「レディ・プレイヤー1」

  Ready Player One

 (2018/06/18)



見る前の予想
 この作品、スピルバーグ・シンパを自認する僕としては、当然かなり気になってはいた。
 未来社会を舞台にしたSFで、ヴァーチャル・リアリティみたいなゲームの話。本編に無数のアニメやゲームやキャラクターの引用があって、それらを一つひとつ確認するのもファンとしては楽しみとか何とか…。
 いやぁ、正直言ってまったく食指がそそらない
 最近は重厚なドラマ映画が多いスピルバーグとしては、久しぶりにストレートな娯楽大作に戻って来た観がある。本来ならシンパとしては応援したいところだが、どうもイマイチ気が乗らない。それって何でかと言えば、やはり「ゲーム」とか「アニメ」とか「キャラクター」とかいうあたりが違和感バリバリだからだろう。
 スピルバーグといえばオタクの権化…というのが世間の定説である。だから「ゲームの世界を描いたオタク趣味の映画だからスピルバーグにピッタリ」という話になっているのだろう。調べてみたら確かにスピルバーグは相当なゲーム好きらしく、そういう意味ではゲームが題材の映画を撮っても不思議はないはずだ。ピッタリな企画…と思える。
 だが、それに加えて「アニメ」とか「キャラクター」とかポップ・カルチャーにも造詣が深いのかと言えば、果たしてどうなんだろうか? 「オタク」だか ら…と言ったって、「オタク」ってのはそもそも守備範囲が狭いもので、その狭い部分を深掘りしていくから「オタク」なのだ。「オタク」文化全般をスピルバーグがカバーしているなんて訳はない。もしそうだとしたら、それはもう「オタク」じゃないだろう。
 だから「スピルバーグにピッタリ」と言われても、実は違和感しかない。むしろスピルバーグがそうした世間の誤解をいいことにそれに乗っかって、「オタクの第一人者」ヅラして一儲けしちゃおうとしているのだろうか。それって、迎合なのかもしれないし勘違いかもしれないのだ。
 初めてフルCGで作ったタンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011)が無惨な出来映えだったことも思い出されて、ゲーム世界をフルCGで描くと聞いてもイヤな予感しかしない。とにかく「年寄りの冷や水」感がスゴい。おまけに公開されてから漂って来たウワサで、結局は「ゲームばっかやってないで現実を大切にしろ!」って結論になるらしいって聞かされるや、それがまたいかにもスピルバーグらしい偽善めいたメッセージなのでウンザリ。シンパでも…いや、シンパだから分かるメッセージの空疎さなのだ。いかにもあいつが言いそうなことだよ、寝言は寝て言えってぇの。
 そもそもゲームもアニメもその手のやつはまったく関心なし…ってことからして、僕とこの作品には接点がほとんどない。「バック・トゥ・ザ・フュー チャー」とメカゴジラとキティちゃんと「AKIRA」が出て来ようと、ガンダムがどうしようが、オレとしてはまったくどうでもいい。だから、どうにも興味 がなかった訳だ。大体、日本のポップ・カルチャーが取り上げられたからって何でみんな喜んでるの? テレビの「日本スゴい」番組でガイジンがオベンチャラ言ってるのを喜んでる連中みたいで、コッケイそのものじゃないか。別にそれらをオレが作った訳じゃないし、オレに一銭も入ってくる訳じゃないから、嬉しくも何ともない。
 だが、この作品と前後して製作していたペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(2017)がかなり面白い作品だったことから、本作にも急に興味が湧いた。そもそもこの2本をほぼ同時に製作するってことは、スピルバーグにとってどういう意味があったのか? ひょっとしたら、この作品はスピルバーグのフィルモグラフィーでも極めて特筆すべき位置づけの映画となるのではないか? 
 そんな漠然とした予感を抱いて、僕は新宿の映画館に飛び込んだのだった。

あらすじ
 西暦2045年、資源は枯渇し環境は悪化、貧富の差は拡大して文明は疲弊していた。ここオハイオ州コロンバスでも、多くの人々は貧困に喘ぐばかり。広大なスラム街に積み上がるゴミの山のような住居で、人々はその日暮らしを余儀なくしていた。
 そんな世界で人々が夢中になっているのが、広大な仮想現実空間のゲーム「オアシス」。 そこでは人々は仮の姿「アバター」となり、何でも好きなことを思うがままに振る舞うことが出来た。ゲームに勝ってコインを集め、好きなアイテムを購入して さらにゲームを有利に進めることも出来る。友人も出来るし結婚だって出来る。逆に「オアシス」で全財産を失って絶望から死を選ぼうとする者もいる。それはもはや人生そのものになっていた。人々はつらい現実から目を背けるために、四六時中「オアシス」に没頭。むろん、ここコロンバスのスラム街でも、誰もが昼間からゴーグルを付けて仮想現実に溺れていた。
 このスラムに山と積まれたスクラップの中をかい潜り、よじ上ったり降りたりしている青年ウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)もまた、「オアシス」を生 き甲斐にしているひとりだ。彼もまたこのスラムの住人で、幼い頃に両親を亡くし、叔母の住まいで一緒に暮らしている。ただし叔母の恋人がロクでなしのDV 野郎で、現実の生活は殺伐としたもの。勢い「オアシス」に生き甲斐を見出だすしかない。ウェイドはこの「オアシス」内で、「パーシヴァル」というイケメンのチャラ男「アバター」で行動していた。そこには親友と呼べる仲間もいて、ゴツい大男アンドロイドのカラダを持った「エイチ」(リナ・ウェイス)、「ダイトウ」(森崎ウィン)、「ショウ」(フィリップ・ツァオ)という仲間がいる。中でも「エイチ」はマブダチといっていい仲だが、現実世界で会ったことはない。あくまでこの「オアシス」内での関係だ。
 そんな「パーシヴァル」たちが今日も今日とて挑むのは、「オアシス」内の「アノラック・ゲーム」だ。これには、「オアシス」創設者に絡む物語が関係している。
 ジェームズ・ハリデーとオグデン・モローという二人の男たちによって設立されたグレガリアスゲーム社によって、「オアシス」は立ち上げられた。開発者は ジェームズ・ハリデーだが、そのハリデーは「オアシス」の大成功にも関わらず、オグデン・モローと袂を分かって会社を去ってしまう。そして5年程前にこの 世を去ったのだが、それに先立ってひとつの遺言を遺した。
 それは、彼の莫大な遺産と「オアシス」運営権を、「オアシス」内に隠された「アノラック・ゲーム」の勝者に譲り渡すというもの。「オアシス」内に隠された「イースターエッグ」を手に入れた者が、その勝者である。だが、これがなかなかの難物であった。たちまち「オアシス」の住人たちがこぞって宝探しに血道を上げたが、そう簡単に何とかなるものではない。「イースターエッグ」を手に入れるには3つの鍵が必要で、第1の鍵についてはその入口がすでに見つかっていた。だが、入口に辿り着いて鍵を手に入れるには、まず過酷なレースに挑まなければならない。毎日毎日多くの挑戦者がこれに挑むが、いまだに誰も手に入れていないことで難しさがお分かりだろう。
 中でもこの宝探しゲームに必死なのが、巨大企業「IOI」とその幹部であるノーラン・ソレント(ベン・メンデルソーン)。ソレントは何とかして「オアシス」運営権を手に入れようと、「シクサー」と呼ばれる刺客を「オアシス」内に多数送り込み、手段を選ばないやり口で勝者になろうとしていた。むろん、そんなやり口が「オアシス」住人からヒンシュクを買っていたことは言うまでもない。
 今日も今日とて、レース場にはチャンスを虎視眈々と狙うツワモノどもが押し掛ける。「パーシヴァル」ことウェイドも、「バック・トゥ・ザ・フュー チャー」でおなじみデロリアンで参戦だ。マブダチ「エイチ」もそこにいる。こうして一斉にスタートを切ったレースは過酷そのもので、街なかを模したコース のあちこちで事故が多発。おまけにエンパイアステートビルからキングコングが飛び降りて来て、レースを妨害してくるからたまらない。脱落して消えた連中か ら、「パーシヴァル」ことウェイドはチャッカリと仮想通過のコインをまき上げる。
 そんな熾烈なレースの最中、グイグイとスピードを増して素っ飛ばすバイクの女がひとり。彼女こそ「オアシス」の中では勇名を馳せているイイ女…「アルテミス」そ の人(オリヴィア・クック)だった。素晴らしい走りを見せる彼女に、思わず目は釘付けの「パーシヴァル」。次から次へと挑戦者が脱落して消えていく中を、 華麗に突っ走る「アルテミス」も、そして「パーシヴァル」や「エイチ」もゴールめがけてまっしぐらだ。そんな「ゴール」が目前に見えてきたその時…。
 危険を察知した「パーシヴァル」はレースをストップ。そこに「アルテミス」のバイクが猛スピードで突っ込んで来た。慌てて「アルテミス」をキャッチする「パーシヴァル」。バイクだけがゴール目がけて突っ走って…。
 すると、そこにコングが襲いかかるではないか!
 「パーシヴァル」はこうなることを分かっていた。それで「アルテミス」が犠牲になるのを未然に防いだのだった。「アルテミス」にぞっこんの「パーシヴァル」はこの機会を逃すまじとばかりに、バイクを失った彼女を「エイチ」の工場に誘うのだったが…。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 


見た後での感想

 つまらないことを言ってしまうのだが、本作がワーナー・ブラザース作品だと知って、僕は少々驚いてしまった。
 スピルバーグがワーナー・ブラザースと真っ正面から組んだ映画づくりって、実は珍しいんじゃないか。この人はプロデュースのみのいわゆるスピルバーグ印の作品は「グーニーズ」(1985)はじめとしてワーナーから何本かリリースしているが、監督作品におけるワーナー作品は、他の3監督との競作のトワイライトゾーン/超次元の体験(1983)、「カラーパープル」(1985)、「太陽の帝国」(1987)…そして問題作のA.I.(2001)しかない。そのうち、作中の短編1本を手がけただけの「トワイライトゾーン」は例外だと考えた場合、スピルバーグがこれまでワーナーで手がけた作品は、彼のフィルモグラフィーの中では異色なものばかりだ。また、「A.I.」は元々スタンリー・キューブリックの企画であり、キューブリックはずっとワーナーで作品を発表していたことから見ても、これまたちょっと別と考えた方がいいのかもしれない。
 残りの「カラーパープル」と「太陽の帝国」はスピルバーグがシリアス路線に乗り出した最初の2作で、 まだそれが軌道に乗るかどうかも分からなかった頃の作品。いかに「スピルバーグ監督作品」でもさすがに他の映画会社はまだ未知数だった彼のシリアスものに 腰が退けていた、そこをワーナーはとにかく「スピルバーグ作品が欲しい」と企画に乗った…というような感じなのだ。本当にそうかどうかは分からないが… (笑)。そのせいなのか、「シンドラーのリスト」(1993)以降シリアス路線が軌道に乗った後は、ワーナーの出番はなくなった。軌道に乗ったら用はない…というのも酷い話だが(笑)、どうもそんな感じに見えるのである。
 本来、スピルバーグによる娯楽大作…中でもその「勝負作」は、激突!(1971)、「ジョーズ」(1975)以来の「古巣」ユニバーサルによってリリースされることが多い。だから、スピルバーグとしては久しぶりのストレートな娯楽大作の本作がワーナー作品だというのは、非常に奇異な感じがする。
 もちろん、本作の原作映画化権をワーナーが取得していたから…というのが真相だろう。ここまでグダグダ述べたことも、根拠のまったくない僕の妄想や寝言みたいなものである。だが、本作がスピルバーグ久々のワーナー作品であるということは、何とも考えさせられるところではないか。果たして、実はそれは非常に暗示的なものとなっていたのである…。
 これ以降の文章は、僕が本作を見ていて感じたことをとりとめなく綴ってみたものだ。脈絡もないことをダラダラ書いてしまったが、どうも本作にはその方がピッタリ来る気がした。これじゃ「感想」でも「レビュー」でもないのだが、実際にそう思ったのは事実なので仕方がない。
 これはドブ川からフツフツと沸き出すメタンガスの泡のようなものだ。ともかく、本作を見た人物の戯れ言と思って、読み飛ばしながらお付き合いいただければありがたい。


ポップ・カルチャーの「不健全」や「退廃」が突きつける刃

 開巻まもなくヴァン・ヘイレン「ジャンプ」が始まって、なるほどそうくるのか…とニンマリさせられる。1980年代あたりのポップ・カルチャーの洪水みたいな映画になっているとは聞いていたが、冒頭の「ジャンプ」は、それを何よりも雄弁に物語っていた。
 だが、次々繰り出される1970年代末期から1980年代の音楽やら映画やアニメのキャラクターに、徐々に胸焼けがしてくる。特に音楽に関しては明らかに1980年代あたりに偏っていて、それが本作に不健康なムードをベットリと漂わせている。つまりは、これは若い人向けと見せかけて、僕らのようなオッサンオバサン…いやいや、そろそろジジババの年代の人間に向けて目配せしているような映画な んじゃないか。近未来の世界では「大衆文化」があの時代に爛熟したまま停滞してしまっていることを示唆している…といいたいんだろうが、そもそもそれを言 い訳にマーケティングっつーんですか、いわゆるそういうやつをしちゃってるんじゃないだろうか。いずれにせよ、ここに描かれているイメージにある種の「不健全さ」を感じてしまうのは致し方ない。
 そして、先のヴァン・ヘイレンに代表される曲の数々に我々に対する「媚び」や「不健全さ」を感じはしても、同時に抵抗し難い心地良さを感じているのも事実。つまり、これらを「不健全」というのなら、当然、それにヨダレを垂らしている「我々」も不健全なはずなのだ。
 「オレはガンダムでいく!」なんて劇中のセリフを無条件に喜んじゃってるような奴(笑)もいるだろうが、やはり多少は「ちょっとコレって病んでるかな」…と感じるのが自然じゃないのか。つまり、観客たちの喉元にも刃は突きつけられているのである。
 全編に出て来る「おなじみキャラ」みたいなモノについては、正直言って僕はいくつも分かった訳ではない。ゲームやアニメに興味がないから最初から知らな いということもあったし、何よりアイマックスのデカい画面で3Dで見たこともあって、圧倒されてそんなちっちゃいところに目がいかなかったこともある。も う歳だから動体視力が衰えてるしね(笑)。見に行く前にどんなキャラが出て来るか予習しておけ…なんてヤボなことをアドバイスしていたネット情報もあった が、娯楽映画を見に行くのに「予習」…ってどんだけ不毛なんだよ。そんなことするヒマあったら、仕事してカネ稼いでいた方がいい。
 ただ、おそらくこれらのキャラを画面に出すにあたっては、権利取得のための莫大な費用と大変な手間と労力がかかったこ とは想像に難くない。そこまでしてそんな手間ヒマとカネを使ったというのは、それが本作の「売り」であったから…ということもあっただろうが、それだけで はないんじゃないのか。自らもヒットメーカーとして「売れるコンテンツ」を多数生み出して来たスピルバーグである。そこには何か「それら」を出さねばならない必然性があったはずではないか。
 これらのアイテムを見て聞いて、アンタがたは楽しいし嬉しいよね? その嬉しさって無条件で理屈抜きのモノでもある。でも、それって厳しいことを言え ば、実は「不健全」だし「退廃」でもあるんだよね。見ていて喜んでいるアンタがたも、みんな「不健全」で「退廃」してるってことじゃないんですか…? や はりこれらってそう言いたいがための、手間ヒマカネかけての権利取得としか思えないのだ。
 だが、こうした観客の喉元に刃を突きつけるような点があるはずなのに、本作ではそれがあまりイヤミに感じられない。作り手が火の見櫓に上がって、観客に 向って「バッカじゃねえの?」と上から目線で言っているように作られていたら、それは確かにイヤミだろう。なのに、それが感じられないとしたら、それはど うしてなのだろうか?
 ここで、「オタクの権化」的スピルバーグのイメージが効いて来る。大体、本作での膨大なキャラクターなどのイキイキとした描かれ方を見れば、スピルバーグがそれらを嬉々として取り上げていることが分かる。そこには「批判」なんて大見得切った態度は一方的には感じられない。
 本作におけるスピルバーグの姿勢がイヤミなものには感じられないのは、そんな「不健全」や「退廃」が他人だけじゃなくて「自分」も抱えていることだ…と白状しているからではないのだろうか。

「仮想現実のアバター」は何もゲームの中だけじゃない。

 本作の中で登場人物はみな「オアシス」というゲームに参加しているため、物語の多くの部分においてゲーム内での「アバター」姿で登場する。
 特に主役男女のアバターは、何だかやけに安っぽくて陳腐だ。オレってゲームとかまったく分からないので知らないのだが、アバターってこんなに「安っす い」イメージなの? いずれも北関東あたりの田舎のホストやヤンキー娘みたい(笑)でチャラさやケバさ満点。言っちゃ悪いが、新宿の喫茶店あたりでマルチ商法の勧誘でもやっていそうな連中の顔つきで ある。確かに主人公の男の子ウェイドはボテっとしたニブそうな奴だし女の子サマンサは目の回りにアザがあるって設定だから、それよりはアバターの「パーシ ヴァル」や「アルテミス」の方がマシなイメージなのかもしれない。だが、それにしたって、アバターでの女の子の姿が「人に見せたい自分のイメージ」だと 言っているほど魅力的には思えない。どこか田舎の国道沿いのスナックにいそうなねーちゃん風のアバターが、そんな「理想型」ってどうなんだ。これが素晴ら しい未来、素晴らしい仮想現実なんですかい。その時点で、すでに「仮想現実なんて空しい、リアルに戻ろう」的なメッセージが剥き出しな感じで自分としては 寒々しい気がしてしまう。ただし、これがゲームに詳しい人たちやイマドキの若い人たちと共有できる見解なのかどうかは分からない。当然、オレが「ズレて る」って見方はあるわな。
 始まってすぐに、主人公の男の子ウェイドが女の子「アルテミス」を好きになってしまう。それに対して男の子の親友「エイチ」は、仮想現実の異性に惚れるなんてやめとけ…的な忠告をする。このくだりでも、僕はまたまたアレレ…という違和感を感じてしまった。
 だって、これって西暦2045年だろ?
 こんな話はすでに1999年にインターネットがみんなの間で一気に一般的になっていった頃にすでに言われていたことだ。世の中で仮想現実が当たり前になり、そこにみんながドップリなこの映画の時代に、まだこんなことを言ってる奴がいるってどうなんだ。いやぁ、スピルバーグはさすがに寝言いってるじゃないのか?
 あげくこの男の子は「個人情報」を自ら漏らして墓穴を掘るという失態を犯してしまう。昨日今日LINEを始めたオッサンやオバサンじゃないんですぜ? さすがにそりゃないんじゃねぇの?
 だが、実は僕はここで告白しなくてはならない。自分もこの主人公を笑えない…ということを。
 それは、まだインターネットがまだ混沌としていた時代…西暦2000年問題で世の中が騒然としてて、やれ通信や金融、公的機関や企業がパニックになるかも…とか、飛行機が墜落しちゃうんじゃないか…とか、みんな本気で心配していた頃のことだ。 
 ここだけの話、自分もこの主人公と同じことをしていた。ネットの「アバター」…といっても実はただチンケなハンドルネームを名乗っただけだったが、それ でも「別人格」であることに変わりはない。僕も一応その「別人格」で…最初は戸惑いながら、そして徐々に大胆になっていって、ネット人生を謳歌していた。
 そこで、「ある女」とも出会った
 ただ、僕の場合はそうして仮想な相手とすぐに実際に出会うことになったし、会ってみたら「実物」も見てくれから何から自分の理想…いや、それ以上だっ た。外見も、生まれて初めてあれほど自分の「タイプ」だった人間と会ったことがない。それに加えてユーモアがあってアタマが良くて上品で、おまけに映画好 きだった。そんな女が、自分に向って両手を広げているのである。
 これ以上、何を求めればいいというのか。僕はこんな幸運にブチ当たったことが信じられなかったし、今までの人生のうちにつまんない女で手を打たなくて良かったと神に感謝した。そんなことってあるんだな…と。
 だが、実は僕は気づいていなかった。それこそが「地獄の一丁目」だったのである。
 それからほぼ3年間、胃の痛くなるような思いが止むことはなかった。まさに悪夢。「自分の理想」なんてモノほどアテにならないものはない。むしろ「理想」であったからタチが悪かった。「災厄」とは、自分の「理想」のカタチをしているものだったのだ。本当に大事なモノってそこじゃなかったのだ。それは自分がネットの「アバター」で相手を選んだから? いいや、違う。実際にそんな間柄になったのは、すでにじかに顔を合わせた後…でのことだった。リアルで会っていたのに…そうなってしまったのだ。仮想現実のせいでもネットのせいでもないのである。
 では、見た目でダマされたのかって? それも違う。僕は彼女とやりとりをして、話もして人柄も知った上で、それでトコトン惚れ込んだはずだった。それでも、こんな状態に陥ってしまった。
 というか、「仮想現実」って実は「現実」の中にすでにあった
 そもそも、「アバター」ってネットやデジタルがなくたって作ることは可能なのだ。なぜなら、日常においても僕らは本当の「素」を他人や世間にさらしてい る訳ではない。一種のシニシズムが人々に蔓延した段階で、もう自分を偽らずに見せているような人間はいなくなってしまっている。
 「それ」に成功出来ているかどうかは別にして、僕らは普段から公には「人に見せたい自分のイメージ」を見せているのだ。そのイメージに化けきれていないということはあるかもしれないし、より親密になる時に徐々に「素」に移行していく…ということはあるかもしれないが。ともかく本作に描かれている仮想現実は別にビックリするような話ですらない。
 実は「仮想現実」は、我々の現実の中にアナログなカタチですでにかなり前からある。それを「現実」と混同したり錯覚したりすることも、現在進行形で経験 済みだ。本作の世界はSFや絵空事のモノではない。それはすでに技術として実現しつつある…的なレベルの話ではなしに、すでに我々にとっては普通のことと して現実に存在している。
 我々みんながすでに「仮想現実のアバター」なのである…。
 閑話休題、つまらないことをダラダラと並べてしまった。ついついアレコレと昔のことを思い出してしまったので、すっかりバランスを崩して関係ないことを書いてしまった…。ただ、本作には何か僕がインターネット創成期に感じていたような「何か」を思い出させる。そんな一種の「懐かしさ」を感じさせてくれる。近未来を舞台にした最先端のお話のはずなのに…である。コレは一体なぜなのだろうか?

滲み出る「年寄りの冷や水」感の正体とは?

 懸念されていた「年寄りの冷や水」感は、やはり見ているとどうしても本作のあちこちから感じられてしまう。
 見ているこっちもいい歳こいてる上に、ゲームにもアニメにもポップかカルチャーにも疎い人間だから人のこと言えた柄じゃないのだが、スピルバーグがちょっと無理してる感じは否めない。そもそもこの原作からして発表されてからかなり経っているみたいで、そうなるとゲームとか仮想現実とかがすでにある程度「現実」のものとなってしまっていることから、どうしたって古びてしまっている点もあるだろう。だが、ここで感じる「冷や水」感は、そういうのとはちょっと違う気もするのだ。
 
前にも書いたが、最初に本作の企画を聞いた時に、「ゲームの世界を描いたオタク趣味の映画だから、スピルバーグにピッタリ」的な論調に違和感を感じた。聞くところによればスピルバーグはかなりのゲーマーらしい。だが、だからって本作にうってつけという訳ではないだろう。オタクはオタクでも、そこじゃない。ポップカルチャー大好きにしても、ここに描かれているアイテムの大半が登場した1980年代には、すでにスピルバーグは映画監督としてプロ中のプロになっちゃっていたはずである。だから単純に「大好き」だけでは済まないはずだ。ピュアなノスタルジーだけには浸れないはずなのである。
 なのに、有名キャラクターはオマージュといった訳でもなく、ほとんどがウジャウジャと「そのまんま」出て来る。まったく芸のない描き方だとも言える。スピルバーグがそういう描き方をしたということは…そこには郷愁やら共感だけではなく、ある種の冷ややかな視線があると考えるのが自然ではないか。
 むしろ、それは当時すでに現役だった自分をも含めた「大衆文化」への批評的な視点なのかもしれない。ネット上での世評ではとにかくゲーム・アニメ世代の 人たちが大絶賛という様相を呈しているが、それはちょっと違うのではないか。むろん希代のエンターテイナーでかつ商売人でもあるスピルバーグは、観客を楽 しませて不快な気分などにはさせない。もちろんスピルバーグにとっては、元よりキライな世界ではない。だが、ホンネはどうやらそこにはないのではないか。
 ゲームやらアニメやら…にまったくシンパシーを持っていない僕がここまで楽しんでいるには、それなりの理由があるはずだからである
 ただ…だから最後に「ゲームばっかやってないで現実を大切にしろ!」な んて「おせちもいいけどカレーもね!」(笑)みたいなメッセージを打ち出す…って聞くと、どうにもシラケる。言いたいことは分かるしむしろ大賛成なのだ が、そんなことは「親孝行をしよう」とか「ウソは良くない」みたいな話で、わざわざ偉そうに映画で語られることじゃない。それを…それでなくても偽善臭い スピルバーグが上から目線で言ってくるとなると、鼻持ちならないなと思っていた訳だ。
 そもそも主人公はじめ仲間たちが仮想空間で知り合っていたにも関わらず、なぜか全員オハイオ州のコロンバスに住んでいる。これを言っちゃオシマイなのだ が、仮想空間話の割には狭っ苦しい向こう三軒両隣みたいな話なのだ。まぁ、お話として盛り上げるにはこうするしかなかったのだろう。地に足が着いているっ て言えば着いていると言えなくもないのだが、イマイチ物語が飛翔も飛躍もできないでいるとも言える。
 本作は新しい世代の新しい世界の話を描いているにも関わらず、旧時代のヘソの緒を切れないままでいるようなのである。まぁ、70歳を超えるスピルバーグ御大がやっているのだから当たり前。「年寄りの冷や水」感はそこからにじみ出ているのだ。
 だが、どうにもこうにもお客を楽しませてしまう…というのと同様に、結局お話としては真っ当な結論で終わらせる…というのも「映画の保守本流」スピルバーグならではの意匠である。逆に言うとストーリー的には「ゲームより現実」…みたいな結論をとったカタチになっているが、スピルバーグにとって、実はストーリー(中でも結論)ってあまり意味がないんじゃないか。彼の思想はメッセージではなく、映画作りのスキルやテクニックにこそ宿っている気がするからである。
 あるいはひょっとしたら…本作が一昔前のゲームやらアニメやらキャラクターやらの過剰なまでの洪水になっているのは、スピルバーグに昨今のハリウッド映画やショービジネス、あるいはさまざまなコンテンツ・ビジネスに対する危機感が あるからではないのかとも思える。またはそれらに対する「異議申し立て」が多少なりともあるんじゃないのか。イマドキのコンテンツの頭打ち感、焼き直し 感…ハリウッド映画でいえば、果てしないシリーズ化やリメイク、マンガやテレビなど他のビジュアル・ジャンルからの映画化…などなどの安易な発想、企画の 貧困ぶり。すでにハリウッドの「大御所」である彼の立場では表立っては言えないのかもしれないが、本作を見ているとそんなモノさえ感じられるのだ。
 でなけりゃ、あんなに過剰に胸焼けするほどキャラクターなんか出さないんじゃないか。それも、どれもこれも「一昔前」のものばかり。しかも、それらがいまだに「現役」なのだ。それは、現代という時代が新しいモノを何も生み出せていないということをも意味する。
 「コンテンツ」というものの在り方について、スピルバーグにはスピルバーグなりの言い分があるような気がする。多くの人たちを楽しませてきた職人としての「矜持」が、そこにはあるように思われるからである。
 また、そうなった責任の一端は自分にもある…と自覚しているのかもしれない。
上から目線を感じないというのは、それだからかもしれないのだ。
 だから「現実を大切に」というのは、観客に対してスピルバーグが言って来てるメッセージではないのかもしれない。実はスピルバーグは誰に言うのでもなく、他ならぬ「自分自身」に何かを言い聞かせたいのかもしれないのである。

「タンタンの冒険」から学んだ「現実ありき」

 見終わった段階で気づいたのは、その構成の巧みさ…である。
 実は映画を見始めた段階では、僕は少々ヘキエキしていた。この文章の最初の方でも語ったように…ジジババに媚びた1980年代ポップスがガンガン流れるわ、アバターはチャラくて安いわ、ゲームなんて興味ないのにゲームのルールを説明されるわ…で、イヤな要素全部乗せで見せられる。ゲーム好きはどうか知らんが、僕にとっては嫌気が差すに十分な内容だった。
 ところが、この導入部分を過ぎると様相が一変する。徐々に仮想現実から現実メインのストーリー展開になって来る。後半はゲーム内でのアクションと現実世界でのサスペンスが交互に出ていて不可分に絡まり合う状態。おそらくはこれがスピルバーグがやりたかったことだろう。CGで見せ場が埋め尽くされた映画だと思っていたら、後半は実写とCGが交代交代で出て来る構造になっている。しかもCG世界での緊迫感も、現実世界で起きている事件によって生まれているという作りになっているのだ。「現実」「仮想現実」のサンドイッチ構造であり、あくまで「現実ありき」の映画なのである。
 前にも述べたように、スピルバーグは「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」でフルCGアニメに挑戦して大失敗している。何でも思うがままの映像を作れるはずのCGに挑戦すれば、さぞや素晴らしい映像をモノに出来ると満を持して乗り出したスピルバーグだったが、結果は無惨なものだった。今回はその題材からいって、明らかにその雪辱を果たすためのものであることは間違いない。
 「タンタンの冒険」での失敗は、目指していたものがそもそも間違っていた。スピルバーグ演出の真骨頂とは、実は「自分の目指す映像を自在に表現できる」ことではなかった。「自分の目指す映像を表現する」ために「実写で何とか理想に近づけようとする」、その無理も含めて現実をねじ伏せていく強引さにこそ真骨頂があったのだ。
 だから本作において、スピルバーグは何でも可能なCGによる仮想現実世界のアクションと、そうはいかない現実世界での映像を大胆にズバズバとつないでいく。現実に起きている出来事によって、仮想現実内のミッションが危うくなっていく。物語の原動力が常に「現実」にあるこ とを見せながら、「現実」あっての「仮想現実」というカタチでドラマを回していく。それゆえにどこか昭和的(笑)なイデオロギーからは逃れられない点もあ るのだが、結果的にそれが映像と映画本体にダイナミズムを生んでいる。そうした方がそこにスリリングな緊張感が生まれることを、スピルバーグは体験的に会 得したのである。
 「タンタンの冒険」での苦い失敗から学んだ結果を基に、本作であえてCGによる仮想現実描写に挑戦した理由は、まさに「それ」を「自分に言い聞かせたい」からではないのか。
 こういう現実と仮想現実の重層的な構造でのアクションといえば、クリストファー・ノーランインセプション(2010) あたりが想起される。だが、出来上がった結果から言えば、さすがにスピルバーグに軍配が上がると言わざるを得ない。メンコの数が一枚も二枚も上手。かつて 「若き天才」だっただけのことはある、タダモノではないジジイの老練さなのである。仮想現実場面はデジタル、現実場面はフィルムで撮影したとのことらしい が、そのあたりからしてジジ臭い昭和な発想
(笑)というか、時代遅れなイデオロギーに思えてくる。でも、ちゃんと結果を出しているから大したものだ。
 さすが映像の魔術師スピルバーグ…と言われるだけのものが、そこにはある訳だ。

個人的ステートメントとしての「レディ・プレイヤー1」

 本作はいろいろなキャラクターやアイテムなどを引っ張り出しているが、その中でやけに突出した扱い方をしているものもある。主人公たちの試練のひとつとして出て来る、スタンリー・キューブリック「シャイニング」(1980)がそれだ。スティーブン・キングの…ではない、あくまでキューブリックの「シャイニング」である。
 スピルバーグがここで「シャイニング」を持って来たのは、決して偶然とは思えない。スピルバーグはキューブリックが土台を作った「A.I.」を通過することによって、明らかに作家的成熟を遂げた。スピルバーグとしては、ここで自らの内なるキューブリック体験の象徴として「シャイニング」を持って来たかったところだろう。また、子供が大きな位置を占める作品として、ここは「シャイニング」でなければならなかったようにも思える。
 家庭に縛られる不満を溜め込み、その怒りと狂気で息子を殺そうと追いかける男を描いた「シャイニング」と、決して得られることが出来ない親の愛を求める子供型ロボットを描いた「A.I.」は、同じコインのオモテとウラだ。スピルバーグは「A.I.」を手がけた時に、それが本能的に分かっていたに違いない。そして、それは母子家庭で育った少年時代のスピルバーグと、どこかヘソの緒でつながっている。そのあたりの事情については、僕の宇宙戦争(2005)の感想文を併せてお読みいただきたい。
 そして親と子…という視点でいうなら、最初から親を失っている本作の主人公もその延長線上にあるように思われる。両親ともいない境遇と母子家庭とを一緒にするのはいかがなものかと言われてしまうかもしれないが、E.T.(1982)あたりで描かれていた子供たちの寂しさと本作の主人公の状況には、どこか通じるモノを感じるからである。
 だとすると、本作はまた非常に個人的なステートメントなのではないか。
 「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」の感想文でもすでに述べたように、本作はその「ペンタゴン・ペーパーズ」と「ワンセット」で製作された作品である。そして従来より「ワンセット」製作されたスピルバーグ作品は、必ず娯楽大作とシリアス路線というカップリングで作られて来た。ならば今回の場合でいうなら、本作が娯楽大作、「ペンタゴン・ペーパーズ」がシリアス路線…という見方が自然だ。
 だが同じ「ペンタゴン・ペーパーズ」の感想文では、僕はこうも指摘している。近年のスピルバーグ作品ではこの娯楽大作・シリアス路線という一昔前みたい なカテゴリー分けが徐々にしにくくなってきている、その両者は徐々に融合しつつある…と。そういう目で改めて「ペンタゴン・ペーパーズ」を見直すと、確か に同作は必ずしもシリアス路線作品とは言い難い。同作は映画マニアであり映画研究家であるスピルバーグが、映画好きならではの発想で現代的再生産を試みた「21世紀版のフランク・キャプラ作品」ではないかと思ったのである。
 もし、これが的を射た意見だとしたら、当然のことながら「ワンセット」のもう片方である本作「レディ・プレイヤー1」も別の見方をしなくてはならない。「ペンタゴン・ペーパーズ」がシリアス路線の作品ではないとするなら、本作もいわゆる単純な娯楽大作路線の作品ではない…と考えるべきではないか。
 いろいろグダグダと訳の分からないことを言ったり回り道をしてしまったが、ここでもう一度改めて整理してみよう。親を失っている本作の主人公はどこかスピルバーグの過去に通じるものがあり、そしてスピルバーグ自身が主人公と同じく熱心なゲーマーだ。そして、本作には「仮想現実」的なるものを介して他者に接した時のトキメキや戸惑いといった、今ではむしろ「懐かしい」と思えるような感情に溢れている。とても西暦2045年とは思えないほどに…だ。
 また、本作ではスピルバーグの作家的転換点である「A.I.」の母体を作った人物であり、なおかつ「A.I.」とコインの裏表を形成する映画「シャイニング」を作ったスタンリー・キューブリックへのリスペクトが強烈に描かれている。その「A.I.」と「シャイニング」に共通するものは、機能不全に陥った家庭における子供の受難…である。これは、一周回ってスピルバーグの子供時代につながり、本作の主人公の境遇にもつながる。
 全編に登場するのは、「不健全」で「退廃」したヴィンテージ・ロックやポップスの音楽と映画やアニメなどのキャラクターの洪水。近未来が舞台なのにも関わらず「一昔前」のものばかりであるそれらは、現代のコンテンツに共通する発想の貧困や行き詰まり を想起させる。ある意味で、ハリウッドの覇者であり「コンテンツの発信者」であるスピルバーグによる痛烈な批判とも受け取れる。ただし、「スピルバーグ、 世相を斬る」的なモノにはなり得ない。スピルバーグがこれほどの立場になっていながらそれを黙認しているという意味で、それは「自己批判」であると言うべきだろう。それを言うなら、「不健全」と「退廃」を嬉々として取り入れて、自分もそれらを好んでいると白状している時点で、本作はすでに一種の「自己批判」になっているのである。
 そして作品全体のスタイルは、大失敗に終わった「タンタンの冒険」同様にCGを大幅に使った作品であり、なおかつ「タンタン」の反省を踏まえた「敗者復活戦」のカタチをとっている。「タンタン〜」の失敗は、スピルバーグにとって自らの映画作法の根本
を揺るがすほどの大事件だった。
 そんなスピルバーグの本作における最終的な結論は、「リアルの方が大事だ」ということ。それを「ゲームばっかやってないで現実を大切にしろ!」と解釈するなら寝言としか思えないが、「タンタン〜」を通過したスピルバーグのクリエイターとしての「自戒」の言葉として受け止めるならどうだろう? 少なくとも本作の「現実」「仮想現実」のサンドイッチ構造を見る限りは、スピルバーグは「リアルが大事」を実践して映画づくりに取り入れているのは間違いない。「リアルが大事」とは、映画監督である自分自身にこそ言い聞かせたい言葉であるはずだ。
 どうだろう、本作はスピルバーグがひどく「個人的」な主張を色濃く反映させたものとは思えないだろうか。
 だから、本作はいわゆる従来型のスピルバーグ流「娯楽大作」とは思えない。むしろ「シリアス路線」…それも彼なりの「極私的」な主張や思いを巧妙に埋め込んだプライベート・ムービー的な作品なのではないか…とさえ僕には思えるのである。



 


 

 

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