「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

  The Post

 (2018/06/11)



見る前の予想
 僕は自他ともに認める長年のスピルバーグ・シンパだが、近年のスピルバーグはサメやUFOや恐竜で売った面影はなく、もうすっかり重厚なドラマ監督に徹している感じ。ブリッジ・オブ・スパイ(2015)などもドラマとしてよく出来ていて驚かされた。
 実際にはこれと本作との間に「BFG/ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」(2016)という監督作が挟まるらしいのだが、僕はまた「ハリーとヘンダスン一家」(1987)みたいなスピルバーグ製作総指揮映画ではないか(笑)と思い込んでいたために見逃してしまった。ただ、この「BFG」は近年のスピルバーグ作品としてはちょっと例外かもしれない。本作は
「ブリッジ・オブ・スパイ」などと同様に、重厚ドラマ路線の延長線上にある作品と考えるべきだろう。
 本作はベトナム戦争に関する文書を巡る、アメリカ政府とワシントン・ポストとの戦いを描く作品。こういう題材と聞けば、大統領の陰謀(1976)がどうしても頭に浮かぶ。
 スピルバーグはほぼ同時期に100パーセント娯楽映画全開「レディ・プレイヤー1」(2018)を作っていて、硬軟両方の作品を前後して撮っているあたりも注目だ。世間ではスピルバーグが本作を大急ぎで撮ったことに対して、トランプ政権への抗議の意味がある…と評価してもいる。ただ、立派なことを言っても、ロバート・レッドフォード大いなる陰謀(2007)みたいなグダグダな映画になってしまったんじゃ元も子もない。
 そんなこともあって、僕は本作の出来映えがとても気になった。本作が「レディ・プレイヤー1」とセットとして考えるべき映画という気がしたからである。


あらすじ

 1965年、ベトナム。緊迫する戦場で、アメリカ軍兵士たちに同行する場違いな男がひとり…それは国防総省勤務のダニエル・エルズバーグ(マシュー・リス)だ。
 エルズバーグは自分の目でじかに戦況を観察し、帰国する飛行機の機内でマクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)にその実態を率直に報告した。いわく、「絶望的な状況」とのこと。しかし本国で飛行機から降り立ったマクナマラは、殺到するマスコミに「戦況は好転している」と裏腹な発表をする。これはエルズバーグをいたく失望させた。そこでエルズバーグはこの件に関する機密文書を秘かに持ち出し、コピーをとり始めるのだった…。
 それから数年後、ここはワシントン。この街のローカル紙ワシントンポストの発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、会社の株式公開に向けて準備中だった。
 株式公開は会社を乗っ取られる恐れもありやりたくはないところだが、経営基盤を強化するためには致し方ない。そして、本来は彼女の夫が勤めるべき役割だったが、夫の自殺によってキャサリンが経営者の重責を担うことになってしまった。 彼女なりに一生懸命やってはいるし、取締役会長フリッツ・ビーブ(トレイシー・レッツ)も熱心にサポートするが、そこは素人の悲しさ。取締会のアーサー・ パーソンズ(ブラッドリー・ウィットフォード)には軽くあしらわれるし、編集長ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)には「現場に口を出さないでくれ」と言われてしまう始末。そうなると、強気には出られないキャサリンであった。
 だがベンはベンで、今はキャサリンに配慮などしていられる余裕はなかった。彼には長年の職業的カンで、異変を嗅ぎ取っていたのだ。ニューヨークタイムズの敏腕記者ニール・シーハンが、なぜか長期にわたって鳴りを潜めている。これほどの記者が記事を発表していないのには、何か訳があるに違いない。ベンは新人をニューヨークタイムズに潜入させ、何が起きているのか探らせることにした。だが、何やらプロジェクト・チームを立ち上げて取り組んでいること、そして翌日のニューヨークタイムズにデカいネタが載るらしいこと…しか分からない。
 一方、キャサリンは、長年の家族ぐるみの友人だったマクナマラに、ニューヨークタイムズのスクープで自分がターゲットの対象になるらしいことを打ち明けられる。これにはさすがに親しいとはいえ、当惑を隠しきれないキャサリンであった。
 さて、翌日のニューヨークタイムズ紙には…アメリカ政府が長年にわたって、ベトナム戦争に関する情報を国民に欺いていたことを示す機密文書の 内容がすっぱ抜かれていた。この鮮やかなスクープに、歯ぎしりをせざるを得ないベン。焦った彼は、マクナマラから文書を入手するようキャサリンに頼み込む 始末だ。また、見知らぬ人物より社内に機密文書が届けられたが、それらはすでにニューヨークタイムズで公表済みの部分でぬか喜びに終わる。
 そのうちにニューヨークタイムズの例の記事は、機密保護法に違反するということで発行差し止めとなってしまう。それはワシントンポストにすれば、ひとつのチャンスと言えなくもなかった。
 そんな折りもおり、ワシントンポストの記者ベン・バグディキアン(ボブ・オデンカーク)は水面下で機密文書の発信元を突き止め、エルズバーグから問題の 文書を入手する。だが、膨大な分量なのにページの並びはバラバラ、おまけにニューヨークタイムズは専任チームが長期間かけて精査したのに対して、こちらはベンの自宅に集められた数人の急造チームが10時間程度で整理して記事化しなくてはならない。どう考えても危なっかしい。だが、ベンはこのチャンスを手放す気はなかった。
 その頃、ベンたちが必死に文書を記事化するために奔走していることを知っていたキャサリンは、再びこの件について話をするためにマクナマラの自宅を訪れる。だが案の定、マクナマラは「友人として」の忠告の体で、キャサリンを大いに脅すのであった。
 「ニクソンは汚い奴だ、記事を出せば、奴は君を全力で潰しにかかるぞ!」…。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 


見た後での感想

 見る前から分かっていたことではあるが、これはいわば「大統領の陰謀」の前日談とも言える内容である。
 だから、同じベン・ブラッドリーが登場。あちらではジェースン・ロバーズが演じたこの役を本作ではトム・ハンクスが演じるという訳で、そう考えると感慨深いものがある。実際、エンディングは本作が「大統領の陰謀」につながっていく「事件」の発生で幕…となる訳で、なかなかうまいなと感心してしまった。
 本作はこの「大統領の陰謀」や同じアラン・J・パクラ監督による「パララックス・ビュー」(1974)などなど…のような、1970年代アメリカ映画に多くあった政治サスペンス映画のムードを久々に持った映画なのである。マーベルのキャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)が作中に持ち込もうとしたのが、こうした作品群のムードなのだ。
 そんな訳なので、巷の映画評なども「言論の自由バンザイ」的なレビューばかり。さらに、作中でメリル・ストリープ扮するキャサリン・グラハムが置かれた状況から、「男社会で孤軍奮闘する女性」の立場を代弁する…的な評価までされている。「トランプ批判」プラス「女性の権利」的要素を盛り込んでて、いかにもイマドキ受けそうなネタ満載である。
 しかも「レディ・プレイヤー1」撮影終了直後に本作をクランクインして、「レディ・プレイヤー1」より前に公開に漕ぎ着けた。スピルバーグが「今これを言わなければ!」とばかりに本作を撮ったという触れ込みである。なるほど、バリバリの「社会派」作品という訳だ。
 う〜ん…。そりゃあ確かにそうなんだろうが、あのスピルバーグが「それ」だけで作品を作るだろうか。いやぁ、とてもそんなタマには思えない
 僕は長年のスピルバーグ・シンパだが、シンパだからこそ分かる。スピルバーグ作品は大好きだが、ハッキリ言ってスピルバーグ自身はちょっと偽善的なところが ある。それは言い過ぎにしても、大して深い考えを持っていない気がする。「トランプ批判」プラス「女性の権利」なんて言っても、果たしてスピルバーグはど こまで本気でそんなことを思っていることやら。映画作家としてのスピルバーグは余人をもって替え難いが、そりゃちょっと買いかぶりじゃないのか。とてもじゃないが「社会派」なんてチャンチャラおかしくて…(笑)。
 それって本作をケナしているのかって? いやいや、めっそうもない。むしろホメている。本作は極めて面白い、極上の「娯楽映画」に仕上がっているのである。


娯楽大作とシリアス路線の「ワンセット」

 実は僕が本作で一番注目したのは、スピルバーグがかなり急いで本作を製作したところ。先に述べたように「レディ・プレイヤー1」撮影終了直後に撮入し「レディ・プレイヤー1」より前に公開しちゃったということ。まるで「レディ・プレイヤー1」の製作スケジュールの中に組み込まれていたかのような、「ワンセット」のような作られっぷりなのである。
 実はこの「ワンセット」製作って、スピルバーグにとっては「いつか来た道」だ。「ジュラシック・パーク」(1993)と「シンドラーのリスト」(1993)の時がちょうどそんな感じで、「ジュラシック〜」の撮影終了直後に「シンドラー〜」の撮影を開始させるといった案配だったはず。製作状況は今回と非常に似通っていたのだ。
 考えてみると、「ジュラシック〜」は当時のスピルバーグにとって久々に100パーセント・ストレートな娯楽大作だった。元々は「ジョーズ」(1975)、未知との遭遇(1977)、E.T.(1982)など直球の娯楽大作が本筋だったスピルバーグだったが、その後アレコレと変化球を放るようになった。その間にあの「インディ・ジョーンズ」シリーズなども挟まって来るが、スピルバーグ・シンパとしてはアレはちょっとジョージ・ルーカスからの請け負い仕事という感じがあって「本道」ではない気がしていた。スピルバーグの自己企画としての娯楽大作は、かなり長きに渡ってご無沙汰だったのだ。だから、そんなスピルバーグが久々に自らのイニシアティブで「本道」と取り組んだのが「ジュラシック〜」…という印象だった訳だ。
 一方、「シンドラー〜」はと言えば、実はこれまたスピルバーグとしては「勝負作」だったはず。「カラーパープル」(1985)以来シリアス路線をいろいろ模索していたスピルバーグだったが、この時点まで「これ!」という決定打に恵まれていなかった。そんな彼が自らのルーツたるユダヤ人の悲劇と真っ向から取り組んだ「シンドラー〜」が「勝負作」でなかったはずがない。
 だが驚くべきことにスピルバーグは、自分の「本道」である娯楽映画路線と、意欲を燃やしたシリアス路線での両方の「勝負作」を、何と「ワンセット」で 撮ってしまった。普通の映画作家だったら、こんな無茶なことはしないはずだろう。「勝負作」なら1本に絞って、じっくり時間をかけて専念したいはずだ。と ころがスピルバーグは違うようなのである。むしろこの両者を「ワンセット」でやってしまう。そこが何ともスピルバーグの特異なところなのである。
 元々この人は「早撮り」が売りなところがあるので、フィルモグラフィーでも公開時期が異常に近い作品が結構ある。その中でも、娯楽大作とシリアス路線の「勝負作」を「ワンセット」で撮るというのは、この「ジュラシック〜」と「シンドラー〜」の時が顕著。そして、宇宙戦争(2005)とミュンヘン(2005)の時も「ワンセット」の例に挙げるべきだろう。この時も、久しぶりにストレートなSF娯楽大作だった「宇宙戦争」と自らのルーツであるユダヤ絡みのシリアス作品「ミュンヘン」という、これまた「勝負作」の2本立てである。
 本作「ペンタゴン・ペーパーズ」と「ワンセット」化された「レディ・プレイヤー1」もまた、スピルバーグとしては久々のストレートな娯楽大作のはず。そこに本作を組み込んでいるあたり、今回も「ジュラシック〜」と「シンドラー〜」、「宇宙戦争」と「ミュンヘン」の流れを汲んでいるように思える。これって一体どういうことなんだろうか。
 「勝負作」なら「勝負作」なほど、硬軟両方を作りたくなってしまうのだろうか。あるいは…娯楽に徹した大作映画を手がけるたびに「ワンセット」をやるということは、100パーセントの娯楽大作を作る「免罪符」としてシリアス作品を手がけなければいけないと思っているのか。確かにスピルバーグのシリアス作品は評価されるまで長くかかったし、ハッキリとした結果も出るまで長かった。だから強迫観念として、娯楽大作を作る時には必ずシリアス作品も…と思ってしまうのかもしれない。
 いやいや、ひょっとしたら…映像テクニック的な要素に偏重した「娯楽大作」作品に対して、メッセージ性などを重視した「シリアス路線」をぶつける…みたいなものだろうか。そうやって彼の中の作家としての精神のバランスを保っているのか。
 少なくともここまでのスピルバーグの2大路線については、こうした切り分けがなされていたように思われる。このあたりのスピルバーグの心理はよく分からないし、娯楽大作をシリアス作品と一緒に撮ってバランスをとる…というあたりの理屈が何だかヘン(笑)。娯楽とシリアス…って分け方をしているように見えること自体が、何となく時代遅れなイデオロギーにも感じる。それ故、どうも納得しかねる部分があるが、どうもそういうことみたいなのだ。
 いずれにせよ、「レディ・プレイヤー1」とともに、本作もスピルバーグにとってかなりの「勝負作」である可能性が高いのである。

娯楽大作路線とシリアス路線との融合

 そんなスピルバーグの「シリアス路線」である本作は…といえば、トラックもサメもUFOも出てこないのに、そのサスペンス演出に少しの揺るぎもないのには驚いた。だが、どうやって彼は芝居だけであのサスペンスを出しているのかが分からない。昔みたいにわざとらしいカメラワークや編集もしてないし、まったく不思議でならない。
 元々スピルバーグは激突!(1971)、「ジョーズ」…の人だから、サスペンス演出はお手のもの。というか、サスペンスはこの人の「業」みたいなものだ。シリアス路線をスタートさせた最初の作品である「カラーパープル」でも、劇中にとってつけたようなサスペンス場面が出て来てしまう。確かヒロインが長年自分を抑圧してきた夫を殺そうとする場面が、このヒューマンドラマの中で異常なまでに突出したサスペンス描写になっていたことを記憶している。本編にまったく溶け込んでいないのだが、とにかくサスペンスしてしまう。アレを見た時は、「三つ子の魂百まで」みたいでちょっと笑ってしまった。
 だが、その後はそのあたりもコントロールできるようになったのか、娯楽大作は娯楽大作、シリアス作はシリアス作と切り分けて作れるようになっていった。…ただ、それって果たして作家的成熟なんだろうか?  そもそも「これは娯楽作」「こっちはシリアス」、「こっちは映像テク重視」「こちらはメッセージ性メイン」…などと分けているように見えること自体が、 「文系脳」「理系脳」だとか、血液型による性格判断みたいで、どうも胡散臭くてねぇ…。大体こんな考え方でふたつのタイプの作品を割り切って作れちゃうあ たりが、今ひとつこの人の映画の信用出来ないところでもあり、つまんないところでもあった
 僕なんかスピルバーグの映画は「見せる技術」こそが最大のこの人の「思想」だ と思っていたから、この人のシリアス作品はイマイチだし、無駄な努力のようにずっと思えていたのだ。だって、映画にとって「見せる技術」以上の「思想」っ てあるだろうか。その一番大事なことに異常に長けているというのに、何であくせくと「シリアス路線」を開拓しなけりゃならないのだ。世間の名声でも欲し かったのか。そういうあたりの、森繁久彌が晩年になって芸術祭参加…みたいな感じになってきちゃった胡散臭さが、シンパとしてはとても残念な感じだったの である。
 そんなスピルバーグのシリアス路線が地に足の着いたものになってきたのは、いつの頃だろうか。いつの間にか、彼の娯楽大作とシリアス路線が違和感なく融合を始めたのである。
 やはりその傾向の最初は、スタンリー・キューブリックの遺志を継いだA.I.(2001)あたりだろうか。彼が手がけて来たSF大作やヒューマンなタッチの作品を連想させながら、元々がキューブリック構想によって立ち上がった作品だから、簡単には割り切れない複雑な味が出た。キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)も、従来の娯楽大作ともシリアス路線とも言い難い作品だった。一方、「ミュンヘン」はシリアス路線ながらサスペンス漲る作品だった。こうして娯楽大作としては激しく破綻していたタンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011)という「スピルバーグ最大の作家的危機」を経て、近年のスピルバーグとしては最高傑作と言える戦火の馬(2011)を生み出す…。
 実は今回スピルバーグのフィルモグラフィーを調べて分かったのだが、「タンタンの冒険」と「戦火の馬」はどちらも2011年12月にほぼ前後して公開されたら しい。つまり、この2作も「ワンセット」製作された可能性が高いのである。今まで僕はてっきり「タンタン〜」が失敗だったために「戦火の馬」を「敗者復活 戦」として作ったと思っていたのだが、どうやら最初から「戦火の馬」は「タンタン〜」と一緒に「ワンセット」製作されたらしいのである。これはどういうことな のだろう。「タンタン〜」は製作中にすでに「失敗」と分かって来て、それで一種の作家的「保険」として「戦火の馬」を撮ったのか。はたまた、従来のように 娯楽とシリアスのバランスを取るために両者を「ワンセット」で撮ったのか…。
 ひとつだけ言えるのは、「戦火の馬」は従来までの「ワンセット」作品と違って、テクニック偏重の娯楽大作「タンタン〜」と対照的なメッセージ重視のシリアス作品としては出来ていない…ということ。「タンタン〜」は初のCGアニメとしてテクノロジーの粋を極めた作品だったが、実は「戦火の馬」もまた…題材から一見従来型のシリアス路線作品のように見えるが…スピルバーグが「激突!」、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「E.T.」などで培って来た映像テクニックを縦横無尽に駆使した作品…一種の「スピルバーグ・グレーテスト・ヒッツ」のような様相を呈しているのである。馬の扱いひとつ見ても、モノ言わぬ馬をまるで「激突!」のトラックや「ジョーズ」のサメのようにイキイキと使いこなしている。むしろメッセージ性よりもテクニックの方が勝っていると言っても過言ではない作品なのだ。強いて言うなれば、「タンタン〜」と「戦火の馬」との対立軸は「デジタル対アナログ」…ぐらいのものでしかないのである。
 この後に来るのがリンカーン(2012)、「ブリッジ・オブ・スパイ」…というのは、決して偶然ではないと思われる。いずれもメッセージ性の高い作品ながら、サスペンスなどの話術にも長けた作品になっているのだ。そして「面白い」。ただし以前の作品とは違い、その「面白さ」が「いかなるテクニックで達成されたのか」が極めて分かりにくい作品にもなっている。以前のようには映像テクニックが前面に出て来にくい作品なのである。
 本作も明らかにこの流れに沿ったものだ。映画全編がサスペンスに満ちているが、それらは映像テクニックによって作られたようには見えない。あくまでも脚本の流れと、俳優の演技によって生み出されたように見える。
 例えば「男社会の中で孤軍奮闘しているキャサリン」の立場をベンの妻に言わせて、キャサリンに対するベンの見る目を変えさせるくだり…からの流れがそう だ。この妻の発言があったからこそ、ベンはキャサリンに対して一歩退く態度を保つようになる。そして役員たちがあまりに調子こいたことを言い始めたので、キャサリンの社長の娘としてのプライドに火がついて重大な決断へと結びつく。あくまでベ ンに押しきられたのでなく、彼女の決断だったと描いたあたりが見事だ。
 面白い。だが、以前のようにカメラワークやら編集のリズムやらで生み出されたものではない。少なくとも、そうは見えにくい。なぜ面白いのか…が分かりにくい、非常に円熟した語り口の作品に仕上がっているのである。
 それでいて、ベンの家でみんなで機密文書を検討している盛り上がりどころで、ベンの娘がチョロチョロ出入りしてレモネードで荒稼ぎしているあたりが、毎度お馴染みのユーモラスなスピルバーグ節になっている。かつては別々の作品で達成していた硬軟自在を、いまや1本の作品で実現させている。「ブリッジ・オブ・スパイ」の時も思ったのだが、実にうまいのである。
 そしてあまりにうますぎるので、果たして本作が額面通りにメッセージ重視のシリアス路線作品なのかどうかも疑わしくなる。確かに商品として売る際には、「トランプ批判」プラス「女性の権利」とした方が通りはいいだろう。だが、本当にそれが本作でやりたかったことだったのか。そう言えばウケるだろうってことでしかないんじゃないか(笑)。
 むしろ本作が従来のようないわゆる単純なシリアス路線ではなく、娯楽大作路線と融合したハイブリッドな作品だとしたら、これは実はそんな「トランプ批 判」プラス「女性の権利」なんてアップトゥデートなモノではないんじゃないだろうか。皆さんはそう見たくて仕方ないだろう(笑)が、スピルバーグのことだ から知れたものでしかない。そこに「社会派」っぽさがあるとしても、せいぜい映画マニアの彼らしく往年のフランク・キャプラ作品の「それ」ぐらいのものじゃないのか。例えば「スミス都へ行く」(1939)みたいな…。
 確かに、友だちだから悪く言いたくない…なんて言ってた甘ちゃんな世間知らずのオバサン新聞社主が、ジャーナリズムの牙城にうごめく海千山千の男たちに 斬り込んでいく成長物語と考えれば、何となくうなづける。社主の地位も本来望んでいないのに転がり込んで来たモノ…と考えれば、ますますそのセンが濃厚で ある。
 つまりは、「社主の娘、都へ行く」…だ。
 だが、キャプラ作品で言うところのジェームズ・スチュワートゲイリー・クーパーの役どころを、女性であるメリル・ストリープが担っているあたりがミソである。逆に、ジーン・アーサーが演じた都会のすれた女性記者の役は、ここではトム・ハンクス演じるベン・ブラッドリー…ということになるのだろう。そのあたりの目配せは、さすが商売人スピルバーグである。如才がない。
 本作は社会派メッセージ映画というより、キャプラ作品のような…あくまで良質なアメリカ映画の伝統を汲んだ作品と見るべきではないかと、僕には思えるのである。

 


 

 

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