「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」

  Avengers - Infinity War

 (2018/05/28)



君は「新春スターかくし芸大会」を見たか
 今では年末年始に家族がお茶の間に集まって、みんなでテレビを見て過ごすな んて習慣はないのかもしれない。みんなスマホにかじりついてテレビなんて見ない、あるいはそもそも一緒に集まらないのかもしれない。だが昔だったら…少な くともほんの20〜30年前なら、そんな光景が日本の家庭では当たり前だったはずだ。その時、どこのお茶の間のテレビのブラウン管にも、おそらく同じ番組 が映っていたはずである。大晦日の夜ならTBSの「輝く!日本レコード大賞」、そしてご存知NHKの「紅白歌合戦」、そして元日か2日の夜にはフジテレビの「新春スターかくし芸大会」だ。
 僕が小学生の頃は、正月といえば必ず親戚の本家に顔を出すのがならいだった。年代でいえば、1960年代半ばから1970年代初頭ぐらいだと思う。大体 が昼間から夜までお邪魔するのだが、そうするとテレビに映っているのがこの「新春スターかくし芸大会」。実は小学生の僕はこの番組がとても好きだった。い や、「好き」とかそういうモノではないな。とにかく面白くて豪華で圧倒されていた
 確か司会はベテラン・アナウンサーの高橋圭三。とにかく登場するメ ンバーが豪華。クレージーキャッツもドリフも出て来る。マチャアキもジュリーも出て来る。中尾ミエやら園まりやら伊東ゆかりやらピーナッツやら、後年は キャンディーズやら小柳ルミ子やらアグネス・チャンとか郷ひろみとか西城秀樹とか、とにかく何十人も…ひょっとしたら100人単位の「スター」が出てく る。いやぁ…うまく言えなくて申し訳ないのだが、当時の有名タレントのほとんどが顔を出す番組な のだ。そこでタレントたちが、手品やら芸を披露。また、英語やら中国語でちょっとした劇を演じたりする。まぁ、普段見せない芸を見せるから「かくし芸」で ある。タレントたちも、日頃の番組では絶対に顔を合わせないメンバーで出て来たりする。そもそもイマドキとは違って、コメディアンと歌手は線引きが出来て いた。もちろん共演することもあったが、誰もが誰もバラエティ的な番組に出てくる訳ではない。歌手だって今と違って歌が本業である。コントなんてみんなが つき合う訳ではない。だから、この日の豪華共演にとてつもないプレミアム感や希少価値があったのである。
 製作に当時の芸能界で絶大な力を持っていた渡辺プロがかんでいたこともあって、かくも豪華な顔ぶれが集められたのだろう。こんなタレントとこんなタレントが同じ画面に出て来る、一緒に芸をする…という意外感、楽しさ。子供心にも大いに堪能したような気がする。そのくらいお腹いっぱいな満足感がある番組だったのだ。まぁ、「昭和」な番組だったのである。
 その後、僕は中学生になったあたりから、正月は友だちとツルんで遊びに行くようになった。だから、1970年代半ばぐらいからこの番組もまったく見なく なってしまった。だが番組自体はその後も継続していて、どうやら2010年までやっていたようである。だが、僕はまったく見なくなっていた。僕が久しぶり に「かくし芸」を見たのは、確か大学に入ってからか…あるいは社会人になってすぐぐらいだったと記憶している。だからおそらく1980年代初頭ぐらいでは ないだろうか。久しぶりに見る「かくし芸」に、僕はかつて見たあの面白さ、豪華さを期待してしまった。だが、それは間違いだったのである。
 つまらない。恐ろしいくらいにつまらない。
 ギャグがことごとくスベっている。すべての場面ですきま風が吹いている。シラッとした空気が流れる。見ていて居たたまれない。こんなはずではなかったのに…。
 何でまたオレは、こんなつまらない番組をあんなに楽しんで見ていたのだろうか。子供だったからアタマが幼稚で、この程度でも楽しく見れたのだろうか。
 大体が、見ていてまったく「豪華さ」がないのがキツかった。この時の「かくし芸」だって、大量の「スター」が動員されていたはずだ。だが、そこにはあのプレミアム感はなかった。
 だが、それも道理である。この頃には歌手もコメディアンもみんな一緒に番組に出て、「テレビ・タレント」として消費されていた。歌手だってコントをやる しバカもやった。意外な顔ぶれなんて、テレビに出て来ない大御所ニュー・ミュージック系の連中しかいなかった。「かくし芸」の前に、ほとんどの連中が日頃のバラエティで共演済みだったのである。もはや、希少価値など期待するべくもなかったのだ。
 あの「かくし芸」の豪華さ・楽しさは、めったに顔合わせしない…1年に1回だけの、歌謡曲、演歌、ポップス、アイドル、グループサウンズ、落語、漫才、コント…などなどジャンルをクロスオーバーした豪華顔合わせだったから生まれたものだったのだ。それがザラに見られるモノになったら、もはやそこに豪華さなんてない。豪華さがなくなったら、意外に面白くもないモノだったとバレてしまったのだ。
 そもそも、そんな急造の混合のメンバーで、本当に面白いエンターテインメントなんてやれるはずがない。みんなジャンルが違うのだから当たり前である。つまりは、あくまで「かくし芸」だから許されたものだったのである。
 考えてみれば、みんなすぐに誰とでもツルんで、何でもやるようになっちゃった時点で、彼らはもはや別に特別な存在ではない
 もはや「有り難み」など失せるはずなのであった。

ハリウッドでの「マンガ」映画事始め
 こんな「マンガ」映画なんて表題を付けて、非常に紛らわしくて申し訳ない。もちろんここで言いたいのは、ハリウッドにおける「アメコミ」映画の話である。しかも、それは一般の大人観客に向けての娯楽大作としての映画化の話に限る。
 例えば戦後まもなくに作られていたという、低予算で子供向けの粗雑な「スーパーマン」「バットマン」の映画化な どは、ここでは話題にしない。おそらくはこのあたりの作品は、残念ながらアメリカ映画史でも語られることはほとんどないと思う。そして、現在ハリウッド娯 楽映画の「主流」となっているマーベル、DCなどの「アメコミ」映画の源流であるとも言い難い。実はその「源流」とおぼしきは、さかのぼることわずか40年程度の作品なのである。
 それは、言わずと知れたスーパーマン(1978)の映画化である。
 これについてはスーパーマン・リターンズ(2006)公開に際して僕が作った特集の中にある、「スーパーマン」感想文とほぼ重複してしまうが、改めてここで触れてみたい。
 1970年代末期のアメリカ映画は、「スター・ウォーズ」(1977)大ヒットによってもたらされたSF映画ブームに湧いていた。当然、あっちこっちでSF映画が制作されるに至ったが、たまたまこれと時を同じくして、似たような発想を持った映画人もいた。「三銃士」(1973)、「四銃士」(1974)のプロデューサーであるアレクサンダー・サルキンドイリヤ・サルキンド父子だ。
 彼らは1970年代半ばに、大作映画としてアメコミ「スーパーマン」の映画化を発表する。だが、当時これを好意的に期待して見ていた映画ファンは、あまりいなかったのではないだろうか。誰がどう見たって、アメコミのヒーローものを映画化するとしたら子供向けの幼稚なモノにしかなりようがない。何しろ原作はマンガなのである。企画からしてバカバカしい。
 サルキンド父子は業界の信用やファンの期待を得るために、マーロン・ブランドジーン・ハックマンという2大スターを起用すると発表。だが、肝心のスーパーマン役にハリウッドの有名どころの名前が次々出て来るに及んで、企画そのものが胡散臭く感じられた。確かロバート・レッドフォードやらジェームズ・カーンにスーパーマンをやらせようとか、無謀にも程がある話だ。結局は新人を起用することになったと聞いても、僕はまったく期待できなかった。監督には「オーメン」(1976)をヒットさせて一躍有名になったリチャード・ドナーが決まったが、ドナーとてこの時点ではその後どうなるかまだ分からない監督だった。ドナーが「リーサル・ウェポン」シリーズを作るのは、そのずっと後のことである。
 ところが…出来上がった映画は大成功。もちろん興行的な成功は、盛り上がっていたSF映画ブームの動向からある程度予測できたかもしれない。SF映画ブーム自体、それまで低予算で子供だましだったジャンルを一流の娯楽大作に通用させたものだ。特撮を使ったスペクタクルを見せ場の中心に持って来るという時点で、「アメコミ」映画はSF映画とかなり共通性が高いモノだったのである。実際、「スーパーマン」は公開当時、SF映画ブームの一環として扱われていたのだ。
 だが「スーパーマン」はヒットしただけでなく、娯楽映画としての質も高かった。普通に考えれば「幼稚」で「子供っぽい」お話を一般の映画観客に受け入れさせるべく、一流の脚本家が複数関わったのだ。「ゴッドファーザー」(1972)の原作者・脚本家のマリオ・プーゾ「俺たちに明日はない」(1967)などの脚本を手がけたデビッド・ニューマンレスリー・ニューマンロバート・ベントンの3人、そして「クリエイティブ・コンサルタント」というナゾのクレジットになったが最終的に脚本をまとめたトム・マンキウィッツ…。こうした面々にリチャード・ドナーを加えた面々が、バカバカしくも単純なマンガの話を大人が見るに耐える内容へと昇華させたのである。
 今日、「アメコミ」映画はかくも隆盛を極めているが、そのフォーマットの原型はこの「スーパーマン」と実質その後編にあたるスーパーマンII/冒険編(1980)にある。これがなければティム・バートン「バットマン」(1989)もないし、クリストファー・ノーランダークナイト(2008)もない。当然、マーベルの一連の作品も生まれることはなかった。仮に「アメコミ」映画が生まれていたとして、現在我々が見るカタチにはなっていなかったはずである。
 「アメコミ」は…つまり「マンガ」は、そのままでは一般向けの娯楽大作映画にはならない。日本のマンガは特異な進化を遂げたことから、モノによっては大人の鑑賞に耐えるモノも少なくない状況になったが、「アメコミ」はおそらくそうはいかない。それなりの手間をかけて磨かなければ、大人が見るに耐える作品にはなり得ない。だから、おそらくコンセプトや脚本づくりの段階が極めて重要なのだ。今日ではついつい忘れられがちなことだが、まずここでこの重要な点をキッチリ押さえておきたい。

「娯楽映画であること」を意識していたマーベル映画
 その後、前述の「バットマン」、「ダークナイト」などのDCコミック系映画が作られていく訳だが、その一方で別の「アメコミ」勢力の映画もポツポツと作られ始めた。それがマーベルの作品である。アメコミなどにはまったく無知な僕だが、映画に関わる話としてこれくらいはかろうじて知っている。だが、それらの作品…X-メン(2000)やらスパイダーマン(2002)などの頃は、まだ「マーベル・スタジオ」という制作母体は…少なくとも今のようなカタチではなかったと思うが、正直言ってこのへんの事情についてはあまり明るくない。
 現在大成功しているマーベル映画のカタチが整ったのは、おそらくアイアンマン(2008)から…ということになるのだろう。この作品を見た時、僕は結構楽しんで見たのを覚えている。それには、ちょっとした理由があった。
 当時はクリストファー・ノーランによる「ダークナイト」が大いにモテはやされ、高い評価を得ていた。実は、それが僕には少々忌々しく感じられていたのだ。これも何度も繰り返し言って来たことだが、僕は「ダークナイト」の好評は過大評価だと思っている。作り手もまるでシドニー・ルメット作品でも作っているかのような自意識過剰ぶりだし、見る側も加熱して「善と悪との対決を描いた哲学的な作品」と持ち上げ過ぎ。いや、まったく「哲学的」はさすがに言い過ぎだろう(笑)。「ウサギとカメ」を「怠惰と勤勉という人生観の違いの激突を描いた哲学的な物語」とはフツー言わないぜ
(笑)
 こういう風潮にシラケ返っていた僕は、「アイアンマン」の持つ「マンガ」の映画化としての「身の丈に合った」出来映えが好ましく思えた。「マンガ」の映画化だから出来る娯楽映画の可能性を感じたし、特別に「高級」ぶることもない作風にリチャード・ドナーの「スーパーマン」にも通じるセンスを感じたのである。以来、マーベル映画は何だかんだと僕の予想を上回り続けて来た
 正直に言って、ハリウッドに蔓延する「続篇・シリーズ化」、「リメイク」、「テレビ番組の映画化」…といった病巣と併せて、僕はいわゆる「マンガ」映画の氾濫をあまり好ましいモノだと思っていない。今では何と「オモチャの映画化」などというケッタイなジャンルまで発生したために、「マンガ」映画の問題などモノの数ではないように思えて来ちゃっている(笑)が、それでもこの傾向はいかがなものかと思っている。
 「マンガ」映画のどこが悪いんだ?…って? 確かに「悪く」はない。こういう作品があってもいい。ただし、あくまで「あってもいい」レベルだ。そればっかり…それもサマー・シーズンやクリスマスには必ず大作として「マンガ」が出て来るとなれば、ちょっと話が違う。調子に乗り過ぎだろ。もう少し身の程をわきまえてもらいたいというのが、正直なところなのである。所詮はやはりマンガで、それを何とか大人の鑑賞に耐えられるようにやっとこ持っていってるモノなのだ。限界というものがある。だから、たまにあるのはいいが、それがメイン・ディッシュでは困る。
 そんな訳で、正直言ってハリウッドの「マンガ」映画大氾濫にはウンザリというのがホンネだった。だから「アイアンマン」に続くマーベル映画の快進撃ぶりにも、僕は微妙な感情を持っていた。そりゃあ「アイアンマン」には好感を持ったけど、こうも次々「マンガ」じゃねぇ…。
 だが、微妙ってのはそれだけじゃない。こんな「氾濫」ぶりには一言文句を言いたいのだが、なかなかマーベルは文句をつけさせてくれない。実際、結構いい仕事をしちゃってるから困るのだ。
 それを端的に現していたのが、マイティ・ソー(2011)におけるケネス・ブラナーの監督起用である。何とかつて「第2のオリビエ」とまで言われた「シェイクスピア劇の達人」ブラナーに、こんな「マンガ」の映画化作品を任せたのだ。これはいろいろな意味で大胆な人選である。
 もちろんブラナーは、「第2のオリビエ」の異名を持ちながらハリウッド映画にも傾倒する「敷居の低い」映画演劇人である。このあたりは僕のオリエント急行殺人事件(2017)感想文にも書いたのだが、そんな彼がハリウッド娯楽大作の「マイティ・ソー」を撮るのは、何ら不思議ではない。しかもこの作品は、アンソニー・ホプキンスの国王とクリス・ヘムズワーストム・ヒドルストンの王子を巡る王国内のお家騒動を描いたお話とも言える訳で、「シェイクスピア劇の達人」であるブラナーにそのあたりをキッチリ描いてもらいたかった…という意図もあっただろう。だから、実に的を射た人選とも言える訳だが、ここでのブラナー起用にはもうひとつの狙いもあったように思える。それは、マーベルが「マンガ」の映画化というモノをよく理解していた証拠でもある。
 先に述べたように、ブラナーは「シェイクスピア劇の達人」である。映画界で名を挙げたのも、その「シェイクスピア劇」で…であった。「ヘンリー五世」(1989)の映画化がその最初の作品で、以来、「から騒ぎ」(1993)、ハムレット(1996)、恋の骨折り損(1999)…などで彼なりのシェイクスピアの映画化を試みるのだが、それらは単純な「シェイクスピアの現代化」みたいなモノではなかった。基本的にはセリフ・ストーリーなどは原典に出来る限り忠実でありながら、見せ方を「今」の「大衆娯楽映画」に焼き直していく…という非常にアクロバティックな手法で映画化していくのである。キャスティング的にはハリウッド・スターを大胆に起用し、まるで「荒野の七人」(1960)みたいに主人公たちが馬で駆けつける場面で始まる「から騒ぎ」やMGMミュージカル風に料理した「恋の骨折り損」がその典型だ。
 だが、原典に忠実ながら「今」の「大衆娯楽映画」に再生していく…という方法は、一筋縄ではいかない。そもそもシェイクスピア劇の太い幹のようなドラマトゥルギーは素晴らしいものの、ディティールに関してはなかなか忠実に現代の一般娯楽映画に出来るものではない。どうしても500年以上前の登場人物の言動やお話の設定には、今のリアリズム基調の映画とは馴染みにくい部分がある。
 実はそれが、例の「マンガ」の大作娯楽映画化の「祖」である「スーパーマン」映画化のノウハウと、どこか共通していた。
 そのままでは単純かつ子供っぽすぎる人物の言動や設定である「マンガ」を一般向けに映画化するメソッドは、ブラナーの目指すシェイクスピア劇映画化の方向性と似ている。そのことに、マーベル映画の製作陣はこの時点で気づいていた。これはマーベルのスタッフたちが、「マンガ」を映画化するということの本質、さらには「映画的である」ということに対して、意識的であったことを現している。これはなかなか出来ることではない。
 ちなみにちょっと脱線すると、その後、ディズニーがブラナーをシンデレラ(2015)監督に起用したのも、おそらく同じような理由からだろうと思われる。単純かつ子供っぽすぎるおとぎ話から、現代の一般向け映画に焼き直すノウハウを買われての起用に違いない。
 閑話休題。もうひとつ例を挙げよう。キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)である。この作品は政府による管理社会の構築の恐ろしさを描いたお話で、その語り口には1970年代のアメリカ映画にあった政治的なサスペンス映画のテイストが充満していた。そこに当時の社会派スターであるロバート・レッドフォードが起用されていたのは、決して偶然ではない。作品の持つメッセージの映画的アイコンとして、「コンドル」(1975)や大統領の陰謀(1976)などに主演したこの大スターが起用されているのである。
 こういうあの手この手を繰り出してくるから、マーベル映画はなかなかケナせない。正直言って、アメリカの娯楽映画というものを知り尽くして作っている。だから、毎回シャクだなと思いながらも「うまくやりやがったな」と舌を巻いていた僕だったのだ。ある意味、パイオニアとして「スーパーマン」が切り開いた道を、一連のマーベル映画が舗装道路にしたような観すらあった。

マーベル映画が生み出した光と影
 そんな一連のマーベル映画ではひとつの大きな特徴があった。それは、それぞれの個別の作品をどこかで数珠つなぎにしていったこと。いわゆる「マーベル・シネマティック・ユニバース」なる作品世界の構築である。
 これは元々マーベルのマンガにそういう路線があったと聞いているが、映画としては別にマーベルの専売特許ではない。よくよく考えてみると、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の「デカローグ」10部作(1989)などで行われていたようなことだ。だが、キェシロフスキのアート系映画などで行われていたようなことを、ハリウッドの娯楽映画…それも、事もあろうに「マンガ」の映画化で大胆にも導入したのが驚くべき点である。確かに娯楽大作映画でこういう発想はなかった。僕も最初はこれを楽しみ、好ましく思っていた訳だ。
 ただ、これらの「数珠つなぎ」は、「デカローグ」のように単なる世界観の共有のためではなかった。今日誰もがご存知のように、最終的にはアベンジャーズ(2012)として結実させることを目的にしていたのだ。確かにこのようなオールスター映画にまで発展させようとは、なかなかの構想力ではある。
 しかし…残念ながらこうして出来上がった「アベンジャーズ」は、僕には大して面白いものには思えなかった。個別の単品映画なら面白いのに、なぜか豪華顔合わせ映画には興味がそそられなかった。というのは、正直言って僕がマーベルの「マンガ」や「アメコミ」に興味がなかったからだろう。アイアンマンとソーとキャプテン・アメリカとハルクが一緒だからって、だから何なのだ?
 実はこのあたりから、僕はマーベルの作り手たちの意識と自分の意識が微妙にズレてきたことを感じ始めていた。作品そのものにも、微妙にすきま風が吹き始めてきたことを感じた。それは、「世界観」を確立したという一種の安心感から来た気の緩みだったのだろうか?
 それでも世間的には…メディア挙げての大宣伝の甲斐もあって、作り手たちと映画観客の感覚は僕との「それ」ほどズレてなかったのかもしれない。ますますマーベル映画はヒットして、ファンからモテはやされていた。だが僕は、少しずつ気持ちが冷えていくことを実感せざるを得なかった。それは単品映画でも同じで、続篇がどんどん続けられることによる疲労感が溜まってきたこともあるだろう。続篇が続けばそれに伴う約束事が増える。おまけに単品ヒーローだけでなくそれらが複雑にツルむとなれば、ますます約束事ばかりになっていく訳だ。
 だからマーベル映画を楽しむには、「全作品見なくてはならない」ということになる。作り手の「オレ様ルール」を観客に強いるのである。ハッキリ言ってこれは傲慢だし、「大衆娯楽映画」という客商売としてやってはならないことだと思う。どれを「一見さん」で見ても楽しめるように作ってこそプロだ。そうでなければ、どこかおかしいだろう。
 おまけにマーベルがこんな事を始めたものだから、ライバルのDCもバットマンvsスーパーマン/ジャスティスの誕生(2016)とかジャスティス・リーグ(2017)などの「数珠つなぎ」を始めた。ハリウッド・リメイク版「ゴジラ(2014)やキングコング/髑髏島の巨神(2017)なんてレジェンダリー・ピクチャーズの怪獣映画も「数珠つなぎ」を始めるらしい。
 誰もそんなことやってくれなんて頼んでない。全部、「大人の事情」である。当然そんなことを急に企んでもうまくいくはずもなく、DCはいろいろ苦戦しているようだし、ユニバーサルのモンスター映画を「数珠つなぎ」しようとしたザ・マミー/呪われた砂漠の王女(2017)は大失敗してしょっぱなから頓挫しそうである。まぁ、自業自得である。
 これらはマーベルのせいとは言えないが、よくない傾向の先鞭をつけたという意味では責任がないとは言えないだろう。まったく困ったものである。
 そもそもハリウッドの代表的な娯楽大作がどれも「マンガ」のヒーローものとなってしまったことから、ハリウッドで女性の権利について騒がれるやワンダーウーマン(2017)、黒人差別が騒がれるやブラックパンサー(2018)… と、何かというと象徴的に扱われる映画がすべて「マンガ」…ってなってしまうのもどうかと思う。何がどう…ということは今の段階ではしかと指摘できないの だが、どこかちょっと違うのではないか。これは単に言いがかりなのかもしれないが、何かロクなもんじゃないイビツなものを感じてしまうのだ。
 また、マーベル映画が変にシリアスめいてきたことも、僕にとっては大きな違和感だった。シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(2016)ではヒーロー同士が内輪揉め。そもそもその原因となったのが、ヒーローが街を破壊してはならない…というルールづくりの話というから、もはや夢も希望もへったくれもない。成瀬巳喜男の映画でもあるまいに、そんな世知辛いものをたかが「マンガ」の映画にわざわざ見たくはない。
 今年初めにマーベル映画10周年を記念して豪華なスターや映画人たちが一同に会している写真が公表され、それらスターや映画人たちがお互いにいかに尊敬し合い仲良くし合ってるかを報じるメディアのヨイショ報道が世間に溢れた際、僕が正直に感じた印象は「気持ち悪い」だっ た(笑)。大体が、「笑点」の大喜利で落語家たちがお互いに「うまいねぇ」「いいねぇ」などと内輪ぼめするような状況って、何だか不健全だろう。確かにみ んなマーベル作品で名声とお金を得ている訳で、そもそも宣伝なんだからリップ・サービスもするのだろうが、みんながみんな口を開けば「マーベルは間違いない」「マーベルは正しい」みたいなコメントばかり。中心スターたるアイアンマンことロバート・ダウニー・ジュニアは人格者で、全体の指揮を執ったマーベル・スタジオ社長のケヴィン・ファイギは立派。おうおう、そりゃあ大したもんだよ、そんなにオマエら立派なのかい。
北朝鮮のテレビ見てるみたいで何だか寒気がする。元来が僕は天の邪鬼だからひねくれてとらえているのだろうが、何だか「わが世の春」を謳歌し過ぎるその様子がしっくり来ない。「驕る平氏はなんちゃら」…ではないが、何だかなぁ…。「もう、いいかげんそのへんでやめとき」と言いたくなる。とても素直にマーベル映画を楽しむ感じになれないのだ。
 そんな思いを抱いていた最中、すべての集大成と銘打たれた「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」が、怒濤のカネやタイコとともに公開された訳である。


あらすじ

 宇宙空間のどこか。そこでは、見るも無惨な惨劇が繰り広げられていた。神の国アスガルドから脱出した宇宙船が、ナゾの巨大戦艦に捕まってしまったのだった。
 いまや宇宙船内は死屍累々の状態。そこに立ちはだかっているのは、宇宙のさまざまな星で死をもたらして来た強大な力であるサノス(ジョシュ・ブローリン)とその手下たち。あのソー(クリス・ヘムズワース)もサノスの前に倒れ、その運命はもはや風前の灯。その状況を見てとった弟ロキ(トム・ヒドルストン)は今にもサノスに手を貸す素振りを見せていたが…。
 どっこい突然ハルク(マーク・ラファロ)が飛び出して来て、その圧倒的な怪力でサノスを攻める攻める。だがハルクの力はあくまで馬鹿力で、最初こそ優勢だったがすぐにサノスにやり込められてしまった。
 それを見たソーの仲間であるヘイムダル(イドリス・エルバ)は、とっさに虹の橋のパワーでハルクを瞬間移動させ救出。だが、出来ることはそこまで。ロキは結果的にサノスが求めていた「四次元キューブ」を差し出す結果となり、サノスはキューブに収められていた「スペース・ストーン」を手に入れ、自らの左腕に着けた特製グローブにそれをハメ込んだ。結局、ソーたちにはなす術もなかった…。
 その頃、地球のニューヨークにあるドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)とウォン(ベネディクト・ウォン)の居場所サンクタムに、何者かが轟音とともに落ちて来た。それはまさに「落ちて来た」という表現がふさわしい。建物に大きな穴を開けてその場に現れたのは、ハルクかから本来の姿に戻ったブルース・バナー博士(マーク・ラファロ)。息も絶え絶えのバナーはストレンジに、サノスという強大な存在が地球を狙っていることを伝える。
 この緊急事態に、ドクター・ストレンジは妻ペッパー・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)と一緒にいたアイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)の元に赴く。魔術による突然のストレンジの来訪に驚くスタークだったが、そこにバナーもいることから事の重大さを知る。こうしてニューヨークのサンクタムにてスターク、ストレンジ、バナー、ウォンが集合。事態の掌握を図ることにする。
 サノスが狙っているのは、合計6つの「インフィニティ・ストーン」。そのすべてを手に入れた者は、全能の力を手に入れられるという。サノスはその力を使って、全宇宙の生命の半分を消し去ろうと考えていた。そのうちふたつはすでにサノスによって奪われ、左腕のグローブに装着済み。さらにふたつのストーンはこの地球にあり、サノスはそれを狙ってやって来るというのだ。しかも、その片方の「タイム・ストーン」は、ドクター・ストレンジが持っていた。
 まさに、これは容易ならざる事態だ。だが運悪く、アベンジャーズは現在内紛状態にあった。バナーはスタークにキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)と連絡をとるよう促すが、これまでの経緯からスタークはなかなかその気になれない。
 ところがそんな折りもおり、サンクタムの外で騒々しい物音がし始めた。異常事態の発生を察した一同は、慌てて外に飛び出していく。すると、ニューヨークの上空に巨大なドーナツ型の宇宙船が突如出現したではないか。
 宇宙船から飛び出したサノスの手下が、「タイム・ストーン」を奪うべくストレンジに襲いかかって来る。これに対してアイアンマン・スーツを装着したス ターク、ストレンジ、ウォンが応戦。だがブルース・バナーはなぜか拒絶反応を起こして、肝心な時にハルクに変身できない。これは思わぬ誤算だった。
 一方、ちょうど学友たちとスクールバスで移動中だった高校生ピーター・パーカー(トム・ホランド)も、この異変を察知。すぐにスパイダーマンに変身して駆けつけるが、アイアンマンたちは思わぬ苦戦を強いられていた。
 そのあげく、サノスの手下たちによって宇宙船にさらわれてしまうストレンジ。慌ててその後を追って宇宙船へと向うスパイダーマンだったが…!

見た後での感想

 案の定、と言うべきだろうか、空前の大ヒットなんだそうである。公開前からメディアが揃って煽りに煽っていたのだから、それはそうなるだろう。だが、それにしたっての大当たりだそうである。
 それどころか、批評的にも絶賛なんだそうである。それは大変にめでたいことだ。
 しかも「衝撃的」な内容だの何だの…と、とにかく映画の周辺がうるさい。僕もアメリカ映画を見続けて来た立場上、見ない訳にはいかない。それでも、何となく「見なきゃいけない映画」的な煽り方には違和感しか感じなかった。正直言えば、あまり見たいとは思わなかったのだ。
 ただ、微妙な状況になってきたマーベル映画の到達する先を、ここで見届けておきたい気もしないでもなかった。だが「衝撃」「衝撃」とガタガタ騒がれる と、それらをどこかで知らされそうで困る。そんな色がついた状態で、本作を見たいとは思わない。だからゴールデン・ウィークの最中、どこも満席という状態 なのに何とか見れる機会を狙っていたのだ。
 すると…意外や意外、結構空いてるとこでは空いている。何だ、バケツの底が抜けるほどの空前の大ヒットってのも「煽り」かよ。
 僕は早速、まだ公開間もないうちに、本作を劇場で見ることになった。感想文が遅くなったのは、単に僕の事情に他ならない。
 そうして見ることが出来た「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」は…。
 ぶっちゃけた話、あれは本当に「映画」だったのだろうか。僕にはまるで、「映画以外の何か」…のように思えたのだった。


 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 




映画として成立させるための「ひと手間」をケチった作品

 それにしても…である。ネットの映画サイトなどのカネやタイコの煽り方がさすがに目に余る。
 「“全員参加必須”次なる<国民的行事>」「絶対面白い宣言!」…そりゃあ業界内でツルんでいるんだろうとは思うが、一応「映画サイト」を名乗っている以上、多少なりともすべての映画に対してフェアな対応しているという「フリ」ぐらいはすべきだろう。それなのに、この露骨なまでの持ち上げよう。あまりにあまりな対応である。「見ないと“話題についていけない”レベル」とか「誰もが“面白い”って認める映画」とか、よくもまぁハズかしげもなくヨイショしまくるものだ。何となくいつの時代かに賑々しく掲げられた、「撃ちてし止まん」とか「贅沢は敵だ」とかいったフレーズとどことなく似ている気もしてきてしまう。
 大体ここまで露骨なヨイショだと、これらを見ただけでドン引きする人だっているんじゃないだろうか。こんなサイト作ってる奴らは、どうせ映画なんて好き でも何でもないんだろう。それ以外にも、ご丁寧にも署名入りで歯が浮きそうなほど目一杯なヨイショ評を上げている連中もいて、よくもまぁ平気な顔をしてこ んなことが言えるもんだと呆れ返ってしまう。
 もっとも、僕だってそれなりに旨味があるのならこれくらいミエミエのヨイショ原稿を書いてもいい(笑)。それなりの金銭を提示してくれるなら、今すぐにでも手の平返すけどね。そのことについては、僕にはまったく良心の呵責はない。とりあえず当座の現金でいい。お待ちしています(笑)。
 実はこれを書いている時点で、「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」は本国アメリカを筆頭に全世界的に大ヒットしているようである。もちろん日本でも大当たりはしているようなのだが、なぜか1位にはなっていないらしい。日本での1位は、何とアニメ映画の「名探偵コナン/ゼロの執行人」(2018)。これはこれで「何じゃそれは?」…と言いたくなるところだが、それでもいろいろな映画サイトなどが「全世界でアベンジャーズが1位なのに日本だけコナンだなんて恥だ」とでも言いたげな記事を垂れ流しているのを見ると、「ざまぁ」という気分になる(笑)。今回ばかりは「コナンよくやった!」と言いたくなった。
 「他の国じゃ記録的ヒットなのに日本じゃイマイチなんて情けない」な〜んて、勝手にやらせときゃいいじゃんそんなの。 人の国は人の国。何でそんなのにつき合わなきゃならないんだ。大体が「見ないと“話題についていけない”レベル」なんて、そんな話題しか出来ない連中に 「ついていきたい」とは思わない。アメリカ製マンガのヒーローがてんこ盛りになっている映画がなぜ「国民的行事」なんだか、こんなバカなサイトを作ってい る連中に小一時間問いつめてやりたいよ。そのくらい、マーベル界隈の宣伝のやり方はエゲツなく、思い上がったモノになってきている。元々「アベンジャーズ」1作目の日本公開時の宣伝コピーからして「日本よ、これが映画だ」なんだから、とにかく品がないんだよねぇ。
 この作品を気に入っていらっしゃる方には大変申し訳ないが、僕は本作をまったく好きになれない。というより、これは映画なんかじゃないと 思っている。そうそう、映画だと思うから腹が立つんだな。これは映画ですらないんだと思う。映画館で上映しているし切符も買えるんだが、これは映画じゃな い。似て非なるもの、何か別のモノだ。そりゃそうだ、「マンガ」なんだから。いや…これってすでに「マンガ」ですらないんじゃないか?
 まずは、何から指摘すればいいだろう? とりあえずジョシュ・ブローリンが演じているという本作の悪役サノスについて語ってみようか。
 本作で出てくる最大の悪役サノス。くだんの映画サイトあたりでは「強過ぎる」とか書いているんだが、スポーツ新聞の記事じゃあるまいし(笑)。アベン ジャーズたちが束になってかかっても倒せない相手だから…と言われても、それはそう作っているからそうなっているんであって…(笑)。だから何なんだと 言ってしまえば別にねぇ…。映画サイトの管理人がこんなシラケ返ったこと言っちゃオシマイだが(笑)。例えば放っておいても圧倒的「悪」を納得させた「ス ター・ウォーズ」のダースベイダーあたりとは、メンコの数からして全然違うんじゃないの?
 大体が一番スッキリしないのは、サノスが悪事を働くにもそれなりの事情があるように、「一応」描かれていること。単純に悪と描かず内面を描いている…とか言われているが、あの程度で内面を描いていると言えるのだろうか。極めて薄っぺらい描き方でしかない。チャンチャラおかしいですわ。あれだけ何十人もゴチャゴチャとヒーローを描いていたらそんなモノ描いている余裕なんてないってのは分かるが、それにしたって取って付けたような描き方ではないか。そんな中途半端なモノなら、かえってやらない方が良かった。む しろ悪なら悪に徹して、その理由なんてつまらないものを詮索などせず、トコトン得体が知れない極悪非道の巨悪にした方が良かったのではないか。変にグジュ グジュ湿った言動を見せられて、「善人」ヅラされても困る。どこかのアメフト監督が「オレはそんなこと言ってない」とか言い訳三昧しているようで、寝言は 寝て言え!…と言いたくなってしまった。男らしく悪を全うしろや。サノスについては、ヒーロー側の誰かが「タマ袋みたいなアゴ」(笑)と言ってたこと以外 はまったく評価できない。
 大体、アベンジャーズ自体がそもそも僕にとって今ひとつピンと来ないところへ、3作目となって「あのヒーローとこのヒーローがこんな顔合わせを」…的な有り難みが失せて来てる。例えばマイティ・ソー/バトルロイヤル(2017)ではすでにソーハルクが出て来て、ドクター・ストレンジまで付いて来るという案配である。もう、それぞれが単品では出て来なくなりつつあったのである。ますます「夢の顔合わせ」的豪華さが色あせるではないか。まさに末期の「新春スターかくし芸大会」的な状況になりつつあったのだ。
 おまけに…別のマンガで別の世界観であるはずのものを「全部乗せ」しても、食い合わせとしてどうなんだろう。確かに「ハンバーグ・カレー」には「好きなモノばっかり」という嬉しさがあるが、同じ「好きなモノ」の取り合わせでも、「ショートケーキと納豆」だったら果たしてうまいのか? 「ビーフシチューとネギトロ」を一緒に食いたいか?
 「アベンジャーズ」の今回の売りはガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(2014)の面々の参戦だが、実はこれは本作をフレッシュなものにしていると同時に、その世界観を混乱させている元凶にもなっている。割と現実感覚に近い「アイアンマン」などの世界と「ガーディアンズ〜」の世界は、要素もテイストも明らかに違う。見ている人たちは何も違和感を感じなかったのだろうか。
 そんな僕も「アベンジャーズ」第1作の時にソーが出て来たことには、大して問題があるとは思わなかった。なぜならそもそも最初の「マイティ・ソー」に、 すでに現実世界がかなりの分量で登場していたからだ。また、「マイティ・ソー」の場合には、前述したようにケネス・ブラナーが「マンガ」と現実映画との間のギャップを巧みに地ならしていたから、それが可能であったとも思える。
 だが、今回はそんな訳にはいかなかったのではないか。やはり「ガーディアンズ〜」の面々とその他の連中とは、何となく肌合いが合わないのである。
 そもそもアフリカの国ワカンダでみんなで戦っている時に、しゃべるアライグマが銃を撃ちまくっているのに誰も疑問に思わないのはさすがにヘンだろう。これは決して屁理屈じゃないと思うよ。ウソをつくための最低限の言い訳なりアリバイぐらいは用意してくれないと困る。誤解してもらっちゃ困るが、別にしゃべるアライグマが悪いと言ってるんじゃない。現に「ガーディアンズ〜」は僕のお気に入りの映画だ。だが、「アベンジャーズ」の面々と地続きの世界に持って来るんだったら、それなりの手続きが要ると言っているのだ。
 このへんの擦り合わせがかなり雑になってしまったために、本作はマンガの持つバカバカしさがそのまんま剥き出しでバカバカしいままに露呈してしまっている。なのに本作の作り手たちは、もうそのへんを馴染ませるような面倒なことなどする必要もないと ばかりに放り投げてしまっている。ハリウッドにおける「マンガ」の大作映画化が今まで地道に積み上げて来たものを、本作では一瞬にして雲散霧消させてし まったような乱暴さを感じる。ソーでも何でも連れて来ればどんどんツギハギが可能だなどと、ちょっと安易に考え過ぎていたのではないか。そこのけそこのけ マーベルが通る。オレ様はマーベル様だぞ!
 さらに、本作は悲壮感一辺倒ではなくギャグやユーモアも盛り込んでいるのは感心すべきところなのだが、それらがピタッとキマってるのかと言えば甚だ疑わ しい。ところどころ隙間風が吹いてギャグがスベっている。これは主観なので「どれも全部面白かった」と言われればそれまでなのだが、冷静に考えて見ていた だければ、スベってるギャグを繰り返している箇所が散見されるはずだ。これも、「ガーディアンズ〜」を合流させたことによる一長一短ではないかと思う。やはり、作品をひとつのトーンで馴染ませる努力を放棄してしまっているのだ。そんなことわざわざやらなくても、客はいくらでもついて来ると思っているみたいなのだ。まぁ、実際に客も全然文句言わないんだから困ったものなんだが。
 これが「お祭り映画」だと開き直ってやるなら、まだそれでも良かったのかもしれない。例えばMGMミュージカル・スターが顔見せで大挙出演する「ジーグフェルド・フォリーズ」(1946)みたいな映画なら、フレッド・アステアジーン・ケリーが夢のダンス共演するみたいにどんなヒーローが同居しようが共存しようがまったく問題ない。「新春スターかくし芸大会」だったら、演歌の森進一と元グループサウンズのジュリーと、コメディアンのハナ肇が一緒に中国語劇のドラマをやるようなものだ。それは、違和感そのものが「豪華さ」だから。しゃべるアライグマがアフリカで銃を撃とうと何だろうと、「お祭り」なんだから何でもアリだと思う。それはそれで、なかなか楽しい光景だっただろうと思うよ。
 そもそもヒーローたちの豪華共演は、劇的必然性でも何でもない。マーベルの営業上の方針という「大人の事情」である。クリエイティブな理由でもエンターテインメントとしての王道でもない。そうなると、あとはオールスターによるファン・サービスの方向に持っていくしかない。早い話が「新春スターかくし芸大会」なのだから、本来はそうあるべきなのだ。
 だが、本作はファン・サービスに徹してくれる訳でもない。本作は決してそんな作品じゃない。「花のお江戸の釣りバカ日誌」(1998)みたいな「めでたい」映画ではない。「悪者にも悪者の言い分がある」とか「衝撃のエンディング」だとか面倒くさい屁理屈まで並べている。シリアスな作品っぽいフリをしている。例えばイランのモフセン・マフマルバフの映画とかでもないのに「サノスにはサノスなりの言い分が〜」…なんて寝言みたいなことを言ってんじゃねぇよ。いや、仮にマフマルバフならもっとスマートにやっている。一緒にしちゃ失礼だ。何となく高級なことやってるように見せかけてる素振りが、物欲しげでイヤなんだよねぇ。そのおかげで変に湿っぽかったり暗かったりして、いわゆる「おめでたさ」というか「かくし芸大会」の「お正月」感に乏しいのだ。
 最初は僕も、地球に攻めて来た悪役サノスをアベンジャーズが迎え撃って一丸となって戦うというシチュエーションを想定していたが、実はそれ的な場面はそ れほど多くはない。大体が二手に分れていたり、三つに分散したりであっちこっちでバラバラに戦っている。「スター・ウォーズ」シリーズあたりにありがちな 展開である。それって「シビル・ウォー」で内ゲバやっちゃったから…ということなんだろうが、すでにその時点で「お正月」感がない。そういう物語なんだか ら仕方がないって言っても、そもそもマーベルのマンガを全部乗せするって時点で、それは「大人の事情」だろ? ならばお祭りに徹すりゃいいのに屁理屈こねやがって。
 そして、バラバラに分れてあっちでチョコチョコこっちでチョコチョコ戦っているから、とにかくウンコが途中で詰まって出なくなったり、全部出ないうちに切れちゃったりしたようなフン切りの悪さを感じてしまう。イヤ〜な残留感だけが直腸に残る感じ。こういうのってケツを紙で拭いてもなかなか拭ききれない。拭き過ぎたら血がにじんでしまう。ウォシュレットが要る(笑)。
 舞台の大半が宇宙というのは「ガーディアンズ〜」組を合流させたが故…という面もあるのだが、これが地球を守るために一丸となって戦うアベンジャーズ… 的な雰囲気を削いでいるのは申し上げた通り。しかも、リアルに一番近いヒーローであるアイアンマンやスパイダーマンにとっては、宇宙が舞台というのは何となくそぐわない。しかも宇宙にもいろいろあって、「ガーディアンズ」がいる宇宙はリアルな宇宙とはちょいと訳が違うんじゃないの。
 案の定、本作でのアイアンマンやスパイダーマンは、終始居心地が悪そうである。やはり何でも持って来ててんこ盛りにすればいいという訳ではないのだ。


映画ではなく、キャンペーンかマーケティングのようなモノ

 これはまた「そもそも論」になってしまうのだが、ヒーローものを現在の一般映画にしていくと、シリーズ化しているうちに現実世界との間で齟齬が生じて来るも のだ。ヒーローものを現在の一般映画にするには、ある種のリアリティを増量していく必要がある。だが続篇を重ねるうちに、「ヒーローが存在する世界」と 「ヒーローなどいない現実」との間でズレが生じて来る。少なくとも、大人の観客の鑑賞に耐えるリアルな内容にするなら、そうなるはずだ。例えば怪獣映画で もリアリティを重視した平成「ガメラ」シリーズ(1995〜1999)では、最終第3作「イリス覚醒」あたりになってくるとかなり現実世界との剥離が目立ち、これ以上の継続は苦しそうだった。
 これを回避する方法はファンタジー度数をある程度増やしていくことだが、今度は「おとぎ話」めいてくる。一連のマーベル作品の大半は、例えば「ダークナイト」ほどではないにしろ、ある程度は現実に近づけていく方向の作品だったと思う。実はこれ、魔法が出て来るドクター・ストレンジ(2016)であってもそっちだった。だから、現実世界との剥離は逃れられない必然だったのだ。
 ところがマーベルは複数のヒーローでシリーズ化するだけでなく、それぞれをお互いのシリーズ中で乗り入れさせたり「アベンジャーズ」として集合させたり した。これをファンタジーではなくリアルな一般向け映画として作っていった訳だ。だが、作品の虚構世界をリアリズム映画の中で成立させていくためのパワー は、「相乗り」によって余計に摩耗し疲労していく。おまけに「シビ ル・ウォー/キャプテン・アメリカ」ではヒーローの乱暴狼藉を制限するために「国連」が乗り出す。その結果、アベンジャーズが内ゲバを始めるという夢も希 望もない展開。よせばいいのに、そこにさらに「リアル」味を追加してしまうのだ。結果としてこの「アベンジャーズ」第3作あたりで、それが祟って作品が破綻を来たし始めているということはあるかもしれない。そのあたりを薄々気づいて、本作では「リアル」なアメリカ本土を出来るだけ主戦場にしなかったのかもしれないが、やはり完全にはカバーしきれていないと思う。しかも、あれだけのことが起きていながら、世間がどうなっているのかはまったくの蚊帳の外である。不自然にも程があるではないか。これは映画の「ジャンル」を意識的に見ている人ならば、何となく感づいていることではないだろうか。
 だからそんなこんなの事情から、本作にはいろいろあちこちにホコロビが散見される。それなのに馴染んでいない部分を馴染ませる努力を惜しんで、そのまま 無神経につないじゃっている感じなのだ。以前ならもうちょっとそのへんのところを丁寧にやっていたはずなのに、もういいやとばかりにやっつけで済ませてし まっている。どうしてもそんな印象を拭えない。何度も同じことを繰り返して恐縮だが…一方でリアル風に描かれた我々の世界を出しながら、もう一方で普通に アフリカでしゃべるアライグマが銃を撃ちまくっている段階でそれは無理だろう。そりゃマンガなのだ。まぁ、本当に「マンガ」なんだけれども、それを「現実」に馴染ませるにはそれ相応の努力やひと手間ふた手間が要る。それらを惜しんで、あまりにマンガを雑に「まんま」映画にしちゃった感が強いのだ。
 そして、あの「衝撃のラスト」…。これにも触れない訳にはいかないだろう。
 どうだ、スゴいだろう…という作り手のドヤ顔が目に浮かんで来るが、これはかつて見た何かに似ている。そう…ひと頃に大流行りしていた韓流映画での「衝撃のエンディング」だ。 あの手の作品群もどれもこれも「バカのひとつ覚え」で何かと言えば「衝撃のエンディング」で、見るたびにスッカリ鼻についたもんだった。そもそもアレの何 がイヤかと言えば、あの手の韓流映画の「衝撃」は作品の劇的必然性のためでもなく、お客さんに対する「もてなし」でもなかったからだ。ひたすら作り手が「オレってスゴいだろ?」「この映画にはビックリだろ?」とドヤ顔するためのものだったからである。つまり、ただ「衝撃」のための「衝撃」である。
 今回の「衝撃のラスト」にも、韓流「衝撃」と非常に似たものを感じるのだ。たぶん作り手は「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980) のラスト、あのアッと息を飲む衝撃みたいなモノを見せたいと思ったのだろう。だが「帝国の逆襲」と本作では、志の点でまったく非なるモノだと言わざるを得 ない。本作はただただビックリさせたいだけ、作り手が「スゴいだろ?」「ドヤ!」などと煽っているようにしか思えないのだ。サノスがダースベイダーに遠く 及ばないように、本作もまた「帝国の逆襲」とはまったく比べ物にならない。勝負になってない。
 宣伝や何やらではマーベル側は本作の内容…ことにラストについて、見た人たちに他の人には語らないで欲しいと言っている。何だか良心的「風」な言い草だが、そもそも「衝撃」がありそうと煽ってる時点で、それはテメエからバラしているようなものではないか。これこそ偽善である。
 実もフタもないことを言わせてもらえれば、今回の「衝撃」を被ったヒーローたちの何人かは、今の段階ですでにそれぞれの単独映画の続篇が進行中で ある。だから「衝撃」を額面通り受け取れない。実際にはどう帳尻を合わせてくるかは次作を見なければ分からないので何とも言えないし、うまく帳尻を合わせ る算段が出来ているのかもしれない。なるほどな…と思わせる逃げ道がこしらえてあるのかもしれない。僕あたりでも思い当たるやり方がない訳でもない。だ が、それにしてもねぇ…。この時点で何をどう「衝撃」を受ければいいというのだ。正直に白状させてもらえれば、あの「衝撃」に至って僕は完全に真っ白にシラケ渡ってしまったよ。本当にドン引きしてしまった。
 そもそも、僕自身マーベルのキャラクターたちに何の思い入れもない。友だちでもないし何かしてもらって恩義があるワケでもない。おまけに本作では、みんな一山いくらでジャンジャン出て来る。一人ひとりを丁寧に描いている時間がない。だから、どうなってもどうでもいい。
 しかも…今までの作品でそれは描いて来たから、もう丁重に描く必要はないというのは作り手の勝手な事情である。一個の作品として、それはないだろう。
 だから、そいつらが性病になろうと肥だめに落ちようと、何がどうなろうと知ったことではない。そんなところに「どうだ? 衝撃だろ?」とドヤ顔されても困るのだ。
 もっと言わせてもらうと…劇中で「インフィニティストーンが全部揃うと、サノスが指パッチンするだけで宇宙の半分が消滅する」と台詞で説明されていたが、それはあくまで例え話で言っていることで、「指パッチンぐらいに簡単なことなんですよ」ということを言いたいのかと思っていた。そしたら、映画の終盤に来てサノスは本当に指パッチンしてしまうではないか(笑)。
 冗談だろ! まさか、これ本気なの?
 ギャグじゃないのか、これじゃマンガだよな…って実際に「マンガ」なんだけど(笑)、それにしたってこれはないんじゃないか。「マンガ」じゃなけりゃ「日本昔ばなし」とかその類いのモノにしか思えない。「桃太郎」とかその手の話だぞ。大人が眉間にシワ寄せて見るもんじゃないよ。みんな、こんなのに「衝撃」受けてる場合じゃないだろ。そもそも「指パッチン」用に、ドンキで売ってるパーティーグッズみたいな安っすい特注グローブまで作ってる(笑)って、冗談以外の何者でもない。アレは笑わせどころなのか(笑)。
 そんなくだらないことに、登場人物みんなが真剣な顔をして必死になっている。「子供だまし」が「子供だまし」のまま、何ら工夫も手間もかけられないまま に提示されている。仮にもし「子供だまし」でいいと言うなら、別に悪役に「それなりの事情」なんか持たせる必要はなかったではないか。どっちなんだよオマ エは。やってることが矛盾している。
 これはアメコミ映画なんだからこれでいい、「マンガ」のどこが悪い、それを文句言うのは重箱の隅突いているようなもの…そうおっしゃる向きがいるかもしれない。そりゃそうかもしれない、これが極めて狭いサークルの中だけでやっているのならば。だが、全世界で公開する一般向け娯楽映画で、いい大人が見る映画で、これはないだろう。
 もし狭いサークル内のお約束で通用する映画ならば、安っぽくていいからもっとマニアックにやるだろう。その中で、分かってる者同士がクスクス笑って目配 せでもしてりゃいいだけの話だ。そこで好きなだけ「なんちゃらストーンは全能」だとか「指パッチンで世界がお先真っ暗」とかやってりゃいい。だが、この映 画はそんな作品とは違うだろう。制作費は何億ドルかかってるんだよ?
 大体、日大アメフト部と日体大のラグビー部の区別もつかないでクレーム電話をかけまくってる連中が山ほどいる(笑)くらいなのに、日本にそれほどマーベル・ファン、アメコミ・ファンっているんだろうか? みんな分かったような顔しているが、ホントに納得しているのか? スーパーマンならまだしも、みんな生まれた時からマイティ・ソーを知っていたとでも言うのか? オレはまったく分からない。
 何だかちょっとこれはおかしい…と、見ている人間誰一人として指摘しないのはなぜなんだ。どこか変だぜ、どう見たって「王様はハダカ」だろ。
 だが…実際にはそうはなっていない。見ている人たちはみんなスゴいものを見せられている気になっていたみたいだし、すごく衝撃的な展開を見せられている 気になっているようだ。「ボクのワタシの大好きだったナントカマンがあんなになっちゃった」と泣きべそかいている。おいおい、それ本気で言ってんのか? 本当にこれってそんなにスゴいモノなんだろうか。それはマーベルがマスコミ総動員で煽りに煽って、そういう気分に持っていっただけなんじゃないのか。何だか一種の集団催眠か洗脳みたいな感じがするのである。果たして5年後、いや3年後…いやいや、ヘタをしたら来年、本作は今みんなに思われているようにスゴい作品だと記憶されているだろうか。
 いや、少なくても「アベンジャーズ」の次作あたりまでは、またカネやタイコで煽ってみんなを丸め込み続けるつもりなんだろう。今までだって出来たんだ。 10年もそれでやり続けることが出来た。大衆なんてチョロいものである。これから先もやれない訳がない。むしろ、これからラクをするために10年もかけて ダマし続けて来たのである。ここからがかき入れ時だ。
 だから、本作はまるで映画に思えない。何かのキャンペーンかマーケティングのようなモノにしか思えないのである。
 本作はまだお話の途中で「つづく」とぶった切ったような感じなので、まだこの段階で評価すべきかどうか分からないところもある。そもそも「単独で通用しないのは商品としてどうなんだ」と言いたくもなるが、本作の特性上「この作品は単品では判断できない」という見方もあるだろう。だが、仮にそうであったとしても…本作に散見できるホコロビや不具合は、ちょっと見過ごすには数が多過ぎるし大き過ぎる。酷いシロモノが出来上がってしまったものである。
 本作を監督したアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟は、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」を監督したふたりである。脚本のクリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリーはその「ウィンター・ソルジャー」に加え、ライフ・イズ・コメディ!/ピーター・セラーズの愛し方(2004)やナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女(2005)なども手がけた百戦錬磨のシナリオライター・チームだ。そんな連中がこれほどまでに酷い映画を作り上げてしまったことに、僕は心底衝撃を受けている。もちろん、あれだけ多くの人気キャラクターを、単なる「顔見せ」な出し方ではなくそれなりに使いこなしているあたりは感心した。そこだけは認めなくてはならないだろう。だが、映画としての根本的な部分で、致命的な欠陥を露呈させてしまっている。ここまでのマーベル映画の大成功に次ぐ大成功で、もはやオレたちが何をどうしたって大衆は受け入れるはず…と思い上がってしまったのだろうか。本作の興行的成功によって、それは現実のモノとなってしまったわけだが。
 先にも述べたように、元々「アベンジャーズ」が成立したのは「大人の事情」だろう。ファン・サービスではあっても、所詮は「詰め合わせセット」である。ご贈答品みたいなモノである。その成り立ちがすでに「商品」めいている。だからそこに作品だの作家性だのを求めるのは間違いだというのは分かる。そもそもが、ハリウッドの商業映画などそんなものだ。それが分からないほど僕もナイーブではない。だが、本作は先にも述べたように、とてもじゃないが観客にちゃんと「サービス」しているような作品と言えるものではない
 それらを差っ引いたとしても、本作はもはや映画であるかどうかさえ怪しいシロモノに なっている。キャンペーンかマーケティングのようなモノと言ったのは、そういう意味である。だから、本作が記録的興行成績を挙げて観客に圧倒的に支持さ れ、批評的にも好意的に受け止められているというのは、僕はかなりヤバい傾向だと思っている。アート系映画好きがバカにして批判するのとはまったく別の意 味…作り手も見る側も「土壌」が痩せて来ているという意味で、娯楽映画の衰退という観点からヤバいと思っているのだ。「王様はハダカだ」と誰も言わない、誰も言えない、いや…気づきもしないというのが最悪のヤバさなのだ。
 さらにもっと言えば、メディアが総力を挙げて煽れば大衆はその方向を向いてしまうという、ここまでハッキリした結果が出てしまったという意味で、えらいことになったとも思っている。マーベルが今まで「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」などで管理社会の問題を繰り返し描いて来たのは、彼ら自身がそれに加担している自覚があったからではないか。
 正直言ってDCの「バットマンvsスーパーマン/ジャスティスの誕生」なんて酷いシロモノだと思ってはいたが、アレはまだしも「映画」であろうとはして いた。本作は「それ」ですらない。それなのにDCはクソミソに叩かれながらマーベルは気持ち悪いほどヨイショされるとすれば、これは一番マズいのは作り手 ではなく受け手…観客の方かもしれない。その劣化が激し過ぎる。
 今回、ネット上でこの作品の一般評価を調べてみたが、酷評はほとんどない。ほぼ全面的に好評…それも絶賛評に近い。それ自体、極めて異例のことだ。そして非常に数少ないネット上の酷評には、それを叩く一般の人のコメントが殺到。それも「みんなが気に入っている作品を貶すな」という信じ難い非難が書かれたりしている。これまた異例である。ちょっとこれって大丈夫なのか。一体どこの独裁国家なのか。悪いことは何も言ってはいけないようなムードが漂っていることの方が、絶対おかしいではないか。サノスなんかより、こっちの方がよっぽど脅威である。
 さすがにこれだけ絶賛の嵐の本作にケチをつけるのは、僕だって少々気が引ける。だが、やはりどう考えてもおかしい。本作を気に入っている人やマーベル贔 屓の人からはツバ飛ばしながら罵られるかもしれないが、おかしいものはおかしいんだから仕方がない。少なくとも、これは「傑作」なんかじゃないはずだ。
 よく見ろ。「王様はハダカ」なんだぞ。
 その行き着く先は、ドーピングに次ぐドーピングの無限のエスカレートのような気もする。それをやり続けたあげく、結局は飽和状態に陥る時が来るのではな いか。その時には、「スーパーマン」以降多くの映画人たちが積み上げていった「マンガ」の大作映画化のノウハウどころか、ハリウッドの「娯楽映画」そのものが完全に疲弊してしまい、 そこにはもはや草木も生えないのではないだろうか。何年か後に、マーベルはあの時に目先の利益を得るために禁じ手を使ってしまった…と言われる時が来るの ではないだろうか。あのドンキで売ってるようなグローブで指パッチンしちゃったみたいに…。そうなってしまう頃、ハリウッドは今のようなカタチで存在して いられるのだろうか。
 この「インフィニティ・ウォー」を見た今、僕はそんな暗澹とした気分にならざるを得ないのである。

 

 

 

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