「男と女、モントーク岬で」

  Return to Montauk (Ruckkehr nach Montauk)

 (2018/07/30)



見る前の予想
 この映画については、どこかの映画館で予告編とチラシを見て知った。
 フォルカー・シュレンドルフ監督の大人の恋愛映画で、ステラン・スカルスガルド主演。こぢんまりとした印象の作品に思えたが、何となくそこが好ましく思えた。アメリカ映画がどれもこれもけたたましい作品ばかりでウンザリしていた時だったので、なおさらそう思ったのだ。
 ただし、僕はフォルカー・シュレンドルフのことを詳しく知っている訳ではない。「ブリキの太鼓」(1979)以降、そんなにこの人の作品を見ている訳でもない。ただ、前作パリよ、永遠に(2014)がなかなか面白かったから新作も見たかった。しかも戯曲の映画化だった前作より、今回はよりシュレンドルフのやりたい事をやっているんじゃないか…という気もしたので、なおさら興味を持った訳だ。
 ただ、なかなか見る時間がとれない。こういう作品だから、ちょっとしたはずみで劇場に足を運ばなければ見に行けない。結局もう上映終了というギリギリのタイミングで、劇場に駆け込むハメになった訳だ。

あらすじ
 ベルリンから飛行機でひとっ飛び。すると、アッという間にニューヨークの雑踏のなか。
 小説家のマックス・ゾーン(ステラン・スカルスガルド)が暗い部屋に佇み、ひとりつぶやいている。それは哲学者だった自分の父が亡くなる直前、マックスに言い残した言葉についての話だ。
 「人生にはふたつの要素しかない。何かをやってしまった後悔と、やらずに終わってしまった後悔のふたつだ」
 マックスが語り終えると、周囲から盛んな拍手が送られる。実はマックスはたった一人でいた訳ではない。とあるホールの中で聴衆を集め、本の朗読を行っていたのだ。
 彼は自らの最新作のプロモーションで、ここニューヨークにやって来た。その本の内容は、どうやら主人公が過去の恋愛を回想する内容のようだ。喝采を受けて上機嫌のマックスを迎えるのは、妻のクララ(スザンネ・ウォルフ)。そして同じ出版社のリンジー(イシ・ラボルト)が、マックスの広報担当として彼のニューヨーク滞在をサポートしてくれる。
 だが、マックスが朗読会の会場から出るとすぐに、ある老いた人物が声をかけてきた。その人物の名はウォルター(ニエル・アレストリュプ)。かつてマック スと関わりのあった人物らしく、やけに親しげに話しかけて来るがマックスは少々苦手そう。見るからに金持ちそうで、一癖ある人物である。
 だが、ウォルターが意味ありげに「レベッカ」という女性の名前を出したとたん、マックスの表情が変わる。ウォルターは「レベッカ」もこのニューヨークにいるといい、連絡先も教えてくれた。
 そそくさとウォルターと別れたマックスだが、動揺は隠せない。クララにウォルターのことを聞かれても、若い頃にニューヨークで世話になったパトロンのような人物…とだけしか語らない。語りたがらない。
 そのまま、マックスはクララとホテルに落ち着いた。クララは妻といっても「事実婚」で、彼女はニューヨークの出版社で働いていることから今回久々の再会。さすがにベルリンからニューヨークでは、そうそうちょくちょく会いに来れる訳もないのだった。
 翌日、広報担当のリンジーと打合せ中のマックスは、彼女に「レベッカ」の仕事場への連絡を頼む。そこは一流の弁護士事務所だ。だが、電話した相手の反応がイマイチと察したマックスは、リンジーのスマホを奪って電話をブチ切り。そのままリンジーと一緒に、「電話が切れてしまったので直接会いに来た」体でその事務所へ乗り込んだ。
 弁護士事務所の入るビルはかなり立派で、受付もマックスたちをスンナリ通してくれない。何とか取り次いでくれたはいいが、降りて来たレベッカ(ニーナ・ ホス)はいかにも「デキル女」ムード全開で、マックスの取り付くシマもない。それでも今夜の朗読会へのお誘いと新作本を手渡すことだけは出来たから、まず はマックスも満足した。
 それにマックスは、ウォルターからレベッカの自宅住所も入手していたのだ。思っていた以上にいい女になっていたレベッカに、マックスの期待値はいやが上にもアガる…。
 その夜もまた別の会場で、新作本を朗読するマックス。その内容は、明らかにかつてのレベッカとの思い出を綴ったものだった。だが、その場にレベッカは来ない
 その頃、レベッカは友人のレイチェル(ブロナー・ギャラガー)とコンサートに出かけていた。彼女も内心の動揺を抑えきれなかったので、レイチェルを誘ってわざわざ別の用事を作ったのだった。そんなレベッカをけしかけるレイチェル…。
 朗読会の後、マックスはクララやお仲間と一緒に夜の街へと繰り出す。飲んで騒いで…楽しいはずの飲み会ではあるが、ここはニューヨーク。取り巻く人々も クララのお友達で、所詮マックスはヨソ者に過ぎない。おまけにクララの同僚ロデリック(マルコム・アダムス)の彼女に対する馴れ馴れしい態度も、マックス にとってはいちいち不快である。
 面白くないマックスはこっそり店を飛び出し、夜の街でタクシーを拾った。目指すはレベッカのマンションである。豪華な住まいに圧倒されつつ、ワクワクしながら管理人に取り次ぎを頼むマックス。押し掛けられたレイチェルは困惑していたが、一緒にいたレイチェルが面白がってマックスを取り次いでしまった。
 こうしてレイチェルの家にやって来たマックスだったが、相変わらずレイチェルの態度は剣もホロロ。結局はコーヒー一杯出されて追い出されるハメになったマックスは、トボトボ歩いてホテルまで戻るのだった。
 そんな翌日、マックスたちが出版社にいる時に、リンジーのスマホにレイチェルからのメッセージが入る。土曜日の朝にロングアイランドに出かけるから、もし一緒に行くなら自宅まで来て…と。
 その場にいたクララは何事かを察したようだが、リンジーがその場で機転を利かせて話をごまかす。土曜日の晩にはクララが用意したパーティーの予定が入っているのだが、それまでには戻るから…とマックスは行く気マンマンだ。
 なぜなら、「ロングアイランド」でマックスはすべてを察したから。
 ロングアイランドの突端にはモントーク岬がある。そのモントーク岬こそ、マックスとレイチェルにとっての「思い出の場所」だったのである…。

見た後での感想

 世界的な映画作家なら、誰しもその人なりの「意匠」を持っている。ティム・バートンでもスピルバーグでも、あるいはエミール・クストリッツァでも、一目…とまではいかずとも、ある程度見ていれば、その人ならではの共通の映画スタイルが感じられる。
 しかし、フォルカー・シュレンドルフにはそれが感じられない。むしろ、シュレンドルフほど世界的な名声を持っていながらその「意匠」が見えない監督も、他にはいないのではないだろうか。
 今回の主人公は、「作家」。一般的に映画の主人公がクリエイターであった場合、それは作り手の自画像である可能性が高い。ドイツ人の作家でアメリカでも知名度が高く、しかもアメリカ滞在経験がそれなりにあったらしい…という設定からして、この主人公はシュレンドルフその人に思えてくる。そうなると、これは彼の個人的な物語なのだろうか。
 宣伝コピーがスゴくて、「今なら、もっと上手に、愛せるのでしょうか」とか「誰にでも忘れられない恋がある」…と来る。文芸やらゲイジュツの香り高い作品…とかそんな感じに売ろうとしているのは明らか。ハッキリ言って、観客としては女性向けの売り方である。
 だが、実物を見たら…これは全然そんな映画なんかじゃなかったのである。

一体どこが「そんな映画なんかじゃない」のか?

 正直言うと、途中までは僕も「全然そんな映画なんかじゃない」とまでは思っていなかった。
 実際に見てみると「文芸やらゲイジュツの香り高い作品」というほど敷居が高い訳じゃないし、ラース・フォン・トリヤー作品からハリウッド映画まで大活躍 のステラン・スカルスガルドの魅力やこぢんまりとした作品全体の佇まいもあって、見ていて好ましくは感じていた。しかし、基本的には「誰にでも忘れられな い恋がある」というフレーズは間違ってないのかな…と思って見ていたのも事実。確かに筋書としては「誰にでも忘れられない恋がある」という話であることは 間違いないのだ。
 だが、実はニュアンス的にはちょっと「それ」とは違う
 「今なら、もっと上手に、愛せるのでしょうか」とか「誰にでも忘れられない恋がある」とか…そんな取り澄ましたようなものじゃない。そんな気取った言葉で語るようなものじゃない空気が漂っている。それどころか、「女性向け」なのかどうかすら疑わしいのである。
 僕がそれを「アレッ?」と感じ始めたのは、スカルスガルドがかつての恋人ニーナ・ホスと会うために、嬉々としておめかしを始めたあたりから。そして、 ニーナ・ホス運転のクルマに乗ってモントーク岬に向う途中、スカルスガルドがカーステでボブ・ディランを選んで、「あっ、これこれ、僕らの思い出の曲 〜♪」とか言いながら流して喜んでたら、彼女にブチッと切られちゃってシュンとしちゃうあたり。その曲もまたミエミエの「アイ・ウォント・ユー」連呼で、スカルスガルドも「どう?どう?」とニーナ・ホスの方をチラチラ見てニヤニヤ笑いからの〜…無慈悲なブチ切りである。スカルスガルドのションボリ顔も絶品だ(笑)。
 これは完全に笑いどころだろう。事実、僕はプッと吹き出してしまった。このあたり、スカルスガルドはまるっきりコメディとして演じてるんじゃないの?
 そしてモントーク岬に着いた後のエピソードでは…夜、宿に戻って来たスカルスガルドは、ニーナ・ホスの部屋に通じる扉が全開になっているのを見る。一瞬ためらうスカルスガルドだったが、次の瞬間には勢い良く隣の部屋へと踏み込む。
 それを見た時、僕は瞬時に思ったのだった。あぁ、男はここでその扉の向こうに踏み込まなきゃいけないんだよな…と。

女にモテたきゃズカッと踏み込め(笑)

 正直に言って僕がモテるタイプの男じゃないということは、恥を忍んで白状しなくちゃならないだろう(笑)。そんなこと先刻ご承知と言われてしまうかもしれないが、それをカミングアウトしなくちゃ本論は先に進めない。以下はそれを念頭に置いた上でお読みいただきたい。
 夜、宿に戻って来ると、先に自分の部屋に戻った女は扉を大きく開け放っている。誘っているのである。スカルスガルドは一瞬ためらった後に隣の部屋にズ カッと踏み込む。コレを見て、僕は先に述べたように「男はこれをやらなきゃいかんのだよなぁ」と思った。当たり前のことなのかもしれない。女に恥をかかせ ちゃいかん…とか、その手のフレーズも枚挙に暇がない。だが、恥ずかしながらそれと同時に、「オレはなかなかそうはいかなかったよなぁ」と思ったのも事実。だからやっぱりモテなかったんだけどねぇ(笑)。実践では、それが出来なかったのが半数を超えていると認めねばなるまい。
 だが、そこはそれ、本人にだって理由がある。状況から言って、ちょっと相手の弱っている気持ちにつけこんでいるみたいだしなぁ…とか、これってホントにお誘いなの?…とか、いくら何でも図々し過ぎるだろ…とか、いろんなことを考えているのである。オレのせいじゃない。
 でも、結局は言い訳であり、自分の自信のなさであり…一番マズいのは「自分を守っている」点である。男らしくないのである。そこのところを、女にズバリと見透かされてしまうのである。モテる訳がない。
 あのスカルスガルドが隣の部屋に踏み込む瞬間、僕はこれらのことを瞬時に思い出していた。それも過去の鮮烈な印象付きで…である。それはスカルスガルドが踏み込む前に、「一瞬だけためらった」からだ。あの躊躇がリアルなのである。
 そこには言葉では言い尽くせない実感がある。「男の実感」だ。
 そこに至るまでのスカルスガルドは、終始一貫まるでためらいがない。女の職場を聞いたら連絡を入れ、電話じゃ埒が明かないと知るやいきなり突撃。その時に明らかに歓迎されていなかったのに、懲りずに夜中に自宅にまで乗り込む。全然めげない。図々しいにも程がある。
 だが、男は…やり過ぎちゃうとストーカーだから程度問題ではあるが(笑)…ある程度まではそうでなければいけないのかもしれない。少なくとも「自分を守ろう」とはしてはいけない。そこが愛嬌であり、「男らしさ」でもある。おそらくこのスカルスガルド扮する人物は、これだからいつもモテるんだろうなと思う。
 だが、そんな彼でもこの僕のように、ついためらってしまう一瞬がある。そこに言葉を超えたリアリティが感じられるのだ。それは「男のホンネ」みたいなものだ。
 そんな「実感」は、本作のあちらこちらにある。先ほど例を挙げたクルマの中での息詰るエピソードも、それに近いことはこの僕が経験している。アレは実に 辛い(笑)。特にクルマの中は逃げ場がないし、そのクルマに乗っていないと帰れないことだってあるから、難行苦行を我慢しなくちゃならない。あの感じは分 かる。
 そしてその「実感」は、本作での男と女の気持ちのすれ違いっぷりにもよく出ているのだ。



 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



男の決断の「耐えられない軽さ」

 モントーク岬で旧交を温め合ったふたりは、いい感じになってこのままヨリを戻すのか…という雰囲気が漂い出す。スカルスガルドはその気満々だし、ニーナ・ホスもまんざらでもないように見える。
 だが実際には、そんなスカルスガルドの願望は成就しない。やり直そう、今の女とも別れる…とためらいなしにズバズバ切り出すスカルスガルドに、ニーナ・ホスはノーを突きつける
 この感じは、僕にもよく分かる。
 この男、実に「軽い」のである。ある意味でその「軽さ」がいいところでもあって、それが前半での女に対する積極的アプローチにつながる。女の部屋につながる扉に、ズカッと踏み込むことにもつながる。
 男にこの「軽さ」がなければ、男と女は始まらない。それは、僕の数 少ない(笑)成功例からも明らかである。この「軽さ」がない男は何も出来ないし、ただ「自分を守っている」だけになってしまうのだ。それは男としては ちょっと卑怯だ。女からも、そんな男は好ましくは見えないのではないか。だから、男はある程度「軽く」なくてはいけない。
 だが、女はそんなに「軽く」はなれないのかもしれない
 僕は最初に本作を見た時、スカルスガルドが女の職場に押し掛けたら剣もホロロ、自宅に乗り込んでも即お引き取りを…というテイタラクだったので、その後 でいきなり彼女から「お誘い」が来た時には「???」となってしまった。
 あんだけ冷ややかな反応だったのに…???

 まぁ、そこで「???」となってしまうところが僕のモテない所以なのだろうが、後々いろいろ 考えてみると、この彼女の行動は理にかなっているのである。
 彼女にとっては、愛は「重い」のだ
 だから、職場に乗り込まれたってすぐにニッコリとはいく訳がない。まぁ、さすがにどんな別れ方をしたか知らないが、何十年ぶりかで会って即ヨリ戻そうと はならないだろうから、それは当たり前かもしない。その後に自宅に来られたって、まだイイ顔はしていない。しかし、スカルスガルド自宅急襲のちょっと前ま で、彼女は友人と彼の話で持ち切りではなかったか。実は、十分すぎるほど彼の出現に動揺していたのだ。
 だが、例え憎からず思っても、心は揺れ動いても、そんなすぐには首をタテに振れない。確かに自分のわずかな経験を思い出しても、女の反応はそうだった。男側の盛り上がりとは裏腹に、女の気分の高揚には「時差」があった。そうだったよなぁ…と改めて思い出された。
 それは、彼女にとってスカルスガルドの誘いに乗るのは「重い」決断だったからだ。そんなに男のようにホイホイ色よい返事など出来ないのである。スカルスガルドの想いに応えるために、彼女にはあれだけの時間が必要だったのである。
 だが、スカルスガルドにはその「重さ」が理解出来ない。「好き」は「会いたい」だし、「会いたい」は「やりたい」である(笑)。そこに違いはない。実際、男はこんなものである。何ら難しい理屈などない。理屈があるとすれば、後付けのどうでもいい理屈だ。終始その調子で、女を誘う段階ではその「軽さ」が功を奏したのに、いざという時にそれが仇となる
 ヨリを戻したと確信した瞬間、スカルスガルドは速攻で「やり直そう」とか「今の女とは別れる」とか言い出す。瞬間湯沸かし器である。ゆっくりお互いの気 持ちを確かめて…とか、実際にやっていけるかどうか熟考して…とか、「今の女」との着地点を見つけて…とか、相手が落ち着くまで…とか、そんな発想はまっ たくない。というか、その時間を必要としていない。彼にとっては疑ったり考えたりする必要がない、明白な事実だからである。男にとってはまさにその通りだ。だが、如何せん「軽すぎる」。その決断には、女が抱えている「重さ」が決定的に欠けている。
 女は、その男のどうしようもない「軽さ」に耐えられない。
 あのスカルスガルドの口説きをニーナ・ホスがバッサリ切って捨てたやりとりには、そんな「実感」が満載である。だから映画を見ているこちら側の、人生のいろいろな場面を連想してしまう。それと同時に、その時の「自分の何がマズかったのか?」さえ分からせてしまう。
 これってそこらの「モテ・マニュアル」本やら、こないだ女性を乱暴した逮捕者が出たケッタイな「ナンパ塾」なんぞより、よっぽど実用性がある「モテ指南」になるんじゃないだろうか(笑)。この映画を、女にモテたい男たちが見ない手はないぞ。それくらい、本作の持つ実感や説得力は群を抜いている。ビックリするくらいのリアリティだ。
 こんな映画体験は初めてじゃないだろうか。


男と女と「カネ」と「理想」のリアル

 このように、ステラン・スカルスガルドの言動がいちいち見ているこちら(男)のリアルに突き刺さってくる本作。それも、よく女が男を叩く時にやりがちなカタチでネチネチ悪意で描いている訳でなく、良くも悪くも「男ってこうだよな」「女ってこんな感じだよね」…と冷静に淡々と描いている。
 これって今までの映画でもありそうで、実際にはここまで実現できた作品はないんじゃないか。こんな大人しい佇まいの小さい作品なのに、この達成感は ちょっとハンパじゃない。しかも、それが淡々とした語り口もあって、実にさりげないからまたスゴい。
 実際、本作のそういう部分って分からない奴には分からないまま、気づかれない ままなのではないだろうか。現にネットなどでの評もそれなりの批評家諸氏のレビューでも、圧倒的に「誰にでも忘れられない恋がある」…的などうでもいいも のばかり(笑)なのである。たぶん、アレは何も分かっていない。分からないから、あんなどうでもいい言い方しかできないのだろう。
 だが、間違いなく本作の男と女…分けても「男」を描く視点は実に確かだ。そのあたりがモロに出て来るのが、登場人物の経済的側面が出て来る部分である。ズバリ言って、恋愛もある程度の年齢になってくると「カネ」の問題になる。大人の男女は、そこを避けては通れない。
 主人公のスカルスガルドは、アメリカでも本が出るほど国際的名声がある。とはいえ、ベストセラーを放つ世界的な有名作家と言い切れるかといえば、本の朗読会に集まる人数を見るとちょっと怪しい。
 冒頭の音声を聞くと、主人公がニューヨークにやって来るのは、「エア・ベルリン」の フライトでである。「エア・ベルリン」は現在運航停止になっているが、元々あまり評判がいい航空会社ではない。超安値のLCCほどは安い航空会社ではない ものの、高級なレガシー・キャリアとは言い難い。ニューヨークにプロモで呼ばれる作家でありながら、フラッグ・キャリアのルフトハンザには乗っていないあ たりがミソである。案の定、泊まっているホテルも高級とは言い難い宿だ。
 それに比べて、「昔の女」ニーナ・ホスの働く法律事務所は、超高級なインテリジェント・ビルにある。明らかにニューヨークでは成功者の部類に入っているの だ。彼女のマンションで入口にセキュリティが待ち構えていて中に入れないあたりでも、その生活水準の高さを伺える。「思い出」のモントーク岬に出かけて 行った時も、スカルスガルドはニーナ・ホスが買おうとしている家を見てビックリする。あまり生活感のない、デザイン要素が高そうな高級住宅である。実際、 スカルスガルドは「高そうだな」と思わず口に出してもいる。
 だがニーナ・ホスは、かつてはスカルスガルドと同様に留学生としてこの地にやって来た異邦人だった。そんな彼女が生き馬の目を抜くニューヨークで、ここまでの成功を手にするためにどれだけの苦労をしてきたのか。何を犠牲にしてきたのか。
 そんな女が改めてスカルスガルドのような男とやり直すというのは、ある程度、生活を一変させることでもある。もはやお互い若くはない。何も持っていない、しがらみもない頃の話ではない。もはや大人である。愛さえありゃいいってほど事は簡単ではない。それは、決断だって「重く」ならざるを得ないのである。そこが、男には分かっていない。
 なぜなら、スカルスガルドは作家で生きていけちゃっている男である。芸術…つまり、ある程度は「理想」で食えてる人間だ。だから彼女との再スタートも、人生一変の決断にはなり得ない。そりゃあ「軽く」もなるのである。
 転じてスカルスガルドは、自分の「内縁の妻」スザンネ・ウォルフに対してあまりに無神経だ。いや…それは、スカルスガルドに「妻」という者がありながら ニーナ・ホスにうつつを抜かしていることだけを指して、こう言っている訳ではない。映画の後半で、スカルスガルドはこの「妻」ウォルフのアパートにやって 来る。そこで彼女のアパートのあまりの祖末ぶりに笑う。どうやら今までニューヨークに来ても、彼女のアパートに来たことがなかったらしい。そのあたりの無 神経さもどうかと思うが、アパートの狭さの他にも、近所の食い物屋から漂うケバブの臭いがスゴい…などと笑ってしまう。これが「妻」を怒らせるという発想 がまったくない。
 彼女はまさに、シビアなニューヨークで一人でやって来たのである。そのキツさが分かっていない。「理想」で食えてるスカルスガルドには分かるはずもない。「妻」にズバリと指摘されて、スカルスガルドは初めてそのことを思い知るのである。
 そしてそれは…ニーナ・ホスの決断の「重さ」に初めて気づくことにもつながる。そのくらいシビアなニューヨークの現実の中で、ニーナ・ホスはあれほどの成功を掴んだのである。そのために払った犠牲の大きさを、初めてスカルスガルドは察するのだ。
 その「理想」と「カネ」の問題は、本作の別の要素からも伺える。もうひとりの意味ありげな登場人物、ニエル・アレストリュプ扮する富豪のウォルター絡みのエピソードだ。
 「パリよ、永遠に」に次ぐシュレンドルフ作品登板のアレストリュプは、サラの鍵(2010)、戦火の馬(2011)にも出演したクセ者役者である。当然、この役者を使うとなれば、それなりの意味があろうというものである。だが、最初はその登場の意味がよく分からない人物でもある。
 留学生時代のスカルスガルドが世話になった人物らしいから、おそらくパトロン的人物だろう。本人も絵画の収集家のようだから、「芸術」上の後援者という立ち位置のはずだ。
 ここでのアレストリュプは、かつて恋人同士だったスカルスガルドとニーナ・ホスの仲を改めて取り持つ役回りである。それも、スカルスガルドがそれを期待していた訳ではなく想定外の出来事だったようだから、アレストリュプが「焼けぼっくいに火をつけた」かたちになる訳だ。
 一体なぜ、この男は何年ぶりかでわざわざスカルスガルドのもとを訪れてまで、こんなことをしたのだろうか。この二人を焚き付けると、どうなるか見たかったのだろうか。そうだとすると、何とも意地悪い発想のように思える。現にスカルスガルドはこの人物が苦手そうで、明らかに再会後に不快そうな表情を見せていた。
 考えてみると、スカルスガルドとニーナ・ホスの両方をこの富豪のアレストリュプが知っていたということになるなら、アレストリュプはスカルスガルドのみならずニーナ・ホスにとっても「芸術」上の後援者であった可能性が高い。つまり、その時にはニーナ・ホスも、スカルスガルドと同様に芸術を「理想」としていたのではないだろうか。
 だが、スカルスガルドがある程度その「理想」を保ったままそれを生業として生きていけたのに対して、ニーナ・ホスはそうはいかなかった。現在の彼女は、 ニューヨークの立派な法律事務所に籍を置き、高級マンションに居を構える「成功者」である。だが、その「成功」を手に入れるために、彼女は確実に大きな犠 牲を払って来た。その犠牲の中には、「理想」だった芸術も含まれるに違いない。
 つまり、スカルスガルドとヨリを戻すということは、彼女にとっては今の「現実」を捨てて再び「理想」に生きることを覚悟させることにもつながるのだ。も しスカルスガルドとやり直すならば、それを常に考えずにはいられないだろう。それなら、さらに決断は「重く」ならざるを得ない訳である。
 アレストリュプがスカルスガルドをけしかけたのは、実はこうしたニーナ・ホスの葛藤や化学反応を期待したからではなかったのか。「理想」である芸術を愛する「高等遊民」のアレストリュプとしては、「理想」を捨てたニーナ・ホスに少々意地悪い感情を持っていたのではないか。だから、ちょっとイジメてやれ…と仕掛けを施したのではないだろうか。
 そして、それがスカルスガルドを不快な表情にさせていた要素でもあったはずである。
アレストリュプは、何とも趣味が悪い男なのだ。
 映画の終盤、コレクション中の絵をくれるというので、渋々ながら「妻」を伴ってアレストリュプの自宅を訪れるスカルスガルド。国際的知名度がある作家の スカルスガルドも、前述した通り決して莫大な財産がある訳ではない。高額な絵画をタダでくれるというのなら、気が進まないまでも心は動かざるを得ない。 「理想」で食えてるスカルスガルドとて、そのくらいの現実感覚は持っている。ところがアレストリュプが絵を人に見せずに死蔵しているのを見た「妻」ウォル フは、「芸術は広く人に見てもらわなければ意味がない」云々と口走る。それに対してアレストリュプはバカにしたように、「これは私のモノだから構わない!」と言い切るのである。
 「芸術は広く人に見てもらわなければ」…という発言は、正論ではあるがいわゆる「民主主義的」で凡庸な意見で ある。彼女は「芸術とは云々」と語れる程度の芸術理解はあるのかもしれないが、所詮は「親孝行をしよう」程度の誰でも言える意見しか言えない凡庸な人間で もある。それが彼女の限界で、出版や文学という世界でもあくまでその周辺「どまり」で甘んじていられなければならない所以だろう。真にオリジナリティのある人間…芸術を理解する人間にはなれない。
 おそらくスカルスガルドもそれは分かっている。愛すべき女だが凡庸であるということは、自ら「芸術」の末席を濁しているこの男にはイヤというほど分かっ ている。それに対して、おそらくニーナ・ホスはそうではなかったのではないか。彼女は最終的に不幸にも「理想」を捨ててしまったが、おそらく「芸術的資質」は豊かだったのではないか。感性的にはスカルスガルドと「打てば響く」部分があったのかもしれない。スカルスガルドがいとも簡単にコロッとそちらにヨロめいた理由は、おそらくそのへんにあるのではないだろうか。
 だが、だからといってアレストリュプが「妻」に対して唾棄するかのようにバカにした発言をするとなると、ちょっと話が別だ。
 「これは私のモノだから構わない!」という言葉には、オレのカネで買ったモノをオレがどうしようと勝手だ…という意味がある。そこには「カネ」が絡んで いる。言っていることは正しい。事実、スカルスガルドだってカネにつられて、絵をもらいにノコノコやって来たのだ。人のことは言えない。「芸術は広く人に 見てもらわなければ」…が青臭く凡庸な意見であることはイタいほど分かる。
 だが、そんな
アレストリュプの発言は、結果的に安アパートで頑張っている「妻」を侮辱したり、苦渋の思いで「理想」を捨てたニーナ・ホスを卑しめる発想につながるではないか。ならば、オレはそれを許せない。何よりここまで「絵をくれてやる」とスカルスガルドをおびき出したこと自体が、彼を試したか…あるいは蔑んでいることになるではないか。
 アレストリュプには、ただカネがあるだけである。「芸術」の、「理想」の何たるかを知っている訳ではない。語る資格がない。このオレを、あの女たちを、事もあろうに「芸術」の名の下に侮辱するなど百年早い。多少なりとも「芸術」の一端を担って生きるこのオレを、成就できたか否かに関わらず「芸術」と真摯に対峙しようとしてきた女たちを、こんな野郎が愚弄するなどもってのほかだ。
 最後にスカルスガルドがもらった絵をその場に憮然と放り出すのは、彼がそうした憤りを感じたからではないか。「芸術」と「理想」をいくらかでも知る自分だからこそ、そこは毅然としていたい。その一点は断固として譲れない。
ふざけるな、こんな絵なんぞいるものか!
 彼の中の「男」が、その意地と心意気が妥協を許さないのである。
 そして今こそスカルスガルドも、ニーナ・ホスや「妻」の苦しい思いを、その内に秘めた女の「重さ」を分かったのではないか。完全には理解しないまでも、わずかその一端でも…。
 2時間に満たない小さな作品ではあるが、本作にはそこまで掘り下げて考えたくなる、「男」と「女」に関する豊かで深い考察が秘められているのである。

 


 


 

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