「スリー・ビルボード」

  Three Billboards Outside Ebbing, Missouri

 (2018/03/19)






この感想文は、2018年のオスカー受賞式以前に書かれたものです。




見る前の予想

 本年度アカデミー賞「最有力」なんだそうである。実際、何となく周囲に漂っている空気でも、そんな感じがする。
 最初にこの映画のことを知り、予告編を目にした時からそんな予感がした。この感想を書いている現時点ではまだオスカーの結果は分からないが、僕はこの映画かギレルモ・デル・トロ「シェイプ・オブ・ウォーター」
(2017)が作品賞じゃないかと思っていた。アカデミー賞はSFに冷たいから、どっちかと言えば「スリー・ビルボード」かな?
 その後、ハリウッド界隈の空気が一変するや、ますますこの映画が有利になったように思えた。何せこの映画、娘を殺した犯人が捕まらないので、警察の怠慢をコキ下ろす看板を立てて大いにやり合う女が主人公だという。主張する女…の映画なのだ。イマドキの空気にあまりに合致し過ぎ。これは支持されざるを得ない。
 ただ…正直言うとそのあたりで、僕は少々気が重くなってきたのである。昨今、あっちでもこっちでも激しい主張が日常茶飯事。それぞれに正義や言い分はあるのだろうが、それも結局は対立とコキ下ろしばかりのように見られかねない。
全然問題は違うんだろうが、そう見えてしまいそうだ。それでなくても世の中まったく寛容さがなくなって、誰もが一方的で、やれ謝罪しろだの炎上だのという風潮にいささか辟易していたのだ。大変申し訳ないが、それらと渾然一体となっているように見られるのは得策ではないだろう。
 そうなると、おっかない顔したフランシス・マクドーマンドがドヤ顔して警察や田舎町の連中をコキ下ろして溜飲を下げる映画なんざ、お金と時間を使ってまで見たいとは思わない。志が低くてすみません。だが申し訳ないけど、それが僕のホンネである。それで、公開されても何となく尻込みしていたのが、本当のところだった。
 そんな僕を引っ張り出したのは、とある知人のオススメの言葉。この人が言うなら間違いはないかも。そんな訳で、僕は意を決して劇場に向かったのだった。


あらすじ

 朝霧の立ちこめる中、田舎の辺鄙な道路沿いに立つ3つの立て看板。もう使われなくなって長い年月が経ち、ボロボロの看板だ。
 やがてその辺鄙な道路に、一台のクルマが通りかかる。運転している中年女ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、その3つの立て看板に目を留め て、思わずクルマを停めた。やがてミルドレッドは、町の広告屋に姿を見せる。あまり熱心な仕事ぶりとは言い難い広告屋のレッド(ケイレブ・ランドリー・ ジョーンズ)に、いきなり例の立て看板に広告を出すと言い放つミルドレッド。ビックリするレッドにお構いなく、ミルドレッドは一方的にカネを渡して契約は成立だ。果たして、彼女が出した広告とは…。
 それから間もなくのこと、夜に例の道をパトカーで通りかかった警官のディクソン(サム・ロックウェル)は、広告を貼る作業中の3枚の立て看板に目を留 め、慌ててクルマを停めた。まずは1枚目の看板を見たディクソンは、作業中のメキシコ人に「何だこれは?」と突っかかっていく。だが話にならないので、今 度は2枚目の看板で仕事中の黒人作業者を罵倒。黒人の作業者が皮肉っぽく応対したのは、ディクソンが差別意識丸出しの警官として有名だったからだ。
 だが、作業者も単に看板に広告を貼っていただけだから、ディクソンだってどうすることも出来ない。慌てたディクソンは、自宅にいる署長のウィロビー(ウ ディ・ハレルソン)に電話。結果、イースターの夕食を静かに家族ととっていたウィロビーに、「馬鹿野郎!」と怒鳴られてしまうのだった。
 果たしてその看板とは、一体どのようなものだったのか…。
 それはミルドレッドの運転するクルマに同乗した息子のロビー(ルーカス・ヘッジズ)も、一見して唖然呆然とするようなシロモノだった。真っ赤な背景に大きく黒い文字で、「レイプされ殺された」「逮捕はまだ?」「どうして、ウィロビー署長?」…と描かれた大看板。それは、確かに何とも異様な光景ではあった。
 実はミルドレッドの娘アンジェラは、レイプされた末に焼き殺された。しかし7か月経った今になっても、まだ警察は犯人を逮捕出来ていない。ミルドレッドはそんな状況に業を煮やして、例の立て看板に広告を出したのだ。
 だが、これは当然のごとく警察を怒らせた。いきり立ったディクソンたちは例の広告屋に乗り込むが、のらりくらりのレッドに苛立つだけで、広告を止めるこ とは出来ない。内容的には何ら違法ではないのだ。そのうち騒ぎを嗅ぎ付けたテレビ局が、広告看板を取材するためにやって来る。そこでもミルドレッドは堂々 主張を引っ込めない。
 だが、名指しにされた警察、わけてもウィロビー署長にとってはたまったものではない。そこで彼は、直接ミルドレッドを説得すべくか彼女の自宅を訪れた。
 もちろんウィロビーとても手を抜いている訳ではない。だが、手がかりゼロでは調べようがない。世の中、どうしたって真相が分からない事件ってのはあ る…。だが、そんなウィロビー署長の言葉は、ミルドレッドの態度を軟化させることは出来なかった。かくなる上は…とウィロビー署長が語ったのは、自らが不治の病いに冒されているという告白。だが、それもすでに知っているとミルドレッドはつれない。それどころか、実は町の人間も先刻ご承知…と聞いて、ウィロビーの方が地味にショックを受ける始末だった。
 しかし人情に厚いウィロビー署長は、町中の人間に好かれていた。当然、そのウィロビー署長を糾弾するミルドレッドへの風当たりは強くなる。息子のロビーすら、この母親のやり方には反発を隠さない。ロビーにとっては姉の死は忘れたい出来事なのに、この看板の存在で忘れさせてもらえないのだ。
 おまけに広告屋のレッドから、広告費を滞納してると連絡が来た。実は先日ミルドレッドが払ったカネは前金だったのだ。だから、まず今月分の広告代がいる という訳だ。だが、そんな彼女のもとに匿名の人物からカネが送られて来る。思わぬ幸運で、ピンチを切り抜けるミルドレッドだった。
 ところが、一難去ってまた一難。この一件を苦々しく思うディクソンは、母親からの入れ知恵でミルドレッドの弱点を突いて来た。彼女の友人であり、ミルドレッドが手伝っている店の店主デニスをマリファナ所持の罪で逮捕したのだ。
 おまけに別れた夫のチャーリー(ジョン・ホークス)までが、ミルドレッドを止めようとやって来る。散々な状況で別れた元の夫が若い恋人を連れてやってくれば、ミルドレッドは面白い訳がない。売り言葉に買い言葉のあげく、チャーリーは事件直前に娘アンジェラが父親と暮らしたいと言って来たとぶちまける。これは、ミルドレッドにとって強烈なダメージとなった。
 そもそもアンジェラが事件に巻き込まれたのも、事件当夜に彼女がミルドレッドのクルマを借りたいと言って来たのが発端。勝手な言い分でクルマを借りようとしたアンジェラに、ミルドレッドは断固拒否。言い争いのあげく、「レイプでもされちまえ!」とミルドレッドが言い放った結果がこのテイタラクだったのだ。ミルドレッドがこの件で
退くに退けないのは、そんな事情もあったのである。
 そんなある日、ミルドレッドのみならず関係者全員に衝撃を与える出来事が起こる…。

見た後での感想

 先に述べたように、本年度アカデミー賞での大本命の1本。オスカー万能とはまったく思っていないものの、確かに見応えのある作品である。
 世評ではむしろもう1本の本命作「シェイプ・オブ・ウォーター」よりこちらが上だとか、オスカーにふさわしい…という声もある。そもそもがオスカーにふさわしいも何も関係ないと思うし、映画に採点なんぞしたこともない人間なのでそのあたりはどうか分からないが、少なくとも
本作は冒頭で僕が予想していたような作品ではなかった。フランシス・マクドーマンドがドヤ顔で主張しまくって溜飲を下げる映画…ではなかったのだ。
 それどころか、映画の中盤からまったく想定外の展開を見せる。まさに「アッと驚く」映画になっているのである。


 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

想定外のヒロインの設定

 ただ、本作がどう優れているのかについては、たぶんもう多くの人が指摘しているので、僕があれこれ言うまでもない気もする。
 途中まで見ていってあまりに煮詰まっていく展開に、どうなるんだこの話…と見る側はいささか不安になっていく。最初はガンガン主張する女を肯定していく アメリカンなお話で、それと偏狭で保守的な田舎者との対立…というパターンだろうとタカをくくっていたら、さにあらず。暴力警官のサム・ロックウェルはと もかく、署長のウディ・ハレルソンは悪人とは思えない。逆に観客側から見ても、主人公フランシス・マクドーマンドの言い分がいささか一方的で行き過ぎなものに感じられて来る
 それがさらに倍加するのは回想シーンで、娘が悲惨な死を遂げることになった遠因は…その時には決して間違っていない言い分だったとはいえ…マクドーマン ドが娘の頼みを拒絶したことにあったことが分かる。おまけに別れ際に「レイプされちまえ!」などと暴言を吐いてしまった後ろめたさがあるから、この件につ いては退くに退けないと分かって来る。ある意味、「自分の落ち度」を他人に責任転嫁させて責め立てている印象すら湧いてくるから、なおさらヒロインに賛同 しかねる気分になって来る。これじゃ言いがかりやん。町の連中がこの女を快く思わないのも、ある程度うなづけてしまうのだ。
 これってマクドーマンドがやっているからかろうじて共感できなくもないレベルに留まっているが、実際は好感を持つのがキツい女だろう。見る前に予想して いたようにはマクドーマンド扮するヒロインの主張に100パーセント共感は出来ないし、作り手もそのように観客を誘導したりはしない。ヒロインのことを 「全肯定」などしていないのである。
 ところがそんなこんなしているうちに、改めて本作最大のサプライズ場面がやってくる。昨年末見たイギリス映画人生はシネマティック(2016)もビックリの、力業の展開である。そしてこのサプライズをキッカケに、本作の人間関係は大きく変貌を遂げていくのである。



 

 

 

 

 

 

 

ここからは本当に映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 


登場するのがいずれも好悪相半ばする人物ばかり

 前述の「サプライズ」によって、マクドーマンド扮するヒロインの状況はますます悪化。しかも彼女の唯一の拠り所となった3枚の看板が、何者かに放火される。この一件が、マクドーマンドをついに暴走させてしまう。ヤケのヤンパチになった彼女は警察署を放火するという暴挙に出るが、もはやこの時点で観客のほとんどは彼女の心情についていけなくなっているだろう。
 ところが、この警察署への放火がもうひとつの「サプライズ」を生み出す。注目したいのは、最初の「サプライズ」直後と警察署への放火という次の「サプラ イズ」の両方で、暴力警官だったサム・ロックウェルがイアホンで音楽を聞いていること。マクドーマンドの娘の事件の捜査ファイルもそうだが、小道具をうまく使って結構ケレン味溢れる演出を施しているのである。これはヘタをすると不自然な設定になりかねないところだが、さりげなく見せているのがうまいのだ。
 さらに、この放火事件が一種の「加熱消毒」みたいな効果を発揮。笑い話みたいだが、文字通り「炎上」したおかげで人々が「浄化」される。ここからロックウェルとマクドーマンドの内面に、大きな変化が生じていくのである。この構成も実にうまい。
 考えてみると…ロックウェルは偏見と心の狭さから暴力警官に堕ちて、ついにはクビになってしまった男。だが偏屈な母親とのふたり暮らしということもあ り、あのような考え方になっても仕方ない点もある。署長を慕う気持ちは人一倍で、愚かなだけで根は優しい男なのだ。逆にマクドーマンドは本作の主人公だか ら本来は観客が最も感情移入できる人物のはずなのだが、前述したようにどんどんついていけない点が目立って来る。気持ちは分かるが度を超している。そして 本作の重要人物3人のうち最も無条件に善人らしさを醸し出しているのはウディ・ハレルソンの署長だが…実際、ハレルソンの善意溢れる手紙がロックウェルに 一種の覚醒をもたらすのだが…いくら死を前にしたからといって、あの時点であの行為は最悪のタイミングと言わざるを得ない。どう考えてもマクドーマンドが 苦境に追い込まれることは明らかだったはずだし、残された家族のダメージも大きい。結局、ハレルソンのもたらした「サプライズ」は独りよがりのエゴでしか ない。無条件にどこまでも善人という訳でもないのである。
 どの人物も良い点ばかりがある訳でもなく、悪い部分だけを持っている訳ではない。正 しい行いばかりでなく、誤った言動だけでもない。考えてみれば、極めて当たり前なことである。これって他の映画や物語でもありがち、語られがちなことでは あるが、実際にここまで鮮やかに描かれることってなかなかないのではないか。100パーセントいい人間、悪い人間はいない。誰にも非がありそれなりの言い 分がある…とはよく言われることだが、それが実際に説得力を持って描かれることは極めてマレである。本作は、その点が実に鮮やかに描けているのである。

気になる前作「セブン・サイコパス」

 これから後は、映画を見た人なら誰でも納得する素晴らしさ。サム・ロックウェルの一世一代の大芝居で、バカな男の純情爆発させた善性に向けての敗者復活戦が始まる
 一方、マクドーマンドも小人の男からのキツい指摘で、彼女が彼に対して失礼な見方をしていたと痛感する。そして頭が悪いとバカにしていた別れた夫の若い恋人が、実は自分より賢い人生の知恵を持っているのかもしれないと思い知る。「正義を行え」と他人に高飛車に要求していた自分が、他人を見下すような「正しさ」とは程遠い存在だったことに気づくのだ。これは見ている僕らにとってもショックだ。こうして対立する両者がお互いの非を見つめ直した時に、そこに「対立」はいつまでも存在し続けるだろうか。やがて物語には、ささやかではあるがカタルシスのある結末がやって来る…。
 冒頭にもチラリと書いたが、昨今は何かと主張し糾弾することが大流行りである。それらには必要な主張や意味のある糾弾もあるだろうが、単に自分の溜飲を 下げるために言論のリンチを加えているだけの場合も少なくない。そもそも、近頃は人々がさまざまな要素で対立することが多い。国や宗教、民族による対立は 当たり前。それどころか、同じ国の中でも若い者と年寄り、富める者と貧しい者、高学歴と無学、
政治信条の異なる者、都 会人と地方人、有名人と無名人、既婚者と未婚者、子供のいる者といない者、ヨメと姑、男と女…など、ありとあらゆる社会階層同士で対立。それぞれがお互い を罵り、何かと言えば炎上だの謝罪しろだのと大騒ぎだ。こんなにみんながみんな対立ばかりして罵り合っているのって、どこかおかしくないか。まるで誰も彼 もがワールド・ウォーZ(2013)の細菌にでも感染してしまったみたいである(笑)。というか、「ワールド・ウォーZ」の方がそんな現実のメタファーなのだろう。
 特にアメリカは他民族国家であり、元々が自己主張が強くないとやっていけないところと言われているから、その傾向が一際顕著なのではないか。日本みたいな本来はヌルい国でも昨今は炎上だらけのこのテイタラクなのだから、確かにあちらはもっとキツいだろう。
 そんなアメリカを舞台に、このような話を作るというのはどういうことなのか。実は本作の脚本・監督を手がけたマーティン・マクドナーはイギリス人であり、何とアメリカを舞台にアメリカ人の話を描いたこの作品は、イギリス資本による「純正イギリス映画」なのである。
 実はこの監督の前作にあたる映画を、僕はすでに見ているのだった。その名はセブン・サイコパス(2012)。ただ、見た時の印象はあまり芳しいものではなかったと記憶している。
 オフビートでブラックな笑いが全編に漂うような作品を期待して見に行ったのだが、今ひとつ笑いがはずまない。それどころか重要な登場人物のひとりである 主人公の友人が途中で「キャラ変」して、妙にシリアスめいて来るのに戸惑った。映画後半にベトナムの僧侶が平和のために焼身自殺する…というエピソードが 意味ありげに持ち出されるのも僕を当惑させた点で、何となく作り手が「非暴力」「平和主義」みたいなテーマを持ち出したがっているように思わされた。それ が、残念ながら今ひとつツボにハマっていない。少なくとも僕はそう感じた。
 ただし、ネット上にはこの作品を激賞する人々もいたので、単に僕がニブかっただけかもしれない。そもそも、「オフビートでブラックな笑いが全編に漂うような作品」という当初の見立て自体が間違っていたのかもしれないのだ。
 今になって考えてみると、「セブン・サイコパス」にはサム・ロックウェルウディ・ハレルソンアビー・コーニッシュ…という、本作に通じる役者たちが名を連ねている。しかも、物語の途中で「キャラ変」するのが実はサム・ロックウェルの役どころというところからして、本作とどこか地続き的なモノを感じさせる。まさに、本作の萌芽はすでに「セブン〜」にあったような気もしてくる
ではないか。今回は前作とは違って、一般人の共感のツボを探り当てられたのかもしれないのだ。
 偉そうなことを言いながら無知でまことに申し訳ないのだが、本作の監督マーティン・マクドナーは有名なイギリスの劇作家らしい。元々が手練の人なのだ。だとすると、今回はアホなアメリカの大衆に分かりやすくするため、ブラックユーモア味少なめ、シリアス増量に調合し直した可能性はある。その結果、ニブい僕にも本作の描きたかったことはちゃんと届いたのだろう。
 炎上流行りの昨今、本作劇中で見られるような「炎上」なら大いに喜ばしい。本気で僕はそう思っている。


 

 

 

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