「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」

  Battle of the Sexes

 (2018/08/06)



見る前の予想
 ニュースで見た話が映画になる…って経験は、何とも不思議なものである。
 僕にとってその最初の作品は、狼たちの午後(1975)だった。ニューヨークで銀行強盗が人質をとって…というストーリーを聞いて、「あぁ、あれだな」とピンと来た。まだ僕が中1の時だったはずだが、実話の方もよく覚えている。今ほど海外ニュースがリアルタイムで流れて来ない時代の話ではあったが、それでも人質をとって立て篭ったことがほぼ同時に日本に伝わったということからして、いかにインパクトの強い事件だったかが伺える。
 最近では、今はなき世界貿易センタービルでの綱渡りを描いたザ・ウォーク(2015)がそうだ。こちらも…さすがにリアルタイムではなかったと思うが、海外ニュースで見た覚えがある。
 今回の作品「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」も、まさにかつてニュースで見た覚えのある出来事のひとつだ。そして、1970年代前半あたりで一般の日本人が「見た覚えのある」海外の実話ということは、それだけ現地でも強烈なインパクトを持っていた出来事だったのである。
 僕が本作を見たい…と渇望したのもまさにそこがポイントで、ともかく強烈な懐かしさを感じたから。それと同時に、本作のエマ・ストーンの出で立ちを見たからだ。
 当時、日本でも「キング夫人」として知られていたビリー・ジーン・キングの 雰囲気を、実にうまく伝えているのに驚いた。まだ動いている映像を見ていないにも関わらず「これ」だから、向こうの役者ってのはスゴい。何十年も映画を見 ていながらこんなバカみたいなコメントしか出来ないのはまことに情けないが、これがわが国のNHKの朝ドラあたりだったらドリフのコントみたいなメイクになっちゃいそうなところだからねぇ(笑)。
 そんなエマ・ストーンと…スティーブ・カレルの共演という一種ミスマッチにも思えるカップリングにも興味が湧いた。ただし、昨今の世の中を反映して、強烈なメッセージ映画として作られている可能性も濃厚だ。そのスジの人には大変申し訳ないが、映画館でアジ演説を延々聞かされるほど興ざめな話もないので、その一点だけが不安要素ではあった。果たしてそのへんはどうなのか。
 そんな訳で、期待半分不安半分で劇場へと向った次第。

あらすじ
 1973年、女子テニスプレイヤーのビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、今まさに絶頂期を迎えようとしていた
 彼女は数々の栄誉に輝き、女子賞金王にもなった。人気も名声もうなぎ上りである。だが、そんな彼女はある事実を知り、マネージャーのグラディス・ヘルドマン(サラ・シルヴァーマン)に怒りをぶつけていた。
 全米テニス協会が発表した次の全米オープン戦の優勝賞金は、男子10万ドル。だが、それに引き換え女子は男子の8分の1。前々から苦々しく思ってはいたものの、この露骨さは目に余る。ビリー・ジーンはグラディスを引き連れ、全米テニス協会の会長ジャック・クレイマー(ビル・プルマン)がいる女子禁制会員制クラブに押し掛けた。
 だがクレイマーはノレンに腕押し。のらりくらりとかわしたあげくに「男子の方が客が入る」「男子の方が試合が面白い」などと暴言を吐きまくる。さすがにこれにはビリー・ジーンも堪忍袋の緒が切れて、試合をボイコットするとタンカを切った。
 むろん、ビリー・ジーンもただケツをまくった訳ではない。すぐにグラディスと一緒に女子テニスプレーヤーを集め、女子テニス協会を立ち上げるとブチ上げたのだ。
 その設立発表記者会見前に他の選手たちと美容院に行ったビリー・ジーンは、自分の髪をセットしてくれている美容師のマリリン(アンドレア・ライズブロー)に特別な親しみを感じる。さりげなく自分たちの試合を見に来るように誘うビリー・ジーンだったが、その時はそれが「運命的な出会い」とは彼女も気づいてなかった。
 そしていよいよ記者会見に臨む直前、会見場にはあのクレイマーが押し掛ける。クレイマーは例の調子でビリー・ジーンたちを全米テニス協会から除名すると脅したが、今さら勢いのついたビリー・ジーンたちの志は止まらない。契約金1ドルと心意気で発足した女子テニス協会には、グラディスの尽力によってタバコの「ヴァージニア・スリム」がスポンサーについた。幸先のいい船出である。もはや帰りの橋は焼き落とした。進むしかない!
 その頃、スーツ姿のひとりの男が、浮かない顔でオフィスに座っていた。その男の名はボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)。
 かつては男子テニス世界王者として名声を博した男だが、今はリタイアしてビジネスの世界へ…。といっても、名家出身の妻プリシラ(エリザベス・シュー)のコネで就いた職で、実は何もやることなどない。功成り名を遂げた男にとって、満ち足りた後半生であるはずの毎日だったが、ボビーの心は満たされなかった。
 夜になると屋敷を抜け出して金持ち仲間と集合。気の置けない男たちを相手に、心行くまで賭けテニスに興じる。ただし、単なる賭けテニスではない。腐っても元・男子テニス世界王者だ。素人相手にそのまま勝負する訳にいかない。そこでありとあらゆるハンデをつけて、オッサンたち相手に次々戦うのだ。だが、どんなハンデをつけても圧勝である。負ける気がしない。その時だけ、ボビーは生きている実感を味わえるのだった。
 だが、そんな賭けテニスがプリシラに発覚。ボビーのギャンブル好きを快く思っていなかったプリシラは、
以前より彼にギャンブル厳禁を申し渡していた。その禁をまたしても破ったのだから、さすがにプリシラも我慢出来ない。
 結局、ボビーは屋敷にいられなくなって、息子のラリー(ルイス・プルマン)の家に転がり込む。だが、事ここに至ってもボビーは意気軒昂だ。オレは単にギャンブルやってるんじゃない、これは勝負だ、オレの生き様だ。オレから勝負を取ったら何も残らないじゃないか!
 一方、旗上げまもない女子テニス協会は活気に溢れていた。人気を上げるべくイギリス人デザイナーのテッド・ティンリン(アラン・カミング)を巻き込ん で、カラフルなテニスウェアを導入。トーナメントが始まるや、ラジオでの宣伝からチケット販売、何から何まで自分たち手弁当で行った。そんな手作り興行の 女子テニストーナメントだったが、そこそこ知名度も上がり成績も上々。彼女たちの意気も大いに上がっていた。
 そんなサンディエゴでの試合後、ビリー・ジーンは観客の中に見知った人物がいるのに気づく。それは、記者会見前に髪をセットしてくれた美容師のマリリンだった。彼女は約束通りビリー・ジーンの試合を見に来てくれたのだ。
 感激の再会に先ほどの試合の勝利の余韻もあって、ビリー・ジーンはマリリンと一緒に大いに夜遊び。勢いがつきまくった二人は、そのままモーテルの部屋でベッドイン。マリリンは、ビリー・ジーンが自覚していなかった心を引き出した。
 だが、いかにマリリンにときめいても、そんな自分の思いに戸惑わざるを得ないビリー・ジーン。しかも、彼女には夫がいる。罪悪感がないとは言えない。
 そんな思いが千々乱れるビリー・ジーンのもとに、突然1本の電話がかかって来るではないか。それは名前こそ知っていたが決して親しい訳ではない人物…かつての名選手ボビー・リッグスからの電話だ。何とボビーは深夜のインスピレーションで、ビリー・ジーンにとんでもない話を持ちかけたのだった。
 「私と一緒に男女どちらが上かを証明する対抗試合をしよう! “男性至上主義のブタ”対“モジャ脚のフェミニスト”ってのはどうだい?」

見た後での感想

 今回の映画を語るにあたっては、どうやら昨今の状況から、まず僕から言っておかねばならないことがありそうだ。
 皆さんご承知のこととは思うが、このサイトを作っている僕という人間の性別は、「男性」である。自分では特に男性至上主義者ではないつもりだが、ハタから見てどう見えるのかは分からない。オマエは分かっちゃいないと女から言われれば、そうでないとは言い切れない。自分の身の程はわきまえているつもりである。大 体、僕がフェミニズムに理解があるなどと自称したらフェミニストに失礼だろう。僕はさすがにそれほど恥知らずではないので、この程度の男であることをここ でまず白状させていただく。ここまで自分の立ち位置を明らかにしたところで、いよいよ映画について話を始めさせてもらいたい。やれやれ、ふ〜っ…。
 そんな訳で、「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」である。タイトルからして、一丁やってやろうというムードがムンムンである。「男社会に鉄槌」とか「引き摺り下ろせ」とか「吊るし上げろ」とか、そんな映画であっても決して不思議ではない。
 監督は…と調べてみたら、リトル・ミス・サンシャイン(2006)のジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス。何と夫婦監督である。う〜ん…。「リトル・ミス・サンシャイン」は好きな映画だが、この題材で夫婦監督って適材適所のように見えて、ちょっとビミョー。男女両方に平等な視点で作りますよ…というアリバイづくりのために起用されたみたいで、実はイヤな予感しかしない(笑)。大体がこういう「アリバイ」がある場合には、男の役割はもっぱらサンドバッグだ
 僕は楽しむためにお金を払って映画を見に行くので、イヤな思いをしたり「引き摺り下ろせ」とか「吊るし上げろ」とか言われたくて見に行くんじゃない。
 志が低くて申し訳ないが、僕が映画に期待しているのは、最低限「面白さ」だけである。逆に言うと、どんなに立派な題材やテーマを扱っていても、どんなに作り手の主張が素晴らしくても、「面白く」なければダメだと思っている。人間だから偏見ゼロは無理にしても、何かのシンパだからホメるとかケナすとか、そんなことは極力したくないと思っている。だから、本作もそんな僕なりのポジションから見させていただいた訳だが…早速、結論から申し上げよう。
 本作はまず何よりも、実に「面白い」映画なのである。


 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



力業と繊細なテクニックの合わせ技

 まず、本作に興味がある男性諸氏に朗報である。
 本作は延々とアジ演説を聞かされるような映画ではない。さらにここが重要なのだが、男を吊るし上げて糾弾するような映画でもない。むしろフェミニストの人たちからすれば、ちょっとモノ足りないぐらいの案配かもしれない。そのくらい冷静に作られた映画である。
 何よりも、ビリー・ジーンの対戦相手であるボビー・リッグスが、「悪役」に描かれていない。そもそも本作の主役であるビリー・ジーンその人が、彼を憎むべき「敵」とは見なしていないように描かれているのだ。
 彼女は確かにこの試合そのものを取り巻く状況は苦々しく思っているが、ボビーその人に対する敵意は感じられない。彼女が敵視し戦う相手と考えているのは、全米テニス協会の会長に代表される「男性中心社会」。そのテニス協会会長がビックリするほど厚みのない描き方をされているのは、特定人物というよりある種の「象徴」として描かれているからだろう。つまりビリー・ジーンが戦っている相手は、特定の個人でもひとつの「性別」全体でもなく、「世の中」という「空気」のようなモノなのである。実は、戦う相手はボビーでも「男」でもないのだ。
 また、ボビーも自らの起死回生を賭けた対抗試合を盛り上げるため、あえて男女対決を煽って盛り上げる「道化」の役割を演じているように描かれる。むしろ本作では、ボビーをそうせざるを得ない状況に陥らせていく、彼の「勝負師」としての「業」を描いていて興味深い。
 かつて米軍占領下のイラクを描いたハート・ロッカー(2008)で、戦場では有能な兵士が平時の祖国では買物すら出来ない腑抜けになってしまう様子が描かれていたが、本作のボビーも同様である。そういう意味で、彼はある種の「男」の典型的なタイプである。女性を抑圧する「敵」としての「男」ではなく、ボビーはそういう「業」を背負った「男」として描かれる。これが本作に圧倒的な厚みを出している。
 だからボビーは、どうしようもない運命の力で世紀のエキシビジョンマッチへと導かれていく。「道化」として男性至上主義者を演じ、あえて男女対立を盛り 上げてしまうのも、彼の「業」だ。実際にビリー・ジーンをナメてたところもあっただろうが、自分の中でわざわざ賭け金とリスクを吊り上げて逃げ場をなく し、それでモチベーションをかき立てずにいられない…ある種の病的な「勝負師」気質が 彼をそうさせたのではないか。だから変な栄養剤を大量摂取し、広告塔としてスポンサーのロゴ入りウィンドブレーカーを着込んでプレイしたあげく、わざわざ 自滅への道に突き進んでしまうのもこれまた「業」。それ故に無様に敗退してしまうのも、やはり「業」の為せる技なのである。
 そしてビリー・ジーンも、不本意ながら彼女にはどうしようもない運命の力で、この試合に引き寄せられてしまう。最初はキワモノ試合などやりたくないと固 辞したビリー・ジーンだったが、替わりに男女対抗試合の企画に飛びついたライバル選手がボビーに惨敗。まるで男性優位を印象づけるような結果になってし まったことから、「もう逃げられない」とボビーへの挑戦を決意する。それは、自らの運命を自覚し、受け入れた瞬間だ。
 本作は基本的にコメディタッチで描かれた作品であり、スティーヴ・カレルの出演がユーモラスな要素を大いに加味している。だが、この対決する二人が運命的な力で引き寄せられていくあたりは、人生ドラマの重さがあって味わい深い。「ここで会ったが百年目」ではないが、お互い人生の岐路に立った者同士の避けられない戦い…。そんな「宿命」のようなものまで感じさせる。
 そんな運命的な試合の結果、ボビーはミジメに敗退。彼はまるで一気に何十歳も老け込んだように、ヨロヨロとコートを去って行く。そしてそんなボビーに対して、周囲の人々はそれまでの持ち上げぶりとは裏腹に、誰も一顧だにしない。男性至上主義者が自分たちの流儀を託せる人物としてあれほどモテはやしておきながら、惨敗したとたんに見向きもしなくなる冷たさ…。ここで男性至上主義を許していた「世の中」のシラジラしさを観客に対してハッキリと見せつけた、ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス両監督の見識はまことに見事なものがある。
 もし本作が真に男性至上主義への異議申し立てと、それに打ち勝った女性側の努力をうたい上げる映画であろうとするならば、それはフェミニストたちがシンパの中だけで喜ぶようなものであってはいけないはずだ。本来ならばそんな内輪ではなく、むしろその外に対して…もっとも対極にあるはずの男性観客に届かなければ意味がない。男が見て納得できない作品ならば、それは空しい。ただただ、男女の分断を煽る映画になるだけである。
 だからこそ本作は、出来る限り男性を対立軸には置いていない。男に抗議するカタチをとっていない。「男性中心社会」という、人を理不尽に扱うシステムに対して抗議しているのだ。
 そして「理不尽に扱われる」ことならば、申し訳ないがそれは女の専売特許じゃない。程度の差こそあれ、男にだっていくらでも身に覚えがあることなのだ。だからこそ共感できる。それはまさに「オレたち」の問題だからである。
 本作の作り手たちはその一点に賭けて、見事に勝利を収めたのではないか。非常に高度な外科手術のように、力業と繊細なテクニックの合わせ技で本作が作られていることに、僕は大いに驚嘆させられた。これはなかなか出来ることではない。
 また本作はまるでタイムマシンで撮って来たかのように、1970年代のビジュアルを徹底再現している点でも驚くべき達成感を味わえる。時代考証もさることながら、撮影も1970年代アメリカ映画の映像を大いに意識しているのではないだろうか。個人的に1960年代〜1970年代が大好きな僕としては、それだけでも御馳走である。
 西日が当たるハイウェイを思い切り燃費が悪そうなデカいアメ車を走らせながら、ビリー・ジーンと愛人のマリリンがお互いを見つめ合う場面などは、1970年代からそのまま切り出してきたような鮮やかさ。ここで流れる「ロケットマン」は、あの頃ペニー・レインと(2000)で使われた「タイニー・ダンサー」と匹敵する、エルトン・ジョン楽曲の使い方の好例だ。そんな1970年代テイストを存分に楽しめるあたりも、本作の大きな魅力である。
 さらに驚かされたのは、俳優たちの「似せ方」。本来は「そっくりショー」ではないのだから、実話だからといってあまりそこにこだわるのもどうかと思っている。例えば「ドラゴン/ブルース・リー物語」(1993)や「ティナ」(1993)などは本人に全然似てないのに、映画としては素晴らしい出来映えである。だから、似てるからどう…ということを殊更にとやかく言うつもりはなかった。
 だが…それにしてもボビー・リッグスのあまりにスティーヴ・カレルに 似過ぎた容貌には、エンド・クレジットに出てきた本人の写真を見てビックリ。これはもう、スティーブ・カレルをキャスティングするより他はない。すでに 「リトル・ミス・サンシャイン」で彼を使っていた両監督としては、たぶん他に選択の余地はなかっただろう。そして、スティーブ・カレル自身にボビー・リッ グスを演じるにふさわしい演技力があったことが、何よりも幸運だった。この一種の「トリックスター」的な側面を持った人物が、本作の「肝」であったことは間違いない。だから本作が成功した最大の要因は、カレルが出演したことであると言ってもいい。まさに適役である。
 一方、エマ・ストーンのビリー・ジーンはどちらかと言えば直線的に 演じられる役どころなので、そういう意味での苦労は少なかったかもしれない。だが、その「似せ方」たるや…スティーヴ・カレルは元々似ていたから問題な かったが、エマ・ストーンは本来必ずしもビリー・ジーンその人と似ているとは言い難い。ところが本作では、冒頭にも述べたようにエマ・ストーンが実によく 感じを掴んでいるのである。
 本人の写真を並べたらあまり似ているとは思えないかもしれないが、映画で見ると僕らが脳裏に思い浮かべる「キング夫人」のイメージそのもの! 野暮ったい髪型などに助けられてはいるが、後はメガネぐらいで特殊メイクなども施してはいないようだ。そもそも、顔はあのエマ・ストーンの顔である。それなのに、ラ・ラ・ランド(2016)などでの彼女とはまったく印象が異なる。口元を半開きにして歯を見せたりして、演技力で「あの感じ」を出しているのである。これには恐れ入ってしまった。だから冒頭で書いたように、向こうの役者はスゴい…なんて、まさにバカみたいな感想しか出て来ない。「雰囲気」でなりきっているあたりが素晴らしいのである。
 そんな二人以外にも、ビル・プルマンエリザベス・シュー、さらにお久しぶりのアラン・カミング…と脇に至るまで意外にも豪華キャストが集結している点も見逃せない。エリザベス・シューなんて雰囲気をガラリと変えているので、最初誰だか分からなくてビックリした。
 こんな風に、あの点この点と美点を挙げればキリがない。いくらホメてもホメたりない。それくらい、非常に難しい際どいコースに向ってボールを打つような、デリケートな配慮がなされた作品なのである。


悔やまれるたった一点の濁り

 前述したように、試合に破れたボビーは去り際にビリー・ジーンの勝利を祝し、「私は君を見くびっていたよ」というセリフを残して去って行く。 彼は決して傲慢でもなければ、尊大な男でもなかったのだ。こうして誰もが彼を見捨てたかのように、ロッカールームで一人ぼっちになったボビーのもとに、別 れ話が持ち上がっていた妻のプリシラがやって来る…。
 まるで風呂敷をどんどん結んでいったしめくくりのひと縛りのように…念には念を入れたかのようなボビーの扱いに、作り手の細やかな配慮が見てとれる。描き方によってはそれこそアジ演説のようなガサツな作品にもなりかねない題材だけに、非常に慎重にも慎重を重ねて作ったことが伝わって来る。見事な出来映えである。
 だが、やはり今回の作品はそれにもまして難しい題材だったのか、これほどまでに作り手が配慮したにも関わらず、たった一点だけ、少々残念な点が見えないでもない
 それはビリー・ジーンの夫、ラリー・キング(オースティン・ストウェル)の扱いである。
 本作ではメインイベントとなる男女対抗試合と、その背景となる男性中心社会への異議申し立てが話の中心となる。それらを描くにあたって、非常にデリケー トな神経を使っていることはここまで語って来た通りだ。だが、ビリー・ジーンについては、彼女にまつわるもうひとつの要素を描かなければいかなかった。そ れは、彼女の同性愛的要素である。
 何度も繰り返すが、本作の「本筋」となる男女間の問題について、作り手は細心の注意を払って描いている。それが本作の主眼である以上、本作のあらゆる要素がそこに向けて効果的に働くように、作り手は全力を傾注しなければならなかったはずだ。ところが本作では、もうひとつ非常にデリケートな同性愛の問題が出て来る。こちらも決してサラリと流して描ける問題ではない(本作の性格上、それはあり得ない)だけに、どうしても主題を描くためのパワーが減殺されかねない。そのため作り手としては、この要素に深入りすることは、今回はあまり得策ではないと思ったのではないか。
 これは、差別だとか問題を軽視しているとか、そういうことではない。映画を作る上で訴求しなくてはならない点が分散する(しかも、どちらも細かい配慮をしなくてはならない要素である)ということは、決して望ましくなかったはずだからである。
 ただ、本作は「実話」である。これがフィクションならただ一点集中に描けばいいところだが、1973年のビリー・ジーンを描くなら、この同性愛の要素をはずす訳にはいかない。そこでそういう要素は出来るだけ「軽く」しつつ、必要最小限には押さえていく…という方針をとったのではないか。本作のストーリーラインにおける同性愛の要素の「重み」を軽減しながら、決して無視も軽視もしていないというスタンスを守る。そのためにアラン・カミング演じるイギリス人デザイナーという重要人物を配置し、彼に最後にキメ台詞を言わせて一定の見解は語っておく…というカタチでソフト・ランディングさせている。まるで矛盾する要素を両立させるような、アクロバットのような芸当で切り抜けているのだ。
 だが、その過程でしわ寄せも出てしまった。ビリー・ジーンと夫ラリー・キングとの関係である。
 一般的な娯楽映画として、夫であるラリー・キングという人物を重みを持って描いた場合、ビリー・ジーンと女の愛人マリリンとの関係は非常に描きづらいも のとなる。ラリー・キングがろくでもない人物ならばまだしも、本作は実話であり、彼はビリー・ジーンのために献身的に働いた人物なので「悪役」にはできな い。一方で、ビリー・ジーンとマリリンの関係を否定的に描く訳にもいかない。だとすると、ラリー・キングもビリー・ジーンとマリリンの関係も両方とも肯定的に描くために、本作は相当な尺とエネルギーを使わねばならなくなる。それは、本作で描きたい本来の主眼をぼかしてしまうことにもなりかねない。
 従って本作では、ラリー・キングその人の存在感を出来る限り軽くして、ビリー・ジーンとラリー・キングとの関係も希薄なものに描くという作戦に出た。映画を見る限り、ビリー・ジーンとラリー・キングとの間には、お互いの関係性の歴史もなければ「夫婦生活」なども存在しないようにさえ思えてしまうのだ。ハッキリ言ってしまうと、一番文句が出なさそうなところにしわ寄せがいった…ということになる。仕方ないと言えば仕方ない。
 しかしこの方針は、ラリー・キングという人物をこの映画の脇役にしただけでなく、彼をビリー・ジーンの人生における「取るに足らない脇の人物」扱いにしてしまったのではないか。そのくらい、気の毒なほど薄っぺらい平板な人物に描いてしまっている。まるで「大した奴じゃないから、愛人に妻を持っていかれても問題ない」みたいな扱いに見えてしまう。まぁ、実際そう見えてくれないと映画としては困ってしまうのだろうが、これはいかがなものだろうか。
 もし本作の最後にビリー・ジーンから、あるいはマリリンから、彼に謝罪の言葉ひとつでもあったならどうだったのだろう。そんなことをしたらしたで、今度は別方向から見当ハズレで厄介な抗議でも出て来てしまうんだろうか。
 本作でのラリー・キングの扱いは彼にとってアンフェアな扱いだと思うし、何よりあれほど細心の注意を払って「理不尽に扱われる」ことへの異議申し立てを していた本作として、何とも残念な点である。本作ではラリー・キングだけが、最後まで「理不尽に扱われ」っぱなしに見えてしまうのだ。
 いろいろな事情が伺えるだけに、ここまでの達成感を実現しているだけに、「ないものねだり」だということはよく分かる。分かるけれども…僕には本作のこのたった一点の濁りが、何とも悔やまれるキズに思えてならないのである。

 

 


 

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