新作映画1000本ノック 2017年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「バーニング・オーシャン」 「フリー・ファイヤー」 「人生タクシー」 「はじまりへの旅」
 

「バーニング・オーシャン」

 Deepwater Horizon

Date:2017 / 05 / 29

みるまえ

  海上の油田基地で起こった火災事故を描く映画…と聞くと、1970年代パニック映画好きとしては食指がピクピク動く。一瞬、元007役者ロジャー・ムーア 主演の「北海ハイジャック」(1979)あたりが頭にチラついたが、どうやらチラシの絵柄などを見るとシリアスな内容のようだ。主演はマーク・ウォール バーグと来ると、海難モノでは「パーフェクトストーム」 (2000)が脳裏に浮かぶ。となると、こいつも「負け戦」映画か? チラシを文字通りチラ見した限りでは、これはどうも実話のようだ。あんまり情報も得 ないままにボケ〜ッとしていたら、何となく上映が終了しそう。ヤバいと慌てて劇場に駆けつけたというのが正直なところだ。

ないよう

  ある海難審判で、証言者としてマイク・ウィリアムズという男が証言台に立った時の音声が聞こえて来る。「事故」の前に違和感のある「摩擦音」が聞こえて来 た…など、質問に淡々と答えていくマイク。だが、「事前に警報は鳴ったのか?」という質問が投げかけられたとたん、マイクは言葉に詰まってしまう。果たし てその「事故」の際、現場では何が起きていたのか…? 早朝の目覚ましの音で、ベッドで目を覚ますマイク(マーク・ウォールバーグ)。その日は2010年 4月20日。マイクがまたまた長期出張に旅立つ日だ。だからマイクは、その朝も妻フェリシア(ケイト・ハドソン)と別れを惜しむ。その後、マイクは朝食を とりながら娘との会話を楽しんだ。娘は学校で発表するべく、「お父さんの仕事」に関する作文を書いていたのだ。マイクは石油掘削会社で働くエンジニア。海 上にある油田基地ディープウォーター・ホライズンで海底から掘削作業を進める仕事に従事していた。その原理を説明するため、その場にある金属製のストロー にハチミツを詰め、コーラ缶にを突き刺して見せる娘。だが、ハチミツじゃ少々弱かったか、コーラはストローから逆噴射。マイクもフェリシアも爆笑してしま うが、果たして、それは何かの前兆だったのか…? ともかくフェリシアはクルマでマイクを出発ステーションまで送り、そこでマイクは直属の上司ジミー・ハ レル(カート・ラッセル)と再会。ここでは一緒にディープウォーター・ホライズンに向かうアンドレア・フレイタス(ジーナ・ロドリゲス)とBP社から派遣 されていたオブライアン(ジェームズ・デュモン)とシムズ(ジョー・クレスト)とも合流した。アンドレアはディープウォーター・ホライズンの操縦担当。こ の油田基地は、海底への支柱なしに海上に浮かぶ一種の船なのだ。そしてジミーは、いきなりBP社のオブライアンのネクタイをはずしてくれと言い出す。最初 は冗談かと思っていたオブライアンとシムズだったが、ジミーは笑顔ながら目は笑っていない。それというのも、オブライアンのネクタイが赤紫色だったから。 赤紫色はディープウォーター・ホライズンにおける警報の最高レベルの色。単なる迷信と言わば言え。海の男たちにとって、長年の経験からジンクスにはシャレ にならない部分があるのだ。こうしてヘリに乗ったマイクたちは、ディープウォーター・ホライズンへと向かう。ところがヘリの上からディープウォーター・ホ ライズン近くに一隻の運搬船が到着しているのを見て、ジミーはまたまたイヤな予感に囚われる。この運搬船は掘削した油田から出て来る汚泥水を運ぶものだ が、それが予定より早く到着しているのだ。ディープウォーター・ホライズンのヘリポートに着陸したジミーは、交代でヘリに乗って帰ろうとする作業員たちに 声をかける。「セメントテストはやったのか? テストは?」と彼らの何人かに尋ねるが、誰も彼ものらりくらりと答えて要領を得ない。ジミーの胸の中に、漠 然とした不安が広がる。どうやらこの事態が起きた黒幕はBP社から送り込まれている管理職のドナルド・ヴィドリン(ジョン・マルコビッチ)とロバート・カ ルーザ(ブラッド・リーランド)だと分かったジミーは、そのヴィドリンとカルーザ、そしてマイクや関係各所のリーダークラスを集めて緊急会議を召集する。 すると元凶のヴィドリンは、「セメントテストは省略した」と開き直る。このテストをやらない事で、かなりのコストカットになる。それより何より、大幅な時 間短縮になると言うのだ。実はこの基地での採掘作業は、計画より40日以上も遅れていた。その遅れを何とか取り戻さねばならないというのが、BP社本社か らの至上命令なのだ。そして、そこを突かれるとジミーも弱い。安全重視で一歩も退かない態度を見せながらも、しかるべきテストを行うなら作業続行も止むを 得ないという方向で話は進む。こうして、まずは海底から延びるパイプについて、減圧テストを実施。すると、突然異常に高い数値が出て来るではないか。一同 に緊張が走る。これを見たジミーは作業続行に「ノー」と言うが、ヴィドリンの意見は違っていた。ヴィドリンは計測結果に不具合があったと主張するのであ る。それが証拠に、パイプをつないでいる箇所から、粘土がまったく染み出していない。本当にこれほど異常な圧力がかかっているのなら、粘土が染み出さない はずがない。そう言われると、ジミーもむやみに反論は出来ない。それでもジミーは何とか粘って、もうひとつのテストを行うと提案。だが、その結果が出る前 にジミーは「無事故表彰」を仲間から祝われるために食堂に行かねばならなかった。こうしてジミー抜きで行われたテストも、始まった当初は圧力が上がったも のの、すぐに減圧。これを見たヴィドリンはそれ見たことかとご機嫌だ。「さぁ、作業を開始しろ。ジミーの承認などなくてもいい!」…だが、その場の作業員 はさすがにそうはいかなかった。結局、食堂のジミーに電話で連絡。ジミーも大いに迷ったものの、最終的に圧力が下がったなら仕方ないと「ゴー」サインを出 した。作業開始である。ジミーは長い作業のために自室でシャワーを浴び始め、マイクも自室のパソコンで妻フェリシアとスカイプのやりとりを始める。こうし て、すべては順調に進み始めたかに見えたのだが…。海底では異変が起きていた。パイプが延びている周辺から、次々天然ガスの泡が漏れ出していたのだ。異変 を感じた作業員たちはパイプ周辺を見つめるが…何とジワジワと粘土が染み出し始めているではないか。マズい!…と思った次の瞬間、パイプがつながる床から いきなり激しい噴出が起きる。油まみれ泥まみれとなる作業員たち。それでも何とかバルブを締めて事態を収拾しようとするが、一度勢いづいた圧力は止まらな い。すぐにもっと強烈な噴出が発生し、コントロールルームも粉砕されてしまう。この噴出はディープウォーター・ホライズン全体に高く及び、気化した油が基 地全体に充満。アッと言う間に引火して、ディープウォーター・ホライズンは大爆発。スカイプでしゃべっていたマイクもシャワーを浴びていたジミーも、アッ という間に爆風で吹き飛ばされてしまうのだった…。

みたあと
  これも「実話」である。僕はこの事故について明るくないが、どうも史上最悪の原油流出事故となったようだ。当然、本作はヒロイズムをうたい上げる類いのも のではないし、アドベンチャーとしての面白さもない。何しろ大惨事の映画化なのである。マーク・ウォールバーグもカート・ラッセルも、そこでは無力な関係 者に過ぎない。「必ず、生きて還る」という「海猿」(笑)みたいな宣伝コピーがチラシやポスターには書いてあるが、そんなカッチョいい話ではない。人間た ちが、ただただやられっぱなしになる話なのである。それも、「実話」の映画化となれば仕方がない。変にヒロイックにしない方が、正解というものかもしれな いのだ。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  先にも述べたように、本作は実話に即して描かれている。だからウォールバーグもカート・ラッセルも、事態が完全に手遅れになるまではまったく活躍しない。 それは仕方のないことだというのは分かるのだが、両者ともチンタラして不用心にその瞬間を迎えてしまったように見えてしまうのはキツい。本人たちが悪い訳 でもないし、本当のことであるとは承知していても、見ていてあまりにも気勢が上がらない。そして「実話」であることにこだわっている割には、「善玉」側 ウォールバーグとカート・ラッセル、「悪玉」側ジョン・マルコビッチ…という色分けが出来ちゃっているせいか、中途半端に娯楽映画色が出てしまっている。 リアルなお話ならば、ここまでマルコビッチに「悪役」然とした演技をさせなかっただろう。そのくらい、「水戸黄門」の悪代官でもやっているかのようにマル コビッチは見事な「悪役」なのである。これではリアリティを云々するのもヤボというものだ。もっとマズいのは、事態がどんどん悪くなっていることは理解で きるのだが、実際はどのようにマズいのかということを視覚的に見せていないこと。もちろん冒頭でウォールバーグの子供にコーラの缶を使って「実験」をさせ ているのは、それで観客にこれから起きることの予習をさせようということなのだろう。だが、あれだけではちょっと分かりにくいと言わざるを得ない。だか ら、実際には何がどう悪くて事故が起きたのか、観客にはあまりよく分からない。ただヤバそうとだけしか分からないのだ。さらに事故が起きてからの描き方に しても、ディープウォーター・ホライズン全体の構造や位置関係が分からないから、何だかとにかく大変だとしか分からない。これも正直言ってもったいなかっ た。より「実話」のリアリティを求めるなら「善玉」対「悪玉」的な単純なキャラクターの描き方をするべきではなかったし、より娯楽映画的に描くならば主人 公たちがチンタラしてるみたいに見えるのはマズかった。そしてどちらに寄るにしても、事故がどうして起きているのかの説明と、ディープウォーター・ホライ ズンの位置関係は観客に分かりやすく描くべきだった。監督のピーター・バーグは、前作「ローン・サバイバー」(2013)が未見。この作品はアフガンでの 戦闘を描いてなかなか好評だったみたいだが、それ以外は「ランダウン/ロッキング・イン・アマゾン」(2003)、「キングダム/見えざる敵」(2007)、「ハンコック」(2008)、「バトルシップ」(2012)…とドップリ娯楽映画指向だし、各作品の出来もかなりバラつきがある様子。こういう実話モノの映画化には向いてない人だったんじゃないだろうか。

さいごのひとこと

 あの状況でシャワーを浴びてる場面ではイラッとした。

 

「フリー・ファイヤー」

 Free Fire

Date:2017 / 05 / 22

みるまえ

  この映画のことは、劇場のチラシで知った。まず目に飛び込んで来たのはマーティン・スコセッシ製作総指揮…の文字。だが、大体がこの「製作総指揮」という 肩書きは、かつてのジョージ・ルーカスみたいな人以外ではほとんど名前を貸しているぐらいのものという印象がある。なので、名前はデカデカと載せてあって も、必ずしもスコセッシの映画という訳ではないだろう。そこでキャストを見てみると、いるわいるわ…。「第9地区」(2009)で知られてからはすっかりハリウッドにも馴染んだ南アフリカ出身シャルト・コプリー、近年はクリストファー・ノーラン作品などにも出る売れっ子キリアン・マーフィー、「コードネームU.N.C.L.E.」(2015)でナポレオン・ソロの相棒イリアを演じていたアーミー・ハマー、そして「ルーム」 (2015)でオスカーを取ったばかりのホットな女優ブリー・ラーソン…などなど、なかなかクセモノ揃いの豪華な顔ぶれが揃っているではないか。チラシを 見る限りでは、こいつらをはじめとする10人ぐらいの連中がほぼ全編撃ち合いを演じる映画だという。ほぼ全編銃撃戦…というアイディアはなかなか面白そ う。その大混乱がブラックユーモア的に描かれている…という感じなのではないか。これは絶対に楽しそうだ。ゴールデンウィーク映画の大作話題作は数々あれ ど、僕はまずこの作品から見ることに決めた。

ないよう

 1970 年代、マサチューセッツ州ボストン。夜の街を一台のキャンピングカーが走っている。クルマに乗っているのは、ステーヴォ(サム・ライリー)とバーニー(エ ンゾ・シレンティ)という二人の男。二人はどうやら何かのヤバい「取り引き」に向かう途中らしい。そんな中、ステーヴォが気にしているのは目の下のデカい アザ。どうも昨夜何かやらかしたらしいが、彼としてはせっかくありついた「仕事」を前にみっともないところは見せたくないらしい。その頃、別の一団がクル マの中でステーヴォとバーニーが来るのを待ち構えていた。こちらにいるのはクリス(キリアン・マーフィー)、フランク(マイケル・スマイリー)、ジャス ティン(ブリー・ラーソン)の三人。クリスはアイルランドの過激派IRAのメンバーで、彼らの活動のために銃を買いにやって来た。フランクはその片腕であ る。その銃の取り引きの手引きをしたのが、女ギャングのジャスティンというわけだ。やがてそこにステーヴォとバーニーが合流したが、とにかく気が短いフラ ンクは「遅い!」とイライラ。元々、彼の「身内」であるステーヴォが少々要領の悪い男だったこともあり、早くもお小言が始まった。クリスいわく、そんなフ ランクがヘマをやらないように見張っているのが彼の役割らしい。そんなこんなしているうち、暗闇から一人の男がやって来る。手引きしたジャスティンが連れ て来たその男の名はオード(アーミー・ハマー)。服もしゃべり方もちょっと気取ったこの男は、今回の取り引きの「売り手」側の人物だ。だが、すぐにイラつ くフランクは、そんなオードの言動も気に入らなそうだ。ともかくオードは、一同をすぐそばの大きな廃工場の建物へと案内する。中で待ち構えていたのは、武 器商人のヴァーノン(シャルト・コプリー)とその相棒の黒人男マーティン(バボー・シーセイ)。ヴァーノンは南アフリカ出身で、元ブラックパンサーのメン バーだったマーティンとの間には悪気はないが微妙にヒリつく瞬間がある。また、クリスはジャスティンにちょっと気があるようで、早速、彼女を「取り引き」 の後で食事に誘ったりする。ところがヴァーノンはジャスティンと古い馴染みのようで、この男もジャスティンに言い寄る気マンマンだ。ともかく売り手・買い 手の挨拶が済んだところで「ブツ」を披露ということになる。すると、合図によって廃工場の中に一台のミニバンが入って来る。クルマに乗っているのはゴード ン(ノア・テイラー)とハリー(ジャック・レイナー)。クルマの持ち主ゴードンの好みなのか、ジョン・デンバーの8トラック・テープを大音響で流しながら の入場である。ところがその様子を見ているうち、突然ステーヴォがその場を離れようとする、それをバーニーが慌てて制止したが、ステーヴォは妙に落ち着き がなくなった。実はステーヴォを昨夜殴った男というのは、誰あろう今入って来たハリー。それも、ちょっとやそっとではないトラブルが原因だった。焦ったス テーヴォは何とか顔を隠そうとする。さて、ミニバンからは銃の箱が次々降ろされるが問題はこの「銃」。クリスは銃の実物を見て、早速難色を示した。何と彼 が頼んでいたモノと違う型の銃が用意されていたのだ。ここで場の空気はまたしても凍る。だがヴァーノンは「せっかく調達してやったんだ」と一歩も譲らな い。「これだって銃は銃だ」といういい分だ。「ならば試し撃ちをさせてくれ」とのクリスの頼みに、一丁の銃に弾が込められた。クリスはその銃で廃工場の壁 やロッカーやらをバリバリ撃ちまくる。なるほど、この銃も大した破壊力だ。だが満足したクリスの傍らで、壁の破片が飛んで来てご自慢のスーツが汚れた ヴァーノンは、苦虫噛み潰したような顔。ともかく、これで取り引きは成立となりそうだ。実はヴァーノン、売るのは銃だけで弾は別料金として、ちょいと儲け を増やそうと企んでいた。だから、文句を言わずサッサと話を進めたいという気もあった訳だ。そんな訳で取り引きはサクサクと進むはず…だったのだが、案の 定、トラブルが起きた。ハリーがステーヴォを見つけてしまったのだ。怒り心頭のハリーは、ステーヴォにつかみ掛かる。だが、売り手側と買い手側の双方で、 何とかハリーとステーヴォを制止。せっかく成立しかかった取り引きを、こんな下っ端のバカなケンカで台無しにしたくはなかったのだ。ハリーがステーヴォを 殴ったという経緯は、そもそもステーヴォがハリーの従姉妹を酷い目に遭わせたからだと分かり、フランクはステーヴォを「一族の面汚し」ととっちめる。ここ は買い手側がステーヴォを痛めつけ、ハリーに謝罪させることで「チャラ」とする…と何とか話は決まったのだが、いざ謝罪…となったらこんな時だけステー ヴォは妙にイキがるからバカは始末が悪い。さらに頭を沸騰させたハリーがステーヴォの肩を撃ったことで、事態は急転した。まさに一触即発。それまで何とか 取り引きを成立させようとしていた売り手側と買い手側は一瞬でパッとその場に散って、何が何やら分からないままに相手に向かって銃をぶっ放し始める。こう して薄汚い廃工場の中を舞台に、いつ終わるとも知れぬ銃撃戦の火ぶたが切られたのだった…。

みたあと
  ほぼ全編銃撃戦が繰り広げられる映画。その印象は間違いではない。だが、もうひとつこの映画を語る上で大切な要素がある。それは、なぜか本作の時代背景が 1970年代になっていることだ。当然、登場人物のファッションも髪型もどこか野暮ったい1970年代スタイル。それが…実に嬉しい。何しろ僕は1970 年代アメリカ映画から見始めたから、このスタイルで描かれているアメリカ映画が大好き。そしてこの時代のアメリカ映画には、アクション映画に佳作が多かっ たのだ。特にこの当時のワーナー・ブラザース映画は、アクション映画の宝庫。「ア・ワーナー・コミュニケーションズ・カンパニー」と表記されたロゴが出て 来る時代のワーナー映画は、アクション映画やサスペンス映画がイキイキしていた。そのあたりのことは、「アルゴ」(2012)感想文にも書いてあるのでご一読いただきたいのだが…そんな訳で本作が「意味もなく」1970年代の話になっているので思わずニンマリ。さらに笑っちゃったのが、ブリー・ラーソンが「キングコング/髑髏島の巨神」 (2017)に引き続いて1970年代の姉ちゃんを演じていることだろうか。オスカー取ってるのに全然偉そうになってない(笑)。完全に「こっち側」の人 になってくれて、本当に嬉しい。しかも、「コング」に続いてまたまたブリー・ラーソンとCCRのコラボ(笑)が実現しているので笑ってしまった。そんな訳 で、最初からご機嫌になってしまった本作。惜しむらくは本作もワーナー映画だったら良かったのに。あのワーナー・マークを冒頭につけてくれたら、雰囲気満 点だったのにねぇ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  見る前に思っていた予想はほぼ正しかった。10人ぐらいの連中がほぼ全編撃ち合いを演じる映画だし、その大混乱がブラックユーモア的に描かれている…とい うのもその通り。思った通りの作品だった。普通は予想通りに映画が出来上がっていると、意外につまらないもの。だが、本作はやってるやってる…と嬉しく なった。それはクセモノ揃いのキャストのおかげでもある。そして脚本のキメの細かさ…特に銃撃戦に入る前までの部分…も、本作の美点のひとつだ。銃の取り 引きというたったひとつの目的のために、集まって来た10人の連中。それぞれ、別に仲が良かったり気が合うから集まって来た訳ではない。しかも、どいつも クセの強い奴ばかり。だから顔を合わせるや、あっちでチクチク、こっちでビシビシ…とちょっとした火花が散る。それらひとつひとつは些細なことで、それで もカネとモノのために、何とか我慢と妥協をしてこの場をやり過ごそうとする一同。だが、そんなチクチクが積み重なって、確実に各人のストレスは高まり負荷 は増していく。そのあたりのちょっとしたストレスの追加されていく様子が、実にうまいのである。こんなヤクザな連中でなくても、僕らが日常感じているよう な事ばかりだから、ついついクスクス笑ってしまう。最終的にはこれが飽和状態になって銃撃戦に突入するのだが、そこまでの持っていき方がうまい。そしてそ んな小競り合いが、その後の各人の戦いっぷりに反映していくあたりも面白い。ただ、実際に銃撃戦が始まってしまうと、実はそれほど爆発的に面白い訳ではな い。お互いの悪態のつきっぷりやらグダグダ感溢れる撃ち合いぶりは楽しいし笑えるのだが、言ってしまえば単なる銃の撃ち合いの連続でしかないので、しばら くするとちょっとダレて来ることは否定できない。また、戦っている各人の位置関係も分かるようでよく分からないから、そのへんもちょっともどかしくはなっ てくる。だから「大傑作!」とまでは持ち上げないものの、充実した役者たちの力もあって終始楽しませてはくれる。さらに、ここぞというところで使われる ジョン・デンバーの爽やかな歌声が爆笑を誘う。ここで、イマドキは忘れられていたジョン・デンバーを思い出した本作の作り手たちは、思わず「やった!」と 小躍りしたことだろう。監督のベン・ウィートリーは前作「ハイ・ライズ」(2016)は未見ながら、実はあまりいい評判は聞いていなかった。だから本作の 出来映えに一抹の不安を抱いていたのだが、本作はなかなか面白い。そして先にも述べたように単なる銃の撃ち合いなので単調になりそうなところを、90分と いう短い上映時間でサッと切り上げたのは賢明だった。このコンパクトさだからこそ、楽しい作品になっているのである。

さいごのひとこと

 ブリー・ラーソンが映画に出るたびにCCRを流せ。

 

「人生タクシー」

 Taxi

Date:2017 / 05 / 01

みるまえ

  こんなことを言ったら映画ファンみんなに総攻撃されそうだが、いわゆる「イラン映画」というと漠然と頭に浮かぶイメージがある。ちょっと前だったら、やた ら子供が主人公の映画ばかりある…という印象だったし、何だかドラマとドキュメンタリーの境界線が曖昧な映画ばかり…とも思える。それって結局、初期の アッバス・キアロスタミ映画あたりから受ける印象だったりするが、実際のところほとんどのイラン映画はその範疇に入っちゃうんだから仕方がない。後になっ て分かって来たが、それは自国の検閲をやり過ごすための苦肉の策…という側面も少なからずあったらしい。ただ、一観客として映画を見るという立場からする と、イラン映画っていうと「例のやつね」という印象になってしまったのは否めない。不謹慎だと怒られても、これは否定できない現実だ。それぞれの映画作家 には作品を見ていくとそれなりに個性があることが分かるが、ちょっと見ではその違いはなかなか分からないし、実際にも大半が前述した「イラン映画」イメー ジの範疇に入ってしまうのだ。ジャファル・パナヒもまた、そんなイラン映画の監督の一人である。僕はこの人の長編デビュー作「白い風船」(1995)を見 ているが、まさにこの映画が子供を主人公にした映画。何よりパナヒ自身がキアロスタミの助監督上がりなのだから何をかいわんや。そんなパナヒに改めて注目 したのは、「オフサイド・ガールズ」 (2006)を見た時だろうか。これがなかなかの快作。「女がサッカーを見てどうしていけないの?」という抗議の映画であることは間違いないが、出て来る 女の子がイキイキと描かれていて面白い。そして、計算し尽くされたウェルメイドな内容にも驚いた。一見即興風に見せかけているが、イラン映画特有のあのド キュメンタリーみたいな「撮りっぱなし」ではありえないのである。ただ、ラストが唖然呆然な展開となってしまったので、僕としては「何じゃこりゃ?」とい う印象が残ってしまったが、それでもキアロスタミ的な映画とは違うこの人なりの個性はハッキリと感じられた。その後、残念ながら僕はこの人の映画を見る機 会を逃し続けてしまったが、「これは映画ではない」(2011)公開の際にはこの人が逮捕されて映画も撮れない自宅軟禁状態になってしまった…ということ が結構報道されて、映画ファンの間ではこの件がそれなりに知られたはず。もちろん僕もこの時に初めて知った。確か「オフサイド・ガールズ」も国内では公開 されていないと聞いていたので、あの「面白おかしく映画を見せながらもチクチクやる」というスタイルが当局のカンに触っていただろうということは容易に想 像がつく。映画の内容で逮捕された訳ではなくても、それが彼の罪状を重くしたはずである。だがそれにも関わらず、「これは映画ではない」ではデジタルビデ オやiPhoneで作品を撮ってしまうという大胆不敵さ。そもそも「これは映画ではない」というタイトルからして人を食っている。この人といい中国のロ ウ・イエといい、政府から「撮るな」と禁じられているにも関わらず作品を発表してしまうたくましさには目を見張ってしまう。残念ながら僕はこの映画も見逃 してしまったが、今となっては痛恨の極みである。おっと、これは「映画」ではなかったんだっけ(笑)。さて、そんなパナヒの最新作がやって来た…となれ ば、興味津々にならざるを得ない。おまけに今回はパナヒ自身がハンドルを握ってタクシー運転手に扮して、タクシーとそこに乗って来る乗客のお話を撮るとい うから楽しみだ。どうやら自宅軟禁状態は解けたらしいので、まずはめでたい。そして何より、タクシーの中で展開する…という話は実に「映画的」な感じがす るではないか。列車でも何でも、移動する乗り物を舞台にした映画は昔からとても映画的な傑作が多い。これは面白い予感がする。今度こそはパナヒの新作を逃 すまい…と、僕は劇場に飛び込んだのだった。

ないよう

  都会というものは、どこの国でも同じだ。ここイランの首都テヘランでも、街の喧噪は変わらない。そんな街中のクルマでごった返す道路を、一台のタクシーが 走って行く。イランではタクシーは乗り合いで、行く先々で次々と客を乗せて行く。今もこのタクシーには、3人の乗客が乗っていた。そんな乗客のうち、助手 席に座っていた男が車内にセットされたカメラに気づく。彼はそのカメラを防犯用だと思ったらしく、最近、知人の身に起きた出来事をしゃべり出した。その知 人は、停めておいたクルマのタイヤをすべて抜かれたというのだ。男いわく、こんな治安の悪さは見せしめとして泥棒の二人ほど死刑にしてやれば直る…とのこ と。だがそんな威勢のいい意見に、後ろの席の女からすぐに異議の声が挙った。男は「どこが悪い」「やられても仕方がないだろ」とまくし立てるが、女も一歩 も退かない。そんな女の職業が教師だと聞いて、男は「ほらな!現実が分かってねぇんだよ」と得意顔だ。それを聞いた女は当然、男の職業を問いつめる。する と男は、タクシーが停まってクルマから降りた後で打ち明けた。「オレは本職の強盗だ!」…。意外な展開に唖然呆然の車内。やがて女も降りて、車内には残り の乗客が1名。その男は誰もいなくなるや否や、運転手にいきなり話しかけた。「パナヒさんですよね?」…その通り。ハンドルを握っているのは映画監督の ジャファル・パナヒだった。見破られた本人はニヤニヤ。続いて男は、車内に取り付けられたカメラを「撮影用ですね?」と突っ込む。この男はレンタルビデオ 業者をやっていて、パナヒの家にもDVDを配達したことがあるという。ちなみに、パナヒのご用命はウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」だったと か。自身も映画に詳しいこの男は、パナヒに尊敬の念を持って話しかける。ところがそんなやりとりが、突然の出来事で不意に打ち切られた。いきなりタクシー が停められ、路上のケガ人が乗せられたのだ。ケガ人はバイクの転倒で負傷した男。その妻も一緒に乗り込み、病院まで急いで駆けつけることになった。ケガ人 は今にも死ぬようなことを言い始め、妻に遺言を残さねば…と焦り出す。遺言がなければ、いざという時に妻に不利になるというのだ。そこで、パナヒのスマホ で遺言を動画撮影することになる。「家はすべて妻に遺すから兄弟は手を出さないように…」などと遺言を語り出す男は、まだまだとても死にそうにない。そん なこんなでタクシーは病院に到着。ケガ人の男はクルマから降ろされて、妻もそれに同行。だが、すぐにまたタクシーに戻ってきたから驚いた。「あの遺言の動 画をもらいたい」…って、今も仕事でスマホ使っているんだからそんな訳にはいかない。それなのに病院から出発した後も、この妻からパナヒに何度も「遺言動 画をくれ」と繰り返し電話が入るから困る。それも夫は助かったというのに、「念のため」というのだから始末に悪い。どんだけ必死なんだよ。こうして今度は 例のレンタルビデオ屋の目的地へとやって来ると、彼は客の男と早速やりとりを始める。ついつい気持ちが大きくなってか、口を突いて出て来たのは「オレはパ ナヒさんと組んでるから」の一言。これを聞いた客は映画専攻の学生ということもあって、購買欲を刺激されて何枚もDVDを購入。ビデオ屋も大喜びだ。さす がに苦笑したパナヒが「私が君と組んでるんだって?」と問いかけると、ビデオ屋はしどろもどろで弁解にこれ務める。しまいには逆ギレして「オレの仕事は文 化活動みたいなもんだ」「あなたがウディ・アレン見れるのも、オレがあってのことなんだから」と開き直る始末だ。そんなところに、なぜか金魚鉢を抱えたオ バサン二人が登場。ある泉に正午までに連れて行ってくれと慌てているので、とりあえずクルマに乗せて出発。ちょうどいい案配と、ビデオ屋を途中で落として 先を急いだ。ビデオ屋も逆ギレしたり弁解したりでいいかげん鬱陶しくなってきたところなので、オバサン二人が乗り込んだのはもっけの幸い。だが、実際には このオバサンたちもかなり鬱陶しい客だったのだが…。

みたあと
  見る前から思っていたことだが、タクシー車内に舞台を限って映画を1本こさえるというのが何とも卓抜したアイディア。まず、それだけでも「うまいな」と感 心した。ジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」(1991)もそうだったが、「動く密室」であるタクシー、その中で運転手と客という他 人が向き合うタクシーは、実に映画的な題材だ。あるいはクルマの中だけで1本の映画が語られるトム・ハーディ主演の「オン・ザ・ハイウェイ/その夜、86分」(2013)あたりも連想されて、最初からこれは「面白いはず」と確信した。果たして、本作はまさにその予想通り。82分というコンパクトな上映時間もいい。そして、アッと驚く想定外な内容の作品でもあった。僕は観客として大いに楽しませてもらった。

みどころ

  映画を見る前は、パナヒがタクシー運転手「役」を演じるのかと思っていたら、パナヒはパナヒ自身として映画に出て来る。それを劇中でレンタルビデオ屋の男 に「パナヒさんですよね?」「これはカメラですよね?」とタネ明かしさせているのだから、これらは意識してやっているのが明らか。ならば、映画としてはイ ラン映画お得意のフィクションかドキュメンタリーか分からないスレスレ映画にカテゴライズされるモノではないか。いや…確かに一見そのように思えるが、実 は本作はそれらとは微妙に違う。つまり、「劇映画か記録映画か曖昧」な作りではなく、むしろ「記録と見せかけている劇映画」であると分かるのだ。でなけれ ば、あのタイミングの良さであんなに面白く個性的な客が乗ってくる訳がない。彼らとのやりとりも、あれほど絶妙な訳がない。事前に脚本を練り上げ、段取り を踏んでやらなければ出来ない映画なのである。もうお分かりだろう。本作は古くは「食人族」(1981)や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)、最近ではM・ナイト・シャマランの「ヴィジット」 (2015)などに使われた、記録映像素材から作った…体の劇映画の最新バージョンなのである。大概が…というよりほとんどすべてと言っていいほどホラー 作品に使われる手法だが、本作はおそらくこの手法での世界初の非ホラー映画(笑)ではないだろうか。実は肝心のホラー分野ではすでに手垢がつきまくって飽 きられつつあるこの手法ではあるが、こういう使い方があるのか…と僕は思わず舌を巻いた。どうしてこういう手法を用いたのかと言えば、お察しの通りパナヒ が劇映画の製作を禁じられていることからの、「これは映画ではない」シリーズ最新作(笑)ということなのだろう。そういう必然性はあったにせよ、車載カメ ラと女の子のデジカメ映像だけで構成するという点が何とも野心的ではある。こんなやり方で当局が黙っているのかよく分からないが、まったく人を食った話 だ。正直言って笑っちゃう。いやホント。笑っちゃうと言えば…調子こいて「オレはパナヒと組んでる」などと客に言い始めたビデオ屋の男がいいかげん鬱陶し くなってきたので、ちょうど金魚鉢持ってきたオバサン二人にこれ幸いとばかりチェンジしたら、そのオバサンたちがもっと鬱陶しかったというくだり。それも 何とか追い出したと思ったら今度は生意気な姪っ子にゴチャゴチャ言われる始末で、そのトホホな状況がどんどんエスカレートするあたりもおかしいのだが、パ ナヒの憮然とした表情も何とも笑えるのだ。劇中では特にこのパナヒの姪(ということで登場する女の子)がズケズケズバズバしゃべっていて、見ているこっち がハラハラするほど。当局が押し付ける「映画とは何ぞや」的な定義付けを完全にコケにしていて、こんなこと言わせていいのか?…と人ごとながら心配になっ て来る。ただ、見ていて僕がちょっと残念だなと思わされたのも、実はこの姪の場面だ。パナヒとしてはこれが言いたいところなんだろうし、支持する人たちも 拍手喝采するところなんだろう。実際、ネット上でのレビューなども、みんなこの部分を持ち上げている。そんな中でこんなケチをつけるのもどうかとは思うも のの…僕は正直言ってそんなメッセージは言わずもがなな気がする。まずはこの映画が存在していること自体が、すでにその「パナヒの主張」を体現している。 それをわざわざ言葉でここまでストレートに言わせちゃった結果、メッセージが少々生硬なものになってしまったような気もするのだ。ただこまっしゃくれた女 の子のキャラのおかげで、メッセージの生硬さがかなり中和されているのも確かだ。この子と女弁護士の場面以外はメッセージもナマなカタチではあまり提示さ れず、次々タクシーに乗り込む客たちの人間模様をユーモラスに楽しむことができる。それをまさかの「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」的な手法で撮ったと いうあたりが、パナヒの卓抜した映画巧者ぶりなのである。レンタルビデオ屋のスマホの着信音がスティーブ・マックイーン主演「パピヨン」 (1973)のテーマ曲であるあたりも、なかなか「分かってる」選択で嬉しくなる。特に「パピヨン」の内容を想起してみれば、その曲が使われた意図が何と も意味深ではないか。興味深かったのは、パナヒと映画専攻の学生との会話の場面。「なかなかいい題材がなくて」と言い訳する学生にパナヒは「題材なんてど こにでもある」とズバリ指摘してしまうのである。考えてみれば、映画製作を禁じられてもこうして作品を発表するパナヒから言わせれば、「いい題材がなく て」なんてチャンチャラおかしいだろう。「これは映画ではない」シリーズ(笑)以降あの手この手で、「次はどうやっていこう」「どう撮ろう」と知恵を絞っ ているパナヒには、頭が下がると同時にますます興味が湧いた。それは結局、映画の新しい手法を次々試していく…ということだからである。当局にとっては本 当に食えないイヤな男だろう(笑)。パナヒの新作が待ち遠しい限りだ。

さいごのひとこと

 パナヒ先生の作品が見れるのはイラン以外だけ。

 

「はじまりへの旅」

 Captain Fantastic

Date:2017 / 05 / 01

みるまえ

  ヴィゴ・モーテンセン主演のヘンテコな家族コメディ…最初にこの映画のチラシを見た時、その絵柄を見た第一印象はそんなものだった。どうやらモーテンセン が変わり者で、物質文明に背を向けて山の中に籠もりながら子育てしている男。そんな一家が何かの事情で外界に出て行かなくてはならなくなって…というお話 らしい。何だか何年か前に見た「リトル・ミス・サンシャイン」 (2006)みたいな、風変わりな家族を描いたコメディみたいな印象。チラシに印刷された「普通ってなんですか?」って宣伝コピーからして、そんな風変わ り家族の方が世間一般と違って「本当の幸せ」を知っているんですよ…的な話に落ち着きそうな感じである。あるいは「普通」であることを強いる「世間」を批 判…みたいな話になりそうである。実は、僕はヴィゴ・モーテンセン主演映画というと、公開されるたびに気になっていた(…と言いながら結構見逃しちゃって いたりするのだが)。クローネンバーグと組んだ「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)や「イースタン・プロミス」(2007)、なぜかアルゼンチン映画「偽りの人生」(2012)やフランス資本の「涙するまで、生きる」 (2014)にも出ちゃうフットワークの軽さ…そのタダモノではない作品選択眼に、注目していたからだ。だがそんな僕が、本作にはなかなか重い腰を上げる 気になれなかった。その理由は、この宣伝コピーが代表するような「胡散臭さ」にあった。当然、こんなコピーをつけるぐらいなのだから、この映画としては 「世間一般=間違っている」「モーテンセン一家=正しい」と描くつもり満々な感じがする。ただ、こういう一家が世間に出て来て周囲と摩擦を起こしまくるお 話というのは、大体が作り手の思惑とは異なって、結果的にそいつらがただの「ハタ迷惑な連中」にしか見えないことが多い。だとすると、この映画も微妙なこ とになりはしないか。そんなこんなを考えるとどうも微妙な気がして、僕としてはなかなか食指がそそらなかったのだ。そんな訳でなかなか見る気になれなかっ たのだが、たまたま時間が空いて見れる作品がこれしかない…という条件が揃ったため、グチグチ言いながら劇場に足を運んだという訳である。

ないよう

  緑生い茂る雄大な山々。ここは自然に囲まれたアメリカ北西部の山岳地帯。その深い森の中で、今まさに一頭の鹿が木の葉を食べているところ。一瞬、鹿は何か の気配を感じたが、また安心して歩き出した…その時! 真っ黒に顔やカラダに泥を塗った若者が飛び出して来て、あっという間に鹿の首をかき切ってしまっ た。こと切れた鹿の回りにゾロゾロと集まって来たのは、同じく顔に泥を塗った子供たち。その中に一人だけ大人の男がいた。その男ベン・キャッシュ (ヴィゴ・モーテンセン)は鹿のカラダを切り開いて肝臓を取り出して、先ほどその鹿を仕留めた若者ボウドヴァン(ジョージ・マッケイ)に宣言した。「オマ エはもう子供じゃない、大人の男だ」…。彼らはこの森に住むキャッシュ一家。先ほどの長男ボウドヴァン、双子の姉妹キーラー(サマンサ・アイラ―)とヴェ スパー(アナリス・バッソ)、次男レリアン(ニコラス・ハミルトン)、その妹サージ(シュリー・クルックス)に、末っ子三男のナイ(チャーリー・ショット ウェル)という面々だ。この一家は父ベンの指導の下、森の中でサバイバル生活を実践。連日、朝から森の中を走り、格闘技などさまざまなトレーニングを行っ ている。また全員に難解な本を熟読させ、それに対する試験を定期的に行って文武両道を目指す。さらに焚き火を囲んで、全員で楽器を演奏するなど情操教育も 忘れない。だから、子供たちには学校など要らない。こうしてキャッシュ家の子供たちは頭もカラダも健やかに育っており、そこでは家長であるベンの意見が絶 対であった。だが、そんな家族の中でも秘かな秘密を持っている者がいた。それは、長男ボウドヴァンである。彼は秘かにいくつもの名門大学に願書を送ってお り、それらすべてから合格通知をもらっていたのだ。だが、ボウドヴァンはそれらを父に見せられずにいた。そんな彼らは、ごくたまに「スティーブ」と名付け たオンボロ・バスに乗って麓の町へ出る。それはベンの手作り民芸品などを売って現金を手に入れ、それで生活物資を調達するためである。その際、ベンは携帯 電話で妹ハーパー (キャスリン・ハーン)に連絡。彼が聞きたかったのは、妻レスリーのことだった。実はレスリーは病気になり、街の病院に何か月も入院したままだった。ベン はそのレスリーの容態を知りたかったのだ。だが、電話に出たハーパーは衝撃的な事実をベンに告げる。何とレスリーは自殺してしまったと言うのだ。ベンは慌 てて、義父ジャック(フランク・ランジェラ)に電話するがケンもほろろ。レスリーの死をベンのせいだと罵倒して、「葬儀に来たら逮捕させる」と警告した。 あまりにあまりの展開に、さすがに沈むベン。ベンからレスリーの自殺を聞いた子供たちも大いに動揺。しかも母が精神的にかなりまいっていたことを知ってい た次男レリアンは、父への怒りを隠そうとしなかった。そんなレスリーは、ベンに遺言を残していた。仏教徒である彼女は自分の亡骸を火葬し、灰はトイレに流 して欲しい(笑)と言い残していたのだ。さらに、自分の葬儀をあくまで楽しく行って欲しいと思っていたのである。だが、さすがに警察に通報するとまで言わ れたら、ベンも葬儀への参列は断念せざるを得ない。子供たちはあくまで葬儀に行こう、レスリーの亡骸を奪還しようと主張していたが、ベンは躊躇せざるを得 なかった。だが、子供たちにトレーニングをさせながらも、考え込んで悶々とするベン。結局、子供たち全員を「スティーブ」に乗せてから、ベンはレスリーの 葬儀に乗り込むことを宣言した。名付けて「ママ奪還作戦」だ。こうして一家を乗せた「スティーブ」は、一路葬儀が行われるニューメキシコへと突っ走るの だったが…。

みたあと
 まずのっけからズバリ と言うと、本作は“「リトル・ミス・サンシャイン」みたいな、風変わりな家族を描いたコメディ”…などではない。ところどころではクスッとするユーモアも チラホラするが、それはほんのわずか。どちらかというと、本作はコミカルどころかかなりシリアスなお話。しかも、考えようによってはヘビーなお話と受け止 めた方がいいかもしれない。そのあたりを受け止め損なうと、本作はまったく見ていてノレない作品になりかねない…というか、僕自身まったくノレなかったの だが。そして、「普通ってなんですか?」って宣伝コピーも、本作の内容を捉え損なっている。これってあくまで主人公一家が世間一般から「普通」でなくて白 い目で見られることに対しての、「異議申し立て」的な意味合いで使われているはずだ。つまり、「普通じゃなくたっていいじゃない?」的なメッセージとして 言われている言葉だろうと思われる。確かにその通り。お説ごもっとも。主人公一家を「普通じゃない」として白い目で見る世間は「心が狭い」と言うべきかも しれない。だが問題は、「普通であるなし」を云々しているのは主人公一家を取り巻く世間の方だけではない…ということだ。逆にモーテンセン演じる主人公の 一家の方でも、世間一般に対しては決して「心が広い」とは言えないモノの見方をしているのである。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  正直に言うと、本作をどう受け止めていいのか…については微妙なところがある。僕は本作を見ている途中で、何度もこの映画をどう見るべきか困っていた。最 初に書いたようにどうやらコメディではないらしいが、一種の寓話なのかシリアスに受け止めるべき映画なのか、作り手が肯定的に描いてるのか冷ややかに見て いるのか…がよく分からない。つかみどころがない。ただ、宣伝コピーにあるように「普通ってなんですか?」なんてことを言う映画だったとしたら、ふざけん な!…とぶっ飛ばしたくなるような気持ちにはなっていた。よく子供を一般社会から遠ざけて自分なりの「英才教育」を施す親がいるけど、あの手の親子を見る と本当に憤りを感じるからだ。だってそうやって育ったガキは、ほぼ例外なしにロクでもないクズガキだ。僕は子供の頃から周囲から浮いて苦労したクチだか ら、違いや個性を尊重…なんてことをいとも簡単に安易に言う連中に本当に腹が立つのだ。そういうのはオレみたいに、最初からどうやっても周囲から浮いちゃ う奴に対して言ってくれよ。だけど意外にもネット上などでは、主人公に共感したなどという声が多くてビックリ。それって本気で言ってるのか。確かにモーテ ンセンの子供は「英才教育」に成功したのか、長男は名門大学をことごとく合格。モーテンセンの妹の子供たちはアメリカ権利章典について何も分からないボン クラなのに対して、モーテンセンの娘はそれをソラで言えるし説明もできる。そういう意味ではこっちが正解ということになるのだろう。だが正直言って、ドヤ 顔で権利章典を語るガキって単なる頭デッカチなだけで気持ちが悪いではないか。何よりモーテンセンは二言目には「自分の言葉で語れ」と子供たちに言うのだ が、そこで子供たちが語る言葉はどう見たって「自分の言葉」には思えない。多分に父親のバイアスがかかって、父親好みの思想に染め上げられた「自分の言 葉」でしかない。そんなもの「個性」でも何でもないのだ。その不健全さに、見ていてすごく不快な気分になった訳だ。ここではフランク・ランジェラの義父が 理解のない典型的「家父長制」的人物のように描かれているけれども、自分じゃ進歩的なつもりのモーテンセン自身が誰よりも独善的で偏狭な男になっちゃって いるのである。しかも、そもそも妻をおかしくして自殺まで追い込んだのは、このモーテンセン自身ではないか。そりゃフランク・ランジェラの義父が怒るのも 当たり前。モーテンセンは頭がおかしいとしか思えない。そういう意味では、本作はハリソン・フォードが主演した「モスキート・コースト」(1986)に近 い。そして、本作も「モスキート・コースト」も非常に評価に苦しむ微妙な作品だった。本作では途中でモーテンセンが自らの問題点に気づき、子供を祖父の家 に置いて去って行こうとする。そこでモーテンセンがバッサリとヒゲを剃り落とした時、セシル・B・デミルの「サムソンとデリラ」(1949)でサムソンが 髪を切られて無力になった場面を思い出した。それまで万能感が強かったモーテンセンが無力になっちゃった…というのを象徴的に描いたというところだろう か。だが、困っちゃうのはその後で、子供たちはコッソリ「スティーブ」というバスに隠れてモーテンセンについて行っちゃう。これで話が終わっちゃうなら、 モーテンセンは全然懲りてないし反省もしないんじゃないのか? そういう意味で、最後の最後まで何をどう描きたいのか、主人公を批判的に描きたいのか実は 支持しているのか、作り手のスタンスはどこにあるのかがハッキリしないという気持ちが拭えなかった。そういえばラストに流れたボブ・ディランの「アイ・ シャル・ビー・リリースト」のカバー曲だが、あれを聞いて思わずザ・バンドの解散コンサートのドキュメント映画「ラスト・ワルツ」(1978)での同曲を 連想してしまった。「ラスト・ワルツ」で演奏された「アイ・シャル・ビー・リリースト」の場面には、「ロックの時代の終焉」なんてことを感じさせられて当 時はシンミリしちゃったものだ。だが、その後にこのコンサートの裏側やらザ・バンドの内紛についてキレイごとでは済まされない実態を知らされるに至って、 何とも複雑な思いをさせられたものである。偶然、この曲をエンディングに据えた本作もまた、スカッと割り切れない微妙な思いをさせられた。好きな映画かと 問われたら、否…と言わざるを得ない。というか、ハッキリ言って独善的に他人を見下すような主人公は不快そのものだ。

さいごのひとこと

 あのガキどもこれから苦労しそうだよなぁ。自業自得だけど。

 


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