「ブラインド・マッサージ」

  推拿 (Blind Massage)

 (2017/03/06)



見る前の予想

 ロウ・イエは、ここのところずっと僕のお気に入りの監督のひとりだ。
 一番最初にふたりの人魚(2000)をDVDで見た時の衝撃は、今でも忘れない。その後、初期のスリラー作品危情少女 嵐嵐(1995)まで見に行き、チャン・ツィイー仲村トオルなどのスターを起用したパープル・バタフライ(2003)を見て改めて感心した僕だったが、僕にとってのロウ・イエ評価を決定づけたのは、その次の天安門、恋人たち(2006)。政治的云々…より洋の東西を問わない「青春の祭り」の終焉を描いた鮮烈さで、この作品の衝撃ったらなかった。作品としてのスケール感も大変なものだったと思う。
 ただしこの作品で政府当局に睨まれて、ロウ・イエは映画製作が出来ない苦境に陥ってしまう。ところが、奴はそんなことで沈黙するタマではなかった。いろいろな制約を逆手にとってスプリング・フィーバー(2009)を発表。デジタルビデオ・カメラで撮影したこの作品も、実に素晴らしかった。
 ただフランスとの合作が続く中で、それをエスカレートさせたパリ、ただよう花(2011)は、正直言っておフランス風味がイヤミにしかなっていない凡作となってしまった。海外の支援が頼りとなったロウ・イエとしては、ついついそれが高じて「映画祭狙い」みたいな映画を作ってしまったのだろうか。
 こりゃもうダメかな…と思い始めた僕だったが、ロウ・イエはそれをあざ笑うかのように二重生活(2012)を発表。火曜サスペンス劇場みたいなエンターテインメント性の高い語り口ながら、ロウ・イエならではの演出の冴えを見せる作品に仕上がって「さすが!」の出来映え。これがロウ・イエの久々の中国市場復帰作品となって、その映画作家としての「逞しさ」にも目を見張らされた。まさに粘り勝ちである。
 そんな経緯の果てに今回そのロウ・イエの新作が公開されると聞いて、僕がワクワクしないはずがない。
 おまけにタイトルが「ブラインド・マッサージ」である。按摩の話に 違いない。個人的な話ではあるが、僕はとにかく肩こりが酷くて、首も腰もすぐに凝る。特に腰は若い頃の航空貨物の営業時代から傷めていて、ちょっと疲れが 溜まると痛んでくる。だから、マッサージは欠かせない。中国整体のマッサージ屋には、今も定期的に通っている。ただ、うまいマッサージ師はなかなかいない し、これには相性というものもある。だから、マッサージ師選びはいつも苦労しているのだ。
 そんな僕にとっては、ロウ・イエがマッサージの映画を撮ったとなれば見ない訳にはいかない。なかなか都合が合わずに見に行けなかったが、ついに重い腰を上げて渋谷の劇場へと足を運んだのだった。

あらすじ

 シャオマーはまだ子供の頃に交通事故に遭い、母親と視力を奪われた。
 医師いわく、いずれ視力は回復するということだったが、いつになっても目は見えない。いつまでも病院で「その日」を待っていたシャオマーだったが、ある 日、病室の外で父親が医師を責めている声を聞いて、自分の視力が戻らないことを悟る。するとシャオマーは食器のカケラで衝動的に首をかき切り、自殺を図ろ うとした。
 運良く一命をとりとめたシャオマーは、それから盲学校で点字やマッサージを勉強。南京の沙宗hマッサージ院に働くようになる。
 このマッサージ院は、やはり盲人のチャン・ツォンチー(ワン・チーホア)とシャー・フーミン(チン・ハオ)の共同経営によるもの。多くの盲人たちが和気 藹々と働く場所で、目が見える者は料理を作るオバサンぐらいしかいない。この当時はマッサージの仕事で、面白いほどカネが稼げたいい時代だったのだ。
 経営者の二人は対照的だった。実直でマッサージ一筋なチャンに対して、シャーは趣味人でダンスも上手い。婚活にも頑張っていて、今日もあるオールドミス とダンスで仲良くなったりする。だが、最終的には相手の親が拒んで話は流れる。例え経営者であっても、盲人が相手を見つけるのはなかなか難しいのだ。
 そんな婚活中のシャーの携帯に、突然連絡が入る。相手はシャーの旧友のワン(グオ・シャオトン)。彼は恋人のコン(チャン・レイ)と共に、シャーのマッ サージ院で使ってもらえないかと頼んで来たのだ。もちろんシャーは旧友の参加を大歓迎。ワンとコンの二人はマッサージ院に暖かく迎えられることになる。
 だが、コンがマッサージ院に現れた時から、例のシャオマーの様子が一変。まだ若い彼はコンの香りに惹かれ、彼女にお構いなしに迫っていく。隣にワンがい ても、見えないことをいいことにグイグイ来るからたまらない。コンはそんなシャオマーを何とかかわしているが、ワンもさすがに何となく不穏な雰囲気を感じ ているようだ。
 そんなシャオマーの一触即発の状況を感じとったのが、同僚のチャン・イーグァン(ムー・ファイペン)。彼は元々鉱山で働いていたが、大爆発に巻き込まれて視力を失った。その彼が、シャオマーに大爆発寸前の「臭い」を嗅ぎ取ったのだ。
 ヤバさを察知した彼は、イヤがるシャオマーを無理やり引っ張って近所の風俗店へ。店でもピカイチに可愛い風俗嬢のマン(ホアン・ルー)にシャオマーを押し付ける。最初はガチガチのシャオマーだったが、マンに魅せられて店に入り浸るまでに時間はかからなかった。
 こうして、シャオマーの「大爆発」は未然に回避されたのだったワケだが、ただただ和気藹々で楽しい職場と見えていたマッサージ院の中では、それ以外にもさまざまな出来事がさざ波が打ち寄せるように起きていた。
 客から「美人」だと褒めそやされるドゥ・ホン(メイ・ティン)は、自分ではその美しさを見ることが出来ないだけに、いいかげんウンザリしていた。だが シャーは自分が未知である「美人」という概念に憧れて、ドゥ・ホンに強く惹かれていく。無口で無骨なシュー(ホァン・ジュンジュン)は積極的な娘ジン・ヤ ン(ジャン・ダン)に迫られるが、彼は困惑するばかり。置いてけぼりのジン・ヤンは、身悶えしながら泣くばかりだ。そしてワンとコンも結婚を意識しなが ら、コンの両親の「全盲の男はダメ」という反対から駆け落ち同然で南京に流れて来た。そのワンも実家に戻ると、金銭にだらしなくて悪い連中に借金している 弟に悩まされている様子。
 そんな各人それぞれの思惑を秘めながら、今日も営業を続けるマッサージ院だったが…。


見た後での感想

 本作のオープニング・クレジットは、実は文字ではない。クレジットが画面に出るのではなく、「ロウ・イエ監督作品、ブラインド・マッサージ…」というようにナレーションで読まれるのだ。
 どこかで見たような趣向だな…と思っていたら、これってフランソワ・トリュフォー華氏451(1966)のオープニングと同じではないか。それに気づいたら、僕はちょっと嬉しくなった。「パリ、ただよう花」でおフランスへの傾倒を隠そうともしなかったロウ・イエは、ひょっとしてトリュフォーへのオマージュをコッソリやったのではないだろうか?
 閑話休題。フランスとの合作を繰り返すうちに本当にフランスに行って映画を撮っちゃった「パリ、ただよう花」は、正直言ってキツい映画だった。ハッキリ言うと「気取った」作品。あのロウ・イエにして、やはり国境を超えるのは容易ではないのかな…と改めて痛感させられた作品だった。
 その次の「二重生活」は、娯楽サスペンス風に見せながらも現代中国の持つ問題点をえぐり出してすこぶる快調。良くも悪くも俗っぽくなったロウ・イエが、これからどういう作品を作っていくのか興味が湧いた。
 そしてやっと届いた新作は…前作のような「現代中国をヴィヴィッドに捉える」という視点からはちょっとはずれて、盲人たちの特殊な世界を描き出す。しかも、冒頭で「あの頃はいくらでもカネが儲かったマッサージの黄金時代だった」と言っていることから、今からちょっと前の話らしいと いうことが伺える。おそらくは、あえて「現代中国最先端」の話からは距離を置いたのだろうし、そういうアップトゥデート性や社会性などとは違うお話を語り たい…ということを明らかにさせているのだろうと思う。案の定、本作はそうした「現代性」「中国」云々の話ではなく、見た目にはもっと普遍的な話を描いているようなのである。
 ただ、僕が本作を見終わった時点では、正直ちょっと複雑な気分になっていた。
 「パリ、ただよう花」を除く今までのロウ・イエ作品では、必ず見終わって衝撃を受けたり深くシンパシーを覚えたりしたものだった。それが本作では、どうも今ひとつピンと来ない。話は面白いし、ところどころインパクトのある場面は出て来るのだが、今までの作品みたいに打てば響く…みたいなものを感じなかった。そんなワケで、ロウ・イエは何でこんな作品を作ったんだろう?…と見ていてしばらく悶々としていたのだった。
 だが、ネット上で本作の評判をいろいろ見ているうちに、何となく自分の中でナゾが解けて来た。ネット上では「盲人と健常者の問題」云々を語っている人 や、「目が不自由だと大変だなぁ」などと素朴なことを言っている人が多かった。まぁ、よくあることだ。いわゆる障がい者を扱った映画などではありがちなこ とである。
 だが、ロウ・イエがそんなつまんない映画を作ろうとするワケがない(笑)。それに気づいたら、何となく頭の中がスッキリしてきたのである。
 そもそも、ロウ・イエは本作で障がい者問題を扱うつもりなんかなかったんじゃないか?
 本作に描かれていた盲人や盲人の周辺については、一見リアルに見える。また、リアルに描くために専門家や実際の盲人の人々に指導を受けたりもしていたようだ。だが、盲人をリアルに描くことが本作の目的であったかといえば、それは「否」なのではないか。
 そもそも、あれって本当に「リアル」なんだろうか? 劇中で盲人の気持ちみたいなナレーションが語られるが、本当に彼らがそう思っているのかどうか分からない。特に、盲人たちが健常者に対して一種の「畏敬の念」みたいなものを持っているかのように語るあたりは、字幕で読んでいるせいなのか少々違和感を覚えたのも正直なところだ。
 むしろ「盲人をリアルに描く」なんて気はなかったんじゃないだろうか。


ストレートに触れ合い、ぶつかり合う盲人たち

 「リアル」かどうかは分からないが、本作で描かれている盲人たちには、誰が見てもハッキリ分かる特徴がある。
 それは、感情の発露の激しさだ。
 自分たちのことを振り返ってみると、本来は恰好をつけたり分別臭くしたり、利口ぶってみたり分かったような気になったり、少なくとももう少し表向きを取り繕ったりするだろう。だが、本作に出て来る盲人たちは感情をムキ出して生々しい。 一応の主人公格となっている青年シャオマーは、コンという女性の登場でいきなり発情。見えないからこそ出来る…ともいえるのだが、その場に彼女の恋人がい ようといまいとお構いなしでギンギンに迫る。積極的なジン・ヤンという娘は、これまた無骨なシューへの思いをガンガンぶつける。それが受け入れられないと なると、夜中に近所迷惑も構わず泣きわめく。マッサージ院の経営者シャー・フーミンは、「美人」という概念に惹かれてドゥ・ホンを口説く。それも見えもし ないのに「美人」だから…と口説くのだ。ひとつ間違えば経営者によるパワハラまがいになり兼ねない上に、ダンス上手な洒落者らしからぬ不器用さで口説くの である。ワンという男に至っては、出来の悪い弟が作った借金の取り立てにガラの悪い連中が押し掛けて来ると、自分のカラダを張って血みどろの抵抗をす る…。確かに「目が見える」我々のそれと比べると、やたらに激しくゴツゴツとした感情表現なのだ。
 それらは中国ではありふれたものなのかもしれない…と言えなくもないが、どうやら本編を見ているとそうでもないらしい。それは、ワンが借金の取り立て屋に対峙する場面を見れば分かる。
 カラダを張ったワンの過激な行動を目の当たりにしたガラの悪い男たちは、最初こそ平然と見ていたものの、最後にはビビってその場から立ち去ってしまった。そのことから見ても、それが「中国ではありふれた」ものではないことが伺える。
 しかも、この男たちはそれなりの修羅場をくぐってきたような連中だろうから、単なる血なまぐささ程度ではビビりはしないだろう。彼らはあまりに強烈に自分たちにぶつけられた、感情の激しさに恐れおののいたのではないか。その激しさが尋常ではないからビビったのだ。
 このように、本作に出て来る盲人たちはとにかく真っ正面からぶつかり合う。それは感情的に…ということだけでなく、肉体的・物理的にもそうだ。彼らは実際に接触し合う。手 で本当にふれあうのだ。マッサージという仕事も人とふれあうことを生業としているワケで、彼らは四六時中、過剰なまでにふれあっている。見えないのだから 当然と言えば当然…という気もしないでもないが、実際は果たしてここまで触れ合いまくるものだろうか。しかも、彼らはセックスへの執着も尋常ではない。そ れは性欲的なそれというより、「触れ合いたい」という思いの強さがそうさせているように見えるのだ。
 このように本作では、彼らは終始一貫ものすごくストレートな人々に描かれる。欲情したら恋人がいようといまいと迫る。惚れたらその気持ちをぶつけて、はぐらかされたら辛さ悲しさを泣いて表現する。相手を威嚇するのも命がけだ。終始一貫して、言葉と触れ合いで不器用なまでに相手にコミットしようとするのである。
 ある意味で最もそれが顕著なのは、最初に他人の恋人に横恋慕した主人公格のシャオマーだろう。
 鬱屈した気持ちを風俗店で発散したシャオマーは、今度はその風俗嬢に本気で惚れる。世俗では、風俗嬢に惚れるのはヤボの骨頂。本来は遊びと割り切るべき ものだろう。あるいは、惚れたにしても多少は躊躇するだろう。だが、シャオマーはためらわない。いささか直情志向気味に、その気持ちを思い切り相手にぶつ けるのである。いや、これは不器用にも程があるのではないか…。
 僕はこのあたりで、ロウ・イエの本作における狙いが何となく分かってきたような気がしたのだ。



 

 

 

 


 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 


現代社会の悪しきノイズをカットするために

 このシャオマーと風俗嬢のエピソードは、ハッキリ言って普通に考えれば「絵空事」である。
 実際に我々がシャオマーのような男にこの件について相談されたら、誰でも十中八九は「うまくいかないだろう」と思うだろうし、「やめておけ」と忠告する のではないか。普通ならば「それはビジネスなんだ」と思うはずである。そんな関係が成就するのは、現実世界というよりおとぎ話…例えば「プリティ・ウーマン」(1990)みたいなハリウッド映画の世界だと考えるのが自然だろう。
 おフランスに傾倒した「パリ、ただよう花」はともかく、ロウ・イエはどう考えてもハリウッド映画のフォロワーとは考えにくい。これまで作ってきた作品群は、手法も語り口もハリウッド映画的「絵空事」「おとぎ話」の極北にあるように思える。それなのに、本作ではその「まさか」が起きる。ウブな青年が風俗嬢に恋するだけでなく、風俗嬢の方も彼に恋をする。しかも、二人で手に手をとって旅立ってしまう。結局、本作の幕切れは二人の一応のハッピーエンドで終わるのだ。

 このあっけらかんとした結論に、僕は正直、唖然としてしまったことを白状しなくてはなるまい。これはハッキリ言ってロウ・イエ「らしくない」だろう…。おそらくはそんなこともあって、僕は当初ピンと来なかったのかもしれない。
 なぜなら、それって甘ったるくて現実味がない
 しかしよくよく考えてみると、我々はなぜこういう結末を「甘ったるくて現実味がない」と思うのだろうか。「うまくはいかない」「やめておけ」という根拠 は何なのか。誰も神でもないのに、これから起きることを確実に予測など出来るワケがない。他人の心の中を察することなど出来ない。まして、それらを断言す ることなど出来るはずがないのだ。
 結局、我々は実際には何も分かっているワケではない。だが、すべて を分かったような気になっていて、そのように振る舞っている。だから、商売で男と関わる女に惚れるべきではないと思うし、心が通うなんてあり得ないとも思 う。そんな事などはない…と断言できる根拠もないのに、そういう「既成概念」で語ってしまう。あるいは、そういう女に入れ込んで失敗して無様な姿を見せる ことをイヤがり、最初から「無理」「無駄」と切って捨ててしまう。
 それは「賢い選択」かもしれないが、そうではないかもしれない。「正しい」根拠はどこにもない。実は愚かな振る舞いかもしれない。ただ、すべてを分かった気になっているだけの頭デッカチでしかなく、自分の感情に正直ではないのである。
 だが…先にも述べたように、本作の盲人たちは違う。分かったようなことを言ったりしないし、取り繕ったりもしない。自分の思いはストレートにオモテに出すし、それを恥じたり躊躇したりしない。むしろ、ストレートすぎる。そもそも、普通は女に「ブタの角煮ぐらい好き」とか「美人だから好き」とかデリカシーないことを言わないだろう(笑)。ウソでも、もうちょっと取り繕ったことを言うはずだ。彼らは我々とは違う。この映画に出て来る「盲人たち」は…。
 本作の言いたいことは、それではないのか?
 言動も考え方も他者との関わり方もためらいがなくストレート。我々はあの「盲人たち」のようにはいかない。もうちょっと賢く分別のある言動をする。だ が、それって本当に「賢く分別のある」振る舞いなんだろうか? 「見えている」我々には余計なモノまで見えてしまって、本質的なことが見えづらくなってし まっているということはないのか? 無駄な情報や妙に小賢しい知恵、あるいは無意味な価値観や既成概念に囚われてしまって、かえって本来の感情に従えなく なってはいないか?
 本作の「盲人」は、だからリアルな盲人を描こうとしている訳ではないように思える。我々は見え過ぎていて、かえって見えなくなっている。現代社会の悪しきノイズによって、余計なことを吹き込まれて変に醒めてスレて頭デッカチな人間になってしまっている。だから、人間を不自由にするそんなノイズをカットするために、「盲人」というフィルターを用いたように思えるのだ。見えないこと、触れ合いに固執すること…「盲人」はつまり寓話やメタファーで一種の例え話だ。リアルには見えるが、ロウ・イエが人間を描く手段として選択した、表現上の「盲人」なのである。
 そう考えてみると、エンターテインメント性たっぷりに経済特区の富裕層から中流階級の人々を描いた前作「二重生活」を発表した後で、ロウ・イエが盲人た ちのマッサージ院を描いた本作に取り組んだ意図が何となく見えてくる。アップトゥデートな現代中国の話から一見、後退したかのように見えるが、実はそうで はないのだ。
 「二重生活」は現代中国が抱える矛盾や問題点を、娯楽のオブラートにくるんで提示していた。現代の中国では…我々も少なからずそうなのだが…人々は豊かさを享受して多くの情報を手に入れてはいる。だがその一方で、それ故に失っているモノも多い。
 それが「ナマな感情」ではないのか。
 人々は、カッコよく賢く振る舞ってはいる。物事に対して冷笑的でシラケた態度で接しているが、それと引き換えに無骨でピュアな感情、ダイナミズムを失っ ているのではないか。他者とガッツリ関わることもなくなっているのではないか。本作が「過去」の話となっているのは、つまりはそういうことではないのだろ うか。
 無謀にも風俗嬢に惚れて入れ込んで、相手もそれに応えて、一緒に手に手をとって旅立つ。そんなことを冷笑せずに信じる感情は、今の人々からはすでに失われてしまった…。
 ロウ・イエはノイズにまみれて自分が見えなくなっている現代の我々の状況を分かりやすく見せるために、あえて「盲人」というツールを使ってみたのではないか。僕はどうしてもそんな気がするのである。


 

 

 

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