「残像」

  Powidoki (Afterimage)

 (2017/08/21)



見る前の予想

 昨年、ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダが亡くなったニュースを聞いた時には、残念は残念ながらも「仕方ないかな…」とも思っていた。
 何でも亡くなった時が90歳という。まさに大往生だ。あの「灰とダイヤモンド」(1957)が僕の生まれる2年前の作品なのだから、去年まで現役の映画監督としてバリバリ撮っていたことの方が驚異的。黒澤明ですら、亡くなったのは88歳だ。
 そのワイダの遺作が公開されると聞いて、僕はもちろん大いに見たいと思った。特にここ何作かのワイダは、かなり調子を取り戻していて冴えていた。僕は元 々が政治的ななんちゃら…みたいなことでワイダの映画を見ていない。「面白い」から見ている。そんな「面白い」ワイダが、ここ何作かは久々に戻って来てい たのだった。
 だから今回も、出来はかなり期待できるとは思っていた。おまけにあのワイダの遺作なら、見ない訳にはいかないだろう。ただ、岩波ホールは狭いホールだし、ワイダなら固定ファンがいるからおそらく混むだろう…そんなことを思って、僕はしばらく様子見を決め込んでいた。
 たまたま大学時代からの旧友と会うことになり、そこでこのワイダの遺作の話になって改めて調べてみたら…何と早くも終了が迫っているではないか! つい この前公開されたばかりだというのに、やけに早い。そんな訳で僕はその旧友との再会を機会に、この作品を見に行くことになった次第。

あらすじ
 広々とした草原に、快活な若い娘がやって来る。
 彼女の名はハンナ(ゾフィア・ヴィフワチ)。画家志望でウッチ造形大学に入った彼女は、高名な画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキに師事したいと 願っていた。草原ではあっちこっちに学生たちがカンヴァスを広げていたが、ハンナはその中でイチャつき合っている生徒に声をかける。「ストゥシェミンスキ 先生は?」
 その生徒が指差した先には、小高い丘の上に立っていたストゥシェミンスキがいた。片腕片足で松葉杖でカラダを支えている。生徒はストゥシェミンスキがも うすぐこちらに来る…と言っていたが、とてもあの丘から降りてくるのは困難そうだ。ところが生徒は、「まぁ見てなよ」とイタズラっぽく微笑むばかり。その 理由は、ハンナにもすぐ分かった。丘から降りようとしたストゥシェミンスキは、何とカラダを地面に横たえて草原をゴロゴロ転がって降りて来るではないか。 それを見た生徒たちも、笑いながら同じように転がって降りて来る。快活な笑いがはずむなか、ストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)はハンナをじっと見 つめた。
 「残像とはモノを見た時に目の中に残る色だ。人は認識したものしか見ていない」
 それが、ストゥシェミンスキとハンナの出会いだった。
 1948年、ウッチ。ストゥシェミンスキがひとりで暮らすアパートの一室。彼は今日も新作に取り組んでいて、じっくり絵の具を吟味していた。そしていよ いよ筆を入れようとカンヴァスに向かったところ、突然カンヴァスが真っ赤に変色。何と窓の外に、巨大で真っ赤な垂れ幕が下げられたのだ。
 それはアパートの外壁に掲げられた、巨大なスターリンの肖像画である。だがストゥシェミンスキにとっては、単なる絵の邪魔に過ぎない。イラッとしたス トゥシェミンスキは、窓の部分の垂れ幕をビリビリ破り始める。当然のことながら、作業の様子を見ていた当局の人間がそれを感づかないはずがない。たちまち ストゥシェミンスキの部屋にそのスジの人間が駆けつけ、連行されるという羽目になってしまった。
 公安に出頭したストゥシェミンスキは、担当者の面談を受ける。公安担当者も、ストゥシェミンスキの扱いには少々苦慮していたようだ。芸術家としての名声 も高く海外での知名度もあるストゥシェミンスキを、できれば利用したいと彼らも考えていたのだ。だが、そのためには彼らに協力し、彼らの方針に従わねばな らない。「今、あなたは非常に難しい分かれ道に差し掛かっているのです」
 だがストゥシェミンスキにとって、芸術に関することは譲れない一線だった。
 確かにストゥシェミンスキは、画家として揺るぎない名声を築いていた。それは、美術館長(マリウズ・ボナゼウスキ)も造形大学の学長(アレクサンデル・ ファビシャク)らに太鼓判を押していた。だが、そんな名声も実績も怪しくなってくる日がやって来る。ストゥシェミンスキの講義は学生たちに人気でいつも超 満員だったが、それが突然中断された。いきなり文化大臣がやって来て、ここで一席ぶつという訳だ。当然、ストゥシェミンスキは愉快ではない。その場を立ち 去ろうとするストゥシェミンスキだったが、それでは事を荒立てる。そう考えた美術館長は気をきかせて、ストゥシェミンスキと一緒にその場に留まることにし た。後から考えれば、それがいけなかった。
 大学にやって来た文化大臣は、案の定、ご機嫌でまくしたてる。例によって「芸術は政治に協力すべし」的な話である。「社会主義リアリズム」以外の芸術は ムダ…という無茶な話に、たちまち我慢ならなくなったストゥシェミンスキ。そうなると、よせばいいのに立ち上がって一言いわずにはいられないのがこの男の 性格。威勢良くタンカを切って出て行ったストゥシェミンスキを、美術館長は頭を抱えて見送るしかなかった。
 そんなストゥシェミンスキにも、もうひとつの違った一面があった。別れた妻との間にできた、娘のニカ(ブロニスワヴァ・ザマホフスキ)との関わりであ る。妻とはその後まったく面識はなくなり、現在ではかろうじてニカを通じてその様子が伝わってくるのみ。聞くところによれば病いに冒され、また生活も困窮 しているようである。ストゥシェミンスキもニカに頼まれ、カネを用立てるような状況であった。
 だがストゥシェミンスキも、思わぬ苦境に陥っていく。造形大学に呼び出され、いきなり更迭を言い渡されたのだ。もちろん、「上」の心証を悪くしたのが災 いした。それでもストゥシェミンスキを慕う学生たちは彼のアパートに集い、芸術談義を繰り広げる日々。その中には例のハンナも参加しており、ストゥシェミ ンスキに熱い視線を送るのだった。
 そんなストゥシェミンスキだったが、苦境にさらに追い打ちをかけるような事態が…。

希代のエンターテイナーとしてのアンジェイ・ワイダ

 アンジェイ・ワイダ…という名前を聞くと、おそらく東京圏に住む映画ファンなら誰もが岩波ホールをイメージするのではないだろうか。
 もちろん1950年代後半の「灰とダイヤモンド」やら「地下水道」(1956)あたりから見ている人だとそのへんが「ワイダ」ということになるんだろう し、代表作というといまだに「灰とダイヤモンド」の名前が挙がってきたりもする。だが、僕にとってはワイダは「岩波ホールのワイダ」だ。実は僕は岩波ホー ルのカミシモ着ちゃってるような上から目線が昔から苦手なのだが、それもワイダのおかげでかなり緩和されたのではないかと思う(笑)。
 実はワイダは「灰とダイヤモンド」あたりの作品がパパッと公開された後、パッタリと日本に作品が来なくなってしまっていたらしい。「らしい」と言うの は、僕もそんなことは知らなかった訳で、ただ映画を見るようになって「灰とダイヤモンド」とか「地下水道」という「名作」がある…ということは耳にするような感じだった。 そのうち日本でヨーロッパ映画というとアラン・ドロン主演作がメインになっちゃう訳だから、ポーランド映画なんて入って来る余地がなかった訳だ。
 そんな状況に風穴を開けたのが、「大理石の男」(1977)の日本公開。上映したのが岩波ホールなのだから、その功績は多大なものがあるだろう。以後の 作品はかなりコンスタントに入ってくるようになった訳だが、それらも大半は岩波ホールでの上映だ。いつもネチネチと岩波ホールへの悪口を並べているこの僕 だが、素直にワイダを日本に再紹介したことについてはホメるべきだと思っている。だが、これが痛しかゆしでもあるんだよな…というのは、もうちょい後でお 話ししたい話題。ともかく「大理石の男」の公開はかなりの衝撃だったらしい。
 ここでまたまた「らしい」と言わねばならないのは、僕はこの作品を岩波ホールでの初公開時に見ていないからだ。おそらくその後、名画座に落ちて来てから 見ている。何しろ敷居が高いからねぇ岩波ホールは。ともかくこれが僕にとってのワイダ初体験だった訳だが、ワイダ童貞の喪失はキモチ良過ぎた。以後、僕は ワイダ作品を片っ端から追いかけるようになる。
 だが、1977年発表の「大理石の男」が岩波ホールで上映されたのは、1980年になってから。それでなくても遅いのに名画座落ちしてから見たとなる と、僕が見たのは1981年ぐらいだろうか。ともかく僕はたちまちハマっちゃって、次に公開された約束の土地(1974)はちゃんと岩波ホールで見た 記憶がある。これがまたまたいいんだなぁ…。青春の瑞々しさとスケールでっかい文芸大作風の構えがちゃんと出来てる。屁理屈ばかりでビンボ臭い映画じゃな いんだよ。
 さらに、おそらく大学の無料上映会で「灰とダイヤモンド」も見ている。さすがに古い映画で「名作」をお勉強させてもらってる感は否めなかったが、それで もあの主人公のカッコ良さは何となく分かった。斜に構えてるサングラスの横顔がキマってる。雰囲気的に、まだ偉くなる前の黒澤明と三船敏郎がガッツリ組ん だ「酔いどれ天使」(1948)と共通する臭いがする。ワルい兄ちゃんの映画って感じがするのだよ。
 そうなのだ、僕にとってのワイダはいつもそんな感じだった。
 世間じゃワイダというと「灰とダイヤモンド」「地下水道」以来のイメージから、「抵抗の作家」「政治映画の巨匠」として知られている。何かと検閲やら 規制が厳しい共産圏の国で、自由の尊さを描き続けて来た反骨の映画作家。ワイダの映画を見る前には、まずポーランドの近現代史を頭に入れなければ分からな い。いやぁ、そんなこと言われて誰が見るんだよ。そこに天下の岩波ホールで絶賛上映中と来れば、そりゃあ普通の奴ならガーディアンズ・オブ・ギャラク シー:リミックス(2017)の方を見ちゃうだろ。岩波ホールでやってるからこそ、やたらに敷居が高くなる。そうじゃないんだけどなぁ。ワイダ・ファン とか言ってる連中って、ホントはワイダに嫌がらせをして、みんなが見たくなくなるように仕向けてるんじゃないか。
 毎回毎回言っててみんなは耳にタコかもしれないが、ここでも繰り返さない訳にいかない。僕にとって、ワイダ映画は面白い。この言葉にウソはない。例えばキングコング/髑髏島の巨神(2017)が面白いのと同じように、ワイダ映画は面白い。そういや、「大理石の男」のヒロインをブリー・ラーソンがやっ てもいいね(笑)。
 「大理石の男」を初めて見た時の興奮は、今でも忘れない。こっちは「抵抗の作家」、「政治映画の巨匠」の映画を見させていただくつもりでスクリーンと向 かったら、いきなり出てきたのが…今みたいに偉そうじゃなかった昔の和田アキ子みたいなネエちゃん。ベルボトムのジーンズを履いて大股でガシガシとのし歩 き、とにかくこのヒロインの態度がデカい。お話も面白くて、スターリン時代に労働英雄に持ち上げられながら突然失脚した男を、ドキュメンタリー映画で描こ うと追いかける映画学校の女子大生の話。こう言っちゃうとまったく面白くなさそうで困ったものだが、昔のモノクロ宣伝映画のフィルムから過去を探していく というスタイルがいい。「政治映画」なんかじゃない。映画ファンなら映画づくりの話というだけでグッと来ちゃうはずだ。ミステリー映画でもあってナゾを追 いかけるだけでも楽しい。2時間40分の長尺が、まったく弛みなしに一気に見れる。まさに最高の娯楽映画なのだ。
 その後に慌てて見た「約束の土地」だって、「面白い」映画だった。19世紀末のポーランドの工業都市を舞台に、3人の若者たちの青春の顛末を描く。大ス ケールの文芸ロマン大作で、冒頭のまだ若い主人公たちの場面のフレッシュさったらない。それがどんどん挫折していくさまも、かなり見応えがある。物凄い大 作感があるのだ。ちょうど同じ時期にマイケル・チミノの「天国の門」(1981)が公開されていて、僕の中ではこの2本がどこかつながっているような気が する。チミノの「天国の門」も凄く好きな映画なんだが、どっちが完成度が高いかと問われたら、間違いなく「約束の土地」に軍配が上がる。それくらい、僕は 「約束の土地」を買っているのだ。主役を演じたダニエル・オルブリフスキーも、ほぼ同時期公開のクロード・ルルーシュ愛と哀しみのボレロ (1981)に出ていて国際的に売り出し中。日本公開は7年ぐらい時差が出来ちゃっているのに、結果的にタイムリーになっていたのもプラスだった。この映 画もポーランドの近代史を扱っているので「政治的」っていえば「政治的」。だが、僕らにはそんなことはピンと来ないので「青春の輝きの喪失」みたいなイ メージしか感じられなかったのも、個人的には良かったと思う。
 …な〜んてことをダラダラと書いても仕方がない。こんなことは今までワイダ作品を取り上げた時に、毎回繰り返し書いて来たことだからだ。ともかく駆け足 でその後のワイダと僕の関わりを語っていくと、その後、ワイダは自主管理労組「連帯」とそのリーダーであるワレサを支持するが、ポーランドに戒厳令が敷か れるとともに厳しい立場に追い込まれ、フランスと組んだ「ダントン」(1982)をはじめ海外での映画製作を強いられることになる。
 だが、やがて統一労働者党政権が倒れてポーランドの体制が変わり、世の中変わった。「抵抗の作家」ワイダも、晴れて自由な映画を作ることが出来るようになった
 これでめでたしめでたし…とはならないところが世の中の難しいところ。どうやらワイダは自由に映画が撮れる…という環境に、なかなか自分を慣らすことが 出来ていなかったようなのだ。そのため、どうもイマイチ新作を発表しても調子が出ない。パン・タデウシュ物語(1999)あたりはそんな作品だったと 思う。
 そういう意味では、自らの父の死に関わる事件を描いたワイダ念願の作品カティンの森(2007)も、決してスッキリした出来映えとはいえない。映画 としてうまくいっていない点が多過ぎる。かつての「面白い」ワイダ作品を考えると、ちょっと残念な作品だ。だが、終盤になってくると、この映画はとんでも ない迫力でグイグイ見る者を圧倒する。ポーランド人捕虜が次から次へと呼ばれて、バンバン処刑されていく。その様子は、まるで屠殺場で殺される家畜のよう な整然としたものだ。このヒリヒリとした怖さたるや…ホラー映画などの比ではない。本当に底冷えしてくる怖さなのだ。これを見た僕は、やはりワイダ侮り難 し…と痛感せずにはいられなかった。ここだけの話、本気でワイダにホラーを撮らせたら、どれだけ怖い映画を撮っただろうか。
 そしてこれが起爆剤となったのか、続く菖蒲(2009)、ワレサ/連帯の男(2013)…と充実した作品を連発。「面白い映画」の作り手として のワイダ復活を改めて印象づけた。特に後者の「ワレサ〜」は、やはり「連帯」絡みで政治色の強い作品だった「鉄の男」(1981)がイマイチだったのと比 べると、出来映えに格段の差があった。世間では「鉄の男」をモテはやしていたしカンヌでもパルムドールを獲得しているが、実際のところはそれって「連帯」 頑張れのエールでしかなかったような気がする。それと比べれば、「ワレサ〜」はちゃんと娯楽映画として楽しめる作品に仕上がっているのだ。
 そんなこんなでまたまた波に乗って来たワイダだったから、ここでの死去は何とも惜しい。惜しいけれども、もうかなりの高齢だからなぁ…と納得しちゃうの も事実。せめてアブラが乗り切ったところで遺作を発表できたのが、ワイダにとっては何よりだ…というのが、僕の率直な気持ちだったのである。

見た後での感想

 そんな訳で期待しながら岩波ホールに乗り込んだ僕だったが、実は本作を見るにあたっては、一抹の不安を感じない訳ではなかった。
 それは、本作がポーランドに実在した「前衛画家」のお話だという点だ。
 これは今まで何度もこのサイトで言って来たことだが、映画作家がクリエイターやアーティストの話を題材に選ぶ時は、大抵「自画像」を描いていることが多 い。もちろん映画監督が主人公なら、間違いなく自伝的な内容だ。別にオール・ザット・ジャズ(1979)みたいに自分に似せなくても、大体見れば分か るように出来ている。
 これが作家や画家が主人公の場合でも、事情はあまり変わらない。おそらく映画作家は、自分のことを主人公に仮託して描いている。最近ではティム・バート ンビッグ・アイズ(2014)なんかがそうだった。例え性別が違っても、映画作家がそこで描きたいのはおそらく自分のことなのだ。
 だとすると、今回の主人公である「前衛画家」は、間違いなくワイダ自身を投影したキャラクターだということになる。
 しかも今回のお話は、この「前衛画家」がスターリンの影響下にあったポーランドで迫害され、追いつめられていくというもの。いかにも…である。いかにも「抵抗の作家」「政治映画の巨匠」、自由を希求してやまない人…ワイダのイメージそのものだ。「らしい」作品である。
 だが、その「らしさ」が何となく引っかかる
 「前衛画家」として海外でも知られる人物が、政治的な圧力を受けて迫害されるが、最後まで抵抗をやめない…。リッパだ、立派過ぎる。世間のワイダ信者はこれぞワイダとモテはやすだろうし、まさにワイダのパブリック・イメージそのものだろう。
 だが、僕はワイダの代表作のひとつ「大理石の男」でさえ、「政治映画」として立派だから見た訳でもなければ評価したつもりもない。単に面白い映画だから 気に入ったのだ。そこに、このあまりに立派すぎる題材の作品。正直言って、僕はそんなものを見たい訳ではない。そんなものが面白いとは、僕には到底思えな い。何か違うのである。
 その一方で、クリエイターとしての自己を反映した作品を作ったという点は、別の意味で期待が高まる要素でもある。実はワイダには、かつて「すべて売り 物」(1968)という映画づくりを題材にした異色作があった。これは自己を反映させたどころか、「灰とダイヤモンド」で主演を勤めたズビグニエフ・チブ ルスキの事故死を題材にした作品。モロに自分のことを映画にした作品なのだ。見てからかなり経つので曖昧な記憶しか残っていないが、それでも作品に漂う混 沌とした雰囲気に、ワイダの困惑ぶりが見てとれた。他のワイダ作品ともかなり違った印象があって、僕にとってとても興味深い作品だった。
 ところがつい最近、ワイダはこの「すべて売り物」とどこか通じる映画を撮っていた。それが先にも挙げた「菖蒲」という作品である。
 この作品、個人的には「大理石の男」のヒロインであるクリスティナ・ヤンダを久々に起用するというから大いに期待したが、映画そのものは異色作も異色 作。元々は病いに冒され余命いくばくもない女が、夫のある身ながら若者に惹かれて…という「生と死」をテーマにしたお話。だが、今回はそれで済まないから 只事ではない。劇中にいきなり「菖蒲」撮影合間の監督ワイダと女優ヤンダがメイキングみたいに出て来る。それどころか、映画の冒頭は「菖蒲」で主演するこ とになる女優ヤンダの独白から始まるのだ。それだけならちょっと斬新な試み…程度の話で済むかもしれないが、この映画はそれだけじゃない。実はこの映画 は、撮影監督であるヤンダの夫がキャメラを担当することになっていた。だが、その時には彼はすでに病魔に冒され、結局、「菖蒲」を撮影することなく亡く なってしまう。冒頭のヤンダの独白は、そのことを語る内容になっているのだ。
 さらにある場面を撮影した直後、女優ヤンダがショックから撮影現場を逃げ出してしまうというエピソードも出て来る。だが、それは決してドキュメンタリー ではない。カット割りもされているし場面も移動する。演出もされたドラマとして撮影されているのだ。つまりは、ヤラセである。
 「生と死」をテーマとしたドラマを描くにあたって、いささか手垢のついたこのテーマをリアルなものにするために、実際のリアルな「生と死」を無理矢理ドラマに持 ち込んでみる…。そんな狙いは、見ている僕にもよく分かる。しかし、それを当の女優自身にヤラセで演じさせるというのはどうなんだろう。ちょっとモノの作 り手として、それはどうなの?
 だが結果的に、「菖蒲」は作品全編に「死」のイメージがベットリとこびりつく、何とも強烈な作品に仕上がった。だとすると、映画作家としては正解だったということなのだろう。そして、僕はワイダという人の「イメージ」を修正する必要に迫られた。
 ワイダの「抵抗の作家」のイメージを鵜呑みにはしていなかったものの、僕もワイダにそういうイメージをどこか持っていたのは否めない。まるで「正義の 人」みたいな感じである。しかし「菖蒲」を作るにあたってのやり方を見ていると、そんなワイダのイメージが揺らがざるを得ない。
 正直言って、この作品のワイダはかなりエグい。夫を亡くしたばかりの女優に、そのこと自体を作品に持ち込んで演技しろと言うのは、人としてどうなんだ… と思わざるを得ない。それどころか、作家としてドラマにそんなモノを持ち込んで、ヤラセまでやらかすなんて邪道な気がする。ちょっとズルい気もするのだ。
 だが、映画作家としてそれなりの業績をあげてきた人物ならば、「単なるイイ人」であるはずもないだろう。モノの作り手としての「業」みたいなものもある だろうし、「芸のためなら女も泣かす」的なデモーニッシュな部分があってしかるべきだろう。「抵抗の作家」な〜んて「金八先生」みたいなものじゃなかった はずなのだ。それを、この作品で改めて感じさせられた。
 それと同時に、またしても「死」なのか…と暗澹とした気持ちにさせられもした。考えてみれば、先に挙げた「すべて売り物」もチブルスキの死を「ネタ」に した作品である。これも、エグいっちゃエグい。親しい人間の死をネタにして映画を撮っているんだから、ひどい話ではある。だが、そうまでしてもやらなきゃ ならない、描きたい題材だったとも言える訳だ。これはどこか共通する点があると考えるべきではないか。
 ある意味でワイダがクリエイターを描く、創作の現場を描くということは、自分を描くことでもある。それと同時に、「善人であること」をかなぐり捨てて、エグいことをやってまでして本音を描く…という、腹をくくった作品づくりをする機会でもあるように思える。
 だとすると、今回もまたエグい、キレイごとでは済まない作品になっているのではないだろうか。
 果たして、本作「残像」もまた…ただじゃ済まない、腹をくくった作品に仕上がっているのだった。


本当に最初から最後まで「抵抗」していたのか?

 今回の感想文は、やけに前置きが長くなってしまって申し訳ない。だが、今回はここまでの前提を踏まえてでないとうまく伝えられない。
 本作のお話は、先に書いたあらすじと変わらない。著名な前衛画家として地位を築いている人物が、スターリニズムの圧力を徐々に受けていく。画家はそれま での名声もあり人望もあるから、決してそんな圧力には屈しない。学生たちもそんな画家を支持する。ますます迫害は厳しくなるが、断じて抵抗はやめない。だ が、それも行き着くところまで行ってしまい、最後には画家は貧困と孤独の中で死んでいく…。
 最後まで抵抗をやめない、最後まで自由な精神を守る孤高の画家を描くワイダは、さすが「抵抗の作家」だけのことはある。
 …って話なのか、本当に?
 確かにあらすじはそうだし、ネット上などのレビューなどを見てもそんな感じに書かれている。ワイダはこれが遺作だから、最後まで自由のために戦うことの尊さを訴えた…的な感じに受け止められているようだ。すごいな、ワイダ。まさに偉人である。熱血正義の人である。
 冗談も休み休み言っていただきたい。
 この映画を実際に見て、そんなカッチョいい話に見えるだろうか。僕はとてもそんな風に見えなかった。自由を守るために戦う、覚悟を決めた孤高の男…なんてものではなかったように思える。よ〜くそのあたりを見ていただきたい。
 この男、確かに政府当局からの圧力に屈していないが、「自由のための戦い」なんて立派なものだったのだろうか。いや〜、そうじゃないだろ。この男は画家 としての評価が高く、自分でもそのあたりを自負している。それは誇り高いというより、「オレくらいの大物になると誰もつぶせないだろう」というタカをくくったところもあっ たのではないか。
 劇中でも描かれているように、この画家は自分を慕ってくる女子大生もためらいなく食っちゃうし、まだ幼い娘が彼を頼って家にやって来ても、お構いなしに 女をはべらせて娘を追い出してしまう。テメエ勝手で尊大な男である。だからお上から圧力をかけられても、「オレ流」でいけると思って我を通してしまう。 「孤高の精神」でも何でもない。単に状況が見えてないだけ、譲る気がないだけだ。ナメているのである。別に「抵抗」しようなんて思っている訳ではない。そ のうち向こうから引いてくるだろう…ぐらいの発想でしかない。
 そして、そんな態度で始めちゃった以上、だんだん後に引けなくなって来る。そのうち、引きたくても引けないし、引いても手遅れになってしまう
 現にいよいよヤバくなってきた時、主人公は食っちゃった女子大生に「思っているより相手は手強い」だか「予想以上にキツい」といった本音を漏らす。相手の怖さをまだ身に浸みて分かっていない女子大生に、「気をつけないとヤバいぞ」と主人公はたしなめた訳だ
。今さらジローではあるが、この主人公の認識は正しい。だが、女子 大生は若さゆえの勢いで抵抗する気マンマンだから、そんな主人公に軽蔑の眼差しを投げかけて部屋を出て行く。そして案の定、女 子大生は部屋から出て行くや否や、当局にしょっぴかれてしまうのである。世の中そんなに甘くない。
 そんなこんなで八方ふさがりになっていく主人公は、最後は抵抗するどころかスターリンの肖像描きの仕事までやる羽目になる。だが、その仕事すら出来なくなってしまうからトホホである。「最後まで抵抗し た」なんてものではない。最初は単に状況が読めてなかっただけ。途中からは、ただただサンドバッグみたいにやられっぱなしである。全然カッコいい話じゃないのである。
 でも、これが真実なんじゃないのか…とワイダは言いたいのではないか。
 「自由のための戦い」「孤高の精神」「権力への抵抗」…大変結構である。まったくご立派だ。それが正しいことは百も承知である。本作の感想やレ ビューにしたって、そんな内容で埋め尽くされるだろう。自由のために戦う主人公に感動…とか、立派とかエラいとか、そうでなくちゃいけない…とか、そんな 言葉をみんな並べているだろう。
 しかし、みんな自分の身にそんなことが起きたら、同じように振る舞えるのか?
 出来っこないだろ「抵抗」なんて。ワイダは、本作でそう言いたげな感じに思えるのだ。そんな甘っちょろいもんじゃねぇよ、と。
 それは、例の主人公の画家に食われちゃった女子大生の描き方を見れば、何となく分かる。先にも述べたように、かなり状況が悪くなって来て初めて、主人公 の画家は事態が容易ならざるものだと気づく。そこで例の女子大生に「予想以上にキツい」と本音を漏らしてたしなめるのだが、それを聞いた女子大生は露骨に主人公を侮蔑 した態度を見せる。それまで主人公に憧れのウットリした表情しか見せなかった女子大生が、初めて「日和っちゃって、ダセぇなこのオッサン」とでも言いたげ な態度を見せるのだ。そして、画家のアパートから出て行く。
 だがそんな女子大生は、速攻で当局の人間に捕まって連れて行かれてしまう。その時になって初め て、女子大生は「予想以上にキツい」現実を思い知らされるのだがもう遅かった…。「抵抗の作家」ワイダ…のはずなのに、抵抗する側の描き方にまったく情け容赦がない。そ の女子大生に対するあまりに冷た過ぎる描き方は、まるでラスト、コーション(2007)での、お坊ちゃんお嬢ちゃんたちが覚悟もないくせにイキがって「夏 休みの抗日活動」をやっていたあたりの描き方に通じるものがある。ハッキリと「甘いんだよこいつは」という描き方でバッサリと切り捨てているのだ。
 それは一方で、「実際に弾圧とか迫害が起きてからでは遅い」という、ワイダ一流の警告の意味合いもあるだろう。「もうそうなったら手がつけられるもんじゃな い」という意味で、「だからそうなる前に悪の芽を摘んでおけ」…と言いたいのかもしれない。確かに、このメッセージはそう受け取るのが普通なのだろう。だ が、僕は今回ばかりは、それはちょっと違うのではないかと思うのだ。
 実は、ワイダはこう言いたかったのではないか。出来っこないだろ「抵抗」なんて。このオレだって、まったく「抵抗」出来やしなかったんだから…。

チラつく「大理石の男」の「残像」

 本作が始まったばかりのあたりで、主人公が教授として勤めているウッチ造形大学の内部を見せる場面がある。そんな場面を見ているうちに、僕はハッとあることに気づいてしまった
 部屋の中で彫刻を作っている生徒の横に、白い人物像が置いてある。
 僕がなぜその像を見て「ハッ」と何かに気づいたかというと、その像の姿勢がどこか不自然だったから。腕の向きに無理があったので、どこか見覚えがあったのだ。家に帰ってから慌ててネット上を探し出し、当該場面を見つけてちゃんと確認したから間違いない。
 それは、「大理石の男」に出てきた石像だ。
 スターリニズムが吹き荒れた時代に労働英雄として一気に持ち上げられたレンガ工が、邪魔になったとたんアッと言う間に没落させられてしまう…。その「大理石の男」の中で、労働英雄の男をモデルにして作られていたのがこの白い石像なのだ。
 それが、本作にさりげなく出て来るのである。
 もちろん、偶然などではあり得ない。マーベルやDCコミックの映画化みたいに、映画を「なんちゃらユニバース」とかいって数珠つなぎにしたい訳でもない。ヒッチコックのカメオ出演みたいに、茶目っ気でやっているとも思えない。これはどう見ても「暗号」なのである。
 もちろん本作も「大理石の男」と同じく、スターリニズムの犠牲者を描いた映画だ。そういう意味で「通じているよ」と観客に伝えているアイコンではあるだろう。だが、果たしてそれだけだろうか?
 「大理石の男」のお話は、映画学校の生徒であるヒロインが卒業制作のドキュメンタリーを撮る話である。スターリニズムがどうのとか労働英雄がどうのとか言う前に、本作はまず映画づくりを描いた映画だ。「大理石の男」もまた、本作と同じクリエイターの話なのである。
 では、ワイダ自身はヒロインに投影されているのか? 確かに闇に葬られた事実を暴き立てるヒロインは、なかなか英雄的で勇ましい。さすが、「抵抗の作家」ワイダだと言いたくもなる。
 だがこの作品には、実はもうひとり「映画監督」が登場する。例の労働英雄をまつり上げる発端となった、プロパガンダ映画を撮った男だ。実はこの男が、何とも意味深なキャラクターなのである。
 劇中でこの映画監督は、現在では巨匠となって海外の映画祭などにも呼ばれる存在になっていると描かれている。海外から帰国したこの映画監督を、ヒロイン が空港で出迎えるという設定である。ポーランドで、海外の映画祭にも呼ばれるほどの大物映画監督。誰がどう見たって、これこそアンジェイ・ワイダ自身を投 影したキャラクターとは言えないか。
 しかしここでの「映画監督」氏の描かれ方は、なかなか辛辣なものがある。そもそもプロパガンダ映画でのし上がった設定であり、現在の巨匠ぶりも若い連中 からは冷笑気味に見られている様子だ。完全に「過去の人」扱いなのである。だが、本人は大物然として振る舞い、まったくそんなことが分かっていない。イタ いオッサンなのである。
 だからこそ、これはワイダが描いた自画像ではなかったか。
 「抵抗の作家」として持ち上げられ海外で人気、国内でも巨匠として振る舞ってはいる。だが、その実態は結構日和っていて、国内の若い連中からはそのあた りを見透かされて冷ややかに見られている…。実は「大理石の男」発表時点のワイダの実態は、そんなようなものではなかったのだろうか。ワイダ自身、「抵抗の作家」などと思われるのが心苦しいと思っていたのではないか
 「大理石の男」には、そんなワイダの気分を裏付けるような、もうひとつの痕跡が残されている。例の労働英雄を描いたプロパガンダ映画のエンディング・ク レジットに、「助監督」としてアンジェイ・ワイダ自身の名前がクレジットされているのだ。これは、単にこの時代だったらワイダが助監督やってる年齢…なん てことを言いたかったわけではあるまい。つまり、自分もプロパガンダ映画をやっていてもおかしくないくらい日和っていた…と言いたかったのではないのか。
 そんな「大理石の男」の「残像」がシレッと登場する本作。そこでのワイダの分身は、果たして本当に主人公の画家なのだろうか。
 ここは、もっと突っ込んだ見方をすべきではないだろうか。
 確かに画家に「抵抗」の自覚はなかったかもしれない。深く考えずにやったことかもしれない。だが、実際に当局に逆らったことは間違いないし、向こうだっ てそれを「抵抗」だと思っただろう。その結果、画家は自滅とも言うべき状態で、ボロ雑巾のようにこの世を去ることになる。つまり、何がどうあれ実際に「抵 抗」していたら、こうなるのが本当だ。
 「抵抗」するということは、そしてその結果とは、こういうものなのだ。
  だが、ワイダは90歳まで生きた。飢えにも苦しまなかったし、投獄されたり健康を害することもなかった。タキシードを着てハリウッドでオスカー像まで受け た。この映画の主人公と、同時代を生きていたにも関わらず…である。本当に「抵抗」していたら、果たしてこうなっていただろうか?
 オレが「抵抗の作家」だなんて、いいかげん勘弁してもらいたい。
 人生の終末に差し掛かっていたワイダは、その最後に腹をくくって本音を言い遺したのではないだろうか。


 

 

 

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