「ライオン/25年目のただいま」

  Lion

 (2017/05/22)



見る前の予想

 本作も今年のアカデミー賞レースで、残念ながら受賞はならなかったが前評判高かった作品。
 特にデヴ・パテルが助演男優賞候補となったのには、正直言って驚いた。スラムドッグ・ミリオネア(2008) での劇的な登場ぶりは凄かったものの、ハリウッドなど欧米映画界でのインド俳優の需要はそうそうない。だからその後の俳優人生は「スラムドッグ・ミリオネ ア」のボーナスとして食いつないでいくんだろうな…と感じていた訳だ。まさか注目を浴びるチャンスがもう一度来ようとは…。
 ただし、本サイトの「オスカー・ダービー」のコンテンツでも噛み付いてしまったが、本作の邦題「ライオン/25年目のただいま」ってのはいただけなかった。さすがにここに表記する際には、実際の邦題についてる「ライオン」の前のもう一個の「LION」ってのは鬱陶しいので取っちゃったけど(笑)。それでもこの寒〜いタイトルは何とかならなかったのか。「おはようからおやすみまで、暮らしをみつめるライオン」かよ(笑)…って文句を言ったのは、結構本音で言っている。
 言いたいことは分かるんだけども…だってお話はまさに「25年目のただいま」だからねぇ。
 実際のところ、お話は予告で全部見ちゃった感じ。ひょんなことから迷子になって家に帰れなくなったインドの子供が、辛酸なめつくしてオーストラリアに養 子として引き取られて、大人になってから何とか故郷を探し出して奇跡的に里帰りする…というお話。となると、これはおそらく実話の映画化だろう。ただ、予 告を見ている限りではさほど面白そうな話には思えなかった。
 おまけに彼が故郷を発見するキッカケになったのはグーグル・アースらしいのだが、劇中で「グーグル・アースなら世界中何でも分かる」なんてCMみたいなセリフはあるし、こりゃマジでタイアップ映画じゃねぇの?…って意地悪な気分にもなった。
 そもそもグーグル・アースが始まった当初の悪評たるや…ともかく人の家だろうとプライバシーだろうと出歯亀並みのゲスさ図々しさでネットに挙げちゃうデリカシーのなさがねぇ…。だから、あまり好意的に見られなかったのも事実。急に「グーグル・アース、エラい!」なんて、せんだみつおみたいに言われても胡散臭くていけない。どうせこの映画、グーグルからカネでももらってるんじゃねえの?
 そんな訳で見ないつもりで放っておいたのだが、ふとした機会があって見に行くことになった次第。ただし、そんな状況だったから僕の中での期待値はゼロに近かった。

あらすじ
 周囲に広がる乾いた荒野。無数のチョウが飛び交うその荒野に、幼い少年が佇んでいる。
 少年の名はサルー(サニー・パワール)。そんな彼を、兄のグドゥ(アビシェーク・バラト)が迎えに来る。グドゥとサルーは走る貨物列車に乗り込み、積ん であった石炭をくすねるのだ。それに気づいた男が怒って追いかけて来たが、幸いにもトンネルに差し掛かったので難を逃れることができた。グドゥとサルーは 大喜び。二人は仲良し兄弟だ。
 盗んだ石炭は市場で牛乳に替える。その時、片隅で揚げ菓子を油で揚げているのを見たサルーは、グドゥに「あれを買いたい」とせがむ。だがグドゥは、そんなサルーに「いつか一杯買ってやる」と語るのだった。実際のところ、彼らにはそんな余裕はない。
 二人は「獲物」の牛乳を持って意気揚々と帰宅。祖末で小さい家で待っていた母カムラ(プリヤンカ・ボース)は、苦しい家計を助けてくれる兄弟を優しく見 つめた。母がどれだけ苦労して兄弟と妹を育てているのか知っているから、二人は何とかして助けたいと頑張っているのだった。母もまた、そんな二人の気遣い を痛いほど分かっていた。
 その夜、兄のグドゥが出かける時、サルーも連れて行ってとせがむ。グドゥが夜の仕事で稼ぐと聞いていたので、自分も助けたいと願い出たのだ。子供だから、夜の仕事だから、力仕事だから…と言っても聞き入れない。仕方なく、グドゥはサルーを連れて列車に乗り込んだ。
 ある駅で列車から降りた二人。だが案の定、幼いサルーは眠くなって動けない。仕方なくグドゥは駅のベンチにサルーを残して、仕事に出かけることにした。「終わったら戻って来るから」と言い残して…。
 そんなサルーが再び目を覚ましたのは、どのくらい過ぎてからだろうか。駅には誰もいない。グドゥもいない。ホームを探しまわったが、人っ子一人いない。たまたま停車中の列車に入ってみたが、そこにも誰もいなかった。そのうち、列車内でウトウトしてしまうサルー…。
 気づいてみると、すでに日は高く上がっていた。いつの間にか列車は走り出し、サルーを乗せたままどこかへと向かっていた。これは回送列車なのだ。慌てふ ためいたサルーが車内を走り回っても叫んでも、列車は止まりもしないし外にも出られない。そんな状態で、サルーは3日ほど列車に閉じ込められたままどこか へと運ばれて行った。
 そんなこんなで、列車がやって来たのは巨大な駅。久々に扉が開いて大勢の客が乗り込んで来る。それを押しのけかき分け外に出てみたが、人また人の雑踏の 中では何がどうなっているのか分からない。サルーは西ベンガルのカルカッタ(コルカタ)駅に到着していた。そこはサルーの故郷から、実に1600キロ離れ た場所だった。
 何とか家に戻りたいサルーは、駅の乗車券売場に潜り込むが、まったく相手にされない。お金も持っていない子供じゃ無理もないが、何しろここカルカッタで の言語であるベンガル語が分からない。サルーの言葉も通じない。サルーが必死に伝える「ガネストレイ」という地名も、誰も分からない。
 仕方なく駅から離れるサルーだが、どこにも行き場がない。駅の地下道に段ボールを敷いて寝ている浮浪児たちに、仲間に入れてもらうのがやっとだった。そ れも大人たちに追い立てられ、必死で逃げ回るサルー。結局は、川のほとりに佇む行者たちの寝ぐらに転がり込むしかなかった。
 その後も路上生活を続け、辛酸をなめ尽くすサルー。ある時にはヌーラという女(タニシュタ・チャテルジー)に声をかけられ、自宅アパートで体を洗っても らい、食事も与えられた。親切だと思ったこの女は、知り合いのラーマ(ナワーズッディーン・シッディーキー)という男にサルーを紹介。どうも胡散臭い空気 を察知したサルーは、間一髪でヌーラのアパートから逃げ出した。
 こうしてまた一人ぼっちになってしまったサルーだが、たまたま若い男に手厚く保護されて警察へ。しかし警察でも言葉が通じず、サルーの故郷は分からなかった。こうしてサルーは孤児院へと回されるが、ここも決していい場所ではないようだ。
 そんな彼の前に現れたのは、ミセス・スードなる女(ディープティ・ナヴァル)。彼女は孤児院の子供たちの養子縁組を仕事とする人物で、サルーに声をかけ たのだった。すでにサルーを養子に希望する夫婦が、オーストラリアのタスマニアにいるとのこと。新聞でサルーのことを呼びかけたが何も反応はなかったとの ミセス・スードの話に、サルーの心は大きく揺れた。孤児院仲間の女の子から「幸運だ」と教えられたサルーは、この養子の話に乗ることにする。
 生まれて初めて飛行機に乗り、タスマニアへとやって来たサルー。養子縁組をしてくれたスー(ニコール・キッドマン)とジョン(デビッド・ウェンハム)の夫婦は、サルーを暖かく迎えた。こうして、彼の人生は一変する。
 それから間もなく、サルーに兄弟が出来ることになる。またしてもスーとジョンはインドから養子を迎えることにしたのだ。だがやって来たマントシュは心に キズを負い、この家での生活に馴染もうとはしない。思わず涙ぐむスーに、サルーは優しく寄り添った。今ではサルーにとって、このスーこそが母親だったので ある…。
 さらに20年の時が流れ、立派な青年に成長したサルー(デヴ・パテル)。両親は彼のメルボルンでの大学進学を祝って食事会を開いてくれたが、案の定、マントシュはその場に欠席。その頑さは年を経ても変わることはなかった。
 その後、マントシュが暮らす小屋へと足を運んだサルーは、彼に「ママを悲しませるな」と苦言を呈する。そんなサルーに、マントシュは「だから離れているんだ」と答えるのだった。
 こうしてメルボルンへ旅立ったサルーは、そこで充実した大学生活を送る。意気投合したルーシー(ルーニー・マーラ)とはすぐに恋人同士となって、私生活も好調。
 そんなある日、サルーはルーシーとインド留学生の家に遊びに行き、他の仲間とパーティーに興じる。フォークがなくてはインド料理も食えないほど故郷を忘れたサルーだったが、席を立ってその家の台所に向かった時、彼の運命はまた大きく動き出した。
 サルーが台所で目にしたもの…それはインドの揚げ菓子
 彼が幼い日に市場で兄にねだった、あの揚げ菓子だった。その瞬間、それまで封印していたサルーの過去が、彼の心の中に噴き上げるように甦る…。

見た後での感想

 正直言うと、僕は本来は映画ファンが邦題に文句言うのはあまり好きではない。なぜなら、みんなゴチャゴチャ言うけど、実際には商品として売るにはそうせざるを得ない理由があるからだ。
 確かにダサいタイトルの映画は結構ある。だが、ダサいタイトルだと言われても、そんなタイトルにしないと客は見に来ない。客をバカにしている…と映画 ファンは怒るかもしれないが、映画会社は商売なんだから絶対に真面目にシビアに付けている。映画ファンなんかより絶対に真剣だ。当たり前だ。お金がかかっ ている。文句を言うなら、センスも知性もない映画を見る目もない日本の観客に言うべきだ。
 おまけに、文句をつける映画ファンがそれなりの改善案を持っている訳でもない。たま〜に自分ならこう付けると言う奴もいるが、それがまたとてもじゃないがセンスいいとは言い難い。
 …と言いながら、実は僕も本作の邦題をくさしながら、コレといった改善案がある訳ではなかった。いやホント、我ながらいいかげんなものである(笑)。
 しかも実際の邦題では「LION ライオン」と二度繰り返しているのを最初の英語の「LION」を取り外してみると、さほど気にならなくなって来たから不思議だ(笑)。さらに実物の映画を見てみたら、この邦題がもっと気にならなくなってきたから二度ビックリだ。
 この映画は、本当にこういうタイトルに似つかわしい映画なのである。そして、僕は結構本作を気に入ってしまったのだ。


僕が本作を気に入った最大の理由

 まずは、僕がこの映画を気に入った最大の理由を言わなきゃ、フェアじゃないだろう。
 僕は
前年の幻の東京五輪・万博1940と今年の航空から見た戦後昭和史と、 この2年間で幸運にも2冊の本を出させてもらった。これを言うと「またかよ」と言われちゃうだろうし、宣伝と思われちゃっても仕方がない。ぶっちゃけ、マ ジでこれは宣伝だ(笑)。とにかくこの2册を出せたのは本当にタイミングの問題で、単純に僕がラッキーだったということに尽きる。実はもう手持ちのネタが 尽きちゃったんで、次はおそらくないと思うのだが…(笑)。
 それら2冊の本は、戦前から戦後の「昭和史」的な内容の本だった。そしてこれらの本を作るためには、無数の資料を探したり数々の関係者を探さねばならなかった。それってタネ明かししたら興ざめではあるが、舞台裏は正直言って結構面倒なのだ。
 普通に図書館、資料館、博物館などに資料があればラッキー。しかし、大抵はそうはいかない。そうなると、どこかの会社の倉庫やお役所、個人の家などにあたらなくてはならない。そこに話をつけるのが大変だ。
 どこの誰だって、面倒くさいことはやりたくない。他人なんかのために、小指一本動かしたくない。どこにあるか分からない、あるかどうかも分からない得体 の知れない古い資料など、誰だって関わりたくもない。ホコリをかぶってクシャクシャに丸まって片隅に汚く転がっているような印刷物や写真になんか、好きこ のんで触れたい奴はいない。かといって、どこの馬の骨か分からん輩を勝手に上がり込ませて調べさせる訳にはいかない。だからたまたま窓口になってくれた人 に、その気になってもらわねばどうしようもない。
 そもそも、それがどこにありそうかを探し出すのが一苦労だ。やり方 はひとつではない。それを思いつくのがすこぶる難しい。そして、大抵がストレートに行き着かない。アレやコレや、さまざまな方法を試すことになる。古い電 話帳から、関係者の名字だけで探しまくることもしばしばだ。しかも昨今のオレオレ詐欺と個人情報云々のご時世のおかげで、これが非常に難航するから辛い。 あっちこっちからムチャクチャに罵倒される。こうして苦心惨憺してやっと見つけたかと思っても、信用されずに泣く泣く諦 めることもある。というか、それがほとんどだ。
 ハッキリ言うと、加山雄三の若大将みたいな爽やかでみんなに好かれる性格をしている奴には出来ない(笑)。サッパリした性格の奴にも無理だ。ネチネチとしつっこく執念深い奴でないとこれはやり遂げられない。僕のようなヘンな奴でないと出来ない仕事かもしれない。
 中でも困ってしまうのは海外の事柄で、さすがに僕は取材のために
ちょくちょく海外に出かけることなんて出来ない。そんなお金はない。仮にお金があったとしても、国内でのキメの細かさで海外での取材が出来るとは思えない。そもそも言葉が分からない。そうなると…やはりネットというのはありがたい。ネットなど暴言を吐くクズどもに発言権を与えただけのような気もするが、それなりにいいことだってある。ネットのおかげでどこに何があるか何とか調べられるし、そこにいる人間にコンタクトをとることも出来る。これは何よりネット時代の恩恵だろう。
 こうして何とか真実に辿り着くことが出来たおかげで、僕は先に挙げた2冊の本を作ることが出来たわけだ。大してパッとしない本でも、それをどうやって実 現させたのかと言えば前述の通り。そのおかげで、とにかく「探し出す」力はそれなりに身に付いたのではないかと僕は思っている。
 その「探し出す」力の中にはもちろん図書館・博物館での資料の中か ら「これは」というモノを嗅ぎ分ける力もあり、分厚い印刷物の中から該当ページを見つけるカンもあり、しかるべき組織や機関のしかるべき部署や人物にあた りをつけるコツもある。何よりそれらを見つけるため、協力してくれる人に出会うための「運」がなければならない。
 そんな中に、それこそグーグルで「検索」する手際…もあるだろう。
 だから僕にとって、本作は人ごととは思えない題材なのだ。まずはどうしたって共感してしまう。これは理屈じゃない。ひょっとするとヴィヴィアン・マイヤーを探して(2013)以来、久々に仕事上のことで「人ごととは思えない」気分を味わった映画かもしれない。
 これを前提として話さなければ、僕が本作をいかに気に入ったのか、正確に伝わらないかもしれないのだ。

桂小金治の暴走が目に余る「それは秘密です!」

 最初に僕が予想したように、これはやはり実話の映画化だった。主人公が書いた手記を映画化したものが、この作品である。
 正直言って本作は、まるでウソのようなマコトの話である。あまりに ドラマティックすぎる。仮に迷子になってカルカッタに行くところまではありがちな話だとでも、その後、死にもせず殺されもせず、どこかに売り飛ばされもせ ず最下層に転落もせず、比較的豊かな家庭にもらわれて恵まれた生活を送れて来たというのは奇跡に等しい。それだけでも奇跡に等しいのに、その後、自分がどこからやって来たのか…を突き止めて、生き別れて四半世紀経った末に母親と再会を果たすなどと言ったら、それこそ「あり得ない」レベルのお話だ。いくらネットが発達して「グーグル・アースなら世界中何でも分かる」(笑)としても、そうそう世の中にあるような話ではない。で、まずそこが問題だ。
 ここまで劇的な話だと、いざ映画にした時のリアリティが難しい
 この映画はそもそも、ちゃんと娯楽劇映画として流通すべき作品として作られている。作り手は最初から、ドキュメンタリー的な地味な作品として作る選択肢は考えていない。そうでなければ、ルーニー・マーラや何より大スターのニコール・キッドマンなんて役者をキャスティングする訳がない。主人公を演じるデヴ・パテルだって“あの「スラムドッグ・ミリオネア」の彼”…ということから起用されているのだろうし、ある程度の知名度と商業性を重視して配役を決めていることは明らかだ。おまけにエンディングにはオーストラリアのシーアなんて有名な女性シンガーソングライターの新曲を流しているんだから、何をか言わんや。
 ただ、あまりこれを優先して作ってしまうと、本作の一番キモの部分が失われてしまう。娯楽映画としてコテコテに作った場合に、いかにもの「作り物」感が充満してウソ臭くなってしまう。あるいはやり過ぎな感じになって俗悪でいやらしくなってしまう。それだと、わざわざ「実話」を映画化した意味がなくなってしまうのだ。
 かつて、まだ時代が昭和だった頃のこと。桂小金治という落語家上がりの司会者がいて、レギュラーのテレビ公開番組を持っていた。日本テレビが放送していたその番組は、題して「それは秘密です!」
 ゲスト・タレントを連れて来て、そのゲストゆかりの人物を会場に連れて来る。ただし、それが誰かはゲストすら分からない。それが誰であるか…を、司会の桂小金治がヒントを出してレギュラー回答者たちに当てさせるという内容だ。
 いかにも昭和テイストの番組なのだが、問題はその番組の後半。ここでは応募した視聴者を会場に呼んで、その人が「会いたい」人物と再会させるという内容となっていた。それらは応募した視聴者の肉親や恩人、友人、かつての恋人など。いずれも遠い昔に別れたまま、今では連絡のつけようもない相手ばかり。そんな個人では探しようのない相手を、テレビ局のパワーで調べて再会させるというのがミソだった訳だ。
 ただ、これはいい点ばかりではなかった。番組は公開番組だから、ステージ上で観衆たちの好奇の目を前にして再会が行われる。おまけにやっと再会を果たした人々の横で、マイクを持った桂小金治がクドクドと口上を述べる。これが実にうるさい。大変だったのをやっと見つけた…などと恩着せがましいだけではない。感極まり号泣したり抱き合ったりする再会した人たちを横目で見ながら、まるで浪花節が講談か、はたまた無声映画の弁士みたいに彼らの経緯を語り倒す。臭い臭い。泥臭いやらヤボ臭いやらで見てられない。おまけにそこに追い打ちをかけるように、小金治が慣れ慣れしく出場者に話しかけるのだ。「辛かったね、良かったね」…。大きなお世話なんだよ。
 ハッキリ言って「見世物」である。趣味が悪いなんてもんじゃない。見ていて反吐が出る。
 そりゃあ確かにテレビ局はカネと人材を注ぎ込んで「再会」を果たさせてやるのだ。徹底的に番組コンテンツとして活用してどこが悪いと言いたいところなんだろう。それにしたって…人の幸不幸を面白おかしくさらし者にしやがって、あまりに泥臭くて趣味が悪過ぎだろう。ゲスにも程があるというものだ。少しは分をわきまえろ。誰か桂小金治の暴走を止めてくれ。
 小金治という司会者の暑苦しさも相まって、何ともイヤな気分になる番組だった。母親がこの番組を好きで、夕食時にかかっていたから仕方なかったのだが、僕は毎度見ていていたたまれない気分になったもんだった。
 閑話休題。実は本作だって、ヘタすればこの番組並みの趣味の悪さに堕ちかねない。そうなると、見ちゃおれない内容になってしまうかもしれない。僕が本作を見る気があまりなかった理由は、まさにそこにあった訳だ


 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



オーバー・ヒートしそうになると冷ます「寸止め」演出

 では、本作の「実話」としての語り口は、どのようなものだったのか?
 ハッキリ言うと、本作はドラマティック過ぎるお話を、比較的淡々と描いた作品である。もちろん無名俳優ばかり使ってリアリズム重視で描いた、地味なドキュメンタリー手法の作品などではない。先ほども述べたように、スター俳優も多数起用した「娯楽映画」仕様で製作された作品である。だが、その語り口は意外なほどアッサリしている。劇的に盛り上げるべきところも、サラッと描いているのが特色だ。
 映画の前半部分は、インドを舞台に向こうの役者、向こうの言葉で描かれていることもあって、外国人である僕らから見たらセミ・ドキュメンタリー「風」に見えなくもない。スター級の役者は、物語の中盤からしか出て来ない。
 ただ、それが本当にセミ・ドキュメンタリー「的」な描き方かと言えば、それもちょっと違うと思う。実は本作は、そのあたりのサジ加減が何とも絶妙だ。過度にドラマティックには描いていないが、ドラマであることを放棄もしていない…というのが正確だろうか。
 前半のインド場面では…主人公の辿った運命はかなり過酷なモノで、見ている僕らもその厳しさは容易に想像できる。実物の映画を見る前には、その場面が過 度にシビアでキツかったら見るのがイヤだな…とさえ思ったほどだ。だが実物の映画では、そのあたりのシビアさは慎重に抑えられて描かれている。エグく描こ うと思えば描けたはずだし、一種のセンセーショナリズムを出せたはずだが、それは極力排除している。そもそも主人公の少年は、悲嘆に暮れて泣きわめいたりしない。お涙頂戴にしようと思えばこの子供を使って思い切り泣かせることも出来たのに、あえて作り手はそれをやろうとしていない。そのへんに、作り手の「品格」みたいなものが感じられるのだ。
 スターが出て来る後半部分もそれは継続していて、そもそも知名度のある俳優たちすらそのオーラを出来るだけ消して出演している。感情的になる場面でも、人間関係にさざ波が立つ程度にしか描いていない。問題のグーグル・アースで調べるくだりも、デヴ・パテルが目をひんむいて必死こいて調べたりはしない。それを徹底し過ぎちゃったせいか意外と簡単に見つかっちゃったような印象もあるにはあるが(笑)、ともかくギトギトと煽るようには描いていない。「桂小金治」的なケレン味からは、一番遠いところにある描き方をしているのだ。
 その結果、見る人が見ればアッサリしているように受け取られるかもしれないが、ウソ臭く描かれることからは免れたのではないだろうか。大体、本作は最終的に「再会」できるに決まっている。「見つかりませんでした」じゃ映画にならない(笑)。いわばオチが分かっている話なのだから、途中でシラケさせたら身もフタもない。そうならないためにも、コテコテ感あふれる展開は避けたのだろう。過剰に盛り上げないし泣かせてくれない。
 だからこそ、逆に終盤の「発見」「再会」場面が活きて来る
 ふと見たグーグル・アースの画面から子供時代の記憶が甦り、パソコンのディスプレイ上でグーグル・アースの画像を走らせながら、かつての記憶をどんどん辿っていく。ここに至ってこの映画は、さすがに気分をどんどんと高揚させてくれる。まるで大統領の陰謀(1976) でワシントン・ポストの記者二人が真相にグイグイ迫っていくくだりのドキドキ感を連想させた。そうそう、どうも「核心」に近づいて来た…と本能的に感じる 時ってこうなのだ。僕も何度も「この感じ」を味わった。だからこれは、こういう経験をしていない人には共有できない部分なのかもしれない。だが、間違いな く「この感じ」は僕の知っている感覚だ。
 25年も経って昔の風景がそのままなのか…と疑念を挟もうとも、これは実話なんだから仕方がない(笑)。ごくマレではあるが、そういう事だってある。文 句を言いたい人もいるかもしれないが、経験者がこう言っているんだから間違いない。オレだってそれで「探し物」を見つけたのだ。おまけにこっちの本では 80年も経ってる。それでも見つかる時は見つかるのだ。25年ぐらいなら何でもアリだ。オレが言うんだから、そうだと思っていただくしかない。反論は許さ ない(笑)。
 だから主人公が「目標」に達した瞬間は、さすがに僕も感激したねぇ。それは他の観客の抱く「感激」とは、ちょっとどこか違うのかもしれない。生き別れた家族が再び会うことが出来た、そのことに対する感激ではないような気がする。僕の「感激」は、おそらく困難を乗り越え、不可能を可能にすることができた…そのことに対する「感激」なんだろう。実際、見ていて涙が出たものねぇ。
 だから他の人たちは、そこまで入れ込めないかもしれない。この感想文に共感できないかもしれない。だが、そんなことは知ったことではない。僕は本当に共 感したんだから、そこに何らウソはないのだ。映画の出来などどうでもいい。映画として上手かヘタか高級か低級かなんてことは、ヒマな映画ファンどもにやら せておけばいい。オレはもうそういうことに興味はないんだよ。
 先に述べたように、本作の役者たちはみんな抑えた演技で好演している。中でも感心したのはニコール・キッドマンで、思い切り華やかさを消して野暮ったいオバサンを演じているから驚いた。ある意味では信じられないような善意の人を、まるで風呂上がりのようなアッサリサッパリした様子で演じている。正直言って、この人の演技でこれほど感心したことってなかったんじゃないだろうか。申し訳ないがこれが韓国映画あたりだったら、インドでの実の母も含めてクドクドギトギトとやり過ぎなほど「善意」を強調しただろう。今にして思えばブラザーフッド(2004)の導入部なんて、登場人物の善良さをわざとらしくこれでもかと描いた結果、泥臭く安っぽい田舎芝居っぽくなってしまったきらいがあった。
 話をニコール・キッドマンに戻すと、最近は脇に回ったり母国オーストラリアで出演したりと、ちょっと一時期とは方向転換しているような気がする。今回も古巣のオーストラリア映画でイイ味出した感じだ。
 ルーニー・マーラは元々アッサリ風味の人で、ドラゴン・タトゥーの女(2011)ではその爽やか体質を逆手にとって、あのグロテスクに飾り立てたヒロインの「初恋物語」として成立させていた。今回もそのあたりのアッサリさ加減を120パーセント活かしての出演である。
 驚いたのはデヴ・パテルで、先にも述べたように「スラムドッグ・ミリオネア」で鮮烈な登場の仕方をしたものの、その後は「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」(2011)のような形骸化したインドの好青年的な役柄を、ずっとワンパターンで演じていくだけだろうと思っていた。ところが本作では初めてゴツゴツとした男らしさを出して、新しい一面を見せてくれた。おそらく自分でも役者としての限界を感じていただろうが、彼は本作のこの役で救われたのではないだろうか
 そんな俳優陣の抑えた芝居も含めて、全編が程よく品のある抑制で描かれている本作。監督のガース・デイヴィスはやろうと思えばコテコテに盛り上げることも出来たのに、むしろ素っ気ないくらいにアッサリ演出に終始していたのが正解だった。オーバー・ヒートしそうになると冷ます、男がイキそうになると動きを止めるAV嬢
(笑)みたいな…いわゆる「寸止め」的な作り方だからこそ、品のある映画になったしリアリティも出た。そして「ここぞ」…という時に引き気味の画面づくりをしていたのも効いていた。
 重要ポイントになると画面を引くから、そこでコテコテ感が一時的に減退してアッサリ風味になる。さらに、場の全体を見せるような引いた画面が、どこかグーグル・アースの俯瞰画面を連想させる。これは実にうまい作戦だ。
 だが、そんな全体シビア過ぎずドラマティック過ぎずで描いて来た本作も、キモの「再会」場面に至ってショッキングな事実を突きつける。主人公サルーを常に可愛がっていた兄グドゥが、サルーが行方不明になっていたのと同じ日に列車に轢かれて死んでいたというのだ。母親の言葉を通訳した…という体でサラッと語られるだけの扱いだが、それまでが抑え気味だったからこそ観客からしてもショック。果たして列車事故で死んでいたから主人公のもとに戻れなかったのか、それともいなくなった主人公を探して列車事故に遭ったのか…当然、兄も彼との再会を喜ぶはず…とこちらも思っていたから、何とも言えない苦みが残る。映画としては、諸手を上げてのハッピーエンドになりきらない微妙な後味となった。実話通りなんだろうしご本人にはお気の毒な話だが、その結果、本作にはちょっぴり辛い味わいが残り、現実のリアリティが生まれたと思う。
 そのおかげなのか、エンディング・クレジットに実際の主人公たちの再会ドキュメント映像が出て来ても、ピーター・チャン最愛の子(2014)エンディング・クレジットみたいなこれ見よがしな感じがしない。素直に良かったな…と見ていられるのだ。僕はニコール・キッドマンがこのオバチャンをかなり再現していた…ことに改めて感心しちゃった(笑)。このエンディングでシーアがうたう主題歌の歌詞だけはちょっと「桂小金治の口上」を思わせる気配(笑)があったが、まぁ歌そのものは良かったから許せた。
 ただし、ひとつだけ気になったことがある。デヴ・パテル演じる主人公は実の家族と奇跡的な再会を果たして、体験談を本に出して大ヒット。だが、それに引きかえこのオレは…ってあの義理の兄弟はまた病んじゃうんじゃないだろうか。それを言ってもしょうがないって言えばしょうがないし、映画の作り手に言っても仕方ない。お話としては「そうはうまくいかない人生だってある」…ってスパイスにもなっているのだが、僕は少々心配になっちゃったよ。ここだけの話、主人公には「もういいかげんそのへんにしとけや」ってちょっと言いたくなった。
 ところでこの感想文のストーリー紹介では、僕は例のグーグル・アースのCMの直前でぶった切ってしまった。やっぱり…「グーグル・アースなら世界中何でも分かる」って、言い過ぎだよオマエそれは。昭和のCMかよ(笑)。あの瞬間だけは映画本編でも群を抜いてシラジラしく感じたねぇ。


 

 

 

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