「デス・ウィッシュ」

  Death Wish

 (2018/11/19)



見る前の予想
 ついにこの作品までリメイクされるのか…。本作のニュースを聞いた時、正直な気持ちはそれだった。
 本作は、チャールズ・ブロンソン主演「狼よさらば」(1974)のリメイクである。ブロンソン後期のヒット作で、何と合計5本のシリーズにもなった。た だ、その出来映えは…というと、あまり芳しい話を聞いていない。僕も第1作をテレビで見ただけで、そもそもその1作目自体もさほど感心しなかった
 また、テーマもいわゆる「自警団もの」だから、微妙な内容にならざるを得ない。昨今のアメリカの状況とか考えると、今これをリメイクするってのもどうか と思ったりする。さまざまな社会階層間での対立が激しさを増して、排他的・敵対的な風潮が高まる中での本作の公開は、ハッキリ言ってあまり健全なモノを感 じさせない。
 ただ、主演がブルース・ウィリスと聞いて、意外とこれはイケるんじゃないかと思い直した。ブルース・ウィリスと言えば確かにアクション映画で知られる大 スターだが、意外にその代表作は多くない。おまけに最初のダイ・ハード(1988)こそ素晴らしい出来映えだったが、その後、シリーズは大味化。現時 点での最終作ダイ・ハード/ラスト・デイ(2013)なんてひどいシロモノだった。
 それ以外の主演作も、近年ではデッド・シティ2055 (2015)など、質的にも格的にもヤバいぐらいにレベルが低下している。人ごとながら心配になるほど、スターとしての危機に陥っていたのだ。正直、作品 レベルじゃ晩年のブロンソンといい勝負(笑)。だから、逆にここにウィリスってのは意外にシックリ来る。
 決してこれはイヤミで言っていない。なかなか悪くないチョイスなのだ。むしろ、案外ウィリス自身もこれでリフレッシュできる可能性がある。
 そんな一抹の期待を持って、僕は劇場へと足を運んだ訳だ。

あらすじ
 大都会、シカゴ。そこでは治安が極度に悪化して、街も人も殺伐とした現実に疲弊していた。やれ誰が撃ち殺された、やれ誰が撃たれたけど奇跡的に助かった…連日そんな話しかない。
 その夜も銃撃され瀕死の警官を運んで、パトカーが街をひた走る。やっと着いた総合病院で、銃撃警官を運んできた同僚が「何とか助けてやってくれ!」と医 師たちに懇願。戦場のような病院内で、緊急の重症患者の手当てといえばこの人…腕利きドクターであるポール・カージー(ブルース・ウィリス)の出馬であ る。
 だが、カージーが手術室に着いた時には、すでに警官はこと切れていた。「残念だ」と同僚警官に一言つぶやいたカージーだが、彼を呼ぶ院内放送を聞いた ら、すぐに次の患者のところに向かわねばならない。その次の患者とは…今の警官を撃ち殺した男。同僚警官は思わず声を荒げずにはいられない。
 「こいつを撃った奴を助けるのか?」
 そんな不条理がまかり通るのが、今のシカゴである。だが、そんなこの街で、カージーはひたすら誠実な医師として生きてきた。自宅に帰れば愛する妻ルー シー(エリザベス・シュー)と娘ジョーダン(カミラ・モローネ)が待っている。特にジョーダンは目に入れても痛くないほど可愛い娘だが、このたびニュー ヨークの大学に合格して父親としては嬉しいやら寂しいやら。そのお祝いにカージーの弟フランク(ヴィンセント・ドノフリオ)も駆けつけて、嬉しくも楽しい 身内の時間が過ぎていく。
 ひとつ気がかりと言えば、すべてが順風満帆なカージーと違って、フランクはイマイチ仕事に恵まれないところ。今日も今日とてすまなそうな顔でカネを借りるフランクに、カージーはかすかな不安を覚えなくもない。
 しかしそんなカージーも、フランクが呼んだタクシーの運転手が手に「MJ」と入れ墨を入れていることには気づいても、この男がカージーの自宅住所をいずこかに知らせていることにまでは気が回らなかった…。
 それから間もなく、家族でカージーの誕生日を祝ってくれることになる。その誕生日のディナーのために出かけようとした矢先…カージーに電話が入るではな いか。案の定、病院からカージーの手を借りたいとの電話。そう言われては断る訳にいかない。カージーは急いで病院へと出かけることにする。
 こうしてカージーは病院で忙しい時間を過ごしていたのだが、一方、誕生日ケーキの材料を買って帰宅した妻ルーシーと娘のジョーダンには、過酷な運命が待 ち構えていた。自宅に3人組の強盗が押し入り、ルーシーとジョーダンを脅してカネを巻き上げようとしたのだ。最初は強盗の言う通り金庫を開けてカネを渡す つもりだったルーシーだが、ジョーダンが乱暴されそうになって強盗のひとりと揉み合い、ルーシーも応戦。結局、二人は銃弾の餌食になってしまう
 そうとは知らないカージーが手術を終えて一息入れたところに、新たな重症患者の知らせ。つい手術室へ向かおうとしたカージーを、同僚医師が止めた。非情にもすでにルーシーはこの世の人でなく、ジョーダンも昏睡状態という。
 衝撃のあまり放心状態のカージーは、駆けつけたベテラン刑事のレインズ(ディーン・ノリス)と女刑事ジャクソン(キンバリー・エリス)にも、ロクな答えが出来ない。慌てて駆けつけたフランクも、これが最近続いている連続強盗事件のひとつと聞いて怒り心頭になるしかない。
 こうして亡くなったルーシーの葬儀が彼女の故郷で営まれることになり、カージーたちも列席。その葬儀の帰りに義父のクルマに乗せてもらったカージーは、 途中でいきなりクルマを停め、ショットガンを持って外に飛び出す義父に唖然呆然。義父は、その場に密猟者が潜んでいるのに気づいたのだ。義父は逃げ出す密 猟者に向けて、容赦なくショットガンをブッ放す。そして、カージーに吐き捨てるように言った。
 「警察はいつも事件の後、自分の身は自分で守らなくちゃならない
 こうしてシカゴに戻ったカージーだが、精神状態は元には戻らない。仕方なくセラピストの世話になるものの、そんなものは気休めでしかない。レインズ刑事 のもとに捜査の進展を聞きに行くものの、壁に貼った膨大な未解決事件のメモを見れば、話を聞くまでもないと悟らざるを得ない。マジメに警察に期待したオレがバカ だった…。
 そんなある日、夜の街で女が暴漢に教われそうになっているのを見て、つい声をかけるカージー。だが、それが災いしてカージーがブチのめされることになっ てしまう。ますます怒りが蓄積したカージーは、テレビでCMを見た銃砲店を覗きに行くことにする。確かに大いに興味深い。だが、今ひとつ踏み切れない。そ んな訳で、結局購入には至らずに帰宅するカージー。
 だが、幸か不幸か…銃は向こうからカージーの手元に転がり込んできた。夜に病院に担ぎ込まれた急患が、ポケットから銃を落としたのだ。これは神の啓示だ。床に落ちた銃を見て、さりげなく物陰に隠すカージー。
 その銃を密かに持ち帰ったカージーは、ネットで独学しながら銃の扱いを覚えていく。最初はどうにも危なっかしいカージーだったが、そこは腕利き医師。本来の器用さから、たちまち銃の扱いにも慣れていった。
 そして…ついに意を決したカージーが、銃を持って乗り出す時が来た。病院の洗濯物からフード付きパーカーを拝借したカージーは、ヤバそうな雰囲気漂う夜の街を歩く。すると、そんなカージーの思いに応えるかのように、女の悲鳴が聞こえてくるではないか。
 見ると、停車中のクルマが何者かに襲われているようだ。カージーが声をかけると、クルマからいきなり発砲。急発進して向かってくるクルマに、カージーは一発、二発、三発…と弾丸を撃ち込んだ。すると、クルマは急停車。どうやら運転者に命中したらしい。
 だが、カージーも銃に慣れぬ悲しさ、射撃の衝撃で手をケガしてしまった。慌ててカージーが物陰に隠れると、クルマから降りてきた賊があたりを見回して近 づいてくる。その男に、すかさず弾丸をお見舞いするカージー。男は銃弾に倒れたが、カージーはさらに容赦なくトドメを刺した。こうしてカージーは、やっと こであるが「初陣」を飾ることが出来たのである。
 だが、その戦いっぷりを近くの建物から目撃していた女がいた。彼女は一部始終をスマホで撮影しており、動画をネットにアップロードしてたちまち大反響。こうなると、ネット時代は恐ろしい。
 かくしてシカゴの街は、悪を仕留めるナゾの「死神」の登場に騒然となったのだが…。


オリジナル版「狼よさらば」とその周辺

 チャールズ・ブロンソン主演の「デス・ウィッシュ」シリーズと言えば、晩年のブロンソンを代表するシリーズであり、そのジリ貧なフィルモグラフィーを象徴する作品群でもあった。
 ただ、さすがに僕もそれらは1作目「狼よさらば」を除いて見ていない。「狼よさらば」はイギリス出身マイケル・ウィナーの監督作品だが、その人と作品に ついては僕の大いなる眠り(1978)感想文をご参照いただきたい。初期はイギリスの俊英監督としてフレッシュに登場してきたが、ハリウッドに渡って からは完全に「お仕事」としてのアクション映画に専念。「チャトズ・ランド」(1972)でブロンソンとのコンビをスタートさせた後は、「メカニック」 (1972)、「シンジケート」(1973)とコンビ作を連発した。「狼よさらば」はそんなブロンソンとのコラボ作4作目である。
 実はブロンソンという人、ハリウッド俳優として「荒野の七人」(1960)や「大脱走」(1963)などに出演して重要な役を演じてはいたが、決して華 やかな「看板スター」という訳ではなかった。ブロンソンが「主演スター」的な華やかさで出てきたのは、おそらくフランスに招かれてアラン・ドロンと共演し た「さらば友よ」(1968)からだと思う。これを皮切りに「雨の訪問者」(1970)、「狼の挽歌」(1970)などフランスやイタリアで主演作を立て 続けに撮り、アメリカに凱旋したという訳だ。そのあたりの経緯は、マカロニ・ウエスタンからハリウッドにスターとして戻ってきたクリント・イーストウッド とちょっと似ている。
 そんなブロンソンのアメリカでの人気を決定づけたのが、おそらく「狼よさらば」ではないだろうか。この表現が当たっているかどうかは分からないが、僕の 印象ではイーストウッドにおける「ダーティハリー」(1971)みたいなポジションの作品が、ブロンソンにとっての「狼よさらば」というような気がする。 悪を過剰に叩きすぎる描き方が、モラル的に批判されたあたりも共通している。ついでに言えば、その後シリーズが5作目まで続いたのも似ている(笑)。
 ただし、2作目以降の作品はかなりひどい出来だったようだ。僕も見ていないので、2作目「ロサンゼルス」(1982)と3作目「スーパー・マグナム」 (1985)の音楽が、レッド・ツェッペリンジミー・ペイジだったことぐらいしか知らない。4作目「バトルガンM-16」(1989)からはウィナーが 監督から降りたものの、その4作目の監督はもう一人のブロンソン「御用監督」みたいなJ・リー・トンプソンが担当したから大勢に影響はなかった(笑)。
 ちなみに…余談だが、このトンプソンという監督、イギリス出身でキャリア初期には「ナバロンの要塞」(1961)など傑作をモノにしたものの、1970 年代以降は没落。一時期はチャールズ・ブロンソン専属監督みたいになって凡作の山を築いたあたりまでマイケル・ウィナーと似ている。どちらも、ブロンソン に捕まったのが「運の尽き」ということだろうか(笑)。
 5作目「DEATH WISH/キング・オブ・リベンジ」(別タイトル「狼よさらば/地獄のリベンジャー」・1993)の時には、すでにブロンソン御歳70歳を超えていた。さすがに出涸らし感は否めない。アクションもすでにキツかっただろう。
 ともかく毎度毎度、身内が次々殺されて「一人自警団」をやり続けることになる主役ポール・カージーは、「ダイ・ハード」のジョン・マクレーン並みに「運の悪い奴」であることは間違いない。リメイク版でブルース・ウィリスが演じるのは、まさに適役なのである(笑)。

見た後での感想
 ただ、今回の映画を語る本論に入る前に、もうひとつだけ付け加えなければならないことがある。本作にはすでにリメイク版「もどき」と言っていい映画が作られているのだ。
 その映画は、ジョディ・フォスター主演のブレイブ・ワン(2009)という作品である。
 この作品、主役を女性に変えた他はほぼ「狼よさらば」と同様なストーリーだ。それはまるで、ジョン・カサベテス監督の「グロリア」(1980)とリュッ ク・ベッソン監督の「レオン」(1994)との関係に似ている。「グロリア」の主人公を女から男に変えると、そっくり「レオン」になってしまうような印象 があるからだ。その後、「グロリア」にシドニー・ルメット監督による正統なリメイク版(1999)が作られたあたりも、「狼よさらば」と本作の関わりに共通する ものを感じる。
 だが、「ブレイブ・ワン」がそっくり「狼よさらば」の女性版だとすると、何でジョディ・フォスターがこのような作品に出たのかがナゾである。インテリのフォスターが「自警団」的物語に共感するとは、どう見ても思えないからだ。
 さらに、これが「モナリザ」(1986)と「クライング・ゲーム」(1992)で知られるニール・ジョーダンの監督作品だというのも、僕らを大いに当惑 させる理由のひとつだ。あのデリカシーに満ちたジョーダンの作風と、「自警団」映画とは水と油である。「悪い奴らなんぞブッ殺せ!」などと乱暴に主張する 映画ほど、ニール・ジョーダンに似合わないものはない。まったく納得が出来ないのだ。
 にも関わらず、「ブレイブ・ワン」はストーリー的に何らひねりもない、ブロンソン映画の「なぞり」のような作品となっていた。あの映画は一体どのような 意図で作られたのだろう。ジョディ・フォスターもニール・ジョーダンも、一体何をやりたかったのか。理解に苦しむ作品ではある。
 それはともかく、すでにこのようなリメイク「もどき」の存在する作品の正統なリメイク作品を作るにあたっては、今改めて作るだけの必然性が問われなけれ ばならないだろう。あるいは、「今やらねば」と思わせる新味が盛り込まれていなければならないはずだ。まして、扱いが難しい「自警団」モノ。おまけに本作 は、人心が荒みきったトランプ時代のアメリカで製作されるのである。そのあたり、果たして作り手はどう考えているのか。
 ところが完成した作品は、驚くほどそのあたりの葛藤が感じられない、ある意味で屈託のない出来映えとなっているのである。



 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



本作に付加された「笑い」の要素
 「狼よさらば」が発表された当時、そこで描かれた「自警団」的なやり過ぎの正義は、各方面から何かと批判されたように記憶している。
 果たして「狼よさらば」がそんな「社会派」メッセージを持ったマジメな映画なのかと言いたくもなるが、そうなってしまった理由は分からなくもない。例え 高級なメッセージを発信する気もない単なるアクション映画だったとしても、「狼よさらば」という映画の語り口はあくまでシリアス。悲劇に巻き込まれたポー ル・カージーという主人公が銃を取って悪を討つというお話は、どうしたって悲壮感のあるタッチで描かれた。だから、そこで描かれる「自警団」的な正義も 真っ正面から捉えられてしまうしかない。ただのブロンソン映画…と片付けるにしては、シャレにならないイメージがあった訳だ。
 それを、まるで主人公の性別を変えただけで描いたかのような「ブレイブ・ワン」でも、語り口は至ってシリアス。だから、見る側としてはインテリのジョ ディ・フォスターが「自警団」的正義を肯定したかのような気がして、大いに理解に苦しんだ。この作品について僕がいまだに結論が出せずにいるということ は、先ほど語った通りだ。
 では、今回のリメイク版はどうか。
 確かに悲劇的な話なのは、オリジナル版や「ブレイブ・ワン」同様である。良識の人、誠実な家庭人としてやってきた主人公が、いきなり不幸に見舞われるのは言うまでもない。
 だが、ここで僕らは奇妙なことに気づく。実は主人公の妻や娘に襲いかかる「不幸」そのものを、僕らは画面で直接見せられてはいない。いきなり家を外から 撮ったショットに切り替わり、二人が撃たれた銃声が聞こえてくるだけだ。実は観客である僕たちは、二人が襲われいたぶられて、直接に痛めつけられる場面は 見せられていないのである。オリジナル版や「ブレイブ・ワン」ではこのあたりがこってりと描かれていたことは、今さら言うまでもない。
 したがって、この最初の凄惨な被害が抑制されて描かれている時点で、本作の悲劇性はかなり薄まっている。決定的に「重さ」が減っているのである。
 その代わりに本作に付加されているのは、意外にもユーモアだ。
 銃を買いに来た主人公を迎える、銃砲店の女主人がとにかく冗談みたいな軽いノリである。そして、偶然で銃を手に入れた主人公が、持ち前の外科医としての 手の器用さを活かして銃の扱いに慣れていくあたりも「軽い」。主人公がセラピストと交わす会話も、もはやギャグみたいになっている。そもそも、殺しに慣れ た主人公が妻子を襲った連中に復讐していくくだりでは、主人公のセリフがいちいち皮肉の効いたものになっている。それを口にするのは、「ダイ・ハード」で 不敵なセリフを吐くジョン・マクレーンことブルース・ウィリスなのだ。セリフにおかしみが出てくるのも道理である。
 そもそも、
ブルース・ウィリスに良識の人、誠実な家庭人を演じさせている時点で、こりゃギャグだわな(笑)。
 本作の監督であるイーライ・ロスは、元々はスプラッター・ホラーなどを作って来た人だ。スプラッター映画はしばしばその「やり過ぎ」感から、 「怖い」より「笑っちゃう」映画になりがちである。本作もまた、ホラーではないがそのような「笑い」の要素が色濃いものになっている。
 それは、結局本作を「自警団」云々の論議から遠ざけたものにしたいからだろう。
 これは「笑っちゃう」ような冗談みたいな映画なんですよ、単なるブロンソン・アクション映画のリメイクなんですよ、これで暴力が…云々なんて社会派的メッ セージを発信しようなんて気はさらさらないんですよ。おそらくはこの「笑い」ってそういうことなんだろう。昨今は「狼よさらば」が発表された当時よりも、 ずっとシャレにならないくらい社会に憎悪が満ちあふれている。だからこれくらいやらないと、厄介な火の粉が映画に飛んで来かねない。そういう危機感が、本 作に「笑い」を盛り込ませたに違いないのだ。
 大体が、ブロンソンがやっていた「狼よさらば」のシリーズだって、出来の悪さ以前の問題で笑っちゃうしかない映画になっていたはずだ。何しろこの主人公 の行く先々、身の回りで毎回不幸が降り掛かってくる。親しくなる奴はみんな死んだり重傷を負ったりする。先ほども述べたように、それこそ「ダイ・ハード」 のジョン・マクレーン並みに「運の悪い奴」なのである。
 そして一人の男にこれだけ不幸が毎回襲いかかって来たら、これはもう一種の「不条理ギャグ」ではないのか。設定からしてコメディだろう。
 つまり、「狼よさらば」を1本の映画としてではなくシリーズ全体で見るなら、すでにもう笑うしかない作品になっているのだ。これが「狼よさらば」シリーズの本質なのである。これで社会派メッセージを云々したりモラルを問うというのはまったくナンセンスではないか。
 イーライ・ロスはこの点がこのシリーズの本質だと考え、そこを今回の突破口とした。そもそも「運の悪い男」ブルース・ウィリス起用からして、そういう意図があるに違いないのだ。
 また、主人公の弟役にヴィンセント・ドノフリオを起用したあたりも、なかなか目の付け所が面白い。この題材でドノフリオだと、誰がどう見たって悪役であ る。だから、どの時点で実は悪役だと分かるのか、いつ主人公を裏切るのか…僕はずっとヒヤヒヤして画面を見つめることになった。冒頭で主人公に借金をして いるあたりなども、完全にミスリードを狙った反則である(笑)。しかし、こちらの期待(笑)には応えず、ドノフリオはずっと善人のままだった。これには すっかりハラハラさせられたなぁ。これも作り手の「いたずら心」ではないのか。
 また本作のリメイクならではの特筆すべきもうひとつの点は、ネット時代の変化がお話に反映しているという部分である。
 主人公が銃の扱いを学ぶ際に、YouTubeを見ながら覚えていくあたりも然り。もっとそれが顕著なのが、主人公が「殺し」を始めた時の描き方だ。たま たま事件に遭遇した野次馬が、殺しを行う主人公をスマホで撮影。その動画をネットで公開したものだから、一気に世間に知られる存在になってしまう…。こ れってキック・アス(2010)で主人公が「スーパーヒーロー活動」を開始するあたりの描き方に酷似しているではないか。もう、その時点で笑っちゃう 描き方なのである。
 考えてみれば、パーカーのフードを頭からかぶって「自警団」行為にのめり込む本作の主人公は、奇妙なほどアンブレイカブル(2000)でのブルース・ウィリスの風貌に似てはいないか。そういえば同作でウィリスが演じたのは、スーパーヒーローをリアルに描いた役どころではなかったか…。
 ある意味、本作はそれこそマーベル映画などでハリウッドに氾濫するヒーローものを、少々シニカルな笑いで焼き直したような作品なのかもしれない。
 だから、本作はそんなに「肩肘張って見るような映画」じゃない。固い事を言わずに楽しむべき映画である。これは所詮は「マンガ」か「冗談」なのだ。だから変な問題意識を持たずに、単純に楽しんでもらいたい…。
 逆に言うと、今は「笑い」を盛り込んでここまでハッキリ「冗談だ」と言わないと、本作みたいな作品はシャレにならないほど世の中の状況が悪化しているのか。
 本作でのブルース・ウィリス起用は、まさに作り手のそういう意図を反映しているのではないだろうか。

 

 


 

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