日本人をひどくゴキゲンでイイ気分にさせてくれる作品のようである。 だが、果たしてどうか? 率直に言おう。劇場で接してみた実物の映画「犬ヶ島」は、実はそんな甘っちょろい作品などではまったくなかったのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  ハッキリ言って、ヤバい映画である。これを日本への愛…とか言って喜んでたら、相当おめでたい。それよりも、まるでシャレになってなくて見ていてショック を受けた。あまりに図星なので腹も立たない。自分あたりでもそれなりに分かっているつもりだったのだが、やはりどこか麻痺してるんだな…と痛感させられ た。むしろ…例えば最近の「万引き家族」(2018)への無茶な批判などを考えると、本作は日本では吊るし上げられるんじゃないかと心配になる。だが、な ぜかそうなっていないというのは、みんな内容を誤解してくれているからだろうか。実際には、まことにキツい映画である。確かにウェス・アンダーソンは「日 本への愛」とやらはあるようで、「七人の侍」(1954)のテーマ曲やら「酔いどれ天使」(1948)で使われたギター曲などが流れたり、ゴミの山みたい な舞台設定が「どですかでん」(1970)を想起させるなど、黒澤映画をはじめとするオマージュはかなり入っている。そもそも…ここに描かれている「日 本」に、従来の海外のトンデモ映画にあったようなムチャクチャさはない。多少トンデモ要素があるとしても、それは「あえて」やっているはずだ。ウェス・ア ンダーソンはかなり実際の日本を知ってるように見える。それは、文字通り良くも悪くも「知っている」ということなのだ。その「知っている」ことの中には、 空気を読まされる社会システムの重苦しさや権威の腐敗ぶり、そして何より大衆のいいかげんさ…などなども含まれているようなのである。ウェス・アンダーソ ンには悪気はないんだろうが、外からの目線でかなり的確に言い当てられちゃってて、まさに図星だからこそ笑えない。日本の社会と人々の問題点がヒシヒシと 伝わってきて、見ていてかなりヘコむのである。そうは言ってもアメリカ人の傲慢さもチラッと感じないでもなくて、ただ一人勇気を持って立ち上がるのがアメ リカ人留学生…ってところがねぇ。このあたりは、アメリカでも「日本をバカにしている」と問題になったようである。ただ、実際には「外国人ぐらいしか立ち 上がれない」のはズバリ図星だと言わざるを得ない。こちらとしては文句が言えない。困ったもんである。別にウェス・アンダーソンが日本社会を告発する気が なくてこうなったのなら、そっちの方が問題だ。上からの無能、無理難題を、下が黙々と言われるがままにどうにかしちゃうことで何とかなってきちゃった国だ から、まさにシャレになっていないのである。トホホホホ…。ストップモーション・アニメとしての魅力とか豪華声優陣の共演を楽しむとか、本作の面白さは他 にもたっぷりあるのだろうが、何より日本人である僕としては、その図星っぷりが衝撃でダメージがデカい。唯一よく分からなかったのは小林市長が終盤唐突に 改心することだが、あの得体の知れなさが外国人から見た日本人なのだろうか。それとも「ハンナ・アーレント」(2012)じゃない けど、それこそ「悪の凡庸さ」ってことなんだろうか。あれこそまさに本作最大のナゾである。

さいごのひとこと

 ヨイショされてないと気づけないことの方が怖い。

 

「ウィンストン・チャーチル
 /ヒトラーから世界を救った男」

 Darkest Hour

Date:2018 / 07 / 09

みるまえ

  今年のゲイリー・オールドマンがアカデミー賞で主演男優賞を取った作品。何だか最初から彼がガチガチの大本命みたいなムードが漂っていて、取って当たり前 な雰囲気。日本では映画ファン・レベルではまだ誰も作品を見ていなかったのに、アレは一体何だったのだろう。イギリスのチャーチル首相を描いた映画という 話も伝わっていて、特殊メイクを施した日本人アーティストもオスカーを受賞。となると、「そっくりさん」ぶりが評価されたということなのか。正直言って、 この作品に対する僕の食いつきは悪かった。毎年オスカーの演技賞はこうした有名人の伝記映画みたいのが候補にのぼるが、「そっくりショー」みたいな見事さ は分かるが、見てから長く経ってまで覚えているほど素晴らしい作品はマレだ。ジェイミー・フォックスのレイ・チャールズとかメリル・ストリープのサッ チャーを、今になっても見たいと思うかという話だ。正直、食指がそそらない。それでも劇場まで足を運んだのは、ゲイリー・オールドマンへのご祝儀みたいな ものである。

ないよう

 1940 年5月、ヨーロッパはナチス・ドイツの猛威に震えていた。東欧や北欧を制圧し、ベルギーやフランスももはや時間の問題。イギリス議会はヒトラーの台頭に手 をこまねいていただけのチェンバレン首相(ロナルド・ピックアップ)吊るし上げで、大いに紛糾していた。野党の労働党は挙国一致の連立内閣を提案するが、 その条件はチェンバレンの退陣である。それはもはやチェンバレン自身も避けられないと自覚しており、与党の保守党内部でも「後継」が模索されていた。チェ ンバレンが指名を考えていたのは、外務大臣のハリファックス(スティーヴン・デレイン)。だがハリファックスはこの状況に、慎重な態度を崩さなかった。ま た、野党側が求めていた首相候補も、ハリファックスではなかった。そこで挙がった名前はたったひとつ…だが、それはチェンバレンもハリファックスも、そも そも保守党全体でも望ましいと思っていない人物だった。その頃、ロンドンのある邸宅に、ひとりの若い女がやって来る。彼女エリザベス・レイトン(リリー・ ジェームズ)は、この邸宅で秘書兼タイピストとして雇われた人物だった。彼女を邸宅内に迎えた執事は、エリザベスにこれから仕える人物の気難しさについて 伝え始める。不安になっていくエリザベスは、ベッドで目覚めたばかりの「その人物」が佇む寝室へと連れて来られた。寝起きでいきなりヨーロッパの厳しい戦 況を聞かされ、不機嫌そのものの「その人物」は、いきなり前触れもなしにエリザベスに口述タイプを求める。だが、何しろ準備なしで言われたあげく「その人 物」の言葉の脈絡のなさ、発音の悪さも手伝って、思うようにはタイプできない。それを見た「その人物」は、いきなりエリザベスを罵倒しまくるではないか。 さすがに耐えきれなくなったエリザベスは、泣き出して部屋を飛び出してしまう。だが、階段を駆け下りるエリザベスの涙を、ちょうど帰宅した「その人物」の 妻クレメンティン(クリスティン・スコット・トーマス)が目ざとく見つけた。「あの人が言ったのね? キッチリ言ってあげないといけないわ!」…寝室に飛 び込んだクレメンティンは、「その人物」に向ってキッパリとたしなめるのだった。「近頃のあなたは傲慢で気難しいイヤな人物になってしまっているわ。これ からはそれではいけない」…なぜなら、「その人物」はいまやイギリス首相になるかという岐路に立っていたからだ。「その人物」こそ、戦乱に突入していくイ ギリスを強いリーダーシップで引っ張っていったウィンストン・チャーチルその人(ゲイリー・オールドマン)であった…。

みたあと

  本作を見ていて、さすがにゲイリー・オールドマンのこれまでの足跡を思い起こして、感慨にふけってしまった。考えてみれば、オールドマンを最初に見たのは 初主演作「シド・アンド・ナンシー」(1986)からだから、もう30年前になる。セックス・ピストルズのシド・ビシャスを演じたオールドマンは、僕らに 強烈なインパクトを与えた。その後、コッポラの「ドラキュラ」(1992)、リュック・ベッソンの「レオン」(1994)、著名な楽聖を描いた「不滅の恋 /ベートーヴェン」(1994)…とそのキレッキレな個性で注目を集めたが、いつしか「エアフォース・ワン」(1997)などハリウッドで悪役俳優として 重宝されるようになる。この時期はアニメの声優やっても「キャメロット」(1998)みたいに悪役だったから、徹底していたものだ。ただ、ご本人としては これは不本意だったようで、実際見ている側からもちょっとワンパターン化しちゃったかなとは思っていた。それが微妙に変わって来たのは、大ヒット・シリー ズに参加した「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2004)あたりから。これもまた悪役かよ…と思いきや微妙に違う面 を見せていくあたりが、ご本人の悪役イメージ払拭に大いに役立ったように思う。その後、「レイン・フォール/雨の牙」 (2009)では日本映画に出演しながらも「アレレ…?」な怪演を見せたりしてイマイチ不安定な感じではあったが、近年ではすっかり味わい深い芝居を見せ るようになっていた。ただ、どうしても脇に回る役どころが多くなってしまうので、「主役」を演じた作品は少なかったのが正直なところ。そういう意味では、 本作はオールドマン自身としてもチャンスだったし、会心の作品だったのではないだろうか。果たして本作は作品の出来はともかく、オールドマンを見る映画と しては素晴らしい出来映えとなっているのである。

みどころ

  誰しもが指摘するところだし、アカデミー賞まで取ってしまっているから今さら改めて僕がどうこう言うこともないのだが、やはりゲイリー・オールドマンは素 晴らしかった。特殊メイクの力を借りているとはいえ、誰もが知っているあのチャーチルに見えるから大変なものだ。しかも、「そっくりさん」という訳でもな い。当たり前のことながら、「ゲイリー・オールドマンのチャーチル」になっているから見事なのである。特にチャーチルが突然カメラを向けて来た報道陣に対 していきなりVサインを見せつける場面などは、あの「シド・アンド・ナンシー」でのシド・ビシャスの演技を彷彿とさせるところがあって、僕は個人的に嬉し くなった。また、どうしてもオールドマンばかりに話題が集中しがちだが、チャーチルの妻を演じたクリスティン・スコット・トーマスも見逃せない。最近では 「サラの鍵」(2010)での好演が 印象的だったが、僕はプリンス監督・主演の「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」(1986)での彼女も知っているだけに、感慨深いものがあった。そしてつ まらないことではあるが、「ダンケルク」 (2017)、「人生はシネマティック」 (2016)や「英国王のスピーチ」 (2010)などに描かれた、イギリス現代史の断面が本作にも描かれていて興味深い。それぞれの映画で描かれたエピソードの断片について、なるほどこうい う話の繋がり方をするのか…と納得させられるのである。たぶんそんな事は誰でも知っているのだろうが、無知な僕としては改めて感心させられた。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 では、本作全体にも大いに感心したかと言えば…確かに現代史の断面を巧みに切り取って描いた作品として面白く出来てはいる。ナチス・ドイツとの妥協を模 索する方向で動いていたイギリス政界のなかで、ひとりヒトラーとの徹底抗戦を貫いたチャーチルの英雄的な姿勢を賞賛するお話として、大いに盛り上がる作り 方になっている。大衆映画としてはうまく作られているんだろう。ただ、この時点でヒトラーやナチスドイツの本質を誰もがどれだけ知っていたのか…といえ ば、今日の我々には明白に分かっていることも、実際はチャーチルを含めてどれほど分かっていたのか怪しいところではないだろうか。また当然のことながら、 この戦争の行方がどうなるのかということにしても、当時は分かっているはずがない。つまり、ここで英雄的に描かれていることは、すべて「結果論」でしかな い。それをまるで「ロッキー」(1976)のような恐るべき単純さで描いてしまった作品が本作なのだと思う。実際にはこんなに単純明快で盛り上がる話な訳 がないのだ。このあたり、「プライドと偏見」 (2005)や「つぐない」(2007)のジョー・ライト監督は、どうもモノの見方が単純単細胞過ぎる気がする。そもそもジェーン・オースティンの有名な 作品を「プライドと偏見」として映画化するにあたって、冒頭からいきなりキーラ・ナイトレイに本を持たせて「向学心にあふれた知的な女」と見せる、まるで 芸のない「まんま」演出をやらかした男だ。この人には、どうやら含蓄とかそういう概念はないみたいなのである。そんな男が現代史みたいな複雑なモノを安易 に扱ってはいけないように思う。少なくともクリストファー・ノーランが「ダンケルク」で見せた冷静な視点が、ここには完全に欠けている。ハッキリ言って、 ちょっと頭が悪そうな映画に見えるのだ。結局、本作はゲイリー・オールドマンを見るため「だけ」の映画だと言うべきなのである。

さいごのひとこと

 発想はエクスペンダブルズと大差なさそう。

 

「女は二度決断する」

 Aus dem Nichts (In the Fade)

Date:2018 / 07 / 09

みるまえ

 ダイアン・クルーガーといえば、ドイツ出身の美人女優である。リュック・ベッソン・プレゼンツの「ミシェル・ヴァイヨ ン」(2003)に出たかと思ったら、アッという間にブラピのスペクタクル史劇「トロイ」 (2004)でハリウッド上陸。ただ、正直クール・ビューティーではあると思ったが、所詮はモデル上がりの人。芝居のうまい女優さんとはまったく思わな かった。だが、それに続く「ナショナル・ト レジャー」(2004)では軽妙な味を見せ、「敬愛なるベートーヴェン」 (2006)ではなかなか達者なので「アレッ?」と思わされた。だが、その後もコンスタントに「イングロリアス・バスターズ」 (2009)、「ミスター・ ノーバディ」(2009)、「アンノ ウン」(2011)…と作品が続くが、正直やはり「美人女優」ワクの人だと思っていたわけだ。ところが今回は、作品の 佇まいからして違う。夫と息子を爆弾テロで失った女の話というあたりからして、これまでの彼女のフィルモグラフィーとは様変わりだ。そもそもこの作品が ファティ・アキンの監督作という時点で、佇まいが違う訳だ。このトルコ移民出身のドイツの監督は、「ソウル・キッチン」(2009)などで名前は知ってい た。残念ながら僕は縁がなくて今まで作品を見ていなかったが、映画祭で受賞したなどという話題で名前ぐらいはよく聞いていたのだ。正直言って、従来のダイ アン・クルーガーの出演作とはちょっと違う。おまけに、本作でカンヌ映画祭の主演女優賞を取ったというから、只事ではない。だが、そうなってくるとちょっ とイヤな予感もしてくる。美人女優で名高い女優さんは、どうしてもどこかで演技を評価されたくなる。それで過剰な熱演をやらかし、周囲もそれを誤解して賞 賛するというイヤ〜なパターンになる訳だ。本作だってそんなところじゃないの? やたら暑苦しい熱演見せられて辟易しそうなんだよな。だからちょっと本作 にはドン引きだったのだが、ある知人からオススメと聞いて見ることにした。そろそろ劇場も先細ってきたある日、銀座まで見に行った訳である。

ないよう

  刑務所の檻の中から出て来た男が、他の囚人たちのやんやの声援を受けて颯爽と歩いて来る。やけにめかした格好だが、どうも「出所」ではなさそうだ。誰かが ラジカセでテンプテーションズの「マイ・ガール」を流して、これをBGMに刑務所内の広間にやって来ると、そこには花嫁衣裳の女と介添人の友人たちがい た。今日はこの新郎・トルコ系移民のヌーリ(ヌーマン・アチャル)と生粋のドイツ女カティア(ダイアン・クルーガー)の獄中結婚式である。幸せそうな二人 の指輪交換は、お互いの指に彫られたタトゥーの指輪だ…。それから時が経って…ヌーリとカティアの間には可愛い息子ロッコ(ラファエル・サンタナ)も生ま れ、幸せな日々を送っていた。そんなある日、カティアは友人ビルギット(サミア・ムリエル・シャンクラン)と出かけるため、ヌーリの会社の事務所にロッコ を預けに行く。出所後のヌーリはヤバい稼業からすっかり足を洗い、自分で外国人相手の事業を興していたのだ。カティアが事務所を出て来ると、たまたま事務 所の前に自転車を停めたまま、カギもかけずに離れようとしている若い女がいた。カティアはその女にふと「自転車が盗まれちゃうわよ」と声をかけるが、女は 「すぐ戻るから」と意に介さない。カティアもそんな女の返答に何ら疑問も抱かず、その場を離れて行った。それが後にカティアを悩ませることになるとは、そ の時はまったく思っていなかった。ビルギットと合流したカティアは、スパでゆったりとくつろぐ。カティアは脇腹に入れた「サムライ」タトゥーをビルギット に見せて、ヌーリが嫌がるから「これが最後」と語る。なるほど、カティアのカラダにはあちこちタトゥーが入っているではないか。それは、彼女がヤンチャを していた名残でもあった。こうしてすっかり気分一新して、ヌーリの事務所へ戻ろうとするカティア。だが、何があったのか周囲は多くの人だかりが出来ていて 騒然。おまけにパトカーや警官がやたらに目に付く。イヤな予感がしたカティアが事務所に近づこうとするが、群衆や警官が多くて前進もままならない。聞けば 「爆発事故」があったというではないか。慌てて駆け出してみると、そこにはもはやガレキの山となったヌーリの事務所が…。降りしきる雨の中を捜査官に連れ られて自宅に戻ったカティアは、彼らにヌーリとロッコの歯ブラシを託す。そのDNA鑑定の結果、ふたりの死亡が確定した。カティアは失意のドン底へと突き 落とされる。だが、その場にやって来たレーツ警部(ヘニング・ペカー)は、「犯人を捕らえるため」と言ってカティアに執拗に質問を投げかける。その内容た るや、まるでヌーリに事件の原因があるかのような尋ねようである。さすがにカティアがそれに耐えかねた時、不意に例の自転車の女のことを思い出した。そう いえば荷台に箱が載せてあった…。だが、そんなカティアの訴えはレーツ警部に届いたかどうか。外にはカティアの気持ちを察したかのように、ひたすら冷たい 雨が降り続いていた…。翌朝のニュースでは、もっぱらヌーリの前科を重視するような報道ばかり。カティアの気持ちは逆なでされる一方だ。知人の弁護士ダ ニーロ(デニス・モシット)を訪ねたカティアは、彼に悶々とした気持ちをぶつけるように「ネオナチ」が犯人だと訴える。そんなカティアを見かねたダニーロ は、手元にあったちょっとしたクスリを彼女に渡すのだった。そこでカティアは自宅に戻ってから、悲しみを癒すべくクスリを使ってみる。だが、それがマズ かった。何とも悪いタイミングで、捜査員がカティアの自宅に乗り込んで来る。彼らはあくまで、ヌーリの死はクスリを巡る報復というセンで捜査していたの だ。カティアはクスリは自分のモノで、ヌーリは関係ないと主張。だが、それはいかにも説得力がない言い分だ。「ヌーリのモノだと言えば良かったのに」と口 走る自分の母親にも、不信感が募る。義父母も遺体をトルコに持って帰りたいと言い出し、カティアの心痛には思い至らない。こうなると、心配して付き添って くれる親友ビルギットの存在さえ鬱陶しい。カティアは心配して集まって来た人々すべてを帰し、自宅にひとりで引きこもった。あの日から、ひたすら雨ばかり が降りしきる。湯船に浸かったカティアが、手首を切ってこの世を去ろうと目を閉じたその時…いきなり電話が鳴り出すではないか。それは何よりもカティアが 待ち望んでいた知らせ…爆破事件の容疑者として、ネオナチの男女が逮捕されたという報告だった…。

みたあと
 移民問題と テロ…という、ヨーロッパの映画としては非常にタイムリーな題材。まったく人ごとみたいな平和ボケ丸出しのことしか言えないが、この映画に関しては率直な ところそんな印象しかなかった。そして、実際にもそういうお話ではあったのだが…実物を見終わった印象は、映画としてパワフルでよく出来ているということ に尽きる。政治的なメッセージなりを感じ取ろうとすると、見ている人それぞれでいろいろに取れる内容で、かつ作り手もそれを意図しているように思える。作 者であるファティ・アキン自身のインタビューでの発言なども、だからあまりアテにはないように思える。これを言ってしまうと怒られてしまうかもしれない が…実際のところ、本作は「メッセージ」を発信するということ自体が第一目的ではないのかもしれないのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 本作については語りどこ ろが多いのだが、この手の作品にありがちな「典型」から逃れている…という点をまず挙げなくてはならないだろう。映画の冒頭から見ていれば分かるように、 実は本作で犠牲になるヒロインの夫は、いわゆる「善良」で「品行方正」な人物ではない。いや、被害に遭った時点ではそうだったかもしれないが、世間的に見 れば「いい人」には見られるのは難しいだろう。何しろ麻薬の売人として捕まり、服役した人物なのである。そんな男と「獄中で結婚」するヒロインも大概であ り、冒頭からカラダのあちこちにタトゥーを入れていることがハッキリ明示されている。タトゥーを入れているからよろしくない人物だというのは偏見だろう が、正直に言って「真面目」な人物と見られるかと言えばそれは「否」だろう。そんな二人が知り合った背景も、大体想像がつく。夫と息子の死によって気落ち したヒロインが、ついつい「クスリ」に手を出してしまうあたりも、いわゆる「いい人」の範疇からは逸脱しているだろう。本作ではそのあたりが仇となって、 ヒロインは追いつめられ、事件の裁判もどんどん不利な状況になっていく。だがそのあたりの理不尽さを告発するためにそういう設定にしたのかと言えば…確か にそういう要素もあっただろうことは否定できないが、それが主たる目的ではなかったように思えるのだ。例えばこの手のドラマを描く場合、一般的には主人公 たちを思い切り「善良」に描くのが定石であろうと思われる。その方が観客の共感を集めやすく、かつ「そんな善良な人がこんなひどい目に遭った」…というこ とで悲劇的要素を高めやすい。怒りや悲しみという感情的な要素を盛り上げやすい訳だ。だが、それは非常に単純な感情操作であるとも言える。素朴であり、実 はちょっと幼稚だ。また、ひたすら「善良」さだけを強調した場合、その人物たちから著しくリアリティが欠落するというマイナス部分もある。実際には、我々 はそんなに「善良」でもなければ「品行方正」でもないからである。それ故に「善良」さだけを強調されると、ひどく「キレイごと」で「ウソ臭く」見えてしま うのだ。このあたりの雰囲気については、引き合いに出しては申し訳ないが、例えば韓国映画「ブ ラザーフッド」(2004)の冒頭部分などを想起していただ ければお分かりいただけると思う。本作では主人公たちのネガティブ要素もあえて見せていくことで、主人公たちの「リアリティ」を生々しく見せていく。しか も、そのヒロインをダイアン・クルーガーに演じさせたことが効いている。クール・ビューティーのクルーガーが演じているからこそ、少々ハスッパなところも あるヒロインが、大多数の観客にとってついていけなくなるほど「よろしくない女」には見えない。タトゥーもクスリも、せいぜいちょっとハメをはずしたヤン チャ程度に見える。これはなかなか絶妙な計算である。クルーガーが演じているから、どうしたって下品で下卑た女には見えないのだ。逆にこういう設定だから こそ、整った美人のクルーガーでもシラジラしい「キレイごと」に見えて来ないという相互関係になっているのである。まさに絶妙のバランス。これによって、 我々はヒロインに深い感情移入ができる訳だ。またリアリティという点では、「事件」後に延々冷たい雨が降りしきるという描写が実に「感じ」を出している。 実際には事件が起きて以来何日もずっと雨ばかり降っているというのはなかなかないことだろうが、ここでは現実のリアリティではなく感情におけるリアリティ を優先したとでも言うべきだろうか。とにかく降りしきる雨の陰鬱さ、冷え冷えとした感じが、ヒロインの心象風景とピタリと重なって効果を出している。もう ひとつうまいと思ったのは、お話が後半に移ってから。裁判を不調に追いやったギリシャのホテル支配人の身辺を、ヒロインが探るあたりの緊迫感がスゴい。サ スペンス映画としてもよく出来ているのだ。本作は世間ではいわゆる「問題作」として扱われていて、監督もこういう人だから「移民の代表」とか「移民のス ポークスマン」的に見られがちで、どうやら本人もそう自覚しているらしい。そのため、どうしても「社会派」作品を作ったような発言をインタビューでしてい たりするのだが、それって本当にホンネなんだろうか。おまけに公に対してはタテマエとして「復讐は何も生まない」という風に言わなきゃいけないから、本作 の結末とは明らかに矛盾した発言になっちゃったりしている。言ってることとやってることが違うだろ…みたいで、何だか変なのだ。これは本作を社会的なメッ セージとしちゃうからおかしくなるのであって、本来は「移民」とか「テロ」とか、そんなことに対するメッセージ映画を撮るつもりじゃなかったんじゃないの か。僕はどう考えても、人間としての「矜持」というか…そんなようなものを描こうとしているようにしか思えないのだ。一度復讐を試みながら止めたヒロイン が辿 り着く結末を見ると、そういう風に感じざるを得ない。これを社会派メッセージとしちゃうから、ファティ・アキンも訳の分からない苦しい弁解をしなくちゃな らなくなるんじゃないのか。もっとも、ファティ・アキン自身もそう受け止められるような誘導をしちゃっているからいけないのだが、この人の立場としてはそ ういう発言を期待されちゃっているのだろうし、商業的にもそういう作品と見せかけた方が「問題作」として商売になるのだろう。だが、それはこの作品本来の 目 指しているところではないように思う。いろいろな意味で際どい作品だが、そういうこととは関係なしにヒロインの「おとしまえ」の付け方と、それを演じるダ イアン・クルーガーを見る映画になっているのである。

さいごのひとこと

 ヒロインは侍スピリットを誤解してそうだが。

 


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