「ラ・ラ・ランド」

  La La Land

 (2017/04/03)



見る前の予想

 いろいろと問題の、「ララランド」である(笑)。
 最初本作のタイトルを知った時から、いきなり「アカデミー賞大本命」。だから当然取るんだろうな…と思っていて、まさか最後の最後にうっちゃりをくらわされるとは夢にも思わなかった。
 まぁ、それはともかく…本作が何でかくも最初から「大本命」扱いされて、かくもハリウッドから愛されているのかについては、すぐに想像がついた。だって、「ラ・ラ・ランド」ですぜ。「ラララ科学の子〜」でも「ラララむじんくん」でもない、こりゃズバリ「L. A.」のことを言っているロサンゼルス讃歌でしょう? そりゃ好かれるわ。
 そして、予告編などを見る限りでは、おそらく古典的ミュージカルの世界を 再現しているに違いない。そもそも、イマドキはミュージカルも西部劇並みに絶滅状態。ここで一発ミュージカルを…ディズニーみたいにアニメ絡みでではな く…堂々と作るという時点で珍しい企画だ。おまけにそれがどうやら、主人公たちの衣装やらセット、背景の色使いなどから「新感覚ミュージカル」や「今風 ミュージカル」的な方法論ではないのも予告編の画面から伺える。いわゆる「テクニカラー」的な総天然色風の色合いなのである。これは明らかに、往年のMGMミュージカルとかそのへんを狙っているのは明らかだろう。
 ただ、そうなると…どっちかというとリアリズムとシリアスさが幅を利かせる近年のアカデミー賞の傾向とは、ちょっと異なっているような気もする。実際に は作品賞をミスってしまったとはいえ大本命であったことは間違いないし、それなりにいくつかの部門を授賞している本作。だが、単なる古典的世界の再現で は、イマドキの映画としての必然性は乏しいんじゃないだろうか。
 では、なぜ、かくも本作が高く評価されたのか? 正直言って日本で見ているこちらとしては、ピンと来ないのである。
 そんな訳で、イマイチ劇場に足が向かなかった僕だが、ある日たまたま時間が出来て、その時間だと見れる作品が本作しかなかった。そこで、慌てて劇場に飛び込んだというのが本当のところである。

あらすじ

 場所はロサンゼルス。時は春である。
 渋滞するハイウェイで数珠つなぎになっているクルマの一台一台から、それぞれの音楽が流れて来る。クルマでイライラしている彼ら一人ひとりが、みなロサンゼルス界隈で野心を持って切磋琢磨している人々。その大半は、言わずと知れた芸能の世界で一旗揚げようという連中だ。
 そのうちのひとり、女優の卵であるミア(エマ・ストーン)は、クルマの中でもオーディションのためのセリフ覚えに余念がない。だがその意欲余って、クル マが流れ出してもセリフ覚えを続けたまま。後ろのクルマにいたジャズ・ピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)に激しくクラクションを鳴らされ たあげく追い越され、思わず中指おっ立ててキレるミア。他のスターを目指す人々と同様、向こうっ気の強さだけは人一倍の彼女だった。
 そんなミアは映画会社そばのコーヒーショップで働いていて、時々訪れるスターたちを見ながらウットリ。だがオーディションに出かけようとして、慌てて客 の持つコーヒーを真っ正面から浴びてしまうという失態。当のオーディションでは何とか上着を着てカバーしたものの、面接する側がまったく彼女を気にも留め ていないアリサマ。期待するスター街道も、道中先は長そうだ。
 落ち込むミアが自宅に戻ると、自分と同じ境遇のルームメイト3人からハリウッドのパーティーに出かけようとお誘い。最初は気乗りしなかった彼女だが、ここは気晴らしとバカ騒ぎのパーティーへと繰り出した。
 だが、特に「いいこと」もなくパーティーからは退散。おまけに、クルマがレッカー移動されてなくなっていた。ツイてない時はこんなもの。ミアはウンザリしながら、トボトボと夜のロサンゼルスを歩く羽目になる。
 ところが街角のバーから、何とも心に残るピアノの音色が聞こえてくるではないか。ミアはその音色に誘われて、店の中へと吸い込まれるように入っていくが…。
 一方、昼間の渋滞から抜け出したセバスチャンは、決して恵まれた状況にはいなかった。帰宅するとアパートには姉がやって来て、やれ女とつき合えだの定職 に就けだのうるさく言って来る。セバスチャンは大好きなジャズを聞かせる本格的ジャズクラブの再興を夢見ているが、すでに一回それでダマされて大金を失っ ていた。あくまで理想と志は高いが、少々浮世離れした残念な男でもあったのだ。
 とりあえず、かつてピアニストとして働いていたバーに戻って、改めて店長(J・K・シモンズ)に雇ってもらうセバスチャン。前は自分の弾きたい曲を弾い てこの店長と対立し、辞めざるを得なくなっていた。だが、今夜はクリスマス。今回は心を入れ替える…と誓って仕事にありつく。
 だがそう言ってはみたものの、趣味じゃないクリスマス・ソングばかり弾かされて気持ちがふさぐセバスチャン。結局、我慢しきれずに自作の曲を思う存分弾 き始めた彼だったが、当然のことながら店長のご機嫌を損ねた。速攻でクビを言い渡されたセバスチャンは、自業自得とは言え憮然とせざるを得ない。そんな折 りもおり、ちょうどセバスチャンの曲に惹かれて入って来たのが例のミアだった。怒り心頭でピアノから離れるセバスチャンに、そうとは知らずに近づいていく ミア。
 「あなたの演奏は…」
 ミアは賛辞の言葉をかけようとしたが、セバスチャンにはもはや気持ちの余裕がない。彼はそんなミアを突き飛ばして、店の外へと去っていくのだった…。
 そして、時は夏。ハリウッドのパーティーも、プールでの乱痴気騒ぎが中心だ。そこにたまたま、あのミアも参加していた。そんな彼女がふとプールサイドで軽いポップスを演奏しているバンドに目を留めると…。
 何とあのセバスチャンが、何とも「らしくない」ミーハーな恰好で演奏しているではないか。
 その姿を見かけたミアは、このバンドにこれまた「軽〜いポップス」をリクエスト。当然、以前につれない態度をしたセバスチャンをからかってのことだった が、やりたくもない曲をやらされるセバスチャンは終始憮然。演奏の後でミアに噛み付いて、「あんな曲をオレにやらせるなんて失礼だ」と抗議をする。
 そんな大人げないセバスチャンに、大いに溜飲を下げるミアだったが…。


見た後での感想

 巻頭、画面一杯に広がるのは昔懐かしい「シネマスコープ」ロゴである。
 20世紀フォックスの登録商標である「シネマスコープ」は、アナモフィックレンズを使ったワイドスクリーン映画の一商標に過ぎない。だから、別に本作を 「シネマスコープ」作品とわざわざ銘打つ必要はない。にも関わらず、イマドキはスッカリ聞かなくなった「シネマスコープ」という言葉をロゴまで使って巻頭 に大々的に打ち出したのは、何らかの意図があったと考えるべきだろう。つまりは、本作は懐かし路線でいく、古典的な正統派ミュージカルでいく…という「宣言」である。
 続いては、いきなり渋滞中のハイウェイでの集団による歌と踊りが始まる。本作の設定は現代であり、人工的な設定などもないロサンゼルスの日常が舞台だ。正直言ってリアリズムが基調となっている現代の映画で、かつてのような本格的ミュージカルを制作するのは極めて難しい。現実世界で歌って踊るなんてことはないんだから。ミュージカルというジャンルが絶滅状態になったのも、それが大きな理由だろう。
 しかも、かつてのミュージカル映画のような音楽を現代の映画で実現するのは、普通で考えるとかなり違和感がある。かといって、安易にロック・ミュージカル風にでもやってみたら、かつての本格ミュージカルの味は出まい。ミュージカル再興を今日の映画で実行するのは、結構、無理難題な案件なのである。
 そんなアレコレをどうカバーするのかと思っていたら、カーラジオやカーステレオからポップスやヒップホップなど多彩なジャンルの音楽を、カメラの移動に 合わせてザッピングのように聞かせていく…。そこから、いわゆるミュージカル・ナンバーへと移行していくという力業に出た。
 さらに…いざミュージカル・ナンバーが始まったら、クルマから飛び出して来た人々の衣装が「総天然色」風にカラフルで、おまけに晴天のロサンゼルスの空 は色を塗ったかのように青空だ。かつてのスタジオ撮影とは異なり野外でのロケーションというリアリズム基調の映像のはずなのに、視覚的にはテクニカラー風 なかつてのそれを踏襲している…という絶妙ぶり。しかもロケーションだから、ハイウェイを交通止めしてのスペクタクル撮影がかなり壮観である。これはかつ てのミュージカル映画ではなかなか見られないスケール感だ。こうして現在の映画としての性質とは矛盾しないカタチで、絵も音も一気に本格派ミュージカル風に変換しているのである。これはうまいことやったなぁ…と、僕は大いに感心した。
 監督のデイミアン・チャゼルの前作「セッション」(2015) はあいにくと未見なので作家的傾向云々は分からないが、音楽に強い…少なくとも本人は音楽に関心があって、得意だと思っていることは見てとれる。ともかく このミュージカル的世界への導入の巧みさ…しかも、それを現在の映画の基本であるリアリズム的な視覚表現からスムースにスライドさせてしまったあたりに、 この監督の非凡さが伺える。
 ただしそれと同時に、ちょっとした危うさも同時に感じた。視覚的、音楽的には新旧の融合を見事に果たしたチャゼル監督だが、そこで歌われている内容は…ハリウッドでの成功だの、夢を追いかけてみんな頑張っているだの…相も変わらぬ過去のミュージカル風。十年一日のごとし。まぁ、それしかないっちゃないのだが、そのメッセージのあまりの代わり映えのなさにちょっと驚いたのは確か。そこに僕は一抹の不安を覚えたのだ。
 視覚・聴覚ではガッチリと本格派ミュージカルの再生産を実現できそうなチャゼルだが、ひょっとしたらそのウィーク・ポイントは脚本ではないだろうか…?


ミュージカル場面における視覚的な秘密

 一時は絶滅した本格ミュージカルの再現…という発想は、今までも何人かの映画人が試みて来たような気がする。中でも大胆不敵かつ無謀だったのは、フランシス・コッポラ「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)ではないだろうか。
 自ら最新技術を取り込んだスタジオを建設、そこでセット撮影のみで制作するという実験的な作品。確かにかつての黄金期のミュージカル映画は、ほとんどスタジオ内で撮影されたものだった。だから今風にエレクトロニクスや特殊技術を使いながら、古典的スタジオ撮影を踏襲しようという試みだ。正直言って、ロケで辛酸を舐め尽くされた「地獄の黙示録」(1979)での経験を踏まえての、オール・スタジオ撮影だったのかもしれないが…。
 ただ、その結果は無惨な失敗に終わった
 興行的な失敗だけではない。酷な言い方だが、作品的にも厳しかった。僕はこの作品、決してキライじゃないが、ぶっちゃけ成功作とは思えなかったのだ。
 かつてのシネ・ミュージカルの雰囲気を再現しつつイマドキの映画にする…という発想を、コッポラは「かつてのシネ・ミュージカル」=オール・スタジオ撮 影、「イマドキの映画」=エレクトロニクス技術の駆使…というかたちで具体化しようとした。だが、どうもそれが間違っていたのではないか。
 本作「ラ・ラ・ランド」を見て僕が感じたのは、この「ワン・フロム・ザ・ハート」のリターン・マッチ…というか、その問題点を洗い直した上での再挑戦…みたいなイメージだった。その象徴的なシーンが、映画冒頭のハイウェイでの場面だと思う。
 先にも語ったように、ハイウェイを交通止めにしての大掛かりなロケーション撮影。それは、まさにイマドキの映画の作り方である(もっとイマドキでやれば CGということもあるが、それをやると「ワン・フロム・ザ・ハート」の二の舞だろう)。正確に言うと、単に野外にカメラを置いた…というだけでなく、基本 的にリアリズム基調の映画づくりということになるかもしれない。
 だがそれは、例えば公開当時はミュージカルにリアリズムを吹き込んで絶賛されたと聞く「ウエスト・サイド物語」(1961)のようなモノとは微妙に違う。本作では先に述べたように、ロケーション撮影しながらも衣装やクルマなどの色彩を出来る限り「原色」でコントロールして、スタジオ撮影に近い視覚的効果を作り出した。こうして「かつてのシネ・ミュージカル」と「イマドキの映画」をブレンドした映像を実現したのだ。
 この場合、ポイントとなったのは「空」だ。
 実際の空の下で撮影するというリアリズム的撮影ながら、空の色が原色の「青」であることをうまく利用して「総天然色」的な視覚を獲得している。それによって、映像のすべてをコントロールできたスタジオ撮影的画面を作り出しているのである。
 実際、本作で見事なミュージカル場面となっている箇所は、「空」がポイントになっている場面が多い。本作のポスター・ビジュアルにもなっている、夕暮れ時のロサンゼルス夜景を見下ろす場所でのダンス場面が一番分かりやすい例だ。
 夕暮れ時で暗くなっているから、主人公たちや間近な場所はライティングされている。これによってロケでもスタジオ的な視覚要素を獲得できた。そして彼らの背景は、夕暮れ時のいわゆる「マジック・アワー」と 言われる微妙な色合いの空。これをロケの実写で捉えることで微妙なニュアンスが出る一方、スタジオのホリゾントみたいな効果も出ているあたりがクセモノ だ。ここでも、ロケでスタジオ撮影的な効果を出す、「かつてのシネ・ミュージカル」と「イマドキの映画」のブレンドを実現しているのだ。本作では他にも空 が「マジック・アワー」だった桟橋でのミュージカル場面があることから見て、これは意識的に行われていたことが分かる。
 あるいは、プラネタリウム内で二人が空中に浮かんでの場面。こちらは室内場面だからスタジオと同様だということもあるが、背景が人工の(プラネタリウムの)空である…という点がミソなのである。
 空を何とかすれば、映像をスタジオ内でコントロールしたかつてのミュージカル映画を再現しつつ、イマドキの映画のリアリズム映像も実現できる…デイミアン・チャゼルがこれに気づいた時、彼は100パーセントの勝利を確信したのではないか。これは「マトリックス」(1999)で主人公たちにサングラスをかけさせることで、CGで作った人間が不自然に見えなくすることを可能にしたのと同様、非常に卓抜したアイディアなのである。
 そしてその根底に、僕は「ワン・フロム・ザ・ハート」の失敗があったのではないかと思っている。デイミアン・チャゼルはコッポラの失敗原因を分析して、その要素を裏返しにしたらうまくいったのではないか…と思うのだ。これは、我ながらいい線を突いているのではないかと思うのだが、いかがだろうか。



 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 


本作に潜む致命的な欠陥

 ならば本作「ラ・ラ・ランド」は、作品として磐石の出来映えと言えるのだろうか。
 これについては現にオスカー授賞レースでかなりの強さを見せた訳だし、映画自体ヒットして批評家のウケもいい。だから、確かにある程度成功を収めているのは確かだろう。だが僕は本作を見ていて、ますは2つの要素で批判される可能性があるな…と思ってはいた。
 それはまず…本作の「存在意義」とでも言うべき部分で、先に散々僕が語った「かつてのシネ・ミュージカルの復活」…という要素。そして、主人公二人のうちセバスチャンが愛する「ジャズ」という要素。この2つは、口うるさい人々からは批判されがちな点だろうと思った。
 そのうち「かつてのシネ・ミュージカルの復活」については、先ほどあれほど僕がアレコレと例を挙げて本作の「美点」として挙げていたのに…と、不審に思 われる方も少なくないだろう。だが僕は本作を「なかなかうまくやったな」と思ったが、映画に詳しい人々からは必ずしもそうは思われない可能性があるとも 思っていた。
 例えば、その手の古典的ミュージカル映画を愛好する人々からすれば、エマ・ストーンやライアン・ゴズリングの歌や踊りを見て、「フレッド・アステアとジ ンジャー・ロジャースだったらこんなもんじゃない」とか「ジーン・ケリーはもっとスゴかった」とかいう文句が絶対出て来る。正直言ってこういう不満は、死 んだアステアたちをゾンビにして甦らせない限りは解消されない。だが、こういう古典ミュージカル映画を「知っている」と自認する人々は間違いなくこの手の 文句を言ってくるだろうし、こういう人たちにそう言われれば反論は難しい。
 かくいう僕も散々偉そうなことを書いては来たが、黄金期のMGMミュージカルなど代表的作品のいくつかをテレビかビデオで見ただけで、劇場のスクリーンで見たのは「ザッツ・エンタテインメント」三部作(1974〜1994)ぐらいというのが正直なところ。年齢的にとてもじゃないが、リアルタイムの劇場体験として見ている訳もない。だから、「アステアほどじゃない」などと言われればグウの音も出ないのだ。
 だから劇中で雨に唄えば(1952)や「巴里のアメリカ人」(1951)のオマージュ場面が出てくれば、僕などは微笑ましく感じるけれども…こういう皆さんはたちまち気に入らなくなるかもしれない。「通」というものは実に厄介なものなのだ。
 ただこれについては、あくまで「今の映画としてかつてのミュージカル映画を再現する」という志に免じて勘弁してくれよ…という気持ちがする。「アステアじゃないと…」なんて死んだ子供の歳を数えるようなマネをされても、正直困ってしまうのだ。それは例えば、パシフィック・リム(2013)をつかまえて「日本の怪獣映画とは違う」と文句ばかり言う特撮映画オタクみたいな鬱陶しさ(笑)だ。第一、それを言うのはヤボってもんじゃないの? 僕自身の意見を言わせてもらえば、本作はかなり健闘している方じゃないかと思うのである。
 問題は、もうひとつの要素…「ジャズ」だ。
 「ジャズ」もまたウンチクがある音楽ジャンルであり、一癖も二癖もある愛好家がウジャウジャいる。正直言って、どうしてこんな厄介なモノを本作に持ち込んだのかな…と、僕も本作を見る前からちょっと思っていた。案の定、映画本編を見てみたら、この「ジャズ」が本作のウィーク・ポイントになりかねない感じが濃厚なのだ。
 ぶっちゃけ僕は、ジャズにはまったく詳しくない。その度合いは、先に述べた「古典的ミュージカル映画」の比ではない。まったく分かっていないと言ってい い。だからこの点については、僕は何も語る資格がない。だがその資格がない僕でさえもが、ちょっとこの映画での「ジャズ」の扱いは危ういな…と思わされる ような描き方なのである。
 その最たるところが、ジャズをまったく解さないミアをセバスチャンがジャズ・クラブに誘うくだりだろう。ジャズの生演奏を彼女に見せながら、セバスチャ ンがジャズ論を一方的に語りまくる。そのジャズ論とやらが、ジャズに無知な僕でさえもが「???」と思わされる内容なのだ。当然のことながら、具体的にそ れが正しいか否かは僕には分からない。しかしセバスチャンが語っている内容が、いささか偏狭で極論に過ぎるしかも少々ズレている…ってことぐらいは何となく察しがつく。その少々危なっかしい半可通な物言いに、見ているこっちとしては「本当にそう言い切っちゃっていいのかよ?」と思ってしまうのだ。
 そもそも、何で本作でジャズなんかを深入りして語っちゃったんだよ…と僕などは思う。ジャズ・ファンにはそれでなくても「うるさ方」が揃っているのだ。ある意味では、日本の特撮映画ファンよりタチが悪い(笑)。やめときゃいいのに…。
 ただ本作で「ジャズ」に触れた理由は、何となく分かる気がする。それは何度も言うように、本作が「古典的ミュージカル映画」の再生を目指しているからだ。
 冒頭のハイウェイでのミュージカル場面を見れば分かるように、古典的なミュージカル映画は「今風の音楽」では作れない。ロックやヒップホップじゃダメな のだ。本作ではイントロにカーラジオからの音楽としてさまざまなジャンルの音楽をチラチラと聞かせた上で、いわゆる古典的ミュージカルの楽曲へと誘導して いくカタチをとっている。そういう面倒くさい手続きが、イマドキの映画で「古典的ミュージカル映画」を再生するには必要なのだ。古典的ミュージカルにおける楽曲のスタイルは、イマドキの音楽とはかなりの隔たりがあるからである。
 だが、ミュージカル場面のたびにこんな手続きを踏んでいる訳にはいかない。冒頭のハイウェイでの場面で「本作ではこういう風にミュージカル場面を描きま すよ」という約束事が作り手と観客の間に出来上がっているものの、これだけでは作り手としては不安だったのだろう。主人公のひとりセバスチャンをイマドキとしてはオールドファッションな音楽と見なされがちな「ジャズ」の愛好家と設定して、本編にオールドファッションなミュージカル楽曲が流れることのアリバイとした。だから、「ジャズ」を取り上げた気持ちも分かるのだ。
 だが、それは別の問題を生じさせてしまった。いわゆる「古典的ミュージカル楽曲」は、決して本作で云々されているような「ジャズ」ではないのである。
 それぞれ同じようにオールドファッションな音楽ではあるが、本作のミュージカル・ナンバーはイコール、本作でセバスチャンが愛好しているような「ジャズ」…ではない。だから、コンセプトが微妙にズレている。 これがジャズ映画を作るというのなら、主人公がジャズを云々するのも分かる。だが、「古典的ミュージカル映画」を復活させたいがために「ジャズ」を持って くる…というのは、やりたいことは分かるんだが少々ズレがあるんじゃないか。もちろんMGMミュージカル自体には、ジャズを云々した作品も少なくない。だ が
本来のMGMミュージカルなら、そもそもこんな面倒くさい言い訳をする必要がないのだ。
 本作は「古典的ミュージカル」そのものではなく、「古典的ミュージカルの再現」のために「ジャズ」をアリバイとして持ち込んでいる作品なのである。もしアリバイとして持ち込んでいるのなら、「ミュージカル」と「ジャズ」がストレートにつながらないといけないだろう。僕はそこに微妙な違和感を感じるのだ。
 さらに、そこに先ほどのセバスチャンの偏狭な極論が出て来るので、見ている方としては居心地が悪くなってくる。「こいつ本当に大丈夫か?」という気分になって来るのだ。
 しかも劇中でセバスチャンはイマドキの音楽を演奏することになり、当初、苦々しい思いを抱くようになる。だがセバスチャンのそもそものジャズ観が危うい…となると、
このあたりも妙 な感じになってくる。彼が忌み嫌う(後にエマも同じように疑問視する)イマドキ音楽が、必ずしも悪いものとは思えなくなってくるのである。もちろん映画で はハッキリと軽薄な音楽と描かれているものの、セバスチャンの依って立つ音楽観自体が怪しいのだから、見ている方としてはスッキリしないのだ。これは明ら かにマズいだろう。
 なぜなら、本作は基本的に「芸道もの」のジャンルに入るドラマだからだ。
 ミアは女優、セバスチャンは音楽…と主人公二人はそれぞれ目標に向かって道を極めていく人物である。そしてそれぞれの道を極めていくがゆえに、二人は別れを選択せざるを得なくなる。本作のラストが苦いモノになるのは、「芸」を極める二人であるがゆえのことだ。そのあたりは、ちょっと成瀬巳喜男の戦前の芸道映画「鶴八鶴次郎」(1938)みたいなところもある。そんな「芸道もの」ドラマとして、主人公の「芸」に対する考え方がグラついているのは、ちょっとマズいのである。
 さらにマズいことにセバスチャン自身のスタンスも大いにブレてい て、彼が「本格的ジャズ・クラブを作りたい」のか「ジャズ・ミュージシャンとして大成したい」のかがハッキリしない。これは、かなり大きな違いだ。そして ミアの方にもそんなブレはチラついていて、彼女は途中で「自作」の戯曲を執筆してそれを上演することになる。一瞬、そっちの才能も開花するのか…と思わさ れるのである。しかし、これはいかがなものだろうか。
 実際の人生では、当初の目標がズレるなんてことはいくらでもある。僕などはズレっぱなしで、本サイトを始めた頃はコピーライターだったのに、今では本を作るようになってしまった。実人生なら、それはそれでいい。だが本作は「芸道もの」のミュージカルであり、そこでは主人公たちは芸を極めて精進しなければならないはずだ。その核心ともいえる部分がブレているというのはいかにもマズい。コンセプトと脚本という映画にとって重要な部分で、かなり深刻な問題を抱えているとは言えないだろうか。
 意欲も買えるしアイディアもなかなか。出来上がりも立派なもので大いに評価に値する。だが僕は、デイミアン・チャゼルの映画づくりにはどこかに致命的欠陥が潜んでいるのではないか…という疑いを抱かざるを得ない。
 大々的にホメたいのに、今ひとつホメ切れない。映画を見た僕自身の評価そのものが、大きくブレてしまう。そこが僕としては、何とももどかしい思いなのである。


 

 

 

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