「ムーンライト」

  Moonlight

 (2017/05/29)



見る前の予想

 本年のアカデミー賞作品賞受賞作品である。
 まぁ、それだけなら別にどうってこともない。正直言って、今日びアカデミー賞なんて優れた作品の証でも何でもない。僕だってありがたがって見ようという気もない。2014年の第86回作品賞受賞作品「それでも夜は明ける」(2013)に至っては、ついに見逃しちゃったくらいだ。
 今回は授賞式で大番狂わせが起きてしまったから大騒ぎになったようなもんで、正直言って「だから何なんだ?」ってなもんである。アカデミー賞だから見なきゃ…なんてことはあまり考えたこともないのだ。
 そもそも、今回はその授賞式のゴタゴタがなくてもアヤつきである。何だか前年の授賞式から「白すぎるオスカー」などと揉め始めていて、今年は黒人候補にあげなきゃ…って雰囲気が濃厚だった。それはそれで正しいことなんだろう…とは思ってはいるが、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」ってやつは「作品としての質」や「演技や技術の質」とは違う気がする。それはそれで、また逆の意味でいかがなものかという気もしてしまうのだ。スパイク・リーみたいな連中がけたたましく吠えるのも、正直言って何かと鬱陶しい。
 そんな最中での本作の受賞だったから、大変申し訳ないがこっちも「あぁ、そういうことね」という目で見てしまっていた。つまりは、「大人の事情」って訳だ。
 そんな風にしか見れない僕としては、本作そのものに対しても大した期待は持てなかった。案の定、公開されるや「いかに素晴らしいか」をマスコミも映画評論家も語っていたが、何となく僕としてはイマイチ真に受けられない。別にラ・ラ・ランド(2016)こそ作品賞にふさわしいとも思わなかったが、本作が「ラ・ラ・ランド」より優れているはず…とも思っていなかった。
 それにネット上での映画ファンたちの反応も、ホメてはいるんだろうけど爆発的な反応に欠けている。大体が黒人社会の独特な事情を描いているような作品 だったら、僕らが見たってピンと来ないんじゃないの? オレの身近に麻薬の売人とかウロウロしてない(…と思う)し、拳銃だって持ってないし。作品のデキ もさることながら、作品が描く世界そのものが縁遠いんじゃないだろうか。それに共感やら感動なんて出来るんだろうか…という疑問が、僕には最初からあったのだ。
 そんなこんなで劇場に行こうという気もなかなか起きない。ようやくその気になったのは、ゴールデンウィークも後半の…そろそろ上映終了の予感がチラつき始めた頃。
 それは僕が体調を崩し、ちょっと仕事のことなどでヘコんでいた時期だった…。

あらすじ
 マイアミの貧困層が暮らす地域。その閑散とした住宅地に、逞しい大柄な男フアン(マハーシャラ・アリ)がクルマで乗り付ける。
 クルマから降りたフアンは、街角に立っている若い男に声をかける。若い男は恐縮しながら、フアンが仕事をくれたことについての礼を言っていた。フアンはヤクの売人だ。このあたりのヤクの売買を取り仕切っている。こうやって巡回しては、周囲に睨みをきかせている訳だ。
 そんなフアンの目の前を、子供たちの一団がすごいスピードで横切って行った。それは単なる遊びか追いかけっこのように見えたが…。
 先頭を走るのは、幼い少年シャロン(アレックス・ヒバート)…人呼んで「リトル」。彼が必死に走っているのは、後ろからやって来るガキどもからイジメられているため。シャロンは近くにある廃墟となったアパートに入り込み、その一室でじっと息を止めていた。ガキどもはアパートの周囲をウロウロして、見つけたらシャロンを叩いてやろうと待ち構える。だからシャロンは、彼らが待ちくたびれるまでじっとしているしかなかった。
 そんな彼がひそんでいる部屋に、突然大きな物音が!
 窓に打ち付けたベニヤ板が引っ剝がされると、そこには先ほどのフアンが顔を覗かせた。実はこの廃アパートがヤクの隠し場所になっていて、フアンはそれを 探しにやって来たところだったのだ。いきなり窓を塞いだ板がはがされて驚いたシャロンだったが、フアンの方でも子供がひそんでいるのに気づいてビックリ。 だが、すぐに何となく事情を察したフアンは、「外に出よう、メシを食おうぜ」と声をかけるのだった。
 近くのファミレスでシャロンにメシを食わせるフアンだったが、いくら言葉をかけてもシャロンから返事は返って来ない。警戒しているのか引っ込み思案なのか、とにかく何もしゃべらない。そんなシャロンに、フアンも答えを無理強いすることはなかった。みんな大なり小なり、辛い事情を抱えていることは分かっている。
 フアンはシャロンを自宅に招き、「オレの女」テレサ(ジャネール・モネイ)に面倒を看させた。テレサはサバサバしているが、情のある女。シャロンもそんな彼女の優しさに触れて、やっと自分の名前を名乗り「家に帰りたくない」と語った。
 こうしてフアンの家に泊めてもらったシャロンは、翌日、フアンのクルマで自宅まで送ってもらう。心配していた母ポーラ(ナオミ・ハリス)はシャロンの帰宅を喜んだが、フアンの顔を見たとたん笑顔がサッと消えた。明らかに、ポーラはフアンが何者かを知っていたのだった…。
 そんなこんなで、楽しくないことの多い学校生活を送っていたシャロン。みんなでサッカーをやっている最中にも、シャロンはポツンとその中から離れてい く。そんなシャロンを追いかけて来たのは、気のいい愉快な友だちのケヴィン(ジェイデン・パイナー)。彼はイジメられているシャロンの辛さを、誰よりも分 かっていた。その日もシャロンとの取っ組み合いにつき合ってくれたケヴィンは、最後に「オマエはタフだ」と言って去って行った。
 「例の一件」以来、シャロンは母親の「仕事」で家にいられなくなると、ついついフアンの元に身を寄せるようになっていた。フアンの方でも彼が気になって いたのか、何かと面倒を見るようになる。ある日のこと、フアンはシャロンを連れて海辺に行き、彼に初めて水遊びを教えてくれた。その海岸で、フアンは キューバ移民だった自分の身の上や、思い出話を聞かせてくれた。フアンはシャロンに、まるで自分の息子のような感情を抱いていたのだろうか。「いいか、自分の事は自分で決めろ、絶対に他人に決めさせるなよ!」
 だが、そんなシャロンとフアンの関係を、母ポーラは快く思っていない。それもそのはず、ポーラにヤクを売っていたのが、このフアンだったのだ。そんな男が自分の子供を可愛がっているなどということは、ポーラには受け入れ難いことだった。
 そんなポーラがヤクにドップリ浸かり、そのヤクを手に入れるために男に抱かれるという状況は、息子のシャロンとしては最悪のものだった。そしてヤクによ る錯乱もあって、連日のようにシャロンに暴言三昧。それが耐え難いところまで達すると、シャロンはまたフアンの家に遊びに来る。彼を暖かく迎え入れたフア ンとテレサに、シャロンは心が痛む言葉を吐き出す。「オカマってどういう意味なの?」
 シャロン自身にはまだ分からないが、母親のポーラには早くも息子の資質が見えていたのか。苛立ちキレたポーラは、シャロンにそんな暴言を吐いていたのだ。だが、その次にシャロンが口にした言葉は、フアンの心までえぐった。
 「ママにヤクを売っているの?」
 思わず絶句するしかないフアン。そんなフアンとテレサを残し、シャロンは黙ってその場を去って行くのだった…。
 それから数年後、高校生となったシャロン(アシュトン・サンダース)は、相変わらず学校で針のムシロの日々を過ごしていた。中でも執拗に攻撃してくるの が、レゲエ頭のテレル(パトリック・デシル)たち。そのイジメは、すでに身の危険を感じるレベルになろうとしていた。母親ポーラもさらに荒れた生活を送っ ており、シャロンは家に居場所がなかった。そんな時には、またフアンの家に遊びに行くシャロンだった。
 実はフアンは、何年か前に亡くなっていた。だが妻のテレサは、今でもシャロンの面倒を見てくれていたのだ。その日もシャロンは、家に帰らずにフアンの家に泊まるのだった…。
 だが、そうそういつもフアンの家に逃げる訳にもいかない。ましてレゲエ頭のテレルにテレサとのことであらぬ疑いをかけられたら、行くに行けなくなった。 しかたなく電車に乗ってグルグルとあてどなく彷徨っても、夜に終電になったら行くところがない。ふらりと月明かりに照らされた海岸へと足を運ぶと…シャロ ンはそこで偶然にもケヴィン(ジャレル・ジェローム)と出会うではないか。
 心地よい風に吹かれながら、月夜の晩の不思議な雰囲気に包まれ、シャロンはついケヴィンと口づけを交わして身を任せる。ケヴィンはその後でクルマでシャロンを家まで送ってくれたが、そのことについては二人とも一切触れなかった。
 しかし学校では、レゲエ頭のテレルがまたロクでもないことを企んで…。

見た後での感想

 一体何から語ればいいのだろう、この映画について。
 まずは見る前に本作に対して僕が抱いて印象について、実際にはどうだったのかを明らかにしなくてはならないだろう。
 ズバリ言って、僕が抱いていた懸念はすべて杞憂だった
 アカデミー賞がどうした…はこっちに置いておいて、本作への高評価が「黒人だからとりあえずホメとけ」的なモノではないと断言できる。ごリッパな映画なんでしょ…と思っていたところもあったが、実際はまったく違った。そもそも、本作には大上段から振りかぶったところがまったくない
 何より登場人物やそこで描かれるお話が自分と縁遠い…という見る前の印象が、大きく間違っていた。確かに僕の身の回りにはヤクの売人も拳銃もない。…な いと思う(笑)。本作に描かれたシビアな生活環境と僕が生まれ育って来たヌクヌクした状況では、天と地ほどの差があるだろう。だから本作にはまったく共感 の余地がないと思っていたのだが…それはまったく僕の勝手な誤算だった。
 この話も、ここに描かれた人々の心情も…明らかに僕は身に覚えがある。
 間違いなく、僕は彼らを知っている。彼らが感じていた感情を、確かに僕も共有した覚えがあるのだ。
 これは、間違いなく僕のための映画なのである。
 だが僕がそれを説明する前に、ひとつ白状しておかなくてはならないことがある。


あの胸が痛くなるような感情

 今から7〜8年前だろうか、僕が久々に小学校のクラス会に顔を出した時のことである。
 クラス会というものを頻繁にやる人たちも、世間には多くいるのかもしれない。だが僕の小学校のクラス会は、ある時期に長い間中断していた。当然、僕も当時のクラスメートとの再会はかなり久々のことだった。
 その日、僕は他の用事があったため、会場となった場所にかなり遅れて到着した。そのため、すでにクラス会は宴たけなわである。先に大いに盛り上がっていたこともあって、僕はそんな中で何となくポツンと座っているような状況だった。
 そもそもここだけの話、僕は宴会やら飲み会が大の苦手なのだ。
 そして、こういう久しぶりに会う人々と楽しく歓談するということ自体があまり得手ではない。「今、何やってる?」と聞かれても、相手は本当はこちらが何をやっているかなどまったく関心がないということが分かってしまう。僕がそれに答えたところで、相手を退屈させるだけだとも察してしまう。だから「いやぁ、大したことはやっていない」としか答えない。それでさらに突っ込んで来ないのは、関心がない証拠なのだ。だからいつだって、僕は久々の再会が苦手なのだ。
 そんな居心地の悪い思いをしていたところに…聞こえて来たのである、あの聞き覚えのある声が。
 その人物は、かつて僕をこっぴどく吊るし上げていた男だった。小学校も高学年になった時、そいつは僕に目をつけたのだった。
 僕は元々病弱で幼稚園もほとんど行っていない。
だから小学校に入ってようやく健康になっても、運動はまるで出来なかった。男の子で運動ができないとなると、小学校カーストの中では最下層である。運動する代りに本を好み、作文やマンガを書くのを好んだとなれば、なおさら子供社会ではつまはじきにされる。さらに幼稚園にほとんど行っていないこともあって、子供同士の人間関係形成が出来ていなかった。そうなると、もはや餌食になるしかない
 子供は純真だなんて大ウソである。子供は子供社会の中でそれなりに空気を読む。「忖度」だってする(笑)。もう一度言う、子供は純真だなんてウソである。完全に大人社会の縮図だ。だから僕は、小学校中学年まであまりいい状況にはいなかった。
 だがそんな中でも、あいつのやり口は「別格」だった
 そのいたぶり方たるや、それまでの比ではなかった。たぶん、あいつはそれが心底楽しいのだろう。当時の僕がどんなことをされどんな風に言われていたのか を、改めてここで語るつもりはない。ただただひどい目に遭わされた…としか言えない。一日たりとも心が休まる日はなかった。最後の頃には、明らかに僕の神 経がおかしくなり始めていたと思う。
 そんな日々はそいつの転校によって唐突に終わったが、その理由は詳 しく聞いていない。あれほどロクでもないことを次々と思いついて、それを実行に移して来たような奴だ。いたぶっていたのは僕だけじゃないだろう。おそら く、叩けばホコリも余罪もいくらでも出たかもしれない。ともかく、それはそいつが消えたことですべて終わった。
 怖かったのは、そいつがいなくなった後で誰もが手の平をクルリと返してきたことだ。それまで傍観者か見て見ぬフリをしてきた連中、あるいは積極的に共犯者として加担してきたような連中が、まるで何もなかったようにニコやかに笑いかけて来る。むしろ僕はそっちの方がトラウマになった。人間って信用できないものだと、徹底的に思い知らされたような気がする。今でも、誰一人として信用することができない。
 だが、とにかく当座の危機は去った。僕を連日追いつめて吊るし上げて嘲笑を浴びせる人間はいなくなったのだ。それからは僕も何もなかったようなフリをし て、他の人間と上辺は楽しく振る舞った。僕は、普通の人間として堂々と社会で暮らすようになった。そして、自分もまたすべてを忘れたつもりになっていた。
 だが、あの声を聞いた瞬間、僕の中にすべてが甦った
 また、そいつがしゃべっている内容も実にひどかった。「イジメてる方だって、実はキズついているんだよ〜」…確かそんなことを言っていたように記憶している。それを聞いて楽しげに笑う周囲の連中。それを聞いていて、僕は全身の血が逆流するのを感じた。
 恐怖ではない、激怒である
 まず、問答無用にそこにその人物がいてしゃべっている…ということに嫌悪感を感じた。そいつが今もヌクヌクと普通に暮らしているらしいことに憤りを感じた。おまけにしゃべっている内容からも、まったく自分がやってきたことに対する反省がないこ とが分かった。悪かったと思う奴が、「イジメた方だってキズついている」とは言わないだろう。こいつは1ミリだって悪いと思っていない。だから改心もして いない。申し訳ないが、こいつの性根はどれだけ時間が経ったところで変わりはしない。あの声を何十年ぶりかで聞いて、僕は改めてそれを確信してしまった。
 だがもっと胸クソが悪かったのは、こいつにこんな事をしゃべらせ、なおかつ一緒になって笑っている周囲の連中だ。こいつらの方が百倍タチが悪い。結局こいつらは、あの当時と何ら変わっていない。そして自分たちがどんなことをしているかが、これっぽっちも分かっていないのだ。
 だが、向こうは変わっていなくても、こっちは昔の僕ではない。
 とにかく、それから後のことはあまり覚えていない。ただただ自分を抑えるのがやっとだった。今にも目の前のテーブルをひっくり返してしまいそうで怖かった。もちろんみんな楽しくやっている宴席を台無しにする訳にはいかない。昔の担任もその場に来ていたのだ。社会人としてそのくらいの分別は持っていた。
 まして、あの男にあんな暴言を吐かせて一緒に喜んでいるような連中だ。僕がそこで怒ったり反論したりしたところで、どこが悪かったのか分かりはしないだ ろう。いや、逆に今でもそんな事をこだわっているのかと揶揄したり、いつまでもくだらない事を言っている心の小さい奴…などと言われるだけだろう。所詮、こいつらには何も分かりはしない。何も期待できない。そんなことは何度も経験しているから、僕も改めてバカなことを繰り返しはしない。他人などというものは、そんなものなのだ。
 だが、このままだと自分が何をするか分からなかったので、ともかく出来るだけ早くこの場を立ち去らなくては…と焦った。結局、徹底的に自分の感情を殺 し、苦痛に耐え続けて、その場が解散になるのをじっと待った。こんなにツラい時間を過ごしたのは久しぶりだったが、何とか最後まで乗り切ることができた。
 だがこんな気持ちをどう語ろうとも、あの場にいた誰も理解はしないだろう。どうせあざけり笑うのがオチだ。あるいは大人げないと責めるか…そんなところだろう。
 だから、二度とこのような席に参加するのはよそうと心に誓った
 それから何年か経って、クラス会の幹事である当時の女子の一人から連絡が入った時も、僕の気持ちは決まっていた。「欠席」一択だ。どこの誰が貴重なカネ と時間を使って、自分からイヤな思いをしようとするのだ。僕の精神衛生上の問題だけではない。たぶん僕が出席したら、もうこの次は耐えられない。そうした ら、他の連中だって不愉快な思いをするだろう。お互い何のメリットもない。これでも自分なりにみんなに気を使ったつもりだった。
 ところがこの女は、執拗に出席を迫って来る。担任がもう高齢だからとか全員出席を目指しているからとか、あの手この手で攻めて来る。ならばなおさら僕は申し訳ないから出席できないし、正直言って前回ですでに忍耐力の限界を超えていた。
 それでも僕は何とか相手に失礼にならないように、丁重にお断りしていたつもりだった。角が立たないように仕事が忙しいことを理由にしたが、実際あの時期は土日もゴールデンウィークも休まなかったし夏休みさえとっていなかった。だから多忙という理由にウソはなかったのだ。
 だが、そのうちに相手の女はキレ始め、自分の亭主だって休みはまったくない…などとまくし立てた。オマエごときにこんなに下手に出てやってるのに何で出席を承諾しないのだ…と、その女は僕に対して怒り心頭になっていたようだ。つまり、本音のところはこちらを見下していたのである。 それがハッキリ露呈しているのに、本人はそれが分かっていない。自分の非常識と失礼さが分かっていない。こちらは出来るだけ角が立たないようにと気を配っ て、本当の理由も隠して謝り倒して断っているのに…。
 そのあたりで、僕はまざまざと思い出してしまったのだ。そういえばこの女も昔からひどいモノの言い方で、僕を吊るし上げて来た側の人間だったな…と。
 二度とこいつらと関わるまい…と誓ったのは正解だった。それでも僕は何とか最後まで暴言を吐かずに、やっとこ受話器を置くことができた。相手がどれほど失礼でも、同じレベルまで落ちたくはないのだ。
 どうしてこんなに不快な奴しかいないのだ、世の中というやつは。
 あの血が逆流するような感情を、僕は決して忘れはしない。いや、できれば忘れたい。だが、どんなに忘れたくても、僕には忘れることができないのである。

本作が持っている大きな魅力とは?

 …という訳で、僕が子供の頃にコテンパンにいたぶられていたから、本作に共感した…。そう言ってしまえば、いっそこの感想文は潔くて分かりやすいかもしれない。
 当然、ここまで書いたらそう言いたいと思うのが自然だ。いかにもそう言いたげな文章だから。実際そうであることを否定はしないし、おそらくその部分は大きいだろう。だが、決してそれだけではない。というより、それも含めた何か大きい魅力が、この映画にはある
 それはやっぱり、「実感」なんじゃないかと思う。
 映画の魅力を語る時、多くの場合、僕はこの「実感」を挙げる。「実感」があることがその映画の美点である…と語る。だから、今まで本サイトを見て来た方 々だったら、「また始まった」と言うかもしれない。この映画のどこがいいかと言えば…「実感」。それが毎度毎度だから、おそらく本サイトをご覧になってき た皆さんなら、何でもそこに持ってくるんじゃねぇよと言いたくなるだろうとも思う。
 だが、ある映画に共感したり「なるほど」と感じる場合、それは観客がそれまで人生で経験して来た「瞬間」やら「体験」やら「感情」やらを、映画の中で追体験しているからで はないだろうか。「こんな感情をオレは知っている」「こういう体験をしたことがある」「こいつは自分に似ている」…その追体験にはいろいろな種類があるだ ろうが、やはり自分がそれまでの人生で知っていた「何か」をそこに見つけた時、そしてそれが「リアル」に感じられた時、人はその映画にシンパシーを覚える のではないだろうか。だから僕は、映画体験というのは誰もが一様に得られるものではないと思うのだ。
 そして、そのような映画での
優れた追体験を多数の観客に与えられる作品は、なかなか実現できるものではない
 昔、邦画の監督などが「情念で映画を作る」とか訳の分からないことを言ってるのを聞いて、正直言って僕はチャンチャラおかしいと思っていた。今でもそれ は変わらない。僕は思い切り文系脳の人間だと自分で思っているが、作品を作る時に「文系」的発想は必ずしもプラスになると思っていない。「情念」だの「心 情」だのといった空気みたいなモノでは、いい映画は作れない。「情熱」さえあればいい作品が出来るなんていうのは、体育会
系の脳筋野郎より始末が悪い言い草だと思う。それは、「根性」で映画を作るって言ってるのと大差ない。バカ丸出しである。
 例え目指すのが「実感」というつかみどころのないモノの醸成だったとしても、それを実現するのはスキルとテクノロジーでしかない。 監督なり俳優なりが勝手に情熱なり情念を持っていたとしても、思っているだけでいい映画なんて出来る訳はない。それには微妙なタイミングだとか編集だとか カメラ・アングルだとか照明だとか音楽だとか演技だとか、何かちゃんとカタチになるモノがあるはずだ。だから本作が優れた「実感」を獲得した作品だとした ら、そこにはそれを実現するために機能したスキルとテクノロジーがあったはずである。
 だが本作では、それを見つけるのがひどく難しい
 例えば…本作を見た直後、僕は過去の「痛み」を鮮烈に感じさせてくれる映画として、ジョン・セイルズの傑作「ベイビー・イッツ・ユー」(1983)のことを即座に連想した。あの作品のエンディング、主演のロザンナ・アークエットヴィンセント・スパーノがフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」が流れる中で踊る場面の、あの苦さは今でもハッキリ覚えている。だが、一瞬それに似ているような気分にチラッとなったものの、正直に言うと本作の方が鮮烈さでは勝っていたような気がする。本作には、苦さに「実感」までを感じさせてくれ
何かがあった。本作は、その生々しさに格別のものが感じられるのである。
 本作が優れているのは分かっている。それが強烈な「実感」によるものだとも理解している。そして、「実感」などというフワフワした空気みたいな概念でさえも、映画ではスキルとテクノロジーを用いて具体的に描かなければカタチにはならないことも承知している。
 しかし本作では、その「実感」をどのように獲得したのかが実に分かりにくいのである。


 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



「追憶」場面にみなぎる尋常ならざる「実感」

 本作は三部構成をとっていて、その第三部がおそらくは主人公にとっての「現在」に近い。そうでなければ、「一番新しい過去」だ。つまり、本作の大部分の時制は「過去」であり、本作は主人公にとっての「追憶」で構成されている。
 その「追憶」に、ハンパではない「実感」が籠っている
 例えば「追憶」がリアルに映像化されている映画というと、最近ではテレンス・マリックの作品がすぐに脳裏に浮かぶ。中でもツリー・オブ・ライフ(2011)では、それが最も顕著に感じられたように思う。
 高圧的な父親とその息子である主人公との相克が描かれていたこの作品、実は映画の半分ぐらいはアッと驚く場面が展開していて、どうしてもその「トンデ モ」場面のイメージばかりが強い。だが、そんなビックリしちゃう展開の場面を取り除いてみると、この作品は主人公の子供時代を描いた「追憶」場面と、主人公が大人になってからの「現在」場面の2つに大別される。その前者である「追憶」場面にあまりにリアリティがあって鮮烈な印象があったので、僕にとっては問題の「トンデモ」場面と同じくらい強い印象を受けた覚えがある。
 ここでの「追憶」場面のリアリティとは、例えば「ドキュメンタリーみたいに見える」というようなリアリティを意味していない。僕が言いたいのは、本当に自分の「追憶」のように見えるという意味でのリアリティなのだ。
 正直言ってテレンス・マリックという映画作家は、脚本の構成などに難がある人らしい。そのあたりのことは、ここ何作かを見ていて徐々に明らかになって来た。それでも「追憶」場面のリアリティだけは、彼のどの作品でも素晴らしい。近作の聖杯たちの騎士(2015)でも、それは遺憾なく発揮されていた。テクニック的にどのような技法を使っているのかは何度見ても分からないのだが、まさに自分の回想や追憶もこんな感じ…というイメージを、映画で追体験できるような仕上がりになっている。ある意味で、これは凄い演出力だ。
 実は本作「ムーンライト」も、全編に渡ってこの「自分の回想や追憶もこんな感じ…というイメージ」を感じられる作品なのだ。
 情けないことに、本作の「回想」についても一体どんなテクニックを使えばこんな映像が撮れるのか、そもそも具体的にどういう映像スタイルとなってスク リーンに映し出されているのか、その肝心なところを僕は指摘できない。具体的にこういうアングルで撮っているから…とか、こういうタイミングで編集してい るから…と言えれば素晴らしい分析になるのだが、残念ながらそれをするには僕は力量不足である。何度も見て、ムビオラにでもかけて分析し、1コマずつ見極 めれば分かるのかもしれないが、たった一度見ただけでは分からない。ただただ、本作の監督であるバリー・ジェンキンズに大変な才能があったということしか言えない。
 その素晴らしさの秘密の一端でもここでご紹介できないのは、つくづく残念である。そして、映画について紹介する文章を書いている身としては、まったくもってお恥ずかしい。それでも分からないものは分からない、説明できないものは説明できないのである。
 だが、そのリアリティらしきものの例をいくつか挙げることぐらいな ら、かろうじて僕でも出来る。一番分かりやすい例で挙げれば、それは海の場面だろうか。三部構成の第1部、主人公シャロン(アレックス・ヒバート)がまだ 子供時代のパートで、ヤクの売人フアン(マハーシャラ・アリ)がシャロンを海に連れて行く…という場面だ。
 波打ち際から徐々に沖の方に向かって行くと、水の深さも徐々に深くなっていく。特にシャロンは「リトル」とあだ名されているほどチビだから、ちょっと深 くなってもつま先立ちしなくちゃならないほどだ。波が寄せてくるたび、つま先立ちでは足りずにピョンと軽く跳ねなければ潜ってしまう。だから彼は、一定リ ズムでピョンピョンしながら水面に顔を出している。
 その時、カメラもシャロンの目の高さで、一緒になって波が寄せるたびピョン…と跳ねるのだ。
 言葉にすると大したことじゃない気がするが、実は同じ目線にカメラを置くというのが「コロンブスの卵」だと思う。そして、自分に波が打ち寄せてくる「あの感じ」。映画を見ている僕もまた、顔が潜ってしまわないようにピョンピョン跳ねていた子供の頃を生々しく思い出した。
 あるいは三部構成の第2部で、シャロン(アシュトン・サンダース)の高校生時代。彼が夜の海辺にやって来て、親友ケヴィン(ジャレル・ジェローム)と出 会う場面。あの年代は、夜に野外にいて、友だちと一緒にいるというのは妙な胸騒ぎがしたものだ。それは性的な興奮ではなくても、何かありそうな気がしてワ クワクしたものである。静まりかえって、暗いのに明るく見える「あの感じ」。あの、夜の時間の「濃密さ」。今では失われてしまった感覚で、本作で久しぶりに思い出したものだ。
 「あの感じ」を思い出させてくれただけでも、僕にとって本作は値千金である
 また、こんな素晴らしい場面も思い出した。三部構成の第3部、シャロン(トレヴァンテ・ローズ)が大人になって、自らがヤクの売人になっているパート。 親友ケヴィン(アンドレ・ホーランド)からの久々の連絡をもらって、彼がコックをしている軽食屋へと出かけていく場面だ。
 ここでシャロンは、店のジュークボックスで「思い出の曲」をかける。これだけならよくあるパターンの設定だが、非凡なのはこの後。この軽食屋はドアに小 さいベルが取り付けてあって、人が出入りしてドアを開閉するとその都度チリ〜ンとベルの音が鳴る。で、「思い出の曲」が流れる中で二人は昔を懐かしむのだ が、それが唐突にこのチリ〜ンというベルの音とともに断ち切られ、サッと二人が軽食屋から出て来るショットに転換するのだ。この鮮やかさ、場面転換の切れ味の良さ。そして、そんな記憶の「飛び方」こそ、「追憶」の「あの感じ」ではないか。
 いや〜、何とも素晴らしい。この映画的感覚の鋭さにはゾクゾクしてしまった。これは理屈でなく、感覚である。その感覚の前には、黒人だろうが黄色人種だろうが、英語だろうが日本語だろうが、貧しかろうが豊かだろうが、ゲイだろうがストレートだろうが関係ない。あれは確かに僕も感じていて、ハッキリと記憶しているものだ。
 この感想文の冒頭にも書いたように、本作が黒人社会の独特な事情を描いているような作品だったら、作品が描く世界そのものが僕らには縁遠いんじゃないか…という懸念があるのは当然である。だが本作は、意外なことに主人公たちの属している社会や文化に依存した内容のものではなかった。麻薬の売人だとか犯罪だとかが身近にいないと理解できないような、そんな脆弱な語り口の映画ではなかった。そもそも人間なんてものは、みんな大なり小なり辛い事情や悪しき問題を抱えている。それは、決してアメリカ黒人社会の専売特許ではないのだ。
 もちろんイジメ体験があったからこそ、本作へのシンパシーが増したという点は否定できないかもしれない。シャロンがあのレゲエ頭に対して、後ろから椅子を振り下ろしてギッタンギッタンに痛めつけた時には、思わず「よくやった!」と カタルシスを覚えたことを告白しなくてはいけない。あの頃に僕もあれくらいやってやれば良かった…と正直思ったよ。そんなことをしたところで不毛だし、意味がないと分かってはいたが…。
 だがそんなことよりも、波が寄せるたびにピョンピョン跳んだあの感覚を本作が思い出させてくれたことの方が、僕にとってはずっと鮮烈だった。映画ってのは「追体験」なのだ…ってことを、久しぶりに僕は思い出した。それこそが、本作が優れている点ではないだろうか。
 「情念」だの「心情」だのなんて、フワッとした空気みたいなものではない。「あの感じ」を真空パックにしてスクリーンに投影してくれたことこそ、本作の真の美点だと思うのである。



 

 

 

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