「グレートウォール」

  長城 (The Great Wall)

 (2017/05/15)



見る前の予想

 あのチャン・イーモウがハリウッド資本を得て万里の長城の映画を撮る。主演はハリウッド・スターのマット・デイモン…。こんなニュースをちょっと前に耳にした時、僕はそれをまったく意外には感じなかった。むしろ、さもありなんと思ったものだ。
 ここ最近のチャン・イーモウはと言えば、すっかり中国政府御用達の映画作家になりきった感じがした。大資本を注ぎ込んだ「国民的」映画を連発。あの北京オリンピック開会式の演出を担当し、CG花火やら口パク少女やらで世界的に大ヒンシュク。2009年の中国建国60周年の際には、記念晩餐会イベントの演出も行った。もう完全に「あっち側」の人。最近はいろいろ事情もあったり作品が公開されなかったり、あまりに細々と公開されるので僕も見逃しちゃったり…で、スッカリご無沙汰になってしまっていた。
 そこに久々の新作情報が届いたら「グレートウォール」。こりゃあ中国観光局肝いりの作品か何かじゃないのか…と、申し訳ないけど色眼鏡で見てしまっていた。だから、正直言ってあまり見たくないな…と思っていたのだが…。
 そんな僕の気持ちが変わったのは、本作に関する「ある情報」だった。それを聞く限りでは、本作は僕が事前に思っていたような映画ではない。どうも、想像を大きく覆す作品らしい。だとすると、これは話が違うというものだ。
 おまけによくよく考えてみれば、本作は久々のチャン・イーモウの新作ではないか。どんな映画であろうとも、そこはそれ、腐ってもナントカのチャン・イーモウ作品。ここはキッチリ見ておいても損はないという風に考えを改めた。
 ところが残念なことに、すでに3D上映する劇場はなくなっていた。ということは、あまり客が入っていないのではないか。これは急がないといけない。僕はスッカリ慌てて、池袋の小さな映画館に乗り込んだ訳だ。

あらすじ
 宇宙空間から地球を見下ろせば、中国大陸に何やら一筋の線が走っているのが見える。これぞ中国文明のひとつの到達点である「万里の長 城」だ。中国の国と人々を守るために築かれたこの長城については、過去から幾多の歴史的事実や伝説が伝えられて来た。本作は、そんな伝説のうちのひと つ…。
 中国大陸の遥かな荒野に、砂煙を上げて駆け抜けていく一団が見える。それは、西欧世界から選り抜かれた戦士たちと、それを追いかける蛮族たち。もうすぐ 追いつかれようという状況ながら、リーダー格のウィリアム(マット・デイモン)の機転で物陰に隠れることで蛮族たちをやり過ごせた。まさに危機一髪。今日 はここに野営することになったが、男たちは長旅で疲労しきっていた。
 彼らは西欧世界から、「黒色火薬」を求めて中国にやって来た。
 それが手に入れば、これまでの戦いは様相を一変するだろう。そこで命知らずの男たちが選ばれて、はるばるこの荒野までやって来た。しかし苦難の連続で、どんどんメンバーは脱落。今ではここにいる5人のみ。そのうち一人は負傷しているというアリサマだ。
 さすがにこれではマズいと、帰国を口にする者もいる。だが、今さらここまで来て戻れる訳がない。何とか身軽になろうと、荷物をポイポイ捨て始める奴もい るが、ウィリアムは危うく大きな磁石の石を捨てられるところを救い出した。こんな困難な旅で、いつどこで磁石の世話になるか分からないからだ。現実主義者 のスペイン人トバール(ペドロ・パスカル)はウィリアムにケガ人を置いていこうと提案するが、さすがにウィリアムはそれは避けたかった。そんな時…。
 何やら得体の知れない「モノ」が、彼らが野営している焚き火の回りに跋扈し始める。周囲の暗がりに溶け込んで見えないが、「モノ」は確かにいた。…かと 思うと、一気に飛び出して来て襲いかかり、仲間のうち3人が消えてしまうではないか。思わず剣に手をかけたウィリアムは、その「モノ」に向かって一太刀振 るった。悲鳴を上げてその場から脱兎のごとく去っていく「モノ」の気配。その立ち去った跡には、たった今切り落とされた手首が残されていた。それは今まで 見たこともない、ケモノとも言い難い「何か」の手首。興味を抱いたウィリアムは、この手首を布に包んで持って行くことにした。
 もはやウィリアムとトバールの二人きりになった一行だが、翌日も蛮族は無慈悲に追いかけて来る。逃げて逃げてどんどん逃げて行く二人だったが、突然周囲 の地面に何十何百と矢が突き刺さるではないか。前方を見ると、そこにはどこまでも延びている巨大な城壁。その上から、大軍が矢を射かけて来たのだ。後ろは 例の蛮族が迫る。もはや選択の余地はない。ウィリアムとトバールは、諸手を上げて城壁の大軍に対して降伏する態度を見せた。
 城壁の中に迎え入れられ、武器をすべて取り上げられたウィリアムとトバール。周囲には言葉も分からぬ中国の兵士たち。その中で一際目立つのは、青のコス チュームに身を包んだ若い女兵士だ。彼女リン・メイ(ジン・ティエン)は、兵士たちの中でもかなり位が上の方らしい。自分たちの立場があまり良くなさそう と感じたウィリアムとトバールは、手放した武器を取り戻して一暴れして脱出しようなどと相談していた。だが、例のリンという女は、そんな彼らに「英語」で 質問する。何のことはない、彼らの企みはすっかりバレていたのだ。これは観念するより他はない。
 リンはウィリアムが持参した、例の「モノ」の手首に大いに興味を持った。司令官(ジャン・ハンイー)はじめ男どもはただただウィリアムとトバールを処刑 せよと言い張っていたが、リンとワン軍師(アンディ・ラウ)はそれに異議を唱えた。リンとワン軍師は例の「モノ」が長城のすぐそばまで迫っていることに危 機感を覚えるとともに、そんな「モノ」がウィリアムに簡単に倒されてしまったことに違和感を感じていた。
 結局、二人は処刑されることなく生き長らえることになったが、そこに突然の連絡。この長城に「饕餮
(とうてつ)がもうすぐ襲来するというのだ。
 果たして、「饕餮」とは何か?
 ワン軍師が語る「饕餮」とは、例の「モノ」のことだった。遥か昔のこと、人々が驕り高ぶり堕落の極みを見せていた頃、巨大な流れ星が荒野に落下した。そ の時から、「饕餮」が出没するようになった。こいつらは何でも食う貪欲な生き物だったが、ある時を境に急に動かなくなって危機は去った。だが、「饕餮」の 災いがそれで終わった訳ではない。60年に一回の周期で、「饕餮」は人々に襲いかかってくるようになったのだ。
 そこで人々は、60年前より長城を築いて「饕餮」を防ごうとした。その時が、いよいよやって来ようとしていたのだ。
 ワン軍師はウィリアムとトバールを牢につなごうとしたが、鍵をなくしたため断念。仕方なく二人を戦いの最前線である長城の上に連れて行き、壁に手錠でつないだ。
 二人が周囲を観察する中、長城の上では臨戦態勢が敷かれていく。兵士たちは大きく5つの色に分けられていて、赤が弓兵…などのようにその役割で色分けさ れているようだ。中でも目立つのが、リン率いる青組…「鶴軍」の面々。いずれも若い女性ばかりの兵士たちで、手に長い槍を持って命綱を身につけ、長城から 突き出された突端に立っている。果たして彼女たちは何をするのだろうか?
 そんな面々が一糸乱れぬ動きで戦闘態勢を整えたところに、遥か彼方から長城目がけて何やら大軍が一気怒濤に押し寄せて来るではないか。
 無数の大軍…それは人ではなかった、馬でもなかった。見た事もない異形のケモノたちが、長城目がけてまっしぐら。四つ足の生き物ながら、それはイノシシ ともトカゲともいえぬ深緑色のカラダを持っていて、しかもデカい。そんな見るからに獰猛そうなケモノたちが、長城前方の荒野を埋め尽くさんばかりの数で突 進してくるのだ。こいつらが来る…と分かって防備してきた長城の軍勢も、皆この状況を見て息をのんでいた。そんなこんなしているうちに、ヤツらが長城のす ぐそばまで来た。
 まずは投石機を使って、炎に包まれた巨大な岩を発射!
 岩は大軍の先頭を撃破し、多くのケモノたちが吹っ飛ぶ。だが、そんなモノではとてもじゃないが追いつかない数が押し寄せて来る。そこで弓矢部隊が雨アラ レと矢をケモノに射かけるが、これまたとてもじゃないが圧倒的に戦力が足らない。そのうちケモノの最前列が長城まで到達し、どんどん後ろからやって来た連 中が上に上にと積み上がって上ってくるではないか。
 その時、ついに…まさに満を持したというべきか、青に身を包んだ女軍「鶴軍」の面々に出撃命令が下った。すると彼女たちはまるでバンジージャンプよろし く、命綱一本を頼りに真っ逆さまに飛び降りる。命綱が張り切るか否かのところで力強く槍を突き出し、上がって来ようとするケモノたちを仕留める。まさに特 命隊である。
 中でも隊長であるリンは、必殺必中で戦果を挙げる。まさに命知らずの女である。だが「鶴軍」も全員が全員ケモノを仕留められるワケではない。かなりの数の戦士は、不運にも敵に食いちぎられて命を落としていた。そういう意味でも、極めて危険度の高い戦法だった。
 そのうちどうにも「饕餮」を追い払いきれなくなり、一頭、二頭と長城の上に上がってくる。そうなると、もうまったく手に負えない。慌てて兵士たちが駆け つけるが、次から次へとガブガブ食われてしまう。ウィリアムもトバールもすぐそばにつながれているので、いつ「饕餮」に食われるか気が気じゃない。さすが にウィリアムは、近くにいたまだ若い歩兵ポン・ヨン(ルハン)に手をほどくように食ってかかった。大いに迷ったポン・ヨンも、この不測の事態に猫の手でも 借りたいところ。ええいままよ…とウィリアムとトバールの縛りをほどくと、二人ともいきなり水を得た魚のように動き出した。そこはそれ、長い旅の間に培っ た連携プレー。長城の軍勢が大いに手こずっていた…というより一方的に食われまくっていた「饕餮」を、あうんの呼吸で仕留める。これには、長城の兵士たち も驚いた。
 ところがそんな頃を見計らっていたかのように、「饕餮」の女王が手下たちに何やら合図を送る。すると、それまで遮二無二襲って来た「饕餮」たちが、一匹残らず引き揚げて行くのでビックリ。どういう風の吹き回しかは分からないが、ともかく目下の危険は去ったようだ。
 こんな大混乱の中、見事に「饕餮」を仕留めて貢献したということで、ウィリアムとトバールの株は一気に急上昇。それまでの「囚人」扱いから、とたんに「客人」へと待遇が一変した。特にリンは戦果を挙げたウィリアムを高く評価。彼に親しげに話しかけるようになる。
 そんな中、ウィリアムとトバールはこの長城にもうひとりの西洋人がいることに気がついた。その男バラード(ウィレム・デフォー)は、25年も前にこの長城にやって来て、ずっと囚われの身になっていた男だった…。

いい状況になかった近年のチャン・イーモウ

 この感想文の冒頭にも書いた通り、ここ数年のチャン・イーモウはあまりいい状況にあった印象がない
 本国での扱いがどうかはよく分からないし、ご本人が自分の状況をどう思っているのかを知る由もない。だが、少なくともこの日本や西欧社会では、「チャン・イーモウ株」が以前と比べてかなり長期低迷傾向にあると言っていいのではないだろうか。
 それはもちろん、あの2008年夏の北京オリンピック開会式における演出がキッカケになったのは間違いない。開会式の演出を引き受けたことそのものは、何だかすっかり中国政府御用達っぽくなっちまったな…という印象もあるにはあったが、まぁ想定内。ロンドン・オリンピックではダニー・ボイルが演出するなど、最近のオリンピック開会式ってのはその国のトップ映画監督が担当するの がお約束。だから、やはりそこはチャン・イーモウだろうな…と納得がいった。問題は例の口パク少女やらCG花火である。いかに映画監督でも…いや、映画監 督だからこそ、チャン・イーモウはここで「ライブ」にこだわるべきだった。1964年東京大会でのブルーインパルスの五輪スモークだって実際に一発勝負で やったからこそ凄いんで、CGでやっちゃあシラケわたるしかない。っていうか、天下のチャン・イーモウが「三丁目の夕日」レベル(笑)にまで落ちたらマズい
だろ
 しかもその後、南京大虐殺を題材にした「金陵十三釵」(2014) を撮る。その内容は日本未公開だから見ていないし、そもそもその題材についてもここでコメントする立場にない。ただ…こんなことを言っては大変申し訳ない が、このタイミングでこういう作品を大金を投じて発表する…できるというのは、中国政府の意向を…いわゆるイマドキ流行りの「忖度」しちゃってるのではないかという印象が強い。う〜ん、ついつい「ソンタク」なんて「日ペンの美子ちゃん」にまで出て来るほどの流行り言葉を使ってしまった…
(笑)
 閑話休題。わざわざハリウッドから主役にクリスチャン・ベールを連 れて来るあたりも、対外的アピールという意図に受け取られてしまいかねない。さすがにそのあたりが災いしたのか、この映画についてはアメリカなどでもあま りいい評判がなかったように聞く。もっとも、僕もここ日本で得られる情報で言っているのだからそれなりにバイアスはかかっているのだろうが、少なくとも大 成功で迎えられたということではないようだ。作品の出来以前の問題で、成り立ち方からしてそのように評価されてしまうのは仕方のないところだろう。
 もっとも、チャン・イーモウはそれ以外にもこの時期に作品を発表しているのだから、こうした言い方は少々アンフェアかもしれない。なぜかこの時期のチャン・イーモウ作品は、やけにひっそりと公開されていた。だから僕も次々と見逃していたというのが本当のところだ。それで、最近は元気ないと勝手に思っていたのかもしれない。
 しかもこの時期のチャン・イーモウの他の作品は、決して軽視すべき作品ばかりではなかったようなのだ。北京オリンピック直後に発表された「女と銃と荒野の麺屋」(2009)は、何とコーエン兄弟の「ブラッドシンプル」(1984)の中国での翻案リメイク。「妻への家路」(2014)は、かつての名コンビであるコン・リーを主演に迎えた作品だ。
 この時期の作品で僕が唯一見ることができたチャン・イーモウ作品であるサンザシの樹の下で(2010)も、なかなか侮ることのできない作品だった。一見、健気な女の子の悲恋を描いた作品ということで、初恋のきた道(1999)や至福のとき(2002)の路線と見える。しかしこの作品も背景には文化大革命が影を落としており、さらに主人公が病いに倒れる「難病もの」と見せかけて、ウラン発掘で国の犠牲にされたことが暗示されている。先に挙げた「妻への家路」も文革の悲劇を描いていると見れば、決してチャン・イーモウもこの時期ずっと日和っていた訳ではないのかもしれない。
 ただ、やっぱり「紅いコーリャン」(1987)に始まり、HERO/英雄(2002)ではビッグなエンターテインメント作品まで手がけていった頃の問答無用の「破竹の勢い」を考えると、その後のチャン・イーモウにはその「勢い」が失われてしまったように見える。残念ながら、見る側の「目」も変わってしまった。そうなってしまったのは、明らかに北京オリンピックの一件からだろうと思えるのだ。
 そして、先ほどチャン・イーモウについて「日和っていた」という表現を使ったが、仮に「日和っていた」としたならば、それには理由がない訳でもない。
 実はチャン・イーモウの実家は、元々は軍人の家庭だったらしい。そして、父親と伯父二人が出たのが国民党の軍人学校であったことが災いした。そのためチャン・イーモウは、子供時代から「反革命」の烙印を押され迫害された家庭で育った訳だ。これは当時の中国では、相当に過酷なことだっただろう。当然、彼の心の中には世間の怖さが強烈に焼き付いているはずだ。
 幼少の頃から痛めつけられて来た人間は、その後どのような人生を歩んでいても「不安感」を拭いきれない。少なくとも、小学校時代にコテンパンにイジメを 経験した僕にとっては、これは真実である。その後どんなに良い事があっても、人からモテはやされることがあっても、決して心から舞い上がれない。例え何か で賞賛され持ち上げられることがあっても、どうせ人はすぐに手の平を返すものだと分かっているからだ。所詮、他人は信用できない。チャン・イーモウもおそらくそうだろう。
 そういえば「紅いコーリャン」の世界的大成功以来、向かうところ敵なしの雰囲気だったチャン・イーモウも、実はかつて一度苦境に立たされたことがある。文革を描いた活きる(1994)が、カンヌ映画祭でトラブルを起こした時だ。 内容を不服とした中国政府が、映画祭から代表団を引き揚げたのである。当然、チャン・イーモウ自身もタダでは済まなかったのではないか。仮に直接何かをさ れなかったとしても、脳裏に幼少期からの苦難が甦らなかったはずはない。またあのイヤな日々に逆戻りか…とゲンナリしたことは想像に難くない。
 いや、ゲンナリどころか恐怖におののいていたかもしれない。
 その直後、それまで濃厚でパワフルだった作風が、あの子を探して(1999)、「初恋のきた道」「至福のとき」… と続く「純情ヒロインもの」路線に微妙に方針転換したのは、おそらくこの「活きる」カンヌ事件が引き金になったものと僕は思っている。純朴なヒロインの健 気さ可愛らしさを前面に立てて骨太テーマなど扱わずに素朴な話を描いておけば、オモテだって攻撃を受けることはないだろう…という、それはチャン・イーモ ウなりの知恵だったと思われる。当時は随分と「後ろ向き」な作風になったと思ったものだが、後々になって彼のフィルモグラフィーを振り返ってみると、そういう発想だったのではないかと思い至ったのだ。
 そうなった事自体を、僕はとてもじゃないが批判はできない。絶対安全な外国から「日和ってる」だの「御用達」などとケナすのは簡単である。だが、そんな チャン・イーモウの状況が分かってみれば、僕ならとてもじゃないが勇ましいことは言えない。僕は子供時代にあんな思いをしてきたし、実際に中国で人民解放 軍兵士に身柄を拘束されそうになって冗談抜きで「日本に帰れないかも」とビビった経験だってある。それだけで思い切りヘタレた僕に、チャン・イーモウを非難することなどとてもじゃないが出来ない。彼がもし自分の身を守りたいと思ってそうしたのだったら、その気持ちはよく分かるのだ。
 話を戻すと…そんな訳で微妙な方向転換を果たしたチャン・イーモウだったが、同時に彼はこの不自由な状況からの脱出をも模索し始めたのではないだろうか。
 詳しくは「初恋のきた道」感想文にも書いたが、チャン・イーモウは間違いなくジェームズ・キャメロン「タイタニック」(1997)を意識してあの作品を撮っている。これはおそらく、僕の妄想ではないはずだ。それは世界的大成功作への対抗意識でもあったろうが、ハリウッドに対する秘かな求愛活動的な面もあったように思う。見る人が見れば、「こいつは商業映画が撮れる」と分かったはずだからだ。
 その後、「HERO/英雄」でエンターテインメント路線に大胆な転換を果たしたのは、国際市場でのグリーン・デスティニー(2000)の大成功に刺激されての挑戦だろう。そこにはチャン・イーモウの「オレならもっとうまくやれる」というあからさまな挑発が見てとれた。それと同時に、この方法ならハリウッドに打って出られるかも…という「あわよくば」の期待もあったと思える。
 だが国際的に高い評価を受け、中国の「国民的監督」の地位を築きながらも、なかなか欧米映画でのデビューまでには至らない。ひょっとしたら話はあったのだろうが、宿敵チェン・カイコーキリング・ミー・ソフトリー(2002)での失敗ぶりも見ているだけに、万全な体制でのなければ動く気はなかったのかもしれない。それでも、「その気」は十分にあったはずだ。
 そんな足下を固めながらの模索のうちに、やって来た北京オリンピック。それまでどちらかといえば「自分の味方」だったはずの国際世論が手の平返しで集中攻撃してきたのは、
チャン・イーモウとしては大きな誤算だったのではないか。おまけに「中国政府の太鼓持ち」的なイメージも、少なからず彼を苦しめたのではないかと思う。彼の生まれ育ちを考えてみると、これほどチャン・イーモウにとって皮肉なことはないからだ。
 だが大変申し訳ないが、実は僕もそう思っていた。だから何となく、チャン・イーモウを「小賢しい奴」とか「世渡り上手」のように感じていたのだ。セコく立ち回りやがって…としか思っていなかった。「活きる」の日本公開が遅れて当時の事情があまり伝わって来なかったことも、そんな誤解に拍車をかけた。僕の考えが変わったのは、彼の出身を知ってからである。
 そんな北京オリンピック後のチャン・イーモウは、これまでのように欧米の支持を背景に自分の立場を維持していく…ということをもはや期待できなくなって しまったのかもしれない。「国民的監督」にまでのし上がった彼は、実はかなり袋小路に入り込んでしまった感があった訳だ。
 だから近年のチャン・イーモウは、それなりの変遷はありながらも「HERO/英雄」あたりまでは実現できていたような、竹を割ったようなストレートな映画づくりが出来なくなったよ うに思える。いろいろなしがらみや「贖罪」やら「言い訳」のために映画を撮っているような感じが否めないのだ。北京オリンピックでの「御用達」イメージを 克服するかのように、文革を扱った「サンザシの樹の下で」や「妻への家路」を撮り、またその合間を縫って「御用達」映画「金陵十三釵」を撮る…。あっちか らこっちへ小刻みに行ったり来たり、その軌跡は奇妙にパラレルな動きを見せているのである。
 また「金陵十三釵」に関しては、ひょっとしたら別の見方をすべきかもしれない…と最近、僕はちょっと思い直してもいる。近年、日中関係が急速に悪化するにつれて、単騎、千里を走る。(2004)で高倉健を主演者に迎えたことが中国社会でどう見られていたのか。いくら高倉健が中国国内で絶大な人気を持っていたとしても、状況が変わるにつれてヒンシュクを買った向きもあったのではないか。そういえば、例の北京オリンピック開会式の衣装ディレクターに石岡瑛子を 起用したことなどを、チクチクと批判した中国国内での記事も見たことがある。そんなキナ臭さが周囲に漂い出したと感じたら、自分の立場を守るべくついつい 「忖度」(笑)しちゃって「金陵十三釵」を撮ることだってあるのではないか。すでに自分には対外的にダーティーなイメージがついてしまったから、ここは海 外の目は二の次。とにかく自分の身を守らねばならない。機を見るに敏なチャン・イーモウなら、大いにあり得るはずだ。
 しかもチャン・イーモウは、「金陵十三釵」をただ政府への「忖度」だけで撮っていた訳ではなさそうだ。大型予算を思う存分使った上で、ハリウッドからクリスチャン・ベールまで呼んでいる。来たるべき「その時」に備えるべく、欧米俳優の演出の仕方や西欧映画の流儀まで予行演習している。 映画そのものに「御用達」の看板があるから、ここぞとばかり大っぴらにやりたいことをやっているのである。やりたいことに関しては、図々しいくらい空気を 読まない(笑)。さすがにこのあたりはしたたかだ。これに加えて「女と銃と荒野の麺屋」が「ブラッドシンプル」のリメイクであることも考えると、水面下で はずっとハリウッドへの求愛活動が続行されていたと考えるべきではないか。
 そんな中での…ハリウッド資本を取り込んで、ハリウッド俳優を起用しての英語映画「グレートウォール」製作である。まさに満を持しての作品。ここまでのチャン・イーモウの歩みを振り返ってみれば、そこには格別の思いがあることがお分かりいただけるだろうか。


 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



見た後での感想

 そんな訳で、ハリウッドのユニバーサル映画と組んで放つチャン・イーモウ最新作。その名も「グレートウォール」。
 「中国と来れば万里の長城」…みたいな「ご存知モノ企画」めいた感じが、見る前から何となく残念な感じを醸し出す。ぶっちゃけた話、黒澤明のハリウッド進出作品が「トラ・トラ・トラ!」みたいなカタチでなくて実現していたとして、そのタイトルが「フジヤマ」とかだったらドン引きだろう(笑)。でなきゃ、またまた中国に観光客を集めるための「御用達」映画の一環かよ…とシラケた気分になってしまう。
 また、見る前までこの作品に関する評判はまったく耳にしていなかったが、そのこと自体が「残念な感じ」を助長するではないか。つまり、これほどの巨匠のハリウッド・デビュー作が、話題にすらなっていないということなのである。残念にも程がある。
 そんな訳で僕も本作は危うくパス…しそうになったというのは、この感想文冒頭にも述べた通り。何だか今回もやっちまった感があったからだ。そんな僕が態度をコロッと変えて本作を見ることに決めた理由は…。
 本作が、モンスター映画だというウワサである。
 最初は当然、史実を加えながらの中華チャンバラ大作…という「HERO/英雄」的な発想の大作映画だと思っていた。せいぜいハリウッド仕様として、その中心にマット・デイモンを据える“トシロー・ミフネ・イン「レッド・サン」(1971)”(笑)…的なアレンジを施した程度。そんなぐらいに勝手に思い込んでいた訳だ。
 ところが、何とまさかのモンスター映画(笑)!
 このサイトをご覧になっている方々ならお分かりの通り、僕はSF映画好き。もちろんその大半はチープなモンスター映画だ。日本の特撮映画ファンが愛して やまない「怪獣映画」と言うよりは、ドライブインシアターなどでかかる
もっと安っぽいアメリカ製「モンスター映画」と言う方がシックリ来る。あくまでそのジャンルの作品が、映画における僕のホームグラウンドである。あのチャン・イーモウがハリウッド・デビューにあたってその「モンスター映画」を撮ったというのなら、それはどうしたって見ない訳にはいかないだろう。
 しかもこれまた前述の通り、ここ最近のチャン・イーモウ作品は見ていない方が多い。これはさすがにマズい。ここはいろんな意味でも見ておかねばいかん。そう思って劇場へと駆けつけた訳だ。果たして「グレートウォール」はモンスター映画だったのか?
 皆さんはもう結論をご存知だろう。いかにも本作は完全なモンスター映画である。
 そもそも考えてみれば、それは確かにそうしなくちゃマズい一面はあっただろう。もしヘタに史実に忠実にシリアスに描いたとすると、中国の歴史の中での諸民族同士、周辺国とのイザコザなどが絡んで来ない訳にいかない。そうすると、中国を世界にグッと押し出して行く映画としては、当局にとっても甚だ都合の悪い事情がアレコレ出て来るのではないだろうか。一応、中国政府のスポークスマン的立場にさせられちゃったチャン・イーモウとしてもそれは困るだろう。
 そうなっちゃうと、シリアスに「万里の長城」を描くのはマズい。史劇として撮るとしても、あからさまに「事実とは異なりますよ」と分かるカタチで描かないといけない。なまじっかフィクションなのにシリアスに撮ってしまったら、それこそ北京オリンピックでの口パク少女やCG花火の比でない攻撃をくらいかねないからだ。
 だから、これはもうモンスターを出すぐらい飛躍しないとお話としては成立しない。そういやハリウッド版「忠臣蔵」の47 RONIN(2013)も、映画の冒頭でいきなりCGで動く「麒麟」が出てきたことから、見ているこっちも腹が据わった。こりゃガチで「忠臣蔵」をやるんじゃなくてファンタジーとして描くのね…とこの作品の「お約束」が分かったからだ。モンスターは作り手から観客に向けての、そういう「目配せ」なのである。
 しかもチャン・イーモウがハリウッドに乗り込んで映画を作るのなら、こういう「やり方」は当然想定内だったかもしれない。中国国内で出来ることを、あえてハリウッドまで行ってやる事はない。わざわざハリウッドの映画を作るのだから、「そこでしか出来ないこと」をやらないと意味がない。ならば、CGを多用してのモンスター映画…という発想はアリだろう。
ひょっとしてマーベルに中国人ヒーローがいたとしたら、「アベンジャーズ」だって撮っていたかもしれない。
 おまけに本作の製作は、パシフィック・リム(2013)、ハリウッド・リメイク版「ゴジラ(2014)、そしてキングコング/髑髏島の巨神(2017)…と怪獣モノには「定評」がある(笑)レジェンダリー・ピクチャーズ。そりゃ、こうなるわな(笑)。向こうの提案かチャン・イーモウ側からかは分からないが、レジェンダリーでは通しやすい企画ということなのかもしれない。いくらレジェンダリーが中国企業に買収されたからといって、会社としての方針は考慮されるだろう。
 そして、モンスター映画ということなら、これは僕の領域である(笑)。アジア映画マニアもシネフィルもあれこれ言いたいことはあるだろうが、そもそもこれらの方々はこのジャンルは得意分野ではないはず。ならばその偉そうなことしか言わない口を閉じて、少々黙ってこの映画を見ていただきたい(笑)。

イヤイヤではない本気のモンスター映画

 ズバリ最初から申し上げれば、僕も本作を傑作だなんて持ち上げる気は毛頭ない
 アレコレと問題は散見できるし、揚げ足とりをしようと思えばいくらでも出来るだろう。特に死ねフィル(笑)…おっと、シネフィルの皆さんにとっては本作 は御馳走で、いくら血祭りに挙げても足りないだろう。こういう人たちが下衆な顔して舌なめずりしている様子が目に浮かぶようだ。
 だが僕自身は、結構本作を楽しんで見た。正直言って楽しい映画だと思う。
 何よりモンスター映画であることに恥じらいがないし、ウソも隠しもしていない。これほどのキャリアの映画作家が、何のてらいもなくモンスター映画を撮っている。「モンスター映画でなく、人生の不条理を描いてみた」とかそんな言い訳ができるように作ってはいない。
 考えてみれば「HERO/英雄」だって、エンターテインメント路線に舵を切ったとはいえ、まだまだとてもじゃないが純正娯楽映画とは一線を画していた。 アート映画のファンにも「これならいい」と思わせる、もっともらしさが含まれていた。何でそんな連中に義理立てしなくちゃならないのか分からない(笑) が、ともかく映画としては、どうとでも言えるところがあった。
 だが、本作は違う。おそらく世界中のアート映画ファン(笑)から難癖つけられるだろうと承知しながらも、明らかにモンスター映画だと分かるカタチで本作を撮っている。まったく弁解できないレベルでモンスター映画だ(笑)。でも、チャン・イーモウはこれをイヤイヤやったとは思えない。彼には、すでに「前科」があったからである。
 実は「紅いコーリャン」で衝撃的な監督デビューを飾った直後、彼は「ハイジャック/台湾海峡緊急指令」(1988)という作品を発表している。タイトルのごとく、ハイジャック事件を描いた一種のパニック映画である。決して「パニック映画と見せかけて人生の不条理を描いてみた」作品なんかではない(笑)。
 もちろん「紅いコーリャン」直後とはいえ、まだまだ監督としては駆け出し。だから作品選択にそれほど発言力はなく、イヤだと言うことも出来ずに撮った作品…ということは可能だ。可能だけれども、ではイヤイヤ撮ったのかと言えばたぶん違うのではないか。
 なぜなら映画の主要人物として、「紅いコーリャン」で発掘したばかりの新人であるコン・リーを起用しているからである。大のお気に入りであり…実際その後にはお手つきして自分の愛人にまでしてしまう彼女を、撮りたくもない映画に出すだろうか。それはちょっと考えにくいのではないか。むしろノリノリで撮ったと考える方が自然だろう。
 惜しむらくは…まだチャン・イーモウの力量が伴っていなかったのか、この作品が決して成功作とは言えない出来だったこと。エンディングには泥臭い主題歌は流れるし、ハッキリ言って鈍臭くヤボテンな映画なのである。あのチャン・イーモウが、何でこんな鈍臭い映画を撮ったのか?
 ここからは異論のある方も多いだろうが…映画を作るとしたら、もっともらしいアートな映画を作る方が実は簡単である。「真に優れた作品」になっているか どうかは別として、もっともらしく撮ることは出来る。反対に、誰もが見て分かる…そして評価を下せる娯楽映画の方が、遥かに作るのが難しい。内容の破綻が 明らかになりやすいからだ。その意味では、「ハイジャック〜」は「紅いコーリャン」と比べて当時の彼の未熟さがハッキリ露呈してしまった作品だと言えるのではないか。
 その後も「タイタニック」を意識した「初恋のきた道」、さらに中華チャンバラのスタイルで撮った「HERO/英雄」などを撮って来たところから考えて、チャン・イーモウはそのキャリアの最初期からずっと娯楽映画に興味を持っていたはずだ。周囲が思っている以上に、かなり「こっち」の人なのである。
 だから本質的にモンスター映画である本作も、決してイヤイヤ作ってはいない。結構真面目も大真面目、まさに「本気と書いてマジ」で作っているようなのである。いろいろ事情はあるのだろうが、中国政府やらハリウッドの意向にねじ曲げられて不本意ながらこうなった…という風には、とてもじゃないが僕には見えないのだ。


ツッコミどころ満載な点は否めないが

 くどいようだけれども、僕は本作を素晴らしい映画だなんて言うつもりはない。
 世評もかなり本作には手厳しいようで、あちこちで辛い評価を散見できる。アメリカでもオスカー授賞式でマット・デイモンが本作をネタにからかわれていたようで、ハッキリ言ってトンデモ映画扱い。まぁ、そりゃそうだろう。
 日本でも結構叩かれているようで、これは実際のところ想定内。チャン・イーモウと言えば、大劇場でロードショー公開された「HERO/英雄」あたりで あっても、まだまだ中国のアート映画の巨匠扱い。元々はミニシアターの住人だった。だから今ならマーベル映画なんか見るような人たちではなく、あくまで芸 術の香り高い映画を見る方々、ハイレベルな映画マニアや映画サロンの住人、エスニックなアジア映画を愛好する学究の徒が見るような映画を撮る監督だった訳 だ。カンヌ、ヴェネチア、ベルリン三大映画祭で賞をもらったりしているところからして、もうすでに神棚に挙げられているような人なのである。それがモンスター映画を撮ったら、そりゃあ彼らの怒りを買うだろう。
 おまけに、それが「モンスター映画を装ったアート映画」じゃなくて、むしろガチなモンスター映画…おまけにB級臭漂うストーリー隙だらけのモンスター映画だったから運の尽き。ボロクソに叩かれてしまっても、これは致し方ないとも思えるのだ。こういう連中にすれば映画は犯すべからざる聖域なのであって、低レベルで知性の低い下賎な映画好きなどが好むモンスター映画などは許せない。一種の原理主義、純血主義に凝り固まった人々なのだ。そんな連中に向かって本作を公開するということは、それこそ血に飢えた「饕餮」の群れに「鶴軍」の美女を放つようなものだ。ズタズタに引き裂かれて当然である。
 だが、僕は本作を結構楽しんだ。僕はそっちの「下賎」な方の出身なので、むしろ本作みたいなのが好物。おまけにトンデモ映画にも耐性がある。だから、結構面白く見たんだよねぇ。
 まぁ、先にその「隙」の部分を挙げていっちゃおうか。その方が話が早いやね。
 まずはモンスター映画がけしからん…という話を出しちゃうとそこですべて終わり(笑)なので、その撮り方について。モンスターの大軍をはじめ、本作のかなりの部分でCGが多用されてしまっているのは、しょうがないと言えばしょうがない。だがそのCGが、本場ハリウッド製の割にはあまり良質とは言い難い。質感がピッカンピッカンでツルンツルンというか、作り物感がハンパない。おまけに「饕餮」の群れがデジタルのコピペに見えちゃう残念さ。レッドクリフ Part I(2008)だかレッドクリフ Part II/未来への最終決戦(2009)に出て来た軍船の大軍を空から見た場面を 連想していただければ、その「コピペ」感がお分かりいただけるかもしれない。かなりお金をかけてやっている割には、リアリティに欠けているのだ。これは ちょっと興ざめだろう。大々的に築かれた本作の主役「グレートウォール」こと長城までがピカピカのCGなので、さすがにちょっと萎えてしまう。何とか ならなかったのかねぇ。そんなCGのピッカピカ感は、舞台が終盤に首都に移ってからさらに加速。というか、首都の場面では画面のほとんどが作り物感満載なのでちょっとビックリした。まさか、予算がなくなってきちゃったんじゃあないだろうな。
 そして長城に突進して来る「饕餮」の群れが壁を這い上がろうとしてどんどん積み上がっていく演出あたりは、誰がどう見たってワールド・ウォーZ(2013)のゾンビ襲来場面のパクリだろう。特に、同作でのエルサレムの壁突破場面そのもの。既視感があるなんてもんじゃない。ホントのB級作品ならまだしも、大型予算をかけた大作映画としてはここはツッコまれるだろう。
 さらに脚本などの問題点を挙げていくと、もっとアレコレと穴が見えてくる。まずやっちゃってるのが…「饕餮」の弱点は磁石と分かっているのに、これを もっとフルに使って戦いを有利にしようとなぜ思わなかったのか?…という点。磁石が全然活かされない。やっぱりこれは最大にヘンだよなぁ。どう考えてもおかしい。
 先にも述べたように、映画の終盤になるとお話が長城から離れてしまうのも残念。これって「グレートウォール」の映画じゃないのかい。仮にそこにはこだわ らないにしても、毎回攻めてくる「饕餮」の対策に追われていつの間にか長城に穴を開けられて内側に入られてしまっていた…というのはあまりに人間が間抜け すぎるだろう。そりゃないぜセニョール。さすがにアホ過ぎで、この設定には僕もガックリ来た。何のために作ったんだよグレートウォール。
 だが、それより何より…本作のドラマ部分で最大の肝の部分が何とも弱い。それはマット・デイモンの設定である。彼は子供の頃からカネで戦って来た傭兵で あり、一種の現実主義者だ。それがリン隊長から同志への信頼で戦うことを諭され、内面が変わっていく…。それが、本作のストーリーの最重要ポイントのはず である。そのキーワードとなるのが、「信任(シンレン)」という言葉だ。
 ところが実際には、この言葉を聞いてちょっと真面目な顔になるくらいで、マット・デイモンが長城を守る兵士たちに肩入れするようになるまでの動機付けはあまりにも乏しい。なのにデイモンはこれ以外の要素も別にないまま、いきなりみんなのために無償で戦い出すのである。この点が、僕としては物凄く気になった。というのは、最近、マグニフィセント・セブン(2016)で同様の脚本の弱点を見かけたからである。本来ならここがお話の一番のうまみになるはずの部分なのに…である。これって、ハリウッドでは娯楽映画脚本の質がどんどん低下している…ということなのだろうか。
 何人かの連名でクレジットされている脚本には、ボーン・アイデンティティー(2002)にはじまる「ボーンなんちゃら」三部作ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(2016)の脚本を書いたトニー・ギルロイ、原案には「グローリー」(1989)やラストサムライ(2003)の監督であるエドワード・ズウィックなんて手練の映画人も参加している。それでこのグダグダぶりは、ただ事ではない。
 おまけにデイモンは最初からソコソコいい人っぽいので、現実主義者が変わっていく…という設定がまったく効いて来ない。これは脚本の問題かデイモンの俳優の資質のせいかは分からないが、やはり無理があると思う。
 ついでに言うと、せっかくウィレム・デフォーなんて大物を連れて来ながら、あんな使い方はもったいないだろう。ハリウッド・リメイク「ゴジラ」のジュリエット・ビノシュぐらい残念だ。まぁ、ビノシュ自身はあの手の映画がキライじゃないと僕は睨んでいるが…(笑)。
 う〜ん、これじゃダメな映画みたいじゃないか(笑)


ハリウッド映画、ジャンル映画の流儀に徹するチャン・イーモウ

 ここまで、結局僕も本作をコテンパンに言ってしまった。確かに脚本は酷いかも。
 ただ、いわゆるモンスター映画と考えれば、本作は結構イケるんだよねぇ。やはり面白いし迫力がある。アクション映画の楽しさが満載されているのだ。
 そこに独自の面白さを持ち込んでいるのもチャン・イーモウ流。槍を持ってのバンジージャンプのような、「鶴軍」女戦士のバカバカしくも美しい勇姿を見よ。ハッキリ言ってメチャクチャに効率の悪い戦い方(笑)だと思えるのだが、それでもこれはなかなか楽しい眺めではある。そして美しい。
 美しいと言えば各軍隊をそれぞれ赤・青・黄・紫・黒…と5色に分けて見せていくあ たりが、「紅いコーリャン」以来のチャン・イーモウらしい強烈な色使い。例の初のエンターテインメント作である「HERO/英雄」も、これがあったから アート映画ファンが大いに評価した。今回はこうしたチャン・イーモウ的な色彩感覚に加えて、戦闘態勢を整える全軍の様子などに多分に黒澤明「乱」(1985)の視覚的影響が感じられるように思う。そういえば、「乱」も軍勢によってクッキリ色分けをしていたっけ。
 さらにお話の後半になって、首都目指して先行している「饕餮」たちに追いつくため、何と主人公たちが気球に乗って行くというお楽しみも出て来る。これが何とも美しくて、設定としてはバカバカしいんだけど嬉しくなる。気球に乗った軍勢のうち、かなりの連中が気球が落ちてしまって犠牲になる壮大な無駄っぷりも、「中国四千年」っぽくてなかなかイイ(笑)。王妃の紋章(2006)での大虐殺場面を連想させる、人の命なんざいくらでもどうにでもなる中国ならではの風景なのだ。
 笑っちゃったのが、戦闘場面で長城の途中にすき間を作り、そこから巨大なハサミを突き出して上ってくる「饕餮」たちをジョキジョキぶった切る場面。 いや、ホントにバカ丸出しの場面を大真面目にやっている。また、先に僕が「ワールド・ウォーZ」のパクりと言った「饕餮」山積み場面も、僕はそもそも 「ワールド・ウォーZ」のアホっぽさが大好きだからキライになれない(笑)。さらにクライマックスで「饕餮」の女王を仕留める場面では、仕留めたとたんに他の「饕餮」たちも全部一斉に「吉本新喜劇」みたいにバタバタとズッコケていくんだからもう笑うしかない。これは絶対に狙ってやっているのに違いない。何かの間違いでそうなったなんて言わせない(笑)。
 考えてみると、モンスター・パニック・アクション映画に徹して描くとすれば、人間ドラマなんて要る訳がない。昔、「ジュラシック・パーク」(1993)が公開された時に「人間ドラマが乏しい」と いう批判があったが、それってチャンチャラおかしい話だ。「人間ドラマ」が乏しいのは当たり前。どこの誰が「ジュラシック・パーク」で人間ドラマを見たい と言うのだ。誰だってこの映画では、何はともあれ恐竜を見たいはずだ。だとすると、ヘタにかったるい「人間ドラマ」なんか入れるよりは、思い切ってバッサ リやっちまった方がいい。モンスター・パニック・アクション映画だって、それに徹しようというのなら人間ドラマなんてバッサリやった方が正解だろう。
 チャン・イーモウは、そうしたジャンル映画のルールに忠実だった。
 だから余計なドラマはバッサリやって、モンスターの襲来と戦いを前面に打ち出した。そう考えれば、マット・デイモンの心境の変化なんてモノがあまり描き きれてない…という点も指摘するのはヤボなのかもしれない。これはあくまでモンスター映画なのだ、しかも限りなくB級な。だからとにかく事件が次々起こ り、アクションが見せ場のつるべ打ちのように繰り出される。これはそういう映画なのだ。
 むしろ、それこそが今回チャン・イーモウのやりたかった事だったのだろう…と、ここまでの彼の軌跡を振り返れば納得がいく。彼なりのアートな手触りを残した映画を作ろうと思えば、当然、今回だって作れた。それをあえてやらなかったことが何よりの答えだ。
 残念なのは、それをもっとどこまでも徹底して出来なかったことだろうか。「信任(シンレン)」なんてキーワードを使って「人間ドラマ」の痕跡を残し ちゃったことが、かえって仇になってしまった気がする。この点とか、「キングコング/髑髏島の巨神」にも出て来たけどまったく意味がなかったジン・ティエンなんて女優さんを本作でも大々的に起用しているあたりとかは、中国側の製作主体に気兼ねしちゃってるのかな…とも思ってしまった。おそらくジン・ティエンは中国本国でゴリ押し中の女優さんなんだろうが、チャン・イーモウは彼女にまるで興味がないんじゃないだろうか。なかなか勇ましく頑張っているとは思うが、彼が発掘した歴代の女優たち…コン・リーチャン・ツィイー、「至福のとき」のドン・ジエなどと比べると、明らかに彼女に対してそこまでのノリの良さを感じない。これは…というヒロインを見出だした時の、いつもの「やりたい!」と渇望するスケベな目線(笑)が感じられないのである。
 映画の幕切れは、アッケラカンと明るいエンディング。ジャッキー・チェンの近作ドラゴン・ブレイド(2014)にも共通するような、「少年ジャンプ」めいた「友情・努力・勝利」みたいなハッピー・エンディングだ。イマドキ、本家ハリウッドでもなかなかお目にかかれないような、スコーンと抜けた明るい結末だ。間違いなく、チャン・イーモウは「純正ハリウッド映画」を撮ろうとしているのである。でなければ、こうはならない。あくまで、ハリウッドに強いられてこう撮ったのではないだろう。
 それは、チャン・イーモウに真剣にハリウッド映画界の流儀でやっていこうという意志があったからではないか。
 三大映画祭を制し、地位も名声も得て、本国中国では並ぶ者のないポジションを得た。そんな彼がそれまで得たモノをかなぐり捨ててまで、「人間ドラマ」も浅く商業性ばかりを追求したかのように見える本作を撮るとは普通は思えない。映画の世界におけるモンスター映画自体の評価の低さを 考えた時、彼のような大物がそこまでする意味が理解できない。わざわざ、自分の評価にキズがつくかもしれないリスクを負う必要はない。今後も無難な作品さ え発表し続けていれば、世界の映画サロンのファンたちが「笑点」の大喜利みたいに「うまいねぇ」とか「キレイだねぇ」などと無条件でホメ続けてくれたに違 いない。偉そうにしていようと思えば、ずっとそのままでいられたはずの人物なのである。「自分なりの付加価値を与える」とか、「もっと高級に描く」とか、 そういう余計なことをせずにモンスター映画に徹するというなら、むしろそこにはチャン・イーモウの強い意志があると考えるべきではないか。
 そういえば、マット・デイモンを主役に据えたことに対して本作に「白人至上主義」だという批判も起きたらしい。しかし、こんなナンセンスな話もない。じゃあ、「ウエスト・ミーツ・イースト」的なお話を作ってはダメなのか? そもそも、一体どれほどの一般アメリカ観客が欧米スター主演でなくて本作を見るというのだろう。「ポリティカル・コレクトネス」だか何だか知らないが、これほどの偽善はないではないか。
 逆に言えば、それはチャン・イーモウが本作をどうしてもアメリカの「一般観客」に届かせたかった…ということも意味しているのではないか。西欧人を主人公にすることで、観客が感情移入しやすいようにしたのだろう。これは、あくまでアメリカ、ハリウッド映画だからだ。
 では、なぜアメリカに渡ってアメリカ人の話を撮らなかったのか…といえば、それはやはりチェン・カイコーの「キリング・ミー・ソフトリー」での挫折を見ているからだろう。まだ不慣れで試運転段階である第1作は、 あくまで中国をベースにして撮らねばうまくいかないと思ったのではないか。つまり、絶対にうまくいかせたかった。1作に終わらせずに出来れば続けていきた いからこそ、慎重に見計らっていたのではないか。その用意周到な配慮から見ても、チャン・イーモウのハリウッド進出は「本気」なのである。
 実際には、残念ながら本作はアメリカで興行的に失敗したと聞いている。そうなると、チャン・イーモウのハリウッドでの今後の継続的な映画製作はいささか難しくなったと言わざるを得ない。それでも本作は、以前の成功作「HERO/英雄」あたりと比べて単純な観客数では遥かに上回っているのではないか。だとしたら、チャン・イーモウの目論みはある程度は正しかったのかもしれない。より広く多い観客に届かせることには、とりあえず成功しているのである。さすがに本作はカネがかかり過ぎているのだ。そのへんは、「御用達」映画を作り過ぎた弊害だろう。
 そして、チャン・イーモウにそこまでして純正モンスター映画、純正娯楽映画、純正ハリウッド映画を撮らせたモノ、彼をそこまで思い詰めさせたものは、一体何なのか?…という点を、改めてどうしても考えざるを得ない。その理由は、彼の生い立ちからここまでのフィルモグラフィーを辿れば、ある程度見えてくるのではないだろうか。
 それはともかく、同じアジアの著名監督でモンスター映画やSF映画を撮った人物としては韓国のポン・ジュノがすぐに頭に浮かぶが、そのポン・ジュノのグエムル/漢江の怪物(2006)がもっともらしく出来てはいるが変な作家的エゴをチラつかせていたり、スノーピアサー(2013)が立派そうに描こうとして却ってB級映画的安易な結末を迎えたり…と往生際の悪さを見せていることを考えると、本作でのチャン・イーモウの思い切りの良さ(多少のヌルさは見受けられるものの)はかなり際立って見えてくる。変にカッコつけずにストレートにバカ映画を作っている点に、好感が持てるのだ。
 その点にこそ、僕は個人的に大いに声援を送りたいのである。



 

 

 

 to : Review 2017

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME