「ウインド・リバー」

  Wind River

 (2018/08/20)



見る前の予想
 この映画のことは、かなり前から知っていて気になっていた。
 まずはチラシが印象的だ。一面の雪に人型の跡と血痕、それを見つめる後ろ姿の人物。一見するとコーエン兄弟「ファーゴ」(1996)のチラシを思い出させる絵柄だが、それを見ただけで僕は「見たい!」と強烈に本作を渇望してしまった。
 ただ、そこに名前が書かれた顔ぶれを見たら微妙な心境になったのも事実。まず、“「ボーダーライン」テイラー・シェリダン監督作品”…と来る。ボーダーライン(2015)の監督は泣く子も黙るドゥニ・ヴィルヌーヴだから、このシェリダンなる人物は脚本家なのだろう。ただ、各方面大絶賛の「ボーダーライン」の良く出来ている点は承知していながらも、僕はどうにも好きになれなかったのでちょっと考えちゃったのである。さらに主演者ふたり…ジェレミー・レナーエリザベス・オルセンの上に“「アベンジャーズ」シリーズ”…と来るのも、僕としてはまったくありがたくない。確かにこの二人はアベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(2015)で共演して以来の「お仲間」なんだけど、この映画の佇まいと「アベンジャーズ」はどう見ても合わない。全然宣伝になっていないのである。
 それでも雪に閉ざされた土地でのサスペンス・ミステリーは、アトム・エゴヤン白い沈黙(2014)など好きな作品が多い。そもそも、僕自身が雪や氷が出て来るサスペンス映画が大好きで、それだけでアリステア・マクリーン原作の「オーロラ殺人事件」(1979)からジョン・カーペンター「遊星からの物体X」(1982)、ケイト・ベッキンセールホワイトアウト(2009)、スタローンD-TOX(2002)…も無条件に大好きだ。
 それで前々から大いに期待していたところに、この夏のバケツの底が抜けたような猛暑である。あまりに暑くて映画館に逃避したい…となった時、脳裏に浮かんだのはあのチラシの絵柄。
 そんな訳で、映画芸術も社会派テーマも何も関係なく、ただただ涼感を求めて映画館に駆け込んだという情けない話である。

あらすじ
 凍てついた月夜の晩のことである…。
 どこまでも続く雪の平原を、ひとりの若い娘が必死で走っている。娘は一度は倒れながらもまた起き上がり、悲痛に叫びながら走り続けて行ったのだが…。
 翌朝、雪原にいる山羊の群れを、虎視眈々と狙うオオカミたちがいた。だが次の瞬間、オオカミのうち一頭が銃声とともにその場に倒れる。それを見た他のオ オカミたちは、諦めてその場を後にし始めた。オオカミを仕留めたのは、その場に横たわってライフルを構えていた男…野生生物局の職員であるコリー(ジェレ ミー・レナー)である。
 ここはワイオミング州、アメリカ先住民居留地のウィンド・リバー。コリーは地域住民に被害をもたらす「害獣」を、自然に影響を与えない範囲で狩るハンターだ。
 そんなコリーは、ある一軒の家にやって来る。扉を開けて応対したのは、彼の元妻であるウィルマ(ジュリア・ジョーンズ)。二人のやりとりは恐ろしいほど 冷ややかだ。この日はウィルマが街まで就職のための面接に行くため、コリーは幼い息子ケイシー(テオ・ブリオネス)を預かりにやって来た。実はコリーと ウィルマの間にはケイシーの上に娘エミリーがいたようだが、二人は彼女について多くを語ろうとしない
 その後、コリーはかねてから頼まれていたピューマ狩りのために雪原へとやってくる。ピューマが牛を襲った現場を調べに来た訳だが、コリーはそこで人間が走ったらしき足跡を見つけて興味を持った。それは単なる足跡でないのは、一緒に血痕が残されていたことからも明らかだ。
 その足跡を辿って行ったコリーは、最終的に雪原に倒れている若い娘の死体を発見する。明らかに先住民の娘である彼女の額には傷があり、羽織ったダウンの下は下着。しかも裸足でひどい凍傷になっていた。さらに股間には暴行されたらしく血が滲んでいる。
 コリーはこの娘のことを知っていた。
 彼はただちに無線でこの件を連絡。だが、法の番人の動きは鈍かった。事件現場となった雪原に暮らすコリーの元義父ダン(アペサナクワット)、居留地の部 族警察署長ベン(グレアム・グリーン)と一緒に待っていたコリーだが、待てど暮らせど援軍が来ない。雪がしんしんと降り出し、証拠が失われてしまうと気が 気でないコリーだったが、ベンによればFBIが来ないと捜査が始められないとのことでただ待つしかない。
 やがて雪の中をやって来た1台のクルマからは、たった一人の小娘が降りて来るではないか。この娘ジェーン(エリザベス・オルセン)はイッチョマエにFBI捜査官。どう見てもペーペーの彼女に、ダンとベンは「ナメてるな」と首をすくめる。
 おまけにラスベガスから駆けつけたという彼女は、FBIジャンパーを突っかけただけの薄着。この土地の寒さを甘く見過ぎていた。見かねたコリーはダンの家にある冬服を貸してもらう話をつけたが、コリーの義母(タントゥー・カーディナル)は「孫の服だから必ず返せ」とジェーンに冷たい。到着早々、ジェーンは自分がまったく歓迎されてないことを痛感することになる。
 こうしてコリーに現場に連れて行ってもらったジェーンは、現場到着の頃にはすっかり晴れ渡ったことに唖然。あまりの天候の激変ぶりに、この土地では他で の常識が通用しないと思い知る。そんなジェーンに適切なアドバイスを与えつつ、死体の状況からアレコレと見てとって教えるコリー。その手際の良さ、冷静さ を見たジェーンは、その場でコリーに捜査への協力を要請。コリーもまた、それを自然に受け入れるのだった。
 こうしてジェーンがコリーやベンに連れられて向ったのは、亡くなった娘ナタリー(ケルシー・チャウ)の実家。ナタリーの父マーティン(ギル・バーミンガ ム)に捜査のため…とキツい質問を浴びせるジェーンだったが、同じ調子で話を聞こうとした母親が泣きながら自らの手首を切りつけているのを見て、愕然とせ ざるを得ない。この訪問での収穫は、ナタリーに恋人がいて、その晩は彼に会いに行ったらしいということだけだった。
 一方、マーティンとは旧知の仲のコリーは、彼に親身に語りかける。だが、それは単に旧知の仲…というだけにとどまらない何かを感じさせるやりとりだった。「時が癒すなんてことはない、痛みから逃げるな」というコリーの言葉には、あまりに実感がこもっていた。そしてコリーが捜査に協力していることを知ったマーティンは、彼に「カタ」をつけてくれと頼むのだった。
 やがて検死官の元に訪れたジェーン、コリー、ベンの3人は、ナタリーの検視結果を聞く。やはり複数回の暴行を受けており、厳寒の中を疾走したことによって肺が氷結し破裂したことが死因だという。これを聞いたジェーンは、「殺人とは断定できない」と検死官に食ってかかる。「殺人」でなければ、FBIは応援を送り込んで来ないからだ。
 だが、検視結果を覆す訳にもいかない。仕方なく、3人での捜査を細々と続ける他はない。
 次に訪れたのは、ナタリーの弟チップが暮らすダチの家。チップ(マーティン・センスマイヤー)は評判の悪いダチ兄弟とツルんで、すっかりグレていた。早くも捜査の先行きは混沌として来る。
 ジェーンとベンがその家の扉を叩くと、不良兄弟の兄が応対する。こんな奴を相手にするにあたって、ジェーンとベンもそれなりに身構えてはいた。だが、それでも油断がなかったと言えばウソになるだろう。玄関に立った
二人に対して、何とこいつはいきなり催涙スプレーをブッかけて来るではないか…!

見た後での感想

 先にも述べたように、本作を映画館まで見に行った最大の要素は「雪」である。志も何もヘッタクレもない。何しろ連日暑くてたまらないのである。とにかくスクリーンから「涼感」を得られば、それだけでもいい。
 結果から言うと、その期待は完全に満たされた
 涼しいなんてもんじゃない。寒い。痛さを感じるほど寒い。それも、景色も寒いし物語も寒さを反映させているところに、そもそも映画の根底に沈んでいるテーマが底冷えするようなシロモノ。いや〜、正直言って冷えきった。
 また、本作の舞台であるアメリカ先住民居留地を「辺境」などと言っては不謹慎極まりないし、それを楽しんでしまってはさらに非常識で失礼なんだろうとは承知しているものの、映画の中の「辺境」を見るのをこよなく愛するこちらとしては、本作に出て来る冷え冷えとした光景そのものが「目の御馳走」だ。社会的意識の高い皆さんには本当に本当に申し訳ないが、それだけで僕としては「娯楽映画」としてポイントが高くなった。
 ハッキリ言って、これだけで僕としては入場料の元は取れている。他は何もなくても十分だ。僕としては、それだけでも満足なのである。だが、本作はそれにとどまらない。
 僕が期待した以上に、本作は映画としてなかなか「良質」なのである。


見ていて身も心も冷えきる作品

 こう言ったら語弊はかなりあるのだが、映画について僕が「良質」であると言ったら、それは芸術性だの社会的意義だの…といった意味合いよりもまず、「娯楽映画として良く出来ている」ことを意味する。
 というか、映画はほぼそれが出来て100点なのであって、それ以上に何か美点があれば、そこに120点、130点とプラスになっていくものだと思っている。まずは「面白い」かどうかだ。
 本作はまず、ミステリー・サスペンスとして面白く出来ている
 その舞台設定として、先住民居留地とその風土が活かされている。そこを認めてあげなければフェアじゃないだろう。いくら立派な映画だと言ったところで、お客さんに見てもらわねば話にならない。その点、本作の面白さは僕が保証する。
 おまけに、この猛暑にあえぐ夏での公開は大英断。身も心も冷えきる本作は、不謹慎ながらこの夏にはもってこいの納涼映画である。その意味でも、本作は「娯楽映画」として良く出来ている。
 ネット上ではアメリカ先住民に関する問題意識マンマンの感想や批評ばかりズラリと並んでいて、とてもじゃないが「涼しくて良い」なんて口が裂けても言えない 感じ(笑)。だけど、僕はそれほど意識高い系じゃない。そもそも「良心的な観客」ですらない。映画には2時間のお楽しみしか望んでいない。普段からその手 のことに深い関心がある訳ではないし、もちろん詳しくなんかない。ハッキリ言って人ごとである。むしろ人ごとだと言わなければ、かえって当事者の方々に失 礼だろう。分かったようなことなど言ったら、それこそ申し訳ないというものだ。
 だが本作は、そんな完全に門外漢の僕にも、有無を言わせぬ強烈さでアメリカ先住民の置かれている状況を思い知らせてくれる。実はその点が何より非凡なのである。
 圧倒的に何もなく、ただ凍てついた不毛の土地。次々とレイプされ殺される罪もない娘たち。夢も持てず、ただ自堕落にくすぶるしかない若者たち。なす術も なく、ただ諦観するしかない年長の者たち…。そんな閉塞感で押しつぶされそうになっている状況が、本作で描かれる事件と不可分に絡まり合って浮かび上がっ て来る。そのミステリーとしての構成が素晴らしい。先に「身も心も冷えきる」と評した本作だが、その「心」が冷えきる所以はそこにある。
 そこにいかにも経験不足で場違いな若いエリザベス・オルセン扮するFBI捜査官が投入される…というのも、定石ながらうまいところだ。我々観客もまた、彼女の「部外者の目」で事件とこの土地とを見ていくからである。
 そんな本作を見ていて、僕はある別の作品を思い浮かべていた。それは2014年の第27回東京国際映画祭で上映されたイタリア映画アイス・フォレスト(2014)という作品である。
 雪深い寒村に起きたある殺人事件を女性捜査官が探っていくうちに、イタリアにおける移民問題の闇が浮かび上がって来る…という作品。何とあのエミール・クストリッツァ監督が役者として出演しているという点でも注目すべき作品だが、作品の感触が実に本作と似通っている。村に漂う何とも得体の知れない感じといい冷え冷えとしてくる語り口といい、共通点があまりに多過ぎる。ひょっとしてテイラー・シェリダンは、どこかでこのイタリア映画「アイス・フォレスト」を見ているのではないだろうか。そうでも思わないと納得できないほど、共通点の多い作品なのである。

 

 

 


 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 




随所に「娯楽映画」としての「うまさ」が際立つ
 そんな本作は、もうひとりの主人公であるジェレミー・レナーがかぶっているカウボーイ・ハットを見るまでもなく、明らかに「西部劇」を意識して作っている。一触即発の銃撃戦など、キッチリと緊迫感溢れるアクションを見せているから大したものだ。そして、現在のアメリカ先住民の問題を「西部劇」のカタチを借りて描いているというあたりが秀逸なのである。居留地の警察署長役に「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990)のグレアム・グリーンが起用されているのも注目だ。やはり本作は、「西部劇」テイストが濃厚な作品なのだ。もちろん、「西部劇」とはアメリカ娯楽映画の王道中の王道である。
 また、先にも述べたエリザベス・オルセンのFBI捜査官が、最初は「青二才」として登場しながら捜査を通して成長を遂げていく…という設定自体も、アメ リカ映画の「王道」的ストーリーラインだ。黒澤明の映画などもこのパターンが多いが、そのあたりもいわゆる娯楽映画として良く出来ている所以である。
 特にうまいな…と思ったのが、都会から来た場違いな奴…でしかない彼女が、ジェレミー・レナー扮する野生生物局の職員に助けを求めて捜査を進めていく過 程。まず、彼女は甘っちょろく考えて薄着で到着したことから、現地で冬服を借りることになる。最初はそれが意味するものが観客には分からないのだが、実は それは亡くなったレナーの娘の遺品なのだ。その娘の服をまとったオルセン扮する捜査官に協力を頼まれれば、レナーだってつれなくは出来ない。その時点で、オルセンにはレナーの亡くなった娘が憑依したような状態になる。レナーの方もまるで娘を守るかのように、終始オルセンをバックアップし続けることになる訳だ。このあたりの脚本の流れは実にうまい。
 オルセンはオルセンで、この極寒の地に放り出されたあげくいきなりの催涙スプレー攻撃。挙げ句の果ては、防弾チョッキを着用していたとはいえ銃撃を受ける始末。そんな辛酸を
散々なめつくした末に、レナーの娘の冬服を通じた彼女の霊との「交感」もあってか、凍てついた夜に絶望的な逃亡を図った娘の無念を文字通り肌で感じ取っていく。オルセンの成長物語がそのまま、観客が犠牲になった娘の思いや、この土地に生きることの困難さを知っていく過程となるあたりが巧みなのである。
 その前に、オルセンは捜査上の問題から杓子定規に振る舞ったことに対して、わざわざレナーの家を訪れて謝罪している。だが、欧米映画の中で登場人物の「謝罪」が行われると すれば、それは日常で実にたやすく謝罪が行われる我々日本人(近年はその謝罪をされることすら怪しくなってきたが)の場合と比べて非常に重い行為となる。案の定、本 作でもそれは彼女の「覚醒」につながって、翌日にその場に居合わせた全員が銃を構える一触即発状態が発生した時でも、オルセンは毅然と「FBIの警察権」を主張してその場を鎮圧するに至るのだ。彼女は昨日の彼女ならず。すっかり腹の据わった捜査官に変貌を遂げているのだ。ここはなかなかの見せ場である。
 さらにその後、弾を食らったオルセンがジェレミー・レナーの意図を承知しながらも、あえて「犯人を追って!」と告げるあたりもグッと来る。それまで捜査上のルールに頑なだったオルセンが、「あの子の仇を討ってくれ」とでも言わんばかりにレナーを促すのだ。このあたり、まるで任侠映画みたいに大いにアガる好場面なのである。これが「娯楽映画」でなくて何だろうか。文字通り「身も心も冷えきる」本作ではあるが、ここに至って見る者は逆に一気に熱くなるのである。
 その後、ジェレミー・レナーによって行われる「敵討ち」自体も、実によく出来ている。単純に撃ち殺して溜飲を下げる…という類いの、ありきたりなものでなかったのがいい。彼が手を下して殺すより、死んだ娘の無念を実感して往け…とばかりに自力で行かせるという趣向が、より重みと痛みを感じさせて素晴らしいのだ。本作の主題とも合っている。実に考え抜かれた脚本なのである。
 そんな本作の構造は、よくよく見てみると同じくテイラー・シェリダンが脚本を手がけた「ボーダーライン」と酷似しているこ とに気づく。ペーペーの女性捜査官が、単身シビアな状況に放り出され、右も左も分からない状況で翻弄されて「現実」を思い知る。その舞台となる場所は、生 きていくにはあまりに困難な一種の「辺境」である。観客は女性捜査官の目を通して、そのシビアな状況を実感することになる…。つまり「ボーダーライン」も また、本作の脚本・監督を手がけたテイラー・シェリダンの貢献度が極めて高い作品だと思われるのである。
 それでも「ボーダーライン」と本作とでは、見る側に与える印象がかなり異なる。それは明らかに、シェリダンとドゥニ・ヴィルヌーヴという監督の資質の違いということになるだろう。
ハッキリ言ってヴィルヌーヴは思わせぶりとハッタリ感溢れる監督であり、時にアンフェアな語り口で観客を弄ぶような男である。本作を見た今にして思えば、「ボーダーライン」もシェリダン自身が撮れば、あんなダマされたようなイヤな後味ではなくて好印象な作品になったような気がする。そのくらい、本作は素晴らしい出来映えだった。
 人にお説教を垂れようという者は、それ相応の話術を磨かなければ偉そうな口を叩くだけのクソジジイである。アメリカ先住民族の置かれた状況を告発する「問題作」を作るなら、これくらい「面白い」映画にしなければその主張は伝わらない。骨太ながら「面白い」、テイラー・シェリダンの次の監督作品に大いに期待しようではないか。

 

 


 

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