新作映画1000本ノック 2017年12月

Knocking on Movie Heven's Door


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 「ジャスティス・リーグ」 「人生はシネマティック」  「ブレードランナー2049」 「セントラル・インテリジェンス」 「マイティ・ソー/バトルロイヤル」  「ポルト」 「オペレーション・クロマイト」  「ダンケルク」 「ワンダーウーマン」
 

「ジャスティス・リーグ」

 Justice League

Date:2017 / 12 / 25

みるまえ

 正直言って、この映画はヤバいと思っていた。マーベルの「アベンジャーズ」 (2012)の向こうを張って、DCコミックスのヒーローたちをかき集めてのオールスター映画。しかし、マーベルがいろんなヒーロー映画を数珠つなぎにし て見せていく「なんちゃらユニバース」という連作がうまくいっちゃったもんだから、あっちこっちで調子に乗って「ユニバース」ものを大量生産。「キングコング/髑髏島の巨神」(2017)見たら、どうやらハリウッド・リメイク版「ゴジラ」(2014)に始まる「怪獣ユニバース」やろうとしているみたいだし、老舗「スター・ウォーズ」も外伝「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」(2016)まで始めて「ユニバース」もどきになりつつある。だが、そうはうまい話ばかり転がっていない。ユニバーサルが自社のモンスター映画資産を使って無理矢理ユニバース化しようとした第1弾の「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」(2017)は大コケして、早くも先行き不透明になってしまったようなことを聞く。実はDCコミックスの「ユニバース」も結構危うくて、「それ」らしくなってきた「バットマンvsスーパーマン/ジャスティスの誕生」(2016)は、内容的にも成績的にもかなり苦しい展開になっていた。そもそも、ワーナー=DCのアメコミ映画は「暗く」て「重い」。それは例の「ダークナイト」(2008)がバカ当たりしてしまったことからずっと引きずっているところもあるんだろうし、今回の路線を「マン・オブ・スティール」(2013)から始めた時に、重苦しくてアクが強いザック・スナイダーを起用してしまったのが運の尽きだったと思う。何しろ、「300」(2006)や「ウォッチメン」(2009)の彼である。濃くなるのは仕方がない。「エンジェル・ウォーズ」 (2011)など決してキライじゃないが、この人の映画は万人向けとは言い難い。だから、実はこういう作品には本当は向いていないんじゃないかと内心思っ ていたのだ。案の定、「バットマンvsスーパーマン」は内容が破綻していた。元々この人は構成力がある人ではない。こうなることは目に見えていたかもしれ ない。しかも、先行するマーベルがあまりにうまくいっているのをうらやんでか、性急に事を運ぼうとし過ぎているような印象も受けた。すなわち、ロクに単品 ヒーロー映画も出来ていないのに、慌てて「アベンジャーズ」みたいにやろうと焦り過ぎているように思えたのだ。だから、早速次の「ジャスティス・リーグ」 の制作が話題に上り始めると、たちまちイヤ〜な予感がしてくる。「アベンジャーズ」ではあのオールスター映画を撮るまでに、いくつものヒーロー・スターの 映画を単品で作り、それぞれ実績を挙げていた。だが、「ジャスティス・リーグ」の話が出始めた時には、スーパーマンの映画しかなかった。バットマンですら ベン・アフレックになってからの単品映画はなかった。おまけにそのスーパーマンは「バットマンvsスーパーマン」の中で死んだことになっている。これはキ ツい。それでもこいつらとワンダーウーマンあたりは知名度があるからいいが、残りの3人ぐらいはまったくの雑魚キャラにしか見えない。「バットマンvs スーパーマン」でチラチラッと出て来たのを見ても、「何だか華がねぇなぁ」とガッカリ感しかなかった。そりゃ単品映画を作ってないなら、そうなるわな。た だ、仮に単品作ったところで当たりそうもない連中なのがイタいところだ。だが、そんな最中にアッと驚く大逆転劇が起きた。「ワンダーウーマン」 (2017)の大ヒットである。考えてみれば、DCの「ユニバース」ものでは初のスカッとした大成功かもしれない。これは波に乗れるかも…と思っていた ら…。何と監督のザック・スナイダーが「家庭の不幸」によって降板。DC映画をここまで牽引して来た男が、満を持した作品の完成を前にしてリタイアであ る。つくづくDC映画は「運がない」なと思っていたが、何と後任の監督には、まさかの「アベンジャーズ」監督ジョス・ウェドンだというから二度ビックリ だ。ホークスの監督に王が就任した時だって、こんなに驚きはしなかった(笑)。ただ、ついこないだまでマーベルで撮っていた奴が、いきなりこの重苦しい DC映画を任されてもどうなんだろう。しかも、すでにかなりの部分を撮ってしまっていたと聞いて、こんな人選はかえって水と油みたいになるんじゃないかと 悪い予感しかしない。しかも、いざ劇場に予告編がかかり始めてみると、ビートルズの「カム・トゥゲザー」のハード・ロック版みたいな歌が流れちゃって「ア レレ」な気分になってしまう。ヒーローたちを「一緒にやろうぜ」と集めるから「カム・トゥゲザー」…って、何だか分かりやす過ぎる発想で、ちょっと恥ずか しい。日本の宣伝コピーも、「この映画、超人だらけ。」「オンリーワンが集まれば、世界も救える。」…と、かなり投げやりである。そもそも、「この映画、 超人だらけ。」って、「アベンジャーズ」の方がよっぽど「超人だらけ」やおまへんか。正直言って「アベンジャーズ」はマーベル映画の中でもちょっと退屈な 映画だし、ここんとこの作品ではお話もかなり雲行きが怪しい感じだったが、それでもDCの本作ほどは危なっかしい感じはしなかった。まぁ、そもそもマンガ が元ネタの映画があまりに多過ぎるんだけどねぇ。果たして結果はどうなんだ?…とかなり心配になって来た僕は、仕事が一段落したあたりで慌てて映画館へと 足を運んだのだった。

ないよう

  子供がスマホで撮影した動画に、事故現場で救助にあたるスーパーマン(ヘンリー・カヴィル)の姿が捉えられている。撮影している子供たちは、「胸のSの字 はどんな意味?」などとその場でズケズケとスーパーマンに質問を投げかける。そんなアホな質問の締めくくりに、スーパーマンにこんな質問もぶつけるのだっ た。「地球では一番何が好き?」…。だが、スーパーマンはもういない。あの激しい戦いの末に、命を落としてしまった。そんなスーパーマンの死が影響したの か、世の中はさらに悪がはびころうとしていた。ここゴッサムシティでも、真夜中に押し込み強盗を働く不届き者が後を断たない。そんな強盗のひとりがビルの 窓から姿を現わしてみると…待ち構えていたのはコウモリ姿の男バットマン(ベン・アフレック)である。バットマンは強盗を難なく捕らえると、何を考えたか ロープでビルの屋上から下に逆さまに吊るす。「一体どうする気だ?」「人の恐怖に寄って来るヤツがいてね」…そんなやりとりが終わる間もなく、吊るした強 盗目がけて飛んで来たのが、背中に羽根のついたケッタイな化け物…パラデーモンである。こいつは強盗ほどラクな相手ではなく、散々手こずりながらもバット マンは網で何とか捕獲。しかし次の瞬間、こいつは爆発して姿を消してしまう。「今のを見たか?」とバットマンは執事のアルフレッドに言う。モニターを通し て一部始終を見ていたアルフレッド(ジェレミー・アイアンズ)は、パラデーモンが各地に出没していることをバットマンに告げた。バットマンもこいつらの目 的が薄々分かっていた。「奴らは斥候だ」…それは、近々地球に新たな危機が訪れることを意味していた。ならば、急がねばならない。スーパーマンなき後、地 球の安全は手薄になっていたのだ。そんなバットマンの杞憂を裏書きするように、世界各地で不穏な動きが起きていた。ロンドンでも銀行にテロリスト集団が押 し入り、爆弾を仕掛けて人質を次々殺そうとしていた。ところがそこに扉をブチ破って現れたのが、最強の女ワンダーウーマン(ガル・ガドット)。彼女は人質 の命を救いつつ悪漢を倒し、なおかつ爆弾の爆発を未然に防ぐという難事を一瞬にして成し遂げた。だが、このテロリストたちの背後には、一体何があったの か? 一方、バットマンことブルース・ウェインは、アイスランドの海辺の村にやって来た。そこで村人たちを集めて、海からやって来る不思議な男についての 情報を求めた。「カネを払ってもいい」と頼み込むウェインだったが、村人たちは誰も相手にしない。そのうち、そこで話している逞しい男こそ目当ての男と気 づいたウェインは、彼に協力を求めた。だが、この男はウェインの胸ぐらを掴んで脅すと、そのまま外に出て行ってしまう。ウェインが説得するのも聞かず、彼 の目の前でそのまま海の中へと消えてしまうのだった。この男こそ、海底のアトランティスの王族の末裔であるアクアマン(ジェイソン・モモア)だったのだ が…。ウェインは次の候補をアルフレッドと検討。ひとりはアメフト選手だったビクター・ストーンという人物だったが、記録ではすでに死亡しているはず。も うひとりはバリー・アレンという若者である。バリー・アレン(エズラ・ミラー)は父親が無実の妻殺しの罪で投獄され、日々その父の境遇を思い悩んでいた。 また、ビクター・ストーン(レイ・ストーン)は事故で死亡したことになっていたが、実は父親(ジョー・モートン)がカラダの一部を機械にして、自らのア パートに秘かに匿っていた。だが、サイボーグ化した彼は日々カラダがアップデートしており、自らがどんどん機械化されていくことに恐怖を感じていた。その サイボーグことビクターは、ネットを介した情報でブルース・ウェインが自分を探していることを知る。その頃、アマゾン族が暮らすワンダーウーマンのふるさ とセミスキラ島では、異常事態が起きていた。島で厳重に保管していた宝物のひとつであるキューブが、突如激しい反応をし始めたのだ。宝物殿の奥深くで女兵 士たちが包囲するなか、激しく光るキューブ。女王ヒッポリタ(コニー・ニールセン)らが見守るうちに、キューブに強烈な光が降り注ぐ。その光の中から現れ たのは…異様なツノを頭から生やした大男ステッペンウルフ(キーラン・ハインズ)。ヒッポリタたちは、こいつが何者かをよく知っていた。地球を制圧し、そ こを忌まわしい災いの場所へと作り替えようというのが、ステッペンウルフの目的である。そのためには、このキューブが必要だ。ステッペンウルフの目的を察 知したヒッポリタは、一瞬早くキューブを持って宝物殿を逃げ出す。そして衛兵たちと馬で走り去りながら、キューブを安全な場所に持ち去ろうとした。だが、 ステッペンウルフとその手下であるパラデーモンたちからは、そうそう逃げ切れる訳ではない。結局多大な犠牲を払いながらも、キューブはステッペンウルフの 手の内に落ちてしまった。ヒッポリタはこの事実に衝撃を受けながら、火のついた矢を射て狼煙を上げ、人間社会に危機を知らせようとした。「人間が分かるで しょうか、もう5千年もこの方法を用いていませんが…」と心配する側近に、ヒッポリタはこう語るのだった。「あの娘に知らせるのよ」…。その頃、パリの ルーブルで遺物の修復作業に携わっていたワンダーウーマンことダイアナは、テレビでギリシャの神殿に突如ナゾの炎が燃え上がったというニュースを見て、た ちまち事態を掌握した。ブルース・ウェイン邸地下のバットマン基地を突如訪れたダイアナは、ウェインに例のキューブが奪われたことを告げる。その由来は、 長い長い物語だ。太古の地球にも、ステッペンウルフは侵略を仕掛けていた。その力の源となったのがキューブである。キューブは全部で3つあり、これらが合 体することで最大限の力を発揮する。その時には人類、アトランティス、アマゾン族が力を合わせて撃退し、3つのキューブを引き離してそれぞれの種族が保管 することとした。だが現在、人類は頼りなく、アトランティス、アマゾン族が力を合わせるはずもない。しかも、アマゾン族のキューブはすでに奪われてしまっ た。やはりウェインやダイアナは、他の超人たちと力を合わせて戦うしかないのだ。折りから、バリー・アレンの住処が見つかったとの知らせに、ウェインが早 速スカウトに出向くことになる。バリーの住処に先回りして待っていたウェインは、そこで彼の瞬間移動の素早さを目の当たりにすることになる。バリーもウェ インの申し出を快諾。彼はすでに自らの能力を活かして、フラッシュという超人としての行動を始めていたのだ。一方、ダイアナもパソコンに侵入して来たサイ ボーグことビクターからのメッセージを受けて、夜の街で彼と出会うことになる。だが、せっかく会えた彼はダイアナからのスカウトの話を拒否し、再び何処か へ去ってしまうのだった。一方、アクアマンが海底のアトランティスの国に戻ってみると、ちょうどステッペンウルフが2つ目のキューブを奪う場面に遭遇。自 らはステッペンウルフに叩きのめされて、キューブも奪われてしまう。また、サイボーグことビクターの父も、いきなりアパートに現れたパラデーモンにさらわ れてしまった。例のステッペンウルフはロシア国内の廃炉となった原発を拠点に、地球侵略の計画を着々と進めていたのだ。パラデーモンによる誘拐が相次ぐ 中、危機感を募らせたゴッサム市警のゴードン警部(J・K・シモンズ)は、市警ビルの屋上からライトで空にバットシグナルの信号を送る。それを見たバット マン、ワンダーウーマン、フラッシュ、そしてビクターことサイボーグは、ゴードン警部の前に集結した。地球を守る超人たちの戦いが、今、始まろうとしてい た…。

みたあと
 この感 想文の冒頭にも述べたように、DCコミックスの映画化…わけても「なんちゃらユニバース」を始めてからの経緯には、ちょっとした悲劇的なモノを感じる。後 発の悲しさで慌ただしくユニバース化してはみたものの、何となくうまくいっていない。やっと「ワンダーウーマン」で軌道に乗ってきたと思ったら、「ユニ バース」本格始動の本作でまさか監督降板という運のなさ。それを「アベンジャーズ」監督で何とか乗り切ったと思いきや、今度はハリウッドを覆い尽くしたセ クハラ告発の大嵐。バットマン役のベン・アフレック自身もセクハラで突き上げをくう始末だ。いやもう、これってどうするつもりなんだろう。ベン・アフレッ クも降ろせって話になりはしないか。ワンダーウーマンのガル・ガドットは、こいつに限っては見て見ぬフリをするのか。そんなこんなで、DCの映画化には何 となく運のなさを感じていた訳だ。おまけに…繰り返すようで恐縮だが、雑魚キャラばかりいてパッとしないし、ヒーローのコマの数も圧倒的に少ないし…で、 どう考えてもこりゃうまくいきっこないと決めつけていた。順調にいっているマーベルだって、ぶっちゃけ「アベンジャーズ」ってあんまり面白くない。だから DCの「ジャスティス・リーグ」は、どう考えてもそれよりつまんなくなる予感しかしない。ここまでは感想文冒頭でも言っていた通り。ハッキリ言って見る前 の印象は最悪だった訳だが、では実際に見てみた結果はどうなのか? …これが意外なことに、結構面白いのである。これだから映画ってのは分からないものな のだが、マーベルの「アベンジャーズ」より僕は気に入ったかも。しかし、何でまた見る前の予想はかくも激しく覆ったのか?

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  ただし最初に断っておかねばならないが、本作だって決して完璧に素晴らしい作品であるとは言い難い。実際のところは、本作も脚本の穴がそこらじゅうにあ る。まず、冒頭すぐのワンダーウーマン大活躍場面は話の本筋とは関連が薄く、少々とって付けたような印象がある。ヒーローたちがドタバタしている間に3つ 目のキューブが悪漢に奪われてしまうあたりも、あれだけヒーローが雁首揃えていながらあまりに間抜け過ぎる。悪漢がまたまた「大魔王」みたいな奴っての も、幼稚過ぎていささかシラケる。「マイティ・ソー/バトルロイヤル」 (2017)なんかのラスボスと見分けがつかないのだ。そして、そもそも最終的にある人物が出て来て圧倒的に強さを発揮しちゃうのなら、わざわざチームな んか組む必然性がない。この最後の要素なんて、本作の存在意義そのものを脅かしかねない部分である。そういう意味では、相変わらずDC映画にはいささか脆 弱で杜撰な部分がある。これはどうしたって見過ごせない点だ。

みどころ

 確かに本作には僕が先に述べたように、穴がいくつも見え隠れしている。だが、それをある程度は覆い隠せるぐらいに、今までにない美点も見受けられるの だ。「マン・オブ・スティール」以来続いて来たザック・スナイダーによるDC映画は、ずっと「お通夜」みたいなモノを見せられているようでイマイチ気分が 良くなかった。ノーランによるバットマン映画の影響もあるんだろうが、アクションの見せ場も単調だし、暗いばかりでユウウツになる作品が多かった。それが 今回は、ひと味違ってユーモア増量。ベン・アフレックのバットマンまでジョークを言う。中盤でトンデモない展開になってきた際に、まるでホラー映画みたい な場面設定になって、フラッシュから「ペット・セメタリー」云々というセリフが出て来たあたりでは思わず笑ってしまったほどだ。DC映画を見ていて、こん なに「楽しく」思ったのは初めてかもしれない。これが良かった点だということは、映画を見た誰しもが認めるところだろう。そして、登場するヒーローたちの ほとんど全員が問題のある人物というのも、見ている側としては共感しやすいのかもしれない。その「問題」も、大体がコミュニケーション不全というのが興味 深い。そもそもバットマン自体、リーダー格として振る舞っているものの、人徳も統率力も欠けている。ヒーローの話のくせに、妙に人間臭いのがおかしいので ある。だから彼らがチームとして活動を始めることが、彼ら自身の人間性回復にもつながってくるようで、見ていて微笑ましい。紅一点のワンダーウーマンが、 いつの間にか一同を暖かく見守る相撲部屋の女将みたいになってくるあたりも笑えるのだ。こっちの相撲界とはえらい違いだよ(笑)。元々大味で退屈だった マーベルの「アベンジャーズ」が、最近になってきて内紛でギスギスして深刻になっちゃっているのとは対照的だ。それがリアリティだというのかもしれない が、正直言って僕はマンガの映画化ごときにそんなものをまったく期待していない。まして、立派で偉そうな奴らの内輪揉めなど、カネを払って貴重な時間を割 いてまで見たい訳がない。だから、僕は本作を大いに好ましく思った。おそらくはザック・スナイダーの降板が映画にいい影響を与えたのではないか…と言わざ るを得ない。本作に限ってこれほど新たなテイストに変わった理由が、他に考えられないからだ。それってやはり、ジョス・ウェドン投入の効果が出たのだろ う。これについてはDC映画がマーベルみたいになっちゃうのではないかと案ずる向きもあるようだが、元々の「暗さ」「クセ」はまだまだ残っていて、それが ちゃんと特色になっている。今までが、「クセ」があまりに強過ぎたのだ。今回はそれがちょうどいい具合に中和したと見るべきだろう。また、僕が最初から完 全に「雑魚キャラ」扱いしていたフラッシュ、アクアマン、サイボーグといったキャラクターが、実はメインのバットマンやワンダーウーマンより面白さを出し ていたのも嬉しい誤算だった。今まで見ていなかっただけに、フレッシュな意外性の面白さにつながったのかもしれない。映画は見るまでは分からないというの を、今回ばかりは本当に痛感した。先にも述べたように…この調子を維持できるなら、僕は「アベンジャーズ」よりこっちの方が好きかもしれない。こっちの方 が立派過ぎないし、親しみやすさや人なつっこさを感じる。映画としてもヒーローたちのキャラクターとしても、こっちの方が愛嬌を感じるからである。

さいごのひとこと

 期待値ゼロの伏兵ヒーローが大活躍。

 

「人生はシネマティック」

 Their Finest

Date:2017 / 12 / 25

みるまえ

  「人生はシネマティック」とは何ともお寒いタイトルではあるが、映画づくりに関する映画だと聞けば、僕は黙っていられない。そもそも、映画づくりに関する 映画には傑作佳作が多い。ある映画館でチラシを見た時から、「こりゃ見なくちゃ」と思った訳だ。しかも僕の大好きなビル・ナイが出てる。「ラブ・アクチュアリー」(2003)の落ち目のロックシンガーみたいな役をやらせりゃピカイチの彼だから、今回もイイ味出してくれるんじゃないだろうか。主役はジェマ・アータートン…って何となく聞いたことあるんだけど、顔がパッと浮かんで来ない。そういや「007/慰めの報酬」(2009)、「タイタンの戦い」(2010)、「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」(2010)、「ハッピーボイス・キラー」 (2014)…と、出演作はやたら見ているのに全然イメージがわかない。監督のロネ・シェルフィグもどんな人だか頭に浮かんで来ない。もう最近の新しい人 はまるで分からないからなぁ…。でも、戦時中のイギリスで戦意高揚のためにダンケルクの話を映画にするという物語は、クリストファー・ノーランの「ダンケルク」(2017)公開直後の今ならタイムリーだ。ここんとこ面白そうな映画を軒並み見逃したこともあるので、今回は終わる前に見なけりゃ…と慌てて映画館に駆け込んだ。

ないよう

 1940 年、ロンドン。ドイツ軍の空爆が日常化して破壊された建物が街中に点在していても、人々の生活はいつものように営まれている。殺伐とした日々の娯楽として は、やはり映画が一番だ。こんな時だからこそ、みんな映画館へと詰めかける。スクリーンに映し出されているのは、いわゆる戦意高揚のためのプロパガンダ映 画だ。銃後を守る女性たちが軍需工場で弾丸製造に従事している姿を描く作品だが、突如翌朝まで銃弾100万発が必要となって、彼女たちが根性でやり遂げる というお話。さすがに無茶な話で、観客はいささかシラケ気味だ。そんな反応を劇場で観察しているひとりの若い男…情報省映画局の特別顧問バックリー(サ ム・クラフリン)は、この様子を上の人間たちに報告。彼らもこの出来映えに苦言を呈するアリサマだ。これじゃ「戦意高揚」にならないという訳だ。彼らいわ く、「必要なのは信憑性と楽観」とのことである。この言葉を受けて、バックリーは新たな戦意高揚映画を作るべく動き出す。その頃、ある若い女が情報省映画 部にやってくる。その女の名はカトリン(ジェマ・アータートン)。彼女はコピーライターの秘書をやっていた。だがそのコピーライターが徴兵され、代りに書 いた宣伝コピーが好評。それが情報省映画部の目に留まり、招聘されたというわけだ。何とバックリーは、カトリンをシナリオライター・チームの一員として起 用しようとしていたのである。バックリーのいささか傲慢な振る舞いに戸惑ったものの、「これはチャンス」とカトリンは脚本執筆の話に飛びつく。実際のとこ ろ、カトリンにはそうするだけの理由があった。彼女は「人妻」だった。小さなアパートで、画家の夫エリス(ジャック・ヒューストン)とつましい暮らしをし ていたのだ。エリスはスペイン戦争で負傷したため、徴兵はされずに画家を続けて、空襲監視員として戦争に協力している。だが彼の絵はイマイチ受けが悪く、 生活は苦しい。結局、カトリンの稼ぎに頼らざるを得ない。ここは何としても、脚本の仕事で頑張るしかないカトリンだった。さて、意気揚々と出勤してきたカ トリンは、まず狭苦しく汚い仕事場に居場所を作るのに悪戦苦闘。先が大いに思いやられる状況だったが、やる気はマンマンだ。彼女たちが作ることになったの は、ダンケルクからの兵士の救出を題材にした映画。兵士たちを船で救いに行った民間人の中に双子の姉妹がいた…という新聞記事がネタになりそうということ で、早速、カトリンが本人に取材に行くことになる。ところが彼女たちのアパートに行ったカトリンは、最初から大いに当惑させられてしまう。双子の姉妹はや たらに用心深く、カトリンがマスコミでないことを確認してやっと部屋に上げてくれるというアリサマ。実は新聞記事はかなり「盛った」内容で、彼女たちは大 変迷惑しているというのだ。実は彼女たちの船は途中でエンコして、ダンケルクまでは行けなかった。戻って来た船があまりに多くの兵士を乗せていたために、 その一部を自分たちの船に乗せて来ただけだというのである。ただ、彼女たちが語ってくれた兵士たちのエピソードは、それなりに面白く感じられた。また、彼 女たちがやたらに父親に怯えていたことも、カトリンの心に残った。地味で控えめな彼女たちのためにも、この話に日の目を見せたい。カトリンはあえて「盛っ ている」部分には目をつぶって、企画会議で双子の姉妹のエピソードを披露する。その場の一同も、この企画に大いに賛同した。こうして、「ダンケルク」の映 画企画は本格的に始動することになる。カトリンはバックリーやベテラン脚本家パーフィット(ポール・リッター)とともに、シナリオづくりに乗り出した。と ころがそんなある日、彼らはいきなり情報省のフィル・ムーア女史(レイチェル・スターリング)から呼び出されてしまう。何と姉妹の船がエンジントラブルに 見舞われるという設定が、英国の機械の技術力にケチをつけてしまうというダメ出しだったのだ。早速、脚本を直さねばならない。仕方ない、スクリューに何か 挟まったことにしろ…というような案配で、彼らは降り掛かった難問を解決した。シナリオライター・チームに徐々にコンビネーションの良さが出て来た。しか しその問題は、「ダンケルク」企画実現の前に立ちはだかるさまざまなトラブルの、ほんの序の口に過ぎなかったのだ…。

みたあと
  映画製作のトラブルの「ほんの序の口」などと書いているが、ここまでのストーリー紹介も「ほんの序の口」。何より本作の重要人物である、かつてのスター俳 優アンブローズ(ビル・ナイ)がまだ登場していない。だが、本作の設定は一応これで紹介出来ていると思うので、ここまでで切り上げさせていただいた。冒頭 にも述べたように、本作はいわゆる「映画づくりに関する映画」の典型。数々の襲いかかる難問を次々切り抜けて、映画の完成まで漕ぎ着けるお話だ。フランソ ワ・トリュフォーの「アメリカの夜」(1973)に代表されるような作品である。だが本作がちょっとひと味違うとすれば、戦時中の戦意高揚映画製作の話で あるところだろうか。これによって、映画づくりに襲いかかって来るトラブルの内容が、大きく変わってくる。そもそも、ヒロインが映画づくりに関わるキッカ ケが戦争なのである。本作は「素人」だったヒロインが映画づくりに関わっていくにつれて成長していく…という、一種のフェミニズム映画でもある。だが、そ の種の映画にありがちなイヤミがないのは、ひとえにヒロインのキャラクター(そして演じるジェマ・アータートンの演技や個性)、そして戦時中の「非常時」 であるという設定によるものだろう。男たちが戦争に駆り出されていなくなれば、女たちが社会進出せざるを得ないからである。これは元々の原作小説をホメる べきだろうが、うまいところに目をつけたものである。こうして冒頭から「大いに期待出来る」と思わされた本作、僕はワクワクしながら話の続きを見続けたの だが…。

こうすれば

 映画を見始めて間もなく、僕も含めた観客は、ヒロインであるカトリンとその上司であるバックリーとのロマンスが本作のもうひとつの中心である…と気づき 始める。本来だったら、共同作業をしていく男女がぶつかり合いながらも惹かれていく…という設定は、見ていて大変好ましく感じられるはずだ。まして、ヒロ インを演じるジェマ・アータートンは大変好感度が高い。観客はヒロインの仕事での活躍とともに、そのロマンスの進展も応援したくなるはずである。だが、本 作ではそこに微妙な要素が絡まって来る。もちろん、映画のもうひとつの中心がロマンスならば、そこに数々の障害が立ちはだからねば映画ではない。それをど うやって乗り越えるかが面白味になっていくはずだからである。だが本作では、ヒロインの設定にいささか微妙な問題がある。このヒロインは、登場した時から 「人妻」なのである。もちろん、映画には「不倫」でロマンスを成就させるヒロインだっている。それを「肯定的」に描くテクニックだってある。だがいかんせ ん、好感度の高い頑張るヒロインに「不倫」をさせて、なおかつそれを観客に共感させるというのは、さすがに至難の業だろう。相当、ヒロインの夫をネガティ ブに、反対にロマンスに落ちる相手をポジティブに、無理矢理描かなければうまくいかない。いや、実はそうやったところで無理矢理感が強くて、おそらくうま くはいかないだろう。案の定、本作ではヒロインの夫にネガティブ要素を散りばめる。戦争で負傷して出征できない。戦時下でみんな大変な中で絵描きをしてい るが、その腕もいささか怪しい。甲斐性がなくてヒロインの稼ぎに頼るヒモ体質…ハッキリ言って、ロクな男じゃない要素満載である。しまいには頑張るヒロイ ンに隠れて浮気をする不届き者と断罪されるアリサマだ。そりゃあ、ヒロインを評価する「出来る男」の方がいいに決まっている…。ちょっと待っていただきた い。確かに本作ではヒロインの亭主はネガティブ要素満載に描かれてはいるが、仔細に点検してみると「浮気」以外は何も悪いことはしていない。ネガティブな 状況になったのも本人のせいとはいえない。おまけに、ヒロインも実はこの段階では半分以上「映画の彼」の方に心を奪われていて、亭主の浮気で「渡りに船」 とばかりに別れてしまうのである。「別れたのは自分のせいではない!」と言わんばかりである。ちょっとどうなんだろう、これは。映画の作り手も最初からこ の亭主を「退場」させたくて仕方がないみたいで、悪く見せる気マンマン。さすがにこれはわざとらし過ぎるのではないか? しかも、一方の「映画の彼」バッ クリーは典型的な「白馬の王子様』的描き方をされてはいるが、実際にはそうは見えてない。演じているサム・クラフリンは一応イケメン的扱いはされているも のの、あまり好感が持てる役者ではないし、映画の中でも必ずしもそう描かれていない。隙あらば人妻を食べちゃおうとしている「色悪」のように、見ようと思 えば見れなくもない。女から見ると素敵なのかもしれないが、少なくともあまり同性から共感されるタイプの男優ではないのである。いくらフェミニズムをうた う女性観客メインの映画だとしても、これはちょっと無理があるのではないか。そもそもこんなに亭主をサゲまくって一方の相手を持ち上げる手口が、あまりに わざとらしくてイヤ〜な気分になってくる。ヒロインと映画製作に関わるお話はとても楽しいだけに、ロマンスが余計な要素で不快な気分になって来るのだ。し かも、予定調和的に都合良く亭主が浮気。ヒロインが乗り換える絶好の理由まででき上がるという案配。「映画の彼」が変なツンデレの口説き方をするからヒロ インもサッサと乗り換えられなかったものの、どうせこいつらすぐにくっつくんだろ…とシラケた気分になって来る。こんなに感じのいい映画なのに、なぜこの ロマンスだけがこんな稚拙な作り方なのだろう…と、さすがに困惑しながら見ていた僕だったが…。
ここからは映画を見てから!

みどころ

 案の定、ヒロインと「映画の彼」がくっついて、めで たしめでたし。僕が一番シラケる結末になったな…と思い始めたとたん、お話はとんでもない方向に行ってしまう。ハッキリ言うと、ここで本作に起きる「事 件」は、わざとらしいといえばわざとらしい。本来でいえば作り物っぽくて見ていられない。だが、観客はそれまで少々不快なロマンスの成りゆきをずっと見せ られていて、それだけが楽しく面白い本作の汚点だと思わされている。少なくとも僕はそうだった。だから唐突に「それ」が起きても、むしろそれまでのわざと らしさと不快感が強かったので、一種のカタルシスのように受け止めてしまった。あまり好感を持っていない人物の退場であり、なおかつその人物ばかりがいい 目を見るような展開になりそうだったから、それを断ち切るような「事件」の発生はこちらとしてはオッケー。わざとらしかろうが何だろうが、むしろウェルカ ムだ。だから、自然とそのアラにも目をつぶってしまうのである。これは何とも不思議な効果だ。つまり、実はどちらも「当て馬」というか「噛ませ犬」だった のである。作り手としては、本当はロマンスなんてどうでも良かった訳だ。お話はそのままヒロインの失意のドン底〜完成した作品を見ての再起…へと力づくで なだれ込んでいくから、その頃にはヒロインを巡る不快な三角関係なんて見ている側は忘れている(笑)。極めてアクロバティックな力業で、強引にカタルシス を作ってしまう馬鹿力演出なのである。ちょっとこれには驚かされた。構成としては破綻しているようにしか思えないのだが、結果として非常に見た後の印象が 爽快で後味抜群。これってすごい演出力なのではないか。監督のロネ・シェルフィグってあの「17歳の肖像」(2009)を撮った人で、世評が高い作品を何 作も発表しているのだが、不幸にも今まで僕は作品を見る機会がなかった。これは大変な演出力の人かもしれない。その無茶な話の持っていき方も含めて、 ちょっと注目せざるを得ない監督である。ところで映画作りの話とくればどうしたって「アメリカの夜」を想起せざるを得ないのだが、その他にも…真ん中に 「人妻」を挟んだ三角関係だとか、戦時下の芸能に関する物語だとか…そのあたりが「終電車」(1980)を連想させるあたり、この監督はフランソワ・ト リュフォーにオマージュを捧げている気配が濃厚ではないか。また、でき上がった作品がヒロインを再起させる…という展開にはなっているが、実は完成品は意 外にチャチでボロッちいという点もちょっと面白い。傑作でも名作でもない、まるで「エド・ウッド」(1994)に出て来る映画のような感じで描かれている のだ。むしろ、これを傑作と描かなかったことで、映画のマジック…というテーマがより強く打ち出された。そこが、本作の好感度を大いに高めているように思 う。

さいごのひとこと

 たぶん監督は男が大キライなはず。

 

「ブレードランナー2049」

 Blade Runner 2049

Date:2017 / 12 / 25

みるまえ

  あの「ブレードランナー」(1982)の続篇を作る話は、近年浮かんでは消えていた。正直なところ、実現するかどうかも怪しいと思っていたが、どうやら本 当になりそう…と聞いた時には複雑な心境だったのも確か。そもそも、「ブレードランナー」って映画自体が微妙な作品だ。今でこそ有名な作品となっている が、公開当時は評価も興行成績もイマイチ。それもそのはず、「レイダース/失われたアーク」(1981)でスターとしての地位を確固たるものとしたばかり のハリソン・フォードが、「エイリアン」(1979)で注目されたばかりのリドリー・スコットと組んだSF大作…というノリで公開された「夏休み目玉作 品」としては、この映画は地味過ぎたしユニーク過ぎた。僕はSFファンとして大いに楽しんだものの、当時はこれがその後の未来SFのスタンダードになると までは思わなかった。単に屋台のオヤジが「ふたつで十分ですよ」と日本語をしゃべったり、「強力わかもと」の広告が出て来るのを面白がっていただけという のが正直なところ。残念ながら、当時の僕もそれほど先見性はなかった。SFファンを自認する僕ですらそのテイタラクだから、一般の人々にウケるはずもな かったのだ。だが、未来SFというウツワでハードボイルド探偵映画のテイストを出すという語り口や、終盤のルトガー・ハウアーの姿にまるで黒澤明の「生き る」(1952)を連想させるテーマが浮かび上がるあたりで、当時の鈍い僕でもかなりの衝撃を受けた作品である。今のような「ブレードランナー」の評価が 確立したのは、公開してちょっと経ってからのことだったのだ。その後は、「ディレクターズ・カット」やら何やら何通りも別バージョンが出たりして、すっか りカルト化。この映画に描かれたような未来の世界観も、すっかり当たり前のものとなった。そして、本作…続篇の登場となった訳だ。今でこそヒット作には続 篇が付きものだが、当時はまだそれほどシリーズ化が一般的ではなかったし、そもそも「ブレードランナー」はヒット作でもなかった。しかもカルト作だから、 ファンの目が非常に厳しい。おまけに、確かハリソン・フォードはこの映画をあまり良く思っていなかったはず。そんな訳で、ここまで続篇製作が遅くなったの だろう。ある意味で、ファンにとっては「神聖にして犯すべからざる領域」のような作品なのだ。ひとつ間違えばひどい事になりかねないということは当初から 予想されていたので、僕も続篇製作のニュースに微妙な気持ちを抱いた訳だ。そして微妙さのもうひとつの理由が、本作の監督ドゥニ・ヴィルヌーヴである。近 年やたらに高評価で、クセ者として頭角を現して来たヴィルヌーヴ。残念ながら僕はヴィルヌーヴ作品との出会いに出遅れてしまったせいか、世間の大絶賛には どうしてもノリきれない。満を持して見に行った「ボーダーライン」(2015)でも、どうしても胡散臭さの方が先に立ってしまう。そんなヴィルヌーヴが 「ブレラン』続篇製作とは、「大丈夫かいな?」と思わずにはいられなかった。だが、その前に撮った「メッセージ」(2016)はなかなか良かったので、 「SFはイケるかな?」とちょっと安心し始めた。ハリソン・フォードがそれまでの態度を翻して、一転して続篇に出演したのも嬉しい。「ラ・ラ・ランド」 (2016)でいよいよ大物感が出てきたライアン・ゴズリングが主演というのも、なかなかいいではないか。この映画が公開される頃には、僕は内容に関して はかなり安心していたような次第。ただ、何となく公開は長く続かなそうな気配がして来たので、慌てて劇場に飛び込んだ。

ないよう

 2049 年、レプリカントはさらに人間らしく進化を遂げていた。一方で旧式レプリカントは反乱を起こすなど問題が多く、彼らを排除する必要に迫られることになる。 それを行うのが、新型レプリカントのブレードランナーだった…。曇って寒々とした荒野…そこに人工的な施設が林立している。ここはロサンゼルス郊外の農村 地帯だ。そんな農業施設の上空を、静かにフライポッドが飛んでいる。施設の栽培用ハウスで作業していた大男は、フライポッドが近づいて来るのに気づいてい た。やがてフライポッドは、小さい家の前に着陸する。降りて来たのは、K(ライアン・ゴズリング)という男だ。家の中には誰もいないが、鍋はコトコトと煮 えている。Kは家の中で、ここに住む人物が戻るのを待つことにした。間もなく栽培用ハウスから、先ほどの大男(デイブ・バウティスタ)が戻って来る。彼は 自宅に「客」が来ていることをすぐに察知した。同時に、彼が何をしに来たのかも分かった。Kは大男を「解任」しにやって来たのである。Kこそは新型レプリ カントのブレードランナーだったのだ。しばし緊張感のある静かな時が流れるが、大男はやはり黙って「解任」されはしなかった。その怪力でK相手に大暴れし て、ナイフまで振るって抵抗する。そのあげく、Kに断末魔のように吠えるのだった。「オマエら新型は、奇跡を見たことがないからこんなことをするん だ」…。そんな大男の口を塞ぐかのように、銃弾で黙らせるK。だが、なぜかこの日の任務は少々こたえた。それでも停まっているフライポッドまで戻って本部 に報告をしていると…なぜか大きな枯れ木の根本に、一輪の花が落ちていることに気づく。少々引っかかったKがセンサーで調べてみると、枯れ木の下に何やら 「箱」が埋められているようだ。Kは作業部隊に木の下を掘らせるように指示を出すと、フライポッドでその場を離れるのであった。Kが戻ったのは、暗く雨が そぼ降るロサンゼルス。「人間モドキ」と蔑まれることもある彼は、しがないアパートの一室に暮らしていた。そこで彼を待っていたのは、映像のヴァーチャ ル・パートナーであるジョイ(アナ・デ・アルマス)。彼女は任務で疲れきったKの「癒し」であり、かつ唯一の「理解者」でもあった。そんなジョイに、この 日はKからプレゼントがあった。立体的ホログラム映像化して、外に持ち出すことが出来る新機能を購入してあげたのだ。この思わぬプレゼントに、大喜びする ジョイ。ビルの屋上から外に出たふたりは、雨の中でまるでホンモノの人間同士のように抱き合う。だが、喜びの時もつかの間。ジョイはいきなりフリーズして しまった。Kに緊急連絡が入ったのである。深い失望を味わいながらも、オモテには出さずにロサンゼルス市警に急行するK。そんな彼を待っていたのは、上司 のジョシ(ロビン・ライト)だった。彼女はKを検死官の元へと連れて行く。実は作業部隊が掘り出した「箱」の中身は、人間の白骨だった。性別は女で、帝王 切開の痕もあった。どうやらこの女は出産直後に死んだらしいが、彼女にはひとつの大きな秘密が隠されていた。骨盤を透視してみると、そこにはシリアルナン バーが刻まれているではないか。つまり、この女はレプリカントである。そして…それを認めるならば、何とレプリカントが「妊娠」したということになる。こ れに、人間であるジョシは大きな衝撃を受けた。もしレプリカントが妊娠・出産をしたということになれば、現在の人間中心の秩序が跡形もなく崩壊してしまう のは間違いない。人間であるジョシにとっては、それだけは避けなければならない。そこで彼女は、Kに極秘指令を与えた。この女の出産時の証拠も生まれた子 供そのものも、一切を処分しろというのである…!

みたあと
  本作については、作品を絶賛する評価が早くからあちらこちらで出ていた。何となく本作の出来に不安を持っていた僕は、それらを見てちょっと安心したような 覚えがある。その理由のひとつは、近年やけに評価の高いヴィルヌーヴという監督にイマイチ信頼が置けなかったこと。だが、仮にヴィルヌーヴが監督でなくて も、本作を出来映えには不安があっただろう。元々の「ブレードランナー」が、極めて特異な作品だったから、誰が監督をやっても難しいだろうと思っていたの だ。むしろヴィルヌーヴみたいにクセのある監督の方が、本作には似つかわしいと思っていたくらいである。そして、本作がアメリカ公開でコケたと聞いても、 まったく驚くにあたらないと思った。そもそも最初の「ブレードランナー」自体がコケていたのである。カルト作になったから有名作品としてモテはやされるよ うになったものの、そもそもが大衆娯楽作品ではない。非常に観客を選ぶ作品なのだ。大当たりなどするはずのない作品なのである。だからコケたと聞いても、 作品の出来のせいとは思わなかった。むしろ、本作にふさわしいと妙に安心したほどである。そんな訳でそれなりに出来映えを信頼して、それなりに安心して見 に行った本作である。見終わった時の感想は、まさにそんな事前の予想をそのまま反映するような結果となった。そこそこ安心していた程度に安心できる出来 映えであり、かつまた、事前に抱いていた不安が現実のものとなった部分もあった。つまりは、好悪半ばする作品だったのである。

みどころ

  まずは最初に恐れていたのは、元々の「ブレードランナー」が持っていたムード、その世界観が台無しになるのではないか…ということだったと思う。これは公 開当時にあの作品を見て衝撃を受けた者なら、みんな思っていたことのはずだ。もちろん、この僕もそのひとりである。ついでに言えば、僕はその後、リド リー・スコットの本来の意図通りに再編集した「ディレクターズ・カット」版(といっても、ディレクターズ・カットと称する版も確か複数あったように思う が)を見たが、正直に言って自分が好きで“これぞ「ブレードランナー」”と思えるのは、何を隠そう初公開時に自分が見たバージョンである。エンディングの 晴れ渡った天気の自然豊かな風景は、本来はリドリー・スコットの意図していなかったものだと聞いているが、自分としてはこれが最もシックリ来る。ことほど さように先入観というものは強烈なものだし、映画の出来の善し悪しは判定するのが難しい。まして「ブレードランナー」のように特殊でユニークな作品なら、 なおさらである。そんな過酷な状況で「続篇」製作を引き受けたドゥニ・ヴィルヌーヴは大胆不敵で勇敢だと認めざるを得ない。そして、前作の世界観を守ると いう点については、ある程度は成功したのではないだろうか。前作のムードをある程度踏襲しており、そこからの連続性も保持出来ている。それは作品としての イメージもそうだし、舞台となる未来社会の描き方もそうだ。前作のファンであればあるほど、本作については「よくやった」とホメたくなるかもしれない。ラ イアン・ゴズリング演じる主人公のハードボイルド性に至るまで、前作からのテイストを受け継いでいると思う。そういう意味で、旧作ファンを大いに安心させ てくれる続篇だと言える。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 だとすると、本作は続篇として「成功」だったのか。確かに前作を台無しにしてしまうような、しょうもない映画ではない。前作の世界観などをキチンと踏襲 していて、前作ファンがドン引きしないような出来にはなっている。真の意味での「続篇」として機能しているのだ。しかしながら、そこでひとつの疑問が脳裏 に湧いて来る。確かに前作との「つながり」において本作は良く出来ていると思うが、果たして「一本の独立した映画」としてはどうなのか。どうしたって前作 とのつながりがあって…の「続篇」なのは間違いないが、それでも作品としては面白く出来ているのか…。ハッキリ言うと、こちらの方はいささか危ういと言わ ざるを得ない。本作は語り口が極めてスローテンポであり、それが「ブレードランナー」的な世界観をじっくり見せて、観客に味あわせるには極めて効果的だっ た。だが物語の進行は極めて遅く、そのため2時間40分を上回る長大な上映時間となっている。そして、それだけの長い時間を費やしても、そこで語られる物 語の内容は乏しい。実はこんなに長い上映時間を使っても、本作で語られている物語内容は大したことはないのである。その理由は、実はじっくり未来世界を見 せてくれるから…だけではない。物語の語り口、描写そのものが間延びしているのだ。冒頭すぐに描かれるレプリカントと主人公Kとの戦いは、そのスローテン ポが効果的に機能している。なかなか戦いが始まらず台所で鍋がコトコト煮えている…といった描写が、「ウエスタン」(1968)のセルジオ・レオーネみた いな緊張感を高めていてワクワクさせてくれる。しかしこの冒頭以外では、本作のスローテンポは単なる「じらし」にしかなっていないように思える。しかもマ ズいのは、本作が一応ナゾを解いていく「探偵映画」の形式をとっていることだ。お話の進行が遅過ぎて、先の展開が観客にはとっくに読めてしまうのに、なか なかそこまで話が辿り着けない。それなのに、さも重大な真相が分かったかのように、大袈裟に盛り上げて描くからいけない。例を挙げれば、主人公の幼い日の 記憶に残る「小さい木馬」である。主人公は子供の頃にイジメられ、宝物の「木馬」を危うく奪われそうになったので、廃墟の焼却炉にそれを隠していた。その エピソードが紹介された後で、主人公がある廃墟にやって来る…となると、誰がどう見たってその廃墟に問題の焼却炉があり、そこに「木馬」が隠されているの では?…と思うはずだ。ところが主人公はなぜかなかなかそれに気づかず、ようやく気づいたとなると今度はそれをやたらコワゴワ尻込みしながら、やっとのこ とで確かめる。そこで映画は「ジャジャ〜ン!」とばかりに「木馬でございます」と重大なことのように観客に提示するのだが、そんなことはすでに観客には 10分ぐらい前から分かっている(笑)。逆にあれだけ引っ張って引っ張って、それで観客に「真相」を見せるとしたら、実は意外なモノだった…と来なけりゃ おかしいはずである。なのに、「やっぱり木馬でした」(笑)と分かりきっていることをわざわざ見せられるというのは、一体何なのだ。まるでホラー映画みた いに大音響で音楽鳴らして、ゴズリングもいつもよりスピード3倍ぐらい落としてわざわざジリジリ動いて、あれだけ大袈裟に描いたのに、観客の誰もがとっく に分かっていた「木馬」がたった一個出てくるだけ。一事が万事これで話が進んでいくから始末に負えない。全編思わせぶりでもったいつけた展開なのである。 そして、この「思わせぶり」なハッタリ演出は、どうやらヴィルヌーヴ大先生の「芸風」らしい。そういや「ボーダーライン」もハッタリ感満点の描き方だった んだよなぁ。一応、本作はハードボイルド探偵モノのスタイルをとった物語になっているのだが、それがこのヴィルヌーヴ先生の「芸風」とは合わなかったの か。実際に何が起きているのか、真相が何なのか…を観客には後出し後出しにして引っ張るのが「芸風」では、ミステリーや謎解きのカタチをとる物語構成では 引っ張っているうちに話がネタ割れして興ざめしてしまうのである。また、ヴィルヌーヴは「ブレードランナー」的世界観を新たに構築して前作との連続性を保 持するのはうまくやったのだが、本作の物語そのものは描き損なっている。今回も「人間」と「人間にあらざる者」との違いや「生」と「死」についての興味深 い言及は断片的にチラつくのだが、それらは未消化なまま放置されて残念な結果になっていく。幕切れも、死にゆく主人公にも雪が降り積もる…というような、 まるでジョン・ヒューストンの遺作「ザ・デッド/<ダブリン市民>より」(1987)みたいな趣向があって捨て難いのだが、何より例の「もったいつけた思 わせぶり」でブチ壊し。ハリソン・フォードとの無意味な殴りあいが延々続いたあげく、いきなり「疲れたから止めようぜ」と唐突に終わる(笑)…とか、切れ者のはずの主人 公がポケットに探知機入れられる大ボケぶりとか、かなり脚本も穴があると言わざるを得ない。正直言って、本作は「ブレードランナー」の思い出に浸るための 作品でしかない。「いい感じ」はするのだが、あくまで「感じ」だけでしかない作品なのである。

さいごのひとこと

 大山鳴動、「木馬」一匹。

 

「セントラル・インテリジェンス」

 Central Intelligence

Date:2017 / 12 / 18

みるまえ

  僕は、ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンが大好きである。現在最もご贔屓のスターは?…と聞かれたら、真っ先にドウェイン・ジョンソンの名を挙げる。 本業はプロレスだったはずだが、今では映画スターとしてピカイチ。華があるしカラダが動くし芸達者。何拍子も揃っている。そもそも彼の域まで達していない 専業映画俳優が多過ぎる。そのくらい、僕は彼のことを買っているのだ。だから彼の新作が来たと聞けば、どうしたって見たくなる。今回だってそうだ。本作 も、コンセプトは非常に分かりやすい。昔イジメられっ子だった奴が、今じゃムキムキのCIA局員となっている。片や昔は高校のスターでイジメられっ子をか ばっていた男が、今じゃ平凡なリーマン人生。このふたりが久々に再会したことから、奇妙な事件に巻き込まれることになる…みたいなお話だ。バディ・ムー ビーや巻き込まれ型サスペンス…といった、ハリウッド娯楽映画の王道。もちろんかつてのイジメられっ子で今じゃCIAってのがジョンソンの役どころ。その イジメられっ子ぶりの見事さも、予告編で死ぬほど流れているから安心だ。唯一の不安は「相棒」となるケヴィン・ハートなる黒人コメディアンで、何となく 「ラッシュアワー」(1998)のクリス・タッカーを連想させるやかましさ。小賢しそうでギャンギャンわめきそうで、そこだけが心配だ。そんな不安を ちょっとだけ抱きながら、大好きなザ・ロック見たさに劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 1996 年、高校の体育館では3年生の卒業イベントが開かれていた。そこでの主役は、高校きっての人気者である黒人青年カルヴィン・ジョイナー(ケヴィン・ハー ト)。勉強もスポーツも何をやらせても最高。おまけに人望も抜群で、恋人も学校で一番の美女マギー(ダニエル・ニコレット)…と、どこをとっても非の打ち 所がないヒーロー。異名の「ゴールデンジェット」はダテじゃない。この日もみんなの前に堂々と立って、卒業に臨む自らの決意のほどをスピーチしていた。 ちょうどその頃、シャワー室では太ってチンチクリンの男の子ロビー(ドウェイン・ジョンソン)が、シャワーを浴びながらご機嫌で歌をうたっていたところ。 しかしそんなロビーの様子を、シャワー室の片隅でじっと伺っていた連中がいた。それはトレバー(ジェイソン・ベイトマン)率いるいじめっ子軍団。こいつら はロビーに襲いかかると、彼を真っ裸のまま体育館まで引きずり出して、卒業イベントで集まったみんなの前でさらし者にした。恥ずかしさとショックで動転す るばかりのロビー。同級生はやんやの大騒ぎで、ロビーは完全に笑い者にされてしまった。だがカルヴィンはそんなロビーを笑うことなく、「ゴールデンジェッ ト」ロゴ入りの自分のジャンパーで、彼の下半身を隠してやる。やりきれない思いで体育館から去って行くロビーを見守るカルヴィンに、様子を見ていた先生は ついついポツリと本音を漏らす。「あいつはもう人生オシマイだな」…。そんな卒業間近な日々から、はや20年。カルヴィンも今や社会人だが、卒業イベント の時にスピーチで誓った、輝かしい未来とは現実は違った。華々しい世界で活躍などしている訳ではなく、しがない会計士としてのリーマン稼業。同僚は下品な ジョークをかましてくる下品な男で、今日も今日とて自分の部下だった男が先に出世するという屈辱的状況だ。そんな彼は、事務所から妻のもとに電話する。彼 の妻は、高校時代の恋人だったマギーだ。この点だけは理想を実現させたと言えるのだが、残念ながらイマイチ結婚生活もうまくいってない。それを気に病んだ マギーから、夫婦でカウンセラーに通おうなどと言われてしまう始末。マギーからは高校の同窓会のことも相談されるが、カルヴィンは正直言って行きたくない と思っていた。もちろん当時は華やかだった自分が今ではパッとしない存在になってしまった姿を、みんなに見せたくないという気持ちが強かったのだ。そんな 電話をしている時、ふと自分のフェイスブックを眺めていたら、「ボブ・ストーン」なる人物から友だち申請をされる。しかも、この人物は高校の同級とのこと で、今夜飲みに行こうと誘われるではないか。ハッキリ言って誰だか分からないのだが、とりあえず会ってみようと酒場に足を運ぶカルヴィン。そこにやって来 たのは、屈強そうなスキンヘッドの大男。思わず「オマエ誰だ?」と驚くカルヴィンだったが、その男は自らを「ボブ・ストーン」だと名乗り、さらに本当の正 体を打ち明けた。何とこの「ボブ・ストーン」なる男、あのイジメられっ子のロビーだというのだ。あまりの様変わりぶりに唖然呆然となるカルヴィンだった が、ロビーは20年間筋トレを続けた成果だと事もなげに言う。ともかく、久々の再会を喜ぶふたり。おまけに、ロビーは20年前に自分を笑い者にせずかばっ てくれたカルヴィンを慕い、いまだに英雄視していたのだった。こんな筋骨隆々の男にそんな風に見られて大いに当惑させられながらも、決して悪い気はしない カルヴィン。たまたま酒場で絡んで来たヨタ者たちに大慌てのカルヴィンだったが、ロビーは慌てず騒がずキッチリとブチのめしたあたりもビックリ。とにか く、久しぶりにカルヴィンは気分が良かった。スッカリ夜も遅くなったので自宅にロビーを泊めることにしたカルヴィンだったが、会計士のロビーに頼みがある と言われて商売道具のパソコンを引っ張り出す。それは、あるサイトで会計データを調べて欲しいとのことだった。そんなことはお茶の子だったカルヴィンだっ たが、せっかくデータを見せても、ロビーは大した反応を見せない。すでに夜も更けていたので、ふたりは早々に眠ることにした…。ところが翌朝、カルヴィン は突然の訪問客によって叩き起こされる。やってきたのは、パメラ・ハリス(エイミー・ライアン)というスーツの女と黒服の男たち。何と彼らはCIAの職員 だと言うではないか。幸いなことにマギーはすでに出かけて留守だったから良かったが、気づいたらロビーはいつの間にか姿を消していた。ハリスはスッカリ当 惑するカルヴィンに、ロビーとの関係を問いつめる。ハリスによれば、ロビーはCIAからあるデータベースにアクセスする機密のコードを盗み出し、殺人まで 犯して追われる身だというではないか…!

みたあと
 予告編を見 た時から、こりゃ絶対に面白いはず…と期待した。僕なんかドウェイン・ジョンソンが出てさえいれば嬉しいので、楽しめない訳がない。それにアメリカ映画の バディ・ムービーはハズシなしだし…と、面白いと決めてかかって見に行ったこの映画、確かにやっぱり面白い。面白い要素しかないんだからどうしたって面白 い。確かに面白いのだが…。

こうすれば

  これは「たかが娯楽映画」に対しての要求としては、いささか高過ぎる要求かもしれない。だが、本作の「面白さ」は、実はドウェイン・ジョンソンの個性と芸 達者ぶりに負うところが大きい。そしてこの企画だったなら、本作はもっと面白くなっても良かったような気がする。ハッキリ言うと…面白いは面白いが、この 企画でドウェイン・ジョンソンを使っているなら、面白さは本来こんなもんじゃなかったはずだ。それが「この程度の面白さ」にとどまっているのは、一体どう したことか。どこが悪かったのか…と考えてみたが、実はあまりよく分からない。まずは、主役ふたりの過去と現在の様変わりぶりがあまりメリハリついていな い…ってところがマズいのかと思ったりもした。ドウェイン・ジョンソンの実際とギャップあり過ぎの「いじめられっ子」時代の描写がアッサリし過ぎなので、 まずはその落差が伝わりにくいのかな…と思った訳だ。だが「ムーンライト」 (2016)じゃあるまいし、ドウェイン・ジョンソンのイジメられ時代をジックリ描いたらコメディとしてはバランスも悪かろう。だとすると、ケヴィン・ ハートが陥ってる現在の状況が、過去の栄光と比べて「落ちぶれた」と言うほど酷いものじゃないのが一因なのか。確かに冴えないリーマンと言えばパッとしな い男の代名詞ではあるが、彼は別にみすぼらしい恰好をしている訳ではない。貧困にあえいでいる訳でもない。飢えもせず家もあって妻もいる。本人としては不 本意かもしれないが生活水準は決して低くないホワイトカラーなので、イマイチ見ている側に「落ちぶれ」感が伝わって来ないのだ。これは確かに本作のドラマ 構成では弱い部分だろう。また、ケヴィン・ハートがこの手の黒人コメディアン特有の小賢しさでギャンギャンうるさ過ぎるのも、面白さがあまり膨らまない理 由かもしれない。特に無邪気にケヴィン・ハートを信じて尊敬するドウェイン・ジョンソンを、あまりに何度も裏切りすぎる。これは確かに映画をスカッとさせ ない要因にはなっただろう。だが、それらを点検してもどうも致命的なネックになっているようには思えない。どうやらこれは、ローソン・マーシャル・サー バーとかいう監督の、演出の切れ味が悪いのが原因だとしか考えられない。確かにドウェイン・ジョンソンとケヴィン・ハートのコンビネーションは丁丁発止と やり合っている時はなかなかいいのだが、それらの途中に時々すきま風が吹く時がある。やはり、演出の切れ味が悪いのではないだろうか。ともかく、これだけ 美味しいネタが揃っているだけに、何とももったいない気がするのである。

さいごのひとこと

 ドウェイン・ジョンソンのイジメられ場面を予告などで出し過ぎかも。

 

「マイティ・ソー/バトルロイヤル」

 Thor - Ragnarok

Date:2017 / 12 / 18

みるまえ

  次から次へと新機軸を打ち出すマーベル映画の中でも、「マイティ・ソー」(2011)は何とケネス・ブラナー監督起用でアッと驚かしてくれた。しかし、続 篇の「ダーク・ワールド」(2013)は何か新しい要素が継ぎ足されたようにも見えず、ケネス・ブラナーも降板してしまったので僕は見なかった。正直言っ て、これで見なくてもソーは「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」(2015)に出ていたので別に問題はなかった。このシリーズはもうこれ以上見 なくてもいいかも…とチラッと思ってもいたのだ。ところがそんなこちらの思惑を察したのか、ソーの新作はちょっとした新要素を打ち出して来た。何と悪役に ケイト・ブランシェットを起用。そして、なぜか本作は前作、前々作とはテイストが異なるという。実は予告編には、ちょっと気になる点もひとつあった。そう なると、「ちょっと見てみようか」という気になってくる。予告を見てちょっと気になった点もあったので、本編を見るために劇場に足を運んだという訳だ。

ないよう

  真っ暗な空間で、宙ぶらりんの小さい檻に中に囚われの身になっているひとりの男…それは、あの抜群の強さを誇った雷神ソー(クリス・ヘムズワーズ)であっ た。「一体どうしてこうなったのか…これを見ているみんなはそう思っているだろうね」…。鎖でがんじがらめになっていたソーは、いきなり檻から解き放た れ、たった一本の鎖で宙づりになる。そこは巨大な洞窟で、周囲には溶岩の赤い炎がチラつく地の底であった。鎖で身動きがとれないままぶら下げられている ソーの前に現れたのは、巨大な炎の悪魔スルト。ソーの自由を奪って強気のスルトは、これに乗じてソーのふるさとであるアスガルドを襲い、そこにある「永遠 の炎」を得るという野望を得意げに語った。スルトによれば、今はソーの父である王のオーディンも不在でアスガルドは無防備状態らしい。スルトが「永遠の 炎」を奪い取ることで、アスガルドが終末を迎える「ラグナロク」という状態が起きるとも語っていた。だが、スルトはいささか調子に乗り過ぎ、多くを語り過 ぎていた。隙を見たソーはたちまち鎖から解き放たれ、武器であるムジョルニアを取り戻して群がる悪鬼を蹴散らかした。さらにスルトの王冠を奪って当座の危 険を回避し、急いでその場を撤収。アスガルドの虹の橋「ビフレスト」の門番に、自分をその場へ通すように要請する。だが、現在の門番は新顔でズボラなス カージ(カール・アーバン)で、事情がのみ込めないスカージはモタモタ。それでも何とか危機一髪で、ソーはアスガルドに帰還することができた。ところが 戻って来たアスガルドは様相が一変。なぜかソーの弟ロキの像が建っているだけでなく、父オーディンが呑気に芝居見物をしている始末。その芝居も、ロキが悲 劇的に描かれた茶番劇だ。虹の橋「ビフレスト」の門番がスカージに代っていたことといい、何か変である。ソーは妙なオーディンの様子を見て、すぐに正体を 見破った。案の定、それはロキ(トム・ヒドルストン)が化けた姿だったのである。ソーがロキを脅すと、父オーディンはいまや地球のニューヨークの老人ホー ムに追いやられたとのこと。頭に来たソーは無理矢理ロキを引きずって、ニューヨークの老人ホームへ。しかし、彼らが辿り着いた時には、すでに老人ホームは 取り壊された後。唖然呆然としているとロキの足下に丸く穴が開いて、彼はいずこかに消えてしまった。後に残された紙片の住所に向かうと、そこにはあったの は時代がかった建物。中に待っていたのは奇妙な魔術師ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)であった。ストレンジはかつて大暴れしたロキ の出現を危険視して、地球来訪の目的を確かめようとしていたのだ。異空間に放り出されていたロキをその場に戻したストレンジは、ソーにオーディンの居場所 がノルウェーであると告げる。そして、魔法の力でソーとロキをノルウェーのオーディンのもとへと送り込んだ。すると、切り立った崖のそばに佇むひとりの老 人の姿が…すっかり衰えたオーディン(アンソニー・ホプキンス)がそこにいた。再会を喜んだソーだったが、オーディンは自分が死にかけていると語り、さら に知られざる恐ろしい事実を明らかにした。自分の死によって、死の女神ヘラが復活するというのだ。このヘラという女は、実はオーディンの娘であった。つま り、ソーには姉がいたことになる。オーディンはかつてこのヘラとともに、さまざまな王国を征服して来た。その頃はオーディンも好戦的だったのだが、9つの 王国を征服し終えたところで和平を望むように気持ちが変わった。だが、ヘラはますます野望を膨らませ、邪悪な性格を露にして来たのだ。そんなヘラを恐れた オーディンは、これまで自らの力で彼女を封印して来た。それがオーディンの死によって解き放たれ、アスガルドを奪い取るために戻って来るというのだ。そこ まで秘密を明かした後、オーディンは力尽きた。寿命が来たオーディンは、ソーとロキの目の前で光の粒子となって消え失せた。だが、ふたりが呆然としている 間はなかった。オーディンが去ったとたん、彼らの前にひとりの女が現れたのだ。その堂々とした立ち振る舞い、美しくもどこか危うい表情…目の前に立ちはだ かる女がヘラ(ケイト・ブランシェット)であることは疑いようがなかった。ヘラは最初から傲慢な態度で、ふたりに跪いて屈服するように告げる。もちろん、 そんな言葉を聞くようなソーではない。ソーは唯一無比の武器であるムジョルニアにすべてを託し、ヘラに向かって投げつけた。無敵のムジョルニアに敵う相手 は、この世にあるはずがなかった。ところがヘラはそのムジョルニアを片手でガッシと掴むと、不敵な表情でソーを睨む。そもそもムジョルニアを片手で受け止 めることが出来ること自体、ソーには信じ難い光景だった。ところが、事はそれだけではとどまらなかった。ヘラはムジョルニアを掴む力をさらに強め、しまい には木っ端微塵に粉砕してしまうではないか…!

みたあと
  映画が始まるとすぐ、ソーは囚われの身になっている。前作「ダーク・ワールド」を見ていないので、これはどうしたことか…と先行きがちょっと不安になる。 だが、心配ご無用。ソーはすぐに大暴れだ。だが、その前にちょっと今までとは異なる趣向が…。炎の悪魔スルトが大見得切ってソーに自らの野望を語っている のに、ソーは何かというと「ちょっと待った」と話の腰を折ってしまう。それというのも、ソーは鎖一本で上からつり下げられているので、途中でグルグルと回 転してしまうのだ。せっかく緊迫した状況なのに、その都度このすっとぼけた趣向で水を差されて、見ている僕らは思わずプッと笑ってしまう。そうなのであ る。今回は…少なくとも僕が見ている最初の「マイティ・ソー」とは…かなりテイストが異なる。つまり、「笑い」が全編を貫く作品となっているのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 1作目の「マイティ・ソー」は、地球を舞台にしている場面に関してはアメリカっぽいユーモアに包まれていたものの、作品全体としてはいわゆる「王家のお 家騒動」で、それをシェイクスピア劇を得意とするケネス・ブラナーが格調高く描いているのがミソだった。なるほど、うまいことを考えたな〜と僕なんかも感 心したものだった。2作目「ダーク・ワールド」は見ていないから分からないが、大きく方向転換をしたとは聞いていないので、おそらくその路線を踏襲してい たものと考えられる。ところが3作目にあたる本作は、方向を大幅転換。ハッキリとコメディに舵を切っている。正直言うと、話としてはつながっているのだ が、まるで別の作品のようにテイストが変わっている。まるで隙あらば笑わせようと構えているように、何かというとギャグを挟んでくるのだ。これがなかなか 楽しい。そもそもマーベルはマンガの映画化なんだから、バカバカしく笑えればいいという気もする。だから、こうした方針転換は個人的には賛成だ。おまけに この方針転換のおかげか、ソーの裏切り者の弟ロキまで何となくキャラが変わっている。裏切り者は裏切り者なのだが、裏切ってもなぜか憎めないチャーミング なキャラクターになっている。本来だったら笑ってる場合じゃない関係のはずなのに、ソーとロキの間柄も不思議なユーモアに包まれる結果となった。トム・ヒ ドルストンもこれは儲け役だと思う。本作はなぜかハルクまで出て来るが、このハルクとソーのやりとりまでがおかしい。こういう漫才みたいなやり取りで全編 突っ走るのだから、本作はとても楽しいのだ。さらに本編が始まってすぐのアクション場面に、レッド・ツェッペリンの「移民の歌」がガンガン流れるという趣 向もある(これが予告編で気になった点だ)。この曲はクライマックスでももう一度流れるが、これがまた抜群にカッコいい。ニュージーランド出身のタイカ・ ワイティティ監督は、本作を徹底的に軽いノリで作ってしまおうと決めたのだろう。その結果、本作は見ていて楽しい作品となった。コメディ化はある程度成功 しているのではないかと思う。少なくとも「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」(2016)みたいにギスギスとして暗い話を見せられるよりは、僕とし ては大いに救われた気がする。

こうすれば

 確かに本作は楽しい。だから、すべて万々歳という風に思えるかもしれないが、残念ながら事はそれほど単純ではない。僕も見ていて大いに楽しんだの だが、その反面、「???」と思ってしまった点も少なくないのだ。その最大の点は、やはり本作の悪役ケイト・ブランシェットだろうか。スゴい悪役には超大 物を…という発想は正しい。登場するや否やソーの打ち出の小槌ならぬ最大の武器ムジョルニアを破壊して、その凄みを存分に見せつける。だが、その後が良く ない。何より出番が少ないし見せ場も少ない。素晴らしい演技力のブランシェットでも、まったく芝居をする場がない。しかもブランシェットのスケジュールが 短かったのか、彼女が出て来るアスガルドの場面は露骨に見て分かるスタジオ撮影で、視覚的にやたら狭苦しい。だからアスガルドの軍勢もやたらショボくれて 見える。狭い場所に少ない軍勢しかいないように見えるのだ。これではブランシェットの強さが圧倒的に見えない。そもそもアスガルドがそこらへんの町の公園 ぐらいにしか見えないんじゃ、そんな所を征服したい気持ちがわからない。ブランシェットの登場場面はどこも残念な出来映えなので、彼女の起用がもったいな いとしか思えないのだ。ついでに言うと浅野忠信の死にっぷりもつまらないし、逞しい男らしさを出すためなのか、わざとらしく潰れた声を出しているのも興ざ めだった。もうちょっと何とかならなかったのか。そして、このブランシェット以外の本作の問題点は、実は本作の美点の裏返しばかり。例えばハルクの共演は 確かに嬉しいのだが、本作はそこにドクター・ストレンジもチラリと登場。後半にはミニ・アベンジャーズみたいになっていくのだが、正直言ってたまにはヒー ロー単品で映画が見たい。何でもかんでもアベンジャーズ…では正直お腹いっぱいなのだ。特にドクター・ストレンジはわざわざ出す意味があったのか。まるで無駄 だとしか思えなかった。さらに、映画の最初と最後にまるでテーマ曲の様に使われるレッド・ツェッペリンは確かにカッコいいのだが、既存曲を使うというのは それなりのコンセプトや必然性が必要だと思う.作り手はおそらく「移民」というのがミソなんだと言いたいのだろうが、そういうことじゃねぇんだよ。何だか カッコいいから使いたいってだけの、安易な発想な気がする。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(2014)じゃないんだから、そのあたり作品として の基本ラインは崩すべきではなかったのではないだろうか。さらに「笑い」を取ることを前提に脚本を仕上げたのはいいが、ロキってこれまで結構笑えないほど ひどいこともやらかしているのに、水に流して笑っていていいのだろうか。さすがにシリーズとしてこれは乱暴過ぎやしないか。その他の人物も含めて、キャラ クターの連続性がかなり激しく変わってしまっているのはいかがなものだろうか。そのあたりも含めて。「面白ければ何でも良い」みたいな昔のフジテレビみた いな軽薄さを感じてしまうのだ。もっとも、これは単なるマンガでしかないから…というのなら、それはそれでアリ。だが、いきなり本作でトチ狂ってハシャが れても見ている方としては困る。正直言って、僕は楽しんではしまったものの非常に評価が難しい作品となってしまった。

さいごのひとこと

 ナタリー・ポートマンはもう出られそうもないかも。

 

「ポルト」

 Porto

Date:2017 / 12 / 11

みるまえ

  この映画のことをネットで知ってから、見たくて見たくてしょうがなくなった。僕は時々、マイナーな映画が見たくて仕方がなくなる。本作もそんな僕の趣向に ストレートに訴えて来た作品だった。プロデュースにジム・ジャームッシュが関わっている…というのはどうでもいい要素だったが、本作がマイナーな作品だと いう保証にはなった(笑)。主演はつい最近亡くなったばかりの、期待されていた若手のアントン・イェルチンというのがいい。後は知らない連中ばかりで、ど うやら外国を舞台にした男女のお話らしい。だが、本作には僕の嗅覚がピクリと反応した。ハッキリ言うと、仮につまんない作品だったとしても、何か気になる 部分を発見出来る映画だという予感があった。他に話題作、ヒット作があまたあるにも関わらず、僕はそれらをうっちゃって本作を見に劇場に駆けつけたのだっ た。

ないよう

 「言葉はなくても、お互いの気持ちは分かっ た」…。ジェイク(アントン・イェルチン)は、マティ(ルシー・ルーカス)との熱いつながりを独白する。ジェイクが彼女と最初に出会ったのは、発掘現場で のこと。それからすぐに別の場所で偶然に出会い、カフェでまた出会った。そうなれば、「そうなる」しかない。ふたりはベッドで熱く愛を確かめ合う。だが、 マティと出会ったカフェに、ジェイクは今たった一人でいる。一人で頭を抱えながら、飲んだくれて孤独を噛み締めている。どうしてこうなってしまったのだろ うか…? 深夜のレストランで食事をしながら、ジェイクとマティはお互いのことを話し始める。彼女は30過ぎで彼はまだ20代。「年上の女ね」とマティは 笑う。彼女はフランスで考古学を学んでいたが、ポルトガルから来た教授と親しくなり、彼を追ってこのポルトの街にやって来た。彼には妻がいる…。そんなマ ティとのやりとりを思い出しながら、やりきれない思いに夜な夜な街をさすらうジェイク。あの晩、ふたりで大いに燃え上がり、マティは仕事で出かけて行っ た。留守中も部屋に居続けたジェイクは、まだ片付いていない彼女の引っ越し荷物を整理し始める。彼女の代りに棚まで組み立ててやっていたちょうどその時、 外からマティが戻って来るではないか。ただし、彼女ひとりではない。中年男を連れて…だ。これが例の大学教授(パウロ・カラトレ)なのか。マティはまだ ジェイクがいるとは思っていなかったようで、これは何とも気まずい。だが「教授」は余裕を見せて、ジェイクに「一緒に食事でも?」と持ちかける。ジェイク もまたこれに応えてしまうからマティは居たたまれない。何を食っているのかも分からないような、息詰まるようなやりとりである。これがマズかったのか、 ジェイクがその後マティに連絡をとろうにも、まったく電話に出て来ない。こうなると、ますます追いかけたくなるのが人間のサガである。マティが家に帰って 来るのを待ち伏せして、いきなり抱きついてくる。だが、マティは何となくよそよそしい。キスも拒まれる。思わず苛立ったジェイクはマティを平手打ちしてし まうが、これが逆効果だったのはいうまでもない。家の中に逃げ込まれ、鍵をかけられ、「開けてくれ」と懇願するかと思えば逆ギレして力づくで開けようとす る。そんなジェイクがやって来た警官たちに連行されたのは、間もなくのことだった。留置場に入れられ、頭が冷えたところで帰宅を許されたジェイク。「二度 と彼女に近づくんじゃないぞ」と警官にたしなめられたジェイクは唖然呆然となり、思わずこう問い直さずにはいられない。「彼女がそう言ったんです か?」…。

みたあと
 お話は単純である。ある男と女が出会っ て、激しく結ばれる。だが、ちょっとしたことから歯車が合わなくなり、最高の関係と思われたふたりは最悪の幕切れとなってしまう。たったそれだけの話を、 第1話「ジェイク」、第2話「マティ」、第3話「ジェイクとマティ」という三部構成で描いているのがミソ。全部同じことを言っているのだが、それぞれ視点 が違い、なおかつそれぞれ別のエピソードに出て来ない挿話がチラチラ登場する。このあたり、作風はまったく違うがちょっとホン・サンスの「ハハハ」 (2010)などの作品を連想させるところもある。さらに、それぞれのエピソードの中でも時制が分解され、さらにカットにより35ミリ・フィルムの映像だ けでなく、16ミリや8ミリの粒子の荒い映像も挿入される。画面サイズや画質を変えたりするという、大胆な構成をとっているのだ。76分というコンパクト な上映時間も嬉しい。使われている音楽もセンスがいいし…何より舞台となるポルトというポルトガルの街に風情がある。見ていて、非常に心惹かれる作品であ る。先にも述べたように、僕はこういう作品に弱いのだ。

こうすれば

 だが、本作は別の見方をすれば、ちょっと小洒落た気取った映画とも受け取れる。正直言って、どこか田舎の高校の映研が作った映画みたいな背伸びが感じら れるのも否めない。お話自体も、言ってしまえば大した話ではない(笑)。それを時制をいじくったりフィルムの形態をチャカチャカ変えたりして、何とか話を もたせているのが本当のところだろう。これだけの内容ならば、76分もたせるのが限界である。だが、そもそもチャカチャカ変えてる映像フォーマットが、あ まり効果的に機能していない。粒子の荒い画面というだけで16ミリと8ミリの区別がつきづらく、わざわざこれらを変えてる意味がない。おまけに映像フォー マットの変更に規則性があまりない。過去を35ミリ、現在を16ミリか8ミリで撮っているのかと思ったら、どうもそういう訳でもない。単なるフィーリング でやってるみたいなのである。アメリカ人が主人公のアメリカ人が撮っている映画で、ポルトガルが舞台というあたりでもちょっと気取っている印象である。異 邦人としてのアメリカ男とフランス女を出して、その異邦人としての宙ぶらりんな感じを恋愛における宙ぶらりんな心情を描くのに利用した云々…という理屈も 何となく分からないでもないが、そのあたりの理に落ちたところも含めて「映研」風なのである(笑)。そんなスノッブ感は恥ずかしながら僕の中にもあるの で、不覚にも本作に心惹かれちゃったところもあるのだろう。そもそも本作をわざわざポルトガルの街を舞台にして描いたのって、監督のゲイブ・クリンガーは アラン・タネールの「白い町で」(1983)を大いに意識していたのではないだろうか。途中に8ミリ映像などが挿入されるって、明らかにそこからの引用だろう。だからフィーリングっぽくなっちまったのか。そのあたりの臆面のなさや恥ずかしさも、思い切り「映研」風な気がするのだ。

みどころ

 では、本作は恥ずかしい不出来な作品なのだろうか。確かに背伸びした映画ではあるし、意欲が表現に追いついていないところは散見される。だが、それに よって悪印象を受けるかというと、必ずしもそうではない。例えばお話のつまんなさからして、本作の物語はたぶん作り手の体験話なんだろうな…とは思った が、もっともらしく飾り立てずにそのミジメさを隠さなかった点が好感持てた(笑)。ミジメさを隠してカッコ良く見せる程のテクニックもなかったのかもしれ ないが、その不器用さが僕にはプラスに感じられたのだ。それは一種の誠実さなのである。そして、描き方が誠実だからこそ、恋愛の「輝き」と「痛み」が切実 に感じられた。これは本作最大の美点である。ポルトガルの街が魅力的に見えることや主役のイェルチンに対する同情票的な部分も多分にあるとは思うのだが、 それでも本作は見るべきものがあると感じられるのである。こいつ「白い街で」が好きなんだろうな…というあたりが丸出しなのも、こうなると可愛げに思えて くる。いろいろコケにしちゃってはみたものの、僕は本作をキライにはなれないのだ。

さいごのひとこと

 みんな最初はお互いを「相性抜群」と思うんだよね。

 

「オペレーション・クロマイト」

 Operation Chromite

Date:2017 / 12 / 04

みるまえ

  本作のウワサは、ちょっと前から聞いていた。いわく、あのリーアム・ニーソンが韓国映画に出る! これには僕もちょっと驚いた。リーアム・ニーソンといえ ば、現役バリバリのスターである。かつては「名優」として堅実な仕事ぶりを見せていたが、何がどうしたのかリュック・ベッソン印の「96時間」(2008)でこの歳でアクション・スターとしてブレーク。いきなり第一線に立ってしまった。そんなアブラの乗り切った彼が韓国映画に出るというのだから驚く。「人間の証明」(1977)に出たジョージ・ケネディとか「ダブル・ビジョン」 (2002)に出たデビッド・モースあたりとは訳が違うのだ。しかも、そのニーソンが演じるのがマッカーサー元帥だというから、これまた興味津々。考えて みれば、リーアム・ニーソンでマッカーサーという発想はありそうでなかった。思ってもみなかったが、やらせてみればハマるんじゃないだろうか。こうなって みると、そのニーソンのマッカーサーを見るためだけでもこの作品を見てみたい気がする。小さい劇場でひっそり始まったこの映画、忙しい最中ではあったが見 ない訳にはいかない。そんなこんなで、何とか劇場へと足を運んだ次第だ。

ないよう

 1950 年6月、突如南下した北朝鮮軍は猛烈な勢いで南を制圧。朝鮮戦争の始まりである。米軍を中心とした国連軍や韓国軍は押しまくられて、半島南東部に追い詰め られていた。国連軍の指揮を執るダグラス・マッカーサー(リーアム・ニーソン)は、起死回生を図るべく仁川上陸作戦を計画。だが、それは無謀と見られても 不思議がないほど大胆な計画だった。マッカーサーはこの計画を裏で支援させるべく、精鋭部隊を北側に潜入させることにする。彼ら8人の特殊部隊は、すでに 行動を開始していた。列車車両の中を無言で移動する一団…それが彼らだ。先頭車両は、北朝鮮軍のある一行が独占的に使っている車両。チャン・ハスク大尉 (イ・ジョンジェ)らはそこにやって来て、北朝鮮兵士たちに友軍として親しげに話しかける。もちろん会話を交わして油断したところを、一気に始末するとい う段取りだ。殺した北朝鮮軍兵士の死体は、途中の鉄橋から川に捨てた。チャン・ハスク大尉たちが殺したのは、北朝鮮最高司令部から派遣されたパク・ナム チョル一行。この一行は、仁川港周辺の守備にあたっている北朝鮮軍の内部監査を行う任務に就くところだった。チャン・ハスクたちは彼らに化けて、仁川港周 辺の北朝鮮軍の情報を仕入れようという訳だ。とりわけ知りたいのは、仁川周辺の海域に沈められている機雷の位置。仁川攻撃に当たっては、これが分からない と命取りになってしまう。そこで機雷の位置を描いた仁川周辺海域の海図を入手するというのが、彼らの最も優先順位の高い任務であった。こうして列車は仁川 に到着。パク・ナムチョル一行を装ったチャン・ハスクたちを迎えたのは、仁川周辺の守備を担当する司令官リム・ゲジン大佐(イ・ボムス)。だがリム・ゲジ ンは、出会った最初からチャン・ハスクの言動を明らかに疑っていた…。

みたあと
 正直言って僕はリーア ム・ニーソンのマッカーサー役を見るためにこの映画を見に行ったので、それ以外はどうでもよかった。…というか、ぶっちゃけ予告編を見たら完成品の出来映 えは想像ついちゃった。ほぼ本作の見どころは、ニーソンのマッカーサーぶり…その一点に尽きる。さて、その映画におけるマッカーサーというと…昔はそれな りにあったのかもしれないが、僕らの世代にとってはグレゴリー・ペックの「マッカーサー」(1977)にトドメを刺す。グレゴリー・ペックといえば「ロー マの休日」(1953)の人のイメージが日本では強かったが、1970年代に入ってからはちょっと峠を越えちゃったオールドスター的イメージが漂い始めた 頃。それが「オーメン」(1976)の想定外ヒットでまたまた脚光を浴び始めていた時期だった。それまでペックにマッカーサーのイメージなど持ったことも ない僕だったが、コーン・パイプにレイバンのサングラスかけさせれば「それ」っぽく見えちゃうんだな…と妙に感心した記憶がある。やはり日本人にとって マッカーサーというのは特別な存在で、どうしても他の実在人物を出した映画と違って、その「見え方」が気になってしまうのだ。さて、その次のマッカーサー 映画は…というと、「インチョン」(1982)ということになるのだろうか。この映画、製作当時から何かと評判が悪かった。その悪評は映画の出来以前の問 題で、悪名高い韓国の「統一教会」がお金を出して作ったことによる。内容は今回の「オペレーション・クロマイト」と同様に、仁川上陸作戦を描いたもの。こ ちらでマッカーサーを演じたのは、な、何と名優ローレンス・オリビエ。晩年にオリビエが見境なく映画なら何でも出ていた頃の作品ということになる。しかも それなりの豪華キャストで、オリビエを筆頭にジャクリーン・ビセット、三船敏郎、ベン・ギャザラ、デビッド・ジャンセンという不思議な顔ぶれ。監督もテレ ンス・ヤングという豪華版だったが、ヤングもこの当時はすでに「007」シリーズをやっていた頃のキレはなく、すっかり「上がり」の観があったのは確か だ。結局、それなりの豪華メンバーなのに日本公開はナシ。後日、ネットなどで完成した作品を見てみたら…正直言って未公開は当然だろうという出来映えだっ た。お金はかかっているんだろうが、惨憺たる出来映え。お話としては古色蒼然たるものでしかない。肝心の僕のお目当てマッカーサーだが、いかに名優と言え ども英国名優オリビエにマッカーサーはキツかった。しかもヨボヨボ過ぎ。サングラスとコーン・パイプだけで似せているというアリサマだった。そんなオリビ エ・マッカーサーのガッカリ感を払拭すべく、久々に上陸したマッカーサー映画が「終戦のエンペラー」 (2012)。マッカーサー役者にトミー・リー・ジョーンズというのは、まさに僕らがイメージするマッカーサーそのもの。顔が似てる似てないは、サングラ スかけさせれば問題ない。アメリカ軍人の「あの感じ」がトミー・リーには抜群にあるのだ。これには僕も大満足だった。それから5年…久々に到来したマッ カーサー映画にリーアム・ニーソン起用とは、これはかなりの盲点だ…と「ほほぉ〜」と感心してしまった。昔の名優然としたニーソンだったら、下手すればオ リビエの二の舞。だが、今のニーソンは大暴れするオッサンで、「特攻野郎AチームTHE MOVIE」(2010)だってやっている。アメリカンな軍人臭漂う今のニーソンなら、マッカーサーは大いにイケルのだ。コレは期待出来る…とワクワクしながらスクリーンと対峙した僕だったのだが…。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 そんなこんなでマッ カーサーのことばかり書いて来たので、ここで肝心の映画のこともちょっとだけ(笑)触れておこう。本作は仁川上陸作戦そのものというより、それを成功させ るためのスパイ活動を描いたお話がメイン。例によって、おそらくこれはかなり実際を美化させて大袈裟にしたお話になっているのだろう。注目すべきは…わが 国で韓国映画が脚光を浴び始めた「シュリ」(1999)や「JSA」 (2000)の頃とは、明らかに映画も映画を取り巻く環境も変わって来たこと。「シュリ」や「JSA」は、韓国映画が「北朝鮮人を人間らしく描いた」と話 題になったことを覚えている。それと比べると、本作での北朝鮮は「ただただ極悪」。ある意味では「シュリ」「JSA」以前の、反共映画を量産していた頃の 韓国映画の感覚にかなり戻って来たんじゃないかと思わされる描き方だ。まぁ、昨今のあの国を取り巻くイメージでは無理もない話だが、17〜18年の間に あっという間に「空気」が変わってしまったことに不思議な感慨を覚えてしまった。また、本作ではマッカーサーは完全に「英雄」扱いで、皮肉っぽい視点も批 判的な見方もゼロ。この崇拝ぶりにはこちらが恥ずかしくなるほどだった。ちょっと21世紀の映画とは信じられないほどだ。多少からかうぐらいのことはし たっていいんじゃないの? それはともかく、歴史的大作戦を成功に導いた「秘話」というのはいいのだが、実は海図一枚手に入れる入れないという話でしかな い。おまけに映画の前半はイ・ジョンジェのヒーローとイ・ボムスの悪党の間で「海図見せろ」「やだ」という不毛な応酬を繰り返すだけなので、正直言ってつ まらない。お話にあまり広がりがないのである。海図を奪う作戦も、ほとんど馬鹿力みたいなやり方でしかない。案の定うまくいかないで散々な結果に。主人公 の特殊工作員たちも映画の作り手も、あまり頭が良さそうに見えない。途中でボロボロと味方が死んでいくあたり悲壮感を強調する作り方だが、そもそも見てい るこちらからすれば誰がどれだか分からない一山いくらの雑魚キャラでしかないから、別にさほど悲しくない。多少、エピソードをもらっているキャラクターも いるにはいるが、こんな緊迫した作戦遂行中に自分の女房子供とコッソリ会ったりしていて不用心そのもの。「良かったな」と共感したり「気の毒に」と同情し たりするより、「こんな時に何をやっているんだバカ!」というイライラが募るだけ。何から何まで誤算なのである。そして本作が致命的に残念なのは、戦争映 画としてのスペクタクルが安っぽく見えてしまうこと。「マイウェイ/12,000キロの真実」(2011)や「ザ・タワー/超高層ビル大火災」 (2012)などを見ても分かる通り、CGの乱用が裏目に出ているのである。結局、韓国映画におけるCGの使用は、空疎な超大作を増やしただけだったよう に思える。CGの登場は、韓国映画にとっての最大の不幸だったのではないか。そして本作の最大に残念な点としては、やはりリーアム・ニーソンのマッカー サーを挙げなければならないだろう。リーアム・ニーソンといえば名優のはずなのだが、なぜか本作では「大根」に見えるのだ。セリフの間の手持ち無沙汰な感 じとか、やたらに演技が大袈裟なことなど、そのダメっぷりはまるで「レイン・フォール/雨の牙」 (2009)でのゲイリー・オールドマンを彷彿とさせる。名優でも演出家がダメだとこれほどヘタに見えるのか…と改めて驚かされた。さらにさらに、エン ディングで主人公イ・ジョンジェの亡骸とニーソン=マッカーサーが対面する…という最も大事な場面で、明らかにニーソンだけロケでなくスタジオで別撮りで 撮影しているのはいかがなものだろうか.ニーソンのスケジュールなどいろいろ理由はあるのだろうが、これで思い切りラストがシラケたことは否めない。これ なら無理矢理ふたりのショットをつながなかった方が良かった。北朝鮮占領下の仁川の街のオープンセットとか、クルマを使っての派手なアクションとか、戦時 下を舞台にした冒険アクションとしてはそれなりに見るべきところがないわけでもないだけに、何とも残念な結果でもったいない。ニーソンも完全に宝の持ち腐 れであった。何でこんな映画に出ちゃったんだろうねぇ。監督のイ・ジェハンは日本では「私の頭の中の消しゴム」(2004)というベタベタなメロドラマで 知られている人らしく、何でこんな作品を手がけたのか分からない。だが、その後に日本で「サヨナライツカ」(2009)、中国映画で「第3の愛」 (2016)なんて作品を撮っているところを見ると、海外映画人と組んで作品を撮る機会が多い。日本でいう佐藤純彌みたいなポジション(笑)の監督のよう である。ってことは、やはりリーアム・ニーソン対策で起用されたということなのだろうか。

さいごのひとこと

 「スター・ウォーズ/エピソード1」のニーソンよりもイラついた。

 

「ダンケルク」

 Dunkirk

Date:2017 / 12 / 04

みるまえ

 このサイトを見て来た皆さんならお分かりかと思うが、僕は長らくクリストファー・ノーランに対しては「アンチ」の立場をとってきた。それも、世評が高かった「ダークナイト」 (2008)あたりからである。実はアレ、僕はちっとも面白くなかった。もっともらしい顔をして撮っているけれども、ハッタリかましてるだけだと思ったの だった。大体アメコミ映画で「善と悪との戦いを哲学的に描く」って、みんなダマされちゃってるけどチャンチャラおかしくて話にならない。一見、シドニー・ ルメット風にリアルっぽく撮っているあたりも胡散臭さを増している。そもそもアクション演出が致命的にヘタ。…とまぁ、僕はまったく受け付けなくなってい たのだった。そんな僕が意見を改めたのは、「インセプション」 (2010)から。これもハッタリはハッタリなのだが、「ハッタリですよ」とハッキリ分かるのがいい。もっともらしく「哲学的内容」なんてフリをせずバカ 映画丸出しで撮っているのが好感持てた。そうそう、オレはハッタリ好きのバカだと言ってくれれば話は早いんだよ(笑)。そんな訳で、ハッタリ魂を前面に出 すようになったノーランは大好きだ。そんなノーランが、第二次大戦中の実話を撮る。おいおい、大丈夫なのか? 実話じゃハッタリのかましようもない。ヘタ なことが出来ない。事が戦争じゃふざける訳にいかない。どうするんだ、これは? だが、映画が公開されると概ね好評のようで、こうなってくると一刻も早く 実物を見たくなる。そして映画好きとしての本能的な「カン」から、この映画はアイマックスの巨大スクリーンで見るべきだと確信した。だとすると、見れる劇 場は絞られるし、アイマックス上映が行われている早いうちに見なければならない。最近、僕は映画は公開からしばらくしないと見ていなかったし、実際、仕事 が忙しくて時間がなかなか取れなかった。だが、本作に限っては躊躇してはならない。そこで公開間もなくの劇場に、仕事も何もかもうっちゃって飛び込んだの だった。

ないよう

 静かな人けのない町 を、6人の若いイギリス兵が歩いている。すると、頭上からヒラヒラと無数のチラシが降って来る。トミー(フィオン・ホワイトヘッド)がその1枚を手に取る と、そこにはダンケルクの地図が描かれていた。時は1940年5月。ダンケルクの三方はドイツ軍に囲まれ、残る一方は海。チラシでは、そこにでっかく 「YOU」と描いてある。トミーたち、フランス・イギリス連合軍の兵士は、このダンケルクにいよいよ追いつめられ、逃げ場を失っていたのである。そんな次 の瞬間、銃弾が雨あられと降って来る。命からがら逃げ回るトミーたちに、ドイツ軍の攻撃は情け容赦なかった。逃げ惑ううちに、残ったのはトミーただ一人。 何とか踏みとどまっている味方陣地に転がり込んで、とりあえずホッとしたような案配だ。もう、そこはすぐ目の前が海だった。砂浜には大勢の兵士たちが待 機。その数、約40万人。ただ、残念ながら帰る足がない。そこに空からドイツ軍戦闘機が襲いかかり、無防備な兵士たちにバンバン爆弾を落としていく。砂浜 に伏せたトミーに、バッサバッサと砂が降り注ぐ。だが、爆弾の餌食にならなかっただけマシだ。砂浜にはたった一本の桟橋があって、そこに帰還を待つ兵士た ちがひしめいている。まずは負傷兵たちから、病院船に乗り込んで帰国するのだ。だが、ひとつ間違ってこの桟橋で船が沈みでもしたら、もうこの場所には船は 着けない。そんな事態になることを、現場の指揮を執るボルトン中佐(ケネス・ブラナー)は大いに懸念していた。ここは「防波堤」、これから語られるのは1 週間の物語である…。一方、こちらはイギリスの対岸にあたる港町。そこに、ヨットで慌ただしく出発の準備をする人々がいた。ヨットの持ち主ドーソン(マー ク・ライランス)とその息子であるピーター(トム・グリン=カーニー)も同様である。彼らは海を隔てたダンケルクの海岸での兵士たちの窮状を知り、わずか なりとも手助けをしようと乗り出したのだ。ピーターの友人ジョージ(バリー・コーガン)の手を借りて救命胴衣などを積み込んでいると、軍の担当者がやって 来た。彼らが船を徴用して、兵士たちの救出に使おうという訳だ。だが、こんな緊急事態を人任せにする訳にはいかない。ドーソンは軍担当者の目を盗んで船を 出発させようとすると、何とジョージまで船に乗り込んで来た。危険が伴う航海なので下船させようとするドーソンだったが、ジョージは何とか役に立ちたいと 主張。仕方なくドーソンは、彼を乗せたまま出港することになる。目指すは大海原、そしてその先にあるダンケルクだ。この「海」に関わるエピソードは、1日 の出来事を語っていく…。さて、またまたお話変わって…3機のイギリス空軍戦闘機スピットファイアは、先ほど基地から飛び立ったばかり。目指すは海の彼方 のダンケルクである。燃料には限りがあり、行く手は遠い。パイロットのファリア(トム・ハーディ)は、出撃早々運悪く燃料メーターが不調であることに気づ く。一緒に飛んでいる同僚パイロットから残り燃料の量を聞いて、メーターの横にチョークで書き込んだ。それがこの戦いの生命線になるであろうことを、ベテ ラン・パイロットの彼は十二分に分かっていたのだ。この「空」での物語は、1時間の出来事によって展開する…。かくして、陸・海・空、それぞれの立ち位置 から、ダンケルクの救出作戦が行われようとしていたのだった…。

みたあと
  まず、最初に断っておかねばならないのは、僕が本作をアイマックス上映で見ていることである。そして、アイマックス以外では見ていない。つまり、アイマッ クス以外では本作がどう見えるのか、まったく把握していない。他の作品では、別に上映方法はそれほど問題にならない。例えば「キングコング/髑髏島の巨神」 (2017)を普通のスクリーンで2Dで見たところで、多少迫力は減じたとしても面白さには何ら遜色はないだろうと思う。だが、本作はそうはいかないかも しれない。比べて見た訳ではないので安易な結論は言えないが、少なくとも本作をアイマックスで見るのとそうでないのとでは、かなりの違いが生じると思える のだ。まずは、それを前提にこの感想文を読んで欲しい。

みどころ

  そんな訳で本作の「みどころ」も、アイマックス・バージョン前提で話さなければならない。もちろん普通の35ミリ・フォーマット上映だったとしても、それ なりに効果はあるかもしれないのだが…。ともかく、本作(のアイマックス・バージョン)は、一種の「映像体験」というのがふさわしい。これは先にも述べた ように、他の映画をアイマックス・バージョンで見た時とは明らかに異なる感覚だ。これは単に画面がデカいからスペクタクルというのとも違う。それが証拠 に、本作の3分の1のエピソードは、狭い戦闘機のコックピットの風景である。だが、デカいアイマックス・フォーマットで撮った結果、その「狭さ」を実感で きる仕上がりになっている。このあたりが「体験」たる所以である。さらにノーランは本作でCGを極力使用していないらしく、ホンモノの戦闘機を飛ばして撮 影している。こんな事はあまり言いたくないし根拠なしの「精神論」みたいでイヤなのだが、やはり今回に限ってはそのホンモノ撮影が「実感」醸成に貢献して いると言わざるを得ない。徹底的にそんな「実感」を映像によって生み出しているのが本作の特徴である。だが、それがリアリティかと言うと、微妙なところが 本作のユニークなところ。そもそも、陸・海・空の3つのエピソードを、それぞれ1週間、1日、1時間と時制を変えながらパラレルに並行させて描いていくっ て、リアリティもクソもないではないか。この救出作戦を多角的に描きたいが、2時間の映画の中で陸・海・空を描くと時間軸がまったく合わない、だからそれ ぞれのモノサシを替えた…っていうのは一見もっともなようで、実は一番リアリティから遠いことかもしれない。時制をいじくるのはノーランとしては「メメント」 (2000)以来の得意技なので別に驚きはしないが、まさか「実話」が売りの作品でそれをやるとは思わなかった。正直ビックリである。しかも、それがぶっ きら棒に画面にスーパーインポーズ・タイトルで出て来るだけだから、最初は観客には何が起きているのか分からない。徹底的に説明をしない。それは不親切と いうより、状況を分からせるということにあまり意味を見出だしていないということなのだろう。そして「リアリティ」ということでいえば、実は僕自身、近年 の戦争映画における「リアリティ」にはちょっと辟易しているところもあった。スピルバーグの「プライベート・ライアン」(1998)以来、戦争映画の基準 みたいなものが変わって、弾丸が飛び、血肉が飛ばないと戦争映画はダメ…みたいな空気になってしまっていた。それが「ブラックホーク・ダウン」 (2001)あたりならまだ映画としての質的向上に貢献していた感じもしたのだが、ここ最近はひたすら描写をエスカレートさせて残酷ショーみたいになって しまったきらいもあった。ところが本作はそういう「ミクロ」な戦争描写はあまりない。血も出て来ないし肉も飛ばない。むしろアイマックス・フォーマットを 導入したことをはじめとして、俯瞰で戦争を見る「マクロ」な視点に終始する。これは僕にとっては新しく感じた。俯瞰で捉えるから、個々の登場人物が何を考 えているのか、どういう感情を持っているのかも分からない。トム・ハーディなんて「ダークナイト・ライジング」(2012)や「マッドマックス/怒りのデス・ロード」 (2015)みたいにほとんど顔を隠しっぱなし。だが、そんなことはどうでもいい…とばかりに本作ではすっ飛ばされてる。スッ飛ばされてるといえば、そも そも本作は敵のドイツ軍がまったく出て来ない。いや、確かにいるのだが顔が一向に見えて来ない。見せようという気がない。これは意図的なものだろう。大 体、戦闘状況に身を置いている当事者にとっては、細部も作戦の進行状況も、そこにいる他人の感情なんてものも掴める訳がない。誰も親切に説明してくれる訳 もないのだ。だとすると、これはこれでノーランなりの「リアリティ」なのかもしれないのだ。少なくとも、戦争映画における「リアリティ」の基準にくさびを 打ち込んだという点で、本作は評価されるべきだと思う。ともかく僕は、アイマックスでの圧倒的な映像に素直に感心してしまった。もうひとつ感心したのはエ ンディングで…本作の終盤ではトム・ハーディのベテラン・パイロットの英雄的大活躍が描かれ、主人公…と言ってもいい若い兵士トミーが列車に乗って、も らった新聞を音読する。それはチャーチルの演説の内容なのだが、イギリス国民を鼓舞するような実に感動的なものだ。このあたりで音楽もぐーっと高揚して来 て、意外にもノーランはストレートに作品を盛り上げようとしているのかな?…とついつい思わされる。さすがのクセ者ノーランでも、本作ではイギリス人魂が 炸裂したんだろうか…などと僕がバカなことをボンヤリ考え始めたその時…。トミーがチャーチルの演説を読み終え、サッと画面が暗くなって映画の物語が幕を 閉じる寸前のほんの何秒間かの間に…ほんのわずかチラリとだけ、そのトミーのシラケわたった表情が画面に写るではないか。これ、注意して見ていないと気づ かないくらいのワンショットなので実に微妙なのだが、この終幕間際のシラケ顔はスゴい。アレだけ最後に観客の気分を高揚させておいて、ストーンと落とすあ たりの呼吸が何ともノーランらしい。ここで素直に盛り上げられたら「おいおい!」と言いたくなってしまうところだけに…また、そうしようと思ったら出来て しまうし、実際に凡百の映画作家だったらそうしてしまいそうな場面だけに、最後のシラケ顔には思わず膝を打ってしまった。この覚めた視点があるから、本作 は真に優れた戦争映画になっていると思うのである。僕はこのノーランに全面的に賛成だ。お得意の時制のいじりよりも、アイマックスの巨大フォーマットより も、このラストのわずかなシラケ顔が、僕にとっては値千金の破壊力に思えるのである。

さいごのひとこと

 ラストを見損なうと大画面も無駄。

 

「ワンダーウーマン」

 Wonder Woman

Date:2017 / 12 / 04

みるまえ

  船出早々先行きがアヤシくなっていたDCコミックスのなんちゃらユニバース作品で、初めて大成功を果たしたのが「ワンダーウーマン」。実はこれ、公開前か ら何となくそんな予感していた人は少なくないんじゃないだろうか。僕は元々期待値が低かったから、他の人ほど「バットマンvsスーパーマン/ジャスティス の誕生」(2016)にさほどガッカリはしていなかった。でも、確かに残念な映画だったのは間違いない。ただ、そんなあの映画の中でも、ワンダーウーマン登場場面だけは光っていた。彼女が出てきたとたん、画面 がイキイキしてきたのを否定できない。これは理屈じゃない。それまでワンダーウーマン役のガル・ガドットって、「ワイルド・スピード EURO MISSION」(2013)などに出ていてもそれほど目立っていた訳ではない。だが、例の「バットマンvsスーパーマン」では完全に彼女の出番だけが輝 いていた。だから単独作の「ワンダーウーマン」もある程度成功するだろうという予感はあった。だが、それにしても…の大成功である。しかも、ヒットだけで なく批評的にも絶賛らしい。DCコミックスは完全にマーベルの後塵を拝していたから、まずはめでたしと言うべきだろう。だが、そうなったらそうなったで、 変な話も漂って来る。まずは「ワンダーウーマン」がフェミニズムの闘士みたいな言われようである。これは主演のガル・ガドットも監督のパティ・ジェンキン スもそう主張しているみたいだから、ハタで勝手に言っている訳ではないだろう。まぁ、強い女が主人公なんだから、そう言えなくもない。だけど単に冒険活劇の主 役の話で、いちいち大袈裟にわめき立てるのもいかがなものなんだろう。強い主人公が活躍する面白い話だったら、男でも女でも何でもいいよ。ことさらにこれ を「フェミニズムの勝利」みたいに言わなきゃいけないのかね。言ってる僕が男だからこれも色眼鏡で見られちゃうだろうけど、正直言ってそういうのはシラける。大 体、それほど高邁な理想や高い志を掲げて作っていた訳じゃないように思うのだが…。そして、すべての映画にそんな高邁さがなきゃならないとも思わないし。 結局、これを撮ったのが女性監督のパティ・ジェンキンスだから、「女の、女による、女のための映画」的なムードが漂って来たんだろうけど、これあくまで 「ワンダーウーマン」だからなぁ。そもそも、パティ・ジェンキンスって人もイマイチつかみどころのない人で、その前に撮って話題になったのが「モンス ター」(2003)というから、その様変わりの激しさに驚かされる。作家的な映画を撮る人かと思ったら、いきなり「ワンダーウーマン」である。だから、な おさら立派な意図があって作ったんだと言いたかったんだろうか。もっとも、ジェンキンスはあの話題になったはずの「モンスター」の後はテレビしか撮れず、 これが14年ぶりの劇場映画ってことになるのだから、そりゃあ「女の、女による…」って主張のひとつも言いたくなるかもしれない。さすがにハリウッドはイ マドキ女性映画人を冷遇し過ぎと言わざるを得ない。で、もうひとつの「引っかかり」がガル・ガドットの出自というか…この人がイスラエル出身ということは 知っていたが、母国で兵役に就いていたとは知らなんだ。それはどうしようもないこととして、微妙なのは彼女がガザ侵攻を支持していたらしいこと。しかも、ガル・ ガドット自身がこの映画の後で国連大使か何かになって活動したらしいということだ。僕は映画の主演者の思想がどうだろうと…多少不快に思うことはあるかも しれないが、基本的に関係ないと思っている。ジョン・ウェインの個人的思想がアレだからといって、彼の西部劇はキライじゃない。イスラエル・パレスチナの 問題でも、赤勝て白勝て…的にどうこう言える立場じゃない。だが、さすがに「ガザ侵攻支持」は正直言ってちょっと退くわ。そもそも…だったら『ワンダーウーマン」は 「面白くて楽しい冒険活劇です」ってことに徹すればいいことであって、「女の、女による…」とか国連大使とか、そんな余計なコロモをまとわせなければいい 話だ。何で高級なモノに見られたがるんだろう。ただの娯楽映画でいいではないか。ふ〜っ、何だかここに書いたことで、「女性の敵」扱いされそうで怖い (笑)。だけど、見る前に少々どんよりしちゃったことは事実なのだ。本当にスッキリ楽しませてくれよ。そんな訳で、見に行くのが大幅に遅れた上に、感想を 書くのがさらに遅れてしまったという訳だ。

ないよう

 パリ、ルーブル美術 館。そこで働く知的美女ダイアナ(ガル・ガドット)のもとに、一通の郵便物が届く。送り主の名は、ブルース・ウェイン。封筒を開けて出て来たのは、一枚の 古い写真だ。その写真が撮影されたのは戦場となったヨーロッパの街だろうか、武器を持った4人の男たちを従えて中央に立っているのは、剣を持って勇ましい コスチュームに身を包んだ…ダイアナ自身ではないか。その写真を見つめながら、ダイアナの脳裏にはいつしかかつての懐かしい思い出が…。女性だけのアマゾ ン戦士が暮らす南海のセミスキラ島。この島では戦士も女たち。その勇ましい戦いっぷりを見つめながら、幼い日のダイアナは自らも戦士になることを夢見てい た。だが、王女であるダイアナは、母で女王のヒッポリタ(コニー・ニールセン)に厳しい訓練は止められていた。それでも諦められないダイアナは、その資質 に目をつけた叔母で勇猛な戦士アンティオペ(ロビン・ライト)の下で、秘かに特訓を続けていく。そもそもセミスキラ島の成り立ちは、創造主ゼウスの時代に さかのぼる。ゼウスの子供たちの中でも厄介者が、「軍神」アレス。人間をそそのかしては戦争を起こし、多くの人々の命を奪って土地を荒廃させた。それに対 抗するためにゼウスが作り出したのが、アマゾンの戦士たちなのだ。彼女たちの活躍のおかげでアレスは倒され、ゼウスはアマゾン戦士たちが暮らすためのセミ スキラ島を作り、人から見つからないようなバリアを張って外界から遮断した。現在でも、アレスと戦った時に用いた聖剣「ゴッド・キラー」が城内に保管され ているのは、「万が一」のことが起きた時のためだ。だがアンティオペはそれがいずれ現実のものとなることを懸念し、それ故ダイアナを鍛えたいと思っていた のだ。こうして日々鍛錬を繰り返すうちに、ダイアナは島でも群を抜いた戦士に成長した。そうなると、さすがに隠しておけず女王ヒッポリタにバレてしまう が、アンティオペは「いずれまたアレスは戻って来る」と主張し、ダイアナの訓練を認めさせるのだった。そんな彼女の特訓の最中、突然驚くべきことが起こっ た。戦いが劣勢になった時、思わず両腕を交差させてかざしたとたん、驚異的なパワーがあたりを一気に制圧したのだ。このパワーの出どころも分からず大いに 戸惑うダイアナは、ひとり崖の上から海を見つめる。すると、いきなり目の前の空から一機の飛行機が現れ、海に墜落するではないか。とっさに崖から飛び込ん だダイアナは沈む飛行機に乗っていた男を救助。海岸まで引っ張って行く。気絶していた男が目を覚ますと、ダイアナは彼のことを好奇心たっぷりに見つめてい た。「あなたは男? 男なのね?」…当たり前のことを問われて大いに困惑するこの男スティーブ(クリス・パイン)だったが、彼が実はドイツ軍に潜入してい たアメリカのスパイだったことから、ダイアナの運命は大きく変わっていくのだった…。

みたあと
 まず、最初に断っておか ねばならない。この感想文冒頭に書いていた僕の懸念については、見ている間はスッカリ頭から消えていた(笑)。消えていたからといって、フェミニズム映画 だとか「ガザ侵攻」云々だとかの胡散臭さは少しも晴れていないのだが、実際、映画を見ていた時にはそんなことをまったく考えなかったと告白しなければフェ アじゃないだろう。それはやはり娯楽映画としての本作の安定感の証だと言わねばならない。それは認めないと、僕も娯楽映画を語る資格がないとい うものだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  まずは、確かにフェミニズム的な色彩はどうしても帯びることになる本作だが、それはあくまで外界から現れたワンダーウーマン=ダイアナと現実社会とのカル チャーギャップ・コメディのカタチで表現されるのでイヤミがない。それと、現代劇ではなく第一次世界大戦中の話ということで「ワン・クッション」あること から救われている部分もあるのだろう。また、第一次大戦中のヨーロッパが舞台であることや主人公がある種の「天然」であることから、お話にどこかおっとり とした上品さがあることもプラスに働いたのだろう。実際の戦いになってくるとぐんぐん痛快さが増して来るが、その辺りもヒロインの「天然」さ故である。た だ、軍神アレスが正体を現し、ヒロインが戦いに明け暮れる人類に愛想尽かしするくだりからはちょっと微妙な感じになってくる。そもそもそれを言ってしまう と、平和のために「戦う」というヒロインの存在自体に矛盾が存在しているのだが、それは言わない約束(笑)。そのあたりをモタモタ描いていたら、例のヒロ イン女優にまつわるアレコレまで思い出しちゃいそうになってしまう(笑)ところを、本作の監督・脚本家は微妙に回避。また、ヒロインがアレスと勝手に戦っ ている間に人間の方はピンチになっちゃってて、特にスティーブに至っては…という風に見えてしまいそうなところも本作の構成の危ういところだった。ところ が、爆風でヒロインの耳が聞こえなくなっていてスティーブの言ってることが分からない…という細かいワザも使って、ヒロインにネガティブなイメージがつか ないようにしている。このあたりの細かい配慮は監督のパティ・ジェンキンズ、脚本のアラン・ハインバーグのお手柄だろう。だが、やはり最高殊勲選手は主役 を張ったガル・ガドットで、もうこの役が天性のものだったと言うしかない。本作は特に特異な凄いアクションを見せている訳でもないし、お話だってユニーク なものではない。ズバ抜けて脚本が巧みな訳でもない。そもそもCG満載のハリウッド娯楽大作として、実は第一次大戦時のお話ってちょっと地味なはずだろ う。なのに、最初から彼女には華がある。あのしょうもない「バットマンvsスーパーマン」ですら彼女が出て来ただけで面白く感じたのだから、これはホンモ ノと言わざるを得ない。ただ、これはもう普通の役はなかなか出来なくなっちゃったかもしれないなぁ。そして、おそらく時代がかなり下ってくるであろう続篇 がどうなるのか、ちょっとそのあたりが気になるのである。

さいごのひとこと

 観客も主役も現実逃避。

 


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