「ロング、ロングバケーション」

  The Leisure Seeker

 (2018/03/12)



見る前の予想

 本作は、チラシを見て一発で見たいと思った。ヘレン・ミレンドナルド・サザーランドが老夫婦に扮して、人生の晩年にアメリカ横断の旅に出る話…らしい。
 …となれば、何となく面白そうではないか。特に注目したいのが、チラシのスチール写真を見る限りでは飄々とした表情を見せているサザーランド。こんなサザーランドが見たかった。「アウトブレイク」(1995)や「ディスクロージャー」(1996)などでワンパターンな悪役を演じてたサザーランドより、「スペースカウボーイ」(2000)で飄々とした味わいを見せるサザーランドが好きなのだ。こりゃあ楽しい映画になっているんじゃなかろうか。
 そんなサザーランドとヘレン・ミレンってのはちょっと変わった顔合わせだが、まぁ、そこは芸達者のヘレン・ミレンだ。難なく違和感なしにいい感じのコンビネーションを見せてくれるだろう。
 アカデミー賞ノミネートのガチガチな作品もそろそろ公開されているのに、そんな話題作群には目もくれず、僕は本作を上映中の劇場に駆け込んだ次第。


あらすじ

 時はドナルド・トランプの大統領選たけなわの頃。キャロル・キング「イッツ・トゥ・レイト」が流れるなか、中古品屋のピックアップトラックがボストン郊外の住宅地を走っている。
 クルマはある家の前で停まり、中から中年男ウィル(クリスチャン・マッケイ)が降りて来る。どうやらここはウィルの実家で、彼は両親を迎えに来たらし い。ウィルは両親を大声で呼びながら、家の中へズカズカと入って行く。だが…家の中に彼の両親の姿はない。異変に気づいたウィルが家から飛び出すと、隣に 住む老婆リリアン(ダナ・アイヴィ)が話しかけて来た。
 「朝早く、クルマで出かける音がしたわよ」
 しかし、ふたりのクルマは家の前に停まったまま。そこでピンと来たウィルが庭のガレージを見てみると、案の定、中身はカラッポ。そこには、長らく使っていなかったデカいキャンピング・カーがデ〜ンと鎮座していたはずであった…。
 その頃、ウィルの両親…ジョン(ドナルド・サザーランド)とエラ(ヘレン・ミレン)はそのキャンピング・カーに乗ってハイウェイを移動中だ。
 ハンドルを握るのは夫のジョンだが、実はアルツハイマー病のせいでかなり言動が怪しい。それでも助手席に座る妻のエラがナビゲートしてくれるので、無難にドライブができている。だが、そのエラもやたらにクスリに頼らねばならない、重い病いを抱えていた。
 そんなこんなしているうちに、ジョンがハンバーガーを食いたいと言い出したので、ファミレスに立ち寄ることにする。そのファミレスからエラが自宅に電話 してみると、家にはウィルとその姉ジェーンが来ていた。案の定、エラからの電話に大騒ぎするウィルだが、エラは慌てず騒がず「ちょっとした旅行に出た」とだけ告げる。
 確かに、それは「ちょっとした旅行」だ。今でこそ頭が緩くなったジョンだが、かつては大学教授としてアメリカ文学を教えていた。そんなジョンに、ご贔屓のヘミングウェイの生家を見せてあげたい…今回の旅の目的はそれだった。
 こうしてエラとジョンのふたりは、一路キーウェストにあるヘミングウェイの家をめざすのだったが…。


見た後での感想

 正直言って老いた母を持ち、自分もまたもう若くはない身となると、高齢者の話はまったく人ごとではない。そういう意味では気になる映画である。
 その前に、ヘレン・ミレンとドナルド・サザーランドという芸達者ふたりの共演が楽しそうだ。ハリウッド映画なら、きっと楽しくてじ〜んと来る映画に仕上げてくれるに違いない。僕は最初そう思ったのだった。だから、よく出来た舞台劇のようなウェルメイドなお話を想定していた。
 だが、その予想は大きくはずれていた。おまけにラストでは愕然とした。そもそも本作はハリウッド映画ではない。イタリアの監督パオロ・ヴィルズィが撮った、イタリア・フランス資本の映画だ。そこからして、当初考えていたような作品にはなりようがないのであった。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

決して「ウェルメイド」な作品になっていない

 本来ならば演技派スター二人を共演させてのこの手の作品は、ハリウッド映画の常道だ。
 例えば男女と男同士の差はあるが、ジャック・ニコルソンモーガン・フリーマン最高の人生の見つけ方(2007)みたいな、いわゆる熟達の脚本と演出によって芸達者が演じる「ウェルメイド」な映画を連想させる。まして本作はいわゆるロードムービーだから、それでなくてもハリウッド映画の典型になっていると予想してしまう。
 ところが、本作はそんな「ウェルメイド」な映画とは言い難い
 芸達者ふたりが味わい深くも楽しく演じているのは確かだが、肝心の脚本・演出にそんな手慣れた職人の手つきは感じられないのだ。むしろゴツゴツとした不 器用さが目立つ。ふたりのやりとりは実に楽しいのだが、お話の運び方はソツがないとは言えない。エピソードの羅列にしか見えず、それぞれのエピソードがう まく結びついてスムーズに話が運んでいくというカタチになっていかない。ハリウッドの脚本なら、もっとうまくエピソードを並べて話を盛り上げ、笑いと涙を バランス良く適度に散りばめることが出来たはずだ。本作は主演ふたりのおかげで見ている間ずっと楽しんでいられるが、そういう語り口の「うまさ」は感じられないのである。
 そういう意味では本作はやはり、いわゆる「ハリウッド映画」ではないのだろう。職人映画人による口当たりの良い「良質な商品」としての映画にはなっていないのだ。
 何しろ、エンディングではハリウッド映画だとほとんど考えにくい結末を迎えることになる。まるで日本人的なメンタリティーにすら思えるような、「欧米映画では極めて珍しい行為」を行う主人公に、僕も少なからず驚かされた。このように、本作がハリウッド映画らしからぬ佇まいになっているあたり…まさにイタリアの監督による作品だからなのであろうか。


アメリカン・ニューシネマの精神に殉じて

 先に「まるで日本人的なメンタリティー」と述べた結末だが、確かに最初見た時には僕も大いに戸惑った。そして、それはアメリカではなくイタリアの監督が撮ったからだろうか…などとも思ってみた。では、「そんな結末」を迎えるアメリカ映画は、今までまったくなかったのだろうか。
 本作を当惑しながら見終わった僕は、映画の冒頭を思い起こして「それ」に気づいた。
 映画の冒頭ではキャロル・キング1971年のヒット曲「イッツ・トゥー・レイト」が流れ、それとともにドナルド・トランプ大 統領選のニュースが聞こえて来る。前者は主人公たちの若かった時代を象徴していて、つまりは彼らがキャロル・キングを聞いているようなタイプの人たちだっ たことを現しているのだろう。後者のトランプ選挙戦は冒頭にチラリと出てきた後で、後になってボケたサザーランドがその選挙戦に巻き込まれるというエピ ソードで再度出て来る。劇中で2度も出て来るということは、トランプが出てきたのは偶然ではあり得ない。そしてそこでの夫婦のやりとりからも、彼らがトラ ンプのような政治家とは真逆の立場…あるいは反体制的な立場をとっていたことは明らかだ。
 そのあたりから、僕はハタと気がついたのだ。本作は「アメリカン・ニューシネマ」へのオマージュを狙ったのではないか…。
 アメリカン・ニューシネマは1960年代末期から1970年代初頭にかけて大流行した、アメリカ映画の一大潮流だった。作品名を挙げれば…「俺たちに明日はない」(1967)、「イージー・ライダー」(1969)、「明日に向って撃て!」(1969)、「マッシュ」(1970)、「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970)、「バニシング・ポイント」(1971)…などなど、作品系統も題材もバラバラだし、どこまでを「ニュー・シネマ」の範疇に入れるべきかはあいまいだが、当時のアメリカ映画のひとつの流れとしてそれらは確実に存在していた。
 実は僕も年齢的にこれらをリアルタイムで見た訳ではないので、あまり偉そうなことは言えない。だが、子供なりに新聞広告やら世間の評判に触れ、さらには後日テレビで実際の作品を見ることにより、それらの作品群の醸し出す雰囲気みたいなものを敏感に感じ取ってはいた。
 それらを乱暴に何かの要素で括ってみるなら、反体制的な傾向の作品であり、ロック・ミュージックとのつながりが顕著な映画だと言えるだろう。また、エンディングで主人公たちが破滅的な末路を辿る作品が多いのも特徴で、それが従来のハッピーエンディング主流のハリウッド映画とは一線を画していた。しかも特筆すべきは、多くの作品でそうした「破滅的な末路」が「自滅」として描かれていることである。主人公たちはしばしば自ら死に赴くか、あるいはそうなるしかない運命を選択する。しかも、その最後は悲劇的に描かれるというより、ある種のカタルシスを持っていることが多い。ハッキリ言って、イマドキのハリウッド映画では望むべくもない作品群だ。それらがアメリカ映画の主流を担っていた時期が、かつて間違いなく存在していたのである。
 ここまで言えばお分かりだろう。本作の結末は、先に述べた「まるで日本人的なメンタリティー」というより、おそらく「アメリカン・ニューシネマ」を意識したものだと思われるのである。
 主人公たちが旅を続けていく終点に「死」が待っているというのは、「アメリカン・ニューシネマ」のお約束。その最後も「悲劇」というよりは、一種のカタ ルシスを持って描かれる。そこにトランプへの皮肉が盛り込まれるのも、反体制的な「ニューシネマ」たる所以である。そう考えてみると主人公夫婦の夫にドナ ルド・サザーランドが起用されたのも納得で、彼は「ニューシネマ」のひとつである「マッシュ」(この作品をアメリカン・ニューシネマの範疇に入れることに ついては異論もあるだろうが、同時代的な新しいタイプの映画であったことは間違いない)で売り出したスターであり、実はかつてジェーン・フォンダと恋仲で一緒に反戦活動をしていたガチガチの反体制派だったのである。
 で、ここからは僕の妄想である。
 本作のキャスティング、当初はこのサザーランドとジェーン・フォンダの共演で構想されたのではなかったか。
 そもそも、サザーランドとヘレン・ミレンというカップリングは、「ちょっと違和感漂う」キャスティングではないか。正直言って、僕はこのふたりの共演…という発想はまったくなかった。決して合わない訳ではないが、これまで共演しそうな気配もなかったふたりなのだ。このあたりの感覚は理屈ではない。
 一方、サザーランドとフォンダなら、元々がカップルだったふたりで反体制バリバリ。しかもフォンダはかつてロジェ・ヴァディムのお相手で「バーバレラ」(1967)などに出ており、近年はみんなで一緒に暮らしたら(2011)や「グランドフィナーレ」(2015)などヨーロッパ映画への出演が相次ぎ、本作のようなイタリア映画出演へのハードルがますます下がっていた(ついでに言うと、前者の「みんなで〜」はやはり高齢者問題を扱った作品だった)。フェリーニ「カサノバ」(1976)やベルトルッチ「1900年」(1976)などのイタリア映画にも出ているサザーランドとも釣り合っている。いろいろな意味でベスト・マッチングだったはずだ。
 しかし…さすがに元・恋人だったフォンダに蹴られた結果、フォンダとも通じる硬質な持ち味とこの年齢で主演を張れる
スターということから、ヘレン・ミレンにお鉢が回って来たと考えるべきではないのか。僕はどうしてもそのように思われてならない。だけど、所詮はイギリス女優のヘレン・ミレンじゃ、ちょっと違うんだよなぁ。
 本作はイタリアの監督による「アメリカン・ニューシネマ」への憧れを込めただけでなく、トランプ時代を迎えた今、かつては「アメリカン・ニューシネマ」 のような作品群を生み出す土壌があったアメリカへの思いを吐露した作品ということなのではないだろうか。まるで夏目漱石の「こころ」の主人公が最後に「明 治の精神に殉死」したように、主人公ふたりは「アメリカン・ニューシネマ」を育んだかつてのアメリカの反体制精神に殉じる…と考えれば、このラストは自然ではないか。
 だから、もし仮にジェーン・フォンダが出演していたら、ラストも含めて感慨深くストレートに「分かる」映画になったんじゃないだろうか。僕にはそう思えてならないのだ。

 

 

 

 to : Review 2018

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME