「ジャッキー/ファーストレディ最後の使命」

  Jackie

 (2017/04/24)



見る前の予想

 「ジャッキー」…もちろん、あのジャッキーである。その後、オナシスの夫人にもなった、ジャクリーン・ケネディその人だ。
 本作の存在は、劇場に置いてあるチラシで知った。ケネディの若き未亡人ジャクリーンを、ナタリー・ポートマンが演じるという好企画である。なるほど、ちょっとこれは見てみたい。しかも、これはブラック・スワン(2010)以来再びポートマンとダーレン・アロノフスキーが組む映画ではないか。こうなると、俄然見てみたくなる。
 そもそも僕は、1960年代のファッションや世の中全般が好きで関心がある。たぶん、それらを眺めているだけで退屈しないはず。パークランド/ケネディ暗殺、真実の4日間(2013)も、それで大いに楽しめた。
 ひとつだけ不安材料があるとすれば、アロノフスキーは監督でなく、今回プロデューサーでしかないということだろうか。彼が監督を勤めているわけではないとすると、品質保証とまではいかないからである。

あらすじ

 寒々とした庭で佇む一人の女…それは、ケネディ亡き後、ホワイトハウスを引き払っていたジャクリーン(ナタリー・ポートマン)である。
 1963年11月にダラスで起こった「あの出来事」は、今でも彼女の中に強烈なトラウマとして残っていた。「あれ」が起きて、夫ケネディ(キャスパー・ フィリップソン)とジャクリーンを乗せたオープンカーが全速力でその場を走り去って行く記憶。血まみれの夫を膝の上に抱えて、呆然とするジャクリーン。そ の時から、彼女の中で何かが変わってしまったのか…。
 その後、ホワイトハウスを離れて郊外の屋敷に移ったジャクリーンの元に、ある人物がやって来る。それは、彼女のインタビュー記事を書くために訪れた記者(ビリー・クラダップ)だった。
 その記者に開口一番、原稿をチェックさせるように要求するジャクリーン。「それは出来かねる」…と口にしたものの、ジャクリーンの一歩も退かない様子に 観念する記者。のっけから彼は、インタビューの相手が単なる悲しみに暮れる未亡人ではなく、予想外に手強い相手であることを実感した。
 それは手強くもなる、手強くならざるを得ない。
 史上最年少で大統領になったケネディの妻ジャクリーンは、自らも若くしてファーストレディの重責を担わなくてはならなかったのだ。手強くなるのも無理はない。
 そんなジャクリーンは、決してお飾りの存在には甘んじていなかった。ホワイトハウス入りするやすぐに、ホワイトハウスの大改修に着手。その成果を披露す べく、初めてホワイトハウス内にテレビカメラを持ち込んで公開。そのテレビによるホワイトハウス・ツアーのホステス役を、秘書ナンシー・タッカーマン(グ レタ・ガーウィグ)の力を借りながらも堂々と演じきったのである。
 だがそんな素晴らしき日々も、恐ろしい出来事によっていきなり幕を降ろすことになってしまうのだが…。
 ジャクリーンは記者に対して「あの出来事」について言及するや、たちまち激しい感情に襲われ始める。口走る生々しい言葉の数々は、「それ」が彼女の中で いまだ「過去」になっていないことを如実に現していた。だが、ジャクリーンが冷静さを欠いていたのもつかの間。記者にとって最もオイシイそれらの言葉を、 「今のはオフレコ」とピシャッと拒絶する。どうやらジャクリーンには、夫と自分、そしてあの「素晴らしき日々」について、語られるべき確固たるイメージが あるようだ…。
 ダラスでの「あの出来事」の直後、さすがに呆然としていたジャクリーンを義弟のロバート・ケネディ(ピーター・サースガード)が何かと支えてくれた。だ が、それでも現実というものは非情である。ダラスから引き揚げる大統領専用機の中で、早くも副大統領リンドン・ジョンソン(ジョン・キャロル・リンチ)の 大統領就任宣誓が行われてしまう。人々はもはや、「ケネディ後」のことで頭が一杯だ。そんな周囲を見ながら、ジャクリーンは激しい違和感を覚えずにはいら れない。
 ジャクリーンはふと、周囲の人間にある質問を投げかけた。暗殺された大統領といえばリンカーンの他に二人いるが、その名前を知っているか?…と。だが、その質問に答えられる者はいなかった。誰もがリンカーンしか覚えていない…。
 その時にジャクリーンは決意した。夫の葬儀を、リンカーンのそれと同じくらい壮大なものにすることを…。


見た後での感想

 見始めてしばらくして、妙な気分になって来た。
 誤解を恐れずに言わせていただくと、非常に不快なのである。それは映画が始まってすぐ、まだ画面が真っ暗な段階からいきなり大音響で流れた、ストリングスによる不安をかき立てるような不協和音のせいだろうか。映画を見始めてすぐの段階で、いきなり気分がどんよりしてしまった。
 ジャクリーンが登場しても、まったく気分は晴れない。ケネディ暗殺からまだ日も浅い設定だから無理もない…と考えてはいたものの、何となく「ささくれ立ったようなモノ」を感じさせるナタリー・ポートマンの演技。最初から記者に「記事をチェックさせろ」「オフレコ」などと高圧的な言動を連発するのも、ハッキリ言って好印象とはいいかねる。開巻まもなくの不協和音からグッと下がってしまった気分が、ますます冷え込んでいく。
 ぶっちゃけ言うと、その後も見ている側の気分が盛り上がる瞬間はやって来ない。いつまで経っても、どんより気分が抜けないのだった。

本作の構成そのものに対する疑問

 さすがに僕も、最初から本作に対して「ダラスの熱い日」(1973)や「JFK」(1991)などのように「ケネディ暗殺の真相に迫る!」的な興味を期待してはいなかった。
 「大統領の執事の涙
(2013)や「パークランド/ケネディ暗殺、真実の4日間」に描かれていたような、その時の「空気」みたいなモノが描かれるんじゃないかと想像していた。あるいはもっと広い意味で、1960年代のアメリカ…的な気分を再現してくれるんじゃないかと思っていた。それだけでもやってくれれば…冒頭にも述べたように、1960年代ファンの僕としては大いに堪能できたんじゃないかと思う。
 こういう言い方をしていることからもお察しのように、本作はその期待にあまり応えてはくれない。実際に映画としては、衣装や小道具、ヘアやメイク、その他諸々の要素で時代考証をバッチリとやっているようだし、それらを「売り」にもしている。だが、見ている僕にはそれらがさほど伝わって来なかった。
 …というか、本来ならばかなりスケールが大きい話になるはずが、何だか見た印象はチマッとしている。 どうも本作はジャクリーンその人にかなりフォーカスした内容となっているので、時代や社会、その空気感…みたいなものが伝わって来なかったのではないか。 いや、もちろん本作は「ジャッキー」というタイトルを持っているのだから、ジャクリーンにフォーカスするのは間違ってはいない。だが、その度合いがかなり極端だったという気がしてならない。もっと正確に言うと、「ジャクリーンを演じるナタリー・ポートマン」にフォーカスしている映画という印象なのである。
 そもそも、この題材でケネディがあまりにも印象薄いのが奇妙だ。映 画全編を通して見ても、ケネディが写っているショット、話しているセリフそのものが極端に少ない。死体になって顔が見えない状態の場面すら、多いとは言え ないのだ。日本のファーストレディが「私人」か「公人」かということが騒がれている昨今(笑)ではあるが、さすがにジャクリーンのことはケネディ抜きには 語れないだろう。まず、この構成そのものがおかしいのではないか。
 やがてジャクリーンへの取材…というカタチで「ケネディ暗殺」後の彼女が語られていくのだが、先ほども述べたようにジャクリーンその人の描き方に疑問が 生じて来る。あんなことがあったのだから、多少発言に難があっても仕方がない…ぐらいは観客だって考える。だが、そんな彼女の言動はその後も一向に改善し ない。違和感があるままだ。
 しかも、最も疑問に感じる点はジャクリーンその人にあった。その「話し方」が問題なのである。


 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 


どう見ても計算違いが生じている映画

 それは正確に言うと、ジャクリーンを演じているナタリー・ポートマンのセリフ回し…というべきだろうか。特にセリフの違和感は、全編の中でも特に彼女がホワイトハウスを公開したテレビ中継に出演する場面で顕著である。
 おそらく実際の映像が残されているからだろうか、そこでのジャクリーン=ポートマンのしゃべり方は非常に特徴的だ。ハッキリ言うと、妙に間延びして変な抑揚のある話し方なのである。これはおそらくジャクリーン本人のしゃべり方を忠実に再現したものなのだろうが、聞いていてすこぶる不安になる。何となく…こんな事を言っては大変物議を醸しそうな気もするのだが、まるで脳に何らかのダメージを受けた人か麻酔が効いている人みたいな、トロ〜ンとしたしゃべり方に聞こえるのだ。
 最初は「ケネディ暗殺」のショックでそんな感じになっているのかな…と思いながら、それが最も顕著なのは前述のテレビ中継場面…ということは、元々この人はこういうしゃべり方だったのだろう。だが、それがちょっとやり過ぎだったのではないだろうかという気がする。おそらくナタリー・ポートマンの演技はかなりジャクリーンその人になりきったもので、本人を知っている人からは絶賛モノの演技なのだろうが、それが「似せ過ぎている」のが原因ではないか。
 うまく言えなくて申し訳ないのだが、例えば芸人の「モノマネ」の場合、実物をかなりデフォルメして特徴を際立たせて笑いをとるのが常である。逆に言う と、そこまで特徴を際立たせないと第三者にとっては「似ている」と認知しにくい。ナタリー・ポートマンは、それをやってしまったのではないかという気がす る。モノマネと演技は違うのである。オスカー女優をつかまえてこんな言い方は大変失礼と思うものの、おそらくこれは彼女の計算違いだったかと思う。
 そして運が悪いことに、脚本も計算違いをしてしまった。先ほど述べたように、ジャクリーンにフォーカスしたいがためにケネディを軽視し過ぎた。この話はケネディがキモなのだから、彼の魅力なりジャクリーンとの関係なりをキッチリ描かなければダメだろう。さらに、時代の空気感も捉え損なった。それらが描かれなかったから、作品の世界観も狭くなってしまった
 おまけにお話としては、単に葬儀を盛大にやるというだけの話なのである。それも、直前になって「盛大にやる」「やっぱりやめる」「やっぱり盛大にやる」…を繰り返すハタ迷惑でアホな話。実際にもそうだったんだろうが、もうちょっと描き方があったのではないだろうか。
 夫の暗殺後に周囲が勝手に動き出して本人が疎外感を感じるくだりなど、観客の共感を得られるはずの要素はいろいろあったのだから、何とかうまく描くことはできたはずだ。しかも、それをボンヤリとしてちょっと「アレ」なしゃべり方のナタリー・ポートマンが演じるから、「この人ちょっとおかしいんじゃないのか?」と見ていて不安になって来る。不安を通り越して「不快」にすらなってくるのだ。
 いや、ひょっとして冒頭のあの不協和音からして、作り手はむしろ「そっち」を狙っていたのだろうか?
 あるいは、大統領夫人としての「虚栄心」や「妄執」を描こうとしていたのだろうか。ポートマンとアロノフスキーの組み合わせなのだから、発想として「ブラック・スワン」的なニュアンスがあってもおかしくはない。ジャクリーンの「悲劇のファーストレディ」という対外イメージに隠された、そのダークサイドに踏み込もうとした企画だったと考えれば、ここまでの違和感・不快感も理解できないでもない。監督として社会派作品「NO」(2012)のパブロ・ララインをわざわざチリから連れて来たというのも、どうもそういう感じがしてくるのだ。だとすると、不快感すら伴うポートマンのやり過ぎ「そっくりショー」も計算通りということになる訳なのだが、果たしてそうなのか。
 だが、それにしてはヤケに踏み込み方が甘い。シークレット・サービ スなどをモノモノしく従え、ジャクリーンがお忍びで神父(これが遺作のジョン・ハート!)に会いに行ったとき、「何で神は夫を殺したのか?」などと小学生 みたいに凡庸な発言をする場面が出てくると、観客としては見ていて「???」という気分になってくる。総じて神父との対話の内容は、その「いかにもお忍 び」という感じの大袈裟な構えとは裏腹に大した話ではない。
 壮大な葬儀も実は「誰かに自分を暗殺させたい」という願望によるものだった…というホンネがチラリと出て来るのはちょっと面白いが、結果的に面白いのは「それだけ」。あくまで、ちょっと面白い程度「だけ」なのである。
 あとは先にも述べたように結局は「葬儀を盛大にやるというだけの話」でしかない。作り手の狙いがジャクリーンの「ダークサイド」にあったとしても、映画としての踏み込みは決定的に浅いと言わざるを得ない。
 99分というコンパクトな映画なのに、やけに間延びして中身が薄く感じられるというのは、やっぱりヘタクソな映画なのだろう。これほど面白くなりそうな題材なのにこれほど不毛とは、まことに残念な映画なのである。



 

 

 

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