「オリエント急行殺人事件」

 (ケネス・ブラナー監督作品)

  Murder on the Orient Express

 (2017/12/25)



見る前の予想

 僕はケネス・ブラナーが好きである。まず、これは最初に言っておかねばならない。
 彼が「第2のオリビエ」などと言われて華々しく出て来て、映画に進出した時から注目している。何で注目しているかと言えば、いつも彼の映画は敷居が低いから。何とかして高尚なイメージのあるシェイクスピア劇を一般の人に面白く見てもらえないだろうかと、苦心惨憺している姿勢が好きなのだ。それらの試みがうまくいかなくても、その姿勢だけでも買えると思っているのだ。
 近年はちょっとシェイクスピア離れしたブラナーは、今度は思い切りハリウッド映画にドップリ浸かった映画を発表するようになる。それは、この人が元からハリウッド映画好きってことなんだろう。でなけりゃこういう人がマイティ・ソー(2011)とかエージェント:ライアン(2014)みたいな監督作を連発しない。
 その延長として、今回はアガサ・クリスティ原作「オリエント急行殺人事件」映画化である。だが、これはむしろシドニー・ルメットが映画化した「オリエント急行殺人事件」(1974)のリメイクと考えるのが自然だろう。そのへんの気持ちはよく分かる。ケネス・ブラナーは1960年生まれ。僕の1つ下で思い切り同世代なのである。この世代で「オリエント急行」と言えば、あの映画を意識しない訳がない。
 今回は、ブラナーが主役エルキュール・ポアロを演じながらの監督主 演。「オレならば」クセ者ポアロを面白く演じられるし、「オレならば」あのルメット作品のリメイクをこなせるはず。そして舞台出身の「オレならば」、列車 内にほぼ限定されるお話をうまく描けるはずだ…と思ったであろうことは、想像に難くない。僕も僕で、この映画をブラナーに撮らせるのは面白い企画だなとは 思った。
 ただ、1974年の作品は、やはり天下のルメット作品である。そして当時の超豪華なキャストも売りだった。今回の作品もオールスター・キャストが組まれてはいるのだが、果たしてそのあたり前作と比べてどうか。いろんな意味で楽しみでもあり、かつ、心配でもあった。
 そんなこんなしているうちに公開されてみると、ネット上の映画ファンたちに思いのほか叩かれているではないか。それも、かなりバカにされたような書かれ方だ。
 僕としては大好きなブラナーが、こんなに情け容赦なく叩かれているのは見るに耐えない。しかも、そこまで叩かれなきゃならない程悪いのか? 笑い者にさ れるほどケナされているのである。「第2のオリビエ」とも言われ、あんなに教養のない一般人に楽しく見てもらえるようにシェイクスピアを敷居を低くして映 画化してくれたブラナーが、そこらへんの連中にヘタクソな映画などとバカにされていいのだろうか。僕はちょっとそこに意義を唱えたくなった。
 そんな訳で…本当は他に見たい映画もあったのだけれど、緊急にブラナー版「オリエント急行」を劇場に見に行くことにした。もちろん、全力でブラナーを擁護するためにだ。
 あんなに「良い奴」ブラナーをみんなで寄ってたかってリンチにしやがって。大体が、オレはイジメに加担するような奴が大キライである。だから、相撲協会 も横綱審議会も反吐が出るほどキライだ(笑)。こいつらに人を処罰する資格などない。処罰されるべきは本来はオマエらなんだよ。
 オレは決めた。見る前から決定した。今回の感想文は、ともかくホメるのが前提。ホメるために書く。最初から目的をハッキリさせる。だからこの感想文を読 む皆さんも、それを前提にして読んでいただきたい。この感想文では、本作とブラナーをとにかくホメる。そこんとこをよろしくお願いしたい。

あらすじ
 ここはエルサレム、名高い「嘆きの壁」の近くである。
 少年が手に荷物を持って、チョロチョロと小走りに駆け抜けて行く。やがて少年は、あるレストランの厨房に入る。彼が持って来たのは卵だ。やがてそれらの 卵は、食卓で待ち構えている紳士の前に運ばれる。紳士はふたつの卵を並べ、その大きさを見比べる。だが、どうやらお眼鏡にはかなわなかったようだ。
 紳士にとってはふたつの卵がシンメトリーのように同じ大きさでなければならなかったらしい。バランスが大事らしいのだ。
 だが、紳士は呼ばれて出かけなければならず、食卓から立ち上がって外へと出て行く。宗教上の紛争になりかねない「事件」が起きたようで、紳士はその解決を警察から頼まれた。
 そのちょっとコッケイな口ひげが印象的な紳士の名は、エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)。名探偵として世界的に有名な人物である。
 ポアロが「嘆きの壁」にやって来ると、そこにはラビ、神父、イマーム…の3人の男が人々の前に立たされていた。彼らはこの「事件」の容疑者だという。こ の3人がしゃべっている間に、教会の遺物が盗まれたというのだ。そこでポアロは、膨れ上がった大観衆の前で一席ぶち始める。すなわち、「この犯行でトクを するものは誰か?」…。
 ここに立たされた3人はいずれもつつましく暮らしている人間で、盗んだモノで利益を得たところで使うに使えない。では、真に得する者は誰なのか? ポア ロは、現在エルサレムの治安を任されているが、近々撤退をウワサされているイギリス警察の責任者こそ最大の容疑者である…と名指し。図星を言われたイギリ ス警察の警部は慌てふためき、逃げようとしてポアロの術中にハマってしまう。めでたしめでたし。今日も今日とて、灰色の脳細胞ポアロの推理は冴え渡る。
 それもこれも、彼には「この世には善と悪しかない」という、確固たる信念があるからだ。
 さらに旅を続けるポアロは、船に乗ってイスタンブールを目指す。たまたま同じ船には、家庭教師のメアリ・デブナム(デイジー・リドリー)、黒人医師の アーバスノット(レスリー・オドム・Jr)らが同乗したが、このふたりが「ワケあり』である事をポアロは瞬時に悟っていた。
 そんなポアロたちは、イスタンブールの街へやって来る。ところがそこで、イギリス警察からの突然の協力要請。たまたまその場で再会していた鉄道会社幹部 のブーク(トム・ベイトマン)が席を提供してくれると申し出たことから、ポアロは有名なオリエント急行を使って帰ることになる。
 そんなオリエント急行が出発を待つイスタンブール駅には、多彩な人々が集まってきつつあった。先ほどの家庭教師メアリ・デブナム、黒人医師アーバスノッ トに加え、往年の華やかさをいまだに伺わせるキャロライン・ハバード夫人(ミシェル・ファイファー)、地味〜な宣教師の女ピラール・エストラバドス(ペネ ロペ・クルス)、オーストラリア人の教授ゲアハルト・ハードマン(ウィレム・デフォー)、ロシア貴族のナタリア・ドラゴミロフ公爵夫人(ジュディ・デン チ)、そのメイドのヒルデガルデ・シュミット(オリヴィア・コールマン)、自動車販売業で成功した南米男ベニアミーノ・マルケス(マヌエル・ガルシア=ル ルフォ)、ハンガリー貴族でダンサーのルドルフ・アンドレニ伯爵(セルゲイ・ポルーニン)、その妻エレナ(ルーシー・ボイントン)、胡散臭い美術商エド ワード・ラチェット(ジョニー・デップ)、その秘書ヘクター・マックイーン (ジョシュ・ギャッド)、ラチェットの執事エドワード・ヘンリー・マスターマン(デレク・ジャコビ)…。これらの人々が、オリエント急行に乗るべくイスタ ンブールに集まって来たのである。彼らを迎えるのは、先ほどのブークと車掌のピエール・ミシェル(マーワン・ケンザリ)たち。こうした人々を乗せたオリエ ント急行は、夕暮れのイスタンブール駅を無事に出発するのだった。
 そんな乗客たちの中でも、訳アリ度が格段に高いのが美術商ラチェット。どう考えても堅気の人間ではない雰囲気が濃厚で、粗野な言動丸出し。だがそんな強面ぶりとは裏腹に、毎日のように届く脅迫文に怯えていた。
 そんな紙爆弾がさすがに応えたのか、食堂車で読書に耽るポアロのもとに、ラチェットがデザートを持って近づいて来る。ラチェットがポアロに持ちかけたの が、彼の身辺警護。どうやらアコギな商売をやって来たラチェットは、各方面に遺恨を残しまくって来ている様子。そこで「世界一の探偵」ポアロに身を守って もらおうと、巨額の報酬をチラつかせて頼み込んで来たのだった。
 だが、そもそも世俗とは大幅に感覚が異なるポアロのこと、ラチェットの頼みを聞いてやる気は毛頭なかった。ついでに「あなたの顔がキライでして」と率直な言葉まで返す始末。徹頭徹尾、「空気」を読まないポアロではあった。
 そんな各人の思惑を乗せて、雪山の鉄路をひた走るオリエント急行。だがある晩、とある山の中腹で雪崩が発生。それが、驀進するオリエント急行の行く手を 阻んだ。突然の衝撃に驚く乗客たち。どうやら先頭車両が脱線したらしく、列車は山の途中で立ち往生する羽目になってしまった。
 翌朝、苛立つ乗客たちを前にして、ブークは事故の状況と停車中も快適に過ごせることを約束する。だがその朝のうちに、「快適」とは程遠い事件がこの列車内で発生してしまう。
 朝食を持ってラチェットの部屋を訪れた執事のエドワードが、呼びかけても返事がないと不審がったのだ。通りかかったポアロは、瞬時に異変を察知。医師のアーバスノットを呼びに行かせると、扉をこじ開けて部屋の中を見た。
 すると…寝台の上に横たわったラチェットが、カラダをメッタ突きにされて殺されているではないか…!

僕がケネス・ブラナーを全力擁護するワケ

 僕も別に、最初から「第2のオリビエ」ケネス・ブラナーに興味があったワケではないし、そんな舞台人としての名声を知っている訳でもなかった。
 実は初めて映画で注目を集めた監督・脚本・主演の「ヘンリー五世」(1989)も、リアルタイムでは見ていない。当時のアカデミー賞授賞式を賑わせたことは知っているが、何やら高尚な映画が出てきたな…ぐらいにしか思っていなかった。
 そんな彼に初めて興味を持ったのは、彼が初めてハリウッド映画に進出して、監督・主演した映画「愛と死の間で」(1991)だった。初ハリウッド作品が ヒッチコック・スタイルのサスペンス映画。正直言って内容はあまり記憶に残ってないけれど、シェイクスピア劇の若き天才が思いのほか敷居が低く、ハリウッ ド映画好きだったらしいのが嬉しかった。こちらとしては、ぐっと親しみを持ったわけだ。
 そんな僕が決定的にブラナーを好きになったのが、またしてもシェイクスピアを映画化した「から騒ぎ」(1993)。自分と当時の嫁さんエマ・トンプソン を主役にするのはもちろん、周囲にデンゼル・ワシントン、マイケル・キートン、キアヌ・リーブスといったハリウッドスターを配置。いきなり「荒野の七人」 (1960)みたいに馬で駆けて来るというオープニングも嬉しい。古典としてのシェイクスピアの原型は破壊せず安易な「現代化」は避けながら、それでも何 とか大衆の口に合うように現代感覚を吹き込もうとしている点が評価出来た。こういうことを一生懸命やろうとしている人は、僕は無条件に好きなんだよね。そ れを追いかけるように旧作「ピーターズ・フレンズ」(1992)も公開。これがローレンス・カスダン「再会の時」(1983)、ジョン・セイルズ「セ コーカス・セブン」(1980)を意識した作品だったのがまた嬉しい。このあたりの作品指向が、自分と「同世代」の感覚に溢れている。僕はすっかりケネ ス・ブラナーが好きになった。
 その後もブラナーはさまざまな作品に監督・主演するが、そのどれもが彼のハリウッド映画好きを想起させるものであり、僕にとって「同世代」感覚に溢れた ものばかり。ちょっと挙げても、ロバート・デニーロを迎えた監督・主演作「フランケンシュタイン」(1994)、ローレンス・フィッシュバーン共演のシェ イクスピア劇「オセロ」(1995)、ビリー・クリスタル、ジャック・レモン、チャールトン・ヘストン、ロビン・ウィリアムズなどのハリウッドスターを並 べた監督・主演作ハムレット(1996)、ロバート・アルトマンに呼ばれて主演したジョン・グリシャム原作の法廷サスペンス「相続人」(1997)、 ウディ・アレンの自画像をウディ・アレン監督作で演じたセレブリティ(1998)、コッケイな悪役を演じた西部劇コメディ「ワイルド・ワイルド・ウエ スト」(1999)…と、およそ敷居の高さが感じられない作品群ばかりだ。良い意味で,ブラナーは「ミーハー」心を持っているのである。
 そんな中、久々に彼がまたしてもシェイクスピア映画化に取り組んだ監督・主演作恋の骨折り損(1999)が大いに注目されたが、実はこれが少々苦しい作品だった。
 バスビー・バークレー風演出も盛り込んだミュージカル映画仕立て…という狙いはよく分かる。だが、必ずしも成功していない。シェイクスピアの原典は崩さ ない…という一線は常に守るから、どうしても大衆化・現代化には限界がある。それでも何とかやろうとしている熱意は買えるのだが,いかんせん無理がありす ぎるのだ。ブラナーは感じのいい男だが、少々ヤボで融通の利かないところがある。どうも、今回はそれが災いしたように思わざるを得なかった。そんな融通の利かなさが、僕などには 自分と共通する点のような気がして好ましく思われたのだが…。
 今思えば、この「恋の骨折り損」あたりがケネス・ブラナーのひとつの「分岐点」だったように思われる。それまでは「第2のオリビエ」としての神通力が働 いていたのに、この作品あたりからネットで盛んに叩かれるようになってきたのだ。ブラナー…というと「童貞?」と笑われる(笑)みたいな、妙な雰囲気なの である。これって一体何なのだろう?
 当のブラナー自身も何だか峠を越えちゃったみたいで、ちょっと活動の方向性が変わって来た。少なくとも,迷いなしに好きなことをガンガンやっている感じ ではなくなった。おそらくブラナーも、「恋の骨折り損」はうまくいかなかったと思っているのだろう。少なくとも、それまでの自分の方法論には限界があると 悟ったに違いない。せっかく敷居を低くして大衆にも分かるように、頑張って面白いシェイクスピアを映画化したとしても、うまくいかないばかりかそこらの連 中にバカにされるテイタラクじゃ、そりゃあやってられないわな。男としても同世代としても、その気持ちは大いに共感出来る(笑)。大体、バカにバカと言わ れたくはないだろうよ。
 そもそも、僕は「敷居を高くして利口ヅラするバカ」が大キライ。本国でシェイクスピア劇を極めたであろう彼がミーハーを前面に出して頑張っているのを、揚げ足とってバカにしている連中とかが見苦しくてたまらない。本当にイヤだ。恥ずかしい。
 その後もブラナーはハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)に出たりナチスの軍服を着てトム・クルーズ映画ワルキューレ(2008)に出たり するなど、役者としても相変わらずのミーハーぶりを発揮していた。だが、出演作の中でも重要な位置を占めていたのは、裸足の1500マイル (2002)、パイレーツ・ロック(2009)などの「悪役」である。これは彼にとって、何か意味があったのだろうか。
 久々の監督作が出たと思いきや、モーツァル トのオペラを第一次大戦下のヨーロッパに舞台を移して映画化した「魔笛」(2006)。ミニシアター系で公開され、映画マスコミにもファンにも好評で迎え られたようだが、僕は結局これは見なかった。彼なりの敷居の低いシェイクスピア映画づくりをオペラの映画化に応用したみたいなのだが、残念ながら「これ じゃない」感が強かった。精一杯敷居を低くしたようで、実は高いまんまじゃないかなと思えたからだ。
 そんな迷走感が著しい21世紀のブラナーは、やがて興味深い2本の作品に関わることになる。それは監督作スルース(2007)と出演作マリリン7日間の 恋(2011)である。前者はかつてローレンス・オリビエマイケル・ケイン主演で作られたサスペンス映画「探偵/スルース」(1972)のリメイク作 品で、今度はオリビエの役をマイケル・ケインに、そしてケインの役をジュード・ロウに変えてのリニューアルである。これは正直あまりピンと来なかったが、 「マリリン7日間の恋」はかなり面白い作品。マリリン・モンロー「王子と踊子」出演秘話の映画化だが、この「王子と踊子」を監督・共演したのが ローレンス・オリビエ。ブラナーはこのオリビエ役で出演したのだ。つまり、この時期にブラナーは、2つの作品でオリビエと急接近を図っているのである。
 イギリスの演劇界でシェイクスピアで頭角を現し、監督・主演でハリウッド映画にも積極的に関わるというスタンスは、誰がどう見たってローレンス・オリビ エを彷彿とさせる。「第2のオリビエ」という称号も、本人が知らない訳はあるまい。そんな大いに意識せざるを得ない先人に、何の因果かこの時 期に監督と主演両方で肉迫することになったブラナーなのだ。
 先ほど述べたように実際には「スルース」リメイクは大した作品ではなかったが、「マリリン7日間の恋」は出来映えもよく、ブラナーの演技も好評を得た。この作品でのオリビエはNG連発でヘロヘロのモンローに手を焼きながら、出来上がったラッシュ試写を見て「映画俳優」としては自分などまったくモ ノの数ではない…と思い知らされる役どころ。おそらくブラナーにとっても含蓄の深い役どころであったことは言うまでもないだろう。
 ここでの「オリビエ体験」を通過したブラナーは、何か吹っ切れたように活動を活発化させていく。まずは、何とマーベルのスーパーヒーロー映画「マイ ティ・ソー」の監督である。マーベル側としては王家の「お家騒動」的な側面をシェイクスピア劇で培った格調の高さで撮って欲しいということ と、シェイクスピアを敷居を低くして描く手法とマンガの映画化のメソッドとに共通性を見出だしての起用だったのだろう。一方、ブラナーの方もCGやSFXの使い方などを学べて、得るものはあったはず。それで、ちゃんと一連のマーベル作 品の中に置いてもおかしくない映画を撮れたのだから、これはさすがだと言うべきだろう。
 次には、監督と悪役としての出演を行った「エージェント:ライアン」を撮る。これは完全なハリウッド・エンターテインメント、スパイ・アク ション映画への挑戦である。さらにさらに、ディズニーからはシンデレラ」実写版(2015)演出の依頼が来る。こちらは正直言って見ていてキツい映画ではあったが、マト モに映画化したら幼稚過ぎる「おとぎ話」を、イマドキの大衆娯楽映画に転換してギリギリの線まで仕上げた観があった。これも、シェイクスピア映画での実績 から起用されたものだろう。また、舞踏会場面がヤケに力が入って突出しているあたりに、ブラナーがヴィスコンティ「山猫」(1963)の舞踏会イメージをダブらせたがっているような印象を受けた。映画ファンの彼なら考えそうなことである。
 いずれもシェイクスピア映画を「敷居を低く」映画化して来た実績を買われての起用であり、本人もまた、ハリウッド、そして映画…に十分適応できると自信 を持っての登板。良い意味でも悪い意味でも、「オレはオリビエとは違う」という開き直りの結果、ある境地に達したようにも思えるのだ。あるいは,開き直りではなく「そうありたい」という願望か、はたまた何かを見限ってしまったのか。
 それが証拠に、21世紀に入って以降は、ブラナーは一切シェイクスピア関連の映画は撮っていない。もう撮れないのか撮りたくないのか、今は撮らないがいずれやるつもりなのか…その真意は分からないながら、とりあえず21世紀初頭のケネス・ブラナーはそんな状況にある。
 僕はそんなブラナーのここまでの道のりを見て来たし、迷走も含めた彼の思いも察して来たつもりだ。高尚なものを「みんなのもの」にしようとして、苦い挫 折を経験して来た姿も見ている。だからこそ、一介の映画人のごとくハリウッド娯楽映画を撮る彼の姿に、「彼らしい」と思いながらも複雑な思いを感 じずにはいられない。そして、彼をバカにできないしキライにもなれない
 僕が今回の作品を見ずに「擁護」を決めた理由も、そこにある。


見た後での感想

 というわけで、早速、劇場で「オリエント急行殺人事件」を見て来た。
 ブラナーがこの作品のオファーを受けた理由は、分かりすぎる程分かる。ポアロというユニークな人物を演じる役者としての醍醐味があるし、基本的に「室内 劇」なのが元々演劇人だったブラナーに向いている。それでいてミーハーでハリウッド映画好きだから、シドニー・ルメットの超豪華オールスター大作のリメイ クとしてぜひ撮りたい。いや、ごもっともである。僕もブラナーにはピッタリの企画のように思う。ハリウッドのプロデューサーもそう思ったに違いない。
 そういう意味では、オファーを出した方と受けた方の思惑は完全に一致。ついでに観客が期待している点も一致しているはずだ。果たして,出来上がった映画はどうなのか。
 ここでもう一度繰り返すが、僕は今回ブラナーを擁護する。そのために映画を見たし,この感想文を書いている。その点を考慮してこの文章を読んでいただきたい。
 ともかく映画が始まると、そこは何とエルサレムである。いやはや、つい先日アメリカ大統領閣下が余計なことを言い出したおかげで、またまた騒がしくなっ た土地だ。そこで起きた厄介な事件を、ポアロがいとも簡単に解決して物語は幕を開ける。しかし、エルサレムからお話が始まって、容疑者がラビ、神父、イ マームの3人…って,あまりにタイムリー過ぎるやろ。もちろん映画の製作時にはこんな事態になるとは思ってもみなかったはずで、それがこうも現実とジャス トミートしてしまったのは、やはり作り手のセンスが鋭かったからではないか。そういう時には、こういう偶然だって起きる。やはりブラナーの「作り手」とし てのカンは鈍ってはいない
 僕は「滑り出し好調」…と安心してスクリーンを見つめる気になった。


全力擁護する気マンマンで見てみたものの

 さぁて…一体何から取り上げればいいのやら。
 僕は本作をホメて援護射撃することで、袋叩きにあっているブラナーを救出したいと思っていた。一生懸命「敷居の低い」映画作りを心がけて奮闘して来たブ ラナーに対して、みんなちょっと不当に叩き過ぎていると思っていたからだ。そりゃないよ…と言いたくなった。あまりにみんな調子に乗ってコテンパンにして いると思われたからだ。ケナし方もちょっとバカにしてるみたいでイヤな感じなんだよね。
 実際に映画を見てみると…冒頭のエピソードをエルサレムから始めたのは、なかなかナイスなアイディアと思った。映画を最後まで見た時に、なるほど、そう言いたかったのね…とも納得した。納得はしたんだけれども…。
 本作は間違いなく、1974年のシドニー・ルメット版のリメイクとして作っている。オールスター・キャストを組んだのも、ルメット版を意識したから。だ が、ルメット版のオールスターっぷりたるや、ハンパじゃなかった。スターの格もスゴかったし,数もスゴかった。何しろショーン・コネリーイングリッド・ バーグマンが「脇」なんだから。ここまでスターと名優が揃った映画は、そうそうないはずである。逆に言うと、これに対抗するのはなかなか厳しいものがあ る
 残念ながら今回のブラナー版「オリエント急行」は、そのオールスターぶりから見て、ルメット版には及ばないと言わざるを得ない。質からいっても数からいっても負けている。これは映画を見る前から薄々感づいていたことだ。
 正直言って本作の中で現在一番最前線に立つスターとなると、ジョニー・デップにトドメを刺すということになるだろう。その役は、ルメット版では何とリチャード・ウィド マークが演じた役である。これは比較するのも気の毒だ。スターとして俳優としてのボリューム感からして、どうしたって相手にならないのだ。
 おまけにそのジョニー・デップの役どころといい役づくりといい、あまりにゲスで安っぽい悪役過ぎてまったく華やかさに欠ける。そういう役どころと言えばそうなのだが、今回一番のスターがこれである。オールスター・キャストが盛り上がるワケもない。
 そして多彩なキャスト…のはずが、意外に層が薄く感じられてしまうのもキツい。容疑者のかなりの数が、印象の薄い雑魚キャラになってしまっている。これもルメット版に負けている点である。これは単にスターの数が少ないという問題ではない。
 ビックリしたのは…見ていてやたらに顔がデカいイモ姉ちゃんが出てきたこと。いかにも重要人物然として現れたので「オールスター・キャスト」の一人であ ろうことは察せられたのだが、正直言って誰だか分からない。後になってそれがスター・ウォーズ/フォースの覚醒(2015)で一躍注目されたヒロイ ン、デイジー・リドリーだと知った時の衝撃はデカかった。いやぁ、悪いけどこの人、まだまだオールスター・キャストの一角を担えるほどのタマじゃない。あ まりにも垢抜けていない。こんなに華がないのか…と唖然としてしまった。ナバロンの嵐(1978)に出た時のまだアンチャンだったハリソン・フォード だって、もうちょっと華やかさがあったよ。この人、果たして「スター・ウォーズ」が終わってからもスターであり続けられるのか、申し訳ないがちょっと疑問 だなと感じてしまった。そんな訳で、ルメット版と比較してしまうとキャストの小粒感は如何ともし難いのである。
 でも…まぁ、気を取り直して次にいってみよう。
 ブラナーのポアロはどうかと言えば…正直言って僕はポアロのキャラクターを云々できるほど、その小説を熟読して来た訳ではない。だから、誰が適役だとか ピッタリだとかを僕が言える立場ではない。だが、例えば「ナイル殺人事件」(1978)、「地中海殺人事件」(1982)でポアロを演じたピーター・ユス ティノフが、口ひげ以外まったくイメージとは合ってなかったことは僕でも分かる。ルメット版でポアロを演じたアルバート・フィニーはどうか? 変人ぶりが かなりいい線いってる気はしたが、「通」に言わせるとやはりこれも違うらしい。実際、メイクなどを含めてやり過ぎ感がすごかったのは確かだった。
 では、ブラナーはどうだったかと言えば、映画が始まってすぐの段階では、ユーモラスな感じで悪くはない。「これがポアロ」かどうかは僕には云々できないが、違和感を感じるということはない。常人とは違うユニークさは、それなりに表現出来ていたと思う。
 ただ、コッケイ味と変人ぶりがにじみ出ていたのは最初の頃だけで、どうしたことか途中から少々方向性が怪しくなって来る。終盤に至っては苦みばしった表 情で、シブい演技に終始。まるでダンケルク(2017)で彼が演じた立派な軍人などと大差ないイメージに変貌してしまうではないか。作品のテーマはかなりシ リアスなのでそうなってしまうのかもしれないが、ポアロがこれではマズいのではないか。結局、ブラナーが自分をカッコ良く見せたいという誘惑に勝てなかっ た…という感じが強い。冒頭の感じを維持出来なかったのは,ポアロの映画としては何とも具合が悪いと思うのだ。

 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 





本作の「映画」としての問題点
 う〜ん、ケネス・ブラナーを弁護しようと思っていたのに、思い切り批判してしまっているではないか。これは何としても僕としてはマズい。だが、正直言ってこのブラナーのポアロ像のブレっぷりこそが、本作を象徴しているといっていい。
 俳優としてのブラナーがポアロ像をブレさせてしまっているのと歩調を合わせて、監督としてのブラナーも致命的なミスを犯しているのである。…というか、これはひょっとしたら脚本のマイケル・グリーンのせいかもしれないのだが…。
 原作はアガサ・クリスティの推理小説なのに、驚くべきことに本作はまったくミステリー的な楽しみが盛り上がって来ない。謎解きが楽しめない。なぜなら、 ナゾはすべて提示される前にポアロが解いてしまうからである。しかも、どこでどうやって情報を仕入れたのかも観客が分からないまま、手がかりも何もなく結 果だけがどんどん語られてしまう(…ように見える)。僕はてっきりポアロがパソコンでも持ち込んで、ネットで必死に検索でもしているのかと思った(笑)。 もちろんオリエント急行にはWi-Fiも完備である。そうでなければ、容疑者たちの過去をズバズバ結論だけ当てられるはずがない。本作を見ると、ポアロは 全然推理していないのである。これではドキドキしようがない。これはハッキリ言ってミステリー映画とは言えないだろう。
 こんなに有名な原作で、しかも過去の映画化作品も有名だから、今さらナゾ解きなんか見せても仕方ないと思ったのだろうか。しかし、ミステリー映画がミステリーを放棄してしまったら、一体何の映画になってしまうのだろうか。
 その代りといっては何だが、途中でちょっとしたアクション場面まで入れたりする。そこに事もあろうに,ポアロも一役かってしまうのである。ここはハリ ウッドっぽく、活劇でも入れなきゃとか思ったのだろうか。いやぁ、これって雪に閉ざされた列車を舞台にした、一種の密室劇だからいいんじゃないのか。こち らは密室劇ではもたないと思った脚本家のせいか、はたまたカッコいいポアロをやりたくなったブラナーのせいなのか。
 終盤では容疑者たちを前にポアロがひたすら謎解きを説明して、そこで登場人物たちの「悲しい運命」を描きながら「お涙頂戴」的な場面が続く。名探偵が最後 に真相を得々と説明していくというのは、ミステリー映画の宿命でこう描くしかないのかもしれないが、日本のテレビの2時間サスペンスとどこが違うのかと言 われれば答えに窮してしまう。カネのかかった「火曜サスペンス劇場」といった案配なのである。ラスト・クレジットでブラナー作詞、ミシェル・ファイファー 歌の主題歌が流れちゃうあたりからして、そんな雰囲気である。
 おまけにこの終盤では、容疑者たちがズラリと横に並んで座っている…という構図を作っている。これが明らかに「最後の晩餐」の絵を模しているのは、さす がにちょっとミエミエ。ミュージカルっていうとすぐに傘持って雨に唄えば(1952)のパロディやるみたいなのと同じで、これはさすがに寒いし恥ずかしい。そこでブレ ナーがポアロ的コッケイさをかなぐり捨てて、「その銃で私を撃て!」と大見得を切るあたりも、何だかなぁ…。「柳生一族の陰謀」(1978)のエンディン グで、萬屋錦之介「これは夢じゃ、夢でござ〜る!」とコテコテの大芝居を見せるくだりを思い出してしまった(笑)。言いたくないけど、これはやっぱりブ ラナーの演技設計ミスではなかろうか。
 映像的な部分でいうと、本作のCGへの依存ぶりもいただけない。オリエント急行を取り巻く風景を描く際に、CGをやたらに多用しているのだ。そのせい で、列車が雪山に差し掛かったあたりになってきた時、僕は何ともいえない既視感を感じた。「これに似た場面をどこかで見たな」と思ったら、韓国のポン・ ジュノが撮ったスノーピアサー(2013)がこんな感じではなかったか。「オリエント急行」がSF映画みたいに見えちゃうのってどうなの? それに、風 景をほとんどCGで作っちゃってるから、オリエント急行の豪華さがイマイチ伝わって来ないのである。雪崩のスペクタクル場面を見せることが「映画的」だ と、本気で思っちゃったんだろうか。
 もうひとつついでにケチをつけるなら、ラストにブラナーが「ナイルに行く」云々と言い始めたのも気になる。何だかまたまたこの映画でも、マーベルやDC コミックス映画みたいに「なんちゃらユニバース」をやろうとしてるんじゃないか。まさか、クリスティ・ユニバース映画を量産するなんて考えてるんじゃない だろうな…。それだけは止めて欲しいのだが。
 結局、擁護どころか僕もケナすしかなくなってしまった。こんなはずではなかったんだが、トホホな結果になって残念だ。でも、正直言って本作はいろいろキツい。あまりにハッキリとダメさが露呈してしまっていて、
弁護出来ないレベルまでいってしまっているからだ。
 それは…認めたくはないが、ケネス・ブラナーがいろんな意味で本作の映画化を「単純」に受け止めていたからだと思う。ポアロ像の構築(ブラナーがいい カッコをしたくなってしまっただけかもしれないが)もそうだし、「映画的」であるということの受け止め方もそうだ。そして、自らが打ち出したテーマの描き 方にしても、同じようにあまりに「単純」に捉え過ぎていた。
 たぶん、ケネス・ブラナーって「良い奴」なんだろうなと思う。だが、それが本作ではかなり災いしてしまった。モノづくりは、多くの場合デモーニッシュな部分がなければ難しい。だがブラナーは「良い奴」過ぎて、物事を「単純」に考え過ぎているのではないだろうか。今にして思えば
「恋の骨折り損」などの失敗にも、そのへんが大きく祟っていたような気がするのだ。考え方が「健全」に過ぎるのかもしれない。「第2のオリビエ」とまで言われた男をつかまえて、ど素人の僕がこんなことを言うのもどうかとは思うが、結果から見るとそういう風に受け取れてしまうのである。
 もちろん、他のスタッフも誤算が大きかったと思う。マイケル・グリーンはブレードランナー2049(2017)の脚本も書いているから、こいつがや らかした可能性は高い。そもそも、プロデューサーも途中でヤバいと気づくべきではないのか。ここは誰が主 犯だという訳でなく、モノが「オリエント急行殺人事件」だけに作り手全員が共犯だったということでご勘弁願えないだろうか(笑)。

結局ボロクソに言ってしまったが

 そんな訳で大変残念な結果になってしまった本作だが、実は志そのものは悪くなかったんじゃないかと僕は思っている。冒頭にエルサレムを出して来るあ たりからしてもケネス・ブラナーの意図は明らかで、「善悪はハッキリしている」というポアロの信念とは裏腹に、現実世界は混沌としていることを言いたいと いうのは分かる。「正義」だとか「善」だとか「悪」などと、簡単に決めつけられないのだと言いたいのも分かる。それは分かるのだが、終盤の「最後の晩餐」 の滑りっぷりを見ても分かる通り、技術や表現が追いついていない。それを言っちゃうと、冒頭にエルサレムを持って来ていること自体が「出オチ」みたいなも のだ。「混沌」を語ろうとする、その語り口やセンスが「単純」なのである。だから、とても残念な出来映えなのだ。
 本来、ポアロの「一生このアンバランスを背負って生きていく」というセリフはなかなかに重くて含蓄に満ちた言葉のはず。この結果はもったいないと思うし、このセリフがあるからバッサリ切り捨てる気にはなれないのだ。
 そもそもイマドキでは、大人のドラマや芝居で見せていくアメリカ娯楽映画は極めて少ない。そういう意味でこういう企画は大事にしたいし、評価してあげたい。ドラマの復権を掲げたかったであろうブラナーの野心も、暖かく見てあげたいと思うのだ。ホント、応援してるんだから頼むよブラナー。



 

 

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