新作映画1000本ノック 2018年4月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「時間回廊の殺人」 「ヒューマン・ハンター」 「ラッキー」 「フェリーニに恋して」 「マンハント」

 

「時間回廊の殺人」

 House of the Disappeared

Date:2018 / 04 / 16

みるまえ

 ソル・ギョング主演の「殺人者の記憶法」 (2017)を見に行った映画館はほぼ「韓国映画専門館」と化している映画館なのだが、そこで予告編を見てチラシを手に入れたのが、この映画である。どう やらミステリーもの。だが、ホラーやスリラーが入っているのかもしれない。タイトルがまたスゴくて「時間回廊の殺人」と来る。予告編を見るとどうやら超自 然的現象が起きるようにも感じられるから、ひょっとするとタイムスリップやパラドックスなどが絡むSFなのかもしれない。…などなど、妄想が膨らむ作品 だ。そして本作は、「シュリ」(1999)のヒロインとして強烈な印象を残したキム・ユンジン主演作でもある。彼女を見るのは久々ではないだろうか。これはどうしても気になる。面白そうな空気を醸し出しながら不発…という前例は、「黒く濁る村」 (2010)など韓国映画には数限りなくある。正直言って、予告編を見ていた段階からショボい結果に終わりそうな予感はあった。だが、どうしても本作を見 たい欲求からは逃れられそうにない。キム・ユンジンからまだ韓国映画が良い意味で熱かった頃の雰囲気を味わいたい気分も手伝って、僕は本作を見に劇場へと 飛んで行ったのだった。

ないよう

 それは、激しい嵐の晩だっ た。郊外の一軒家で、その「事件」は起こった。気絶して倒れていた女ミヒ(キム・ユンジン)は意識を取り戻すと、慌てて息子を探し始める。どうやら何者か に襲われたらしく、彼女が意識を失っている間に息子の姿が消えたらしい。やがて恐る恐る地下室へと降りて行くが、そこにいたのは、刺されて血を流している 夫チョルジュン(チョ・ジェユン)。彼はミヒの目の前で息絶えた。ところが次の瞬間、地下室の奥に開いた扉の向こうで、息子ヒョジェ(パク・サンフン)が ミヒに助けを求めるではないか。だが、すぐにヒョジェは後ろから引っ張られるように姿を消し、扉も閉じてしまう。慌ててミヒが扉を開けてみても、そこには 壁があるだけだ。愛する息子を目の前で奪われてしまったミヒは、悲嘆に暮れて泣き叫ぶ…。嵐が上がった翌朝、ミヒは駆けつけた警察によって、夫と息子殺害 の疑いで逮捕された。あまりの悲しみのため、抜け殻のようになって連行されて行くミヒ。彼女は無罪を訴えるが聞き入れられず、息子ヒョジェの遺体が見つか らないまま、ミヒは殺人の罪で服役することになるのだったが…。それから25年、すっかり髪が白くなったミヒが、仮釈放されて例の家に戻って来る。刑事た ちに連れられて「わが家」に戻ったミヒが一人きりになったとき、家の中に明らかに「何者か」の気配が感じられるではないか。そんな時、すでに知り合いなど いないはずのミヒを訪ねて、ひとりの若い男がやって来る。そのチェ神父(オク・テギョン)は、ミヒの身の回りの助けや心のケアをするために訪れたという。 だが、ミヒは心を閉ざすばかり。チェ神父もチェ神父で、単にミヒのケアをするといううより、真相を探りたがっているようにも見える。そんなこんなで、ミヒ はチェ神父を早々に家から追い出したのだった。だが、何より「真相」を知りたがっているのはミヒ自身。彼女はこの家に漂う不穏な気配に怯えながらも、25 年前の事件の発端を回想し始める…。あの頃、ミヒたち一家「4人」は、とにもかくにも平々凡々と暮らしていた。ミヒはありふれた専業主婦。前の夫と死別し た後で再婚したチョルジュンは刑事で、仕事のせいで気持ちが荒むのか、多少粗暴な言動が目立つようになってはいたものの、それ以外は至って普通な庶民生活 である。気がかりといえば…チョルジュンが連れ子のヒョジェと自分の実子である弟チウォン(コ・ウリム)との間で、接し方にあからさまに差をつけているこ とだろうか。そして、もうひとつはこの家のこと…。ある日、ヒョジェとチウォンが偽コインを使ってゲームをやっていたのを見つかって、駄菓子屋の婆さん (キム・ミンジョン)がミヒのもとに文句を言いにやって来る。だが婆さんはこの家に上がると表情が一変。すぐに立ち去ろうとするだけでなく、ミヒに一言忠 告するのだった。「早くこの家を出た方がいい」…。
ここからは映画を見てから!

みたあと
 結果からいえば、本作はホラーであった。一見サスペンス・ミステリーに見えるのだが、すぐに超自然現象が出てくるホラーであることが分かる。しかも本作 は、化け物や亡霊が出て来るホラーではなく、異次元空間みたいなモノをはらんだ「お化け屋敷」ホラーなのである。途中から真相解明に話が進んで行くと、そ れまでの怪奇現象の伏線がどんどん回収されていく。そのあたりは、一応「なるほど」と思わされる巧みさがある。監督のイム・デウンも脚本のチャン・ジェ ヒョンも元々がホラー作品を手がけていたようだから、そのあたりは手慣れたものがある。しかし、だからと言って見終わって面白いか、感心するかといえば、 それは別問題だ。

こうすれば

 確かに巧みに伏線は回収されるのだが、本作の一番のキモである「どうしてこの家ではそんな異変が起きるのか?」についてはまったく理由が明かされない。 そのため、ヒロインらはただただ理不尽な目に遭って不幸なまま終わる。だから、後味がメチャメチャ悪い。彼らがなぜそんな目に遭わなければならなかったの か?…という理由や、なぜその家にはそんな事が起きるのか?…という訳がいくらかでも明かされれば、まだアンハッピーエンディングでも納得がいっただろ う。ただただ、気分が悪いまま終わるのである。しかも、家の中にある「あちら」の世界からこちらの現実世界に戻って来るメカニズムがよく分からない。何と なく矛盾もあるような気がする。また、キム・ユンジンが仮出所で出て来ると白髪になっているのだが、これがドリフのコントみたいなカツラなのも興ざめだ。 ギャグにしか見えないのである。そんな調子で、この映画はどこかうまくいっていない。ただ、ヒロインの夫が刑事でやたらに荒んでいること、どうもかつては それほどではなかったこと…などがちょっと気になる。事件が起きた時代背景は1992年11月となっているようで、この年の年末には韓国で大統領選が行わ れたらしいので、それが何らかの影を落としているのだろうか(ちなみにこの大統領選は最終的に金泳三が勝った選挙で、これによって長年続いた軍人政権が終 わりを告げている)。考え過ぎかもしれないが、刑事の夫の荒み具合がちょっと強烈なので、気になったのである。ただ、やはり映画としては「怖がらせのため の怖がらせ」に終始し、最後にチェ神父の正体が明かされるのも、一頃の韓流映画に流行っていた「衝撃のエンディング」と同様に思えてしまう。確かに驚かさ れはするのだが、だから何なんだ…と言いたくなってしまう。この「お化け屋敷」自体もそれで何かを描くテコにするという訳でなく、単に脅かしたり伏線を 張ったりするための装置でしかないという印象なのだ。キム・ユンジンのカツラがドリフのコントみたいに見えるのも道理で、何かの感情やドラマを描こうとい う意図が見えないのである。

さいごのひとこと

 遊園地のお化け屋敷より空疎。

 

「ヒューマン・ハンター」

 The Humanity Bureau

Date:2018 / 04 / 16

みるまえ
 ニコラス・ケイジ主演作というと、何となく察してしまう。アカデミー賞受賞者にも関わらず、作品数は膨大。毎年コンスタントに主演作がやって来るが、そ の水準が近年すこぶる落ちて来ていることは認めない訳にいかない。特にここ何作かの出来はシャレにならないレベル。そんなニコラス・ケイジの最新主演作は、近未来SFと来た。資源が枯渇し人々が統制された管理社会を舞台にした、い わゆる「ディストピア」ものだ。もう見る前からいろいろと分かってしまうのだが、それでもニコラス・ケイジのガラクタ主演作が好きでSF映画を好きな僕に とっては御馳走。結構楽しみにして、劇場にイソイソ駆けつけた訳だ。

ないよう

 2030 年、地球は環境破壊、資源の枯渇、食糧の不足…によって未曾有の危機を迎えていた。アメリカは厳しい管理社会となっており、「人民省」が人々を統制してい た。特に社会に不要と見なされた人々は、「ニュー・エデン」という収容地区に強制的に移住させられる。そんな人々の強制移動や処分を仕事とするのが、「人 民省」のエージェント。今まさにそのエージェントのひとりノア・クロス(ニコラス・ケイジ)が、いわゆる安全地帯を抜けて人けのない荒野を一路クルマを走 らせていた。彼の今回の使命は、もちろん不適合者の「ニュー・エデン」への排除だ。うらぶれた町の安ホテルにやって来たノアは、ホテルの主人の蔑んだ視線 を浴びながら、目当ての人物が暮らす部屋へとやって来る。そこにいたのは、くたびれたひとりの老人だった。ノアはこの老人に「ニュー・エデン」への移住を 通告する。だが老人は、その言葉への怒りを隠さない。かつて老人は、ホワイトハウスで大統領と会食するような地位だったこともあった。それがどうしてこん なことに…。「私は真実を知っている、ニュー・エデンなどには行くものか!」…老人は銃を持ち出しブッ放すが、それはノアを襲おうとしたホテルの主人に当 たった。そして次の瞬間、老人はノアの銃弾の餌食となった。ノアは任務を遂行したが、そこには何となくやりきれない思いが残った…。安全地帯の都市部にあ る「人民省」に戻ったノアは、上司であるアダム(ヒュー・ディロン)に「ニュー・エデン」について尋ねてみた。一体そこには何があるのか? だが、アダム からの明快な答えはなかった。ただ、任務を遂行しろとの言葉が返ってくるだけだった。そんなある日、再び任務で安全地帯の外部へと赴くノア。そこは、一組 の母子家庭が住む一軒家だった。出迎えた母レイチェル(サラ・リンド)と息子ルーカス(ジェイコブ・デイヴィーズ)は、明らかに怯えていた。家の家計を調 べるノアに、レモネードを振る舞うレイチェル。しかしノアは、ルーカスがそんな贅沢品にありついていないことを、即座に見破っていた。非生産的存在ではな いと必死にアピールして「ニュー・エデン」行きを免れようとしていたレイチェルの苦労も、ベテラン・エージェントのノアの目はごまかせない。しかしノアは 母子を連行せずに、ひとりで安全地帯へと帰って行った。そんなノアの不自然な行動を、上司アダムが見逃しはしなかった。アダムに例の母子の件で詰め寄られ たノアは、息子の歌の発表会が間近に迫っていたため、それを待って連行することにしたと答える。しかし、エージェントとしてのそれまでの優秀な成績に免じ て、今回に限りノアの行動を大目に見たアダムだった。そんな折り、ノアはある知人から「ニュー・エデン」に関する衝撃的な事実を教えられることになるのだ が…。

みたあと
 映画が始まってすぐ、ニコラス・ケイジ扮する「人民 省」エージェントの「仕事」が描かれる。その様子を見ていて、僕は何とも言えない既視感に襲われた。自分が仕留めることになるターゲットの住まいを訪れ、 淡々と相手を連行することについて述べていくケイジ。ジワジワと緊張感が高まっていくうち、ついにその緊張が破れる瞬間がやってくる。ここまでの一幕を見 ていて、すべての設定が一致するという訳ではないのだが、何となくどこかで見たような場面であると感じてしまった。そう…この冒頭部分、何となくあの「ブ レードランナー2049」(2017)の冒頭部分と酷似した印象を受けるではないか。果たして制作時期や公開時期的に両者が関係しているのかどうかは分か らないけれど、あまりに似ているのだ。そういえばケイジの役柄も「ブレード〜」のライアン・ゴズリングと同様に政府のエージェントなのだった。なるほど、 似るのも道理なのである。

こうすれば

  という訳で、冒頭部分から「ブレードランナー2049」を強烈に連想させる本作。ただし、単に似ているという訳ではない。問題の冒頭部分でいうなら、「ブ レードランナー2049」を「超低予算で再現」したような出来映えなのである。とにかくカネがかかっていない。未来都市は遠景から見た「書き割り」みたい なモノしか画面に登場せず、後はほとんど室内。「人民省」のメンバーもせいぜい10人ぐらいしか出て来ない。後は荒れ果てた田舎の原っぱや廃墟だけであ る。低予算も低予算、まるで自主制作映画並みのショボさなのだ。とてもじゃないがアカデミー賞受賞俳優、一時はジェリー・ブラッカイマー製作の大作映画に も主演していたニコラス・ケイジが主演するような映画じゃないのだ。もっともそのケイジ自身、近年は出演作が粗製濫造のきらいがあり、出来映えもトンデモ 航空パニック映画「レフト・ビハインド」(2013)あたりから、かなり怪しいモノになってきていた(そういや先に名前を挙げたジェリー・ブラッカイマー も、近年じゃスッカリ影を潜めてしまっている観があるくらいだ)。だから、今の「ニコラス・ケイジ映画」としては似つかわしいモノなのかもしれないが…。 そして、あまりに低予算なものだから、SF映画として「肝心」なところまでが痩せてしまっている。映画の中盤でケイジ扮する主人公が「ニュー・エデン」の 正体を知って愕然とするのだが、その「正体」を視覚的に表現できなかったのが、本作で最大の残念な点。本来ならここで観客に衝撃を与えられるはずなのに、 まったく不発なのだ。その場面に限らず、本作全体にまったくサプライズがない。ただ予想できるストーリーラインに向って話が淡々と進むだけで、ディストピ アを描く未来SFに衝撃がないというのはさすがにマズいだろう。

みどころ

  だから一般の観客の本作への評価は、かなり低いモノにならざるを得ないだろう。とにかく貧寒な出来映えにしか見えない。ただその一方で、実は僕としては本 作をあまりキライになれない。あまりに低予算で寒々しいことや、映画としての視覚的衝撃に乏しいこと、お話にサプライズがないこと…については十二分に承 知しながらも、意外に本作が手堅くキッチリ作ってあるのは間違いないからだ。あまり面白味はないと認めざるを得ないが、何とか低予算で未来SFを作ろうと している努力は分かる。ケイジ自身もいつものように目をひんむいての怪演は影を潜めており、抑えめな感じだ。演出も脚本も誠実に作っていることは間違いな い。ただ、その結果、かなり地味な作品にもなってしまっているのだが…。個人的にはメチャクチャにカネがない中を何とかかんとか未来SFを作ろうとしてい るあたり、かつて素人8ミリ映画を作っていた自分としては、その出来映えとは関係なくどうしようもなく共感してしまうのだ。

さいごのひとこと

 ショボくなる一方のニコラス・ケイジ映画。

 

「ラッキー」

 Lucky

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

  名優にして名脇役のハリー・ディーン・スタントンが、昨年9月に亡くなったニュースは衝撃的だった。だが、もうかなり前から高齢だった印象もあるし、そも そも近年は日本に来る作品数も激減していたから、何となくもうそろそろだよなと納得しちゃったところもある。そんな彼が晩年に主演作を残していたと知り、 ビックリ。それがこのタイミングで日本公開となった。その名も「ラッキー」。どう見ても小品だが、その佇まいが万年脇役だったスタントンに合っている。主 演作といえば、ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(1984)ぐらいしか思い浮かばないからなぁ。そんなスタントン主演作は、上映時間も90分に 満たないという超コンパクトな作品。これがまたこの人に合っている。近年の僕の生理的にも、短い映画はいい。これは見るしかないだろう。

ないよう

  西部の荒野。よく見ると大きなリクガメがゆっくりと移動中である。そんな荒野の真っただ中にある小さな町に、ラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は 一人で住んでいた。枯れ木のような風貌のラッキーは、高齢にも関わらず毎朝目が覚めるとラジオをつけて、コーヒーを飲み、下着姿で運動を始める。ヒゲを剃 り髪を整え、キチンと身繕いをして出発だ。行く場所も決まっていて、馴染みのダイナーである。店の主人ジョー(バリー・シャバカ・ヘンリー)と憎まれ口を 叩き、ウェイトレスのロレッタ(イヴォンヌ・ハフ・リー)にコーヒーを入れてもらう。そして店のカウンターでおもむろに新聞を広げ、クロスワード・パズル に興じる。だが、ほとんど思いつかず、人に聞いてばかりだ。ダイナーを出ると、これまた毎度同じ店に立ち寄る。ここで毎日飲むミルクとタバコを買うのだ。 ラッキーは高齢でもタバコをやめようという気はない。メキシコ系の店員ビビ(バーティラ・ダマス)も顔なじみである。自宅に戻ると、楽しみにしているテレ ビ番組を見る。見ながらまたしてもパズルだ。だが、やっぱり分からないので、電話して人に尋ねたりする。夜になると、これまた行きつけのバーにやって来 る。店のママであるエレイン(ベス・グラント)と同棲しているかつての伊達男ポーリー(ジェームズ・ダーレン)やハワード(デヴィッド・リンチ)といった 常連客と、ブラッディ・マリアをなめなめ気の置けない会話を楽しむ。その日は、ハワードが飼っていたリクガメに逃げられて意気消沈していた…。これがラッ キーの日常だ。十年一日のごとく変わらない。ところが、そこに変化が起きたのがある日のこと。朝、目が覚めて、調子が悪いコーヒー・メーカーを見つめてい るうちに、それは起きた。なぜだか分からないが、ラッキーは気が遠くなって突然その場で倒れてしまったのだ。慌てて医者に看てもらったラッキーだが、医者 のニードラー(エド・ペグリー・ジュニア)に言わせると異常がない。急に生活を変えると良くないから、タバコも止めない方がいいとさえ言われる始末であ る。だが、スッキリしない。ダイナーに行けばいつもの時間に来ないので心配され、「倒れた」と知られると大騒ぎされて落ち着かない。何となく面白くない ラッキーは、ついつい道端の空き缶などを蹴り飛ばしてしまうのだった。そんな風に、平凡な日常をわずかながらかき乱されたラッキーだったが…。

みたあと

 ハリー・ディーン・スタントンという人、考えてみればどの映画に出てもあまり変わらない印象がある。思いつくまま挙げてみても、「エイリアン」(1979)、「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)、「レポマン」(1984)、「ストレイト・ストーリー」(2003)…とゾロゾロ出てくるし、それぞれの作品もバラエティに富んでいる。今、出演作リストを見たら、何の役で出ていたか忘れたが「アベンジャーズ」(2012)にも出ていたと知って二度ビックリ。ともかくいろいろな作品に出ていた彼だが、思い返してみるといつも同じような風貌だったように思う。そんなスタントン出演作の中で、僕が一番印象深いものを挙げろと言われたら、文句なしに挙げたいのが「プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角」 (1986)。当時一世を風靡したジョン・ヒューズ青春映画の中でも最大の話題作(といっても、ヒューズは本作ではプロデュースのみ)で、モリー・リング ウォルドが有名になった作品でもある。この中でスタントンは、リングウォルド扮する貧乏なヒロインのウダツの上がらない父親を演じていた。笑っちゃうのは そんなパッとしないスタントンが、ヒロインに思いを寄せる幼なじみジョン・クライヤーから「歳だからって気落ちしないで。ティナ・ターナーだっています し」などと慰めにならない慰めを言われて苦笑する場面。当時、ティナ・ターナーは久々の復活を遂げていた頃だからタイムリーなギャグだった訳だが、それを 言われたスタントンの表情が傑作だった。そんな頃から、スタントンはしなびたオッサンだった訳だ。そんなスタントンのイメージが、本作では全編に押し出さ れている。そこには1ミリのブレもない。思った通りのスタントンのイメージで映画は作られているのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  本来ならまったく驚きのない映画とはホメ言葉じゃないはずだが、本作に限ってはこれはホメ言葉…それも最大限の賛辞である。本作はハリー・ディーン・スタ ントンのための映画であり、そして、それでいいのである。それ以外のものを、この映画の観客は見たいと思っていない。じっくりハリー・ディーン・スタント ンを見ていたい、ただそれだけである。お話としては淡々とした老人の日常を描いているため、結果的にジム・ジャームッシュの近作「パターソン」 (2016)と非常に似た肌触りの作品となった。あの、ロシア民謡「一週間」を思わせるような、「月曜日に〜をして、火曜日には〜する」みたいな変わらな い日常が淡々と繰り返され、そこに生じるわずかな違いが味わいとなるような作風である。そして「パターソン」と同じように、こちらも見ていてジワジワとし た味わいのある、いい感じの作品に仕上がった。面白いことに「パターソン」では主人公の行きつけのバーの主人を演じていたバリー・シャバカ・ヘンリーが、 こちらではダイナーの主人として出演しているのだが、これは果たして偶然なのだろうか。また、スタントンを「ワイルド・アット・ハート」(1990)、 「ストレイト・ストーリー」、「インランド・エンパイア」(2006)などで監督として起用していたデビッド・リンチが、どういう経緯でかは分からないが役者として出演しているのも面白い。役者リンチは決してうまいとは言えないが、独特な「変な感じ」は出ていたと思う。こんな味わい深い作品の監督を務めたのは、何と「ファウンダー/ハンバーガー帝国のヒミツ」 (2017)で本当のマクドナルドの創業者兄弟の兄を演じたジョン・キャロル・リンチ。こちらも名傍役だが、こんな才能を持っていたとは驚きである。確か に全編淡々としたお話でそれなりに味わいのある脇役を配置し、中心にブレないスタントンをドンと置けば「イイ味」の作品はおのずから出来るように思える が、実はこの「淡々」ぶりはただ撮っていれば出て来るというものではない。しかもただ淡々と語っているように見えて、バーの裏口でいきなり知り合いが姿を 消してしまうあたりに見せた、それこそデビッド・リンチ作品にも似た奇妙さや怖さ、そして凄みはちょっとタダモノではないと思う。単に「淡々」と描くだけ の人なら、こんな場面は描けなかったはずだ。正直に言うと、時々「現実主義とは“モノ”らしいぞ」などと生硬でこなれてないセリフが出てきて、禅問答みた いなことを言ったりするあたりが少々引っかかるといえば引っかかる。だが、それを差っ引いても余りある部分が本作にはある。特に知り合いの店員から息子の 誕生パーティーに招かれる場面は秀逸で、メキシコ系の人々に取り巻かれ、あちらの歌が披露されるあたりは圧巻だ。考えてみると…本作は主人公が意識する 「死」のイメージが全編に漂っている印象だが、メキシコといえば例の「死者の日」のお祭りで有名なように、どこか「死」とは切っても切れないところがある のだろうか。そういえばこのメキシコの「死者の日」を背景にしたジョン・ヒューストンの「火山のもとで」(1984)でも、全編に「死」のイメージがべっ とりとこびりついていた。僕があまりに無知なためにハッキリと断定できないのだが、おそらくは本作には単なる「淡々」だけでないそうした「死」の闇みたい なモノもチラついているように思う。だからこそ、本作は山椒は小粒でもピリリと辛い作品に仕上がっているのだ。僕自身すでにもう若くはなく、老いた母親を 持つ身だから、本作で描かれた話はまったく人ごとではない。特にここ最近は、「死」を考えない日は一日もない。その意味では、本作は僕にとって「パターソ ン」と同等に、いや、それ以上に心に残る作品になったのである。

さいごのひとこと

 タイトルは生きてるだけで儲けモノという意味か。

 

「フェリーニに恋して」

 In Search of Fellini

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

  この映画についてはまったく事前情報なし。「フェリーニに恋して」っていうんだから、映画に対するオマージュに満ちた作品なんだろう。映画ファンのための 映画。ただ、オマージュの対象がフェリーニってのがちょっと敷居高そうな感じ。ハリウッドスターやらハリウッドの古典名作っていうなら共感度高いと思う が、フェリーニとなると一気に主人公はかなりの映画ファン、それもポップコーンを抱えて映画を見る類いの映画ファンではないと思われる。当然、広い観客層 の共感はなかなか得られないわなぁ。でも、ポスターやら宣伝のビジュアルを見ると、主役はウブっぽくて清純派タイプの女の子。これは一体…? 正直こちと らも古参の映画ファンとなって来たものの、フェリーニ好きかと言われると「???」…。じゃあ、何でこの映画を見に来たんだと言われれば、実はちょうど上 映時間が自分の都合と合っていたのがこの作品だったから。それと、一応映画ファン向けの映画だったら退屈しないんじゃないか…という予想もあった。監督も 知らない奴だし主演者たちもイマイチご存知ない。果たして本作はどんな映画だったのだろうか?

ないよう

  リアリズムは悪い言葉だ、そこには真実しかないからである…フェデリコ・フェリーニ。ゆっくりゆっくりと古い家に近づいていくイメージ。そこに混乱や喧噪 のイメージが重なる。そんなイメージ溢れる夢からハッと目覚めたのは、若く美しい娘ルーシー(クセニア・ソロ)。彼女が何者なのかを説明するには、ちょい と回りくどい話をしなくてはなるまい…。昔むかし、幼い姉妹がいた。姉のクレアは現実よりも夢の世界にこもる、夢見る夢子ちゃん。妹のケリーは時には相手 をブチのめすことも辞さないタフな娘で、ふたりは対照的な姉妹だった。夢見るルーシーは恋愛にも夢見過ぎで、つかまえるのはクズ男ばかり。結局、妊娠して 愛する娘を授かる。それがルーシーだった。母となったクレア(マリア・ベロ)は娘のルーシーにも自分の理想を押しつけ、「現実」をルーシーから遠ざけた。 飼っていたペットが死んでもその死を告げず、どこかに旅立ったのだ…とペットが寄越したハガキを手渡す。娘のルーシーもまた、そんなクレアの言葉を信じた フリをして受け入れた。ルーシーに初めてカレシが出来ても、彼女が男から「傷つけられる前」に遠ざけてしまい、カレシはどこか遠くに引っ越したことになっ てハガキが渡された。「現実」が服を着て歩いているようなガサツな妹ケリー(メアリー・リン・ライスカブ)も遠ざけられた。そんな純粋培養されたようなま まで二十歳になったルーシーとクレアは、まるで姉妹か双子のよう。ところが、そんなクレアの人生に突然の陰りが現れる。激しく咳き込んだあげく、大量の血 を吐いた彼女は、慌てて病院の診察を受けた。その結果は、不治の病によって近くクレアが命を失うという事実。この残酷な運命を知ったクレアは、隠しきれず にその心配をケリーに吐露した。当然、最大の心配は残される娘のルーシーである。高校を出てから家でクレアとふたりきりだったルーシーは、学歴もなければ 職歴もない。友だちもカレシもいない。職を得るための技術もない。単に子供っぽい我流のマンガを描くだけ。自立など夢のまた夢で、ケリーから見ても深刻な 状態である。だが、深刻に受け止めたのはクレアとケリーだけではなかった。そんなふたりの会話を盗み聞きしてしまったルーシーも、自らの置かれた状況を初 めて認識したのだ。さすがにマズいと分かったルーシーは、クレアとケリーに突如「就活宣言」をする。新聞の求人広告を見て、面接に行くと決めたのだ。「映 画づくりに興味ある者求む」という広告の怪しさに気づかないのだから、「現実派」を自認するケリーですら相当現実離れしていると言わざるを得ない。だが、 クレアとケリーも心配する点は、ルーシーがちゃんと面接をやり遂げられるのか…ということと、面接がここオハイオの田舎町ではなく大都会クリーブランドで 行われること。ルーシーはルーシーで家にある古いベスパのスクーターでクリーブランドまで行こうというのだから、浮世離れにも程がある。そんな訳で、完全 におのぼりさん的ななりでクリーブランドの面接場へとやって来る。ビルの前にベスパを停めて、不安げに面接場のあるビルを見上げていたルーシー。そんな彼 女の目の前に、ヒゲづらでハダカの上半身にクサリを巻いたたくましくもむさ苦しい男が立っていたのは、何かの予感か前触れだったのだろうか。ともかく面接 場である事務所にやって来ると、待合室にはけだるそうな女たちが順番を待っている。そこでは明らかにルーシーは浮き上がった存在だ。やがて名前を呼ばれ て、意気揚々と面接する男の前に現れたルーシーは、仕事に就くための意欲に満ちていることを力説。面接の相手もルーシーを大いに気に入った。だが次の瞬 間、待機していた女たちが面接の一環として胸を露出させられるに至って、さすがに空気の読めないルーシーも状況を察した。慌てて事務所を逃げ出したルー シーだったが、ビルを飛び出してすぐに愕然。ビルの前に停めたベスパが、駐車違反でどこかに消え失せているではないか。打撃に次ぐ打撃に打ちのめされた ルーシーだったが、その時、先ほど妙に気になった上半身ハダカの男が再び目の前に現れる。ついついその男を目で追ったルーシーは、まるで誘われるように男 の行く先へと導かれる。すると、そこには人だかりのする名画座が…看板には晴れがましく大きな文字が踊っていた。「フェリーニ映画祭」…それまで映画と言 えば、母のクレアと一緒にビデオがすり切れるまで見た「素晴らし哉、人生」だけだったルーシーは、当然のことながらフェデリコ・フェリーニなる映画監督の 存在など知る由もない。だが、その映画館に集まる人々の華やいだ雰囲気に触れ、映画館に貼り出されたフェリーニ自身のメッセージを目にして、ルーシーはこ の催しが自分にふさわしいものであると感じていた。いわく…「夢想家こそ唯一のリアリストである」。やがて始まったフェリーニ映画「道」が、ルーシーに決 定的な衝撃を与える。すぐに手当り次第にフェリーニ映画のビデオをかき集めて帰宅したルーシーは、その日からそれらの作品群をむさぼるように見続ける。そ れは、まさに運命的な出会いだった。すっかりフェリーニに入れ込んだルーシーは、勢い余ってイタリアに国際電話。どこをどう探したのか、かかったのはフェ リーニその人のオフィス。電話口に出ていたマリオなる人物は、「じゃあ明日の3時に来い」と呆気ないほど簡単にアポを入れてくれた。入れてくれたはいい が、ここはオハイオの片田舎。ローマは遥かに遠い。おまけにルーシーは、箱入りもいいとこの世間知らずである。さらに母クレアの容態は、余談を許さない状 況になりつつあったのだが…。

みたあと

 … という訳で、カマトトみたいなオボコ娘のルーシーがイタリアに単身乗り込むまで30分経ったか経たないか。だが、すでにこの段階で僕はイヤ〜な予感がして いた。ルーシーは「道」(1954)を見てフェリーニにのめり込むが、もうその時点で実はついていけない。僕には「道」に苦い思い出がある。高校の時に映 画研究会に入ろうとして、先輩に見せられた映画が「道」なのだ。偉そうな先輩に無理矢理見せられたというだけで、僕の中で「道」の印象は最悪。好きな方に は大変申し訳ないが、「道」というと条件反射的に拒否反応が出る。こんな「名作」なのに、いまだに僕は好きになれない。実際に大半のフェリーニ映画が公開 からリアルタイムで見れた訳でもないこともあって、好きになったフェリーニ作品はやっと「アマルコルド」(1974)からといった案配。そのせいという訳 ではないが、僕にとって本作は最悪の映画鑑賞となった。だが、それは僕が「道」を好きでないから…ではないと思う。確かに超箱入り娘のルーシーは、「夢想 家」と言えるかもしれない。だから「夢想家こそ唯一のリアリストである」というフェリーニのメッセージを見て、共感するのも分からないでもない。だが、い きなりフェリーニ作品の中でもよりによって「道」を見て、フェリーニの世界に心酔するようになるものだろうか。ルーシーは「夢想家」なのかもしれないが、 フェリーニのコメントにある「夢想家」とは違うのではないか。フェリーニの言う「夢想家」とは、シビアな現実を十分知った上での、あえての「夢想家」であ るはずだ。特に「道」という作品から考えて、そうでなければおかしい。だが、ルーシーは「夢想家」というより、「世間知らず」で「現実逃避」している人物 に他ならない。これはまったく違うのではないか。そのことひとつとっても、本作はどこかおかしい。正直に言って、本作は何とも好きになれない映画なのであ る。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  本作が始まってすぐに「ほぼ実話に基づく」と出て来る。となると、本作は脚本を手がけたナンシー・カートライトの「自伝」的な作品ということなのだろう。 だが、自伝的作品というのは、得てして自己満足なモノになりやすい。果たして本作も「自己満足」の度合いが極端に高い作品に成り下がっているのである。ま ずはともかく「好きになれる登場人物」が出て来ない。映画が始まってすぐ、非常に性格が歪んだクレアの現実逃避的なキャラクターが紹介され、娘ルーシーに 対する偏った育て方が描かれる。その結果、ルーシーは二十歳にもなるのに何も出来ない人物となり、クレアの妹ケリーもそれを指摘するのだが、それに対して クレアは何ら批判されないまま。ルーシーに対する抜本的対策も講じられず、ただただ現実逃避の先送りがなされるだけだ。まず、これだけでもついていけな い。おまけに、ルーシーが初めて自立のために動き出した先は、どう見たって怪しいポルノ業者。それに気づかぬルーシーはおろか、クレアもケリーも同じくら い世間知らずだ。一種の寓話として描きたいんだろうが、登場人物が過剰に愚かだと、見ていてバカらしくなって来るのである。ルーシーにしても、いくら箱入 り世間知らずとはいえ、これじゃあどこか脳に欠陥があるとしか見えない。しかもカマトトにも程がある。イタリアでも男にホイホイついていき、一度ならずヤ バい目に遭ってもいる。あれを見ていてイライラした僕は、いっそこのルーシーが変質者に惨殺でもされれば盛り上がるのに…と思ってしまったよ(笑)。さら にこのルーシーがバカなだけならいいが、ロクに自分の落ち度を謝れないのもイライラする。フェリーニのスタッフらしい人物がアポを取ってくれたのに、一度 ならず二度もスッポカす。僕も見ていて、こいつこんなにゆっくりしていていいのか?…と思っていたが、最初から間に合わせるつもりがなさそうなのだ。おま けに謝ることもなく、言い訳並べて見苦しいばかり。最後には逆ギレというテイタラク。フェリーニのスタッフが彼女を「あなたはあまり賢くないね」とズバリ と指摘するのだが、的確過ぎて笑ってしまった。しかも、賢くないばかりでなく謝りもしないのだから、性格も悪いのである。そしてカマトト。いいところが まったくない。作品全体としても、フェリーニのオマージュとして映画ファンを楽しませてくれる訳でもない。フェリーニ作品からの引用らしき場面がチラチラ 出て来るし、喧噪に満ちたクラブやみだらな秘密パーティーなどいかにも「フェリーニ的」場面が続出するが、それらが通り一遍にフェリーニ映画をかじった人 間による「フェリーニ的」にとどまっているのも辛い。三流の役者と三流の演出家がなぞる「フェリーニ的」なんて、見るも無惨なものだ。街のど真ん中にある 塔のてっぺんから、デカい声で「フェリーニ!」「フェリーニ!」と大声で叫ぶくだりに至っては、恥ずかしくて映画を見るのをやめようかと思ったよ。それど ころか、見ていて思わず2度も舌打ちしてしまった。マナー違反とは分かっていたが、無意識にやらずにいられないほど酷い映画なのだ。結局ルーシーはフェ リーニを探しに行きながら、絵描きのイケメンに引っかかってやられちゃっただけ。自立だの何だの…については何ら解決はされないままである。まったく酷い キャラクターであり、映画である。これが自伝だと言うなら、僕は脚本を書いたナンシー・カートライトという女とは個人的に知り合いたくない。自己評価が極 端に甘い、ロクでもない女であることは間違いないからだ。イケメン絵描きが最後に出て来て、オレこそがオマエにとってのフェリーニ…って、寝言も休み休み 言っていただきたい。監督のタロン・レクストンも、これが人様からカネをとって見せられる作品だと思っているのかね。田舎の青臭い映研のガキンチョだっ て、もうちょっとマシなシロモノを作ると思うよ。こんな映画が、わざわざ海を渡って日本まで輸入されたことが驚きである。今度ばかりは配給会社の猛省を促 したい。

さいごのひとこと

 あの世のフェリーニも迷惑だろう。

 

「マンハント」

 追捕 (Manhunt)

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

 ジョン・ウーが「レッドクリフ Part I」(2008)と「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」(2009)をブッ放した時には、いかにもハリウッドからの凱旋という感じで華々しさがあった。何しろ天下のトム・クルーズ主演で「M:I-2」 (2000)まで撮ったんだから、まさに登り詰めた観があった。その勢いを引っさげての中国語圏映画への帰還だから、華やかさもひとしお。長年の盟友だっ たチョウ・ユンファに蹴られるというちょっとしたガッカリはあったが、作品的にも興行的にも成功して、見事に「錦を飾る」ことが出来たように思う。しか し、その後のジョン・ウーはパッタリ鳴りを潜めた。実は1本監督作を発表していたようだが、日本公開はされず地味〜な扱い。僕もその存在をスッカリ忘れて いた。そんなジョン・ウーが、久々に新作を手がけると聞いたら、そりゃ期待せざるを得ない。だが、問題はそこで手がける題材である。ジョン・ウー久々の新 作は、何とリメイク作。それも往年の日本映画のリメイク作である。その名は「君よ憤怒の河を渉れ」(1976)。この作品名を聞いて、僕はワクワクより も…正直ちょっと複雑な心境になった。確かにこの映画は中国では大ヒットしたらしい。主演の高倉健も、これによって中国で大スターとなった。ジョン・ウー は香港の人だが、やはりこの作品にひどく惹き付けられたという。しかし…ではこの映画は本当に素晴らしい出来映えの作品なのかというと、実はちょっと微妙 な出来映えの作品なのである。どうなんだこれは。ただ、さすがのジョン・ウーだけにそのまんまリメイクはしまい。イマドキの目の肥えた観客の鑑賞にも耐え られる、ちゃんとした作品にするに違いない。何でもオール日本ロケでジョン・ウーが撮るアクション映画ということらしいから、それはそれで楽しみだ。だ が、ここでもうひとつ難問が…主演が福山雅治というのである。ファンの皆さんからすれば、ここでおお〜っと来るのだろうが、申し訳ないが僕はこの人が役者 としてどうなのか分からない。アクションも心配だが、それ以前に芝居が大丈夫かと不安になって来る。せっかくあのジョン・ウーが、彼本来のフィールドであ る現代アクションをこの日本で撮ってくれるというのに、「君よ憤怒の河を渉れ」と福山雅治…という2点で一気に危うい雰囲気を醸し出し始めたのだ。案の 定、映画が完成して公開されても、大絶賛という空気ではない。巷の人々の感想も、どうも奥歯にモノの挟まった感じだ。そんなこんなしているうちに、劇場数 がどんどん減って上映が終了しそうな雰囲気。僕はとりあえず慌てふためいて、池袋までわざわざ本作を見に出かけた次第である。

ないよう

  演歌が流れ、夜の帳が降りる頃…ここは日本のある街の小料理屋である。他に客もいない店のカウンターでひとり酒を飲んでいたのは、中国人の弁護士ドゥ・チ ウ(チャン・ハンユー)。彼は着物姿の店のママ相手に、ちょっと昔の映画の話に花を咲かせていた。何となく、いい雰囲気が漂うふたり。だが、店のママはも うひとりのママに目配せされ、店じまいするという口実で渋々ドゥ・チウを外に追い出した。だが、それがウソだったのは皆さんお察しの通り。すぐにこの店に は、恐ろしく柄の悪いお兄さんたちが多数やって来た。今夜はこの柄の悪い連中の貸し切りの宴会で、連中は座敷で早速酒盛りを始める。こんな連中相手にこの お姉さんたちふたりでは手に負えないだろうと思いきや、さにあらず。ふたりのお姉さんたちは着物姿をサッと振り乱し、隠していた銃を宴会の席向けて撃ちま くる。いかにコワモテのお兄さんたちでも、無防備なところを襲われてはひとたまりもない。たちまち座敷には、血まみれの屍の山が築かれてしまう。このふた りのお姉さんたち…最初にドゥ・チウといい雰囲気になっていたレイン(ハ・ジウォン)と女子プロレスみたいにガタイのいいドーン(アンジェルス・ウー) は、何と殺し屋だったのだ…。それから間もなくのこと、ここは大阪のど真ん中。インテリジェント・ビルを借り切って、日本有数の製薬会社である天神製薬の 創立記念パーティーが盛大に開催されていた。大勢の招待客を前にしてスピーチをぶつのは、天神製薬社長の酒井善廣(國村隼)。近い将来に後継者となる息 子・酒井宏(池内博之)を紹介して、酒井父子による磐石の体制をアピール。そこで天神製薬の訴訟問題を解決した恩人として名前が挙げられたのが、先ほどの 中国人弁護士ドゥ・チウだ。宴たけなわとなる頃、天神製薬の社長秘書(TAO)に言い寄られるドゥ・チウ。だが、ドゥ・チウに迫る女は彼女だけではなかっ た。いつの間にか現れた遠波真由美(チー・ウェイ)という女が、ドゥ・チウを魅了する。かくしてドゥ・チウと真由美は、パーティーを抜けて夜の街へと消え て行くのであった。それからしばらくして、自宅へと戻って来たドゥ・チウだったが…。翌朝、ドゥ・チウが自室のベッドで目覚めてみると、隣には例の社長秘 書が横たわっている。だが、それは死体だった。それに気づいたドゥ・チウが衝撃を受けるのと同時に、たまたま部屋に入って来た掃除のオバサンが絶叫する。 「人殺しぃ〜!」…驚いたドゥ・チウだが、何がどうなったのかは自分でも分からない。駆けつけた刑事たちにも、何も話すことがない。昨夜ここで起きたこと は、すっかり頭から飛んでいるのだ。しかし、現場にやって来た大阪府警の浅野警部(トクナガクニハル)は、頭からドゥ・チウを犯人と決めて譲らない。結 局、ドゥ・チウは手に手錠をかけられ、連行される羽目になってしまう。だが、浅野警部と部下たちはドゥ・チウを連れて建物から出るや、ナゾの行動に出た。 何と暗にドゥ・チウに逃亡を促すような態度を見せるのだ。このままでは是が非でも犯人に仕立てられることは間違いないと確信したドゥ・チウは、行きがかり 上、彼らをまいてその場を逃げ出した。この瞬間、ドゥ・チウは文字通り逃亡犯に仕立てられたのであった。一方、子供を人質にしたテロリストが、バスに爆弾 を仕掛けて警察と睨み合うという事件が勃発。だが、そこに単身やって来たのが、一匹狼の刑事・矢村聡(福山雅治)。矢村は度胸と腕っ節とハッタリで、見事 あっという間に事件を解決。今日も矢村は絶好調だ。だが、そんな凄腕の矢村に、いつもと勝手の違う話が持ちかけられる。新米の女刑事・百田里香(桜庭なな み)の世話を押し付けられてしまったのだ。里香は大いに張り切っているのだが、肩に力が入り過ぎて空回り。だが、矢村はいつものペースを崩さず、里香とし ては大いに戸惑わざるを得ない。そんな矢村と里香に、緊急任務が飛び込んで来る。例の中国人弁護士ドゥ・チウが地下鉄構内に逃走したというのだ。ドゥ・チ ウが逃げ込んだとおぼしき地下鉄工事現場付近にやってきた矢村は、ヘルメットを被った作業員のなかに不審な人物をひとり見つけた。早速、その人物に近づい て行った矢村だが、ちょっとした隙にこの人物に里香を人質に取られてしまうではないか。思わず睨み合うふたりの男。その瞬間が、刑事の矢村と容疑者の ドゥ・チウの最初の出会いだった…。

元ネタ「君よ憤怒の河を渉れ」とは?

 それにしても、天下のジョン・ウーがリメイクしたのが日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」とは、ちょっと驚きであった。もちろん「君よ〜」が中国で大ヒット したということは、僕もよく知っている。そのせいで中国で高倉健の人気が絶大であり、それがチャン・イーモウの「単騎、千里を走る。」 (2004)出演につながったことも知っている。だが、まさかあのジョン・ウーが…である。それに、「君よ〜」自体も大ヒットしたのは中国だけ。日本本国 ではそんな当たった映画ではない。そもそも高倉健主演作の中でも「八甲田山」(1977)や「幸福の黄色いハンカチ」(1977)などのように質の高さで 評判が高い作品ではない。実は、むしろかなりトンデモな内容の作品なのである。大映の元社長だった永田雅一が独立プロで製作した作品で、監督の佐藤純彌は 「新幹線大爆破」(1975)の好評を受けての起用だったはず。新宿ど真ん中を多数の馬が疾走したり、セスナ機で強引に着水したり、ヒグマと戦ったり…と あの手この手の見せ場を盛り込んだアドベンチャー大作を狙ったのだろう。だが、結果はまったくそうなっていない。冒頭、いきなり女が警官に強姦されたと訴 えるという唐突さもさることながら、前述の見せ場もセスナ機は風呂場でオモチャを湯船に落っことして撮ってるみたいだし、ヒグマは着ぐるみ丸出し。脚本も セリフもあちこちヘンで不自然極まりなく、「新幹線大爆破」の緻密さのカケラもない。音楽もまた悶絶したくなるシロモノで、オープニング・タイトルに流れ るスキャットはまだ序の口。緊迫感が漂うべき場面にピクニックみたいな楽しげな曲が流れるのは、まったく理解に苦しむ。しかも後々考えてみると、それって 有名な「第三の男」(1949)のテーマ曲をパクって、パクリ損なった結果そうなってしまったらしいから情けない。そんなこんなで無茶な映画なのだが、前 述の新宿で多数の馬が…という場面は本当に新宿で馬を放ってゲリラ撮影したらしく、それはそれで唖然呆然な光景。とにかく「怪作」であることは確かなの だ。ところが、これが文化大革命の閉塞感から脱したばかりの中国で大ウケしたというから分からない。おそらく「娯楽映画」というものに接したことがないか ら…ということなのだろうが、香港のジョン・ウーもこの映画に思い入れがあったということは、中国語圏全般にわたって受け入れられたのだろうか。また、佐 藤純彌監督・高倉健主演のタッグということで考えると、この作品をふんだんにお金をかけて脚本も書き直し、それなりに作り直してみれば、後年のご両名の タッグ作「野生の証明」(1978)みたいになるのかもしれない。以上、荒っぽく駆け足で説明させていただいたが、そんな感じの作品である。

みたあと
 そんなトンデモ映画を、ジョン・ウーがなぜ、そしてどのようにリメイクするのか? ただハリウッドでも成功したジョン・ウーなのだから、まさかあの「君 よ〜」をまんまリメイクするはずはあるまい。あるいは、原作を再映画化ということで、あのトンデモ感を払拭するのかもしれない。本作を見るまで、僕はそう 思っていた。だが、何となく不安を覚えたのは、この映画の評判がまるで聞こえて来ないこと。これほどの話題作が、なぜあまり語られていないのだ? 本作を 見て、そのナゾが解けた。本作はまぎれもなく、「君よ憤怒の河を渉れ」のリメイクである。原作を映画化し直したという訳ではない。お話も設定も前作とは異 なっているが、何より前作のスピリット(笑)を忠実に受け継いでいる。なぜなら、本作もまたトンデモ映画に他ならないからである。

こうすれば

 前作は強姦、今回は殺人と違いはあれど、濡れ衣着せられるのには変わり なし。さすがに「君よ〜」ほど唐突で取ってつけたような設定ではないにしろ、今回も相当ムチャなシチュエーションである。だが、そのこと自体は今回問題に したくない。さらにお金のかけ方がハンパないため、湯船にセスナ機のオモチャ…とか、着ぐるみのヒグマ…みたいなイタい場面も出て来ない。「第三の男」 テーマ曲のパクリ音楽みたいな、センスのないこともしていない。そういう意味ではかなりのレベルで、前作のトンデモ度は改善されている…はずである。しか し本作は、また別の意味で頭を抱えてしまうシロモノになってしまった。全編、見ていて鳥肌が立つような違和感がつきまとうのである。それが主に感じられる のは福山雅治の演技で、実は見ていて何とも生理的に気持ち悪かった。福山ファンにはまことに申し訳ないのだが、気取っているのか凄んでいるのか、何とも気 色悪い芝居をしているのである。そこに新米女刑事の桜庭ななみが一枚噛んでくるのだが、これまた福山とのコンビネーションの悪さがハンパじゃない。さらに 上司である竹中直人まで加わると、ミスマッチ感はさらに倍増。いずれも演技の違和感がスゴいのだが、福山のそれは頭一つ抜けてる感じだ。もちろん、芝居は 本人の演技力のせいなんだろうと言いたいところ。だが、他の作品での福山の演技を見ていない僕としては、そのあたりを判断できない。果たして他の映画で も、福山はこんな気持ち悪い芝居をしているのか。誤解を招くといけないのでハッキリさせていただくと、芝居がヘタ…以前に生理的に気持ちが悪い芝居なので ある。これは福山の芝居のせいと言えるのか? さらに日本語セリフの内容がちょっと前後関係と合わないように聞こえる箇所や無意味に聞こえる箇所もあり、 違和感は増すばかり。ズバリ言うと、これは日本人の芝居や日本語のセリフのニュアンスが分かっていない、ジョン・ウーの演出ミスなのではないか? しか し、例えば「ブラック・レイン」(1989)を撮ったリドリー・スコットは、日本語が分からなくてもこんな気持ちの悪い芝居の演出はしなかった。単に言葉 が分からないだけで、こうも気色悪い演技演出が出来るんだろうか。また、本作を見ていると、福山ら日本人俳優だけでなく他の役者たちもすべて生理的に変な 芝居をさせられているようにも見える。これは主観なので極めて個人的な意見であり、中国人たちのしゃべり方や振る舞いを身近に見てきた訳でもないのでハッ キリは言えないのだが、チャン・ハンユー以下外国人キャストの芝居にも同じことが言えるのではないか。つまり、ジョン・ウーの俳優に対する演出に問題があ るのではないだろうか。そうでなければ、この違和感は説明できない。見ていてこちらの体調がおかしくなりそうなほど変な映画で、僕は映画館で非常に居心地 が悪くなったのである。実はネット上の本作への評価を見ていくと、そもそも以前からジョン・ウー作品はかなりトンデモ感に満ちた映画だったから問題ない… と言っている人も多い。僕は香港時代からの熱心なジョン・ウー・ファンとは言い難く、かつての彼の作品については云々出来るほど詳しくはない。だから俳優 たちの立ち振る舞いが不自然…だとか、お話の持って行き方がムチャ…だとかが、「ジョン・ウー本来の味」かどうかが分からない。だが、それにしたって今回 のそれは、いささか度を超しているのではないだろうか。ジョン・ウーのトレードマークだったハトも、今回はカーアクションのあげくハト小屋に突っ込むとい う強引さで、まるで冗談にしか見えない。自分で自分のパロディをやってどうする。「ジョン・ウーの映画はストーリーの整合性には大して重きを置かない」と しても、それにも程がある。二丁拳銃とハトが出りゃいいってもんじゃない。あれほどトンデモ映画が好き(中でも日本を舞台にしたトンデモ映画は大好物!) なこの僕が、最後の最後まで寒気がしてくるレベルなのである。これは只事ではないではないか。

みどころ

 … などとクソミソにケナしてしまったのだが、堂島川でのジェットスキーを使っての大アクションなどは、日本映画などではお目にかからないほどのスケール。外 国絡みだからジョン・ウーだから許可された…というのだったら、それはそれで「お役所の忖度」みたいでイヤな気分になるが、確かにこんな大アクションを日 本…それも大都会の大阪で展開したというのは大変なことだ。その点は素直に評価できる。そんな美点がある一方で、前述のようなアレレ…?と首をかしげたく なる箇所が散見でいるあたり、本作はチェン・カイコーの「空海/KU-KAI 美しき王妃の謎」(2018)と双璧を成す、「中華邦画」ならではの好悪併せ持つ性質を持っているのかもしれない。

さいごのひとこと

 憤怒の河をジェットスキーで渉れ。

 


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