「ベイビー・ドライバー」

  Baby Driver

 (2017/12/11)



見る前の予想

 この作品の評判の良さは、前々から耳に入ってはいた。何となくイキのいい映画という感じだ。しかも、ある知人に強く強く勧められてもいた。
 監督はエドガー・ライト。聞いたことがあると思ったら、マーベルのアントマン(2015)をクビになった監督だ。それ以前にもコメディを何作も手がけているようだが、あいにく作品は見ていない。似たようなコメディ映画が多すぎるのだ。
 本作の主役の若い男の子は知らないが、脇にケビン・スペイシージェイミー・フォックスを配置する豪華版。こういう映画は侮れない予感がする。あくまで主観でしかないが。
 実はこの映画を見たのは公開からかなり経った時点でのことで、しかも感想文書いてる時期も見てから1か月以上経ってるというテイタラク。大変申し訳ない が、本業が忙しかったので仕方がない。今ごろ感想文アップなんて、気の抜けたビールなんてもんじゃないシラケ方ではある。
 ともかくここまで遅れに遅れて申し訳ない。本業が多忙であったということでご勘弁願いたい。

あらすじ
 街角に停車する真っ赤なクルマ。
 運転席に座るサングラスをかけながら童顔の若者ベイビー(アンセル・エルゴート)は、タイミングを図ったように手持ちのiPodをスタート。クルマにはこれまたサングラスをかけながら、こちらは明らかに堅気じゃない系のバディ(ジョン・ハム)とダーリン(エイザ・ゴンザレス)の夫婦を含む3人。彼らはトランクから「荷物」を降ろし、間近にある銀行へと歩いて行く。
 ベイビーはというとiPodの音楽のノリに合わせて、リズムをとり、口パクをして、のけぞりながら運転席に待機。銀行を見ると、例の3人が銃を持って銀行員や客を脅している真っ最中だ。クールだ、実にクールである。
 そのうち銀行内では銃をぶっ放し始め、阿鼻叫喚。すぐに3人はクルマに引き揚げて来て、いよいよベイビーの出番だ。
 アクセル踏み込み、予想外に大胆なバック。そして全速力で逃走を始める。たちまちパトカーが追跡して来るが、ベイビーのドライビングは彼らを翻弄。絶体絶命の危機や立ちふさがる障害も何のその。とある人けのない駐車場にやって来ると、そこで赤いクルマを捨てて別のクルマに乗り換え、優雅に脱出である。実に鮮やかな手口だ。
 翌日、ベイビーはコーヒーショップで何人分ものコーヒーを買って、あるビルまで運んでいく。ビルの事務所にいるのは、バディやダーリンら銀行強盗一味。 そして彼らを雇って強盗をやらせた男…一見大学教授のように見える紳士ドク(ケビン・スペイシー)。この日は、強盗の稼ぎを山分けにするために集まった訳 だ。
 だが、ベイビーは片時もイヤホンをはずさない。これで話が聞けてい るのか…と思うが、そこはそれちゃんと聞いているから不思議。そのクールにふてぶてしい態度にイラッとくる向きもいるが、バディやダーリンは何度も組ん で、その腕前に惚れ込んでいるから評価は高い。もちろんドクも彼に全幅の信頼を置いている。そしてドクは、ベイビーがなぜイヤホンを手放せないかも分かっ ている。
 それは、まだベイビーが幼い子どもの頃。一家で出かけるクルマの中、両親はなぜか激しく口論を続けていた。あまり激しく罵り合っているために前方不注意になって、アッと気づいた時には前のクルマに思い切り突っ込んでいた…。
 その事故の後遺症かトラウマか、ベイビーはそれ以来、激しい耳鳴りに悩まされていた。それを唯一忘れさせてくれるのが、イヤホンの音楽だったのだ。
 そんなベイビーが帰って来たのは、しがないアパートの一室。彼を待っていたのは、年老いた黒人のジョセフ(CJ・ジョーンズ)。孤児となったベイビーを 育ててくれたジョセフの前では、ベイビーも素直になれる。だが、ジョセフももう歳で耳も遠く足も動かない。そして、ベイビーが「ヤバい仕事」でカネを稼いでいることを薄々感づいている。
 幼い頃からベイビーを可愛がって来ただけに、何としても堅気になって欲しいと願うジョセフなのだったが…。だが、そうは問屋が卸さない。
 実はベイビーは、この商売をやりたくてやっている訳ではない。ベイ ビーにはかつて自分のドライビングテクニックを活かして、ささやかに一人で稼いでいた時期があった。ところがたまたま手を出したクルマが、運悪くあのドク の「物件」だった。当然、ホンモノの悪党であるドクは甘くない。ドクに首根っこを抑えられたベイビーは、それから「借り」の分だけドクに奉仕する羽目に なったという訳だ。
 携帯で呼び出しを受けたら無視はできない。ふてぶてしいポーズをとってはみても、所詮はドクの手の内のコマでしかないベイビーであった。
 そんなベイビーは、ハンディな録音機でいろいろな声や音声を録音し、それをサンプリングして編集するのが趣味。ある日、食事のためにダイナーに入ったベ イビーは、そこに出勤して来たウエイトレスの歌声に注目した。そのウエイトレスのデボラ(リリー・ジェームズ)は、実は時々街で通りかかっては気になって いた女の子。いつもの彼らしくない熱心さで、いつしかデボラに話しかけるベイビーだった。
 そんな彼に、ドクからまたまた「新たな仕事」の呼び出しがかかる。ドクによれば、それはベイビーに課せられた最後のお勤めとなるはずだった。だがその仕事の打合せには、いつになくヤバいムードが漂うバッツ(ジェイミー・フォックス)という男がやって来た…。

見た後での感想

 オープニングがすべて。映画を見たとたん、それを了解した。オープニングで主人公の人となり、今置かれている状況を説明し、なおかつ映画自体のスタイルも説明している。
 本作の宣伝文句は、何と“カーチェイス版「ラ・ラ・ランド」”というゾッとするシロモノ。何とも頭の悪そうなフレーズではあるが、言いたいことは分かる。
 オープニングを見れば一目瞭然なように、ミュージックビデオというかミュージカルというか、音楽とドラマが不可分で絡まり合っている。リズムも含めてピッタリとシンクロしているのだ。今までも、そんな映画がなかった訳ではない。だが、本作の「音楽とのシンクロぶり」は尋常なものではない。確かにこれは評判になる訳である。世間で持ち上げられている理由は、見始めてモノの1分ぐらいで大いに納得した。
 なるほど、これは心地よい。非常に見ていて快感である。おそらく、僕があと30歳ぐらい若かったなら、たちまち鐘や太鼓で大いにホメちぎっていたことだろうと思う。それくらい、見ていて大いに気持ちいいのである。
 確かに、大いに気持ちいいのではあるが…。


映像と音楽の完璧なシンクロってどうなんだ?

 映像と音楽とのシンクロぶりはオープニングの銀行強盗場面から遺憾なく発揮されているが、これは先にも述べたように「ミュージック・ビデオ風」。それに続いて、主人公がコーヒーを買って運んでいる場面が「ミュージカル映画風」に展開して、いよいよ僕は本作が目指しているものをハッキリと理解した。
 確かに、シンクロをここまでやったのは革新的である。だからこそ、世間ではこれほど高く評価されているのだろう。だが…では、なぜこの「シンクロぶり」がここまで革新的に見えるのか。逆に言うと、なぜここまでやりきった作品が今までなかったのか。技術的な問題か、センスの問題か。
 本作を評価している人たちは、おそらくそれを本作と本作を作ったエドガー・ライトの「センスがいいから」だと思っているだろう。そして、ある程度までは そうだろうと思いつつも、なぜ本作ほどこれを徹底した作品が作られて来なかったのかと言えば、それにはそれなりの理由があったからではないか…とも思うの である。
 それはつまり、「そうすべきではない」からではないか。
 まぁ、そこまで言っちゃうのはどうかと自分でも思うのだが、ズバリというと完全にトコトン映像と音楽ってシンクロすべきなのだろうか…というところに行き着いてしまうのである。
 実際、劇映画(ドキュメンタリーでもいいのだが)における映像と音楽のシンクロって話は、ミュージカルとは別に大昔からあった。それこそクロード・ルルーシュ映画でのフランシス・レイの音楽あたりでも云々されていただろうと思う。もっと分かりやすい例を挙げれば、「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)冒頭でジョン・トラボルタが街を歩きながら登場して来る場面での、ビー・ジーズ「ステイン・アライブ」のハマりっぷりを想起していただければ分かりやすいかもしれない。アレを徹底的に突き詰めたら、本作の「シンクロ」ぶりに行き着くのではないか…とも思える。 
 だが、僕はどうもそのように思えるようで、実は違うのではないかとも思っているのだ。そこには、本質的な違いが存在している気がするのである。
 そもそも、映像の動きと音楽ってピッタリとシンクロするとセンスがいいのだろうか?

映画のジャンルに対する「意識」のなさ

 例えば、皆さんが冬のスキー場に行ったときのことを思い出していただきたい。僕も若い頃は、イッチョマエにスキーに行ったりしたものだ。スキー場というと、なぜかどこでも大音響で安っぽいJポップなどを流したりしている。僕は広瀬香美のスキー用品屋のCMソングが大キライなのだが、そういうスキー場に限ってそんな広瀬香美をガンガン流したりしていた。で、非常にイヤなのだが、そんなスキー場で歩いたり動いたりしていると、合わせたくないのに自分の動作が広瀬香美とシンクロしちゃったりする(笑)。情けないことに、シンクロしたくないんだけどシンクロしてしまう。実はそれが広瀬香美じゃなくても、僕はシンクロするのがイヤだったんじゃないかと思う。シンクロがイヤってことは、やはりちょっとそれが恥ずかしいことだからじゃないだろうか。
 ちょっと余談が過ぎたかもしれないが、映像の動きと音楽があまりにピッタリとシンクロするというのは、実はヤボ臭くて恥ずかしいことなのではないかとも思うのである。
 例に挙げるのが古いサンプルしかないので恐縮だが、ルルーシュの映画でのフランシス・レイにしても、「フィーバー」のトラボルタのステップとビー・ジーズにしても、実はピッタリ合っているようで微妙にズレていた気 がする。それらはまだ技術的に拙かったからで、本作のようにデジタル時代の音と映像ならば合わせられた…という訳ではない。確実に意識的に、どこかにズレ や隙間が出来ていた。あるいは、映像と音楽の間にわずかに「違和感」があったかもしれない。完全にピッタリせず…つまりコンマ何秒かの「覚める瞬間」が常にそこにはあったような気がするのだ。で、むしろその「覚める瞬間」こそを味わうのが、それらの場面のミソだった気がするのである。
 それは、音楽が映像の…あるいは映像が音楽の、一種の補完する要素だったり批評だったりという機能を果たしていたからだと思う。一体ではない、むしろ別モノだからこその、それは「付加価値」だったと思うのだ。
 そもそも、あまりに映像と音楽がピッタリと合い過ぎていたら、それはどこかコッケイなのではないだろうか。昔のサイレント時代の時代劇映画で、慌ただし いチャンバラ場面にピッタンコ合わせて三味線の伴奏をチャンチャカ付けていたようなおかしさ、恥ずかしさがあるはずだと思うのだ。
 実は本作を見ていて僕がチラチラと感じたのが、そんな恥ずかしさだ。そして作り手たるエドガー・ライトは、それを恥ずかしいとは思っていないようなのが問題なのである。それは、映画のジャンルに対する意識のなさに起因するのではないかとも思うのだ。
 “カーチェイス版「ラ・ラ・ランド」”って宣伝文句は、本作の持つ問題点を極めてうまく表現しているとも思える。単にこのフレーズを作った人は「ミュー ジカル映画」って言葉を知らなかっただけ(笑)なのかもしれないが、これをミュージカル映画と言わないあたりはなかなか興味深い。その通り。本作はミュージカル映画ではないからである。そしてこれは、先ほど僕が言った「映像と音楽ってピッタリ合い過ぎちゃマズいんじゃないのか」ということとも絡んで来る。当然みなさんは、僕が言ったことに対して、次のような疑問がわき起こってくるだろうからだ。すなわち、「どうして映像と音楽が合い過ぎてはいけないんだ、ミュージカルやミュージック・ビデオはピッタリ合っているのに?」…ということである。
 おっしゃる通りである。ミュージカルやミュージック・ビデオは映像と音楽がピッタリと合っている。ミュージカルやミュージック・ビデオ「ならば」…。
 それらは一見他の映画と同じような映像を持っているように見えて、ある種のファンタジーとしての世界を作り上げた上で形成されている。リアリズム基調の今日の劇映画の映像に、往年のミュージカル映画的世界を構築しようと試みた当のラ・ラ・ランド(2016)…においても、である。リアリズム映像をファンタジックで人工的な映像と見間違えさせて、「あっちの世界」に見ている者を越境させてしまうための仕掛けが施してあるのだ。その「小賢しさ」が実はあの作品のウィークポイントでもあったな…と今さらながら改めて気づかされたが(笑)、少なくとも作り手がそのことを自覚しているのは明らかだった。つまり、自分が今作っている作品がどのジャンルに相当していて、その世界を構築するためにどうするべきなのかをわきまえていたのである。
 これは「作り物」の「ファンタジー」の世界であるという前提だから、過度のシンクロもあり得る。というか、シンクロさせるべきである。映像世界も見ている側も、音楽に「没入」しなくてはいけない。そこでシラケさせちゃマズい。音楽を売るためのミュージック・ビデオならば、なおさらのことであろう。演奏場面を記録するようなモノでなければファンタジーだろうし、仮に演奏場面に見せかけていても、ファンタジーである可能性は高い。その曲なりアーティストなりを最大限に魅力的に見せるという点において、それはリアリズムではあり得ないのである。
 だが、普通の劇映画は違う。あくまで劇映画のBGMであり、そこで描かれる物語や映像を「補完」するポジションが音楽である。音楽が前面に出たモノのように思える作品でも、基本的にはその一線は越えていないはずだ。そして…だからその中でシンクロしているかのように音楽を映像に寄り添わせようとするならば、そこにはどこか音楽と映像は「別モノ」であると主張する異化作用もあるはずなのである。うまく言えなくて申し訳ないが、そこでの音楽の働きはまったく違うのだ。没入するのか異化作用か…これはまったく似て非なるものなのだ。
 ミュージカル映画なら、映像から美術、演出、振付け、音楽、さらにはダンスや歌唱の素養がある役者まで総動員して、研ぎすまされた芸の力でファンタジーの世界を作り込む。そこまでやって初めて、音楽に「没入」した映像を創造することが許される。そこまで世界観を作り込むことなしにドラマ映画にそういうテイストを持ち込んでしまう場合があるとすれば、それは笑わせるためのコメディ演出でしか成立しないのではないか。それってどこかコッケイな見え方をしてしまうはずなのである。先に僕が指摘したのはそこなのだ。
 ここで皆さんは、ひょっとして「映画のジャンルなんてどうでもいいじゃん、ミュージカル映画でなくてもシンクロしていいじゃん」と言いたくなるかもしれない。「普通の劇映画で音楽はBGMでしかないと誰が決めたんだ?」と思うかもしれない。これって一見正しい意見のようだが、必ずしもそうとは言い切れない。ジャンルなんか無視していいものなら、そういう作品が連発していなければおかしい。なのにジャンルを逸脱した作品が少ないというのは、それなりの理由があるからだ。
 例えば犯罪映画で緻密なアリバイなどを組み立てたり、推理映画でミステリーを解いていったりする時に、いきなり幽霊が出て来たり宇宙人が出て来たりしたらマズいだろう。それでは何でもアリになってしまう。ジャンルというのはそういうものだ。もちろんモノにはすべて「例外」というものが存在するが、あえて「例外」を作る時にはそれなりの必然性がなければならない。そして、それは決してジャンルを「無視」しているのではなく、むしろ大いに意識しているからこその「例外」のはずだ。ジャンルのルールというものは、それくらい厳しいモノなのである。
 だが本作が「ジャンル逸脱」を図ろうとした作品だったとして、そこにそれほどの厳しい覚悟があったかというと、それは残念ながら感じられない。何にも考えず、ただ「カッコいい」から逸脱しただけとしか思えない。単純に「カッコいいならジャンルなんて逸脱していいじゃん」って発想は、何だか「面白くなければテレビじゃない」って往年のフジテレビのキャッチフレーズみたい(笑)で、さすがに軽薄に過ぎるのである。
 実は、そこが本作の危うさだと思うのだ。


最大に残念な点は客観性の欠如

 非ミュージカル映画での「シンクロ」は、笑わせるコメディ演出に通じるコッケイなものとなる可能性がある。僕は先ほどそう述べたはずだ。
 例えば一例を挙げれば、ジャッキー・チェンクリス・タッカーが共演した、今やセクハラで名高い(笑)ブレット・ラトナー監督の「ラッシュアワー」(1998)という作品がある。この映画で本筋とはちょっとはずれるが、在ロサンゼルス中国領事の娘がクルマの中でマライア・キャリー「ファンタジー」という曲を聴きながら、口パクで歌マネをしている場面が出て来る。中国のまだ幼い女の子がマライアの歌マネをするというミスマッチもさることながら、その口パクがあまりに実際の歌とピッタンコにシンクロしているので、思わず微笑ましくも笑っちゃう場面になっている。
 これは、コメディ演出である。笑わせるために作っている場面で、実際に見ていておかしい。だが、これって本作の見事に演出された冒頭部分と、やっていることは基本的に同じではないのか
 「ラッシュアワー」では明らかに、作り手は笑わせようとしてやっている。それに対して本作のエドガー・ライトは、どう見ても笑わそうとはしていない。彼 は心底これをクールだと思っているし、観客にクールだと見せたいと思っているし、そう演出している自分をクールだとも思っているだろう。笑っちゃうなん て、これっぽっちも思っちゃいないのだ。
 それって…これを言うとかなりキツいことになるのだが…ちょっと客観性に乏しいってことじゃないのだろうか。
 中国のまだ幼い女の子が、こまっしゃくれた顔をしてマライアのやけにノリのいい歌を口パクしている。それはクールではない。口パクがピッタリとシンクロして、あまりに真に迫れば迫るほどコッケイである。そして、微笑ましくて笑ってしまう。そりゃあそうだろう。
 転じて本作を考えてみると…まだ童顔のポチャポチャっとしたヌルい顔の若者が、似合わないサングラスかけてキメキメのなりきり気分で曲にシンクロしながら口パク歌マネや振付けをやっていれば、
本来ならば相当コッケイなはずである。なのに、本作は観客にそう見えていないし、作り手もそうは作っていない。その理由は、作り手が「マジ」だからである。「マジ」にこれはイケてると思っているからである。それ以外のアクション描写も「マジ」だからである。だが、本来はこれってかなり笑っちゃう演出ではないだろうか。
 「笑い」というのは客観性の産物だし、一種の批評でもある。それが「ない」というのは、つまり自らに対する客観性に乏しいということだ。覚めた視点がないということだ。つまり、「自分がコッケイだ」と分かっていないことにつながるのではないか。
 例えて言えば、子供部屋で若者がロックを聞きながらノリノリで演奏のマネなどをしていた時に、いきなり母親が部屋に入って来たら大慌てするだろう。それはコッケイで恥ずかしいからだ。大人げないからである。だが、本作のエドガー・ライトなら、恥ずかしいとは思わないような気がする。それどころか、母親にこれ見よがしに、あるいは得意げに演奏ポーズを見せつけるかもしれない。そのくらいの無神経さを感じるのだ。いや、無神経なのではないな。
 それは、どこか「幼い」のかもしれない。
 実際のところ、本作は実によく作っているな…と感心もした。テンポの良さ、ある種の痛快さも認める。ちょっと主人公を甘やかしている点やら、本来は主人公にやらせてはいけないはずのことを劇中でさせてしまう点がどうにも気になったが、ラストでちゃんと帳尻を合わせているから、そこも認めてあげたい。先にも述べたように、自分が若かったら諸手を挙げて大絶賛したかもしれないとも思う。
 ただ…やっぱり違うと思うのだ。残念ながら何かが欠けているか、わずかな誤差で勘違いしているように思える。自信満々なんだろうが、たぶん気づいてないことがあるような気がする。大変申し訳ない言い方だが、「アントマン」におけるマーベルの人選は的確なものだったような気がしてならない。
 だからとっても残念だ。エドガー・ライトという人がもう少し自分や映画に対する客観性を持つことができれば、映画も問答無用に良くなるように思えるからである。


 


 

 

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