「シェイプ・オブ・ウォーター」

  The Shape of Water

 (2018/05/21)



見る前の予想
 今年のアカデミー作品賞を受賞した映画である。それで終わらせてしまってもいいのだが、何しろこれがギレルモ・デル・トロの映画だということが感慨深い。
 今からおよそ20年前、デッカい蛾がニューヨークの地下で大繁殖という「ミミック」(1997)を見て、SF映画好きの僕は大いに楽しんだ。だが、まさかこの作品でハリウッド・デビューを果たした監督が、その約20年後にアカデミー賞をとることになるとはさすがに思わなかった。だって、デッカい蛾だよ。人間に擬態する蛾の映画なんだから(笑)。
 それからスペインで撮ったデビルズ・バックボーン(2001)、またハリウッドに戻っての「ヘルボーイ(2004)…とSF、ホラー、ファンタジーのジャンルで大活躍。SF映画好きの僕にとっても大のご贔屓監督となっていった。
 そんなデル・トロ監督が一皮むけた…と思えたのが、スペインを舞台にして撮ったパンズ・ラビリンス(2006)。相変わらずジャンルとしてはファン タジーということになるのだろうが、ファシズムの時代を舞台にして深い悲しみを滲ませた作品を作り上げていた。これを見た時には、デル・トロはそれまでと 一線を画するぐらい、映画作家として成熟したと思わされたものだ。先にも述べたように、相変わらずイマジネーション豊かなファンタジー風味の作品。しか し、作品の佇まい自体が今までとどこか違うのである。
 それは海の向こうでも敏感に受け止められたようで、この作品はアカデミー賞でも何部門かノミネートされる話題作となった。デル・トロがそれなりの「格」の映画作家に見られるようになったのも、このあたりからということになるだろう。
 だが、オスカーにノミネートされようがされまいが、デル・トロはデル・トロ。日本の特撮モノなどを大いに意識しながら、それを堂々とハリウッド大作とし て再生産してしまったパシフィック・リム(2013)を発表。こんな事を…それもメジャーのハリウッド大作としてやる人は、過去誰もいなかった。この 人の前人未到の活躍には、大リーグでの大谷選手の活躍並みにビックリである。
 何よりデル・トロがスゴいのは、もちろん作品がSFやファンタジーとして面白いということもあるが、やることなすこと過去のパターンを打ち破っているこ と。先ほど挙げた「パシフィック・リム」で日本の特撮映画をハリウッドに完全移植したかと思えば、今度は本作「シェイプ・オブ・ウォーター」でヴェネチア 映画祭の金獅子賞を取り、ついにはアカデミー賞も取ってしまった。
 確かに好きだし大した監督だとは思ったが、まさかここまでやるとは…。嬉しいは嬉しいが、むしろ驚いたというのが正直なところだろう。その「驚いた」という部分には「あのデル・トロが」…という思いより、また別の意味合いがあったように思う。
 作品としてはそれなりの出来映えと「格」を見る前から信じて疑わなかった僕だが、「このジャンル」の作品がアカデミー賞の…それも作品賞を取ることの難しさもイヤというほど知っていた。だからこそ、この受賞には嬉しさと同時に「驚き」を感じたのだ。
 だが、そうは言ってもなかなかその実物に触れることが出来ず、公開からかなり遅れての鑑賞となった。感想文アップがさらに遅れたのは、例によって僕の怠慢ゆえ…である。


あらすじ

 これは「水」に関する物語…。時代はあの「プリンス」の治世の頃…と言えば分かるだろうか。さよう、「プリンス」ことジョン・F・ケネディがまだ大統領だった1962年のことである。
 今まさに我らがヒロイン、イライザ・エスポジート(サリー・ホーキンス)が、映画館の上にあるアパートの自室で目を覚ますところ。ただしイライザが起き るのは、日がそろそろ落ちようという時間だ。彼女の一日はいつも同じ。まず卵をナベの熱湯に入れ、ゆで卵をつくっている間に浴室で風呂を浴びる。そこでさ さやかな「お楽しみ」を味わうのも彼女の日課だ。
 イライザの隣人は、初老のイラストレーターであるジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)。イライザとテレビでミュージカル映画を見たり、会話を楽しん だりする。ただし、イライザとのやりとりはいわゆる「会話」ではない。彼女がまだ幼い頃に首にケガを負ったため、イライザはしゃべることが出来ない。だか ら、彼女とのやりとりは「手話」によるものだ。
 そんなイライザはバスに乗って通勤。その勤務先は、ボルチモアにある政府の某研究施設。一般職員たちの多くが施設から帰って行くのと逆に、イライザはこ れからご出勤だ。そこで、同じく出勤して来た同僚の黒人女ゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と合流。ゼルダもまた、イライザの数少ない友人のひとりだ。 イライザとゼルダは、この施設で夜勤で掃除婦として働いているのである。
 そんなある日のこと、この施設の中の研究室のひとつに、何やら鉄製の巨大な容器らしきものがモノモノしく運び込まれてきた。にわかに研究室が緊張感に包 まれるあたりからも、その容器の「中身」が重要なモノであることが分かる。南米アマゾンで捕獲されたという「中身」のために、警備担当のリチャード・スト リックランド大佐(マイケル・シャノン)もやって来た。
 このストリックランドという横柄な男のおかげで研究室に無駄に緊張感が漂っているところもあったが、たまたま掃除のために居合わせたイライザとゼルダは そんなことを言える立場でもない。それよりイライザは、容器の「中身」が気になった。大っぴらに見ることはできないながらも興味しんしん。イライザは容器 に大胆に近づいて、その小さな窓を見つめていた。
 すると…バン!と窓に大きい手の平が、勢いよく容器の内側から叩き付けられるではないか。
 はっと驚く間もなく、その場の研究員たちによって容器から引き離されるイライザ。だが、彼女の目はしっかりと見てとっていた。窓に叩き付けられた大きい手…その指と指の間に「水かき」があったことを…!

オスカーに突きつけたい「Sci-Fi Too」

 先にもチラリと述べたが、本作のアカデミー賞作品賞受賞は僕にとって大変嬉しく、かつまた驚くべき「快挙」だった。
 実は本作が受賞を果たしたことはSF映画ファンにとって、みなさんが思っているよりずっと大きな出来事だったのだ。それは長年映画を見て来て…ことに SF映画をこよなく愛して来た僕のような人間にとっては、思わず感慨に耽ってしまうような事件だった。本作はギレルモ・デル・トロの監督作品である。今ま でずっとSFやホラー畑の作品ばかり手がけて来た男の最新作が、この作品である。それがオスカーを受賞したのだ。
 何と「半魚人」が出て来るSF映画なのに…である。
 本作が厳密な「SF映画」かどうかはファンによって解釈が異なるだろうが、「SF映画的シチュエーションの作品」であることは誰もが否定しない点だろ う。半魚人が出て来る恋愛映画や犯罪サスペンス映画など普通はない(笑)。やはり本作はSF映画だ…ハリウッドにおける栄誉の最高峰、アカデミー作品賞を 受賞した「SF映画」なのである。
 これがいかに大変なことか、果たしてみなさんにはお分かりだろうか。昨今はハリウッド大作といえばSF映画だから、イマドキの人たちにはピンと来ないか もしれない。むしろサマー・シーズンやクリスマスの話題作で、スーパーヒーローもの以外でSFでない映画を探す方が難しいかもしれない。そのスーパーヒー ローものですら、広義の意味ではSF映画に分類されるべきモノと考えられるのである。今日びは娯楽大作イコール・SF映画といえるかもしれない。
 だが、僕がまだ子供の頃には、SF映画と言えば子供だましかクズ扱いでしかなかった。マトモな映画も少なかった。だから、賞の対象になんかなる訳もな い。そもそも大人の鑑賞に耐え得るものと扱われていなかった。俳優にしても監督にしても、一流映画人が関わることはまずなかった。
 「遊星よりの物体X」(1951)はそんなSF映画暗黒時代において、ハワード・ホークスという巨匠が関わったマレな作品だ。それでもホークスは「監 督」としてではなく「プロデューサー」名義であるあたりがこの時代の限界だった。ほとんどホークス自ら監督したらしいという話もあるが、最終的にクレジッ トは別人という点が、何よりそのあたりの事情を如実に物語っているだろう。何となく「継子」のような冷淡な扱いをされていたのだ。
 そんな状況に風穴が開いたのは、1968年のこと。「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」という2つの作品が発表されたからだ。いずれも一流の監督、一流の俳優による作品で、大人の鑑賞に耐え得る作品として公開された。
 前者ではスタンリー・キューブリックがアカデミー賞の監督賞と脚本賞にノミネートまでされた。だが、実際の受賞となると…特殊効果やメイクなどの技術賞 ではなく、演技賞や監督・脚本賞、いわんや作品賞を取ることはまったくなかった。これは「スター・ウォーズ」(1977)が大ヒットしてSF映画に市民権 が与えられてからも、事情は変わらなかった。
 また、実はこれに先立ってキューブリックは「博士の異常な愛情」(1964)を発表している。それどころか「SF映画」というカテゴリーで言うなら、シ ドニー・ルメット「未知への飛行」(1964)、さらにそれより前にスタンリー・クレイマー「渚にて」(1959)を発表している。こんな以前から一 流映画人が、ちゃんとSF映画を手がけているではないか…とおっしゃる向きもあるかもしれない。
 だが、これらはいずれも「SF」というより、核戦争と人類絶滅の危機を描く「社会派」の近未来サスペンス映画と見なされた可能性がある。1950年には 朝鮮戦争が勃発し、1962年にはキューバ危機が起きて、核戦争の可能性が現実味を帯びた。前述の作品群はあくまでこうした目の前の脅威に対して映画人が 敏感に反応した結果で、これをもって「SF映画」が映画人たちに市民権を得たとは言えないだろう。だから、これらは一種の「例外的な作品」だと思われる。少なくともこれらの作品に、宇宙船やモンスターは出て来ないのだ。
 話を1968年の2作品に戻すと、後者はチャールトン・ヘストンという大スターの主演作で、彼はこの後も何作かSF映画出演が続く。それはヘストンが SF映画出演に抵抗がなかったということもあったのだろうが、他に有名スターがSFに出たがらなかったということもあったかもしれない。また、ヘストンの キャリアの中心は特殊効果を多用した歴史スペクタクル映画だったから、同様に特殊効果を使うことの多い「SF映画」との親和性が極めて高かった と言えるかもしれない。一流スターだったヘストンがSF映画に出ても、それは「例外」的な存在だった。結局、「その後」が続かなかったのである。
 前述したように、「スター・ウォーズ」をもってやっとSF映画はハリウッド映画のメインストリームに躍り出た。これを境にしてSF映画の大作企画が次々 動き出し、大スターも巨匠監督もSF映画を撮り出した。「スター・ウォーズ」で売り出し、「ブレードランナー」(1982)にも出演したハリソン・フォー ドのようにSF映画が生んだスターも登場した。
 もちろんあれだけのバカ当たりをしたのだから、ハリウッドもアカデミー賞も「スター・ウォーズ」を無視できなかった。この作品は、堂々とアカデミー作品賞にノミネートされたのである。これは前述の「例外的作品」である「博士の異常な愛情」以来のことである。
 しかし残念ながら、「スター・ウォーズ」は1977年の第50回アカデミー賞で作品賞をとることはできなかった。受賞したのはウディ・アレンアニー・ホール(1977)である。まぁ、これについては致し方ない気もする。この年はかつてない激戦の年でもあった。
 だが、1982年の第55回アカデミー賞はどうだろう。この時にはスピルバーグのひとつのピークとも言える作品、E.T.(1982)が作品賞の候 補にのぼった。しかし、実際にとったのはリチャード・アッテンボロー「ガンジー」(1982)。アッテンボローにも「ガンジー」にも何の恨みもないが、 果たして「E.T.」を下すほどの作品であろうか。今日の映画ファンの間で、「ガンジー」は「E.T.」を凌駕する作品と受け止められているだろうか。
 そしてそれから何十年もの歳月が流れたにも関わらず、SF映画はオスカー作品賞を取れないどころか、候補になることすら多いとは言えない。コンスタント にノミネートされ始めたのは、作品賞候補が8作品から10作品ぐらいにまで拡大した近年のことである。しかも、あのジェームズ・キャメロンがアカデミー作 品賞・監督賞を手に入れたのは、そのフィルモグラフィーの中では珍しい非SF映画「タイタニック」(1997)でのことだ。なぜかSF映画では取れないの である。
 近年のハリウッドは、黒人差別、女性差別で何かと揉めている。毎年アカデミー賞のたびに、これらの問題で何だかんだと揺れ動いている。そして候補作も受賞作も、こうした動きにアレコレと影響を受けているように見える。みなさんそれぞれ言いたいことは多々おありだろう。
 だが僕にとっては…こうした問題を告発している関係者の皆様には大変申し訳ないが…アカデミー賞で「差別」と来れば「SF映画差別」がまずアタマに浮か ぶ。アカデミー賞創設以来…いや、仮に「スター・ウォーズ」で市民権を得てからと考えてもほぼ40年間、SF映画はオスカーに露骨に無視され続けて来たの だ。あからさまに「格下」という扱いを受けて来た。
 まさに「Me Too」ならぬ「Sci-Fi Too」。だからこそSF映画ファンとしては、これを「差別」と言いたくもなるのである。


見た後での感想

 ここまで長々と、アカデミー賞におけるSF映画不遇の歴史を振り返ってみた。かくも長きにわたって、SF映画は冷ややかな扱いを受け続けて来 たのである。ギレルモ・デル・トロのこの「半魚人」を扱った作品がいかに「快挙」だったか、これでお分かりいただけたかと思う。僕自身もSF映画ファンと して、本作の受賞を秘かに願っていた。だから、まずは受賞が我が事のように嬉しかった。それはまず最初に言わなくてはなるまい。
 ただ、受賞したことを知って喜んで満足してしまったのか、実は僕はウッカリ作品の実物を見ることを忘れてしまっていた(笑)。そして最初のタイミングを逃してしまうと、何となく足が劇場に向かない。そんな訳で、相当遅くなってからの鑑賞となった訳だ。
 だが、僕は心配していなかった。本作が質の高い作品になっていることは、見る前から想像がついていたからである。
 ある意味で完全に予想通り、それまでのデル・トロの「良い部分」のエッセンスがそのまま活かされた作品だったのである。


 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

デル・トロの持つ美点が活かされた作品

 本作の良い点は、すでにマスコミや批評家も散々書き立てているだろうし、ネットで映画ファンも語り尽くしていることだろう。実は僕が改めてそこに付け足すことなんてないように思う。
 本作の原型は間違いなく古典的SF映画の「大アマゾンの半魚人」(1954)で、アレを見方を変えたらこうなる…と描いたような作品である。言うなれば、「キングコング」的なアプローチとでも言うべきだろうか。まさに「美女と野獣」である。
 今回はそこに、なかなかしたたかでアップトゥデートな視点も加わっていた。物語の時代背景は、冷戦下の1960年代前半。非常に政治的にも感情的にも偏 狭な人物を「敵役」に持って来て、遠回しにトランプ時代のアメリカを告発するというスタイルである。迫害される半魚人は「ヨソ者」「マイノリティー」のメタファーである。そ んな半魚人を守ろうとするのは、口のきけない女性、黒人の女性、同性愛者、良心的な外国人という面々。いずれも「弱者」とされる人々か主流ではない人々で ある。今回、本作がついにアカデミー賞の作品賞まで獲得するに至ったのは、この時事的な部分が高く評価された面は否めない。本作は、時代をも味方につけた 訳である。
 だが、受賞理由はそれだけではない。本作が持つ問答無用の「多幸感」は、誰もが認めるところだろう。ある意味で、絶対的なハッピーエンドに終わるファンタジーなのだ。それも、100 パーセント明るいピカピカの終わり方ではなく、じんわりと哀しみ色したハッピーエンドなのがいい。それでこそ、「デビルズ・バックボーン」や「パンズ・ラ ビリンス」を作ったギレルモ・デル・トロの映画なのである。
 重厚な映像や、研究所の装置やキャデラックの車体など緑色を基調にした渋みのある美術も素晴らしい。クリムゾン・ピーク(2015)ではやけにビ ジュアルが軽くなってしまって、まるでティム・バートンの二番煎じみたいになって心配したが、それは杞憂に終わった。デル・トロらしい味わいの作品で、 「SF映画」の世界の住人である「半魚人」が出て来る点については一切妥協していないことも嬉しかった。
 やはり思った通り、本作はデル・トロの持つ美点が活かされた作品だったのである。まずはその点を僕は大いに評価したい。

「SF映画に栄誉を与えた作品」とホメたいところだが

 だから「SF映画」に最高の栄誉を与えたという点も含めて、本作には大いに感心したし、いくらでもホメたい気持ちになった。前述のごとく、僕は本作を大いに評価させてもらった。思った通り、素晴らしい作品に仕上がっていた。
 そう…まさに思った通り。予想通り。僕も本作がこのような作品になるだろうということは、最初から容易に想像がついた。そして、実物を見てもまさしく予想通り。予想通りに面白く予想通りに立派な映画になっていたが…実は本作の引っかかる点もそこだった。
 本作にはまったく想定外の部分がない。ある意味、まるでサプライズのない映画なのである。で、実はそこが…重箱の隅を突くようで大変気が引けるのだが…本作の一番の問題点なのである。
 本作の基本構成は、明らかに「パンズ・ラビリンス」と同じである。…ということは「デビルズ・バックボーン」の延長線上にあるとも言える。ただし、「デ ビルズ〜」から「パンズ〜」には明らかに進化の跡が見られるが、残念ながら「パンズ・ラビリンス」と本作の間にはそうした進化が見られない。本作は「パン ズ〜」で出来上がったフォーマットにそのまま乗っかった作品であり、定型化した作品である。そこが物足りなさを感じさせる。
 先に述べたような…「ヨソ者を排除するな」とかトランプ時代を告発するような要素をチラつかせるしたたかさは、本作を売ったりアピールするための戦略的 なものでしかなく、それは作家的成熟とは別のもののように思える。意地悪く言えば、多くの人たちの支持を受けやすい「小賢しいマネ」をしているような気さえしてしまう。絶対に正しい側に立つのだから、良く言われるに決まっているのである。
 そして本作は「パンズ〜」で完成してしまったフォーマットを「勝利の方程式」にして、そこに自信満々 で新たな設定をハメ込んだだけにも見えるのだ。デル・トロにこうした「勝利の方程式」が出来てしまったことが問題なのである。
 なぜなら…これがうまくいってしまったら(アカデミー賞まで取れてしまったら、うまくいったと言わざるを得ないだろう)、手を変え品を変え「勝利の方程 式」に別の要素を当てはめさえすればいい。「パンズ〜」はスペイン内戦だった、本作は冷戦下のアメリカである。今後はここにファシズムや不健全な政治状況 をハメ込んでいけば、一般の受けがいい作品が出来る。「ナチス政権下のドイツ」でも「スターリン政権下のソ連」でも
「文化大革命時代の中国」でも、あるいはまたまた「マッカーシズムの嵐が吹き荒れるアメリカ」で もいけるのである。それは、誰が見ても「悪い」と思えるものを「悪い」と批判するのだから、実に簡単で仕損じようのないお仕事である。あとはデル・トロ作 品独特の、「哀しみの漂うファンタジー」という意匠がありさえすればいい。それで映画としての「お味」も完璧だ。だが、それって映画作家的には「進化」ではないんじゃないか?
 そして、デル・トロの持つファンタジー性にも、実は本作ではホコロビが見られるのではないかと思う。本作の一番のハイライトとなるのは、アパートのバス ルームを水で満たしてヒロインと半魚人が戯れるという場面だろう。先に僕は「多幸感」という言葉を使ったが、この場面こそ「多幸感」と言えば「多幸感」で ある。それはまるでスーパーマン(1978)でスーパーマンとロイス・レインが空を飛びながら戯れている場面にも似て、観客をウットリさせる場面と なっている…はずである。
 だが、僕はこの場面のファンタジー性に「多幸感」を見い出そうと思いながら、正直ちょっとキツいなとも思っていた。この場面を見ていて陶酔するよりも、 醒める一歩手前で一生懸命踏みとどまるような気持ちを抱いていたのだ。何とか持ちこたえたものの、ギリギリ見ていてすきま風が吹く寸前という感じ。そもそも半魚人は命から がら逃げて潜んでいるはずなのに、「こいつら何やってるんだよ」というのが正直な気持ちだった。イライラしてイマイチ陶酔できなかった。
 そもそも…ここからは見る人の主観になってしまうので断言するのは気が引けるのだが、この作品のファンタジー性や「多幸感」は、作り手の「計算」が先に立っているような気がするのである。だから、どこか見ていて醒めそうな気になってしまう。
 それを裏付けるように、本作に安易に「映画」がチラついているのも気になる。ヒロインと隣人はテレビでミュージカル映画を見てウットリしたりして、それ が彼らの心にあるロマンティックな純朴さを物語るエピソードとなっている。また彼らのアパートの下には映画館があり、何と逃げ出した半魚人がその映画館の 中で仁王立ちになっている場面まで出て来る。いずれも映画ファンとしては嬉しくなるし、大いにシンパシーを抱きたくなる趣向である。
 だが今回は、どうもデ ル・トロに映画ファン気質を見透かされているような気持ちになって来る。そこも「計算づく」であるような気がして来るのだ。やれ塩が足らないと死ぬだの捕まると殺されるだのと言っているのに、映画館で仁王立ちしてる場合じゃないだろ(笑)。映画ファンならこれ入れときゃ喜ぶ…という類いの目配せを感じてしまうのだ。ここも僕にとってはシラケる一歩手前である。
 そもそも「勝利の方程式」を持ってくるあたりが一番の「計算づく」なのだが、果たしてデル・トロは何で今回こんな事をしてしまったのだろう。その理由はしかと は分からないが、少なくとも彼の中で、前作「クリムゾン・ピーク」で何らかの迷いが生じたからではないか。そのくらい、あの作品は一見「デル・トロらし い」作品に見えて、実は「デル・トロらしからぬ」作品であったように思う。デル・トロの中で、彼の意匠に揺らぎが生じてしまったように思えるのだ。彼が 「勝利の方程式」にすがり、映画ファン気質に頼ったり時代を味方につけたり…ということをしたのは、そんな不安からではなかったのか? 本作のさまざまな 要素がいちいち「理」に落ちてしまうという点に、僕としては漠然とした不満を感じてしまうのである。
 本作はアカデミー作品賞を受けるにふさわしいほど、ギレルモ・デル・トロ作品としては抜群の安定感を持った作品である。だが、そんな過剰な「安定感」が生まれてしまっていることこそ、本作の最大の不安要因ではないだろうか。

 

 

 

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