新作映画1000本ノック 2018年4月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「馬を放つ」 「グレート・アドベンチャー」 「トゥームレイダー/ファースト・ミッション」 「時間回廊の殺人」 「ヒューマン・ハンター」 「ラッキー」 「フェリーニに恋して」 「マンハント」

 

「馬を放つ」

 Centaur

Date:2018 / 04 / 30

みるまえ

 あの「あの娘と自転車に乗って」 (1998)の監督の最新作がやって来ると聞いて、ワクワクし始めるという映画ファンは、果たしてどのくらいいるのだろう? 僕にとって「あの娘と自転車 に乗って」は、特別な映画だ。僕がこのサイトを始めた1999年は映画が大豊作の年で、世界中から選りすぐりの傑作・快作・話題作が次々上陸して来た。 ザッと挙げただけでも、「ラン・ローラ・ラン」(1998)、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998)、「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(1997)、「ノッティング・ヒルの恋人」(1999)、「ファイト・クラブ」(1999)…といった具合。公開当時は僕は評価していなかったが、あの「マトリックス」 (1999)もこの年だった(最初はまったく分かってなくて、後で改めて感想をやり直したほどだ)。これほど豊作の年に始めたからこそ、今に至ってもこの サイトが存続できているのかもしれないくらいだ。そんな素晴らしい1999年の作品群の中でも僕が特に惚れ込んだ映画が、キルギス映画「あの娘と自転車に 乗って」だった。それ以来、監督アクタン・アブディカリコフ(いつの間にか名前がアクタン・アリム・クバトに変わっていたが)の映画は、日本に来るたびに 見ている。…といっても、本数は今回の「馬を放つ」を加えてもたった4本。しかも出来映えは毎回最高!…とは言い難いところが微妙だ。2作目の「旅立ちの汽笛」(2001)が、僕にはちょっと見ていてツラい出来映えだったのである。だが、それからしばらく経っての3作目「明りを灯す人」(2010)は、またなかなか良かった。そうなると4作目の本作には、大いに期待がかかるところ。僕は重い腰を上げて、イソイソと見に行った訳なのだが…。

ないよう

  夜の帳が降りて、ここは辺鄙な村のはずれにある厩舎。その建物から、ふたりの管理人のうち一人が出て来て、オモテにある便所に入る。すると…便所の裏手か ら一人の男が出て来て、便所にカギをかけてしまうではないか。閉じ込められた男は慌てて騒ぎ出すが、ハッキリ言ってまだ深刻に考えていない。やがて便所に カギをかけた男は今度は建物の扉にカギをかけて、残っていた方の一人が外に出られないようにしてしまう。こうして管理人を身動きできないようにした男は、 今度は厩舎の扉を開けて、中につながれていた一頭の競走馬を外に出す。やがて夜の荒野に、両手離しで馬にまたがって思う存分駆け回る、例の男の姿があっ た。その男は、村で「ケンタウロス」男(アクタン・アリム・クバト)と呼ばれていた…。翌朝、厩舎のオーナーであるカラバイ(ボロット・ティンティミショ ヴ)がやって来て、この事態を知ってカンカン。村でも羽振りの良さで知られるカラバイは、大枚はたいて例の競走馬を買ったばかり。頭に来ないはずがない。 やって来た警察官にも怒りをブチまけるが、実は彼らにはそれなりの目算があった。村には日頃から手癖が悪くて知られるサディルという男がいるので、まずこ の男が真っ先に疑われたのだ。一方、家に帰って来たケンタウロスは、口がきけない妻マリパ(ザレマ・アサナリヴァ)と幼い息子ヌルベルディ(ヌラリー・ トゥルサンコジョフ)に迎えられる。仲睦まじく暮らしている3人だが、マリパの目下の悩みは息子ヌルベルディがいつまで経ってもしゃべらないこと。いつも 一緒にいる自分がしゃべれないので息子は言葉を覚えないのだと思ったマリパは、ケンタウロスにもっと息子に話しかけるように促す。そこでケンタウロスは、 キルギスの昔話を息子息子ヌルベルディに語り始める。それは、かつてのこの国の人々にあった「馬」との密接なつながりについての物語。その昔、馬は「人間 の翼」と言われるほど大切にされていたのだ。ケンタウロスがギリシャ神話に出て来る上半身は人間、下半身は馬…というキャラクターから通り名を得たのも、 彼が馬への愛情と畏敬の念をずっと持ち続けていたからだ。温厚なケンタウロスは、村の人々からも信頼され愛されていた。だが、そんなケンタウロスの周辺に も、わずかながらさざ波が立とうとしていた。大工仕事を生業としている彼は、仕事帰りにシャラパットという女(タアライカン・アバゾバ)が営む屋台で、マ クシムという飲み物を飲むのを楽しみにしていた。だが、あまりにその頻度が高く、過剰に親しげでもある。どうしても、妻帯者であるケンタウロスと彼と親し 過ぎる態度を見せるシャラパットを見る周囲のオバサン連中の目は冷たくならざるを得ない。だが、ケンタウロスはそんなことにお構いなしだ…。一方、警察の 力を借りてサディル(イリム・カルムラトヴ)を捕らえたカラバイはボコボコに痛めつけて吐かせようとするが、サディルは無実を主張。たまたまやって来たイ スラムの聖職者たちにも苛立ちをぶつけ、「馬が戻ってくるように祈れ」と無理難題を押し付けるカラバイだったが…。

みたあと

 何しろ「あの娘と自転車に乗って」が素晴らしかったので、いつまでも気になる存在のこの監督。最初は息子を主役にした映画づくりを続けて来たが、ここ最近は自ら主演に乗り出した。そのあたり、「オン・ザ・ミルキー・ロード」 (2017)のエミール・クストリッツァをちょっと思い起こさせたりもする。前にも述べたようにこの人の映画は、振り幅が大きいと言えば聞こえがいいが、 出来映えにアラがあるのが難なところ。正直言って2作目「旅立ちの汽笛」はただただカッタルかった。しかし3作目「明りを灯す人」が持ち直していたので、 本作にはそれなりに期待をした訳だ。幸い映画評などもおおむね好評。さぞやいい出来だろうと期待して見に行った訳だが…正直言って今回の作品、僕はあまり 高く評価出来ない。それについては、まず…キルギスみたいな国の人はみんな純朴でイイ人…みたいな既成概念から、みんな一旦ハズレてみた方がいいんじゃな いかと思ったりもする。本作を見ている限り、監督・主演を務めたアクタン・アリム・クバトは、あまり良い奴とは思えないのだ(笑)。少なくとも、僕はこい つの人間性を好きになれない。しかも、それが「純朴さ」を装っているあたりが悪質なのである。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 まずは…何から言ったらいいんだろう。ともかくどんな理由があれ、馬泥棒の分際で逆ギレして「民族の魂がどうたらこうたら」と屁理屈並べたあげく、環境 問題に苦言…なんて大概にしていただきたい。馬泥棒が見つかって、苦し紛れに言った単なる言い逃れの屁理屈にしか見えない。自分は馬を盗んだオーナーの恩 情を受けてる身で結婚資金までたかっていながら、あの上から目線が我慢ならない。あのオレ様感が鼻につくなんてもんじゃない。テメエ勝手で寝言ぬかしてる 主人公には、まったく共感できないのだ。あんな男のナルシシズムのために、引き合いに出される先祖や馬がかわいそうだ。そもそも立派なことを言いながらよ その女に手を出しかかり、その気にさせといて寸止めでやめるという偽善ぶりも我慢ならない。たぶん作り手としては、主人公があの屋台の女と親しくしてるの には邪念などない、純粋な気持ちだけ…と言いたいのだろうが、あれでは気を引くだけ引いて、二階に上がって肝心なところで梯子をはずす卑怯な奴としか見え ない。本当に心底汚い男である。オレって頭が良くてモテモテのいい男…と言いたいのがミエミエで、非常に不快だ。一見素朴に見せかけてるから、一際姑息な のである。また、「映画」を出してくれば映画ファンが喜ぶという発想もイヤだ。デカいツラしているイスラム聖職者を悪者に仕立てたいのかもしれないが、そ こに「映画」を持ち出したら免罪符になる…映画ファンならみんなオレの味方になるとでも思っているのか。オマエはジュゼッペ・トルナトーレかよ(笑)!  実に卑怯でいやらしい発想である。さすがにそりゃモスクに失礼だろう(笑)。「あの娘と自転車に乗って」の素晴らしさは何だったのかという…。もう悪口し か出てこないのだが(笑)、結局、一番西欧文明に取り込まれてるのはオマエだろと言いたい。大体、テメエの役をケンタウロスなんて、恥ずかしげもなくよく 言えたもんだよ(笑)。並外れて面の皮が厚いとしか思えない。今回の作品で、完全に化けの皮が剥がれてしまった気がする。前作から見てこの男の映画が素朴 なはずはないので、物質文明批判とか環境保護みたいな主人公のゴタクはほとんど黒澤明の「夢」(1990)とか「八月の狂詩曲」(1991)と変わらな い。晩年の黒澤ならともかく、この年齢にして作る映画が早くも「ジジイの説教」化してるのはヤバいのではないか。どうしたらあんなに偉そうに振る舞えるの か、あれをみんなが邪念のない純粋な男と見れる理由が知りたい。…というのは、あれからネットでこの映画の評価を見たら、絶賛の嵐でとてもケナせる雰囲気 ではないのだ。僕が思ってるようなことをそのまま書いたら、「資本主義の犬」とか「物質文明に毒された人間」だと叩かれそう。いや、まいった本当に。外国 の観客とか批評家とか岩波ホールの客とか、ホントにあれでいいと思ってるのかねぇ? みんなホントに大丈夫(笑)? こういう国の映画はヨイショしなく ちゃいけないと忖度して、贔屓の引き倒しになってやしないのか? ラストで調子こいた主人公が撃たれた時には胸がスカッとしたけど(笑)、本来はそういう 映画じゃないだろう。困ったもんだよまったく。ひとつ気になったのは、イスラム教の聖職者が周囲の人々からあまり快く思われてなさそうなこと。あっちの国 でのイスラム教って、果たしてどんな位置付けなんだろうか?

さいごのひとこと

 主人公をもっと早く撃ち殺して欲しかった。

 

「グレート・アドベンチャー」

 侠盗聯盟 (The Adventurers)

Date:2018 / 04 / 30

みるまえ

  アンディ・ラウとジャン・レノが共演…と聞いて、まず思ったのは、これってアンディ・ラウもスゴくなったと言うべきだろうか、はたまた失礼ながら、ジャ ン・レノも落ち目になったと言うべきだろうか…ということ。あとは、昨今の映画界におけるチャイナ・マネーのスゴさである。ジョン・キューザックやエイド リアン・ブロディを迎えたジャッキー・チェンの「ドラゴン・ブレイド」(2015)とか、マット・デイモンまで引っ張り出したチャン・イーモウの「グレートウォール」 (2016)を考えても、昨今の中国語圏映画は贅沢になった。さすがにそうしたハリウッド・スターほど値は張らないかもしれないが、一時はアメリカ映画に もガンガン出ていたジャン・レノである。これはこれでそれなりに豪華ではないか。おまけにスー・チーも出ていると来れば、ますます食指をそそる。お話はい わゆる怪盗モノと知って、スー・チーの役柄もおそらく毎度おなじみのモノなんだろうなと察しがつく。ならば、最低でもソコソコ楽しめるはずだ。唯一不安に なるとすれば、あまりにやる気が感じられない邦題だろうか。そんなこんなで、僕はイソイソと劇場に向った訳である。

ないよう

  かつてヨーロッパから中国皇帝に寄贈された、豪華な宝石の首飾り「ガイア」とは、3つのパーツが組合わさった秘宝である。その1つ「森の瞳」はパリのルー ヴル美術館に所蔵されていたが、何と宝石強盗によって盗み出された。その後、犯人は捕まったものの、「森の瞳」の行方は分からないまま。そして5年の歳月 が流れた…。ここはフランスのある刑務所。そこから出所して来たひとりの東洋人…ダン(アンディ・ラウ)は例の「森の瞳」を盗んだ宝石強盗である。そのダ ンを待ち構えていたのが、ピエール刑事(ジャン・レノ)。もちろん、出所後もダンを見張っているぞ…というアピールである。ダンが歩いて立ち去った後、す ぐに部下に尾行を命じるピエール。だが、コーヒーショップで難なく逃れてしまうのは、さすが怪盗たる所以である。やがて、舞台は陽光まぶしいカンヌへと移 る。ヘリコプターで港の上空へやって来たダンは、パラグライダーで桟橋に着陸。一方、そのダンと無線で連絡をとりながら、カンヌの高級ホテルに乗り込んだ 若い男がひとり。その男の名はポー(トニー・ヤン)。彼は建物内の管理室に陣取ると、給仕の変装をかなぐり捨てて全館のセキュリティーシステムを解除して いく。一方、ダンもタキシード姿でそのホテルに乗り込む。客のひとりからさりげなく招待状をスリ取ると、何食わぬ顔で会場へ。実はこのホテルでは、これか ら美術品のオークションが開かれようとしていた。中でも目玉となるのが、例の「ガイア」の別のパートである「命の翼」。この秘宝を、有名な映画女優が出品 するのが今日のメインイベントだ。そのため、各界の名士や富豪たちがホテルに集結。さらに、金持ちたちを目当てに反毛皮運動のデモ隊もホテルを取り巻いて 騒いでいる。おまけに「命の翼」が狙われていることを察して、あのピエール刑事まで乗り込んで来た。だが、ダンとポーは慌てず騒がず淡々と予定をこなして いく。ふたりは長年組んで来た相棒同士。彼らに縁の下の力持ちであるデーモンも加えた3人は、息もピッタリ合っている。だが、今回はもうひとり、新たに加 わったメンバーがいた。近くの酒場で男たちを腕相撲で手玉にとっていた女レッド(スー・チー)である。彼女は「ショータイム!」とホテル前に出て行くと、 デモ隊の中にまぎれ込んだ。そして一際大騒ぎを巻き起こし、デモ隊とともにホテル内に突入。たちまちホテルは大混乱だ。ただちにオークションは中止され、 「命の翼」は金庫にしまい込まれる。だが、それが彼らの狙いだった。来賓たちは別室に匿われるが、ダンはそこに滑り込んで例の映画女優と接触。一方、ポー は金庫の裏手に移動して壁を破壊した。ダンたちの動きを見破ったピエールは慌てて支配人に金庫を開けさせるが、時すでに遅し。「命の翼」は金庫から消えて いた。慌てて彼らを追うピエールだが、トンネル内でクルマが事故を起こして追跡を断念。ダン、ポー、レッドはホテルから遠く離れた野原で集合し、ダンと ポーはセスナ機で、レッドはバイクでその場を去った…。それからまもなく、ここはチェコのプラハにある中華料理店。やって来たダンとポーを迎えたのは、彼 らのボスであるコング(エリック・ツァン)。コングは長年ダンの面倒を見てきた、家族のような間柄だった。ダンから「命の翼」を受け取ったコングは、すっ かりご満悦。あと「魂の泉」を手に入れさえすれば、「ガイア」が手元にひとそろい集まるからだ。実は行方が分からなくなった「森の瞳」も、すでにコングが 手中に収めていた。その経緯には、いささか説明が要る。例のルーヴルでの仕事の直後、ダンは何者かに後ろから襲われて「森の瞳」を奪われた。百戦錬磨のダ ンがなす術もなく逮捕されるには、そんな経緯があったのだ。その後、コングは「森の瞳」を奪った男を突き止め、キッチリ始末をつけていた。その男は舌に星 のタトゥーを入れていたのだが、コングはホルマリン漬けにされたその舌をダンに見せつけた。ダンには優しく接するこのコングという人物、気のいい男に見え てなかなか恐ろしいのである。一方、ダンとしては、そのルーヴルでの仕事の際に警察にタレ込まれたことから、誰が密告したのかを知りたがった。コングは 「知らない方がいいこともある」と言いながら、それが当時、ダンの付き合っていたアンバーという女の仕業であると教える。それを聞いたダンは、「気にしな い」と言いながら複雑な表情を見せるのだった。その頃、残る「魂の泉」をダンが奪いにやって来ると考えたピエールは、保険会社の美術鑑定士として働いてい るアンバー(チャン・チンチュー)に接触を図るのだが…。

みたあと

 それにしてもジャン・レノは「レオン」 (1994)でグイグイ出て来たころと比べると、スッカリ地味になってしまった観がある。今回は「ザ・スクワッド」 (2015)で見せた太鼓腹がヘコんだようで少し安心したが、こんな香港主体の中国映画に出るようになるほど落ち目になってしまったのか。…というより、 やはりチャイナ・マネーが強くなったというべきだろうか。さらに驚くべきなのは、映画自体の洗練ぶり。クレア・フォーラニ、ジュリアン・サンズらを使って 目一杯欧米映画っぽく作ろうと背伸びしていたジャッキー・チェンの「メダリオン」(2004)あたりと比べると、その垢抜けぶりには格段の違いがある。普 通に欧米の娯楽映画(というには少々のアクが残るのだが)みたいな仕上がり。アクといっても、せいぜいリュック・ベッソン・プレゼンツの英語映画程度のも のだ。映像も語り口もヨーロッパ役者たちの使い方も、もはやかつてのようなヤボ臭さは微塵もない。しかも、舞台は一度も中国や香港に移らず、フランスや チェコ、ウクライナでロケしている。そこにもチャチだったりおかしな点はまったくない。これには驚かされた。ちゃんと水準の娯楽映画に出来上がっているの である。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  本作はそんな意味で普通の娯楽映画である。これはホメ言葉でもケナし言葉でもある。ハッキリ言うと、意外な点がまったくない。ジャンル映画として、収まる べきところに収まって一歩もそこから踏み出さない。驚きはまったくない。一応、劇中で「意外な悪役」が明るみになるのだが、それすら容易に見当がついてし まう。まさにやる気のない邦題が表現する通り、平凡といえば平凡、新鮮味はまったくないのだ。また、脚本にも少なからず気になる点がある。お話の中で3人 の主要人物がそれぞれ大きな「心変わり」をするのだが、彼らがなぜ「心変わり」するに至ったのかをそれぞれちゃんと説明できてない。確かにそれらの「心変 わり」は観客の望む通りのものなので後味はいいのだが、そうなる理由が説明出来てないので痛快さ・爽快さも中ぐらいで終わっている。やはりここは、「心変 わり」に至った理由を視覚的に見せる工夫が必要だったのではないか。そのあたりがいささかユルい点も、本作が「凡作」に終わった理由であろう。何となく… ではなく、ちゃんと「心変わり」の理由を映像で見せてこそ「映画」だろう。また、強盗団にはもうひとり、サポートメンバーとしてデーモンという人物も出て 来るのだが、この人物がロクに説明もされないし、そもそも主人公たちと別行動で一緒に写ることがない。これは一体いかなる理由からなのだろうか。途中で出 演出来なくなったのだろうか。さらにジャン・レノという明らかにギャラの高そうな役者をわざわざ出していながら、肝心の終盤のヤマ場にまったく出て来ない のはどういうことなのだろうか? 僕はいつ出て来るのか…と待ち構えてしまった。このあたりは完全な構成上のミスだろう。

みどころ

 そんな本作の良い点も「普通の娯楽映画」であることで、キッチリと娯楽映画の王道を作っているあたりは認めるべきだと思う。前述した通り監督のスティー ブン・フォンには語り口の洗練ぶりに感心させられたが、カーチェイスなど見せ場の演出でも意外な方向からカメラを向けていくなど工夫が見られる。いろいろ と出て来るハイテク秘密兵器も楽しい。確かにお金もかかっているのだろうが、安っぽくなく作られていて全体的に作品がしっかりしているのである。それにし ても…アンディ・ラウ、スー・チーに、「ラヴソング」(1996)、「不夜城」(1998)、「インファナル・アフェア」(2002)などのベテランであるエリック・ツァンなど、僕としては本作に親しみのあるメンツが集合していて嬉しかった。ただ、彼らにバツグンの安定感がある反面、こうした人たちが十年一日のごとく一線でやっているということにいささか不安を感じないでもない。「ロスト・レジェンド/失われた棺の謎」 (2015)でも感じたのだが、スー・チーがこんなキャラクターを演じるのは少々キツくなってきているのではないだろうか。それでも十分可愛らしくやって いるからスゴいのだが…。それにしても、いくらチャイナ・マネーがスゴいからといって、なかなかハリウッド・スターやジャン・レノは連れて来れない。こう した大物を自国のスターと対等にバンバン共演させてしまえる、中国語圏映画が羨ましくなる。日本では、角川映画全盛期にジョージ・ケネディあたりを出した のが関の山である。バブル期に企業が儲けていても、自国の文化には何ら還元しなかったということなのだろう。まったくもったいない話である。ともかく本作 は良くも悪くも王道娯楽映画で、ラストも爽快。脚本の弱さや平凡さを差っ引いても余りある楽しさで、何も考えずに見ている分には十分楽しめる出来映え。そ れだけでも大したものだろう。

さいごのひとこと

 今のジャン・レノってどのくらいの位置づけなのか?

 

「トゥームレイダー/ファースト・ミッション」

 Tomb Raider

Date:2018 / 04 / 30

みるまえ

 アリシア・ヴィキャンデル…あるいはアメリカ流にアリシア・ヴィカンダーというべきか、近年快進撃が続く女優さんといえばこの人にトドメを刺す。「コードネーム U.N.C.L.E.」 (2015)、「リリーのすべて」(2015)、「エクス・マキナ」(2015)…と話題の出演作が一気にドドドッと押し寄せて、勢いに乗ってオスカーま で取ってしまった。ヨーロッパ原産の女優さんとしては久々の快挙である。残念ながら僕はこれらの話題作のうち「コードネーム U.N.C.L.E.」しか見ていないが、それでも彼女の魅力はビンビン伝わって来た。そんな彼女がハリウッドで大作映画の主役を張るのは時間の問題だっ たが、まさかそれがあのゲームの映画化「トゥームレイダー」 (2001)のリメイクで、アンジェリーナ・ジョリーの演じたヒロイン…ララ・クロフトを演じることになるとは。だが、よくよく考えてみると、女優が大活 躍する活劇映画は多いようで多くない。彼女のハリウッドでの大売り出しにあたっては、これはなかなかイイ企画ではないか。しかも…続篇まで作られてヒット はしたようだが、初代「トゥームレイダー」の作品としての出来そのものは、ハッキリ言って大したものではなかったと記憶している。ならば、フレッシュな ヴィキャンデルで一気に刷新してしまうのもひとつの手だ。これは彼女の決定打になるのではないか。ひとつだけ気になるのは、公開されてからもこの作品の評 判があまり伝わって来ないこと。ひょっとして、本作は当たってないのだろうか。そんな一抹の不安を胸に、僕は劇場へと向ったのだった。

ないよう

  古代の日本に、ヒミコという女王がいた。呪術に長けたヒミコは死の災いをもたらして人々を支配したが、ついに人々は蜂起してヒミコを遠く離れた孤島ヤマタ イに幽閉。それを知った企業家にして冒険家であるリチャード(ドミニク・ウェスト)は、ひとり娘のララを家に置いてヒミコを探す探検へと乗り出す。だが、 リチャードはそのまま消息を絶った。そして幾年月…。ロンドンの格闘技ジムで汗を流しているのは、あれから美しい娘へと成長したララ・クロフト(アリシ ア・ヴィキャンデル)。美しいだけでなく強い…格闘スキルはイマイチでも負けん気だけは誰にも負けない彼女は、ロンドンでたった一人で頑張って暮らしてい た。だが、ジムに通うカネにも苦しむ毎日。自転車宅配便のアルバイトで生計を建てていた彼女は、お仲間が秘かに企画している「ゲーム」に名乗りを上げる。 それは自転車での「キツネ狩り」。キツネのシッポを取り付けた「キツネ役」の自転車を、他の自転車野郎たちが追いかけるというゲームだ。逃げ切れた時にも らえる賞金目当てに、「キツネ役」に志願したララ。早速ロンドンの街を舞台に、派手な追いかけっこが始まった。恐れ知らずの自転車テクで、見事にお仲間た ちを翻弄するララだったが、油断していたらクルマに激突。警察に捕まってしまう。留置場に入れられたララを引き取りに来たのは、彼女を幼い頃から知るア ナ・ミラー(クリスティン・スコット・トーマス)。アナはリチャードのビジネスパートナーで、ララにリチャードの遺産を相続するように促す。だが、それは ララにとって耳にタコの話だった。遺産を相続するということは父リチャードの死を認めること。そう考えるララは、ずっと遺産相続を拒んでいたのだ。だが、 アナから「相続しなければ、リチャードの遺産は人のものになってしまう」と言われれば、いつまでも拒んでいる訳にいかない。かくして観念したララは、巨大 企業「クロフト・ホールディングス」の本社ビルへと向う。ララを待ち受けていたのはアナと財産管理をする弁護士ヤッフェ(デレク・ジャコビ)。いよいよ書 類にサインをしようという時、ララは弁護士が何やら不思議なカラクリ箱をいじっているのに気づく。それも、リチャードの「遺品」のひとつだった。ヤッフェ からカラクリ箱を受け取るララは、たちまちそのカラクリを解いてしまう。この手のパズルは、父リチャードから教えられてお手の物だったのだ。すると、箱か ら出てきたのは1枚のメモと鍵。それを見たララは書類にサインをすることもなく、サッとビルから立ち去ってしまうのだった。ララが向ったのは、自らがかつ て住んでいた豪邸だった。その一角に設けられた墓所にやって来たララは、例のメモの暗号を基に父リチャードの墓に仕掛けられたカラクリを解く。例の鍵を使 うと、そこに現れたのは秘密の地下室への入口だった。地下室は、冒険家としてのリチャードの書斎だった。そこに、彼が調べたヒミコの資料がそのまま置かれ ていたのである。そして、リチャードからララに宛てたビデオ・メッセージも…。「ヒミコの呪いは世界を破滅させる。私は秘密組織トリニティがそのパワーを 狙っていることを知ったが、幸いヒミコの墓がどこにあるかを知っているのは私ひとり。だから、オマエにはすべての資料を焼却して欲しい」…だが、ララはそ こにある資料から父リチャードの足取りを探ることにした。何でもリチャードはヤマタイに行くために香港へ行き、そこでルー・レンという人物から船を都合し てもらったらしい。こうしてララは単身、香港へと向った。だが、着いたとたんに街のゴロツキたちの洗礼を受け、荷物を奪われてしまう。ただ、ララはそのま ま泣き寝入りするタマではなかった。港で逃げるゴロツキどもをどこまで追いかけ、まったく一歩も譲らない。そのうち追跡の果てにある貨物船にまで乗り込ん だあげく、ララはあわやゴロツキどもに襲われそうになったところをひとりの男に助けられる。その人物こそルー・レン(ダニエル・ウー)。ただし、リチャー ドに力を貸したルー・レンの同名の息子だった。そのルーの父親も、ヤマタイへ旅立ったまま行方知れずになっていたのだ。だが、ルーはララに父親たちを探し に行こうと言われても、まるで動く気がない。酔いどれで自堕落な生活をしているルーは、やる気がまったくない男だった。業を煮やしたララは、持ち金すべて を投げ出してこの船を買うと宣言。かくしてルー自らが船を操縦して、問題のヤマタイへとララを連れて行くことになったのだが…。

みたあと
  大売り出しのアリシア・ヴィキャンデル主演で贈る本作、誰が聞いたって「こりゃいい企画だ」と思うだろう。なるほど彼女なら、この作品に新風を吹き込める に違いない。可愛いい女の子が勇ましいアクションをするのだ。ワクワクしないはずがない。それまでの作品でもキュートな魅力を発散していたヴィキャンデル なら、絶対に本作もカッコ良く楽しめるはずだ。タイトルからして勇ましく「ファースト・ミッション」と続篇作る気マンマンである。だが、いきなりケチをつ けるのもどうかと思うが…これって最初からシリーズ化前提にしちゃって良かったんだろうか。一時期ファンタジー映画が大流行してた時に、新シリーズのス タートを宣言して「エラゴン/遺志を継ぐ者」(2006)、「光の六つのしるし」(2007)、「ライラの冒険/黄金の羅針盤」 (2007)…な〜んてのがどんどん公開されてはバタバタと討ち死に。明らかに「つづく」という終わり方なのに、すべて1作目だけで終わってしまった。何 しろ有名な「ナルニア国物語」ですら3作で行き詰まっているのだから、世の中そんなに甘くないのだ。シリーズ化前提とはいささか気が早くないか。いや、む しろ本作「ファースト・ミッション」の前例として考えるなら、地味〜な脇役俳優フレッド・ウォードの数少ない主演作で、シリーズ化狙いながらも1作で撃沈 した「レモ/第1の挑戦」(1985)を引き合いに出すべきか。そんな縁起でもないことを言っては大変申し訳ないのだが、最初から気張って「ファースト」 とか「第1の」とかいうとロクなことがない。さよう、今回ヴィキャンデル嬢が扮するララ・クロフトの「ファースト・ミッション」も、実はあまり芳しい船出 とは言い難いのである。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  まず最初に申し上げたいのは、僕は元のゲームについて何も知らないということである。だから、原作と違う…というようなことで本作をケナす気は毛頭ない。 だが、「トゥームレイダー」という名前が持つイメージぐらいは分かる。実は本作がそのイメージにふさわしいか…というと、かなり微妙なモノがある訳だ。ま ずは「墓荒らし」という意味のタイトルなのに、「墓を荒らす」要素が意外に少ない。誰しも本作には「レイダース/失われたアーク」(1981)的な「宝探 し」「墓荒らし」の要素を期待するだろうが、それって映画終盤にちょっとしか出て来ない。そして墓に仕掛けられたさまざまなカラクリを解いたり、そこで 襲って来る危機から逃れたり…というのがお楽しみのはずなのに、そういう趣向も極めて少ない。戦ったり逃げたり…という普通の冒険アクションの要素がメイ ンなのである。わずかにカラクリを解く場面ですら、ララ・クロフトがどうやってカラクリを解いていくのかを詳しく描く場面は少ない(ほぼ、ひとつぐらいし かない)。後は、彼女がアッという間に難なく解いてしまう。だから見ていてあまりワクワクしない。そもそも、ララは父親を助けたい一心で冒険を行っている ので、墓にはまったく関心がなさそうである。これはさすがに盛り上がらないだろう。さらにアンジェリーナ・ジョリーが演じていたララ・クロフトとはかなり キャラクターが違っていて、本作のララはちょっとアタマが悪そうである。冒頭の自転車での「キツネ狩り」で、すでにボケッと父親のことを考えていて事故っ てる。これは設定上仕方がないとして、香港で着いたとたんに荷物をかっぱらわれるのはアホとしか言いようがない。そんなララ自身の不注意〜アクションとい う段取りが多過ぎて、見ていてイライラする。まだ若くて未熟だった頃のララ…という設定なのだそうだが、アクションのほとんどが彼女がしっかりしていれば やらなくて良かった徒労…というカタチをとっているので、アクションそのものまで楽しめない。例えば滝から落ちそうになった時、何とか途中で引っかかって いる飛行機の残骸に掴まって助かる…という場面があるのだが、このヒロインは安心するのが早過ぎる。それで気を緩めた時に次の危機がやって来る…というこ とを何回も繰り返しているので、見ているこっちは「バカかこいつは」とイラついてしまうのである。また、劇中で何度も首を絞める「絞め技」で相手を倒す場 面が出て来るのだが、さすがに毎度毎度だとしつこい。冒頭にララがこれを練習でやられて負ける…という場面があるので、彼女の成長を象徴するモノとして見 せているのかもしれないが、特に「絞め技」には意味がなくてララ・クロフトといえば「絞め技」という訳でもないのだったら、これは「バカの一つ覚え」でし かない。ワンパターンなのである。大体が父親は「ヒミコの資料を焼却せよ」と言っているにも関わらず、こいつがノコノコ出かけて行くことで問題をこじらせ ているんだから、お話そのものがちょっとアレなのだ。ジェニーヴァ・ロバートソン=ドウォレットとアラスター・シドンズによる脚本、さらにロバートソン= ドウォレットとエヴァン・ドーハティによる原案にかなり問題があったと言わざるを得ない。また、本作はフィヨルドに津波が押し寄せる…というノルウェー産 のパニック映画「ザ・ウェイブ」 (2015)の監督ローアル・ユートハウグのハリウッド・デビュー作とのとことだが、前述のような脚本の不備を埋めることが出来なかったのはさすがにマズ かった。アクションそのものは見応えがある場面も少なくないだけに、ちょっと残念である。だが、最も残念だったのはヒロインのララを演じたアリシア・ヴィ キャンデルではないか。若くて可愛くて伸び盛り、オスカーまで取って今が旬のヴィキャンデルがララ・クロフトを演じるなら、それだけで面白くなりそうなも の。誰だって彼女が演じるアクション・ヒロインが大成功することを疑わなかったに違いない。だが結果としては、彼女はイキイキとした魅力を発散するまでに 至っていない。それというのも、ヴィキャンデルは外見からしてこの手のアクション・ヒロインには向いていないようなのである。肩もあらわなタンクトップ 姿、汗とホコリにまみれてスリ傷をこしらえ、髪振り乱して戦うヒロインに、彼女はどうやら向いていないらしいのだ。それも単純に外見の問題で、髪を持ち上 げて額を出すと、痩せ過ぎなのかオデコが出過ぎて貧相に見える。これが良いとこのお嬢さんみたいな設定でドレスでも着ているならいいのだが、ララ・クロフ トは汗まみれホコリまみれのヒロインである。むき出したオデコにまとめたはずの髪がほずれて、何だか底辺暮らしの若妻が所帯やつれしているみたいに見え る。若い娘のハツラツ感があまり感じられないのだ。これは大誤算ではないのか。一度スクリーンテストをしてから起用すべきだっただろうな…と思わされたも のの、果たして何人がこの結果を想定できただろうか…と思うと気の毒で仕方がない。これは近来マレに見るミス・キャストではないだろうか。ヒミコとヤマタ イの扱いがどうの…ということには、今回はあえて触れないことにする(笑)。本作はそれ以前に、あまりに大きな問題を抱えているからである。

みどころ

 ヒロインと脚本に欠陥があるため、残念な出来映えとなった本作。ただ、アクション映画としては滝の上での脱出場面を含めて、見どころも多い。そして個人的に嬉しかったのは、「香港国際警察」(2003)、「ワンナイト・イン・モンコック」(2004)、「新宿インシデント」(2009)などに出ていた香港のダニエル・ウーがまたまたアメリカ映画に登場したこと。「エウロパ」(2012)、「ウォークラフト」(2016)、「ジオストーム」 (2017)…と意欲的にアメリカ映画に出演しているところを見ると、どうやら本気でハリウッド進出を考えているらしい。だが、それが結果に結びつかず、 作品的にはイマイチな映画ばかりに立て続けに出てしまっているのが悲しい。本作も残念ながら、いい結果にはならなかった。それでもヒロインを助ける大きな 役どころ。大いに目立っているだけに、何とか良い作品に出られればいいな…と思っている。

さいごのひとこと

 生活疲れの若妻の方が似合いそう。

 

「時間回廊の殺人」

 House of the Disappeared

Date:2018 / 04 / 16

みるまえ

 ソル・ギョング主演の「殺人者の記憶法」 (2017)を見に行った映画館はほぼ「韓国映画専門館」と化している映画館なのだが、そこで予告編を見てチラシを手に入れたのが、この映画である。どう やらミステリーもの。だが、ホラーやスリラーが入っているのかもしれない。タイトルがまたスゴくて「時間回廊の殺人」と来る。予告編を見るとどうやら超自 然的現象が起きるようにも感じられるから、ひょっとするとタイムスリップやパラドックスなどが絡むSFなのかもしれない。…などなど、妄想が膨らむ作品 だ。そして本作は、「シュリ」(1999)のヒロインとして強烈な印象を残したキム・ユンジン主演作でもある。彼女を見るのは久々ではないだろうか。これはどうしても気になる。面白そうな空気を醸し出しながら不発…という前例は、「黒く濁る村」 (2010)など韓国映画には数限りなくある。正直言って、予告編を見ていた段階からショボい結果に終わりそうな予感はあった。だが、どうしても本作を見 たい欲求からは逃れられそうにない。キム・ユンジンからまだ韓国映画が良い意味で熱かった頃の雰囲気を味わいたい気分も手伝って、僕は本作を見に劇場へと 飛んで行ったのだった。

ないよう

 それは、激しい嵐の晩だっ た。郊外の一軒家で、その「事件」は起こった。気絶して倒れていた女ミヒ(キム・ユンジン)は意識を取り戻すと、慌てて息子を探し始める。どうやら何者か に襲われたらしく、彼女が意識を失っている間に息子の姿が消えたらしい。やがて恐る恐る地下室へと降りて行くが、そこにいたのは、刺されて血を流している 夫チョルジュン(チョ・ジェユン)。彼はミヒの目の前で息絶えた。ところが次の瞬間、地下室の奥に開いた扉の向こうで、息子ヒョジェ(パク・サンフン)が ミヒに助けを求めるではないか。だが、すぐにヒョジェは後ろから引っ張られるように姿を消し、扉も閉じてしまう。慌ててミヒが扉を開けてみても、そこには 壁があるだけだ。愛する息子を目の前で奪われてしまったミヒは、悲嘆に暮れて泣き叫ぶ…。嵐が上がった翌朝、ミヒは駆けつけた警察によって、夫と息子殺害 の疑いで逮捕された。あまりの悲しみのため、抜け殻のようになって連行されて行くミヒ。彼女は無罪を訴えるが聞き入れられず、息子ヒョジェの遺体が見つか らないまま、ミヒは殺人の罪で服役することになるのだったが…。それから25年、すっかり髪が白くなったミヒが、仮釈放されて例の家に戻って来る。刑事た ちに連れられて「わが家」に戻ったミヒが一人きりになったとき、家の中に明らかに「何者か」の気配が感じられるではないか。そんな時、すでに知り合いなど いないはずのミヒを訪ねて、ひとりの若い男がやって来る。そのチェ神父(オク・テギョン)は、ミヒの身の回りの助けや心のケアをするために訪れたという。 だが、ミヒは心を閉ざすばかり。チェ神父もチェ神父で、単にミヒのケアをするといううより、真相を探りたがっているようにも見える。そんなこんなで、ミヒ はチェ神父を早々に家から追い出したのだった。だが、何より「真相」を知りたがっているのはミヒ自身。彼女はこの家に漂う不穏な気配に怯えながらも、25 年前の事件の発端を回想し始める…。あの頃、ミヒたち一家「4人」は、とにもかくにも平々凡々と暮らしていた。ミヒはありふれた専業主婦。前の夫と死別し た後で再婚したチョルジュンは刑事で、仕事のせいで気持ちが荒むのか、多少粗暴な言動が目立つようになってはいたものの、それ以外は至って普通な庶民生活 である。気がかりといえば…チョルジュンが連れ子のヒョジェと自分の実子である弟チウォン(コ・ウリム)との間で、接し方にあからさまに差をつけているこ とだろうか。そして、もうひとつはこの家のこと…。ある日、ヒョジェとチウォンが偽コインを使ってゲームをやっていたのを見つかって、駄菓子屋の婆さん (キム・ミンジョン)がミヒのもとに文句を言いにやって来る。だが婆さんはこの家に上がると表情が一変。すぐに立ち去ろうとするだけでなく、ミヒに一言忠 告するのだった。「早くこの家を出た方がいい」…。
ここからは映画を見てから!

みたあと
 結果からいえば、本作はホラーであった。一見サスペンス・ミステリーに見えるのだが、すぐに超自然現象が出てくるホラーであることが分かる。しかも本作 は、化け物や亡霊が出て来るホラーではなく、異次元空間みたいなモノをはらんだ「お化け屋敷」ホラーなのである。途中から真相解明に話が進んで行くと、そ れまでの怪奇現象の伏線がどんどん回収されていく。そのあたりは、一応「なるほど」と思わされる巧みさがある。監督のイム・デウンも脚本のチャン・ジェ ヒョンも元々がホラー作品を手がけていたようだから、そのあたりは手慣れたものがある。しかし、だからと言って見終わって面白いか、感心するかといえば、 それは別問題だ。

こうすれば

 確かに巧みに伏線は回収されるのだが、本作の一番のキモである「どうしてこの家ではそんな異変が起きるのか?」についてはまったく理由が明かされない。 そのため、ヒロインらはただただ理不尽な目に遭って不幸なまま終わる。だから、後味がメチャメチャ悪い。彼らがなぜそんな目に遭わなければならなかったの か?…という理由や、なぜその家にはそんな事が起きるのか?…という訳がいくらかでも明かされれば、まだアンハッピーエンディングでも納得がいっただろ う。ただただ、気分が悪いまま終わるのである。しかも、家の中にある「あちら」の世界からこちらの現実世界に戻って来るメカニズムがよく分からない。何と なく矛盾もあるような気がする。また、キム・ユンジンが仮出所で出て来ると白髪になっているのだが、これがドリフのコントみたいなカツラなのも興ざめだ。 ギャグにしか見えないのである。そんな調子で、この映画はどこかうまくいっていない。ただ、ヒロインの夫が刑事でやたらに荒んでいること、どうもかつては それほどではなかったこと…などがちょっと気になる。事件が起きた時代背景は1992年11月となっているようで、この年の年末には韓国で大統領選が行わ れたらしいので、それが何らかの影を落としているのだろうか(ちなみにこの大統領選は最終的に金泳三が勝った選挙で、これによって長年続いた軍人政権が終 わりを告げている)。考え過ぎかもしれないが、刑事の夫の荒み具合がちょっと強烈なので、気になったのである。ただ、やはり映画としては「怖がらせのため の怖がらせ」に終始し、最後にチェ神父の正体が明かされるのも、一頃の韓流映画に流行っていた「衝撃のエンディング」と同様に思えてしまう。確かに驚かさ れはするのだが、だから何なんだ…と言いたくなってしまう。この「お化け屋敷」自体もそれで何かを描くテコにするという訳でなく、単に脅かしたり伏線を 張ったりするための装置でしかないという印象なのだ。キム・ユンジンのカツラがドリフのコントみたいに見えるのも道理で、何かの感情やドラマを描こうとい う意図が見えないのである。

さいごのひとこと

 遊園地のお化け屋敷より空疎。

 

「ヒューマン・ハンター」

 The Humanity Bureau

Date:2018 / 04 / 16

みるまえ
 ニコラス・ケイジ主演作というと、何となく察してしまう。アカデミー賞受賞者にも関わらず、作品数は膨大。毎年コンスタントに主演作がやって来るが、そ の水準が近年すこぶる落ちて来ていることは認めない訳にいかない。特にここ何作かの出来はシャレにならないレベル。そんなニコラス・ケイジの最新主演作は、近未来SFと来た。資源が枯渇し人々が統制された管理社会を舞台にした、い わゆる「ディストピア」ものだ。もう見る前からいろいろと分かってしまうのだが、それでもニコラス・ケイジのガラクタ主演作が好きでSF映画を好きな僕に とっては御馳走。結構楽しみにして、劇場にイソイソ駆けつけた訳だ。

ないよう

 2030 年、地球は環境破壊、資源の枯渇、食糧の不足…によって未曾有の危機を迎えていた。アメリカは厳しい管理社会となっており、「人民省」が人々を統制してい た。特に社会に不要と見なされた人々は、「ニュー・エデン」という収容地区に強制的に移住させられる。そんな人々の強制移動や処分を仕事とするのが、「人 民省」のエージェント。今まさにそのエージェントのひとりノア・クロス(ニコラス・ケイジ)が、いわゆる安全地帯を抜けて人けのない荒野を一路クルマを走 らせていた。彼の今回の使命は、もちろん不適合者の「ニュー・エデン」への排除だ。うらぶれた町の安ホテルにやって来たノアは、ホテルの主人の蔑んだ視線 を浴びながら、目当ての人物が暮らす部屋へとやって来る。そこにいたのは、くたびれたひとりの老人だった。ノアはこの老人に「ニュー・エデン」への移住を 通告する。だが老人は、その言葉への怒りを隠さない。かつて老人は、ホワイトハウスで大統領と会食するような地位だったこともあった。それがどうしてこん なことに…。「私は真実を知っている、ニュー・エデンなどには行くものか!」…老人は銃を持ち出しブッ放すが、それはノアを襲おうとしたホテルの主人に当 たった。そして次の瞬間、老人はノアの銃弾の餌食となった。ノアは任務を遂行したが、そこには何となくやりきれない思いが残った…。安全地帯の都市部にあ る「人民省」に戻ったノアは、上司であるアダム(ヒュー・ディロン)に「ニュー・エデン」について尋ねてみた。一体そこには何があるのか? だが、アダム からの明快な答えはなかった。ただ、任務を遂行しろとの言葉が返ってくるだけだった。そんなある日、再び任務で安全地帯の外部へと赴くノア。そこは、一組 の母子家庭が住む一軒家だった。出迎えた母レイチェル(サラ・リンド)と息子ルーカス(ジェイコブ・デイヴィーズ)は、明らかに怯えていた。家の家計を調 べるノアに、レモネードを振る舞うレイチェル。しかしノアは、ルーカスがそんな贅沢品にありついていないことを、即座に見破っていた。非生産的存在ではな いと必死にアピールして「ニュー・エデン」行きを免れようとしていたレイチェルの苦労も、ベテラン・エージェントのノアの目はごまかせない。しかしノアは 母子を連行せずに、ひとりで安全地帯へと帰って行った。そんなノアの不自然な行動を、上司アダムが見逃しはしなかった。アダムに例の母子の件で詰め寄られ たノアは、息子の歌の発表会が間近に迫っていたため、それを待って連行することにしたと答える。しかし、エージェントとしてのそれまでの優秀な成績に免じ て、今回に限りノアの行動を大目に見たアダムだった。そんな折り、ノアはある知人から「ニュー・エデン」に関する衝撃的な事実を教えられることになるのだ が…。

みたあと
 映画が始まってすぐ、ニコラス・ケイジ扮する「人民 省」エージェントの「仕事」が描かれる。その様子を見ていて、僕は何とも言えない既視感に襲われた。自分が仕留めることになるターゲットの住まいを訪れ、 淡々と相手を連行することについて述べていくケイジ。ジワジワと緊張感が高まっていくうち、ついにその緊張が破れる瞬間がやってくる。ここまでの一幕を見 ていて、すべての設定が一致するという訳ではないのだが、何となくどこかで見たような場面であると感じてしまった。そう…この冒頭部分、何となくあの「ブ レードランナー2049」(2017)の冒頭部分と酷似した印象を受けるではないか。果たして制作時期や公開時期的に両者が関係しているのかどうかは分か らないけれど、あまりに似ているのだ。そういえばケイジの役柄も「ブレード〜」のライアン・ゴズリングと同様に政府のエージェントなのだった。なるほど、 似るのも道理なのである。

こうすれば

  という訳で、冒頭部分から「ブレードランナー2049」を強烈に連想させる本作。ただし、単に似ているという訳ではない。問題の冒頭部分でいうなら、「ブ レードランナー2049」を「超低予算で再現」したような出来映えなのである。とにかくカネがかかっていない。未来都市は遠景から見た「書き割り」みたい なモノしか画面に登場せず、後はほとんど室内。「人民省」のメンバーもせいぜい10人ぐらいしか出て来ない。後は荒れ果てた田舎の原っぱや廃墟だけであ る。低予算も低予算、まるで自主制作映画並みのショボさなのだ。とてもじゃないがアカデミー賞受賞俳優、一時はジェリー・ブラッカイマー製作の大作映画に も主演していたニコラス・ケイジが主演するような映画じゃないのだ。もっともそのケイジ自身、近年は出演作が粗製濫造のきらいがあり、出来映えもトンデモ 航空パニック映画「レフト・ビハインド」(2013)あたりから、かなり怪しいモノになってきていた(そういや先に名前を挙げたジェリー・ブラッカイマー も、近年じゃスッカリ影を潜めてしまっている観があるくらいだ)。だから、今の「ニコラス・ケイジ映画」としては似つかわしいモノなのかもしれないが…。 そして、あまりに低予算なものだから、SF映画として「肝心」なところまでが痩せてしまっている。映画の中盤でケイジ扮する主人公が「ニュー・エデン」の 正体を知って愕然とするのだが、その「正体」を視覚的に表現できなかったのが、本作で最大の残念な点。本来ならここで観客に衝撃を与えられるはずなのに、 まったく不発なのだ。その場面に限らず、本作全体にまったくサプライズがない。ただ予想できるストーリーラインに向って話が淡々と進むだけで、ディストピ アを描く未来SFに衝撃がないというのはさすがにマズいだろう。

みどころ

  だから一般の観客の本作への評価は、かなり低いモノにならざるを得ないだろう。とにかく貧寒な出来映えにしか見えない。ただその一方で、実は僕としては本 作をあまりキライになれない。あまりに低予算で寒々しいことや、映画としての視覚的衝撃に乏しいこと、お話にサプライズがないこと…については十二分に承 知しながらも、意外に本作が手堅くキッチリ作ってあるのは間違いないからだ。あまり面白味はないと認めざるを得ないが、何とか低予算で未来SFを作ろうと している努力は分かる。ケイジ自身もいつものように目をひんむいての怪演は影を潜めており、抑えめな感じだ。演出も脚本も誠実に作っていることは間違いな い。ただ、その結果、かなり地味な作品にもなってしまっているのだが…。個人的にはメチャクチャにカネがない中を何とかかんとか未来SFを作ろうとしてい るあたり、かつて素人8ミリ映画を作っていた自分としては、その出来映えとは関係なくどうしようもなく共感してしまうのだ。

さいごのひとこと

 ショボくなる一方のニコラス・ケイジ映画。

 

「ラッキー」

 Lucky

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

  名優にして名脇役のハリー・ディーン・スタントンが、昨年9月に亡くなったニュースは衝撃的だった。だが、もうかなり前から高齢だった印象もあるし、そも そも近年は日本に来る作品数も激減していたから、何となくもうそろそろだよなと納得しちゃったところもある。そんな彼が晩年に主演作を残していたと知り、 ビックリ。それがこのタイミングで日本公開となった。その名も「ラッキー」。どう見ても小品だが、その佇まいが万年脇役だったスタントンに合っている。主 演作といえば、ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(1984)ぐらいしか思い浮かばないからなぁ。そんなスタントン主演作は、上映時間も90分に 満たないという超コンパクトな作品。これがまたこの人に合っている。近年の僕の生理的にも、短い映画はいい。これは見るしかないだろう。

ないよう

  西部の荒野。よく見ると大きなリクガメがゆっくりと移動中である。そんな荒野の真っただ中にある小さな町に、ラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は 一人で住んでいた。枯れ木のような風貌のラッキーは、高齢にも関わらず毎朝目が覚めるとラジオをつけて、コーヒーを飲み、下着姿で運動を始める。ヒゲを剃 り髪を整え、キチンと身繕いをして出発だ。行く場所も決まっていて、馴染みのダイナーである。店の主人ジョー(バリー・シャバカ・ヘンリー)と憎まれ口を 叩き、ウェイトレスのロレッタ(イヴォンヌ・ハフ・リー)にコーヒーを入れてもらう。そして店のカウンターでおもむろに新聞を広げ、クロスワード・パズル に興じる。だが、ほとんど思いつかず、人に聞いてばかりだ。ダイナーを出ると、これまた毎度同じ店に立ち寄る。ここで毎日飲むミルクとタバコを買うのだ。 ラッキーは高齢でもタバコをやめようという気はない。メキシコ系の店員ビビ(バーティラ・ダマス)も顔なじみである。自宅に戻ると、楽しみにしているテレ ビ番組を見る。見ながらまたしてもパズルだ。だが、やっぱり分からないので、電話して人に尋ねたりする。夜になると、これまた行きつけのバーにやって来 る。店のママであるエレイン(ベス・グラント)と同棲しているかつての伊達男ポーリー(ジェームズ・ダーレン)やハワード(デヴィッド・リンチ)といった 常連客と、ブラッディ・マリアをなめなめ気の置けない会話を楽しむ。その日は、ハワードが飼っていたリクガメに逃げられて意気消沈していた…。これがラッ キーの日常だ。十年一日のごとく変わらない。ところが、そこに変化が起きたのがある日のこと。朝、目が覚めて、調子が悪いコーヒー・メーカーを見つめてい るうちに、それは起きた。なぜだか分からないが、ラッキーは気が遠くなって突然その場で倒れてしまったのだ。慌てて医者に看てもらったラッキーだが、医者 のニードラー(エド・ペグリー・ジュニア)に言わせると異常がない。急に生活を変えると良くないから、タバコも止めない方がいいとさえ言われる始末であ る。だが、スッキリしない。ダイナーに行けばいつもの時間に来ないので心配され、「倒れた」と知られると大騒ぎされて落ち着かない。何となく面白くない ラッキーは、ついつい道端の空き缶などを蹴り飛ばしてしまうのだった。そんな風に、平凡な日常をわずかながらかき乱されたラッキーだったが…。

みたあと

 ハリー・ディーン・スタントンという人、考えてみればどの映画に出てもあまり変わらない印象がある。思いつくまま挙げてみても、「エイリアン」(1979)、「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)、「レポマン」(1984)、「ストレイト・ストーリー」(2003)…とゾロゾロ出てくるし、それぞれの作品もバラエティに富んでいる。今、出演作リストを見たら、何の役で出ていたか忘れたが「アベンジャーズ」(2012)にも出ていたと知って二度ビックリ。ともかくいろいろな作品に出ていた彼だが、思い返してみるといつも同じような風貌だったように思う。そんなスタントン出演作の中で、僕が一番印象深いものを挙げろと言われたら、文句なしに挙げたいのが「プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角」 (1986)。当時一世を風靡したジョン・ヒューズ青春映画の中でも最大の話題作(といっても、ヒューズは本作ではプロデュースのみ)で、モリー・リング ウォルドが有名になった作品でもある。この中でスタントンは、リングウォルド扮する貧乏なヒロインのウダツの上がらない父親を演じていた。笑っちゃうのは そんなパッとしないスタントンが、ヒロインに思いを寄せる幼なじみジョン・クライヤーから「歳だからって気落ちしないで。ティナ・ターナーだっています し」などと慰めにならない慰めを言われて苦笑する場面。当時、ティナ・ターナーは久々の復活を遂げていた頃だからタイムリーなギャグだった訳だが、それを 言われたスタントンの表情が傑作だった。そんな頃から、スタントンはしなびたオッサンだった訳だ。そんなスタントンのイメージが、本作では全編に押し出さ れている。そこには1ミリのブレもない。思った通りのスタントンのイメージで映画は作られているのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  本来ならまったく驚きのない映画とはホメ言葉じゃないはずだが、本作に限ってはこれはホメ言葉…それも最大限の賛辞である。本作はハリー・ディーン・スタ ントンのための映画であり、そして、それでいいのである。それ以外のものを、この映画の観客は見たいと思っていない。じっくりハリー・ディーン・スタント ンを見ていたい、ただそれだけである。お話としては淡々とした老人の日常を描いているため、結果的にジム・ジャームッシュの近作「パターソン」 (2016)と非常に似た肌触りの作品となった。あの、ロシア民謡「一週間」を思わせるような、「月曜日に〜をして、火曜日には〜する」みたいな変わらな い日常が淡々と繰り返され、そこに生じるわずかな違いが味わいとなるような作風である。そして「パターソン」と同じように、こちらも見ていてジワジワとし た味わいのある、いい感じの作品に仕上がった。面白いことに「パターソン」では主人公の行きつけのバーの主人を演じていたバリー・シャバカ・ヘンリーが、 こちらではダイナーの主人として出演しているのだが、これは果たして偶然なのだろうか。また、スタントンを「ワイルド・アット・ハート」(1990)、 「ストレイト・ストーリー」、「インランド・エンパイア」(2006)などで監督として起用していたデビッド・リンチが、どういう経緯でかは分からないが役者として出演しているのも面白い。役者リンチは決してうまいとは言えないが、独特な「変な感じ」は出ていたと思う。こんな味わい深い作品の監督を務めたのは、何と「ファウンダー/ハンバーガー帝国のヒミツ」 (2017)で本当のマクドナルドの創業者兄弟の兄を演じたジョン・キャロル・リンチ。こちらも名傍役だが、こんな才能を持っていたとは驚きである。確か に全編淡々としたお話でそれなりに味わいのある脇役を配置し、中心にブレないスタントンをドンと置けば「イイ味」の作品はおのずから出来るように思える が、実はこの「淡々」ぶりはただ撮っていれば出て来るというものではない。しかもただ淡々と語っているように見えて、バーの裏口でいきなり知り合いが姿を 消してしまうあたりに見せた、それこそデビッド・リンチ作品にも似た奇妙さや怖さ、そして凄みはちょっとタダモノではないと思う。単に「淡々」と描くだけ の人なら、こんな場面は描けなかったはずだ。正直に言うと、時々「現実主義とは“モノ”らしいぞ」などと生硬でこなれてないセリフが出てきて、禅問答みた いなことを言ったりするあたりが少々引っかかるといえば引っかかる。だが、それを差っ引いても余りある部分が本作にはある。特に知り合いの店員から息子の 誕生パーティーに招かれる場面は秀逸で、メキシコ系の人々に取り巻かれ、あちらの歌が披露されるあたりは圧巻だ。考えてみると…本作は主人公が意識する 「死」のイメージが全編に漂っている印象だが、メキシコといえば例の「死者の日」のお祭りで有名なように、どこか「死」とは切っても切れないところがある のだろうか。そういえばこのメキシコの「死者の日」を背景にしたジョン・ヒューストンの「火山のもとで」(1984)でも、全編に「死」のイメージがべっ とりとこびりついていた。僕があまりに無知なためにハッキリと断定できないのだが、おそらくは本作には単なる「淡々」だけでないそうした「死」の闇みたい なモノもチラついているように思う。だからこそ、本作は山椒は小粒でもピリリと辛い作品に仕上がっているのだ。僕自身すでにもう若くはなく、老いた母親を 持つ身だから、本作で描かれた話はまったく人ごとではない。特にここ最近は、「死」を考えない日は一日もない。その意味では、本作は僕にとって「パターソ ン」と同等に、いや、それ以上に心に残る作品になったのである。

さいごのひとこと

 タイトルは生きてるだけで儲けモノという意味か。

 

「フェリーニに恋して」

 In Search of Fellini

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

  この映画についてはまったく事前情報なし。「フェリーニに恋して」っていうんだから、映画に対するオマージュに満ちた作品なんだろう。映画ファンのための 映画。ただ、オマージュの対象がフェリーニってのがちょっと敷居高そうな感じ。ハリウッドスターやらハリウッドの古典名作っていうなら共感度高いと思う が、フェリーニとなると一気に主人公はかなりの映画ファン、それもポップコーンを抱えて映画を見る類いの映画ファンではないと思われる。当然、広い観客層 の共感はなかなか得られないわなぁ。でも、ポスターやら宣伝のビジュアルを見ると、主役はウブっぽくて清純派タイプの女の子。これは一体…? 正直こちと らも古参の映画ファンとなって来たものの、フェリーニ好きかと言われると「???」…。じゃあ、何でこの映画を見に来たんだと言われれば、実はちょうど上 映時間が自分の都合と合っていたのがこの作品だったから。それと、一応映画ファン向けの映画だったら退屈しないんじゃないか…という予想もあった。監督も 知らない奴だし主演者たちもイマイチご存知ない。果たして本作はどんな映画だったのだろうか?

ないよう

  リアリズムは悪い言葉だ、そこには真実しかないからである…フェデリコ・フェリーニ。ゆっくりゆっくりと古い家に近づいていくイメージ。そこに混乱や喧噪 のイメージが重なる。そんなイメージ溢れる夢からハッと目覚めたのは、若く美しい娘ルーシー(クセニア・ソロ)。彼女が何者なのかを説明するには、ちょい と回りくどい話をしなくてはなるまい…。昔むかし、幼い姉妹がいた。姉のクレアは現実よりも夢の世界にこもる、夢見る夢子ちゃん。妹のケリーは時には相手 をブチのめすことも辞さないタフな娘で、ふたりは対照的な姉妹だった。夢見るルーシーは恋愛にも夢見過ぎで、つかまえるのはクズ男ばかり。結局、妊娠して 愛する娘を授かる。それがルーシーだった。母となったクレア(マリア・ベロ)は娘のルーシーにも自分の理想を押しつけ、「現実」をルーシーから遠ざけた。 飼っていたペットが死んでもその死を告げず、どこかに旅立ったのだ…とペットが寄越したハガキを手渡す。娘のルーシーもまた、そんなクレアの言葉を信じた フリをして受け入れた。ルーシーに初めてカレシが出来ても、彼女が男から「傷つけられる前」に遠ざけてしまい、カレシはどこか遠くに引っ越したことになっ てハガキが渡された。「現実」が服を着て歩いているようなガサツな妹ケリー(メアリー・リン・ライスカブ)も遠ざけられた。そんな純粋培養されたようなま まで二十歳になったルーシーとクレアは、まるで姉妹か双子のよう。ところが、そんなクレアの人生に突然の陰りが現れる。激しく咳き込んだあげく、大量の血 を吐いた彼女は、慌てて病院の診察を受けた。その結果は、不治の病によって近くクレアが命を失うという事実。この残酷な運命を知ったクレアは、隠しきれず にその心配をケリーに吐露した。当然、最大の心配は残される娘のルーシーである。高校を出てから家でクレアとふたりきりだったルーシーは、学歴もなければ 職歴もない。友だちもカレシもいない。職を得るための技術もない。単に子供っぽい我流のマンガを描くだけ。自立など夢のまた夢で、ケリーから見ても深刻な 状態である。だが、深刻に受け止めたのはクレアとケリーだけではなかった。そんなふたりの会話を盗み聞きしてしまったルーシーも、自らの置かれた状況を初 めて認識したのだ。さすがにマズいと分かったルーシーは、クレアとケリーに突如「就活宣言」をする。新聞の求人広告を見て、面接に行くと決めたのだ。「映 画づくりに興味ある者求む」という広告の怪しさに気づかないのだから、「現実派」を自認するケリーですら相当現実離れしていると言わざるを得ない。だが、 クレアとケリーも心配する点は、ルーシーがちゃんと面接をやり遂げられるのか…ということと、面接がここオハイオの田舎町ではなく大都会クリーブランドで 行われること。ルーシーはルーシーで家にある古いベスパのスクーターでクリーブランドまで行こうというのだから、浮世離れにも程がある。そんな訳で、完全 におのぼりさん的ななりでクリーブランドの面接場へとやって来る。ビルの前にベスパを停めて、不安げに面接場のあるビルを見上げていたルーシー。そんな彼 女の目の前に、ヒゲづらでハダカの上半身にクサリを巻いたたくましくもむさ苦しい男が立っていたのは、何かの予感か前触れだったのだろうか。ともかく面接 場である事務所にやって来ると、待合室にはけだるそうな女たちが順番を待っている。そこでは明らかにルーシーは浮き上がった存在だ。やがて名前を呼ばれ て、意気揚々と面接する男の前に現れたルーシーは、仕事に就くための意欲に満ちていることを力説。面接の相手もルーシーを大いに気に入った。だが次の瞬 間、待機していた女たちが面接の一環として胸を露出させられるに至って、さすがに空気の読めないルーシーも状況を察した。慌てて事務所を逃げ出したルー シーだったが、ビルを飛び出してすぐに愕然。ビルの前に停めたベスパが、駐車違反でどこかに消え失せているではないか。打撃に次ぐ打撃に打ちのめされた ルーシーだったが、その時、先ほど妙に気になった上半身ハダカの男が再び目の前に現れる。ついついその男を目で追ったルーシーは、まるで誘われるように男 の行く先へと導かれる。すると、そこには人だかりのする名画座が…看板には晴れがましく大きな文字が踊っていた。「フェリーニ映画祭」…それまで映画と言 えば、母のクレアと一緒にビデオがすり切れるまで見た「素晴らし哉、人生」だけだったルーシーは、当然のことながらフェデリコ・フェリーニなる映画監督の 存在など知る由もない。だが、その映画館に集まる人々の華やいだ雰囲気に触れ、映画館に貼り出されたフェリーニ自身のメッセージを目にして、ルーシーはこ の催しが自分にふさわしいものであると感じていた。いわく…「夢想家こそ唯一のリアリストである」。やがて始まったフェリーニ映画「道」が、ルーシーに決 定的な衝撃を与える。すぐに手当り次第にフェリーニ映画のビデオをかき集めて帰宅したルーシーは、その日からそれらの作品群をむさぼるように見続ける。そ れは、まさに運命的な出会いだった。すっかりフェリーニに入れ込んだルーシーは、勢い余ってイタリアに国際電話。どこをどう探したのか、かかったのはフェ リーニその人のオフィス。電話口に出ていたマリオなる人物は、「じゃあ明日の3時に来い」と呆気ないほど簡単にアポを入れてくれた。入れてくれたはいい が、ここはオハイオの片田舎。ローマは遥かに遠い。おまけにルーシーは、箱入りもいいとこの世間知らずである。さらに母クレアの容態は、余談を許さない状 況になりつつあったのだが…。

みたあと

 … という訳で、カマトトみたいなオボコ娘のルーシーがイタリアに単身乗り込むまで30分経ったか経たないか。だが、すでにこの段階で僕はイヤ〜な予感がして いた。ルーシーは「道」(1954)を見てフェリーニにのめり込むが、もうその時点で実はついていけない。僕には「道」に苦い思い出がある。高校の時に映 画研究会に入ろうとして、先輩に見せられた映画が「道」なのだ。偉そうな先輩に無理矢理見せられたというだけで、僕の中で「道」の印象は最悪。好きな方に は大変申し訳ないが、「道」というと条件反射的に拒否反応が出る。こんな「名作」なのに、いまだに僕は好きになれない。実際に大半のフェリーニ映画が公開 からリアルタイムで見れた訳でもないこともあって、好きになったフェリーニ作品はやっと「アマルコルド」(1974)からといった案配。そのせいという訳 ではないが、僕にとって本作は最悪の映画鑑賞となった。だが、それは僕が「道」を好きでないから…ではないと思う。確かに超箱入り娘のルーシーは、「夢想 家」と言えるかもしれない。だから「夢想家こそ唯一のリアリストである」というフェリーニのメッセージを見て、共感するのも分からないでもない。だが、い きなりフェリーニ作品の中でもよりによって「道」を見て、フェリーニの世界に心酔するようになるものだろうか。ルーシーは「夢想家」なのかもしれないが、 フェリーニのコメントにある「夢想家」とは違うのではないか。フェリーニの言う「夢想家」とは、シビアな現実を十分知った上での、あえての「夢想家」であ るはずだ。特に「道」という作品から考えて、そうでなければおかしい。だが、ルーシーは「夢想家」というより、「世間知らず」で「現実逃避」している人物 に他ならない。これはまったく違うのではないか。そのことひとつとっても、本作はどこかおかしい。正直に言って、本作は何とも好きになれない映画なのであ る。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  本作が始まってすぐに「ほぼ実話に基づく」と出て来る。となると、本作は脚本を手がけたナンシー・カートライトの「自伝」的な作品ということなのだろう。 だが、自伝的作品というのは、得てして自己満足なモノになりやすい。果たして本作も「自己満足」の度合いが極端に高い作品に成り下がっているのである。ま ずはともかく「好きになれる登場人物」が出て来ない。映画が始まってすぐ、非常に性格が歪んだクレアの現実逃避的なキャラクターが紹介され、娘ルーシーに 対する偏った育て方が描かれる。その結果、ルーシーは二十歳にもなるのに何も出来ない人物となり、クレアの妹ケリーもそれを指摘するのだが、それに対して クレアは何ら批判されないまま。ルーシーに対する抜本的対策も講じられず、ただただ現実逃避の先送りがなされるだけだ。まず、これだけでもついていけな い。おまけに、ルーシーが初めて自立のために動き出した先は、どう見たって怪しいポルノ業者。それに気づかぬルーシーはおろか、クレアもケリーも同じくら い世間知らずだ。一種の寓話として描きたいんだろうが、登場人物が過剰に愚かだと、見ていてバカらしくなって来るのである。ルーシーにしても、いくら箱入 り世間知らずとはいえ、これじゃあどこか脳に欠陥があるとしか見えない。しかもカマトトにも程がある。イタリアでも男にホイホイついていき、一度ならずヤ バい目に遭ってもいる。あれを見ていてイライラした僕は、いっそこのルーシーが変質者に惨殺でもされれば盛り上がるのに…と思ってしまったよ(笑)。さら にこのルーシーがバカなだけならいいが、ロクに自分の落ち度を謝れないのもイライラする。フェリーニのスタッフらしい人物がアポを取ってくれたのに、一度 ならず二度もスッポカす。僕も見ていて、こいつこんなにゆっくりしていていいのか?…と思っていたが、最初から間に合わせるつもりがなさそうなのだ。おま けに謝ることもなく、言い訳並べて見苦しいばかり。最後には逆ギレというテイタラク。フェリーニのスタッフが彼女を「あなたはあまり賢くないね」とズバリ と指摘するのだが、的確過ぎて笑ってしまった。しかも、賢くないばかりでなく謝りもしないのだから、性格も悪いのである。そしてカマトト。いいところが まったくない。作品全体としても、フェリーニのオマージュとして映画ファンを楽しませてくれる訳でもない。フェリーニ作品からの引用らしき場面がチラチラ 出て来るし、喧噪に満ちたクラブやみだらな秘密パーティーなどいかにも「フェリーニ的」場面が続出するが、それらが通り一遍にフェリーニ映画をかじった人 間による「フェリーニ的」にとどまっているのも辛い。三流の役者と三流の演出家がなぞる「フェリーニ的」なんて、見るも無惨なものだ。街のど真ん中にある 塔のてっぺんから、デカい声で「フェリーニ!」「フェリーニ!」と大声で叫ぶくだりに至っては、恥ずかしくて映画を見るのをやめようかと思ったよ。それど ころか、見ていて思わず2度も舌打ちしてしまった。マナー違反とは分かっていたが、無意識にやらずにいられないほど酷い映画なのだ。結局ルーシーはフェ リーニを探しに行きながら、絵描きのイケメンに引っかかってやられちゃっただけ。自立だの何だの…については何ら解決はされないままである。まったく酷い キャラクターであり、映画である。これが自伝だと言うなら、僕は脚本を書いたナンシー・カートライトという女とは個人的に知り合いたくない。自己評価が極 端に甘い、ロクでもない女であることは間違いないからだ。イケメン絵描きが最後に出て来て、オレこそがオマエにとってのフェリーニ…って、寝言も休み休み 言っていただきたい。監督のタロン・レクストンも、これが人様からカネをとって見せられる作品だと思っているのかね。田舎の青臭い映研のガキンチョだっ て、もうちょっとマシなシロモノを作ると思うよ。こんな映画が、わざわざ海を渡って日本まで輸入されたことが驚きである。今度ばかりは配給会社の猛省を促 したい。

さいごのひとこと

 あの世のフェリーニも迷惑だろう。

 

「マンハント」

 追捕 (Manhunt)

Date:2018 / 04 / 09

みるまえ

 ジョン・ウーが「レッドクリフ Part I」(2008)と「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」(2009)をブッ放した時には、いかにもハリウッドからの凱旋という感じで華々しさがあった。何しろ天下のトム・クルーズ主演で「M:I-2」 (2000)まで撮ったんだから、まさに登り詰めた観があった。その勢いを引っさげての中国語圏映画への帰還だから、華やかさもひとしお。長年の盟友だっ たチョウ・ユンファに蹴られるというちょっとしたガッカリはあったが、作品的にも興行的にも成功して、見事に「錦を飾る」ことが出来たように思う。しか し、その後のジョン・ウーはパッタリ鳴りを潜めた。実は1本監督作を発表していたようだが、日本公開はされず地味〜な扱い。僕もその存在をスッカリ忘れて いた。そんなジョン・ウーが、久々に新作を手がけると聞いたら、そりゃ期待せざるを得ない。だが、問題はそこで手がける題材である。ジョン・ウー久々の新 作は、何とリメイク作。それも往年の日本映画のリメイク作である。その名は「君よ憤怒の河を渉れ」(1976)。この作品名を聞いて、僕はワクワクより も…正直ちょっと複雑な心境になった。確かにこの映画は中国では大ヒットしたらしい。主演の高倉健も、これによって中国で大スターとなった。ジョン・ウー は香港の人だが、やはりこの作品にひどく惹き付けられたという。しかし…ではこの映画は本当に素晴らしい出来映えの作品なのかというと、実はちょっと微妙 な出来映えの作品なのである。どうなんだこれは。ただ、さすがのジョン・ウーだけにそのまんまリメイクはしまい。イマドキの目の肥えた観客の鑑賞にも耐え られる、ちゃんとした作品にするに違いない。何でもオール日本ロケでジョン・ウーが撮るアクション映画ということらしいから、それはそれで楽しみだ。だ が、ここでもうひとつ難問が…主演が福山雅治というのである。ファンの皆さんからすれば、ここでおお〜っと来るのだろうが、申し訳ないが僕はこの人が役者 としてどうなのか分からない。アクションも心配だが、それ以前に芝居が大丈夫かと不安になって来る。せっかくあのジョン・ウーが、彼本来のフィールドであ る現代アクションをこの日本で撮ってくれるというのに、「君よ憤怒の河を渉れ」と福山雅治…という2点で一気に危うい雰囲気を醸し出し始めたのだ。案の 定、映画が完成して公開されても、大絶賛という空気ではない。巷の人々の感想も、どうも奥歯にモノの挟まった感じだ。そんなこんなしているうちに、劇場数 がどんどん減って上映が終了しそうな雰囲気。僕はとりあえず慌てふためいて、池袋までわざわざ本作を見に出かけた次第である。

ないよう

  演歌が流れ、夜の帳が降りる頃…ここは日本のある街の小料理屋である。他に客もいない店のカウンターでひとり酒を飲んでいたのは、中国人の弁護士ドゥ・チ ウ(チャン・ハンユー)。彼は着物姿の店のママ相手に、ちょっと昔の映画の話に花を咲かせていた。何となく、いい雰囲気が漂うふたり。だが、店のママはも うひとりのママに目配せされ、店じまいするという口実で渋々ドゥ・チウを外に追い出した。だが、それがウソだったのは皆さんお察しの通り。すぐにこの店に は、恐ろしく柄の悪いお兄さんたちが多数やって来た。今夜はこの柄の悪い連中の貸し切りの宴会で、連中は座敷で早速酒盛りを始める。こんな連中相手にこの お姉さんたちふたりでは手に負えないだろうと思いきや、さにあらず。ふたりのお姉さんたちは着物姿をサッと振り乱し、隠していた銃を宴会の席向けて撃ちま くる。いかにコワモテのお兄さんたちでも、無防備なところを襲われてはひとたまりもない。たちまち座敷には、血まみれの屍の山が築かれてしまう。このふた りのお姉さんたち…最初にドゥ・チウといい雰囲気になっていたレイン(ハ・ジウォン)と女子プロレスみたいにガタイのいいドーン(アンジェルス・ウー) は、何と殺し屋だったのだ…。それから間もなくのこと、ここは大阪のど真ん中。インテリジェント・ビルを借り切って、日本有数の製薬会社である天神製薬の 創立記念パーティーが盛大に開催されていた。大勢の招待客を前にしてスピーチをぶつのは、天神製薬社長の酒井善廣(國村隼)。近い将来に後継者となる息 子・酒井宏(池内博之)を紹介して、酒井父子による磐石の体制をアピール。そこで天神製薬の訴訟問題を解決した恩人として名前が挙げられたのが、先ほどの 中国人弁護士ドゥ・チウだ。宴たけなわとなる頃、天神製薬の社長秘書(TAO)に言い寄られるドゥ・チウ。だが、ドゥ・チウに迫る女は彼女だけではなかっ た。いつの間にか現れた遠波真由美(チー・ウェイ)という女が、ドゥ・チウを魅了する。かくしてドゥ・チウと真由美は、パーティーを抜けて夜の街へと消え て行くのであった。それからしばらくして、自宅へと戻って来たドゥ・チウだったが…。翌朝、ドゥ・チウが自室のベッドで目覚めてみると、隣には例の社長秘 書が横たわっている。だが、それは死体だった。それに気づいたドゥ・チウが衝撃を受けるのと同時に、たまたま部屋に入って来た掃除のオバサンが絶叫する。 「人殺しぃ〜!」…驚いたドゥ・チウだが、何がどうなったのかは自分でも分からない。駆けつけた刑事たちにも、何も話すことがない。昨夜ここで起きたこと は、すっかり頭から飛んでいるのだ。しかし、現場にやって来た大阪府警の浅野警部(トクナガクニハル)は、頭からドゥ・チウを犯人と決めて譲らない。結 局、ドゥ・チウは手に手錠をかけられ、連行される羽目になってしまう。だが、浅野警部と部下たちはドゥ・チウを連れて建物から出るや、ナゾの行動に出た。 何と暗にドゥ・チウに逃亡を促すような態度を見せるのだ。このままでは是が非でも犯人に仕立てられることは間違いないと確信したドゥ・チウは、行きがかり 上、彼らをまいてその場を逃げ出した。この瞬間、ドゥ・チウは文字通り逃亡犯に仕立てられたのであった。一方、子供を人質にしたテロリストが、バスに爆弾 を仕掛けて警察と睨み合うという事件が勃発。だが、そこに単身やって来たのが、一匹狼の刑事・矢村聡(福山雅治)。矢村は度胸と腕っ節とハッタリで、見事 あっという間に事件を解決。今日も矢村は絶好調だ。だが、そんな凄腕の矢村に、いつもと勝手の違う話が持ちかけられる。新米の女刑事・百田里香(桜庭なな み)の世話を押し付けられてしまったのだ。里香は大いに張り切っているのだが、肩に力が入り過ぎて空回り。だが、矢村はいつものペースを崩さず、里香とし ては大いに戸惑わざるを得ない。そんな矢村と里香に、緊急任務が飛び込んで来る。例の中国人弁護士ドゥ・チウが地下鉄構内に逃走したというのだ。ドゥ・チ ウが逃げ込んだとおぼしき地下鉄工事現場付近にやってきた矢村は、ヘルメットを被った作業員のなかに不審な人物をひとり見つけた。早速、その人物に近づい て行った矢村だが、ちょっとした隙にこの人物に里香を人質に取られてしまうではないか。思わず睨み合うふたりの男。その瞬間が、刑事の矢村と容疑者の ドゥ・チウの最初の出会いだった…。

元ネタ「君よ憤怒の河を渉れ」とは?

 それにしても、天下のジョン・ウーがリメイクしたのが日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」とは、ちょっと驚きであった。もちろん「君よ〜」が中国で大ヒット したということは、僕もよく知っている。そのせいで中国で高倉健の人気が絶大であり、それがチャン・イーモウの「単騎、千里を走る。」 (2004)出演につながったことも知っている。だが、まさかあのジョン・ウーが…である。それに、「君よ〜」自体も大ヒットしたのは中国だけ。日本本国 ではそんな当たった映画ではない。そもそも高倉健主演作の中でも「八甲田山」(1977)や「幸福の黄色いハンカチ」(1977)などのように質の高さで 評判が高い作品ではない。実は、むしろかなりトンデモな内容の作品なのである。大映の元社長だった永田雅一が独立プロで製作した作品で、監督の佐藤純彌は 「新幹線大爆破」(1975)の好評を受けての起用だったはず。新宿ど真ん中を多数の馬が疾走したり、セスナ機で強引に着水したり、ヒグマと戦ったり…と あの手この手の見せ場を盛り込んだアドベンチャー大作を狙ったのだろう。だが、結果はまったくそうなっていない。冒頭、いきなり女が警官に強姦されたと訴 えるという唐突さもさることながら、前述の見せ場もセスナ機は風呂場でオモチャを湯船に落っことして撮ってるみたいだし、ヒグマは着ぐるみ丸出し。脚本も セリフもあちこちヘンで不自然極まりなく、「新幹線大爆破」の緻密さのカケラもない。音楽もまた悶絶したくなるシロモノで、オープニング・タイトルに流れ るスキャットはまだ序の口。緊迫感が漂うべき場面にピクニックみたいな楽しげな曲が流れるのは、まったく理解に苦しむ。しかも後々考えてみると、それって 有名な「第三の男」(1949)のテーマ曲をパクって、パクリ損なった結果そうなってしまったらしいから情けない。そんなこんなで無茶な映画なのだが、前 述の新宿で多数の馬が…という場面は本当に新宿で馬を放ってゲリラ撮影したらしく、それはそれで唖然呆然な光景。とにかく「怪作」であることは確かなの だ。ところが、これが文化大革命の閉塞感から脱したばかりの中国で大ウケしたというから分からない。おそらく「娯楽映画」というものに接したことがないか ら…ということなのだろうが、香港のジョン・ウーもこの映画に思い入れがあったということは、中国語圏全般にわたって受け入れられたのだろうか。また、佐 藤純彌監督・高倉健主演のタッグということで考えると、この作品をふんだんにお金をかけて脚本も書き直し、それなりに作り直してみれば、後年のご両名の タッグ作「野生の証明」(1978)みたいになるのかもしれない。以上、荒っぽく駆け足で説明させていただいたが、そんな感じの作品である。

みたあと
 そんなトンデモ映画を、ジョン・ウーがなぜ、そしてどのようにリメイクするのか? ただハリウッドでも成功したジョン・ウーなのだから、まさかあの「君 よ〜」をまんまリメイクするはずはあるまい。あるいは、原作を再映画化ということで、あのトンデモ感を払拭するのかもしれない。本作を見るまで、僕はそう 思っていた。だが、何となく不安を覚えたのは、この映画の評判がまるで聞こえて来ないこと。これほどの話題作が、なぜあまり語られていないのだ? 本作を 見て、そのナゾが解けた。本作はまぎれもなく、「君よ憤怒の河を渉れ」のリメイクである。原作を映画化し直したという訳ではない。お話も設定も前作とは異 なっているが、何より前作のスピリット(笑)を忠実に受け継いでいる。なぜなら、本作もまたトンデモ映画に他ならないからである。

こうすれば

 前作は強姦、今回は殺人と違いはあれど、濡れ衣着せられるのには変わり なし。さすがに「君よ〜」ほど唐突で取ってつけたような設定ではないにしろ、今回も相当ムチャなシチュエーションである。だが、そのこと自体は今回問題に したくない。さらにお金のかけ方がハンパないため、湯船にセスナ機のオモチャ…とか、着ぐるみのヒグマ…みたいなイタい場面も出て来ない。「第三の男」 テーマ曲のパクリ音楽みたいな、センスのないこともしていない。そういう意味ではかなりのレベルで、前作のトンデモ度は改善されている…はずである。しか し本作は、また別の意味で頭を抱えてしまうシロモノになってしまった。全編、見ていて鳥肌が立つような違和感がつきまとうのである。それが主に感じられる のは福山雅治の演技で、実は見ていて何とも生理的に気持ち悪かった。福山ファンにはまことに申し訳ないのだが、気取っているのか凄んでいるのか、何とも気 色悪い芝居をしているのである。そこに新米女刑事の桜庭ななみが一枚噛んでくるのだが、これまた福山とのコンビネーションの悪さがハンパじゃない。さらに 上司である竹中直人まで加わると、ミスマッチ感はさらに倍増。いずれも演技の違和感がスゴいのだが、福山のそれは頭一つ抜けてる感じだ。もちろん、芝居は 本人の演技力のせいなんだろうと言いたいところ。だが、他の作品での福山の演技を見ていない僕としては、そのあたりを判断できない。果たして他の映画で も、福山はこんな気持ち悪い芝居をしているのか。誤解を招くといけないのでハッキリさせていただくと、芝居がヘタ…以前に生理的に気持ちが悪い芝居なので ある。これは福山の芝居のせいと言えるのか? さらに日本語セリフの内容がちょっと前後関係と合わないように聞こえる箇所や無意味に聞こえる箇所もあり、 違和感は増すばかり。ズバリ言うと、これは日本人の芝居や日本語のセリフのニュアンスが分かっていない、ジョン・ウーの演出ミスなのではないか? しか し、例えば「ブラック・レイン」(1989)を撮ったリドリー・スコットは、日本語が分からなくてもこんな気持ちの悪い芝居の演出はしなかった。単に言葉 が分からないだけで、こうも気色悪い演技演出が出来るんだろうか。また、本作を見ていると、福山ら日本人俳優だけでなく他の役者たちもすべて生理的に変な 芝居をさせられているようにも見える。これは主観なので極めて個人的な意見であり、中国人たちのしゃべり方や振る舞いを身近に見てきた訳でもないのでハッ キリは言えないのだが、チャン・ハンユー以下外国人キャストの芝居にも同じことが言えるのではないか。つまり、ジョン・ウーの俳優に対する演出に問題があ るのではないだろうか。そうでなければ、この違和感は説明できない。見ていてこちらの体調がおかしくなりそうなほど変な映画で、僕は映画館で非常に居心地 が悪くなったのである。実はネット上の本作への評価を見ていくと、そもそも以前からジョン・ウー作品はかなりトンデモ感に満ちた映画だったから問題ない… と言っている人も多い。僕は香港時代からの熱心なジョン・ウー・ファンとは言い難く、かつての彼の作品については云々出来るほど詳しくはない。だから俳優 たちの立ち振る舞いが不自然…だとか、お話の持って行き方がムチャ…だとかが、「ジョン・ウー本来の味」かどうかが分からない。だが、それにしたって今回 のそれは、いささか度を超しているのではないだろうか。ジョン・ウーのトレードマークだったハトも、今回はカーアクションのあげくハト小屋に突っ込むとい う強引さで、まるで冗談にしか見えない。自分で自分のパロディをやってどうする。「ジョン・ウーの映画はストーリーの整合性には大して重きを置かない」と しても、それにも程がある。二丁拳銃とハトが出りゃいいってもんじゃない。あれほどトンデモ映画が好き(中でも日本を舞台にしたトンデモ映画は大好物!) なこの僕が、最後の最後まで寒気がしてくるレベルなのである。これは只事ではないではないか。

みどころ

 … などとクソミソにケナしてしまったのだが、堂島川でのジェットスキーを使っての大アクションなどは、日本映画などではお目にかからないほどのスケール。外 国絡みだからジョン・ウーだから許可された…というのだったら、それはそれで「お役所の忖度」みたいでイヤな気分になるが、確かにこんな大アクションを日 本…それも大都会の大阪で展開したというのは大変なことだ。その点は素直に評価できる。そんな美点がある一方で、前述のようなアレレ…?と首をかしげたく なる箇所が散見でいるあたり、本作はチェン・カイコーの「空海/KU-KAI 美しき王妃の謎」(2018)と双璧を成す、「中華邦画」ならではの好悪併せ持つ性質を持っているのかもしれない。

さいごのひとこと

 憤怒の河をジェットスキーで渉れ。

 


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