新作映画1000本ノック 2016年4月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「マジカル・ガール」 「虹蛇と眠る女」 「オデッセイ」

 

「マジカル・ガール」

 Magical Girl

Date:2016 / 04 / 18

みるまえ

  この映画のことは、銀座の映画館で見たチラシで知った。スペイン映画で、日本のアニメ「魔法少女ユキコ」に憧れた女の子が…云々と書いてあるのを見て、ア レアレ? またしても日本のサブカルとかに入れ込んだトンデモ映画がやって来たのか?…と僕は思い込んだ。何となく最近見たハンガリー映画「リザとキツネと恋する死者たち」 (2014)みたいな、日本トンデモ・サブカル系映画なのか…と勝手に思い込んだワケだ。それなら僕も嫌いな訳じゃない。見に行こう行こうとしながらなか なか行けなかったものの、信頼できる知人からもベタホメのメールが送られて来たため、何とか時間を作って見に行った次第。

ないよう

  「ナポレオンがスペインを侵略していたとしても、例え何があったとしても、2+2は4。真実は変わらない」…そんな厳格そうな小学校の授業の最中、生徒が メモ紙を回していたのを見つけたらしく、数学の教師ダミアン(ホセ・サクリスタン)は生徒の一人バルバラを立たせて問いつめる。「その紙には何が書いてあ るんだ?」「冷酷そうな男」「私のことか?」…いかにも厳しそうな教師ダミアンとバルバラのやりとりは、徐々につかみ所のないモノへとなっていく。「その メモを渡しなさい」とダミアンが命じるが、バルバラは「渡せません」と言うと、その紙を手に握りしめてしまう。そして次の瞬間にバルバラが手を開くと、そ こには紙はなかった。「持っていないもの」…。場面変わって、姿見の鏡の前で、棒を持って踊り狂う短髪の少女アリシア(ルシア・ポジャン)。青白い顔から して、髪が極端に短いのは難病治療のためだと分かる。そんな彼女が一心不乱に踊っているのは、彼女が夢中になっている日本アニメ「魔法少女ユキコ」のテー マソングだ。ところがノリノリのアリシアが、突然電源スイッチでも切ったかのようにバタッと崩れ落ちてしまう。彼女の住むアパートに父ルイス(ルイス・ベ ルメホ)が戻って来たのは、まさにそんな時だった。部屋に入って、慌てて倒れている娘に駆け寄るルイス。意識を失ったアリシアは、そのまま病院に担ぎ込ま れた。ルイスはアリシアの枕元で、必死に娘の回復を祈る。だが女医がルイスに語ったのは、娘の病状に関する非情な現実だった。それ以来、ルイスは常に心こ こにあらず。遊びたがるアリシアに宿題をするように告げて何とか父親らしく振る舞おうとしていたが、それでも「タバコが吸いたい」「ジンが飲みたい」など と言われると、もう先がない娘のためにそのワガママを聞かずにはいられない。そんなルイスがアリシアの「お願いノート」をこっそり覗いてしまったのが、す べての間違いの元だったのか。そこには彼女の大好きな「魔法少女ユキコ」のドレスを着たい…という、12歳の女の子らしい願いが書かれていた。ならば父親 としては、それを叶えてやりたいのが人情。早速ネットで調べてみて、買えるものなら買ってやりたい。しかし、そんなものを調べてしまったのがマズかった。 歌手への特注品として作られたそのドレス、邦貨にして90万円。大金である。とても手が出せない。折り悪く、元・教師のルイスはよりによって失業中であっ た。つい先日も古本屋に本を売りに行って、立派な内容の本を重さで値段を決めて買い取ろうなどという店員の言い草にキレて帰って来たばかり。しかし、こう なったら背に腹は代えられない。持ち運べるだけの本をかき集めて、問題の古本屋に息せき切って持ち込んだ。しかし古本買い取りなどで手に入るカネなど知れ たもの。近くの飲み屋の馴染みの女将に泣きついたものの、お互い苦しいことに変わりはない。結局は「娘さんはパパといれることが何よりなのよ」などという 「常識的」な言葉で慰められるだけ。煮詰まる一方のルイスは、ついに脳内で何かを決意してしまったらしい。グイッと一杯引っ掛けたこの男、夜の街を徘徊し たあげく、やって来たのは宝石店の前。人けのない夜の街で、ルイスは宝石店のショウウィンドウの前にじっと立ちすくむ。やがて彼は大きめの石を手に取り、 ショウウィンドウのガラスをカチ割ろうと振り上げた! …と、ちょうどその時、突然ルイスの頭上から黄色い「ゲロ」が降って来るではないか! 一体何が起 きたのか? それは、その時点からさかのぼること約1日…情緒不安定な人妻バルバラ(バルバラ・レニー)とその精神科医の夫アルフレド(イスラエル・エレ ハルデ)との奇妙なやりとりから始まった…。

みたあと

  実はこの作品、チラシをチラリと見たぐらいしか知らなくて、予告編なども一切見ていなかった。この映画に関しては、それがかえって良かったかもしれない。 ハッキリ言うと、本作はまったく予想していたような作品ではなかった。僕が当初考えていたのは、前述したように「リザとキツネと恋する死者たち」みたいな 日本トンデモ・サブカル系映画…で、せいぜいブラック・ユーモア系の作品ぐらいにしか思っていなかった。だが、この予想は完全にハズれたと言っていい。確 かに日本のアニメ「魔法少女ユキコ」に憧れた女の子が出て来て、物語のかなり大きな原動力になる。映画の冒頭まもなくのあたりでは、この「ユキコ」の主題 歌として、何と長山洋子のアイドル時代の歌が流れたりもする。そこだけ切り取ると、確かに日本トンデモ・サブカル系映画になりそうなところだが、それは本 作ではほんの「導火線」ぐらいの役割しか果たしていない。そういう意味で本作は僕の予想を大いに覆した作品だったのだが、「想定外」だったのはそれだけで はなかった。日本トンデモ・サブカル系映画じゃなかった…ってだけなら、単に僕がそう思い込んだのが悪かっただけのこと。しかし、本作の「想定外」はそん なことではない。ともかく、お話がどう転がっていくのかまったく分からない。映画のイントロが何を意味するのかも分からなければ、「ユキコ」から始まるエ ピソードもいきなり意表を突いた場面で断ち切られる。さらに、まったく別なエピソードが始まって、それがまたアッと驚くかたちで前のエピソードとつながっ たりする。当初はこの映画がどういうジャンルに属する作品なのかも見当がつかなかった。まったく油断のならない作品なのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 先にも述べたように、意表を突く展開で先の予想がつかない物語…ということだけとらえると、実は本作は、(強いて言うなればだが)何年か前のフランス映画「消えたシモン・ヴェルネール」 (2010)と似た匂いを感じさせる。「消えた〜」は本作とはまったく異なる映画だが、あちらも予断を許さない展開の妙に底冷えする映画だったことも共通 点かもしれない。さよう、本作は日本トンデモ映画やらブラックユーモアどころか、冷え冷えとしてドライでトコトン情け容赦ない。そしてビックリするほど 「説明」がない。観客にアレコレ説明する気がまったくなさそうなのだ。そんな「見えない」部分がたくさんあるから、余計に本作は謎めいて見える。それが、 さらに底冷えする怖さを感じさせるのだ。何しろ普通だったら…難病の女の子とその望みを叶えようとする父親が、これほど過酷な結末を迎えることはないだろ う。いや、悲惨…というならば、むしろ悲惨さを強調するという作劇の仕方があってもいい。だが本作は、「悲惨さ」すら描かれない。この父娘の最後たるや、 まるで紙クズをクシャッと丸めて窓の外にポイと捨てるほどの思い入れすらない。バッサリと切り捨てられてしまうドライぶりなのだ。この、難病少女にも手加 減しない情け容赦なさに心底驚かされるが、「ユキコ」のコスチュームで銃を持つ男の前に仁王立ちする少女の姿は、何だかイヤ〜な夢に出てきそうなイメー ジ。銃口を前にして一歩も退かず、すでに何が起きたのか察して、そこから逃れようという気もなく、もはやすべてを受け入れようとしているような潔さ。これ もそれも…すべて含めて、本作の本質は「ハードボイルド」ではないかと思う。底冷えでドライで寡黙(そもそも映画そのものが寡黙だ)で、何よりファム・ ファタールが出て来る。それも「二人」もだ。一人は間違いなく、元教師のダミアンの運命を翻弄するバルバラ。そしてもう一人は…やはり父親の運命を直接的 間接的にねじ曲げてしまう娘のアリシア。特に後者は、かわいそうって言えばかわいそうだけど、タバコ吸いたいジン飲みたい…とドンドン要求をエスカレート させていくし、自分の「願い事ノート」なんてシロモノをわざと父親の目に付くところに置いておくあざとさ。だから銃口を前に仁王立ち…のくだりも、自分が この不運を引き寄せちゃったと分かってたと見ればスジが通る。そのあたりの感じもファム・ファタールたる資格十分なのだ。本作は、冒頭で手の中からメモを 消したという「マジック」を使ったバルバラと、最後に「魔法少女ユキコ」になりきったアリシアという二人の「マジカル・ガール」と、その「ここで会ったが 百年目」の女に振り回されて運命を狂わされる男たちのお話…ということになる。そのマジカル・ガール二人も、お互いが間接的にではあるが関わったことで運 命が狂っていくのだから、お互いにとっても「ファム・ファタール」ということなのだろう。また、本作を見てつくづく感じたのは、何だかんだ言って人間誰で も最後は帳尻合っちゃうんだよなぁ…ってこと。難病で気の毒ながら一方であざといマネをしたアリシアにも、娘の願いを叶えたいという志は美しいものの手段 が何ともゲスな父親ルイスも、キッチリとそのツケが返って来る。さらに、ひどい目に遭わされながらも他人をダマすことで復讐を遂げようとしたバルバラも、 キッチリとオトシマエを付けさせられることになる。そのあたりの、やった報いは必ず返ってくる…というオチは、僕が近年ずっと実感として感じて来たこと だ。最初はズルして得をしたように見える奴でも、いつか必ずそのツケを払わされることになるのを、僕は人生の中で何度も見て来た。因果応報、これからは誰 も逃れられない。そのあたりの自分の実感に、ピッタリと来た映画という気がするのだ。これが劇場映画デビューの監督カルロス・ベルムトの見事な手腕は、果 たしてマグレかそれとも才能か。本作だけでは何とも判断できないが、次作が楽しみな監督がまた一人増えた。

さいごのひとこと

 魔法使いサリーちゃんが懐かしい。

 
 

「虹蛇と眠る女」

 Strangerland

Date:2016 / 04 / 18

みるまえ

  ニコール・キッドマンって大女優、大スターってことで万人が認めているけど、実は近年は作品に恵まれていない。しかも、本人もあえて…なのか、変な作品に ばかり出ているような気がする。これもそんな一本になるのだろうか。何と25年ぶりに彼女の故国オーストラリアの映画に出た…というのが売りの作品で、映 画の構えとしては「小品」の部類。オーストラリアの田舎町で子供に失踪された夫婦が精神のバランスを崩していく…というお話。僕はこのストーリーを見て、 実はいきなりピンと来た。理屈抜きで、これは見なくてはいけない映画では?…と思ってしまったから仕方ない。時間もなく、あまり映画を見ることが出来てい ない僕だが、並みいる話題作、ヒット作を横目にこの地味〜な作品を見ずにはいれなくなってしまった。そんな訳で、感想文まで書き上げてしまったという次 第。

ないよう

  暗闇であなたに触れる、誰にも見つからずに…。夕闇が迫る荒野に、一人の少年が佇む。どんどん辺りが暗くなっていく中、寂しい田舎町をその少年は黙って歩 いていく。果たして彼はどこを目指しているのか…。翌朝、平凡な一家の生活がそこにはあった。専業主婦のキャサリン(ニコール・キッドマン)とその夫マ シュー(ジョセフ・ファインズ)の夫婦。昨夜さまよい歩いていた少年は長男のトミー(ニコラス・ハミルトン)。その上に長女のリリー(マディソン・ブラウ ン)もいる。朝から塗装の仕事を一家から頼まれたアボリジニの若者バーティ(メイン・ワイアット)がやって来るが、出て来たリリーが肌もあらわな格好だっ た事に顔をしかめるマシュー。一家は早くも朝からギクシャクだ。しかし、この町は暑い。荒野のど真ん中にあって、退屈この上ない上に暑い。そこにこの一 家、つい最近引っ越して来たらしいのだが、それはどうやらこの長女リリーに原因があるらしい。町で薬局を営むマシューのもとに、なぜか小遣いをせびりに来 るトミー。しかし、カネが欲しかったのはトミーではない。トミーはもらって来たカネを、空き地でスケポーやってる連中に見とれてる姉リリーの元に届ける。 リリーはといえば逞しい男の子に夢中で、二人で空き地に置いてあるコンテナの中にシケ込む始末だ。ヤバいムードなのは子供二人だけではなくて、マシューと キャサリンの夫婦もかなりなもの。夜のベッドでキャサリンに迫られても、マシューは「勘弁してくれ」と腰が退けている。何から何までうまくいっていない。 そんなある晩のこと、トミーが部屋から抜け出して、スタスタと外に歩いて行ってしまう。ところが、その後をリリーまでついていくではないか。たまたま夜中 にその光景を見たマシューは、唖然としてその二人を見送ったまま。何か小言を言うのも煩わしい。どうせロクなことになりはしない。そう思うと、マシューも 彼らを黙って行かせたまま、部屋にそそくさと戻ってしまうのだった。さて、翌朝のこと。子供たち二人の不在を「すでに出かけた」と思っているキャサリン。 朝早く出かけたマシューも、まるで異変に気づいていない。ところが、子供たちがいつになっても戻る気配がないことから、さすがにキャサリンが慌て出す。妻 が薬局にやって来たことから、マシューも事の重大さに気づき始める。二人でクルマで町に出て来るが、どこにも子供たちの姿はない。おまけに、荒野の彼方か ら凄まじい砂嵐がやって来る。すべてを包み込む砂嵐の中で、二人はもはや為す術がない。万策尽きた二人が警察署にやって来たのは、その日もかなり遅くなっ てから。二人を迎えたのは、ベテラン警官のレイ(ヒューゴ・ウィービング)だ。しかしレイの質問に対して、二人の答えはお寒い限り。そもそも二人はここん とこ学校にはまったく行ってなかったらしく、トミーは毎晩オモテをほっつき歩いていた。マシューとキャサリンが焦れば焦るほど無力感が漂う。翌日から本格 的に動き出したレイは、リリーの秘密を知ることになる。実はリリーはかつて学校の教師と関係を持ってしまい、マシューも問題の教師をブチのめしてトラブル になっていた。そのせいで、一家はこんな辺鄙な土地に引っ越さねばならなかったのだ。こうなると、二人の捜索は一刻を争う。なぜならこの厳しい土地では、 外を歩いていて生き延びられるのはせいぜい2〜3日。レイは早速、捜索隊を編成して二人を探す手配を始める。そんな中、キャサリンの元にあのバーティのア ボリジニの一家がやって来る。バーティの弟が玄関先にやって来て、祖母の言葉だと言ってキャサリンにこうつぶやくのだった。「虹の蛇が二人を飲みこんだ。 歌えば帰ってくる」…。
ここからは映画を見てから!

みたあと
 本作を見たくなった理由としては、ニコール・キッドマン、ヒューゴ・ウィービング、ジョセフ・ファインズといった、ちょっと気になる役者たちの存在が大 きい。ニコール・キッドマンは本作が25年ぶりの母国オーストラリアの作品ということだが、その「オーストラリア産」というのも見たくなった理由だ。一時 期世界的に注目されたオーストラリア映画だったが、その主要な人材がほとんどハリウッドに流出しちゃってから、あまりパッとした話題を聞かなくなった。し かしピーター・ウィアーやジョージ・ミラーが出て来た頃のオーストラリア映画は、本当にスリリングな作品を数々世に送り出していた。他の英語圏の映画とは 一味違う、ユニークな風味で注目されていたのだ。そんなオーストラリア映画の1本が、ピーター・ウィアーの出世作「ピクニック at ハンギング・ロック」(1975)だ。1900年のある日、寄宿学校の女学生たちが異様な岩山で突然失踪するというお話。これが「失踪」というより『神隠 し」という方がいいような感じで、実際に真相は分からずじまい。これが実話を基にしているというのだから恐ろしいが、そんな奇妙なお話が不思議なリアリ ティを持って描かれたのも、オーストラリアの自然があったればこそ。そして…久々に日本に上陸したオーストラリア映画である本作も、子供が失踪して荒野で 行方不明になる話。何となく気になって来るではないか。それに惹かれて映画を見に行ったら、何とオーストラリアの先住民族であるアボリジニが、気になる登 場の仕方をするではないか。アボリジニといえば、これまたピーター・ウィアーの初期作品である「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977)の中でも重要な役割を担っていた。オーストラリアの大地が持つ神秘性の象徴のようなかたちで、アボリジニが人知を超えた知恵の持ち主として描かれていたのだ。これはなかなか興味深い作品になりそう…と、思わず引き込まれて見始めたのだが…。

こうすれば

  謎めいた子供たちの失踪、意味ありげなアボリジニの老婆の発言、子供の失踪事件から精神のバランスを崩す両親…。そう書いていくと、まるで「ピクニック at ハンギング・ロック」現代版…的な趣がある作品のように思える。映画の後半で弟の方が生還したものの、なぜか姉がどうなったかを語らない…という不可思議 な展開も、「ピクニック〜」との共通性を感じさせる。こりゃ絶対に作り手はあの作品を意識しているだろう。しかしながら、実は「ピクニック〜」を大いに意 識しながら、そうはなりきれてない作品だと言わざるを得ない。確かに子供たちの失踪は理由も分からないし、なぜ発見された弟が姉のことを語りたがらないか も不可解だ。姉が結局どうなったかも分からずじまい。だが、それは作品に不思議な雰囲気を漂わせるというよりは、結果的にただ作り手が意味ありげに見せて るだけ…というような印象に受け取れる。アボリジニの老婆の言葉もまったく物語に絡んで来ないままで、単に安易な設定として持ち出されただけという感じ だ。もっとマズいのは、ニコール・キッドマン演じるヒロインの造形。やたらセックスに飢えてる場面が多く、これでは娘の身持ちが悪いのも母親のせいと見ら れかねない。子供の失踪で精神のバランスが崩れたというよりは、元からこの人ってアブない女だったという風に見えてしまうのだ。さらに途中からは…娘の露 出の多い服を着て気持ちを同化させたあげく、娘のボーイフレンドを誘惑するというテイタラク。最後にはヒューゴ・ウィービングの警官を誘惑したり、錯乱し て白昼に全裸で町をほっつき歩くアリサマで、ことごとくわざとらしく刺激的な設定にしているようにしか思えない。本作が長編劇映画デビュー作となる女性監 督キム・ファラントの演出とフィオナ・セレスとマイケル・キニロンズによる脚本は、少なくともこのニコール・キッドマンのヒロインの扱いに関しては安っぽ いセンセーショナリズムに陥っている気がする。スキャンダラスな描き方が、何とも物欲しげでいやらしいのだ。これではせっかくの失踪にまつわる神秘性がブ チ壊しだろう。こんな色気違いみたいな役をやらされたキッドマンが、少々お気の毒に見えてくる。

みどころ

 だったら完全に本作は失敗作だと言いたいところだが…あるいはそう言い切っちゃう人も少なくないと思うが、僕としてはそう バッサリと言い切れない。何となく嫌いになれないところがあるのだ。それはやはり、何はともあれオーストラリアという風土が元々持っている「途方もなさ」 と「神秘性」ゆえ…である。四方を砂漠と荒野に囲まれて、昼間は灼熱地獄。さらに時として凄まじい砂嵐に襲われるという厳しい風土。そこに撮り残されたよ うな、ホコリっぽく退屈な辺境の町。こうした本作の舞台そのものが、僕のような辺境マニアにはすこぶる魅力的だ。そして、こうした厳しい環境そのものが映 画に記録されたことから、本作は作り手の意図や技量を超えたところで不可思議な魅力を醸し出すことになった。映画の舞台となっている「土地」の魅力が、映 画の価値そのものまで上げているのである。

さいごのひとこと

 アボリジニ婆さんの言葉はまったく意味がなかった。

 
 

「オデッセイ」

 The Martian

Date:2016 / 04 / 04

みるまえ

 この映画のチラシはかなり前から映画館で見かけていたので、かなり力の入った作品なのだな…という風に感じていた。案の 定、海の向こうでもこっちでも大ヒットし、オスカーでも作品賞にノミネート。僕は常にSF映画ファンを自認しているのだから、見なきゃダメだという気分に なっていた。おまけに火星が舞台というから、ますます見逃せない。これは火星の映画が出るたびに繰り返し繰り返し説明していることだからここでは言わない が、基本的に「火星の映画にハズレなし」なのだ。ざっと挙げてみても、「ゴースト・オブ・マーズ」(2001)、「ドゥーム」(2005)、「火星人地球 大襲撃」(1967)…などなどなど。実際には少々ハズシちゃってるのもあるしイマイチの映画もあるにはあるが、概ね火星映画の打率は著しく高い。「火 星」はSF映画ファンにとっては信頼のブランドなのである。おまけに監督がリドリー・スコットとくれば、ますますその信頼度は高くなる。どんなジャンルも 傑作に仕上げるリドリーならば、本作も高い水準に作ってくれることだろう。それが証拠に、オスカー作品賞ノミネート。監督賞にノミネートされないのが、な ぜかオスカーに嫌われまくっているリドリーらしいが、ともかく面白い作品に出来上がっているのは間違いない。ところが僕がグズグズしている間に公開から大 分経ってしまって、内容も出来るだけ知らないでいようと思っていたのに漏れ伝わって来てしまった。中でも本作に流れる音楽についてアレコレ聞いてしまった ので、僕は少々本作へのイメージを軌道修正しなければならなくなった。どうも本作、「プロメテウス」(2012)みたいな路線のSF映画ではなさそうなの である。しかも、うっすらと火星で一人ぼっちのサバイバルを強いられる男の話と聞いていたので、それなりのイメージを抱いていたのだが…そういう事前の予 想ともかなり異なる印象の映画らしいのだ。これは一体どうしたことか。僕はかなり戸惑ったあげく、ようやく重い腰を上げて実物を見ることにしたのだった。 感想文がさらに遅くなってしまったことは、平にご容赦。

ないよう

 どこまでも赤い荒野が広がる場所…火星。そのアキダリア平原に着陸したヘルメス号のクルーは、そのすぐ近くに基地を展開。屋外でさまざまな調査を進めて いた。船長のメリッサ(ジェシカ・チャスティン)以下、ワトニー(マッド・デイモン)、ヨハンセン(ケイト・マーラ)、マルティネス(マイケル・ペー ニャ)、クリス・ベック(セバスチャン・スタン)、ヴォーゲル(アクセル・ヘニー)といったクルーの関係も上々。バカ話をしながら作業を続けていたが、砂 嵐が急速に接近中ということが分かる。何とかプログラムをやり遂げることを模索するメリッサだが、安全には替えられない。この砂嵐に着陸船ももたないと分 かった時点で、基地を捨てて地球に帰還することを決断する。こうして真夜中に基地から着陸船に移動するクルーたちだが、あまりに激しい嵐に移動も思うに任 せない。そんな時、嵐でアンテナがへし折れ、部品がもの凄い勢いでワトニーにぶつかってくる。そのままワトニーは、猛スピードで暗闇の中に吹っ飛ばされて しまった。船長のメリッサは何とかワトニーを探そうとするが、何しろ視界が悪く周囲が見えない。しかも着陸船もそろそろ限界とあって、ワトニーの捜索を断 念。残りのクルーは断腸の思いで着陸船に乗り込み、そこから母船へと脱出した。地球ではNASAのサンダース長官(ジェフ・ダニエルズ)が記者会見に臨 み、クルーの脱出と…そしてワトニーの死亡を発表。その時には、誰しもがそれを疑っていなかった…。そんな火星に新しい朝が来た。嵐が過ぎ去った後の静か な荒野に、横たわっている一人の宇宙服の男。当然のことながら、それは行方不明になったワトニーだ。だが突然、宇宙服から奇妙な警告音が流れる。それは、 酸素があとわずかしかないという告知だ。すると、目を閉じていたワトニーが意識を取り戻し、ゆっくりと起き上がろうとするではないか。ワトニーは死んでは いなかったのだ。だが次の瞬間、ワトニーは苦痛で顔を歪める。折れたアンテナの部品が、ワトニーの脇腹に突き刺さっていたのだ。ワトニーは弱々しく起き上 がり、脇腹の苦痛と酸素の希薄さと戦いながらゆっくりと基地へ歩いていった。何とか基地に辿り着き、当座の酸素の問題は解決。痛みに耐えながらアンテナ部 品を引き抜き、医療用ホチキスで傷口を縫合。これで何とか助かった。助かったものの…もはや基地には誰もいない。地球に帰る手だてもない。助けを求める通 信手段もなければ、食料も限られた分しかない。さすがにその事実を考えると、呆然とせざるを得ない。ワトニーは放心状態のまま、しばし座り込んでしまう。 だが翌日、ワトニーはモニターカメラのレンズに向かって、猛然と宣言するのだった。「死んでたまるか!」…その瞬間から、ワトニーの表情はイキイキと甦っ た。生き抜くため、生き残るために何をすればいいか、その頭脳をフルに動かして考え出したのだ。NASAの火星探査の次の宇宙船がやって来るのは、現在の ところ後4年後の予定。ワトニーは早速、残された食料を調べ始める。予想していたことだが、どう節約しても1年程度で食い尽くすことは間違いない。さぁ、 どうする。ここは、ワトニーが植物学者だったことが幸いした。彼は基地内のバルーンで作られた広間を使い、残されたじゃがいもを植えて畑を作ることを思い つく。火星の荒れ果てた土を運び込み、クルーがトイレに残した排泄物を肥料として撒く。多少危なっかしい思いをしながらも簡易的な装置で水を作り、いくつ かのじゃがいもを切って畑に植える。その頃には、ワトニーは当初の放心状態はどこへやら、すっかり生きる意欲に満ちていたのだった。その頃、地球では… NASAの技術者ヴェンカト・カプール(キウェテル・イジョフォー)はワトニーの安否を知るべく、火星を周回する衛星から写真を撮影することを提案する。 しかしサンダース長官は、ワトニーの遺体が全世界に配信されることを嫌って反対。カプールは納得がいかないながらも、矛先を納めるしかない。だが、意外な ところから援軍が現れた。まだペーペーの技術者のひとりミンディ・パーク(マッケンジー・デイビス)が、基地周辺を捉えた画像を時間を置いて確認している うちに、機材が勝手に移動していることに気づいたのだ。ワトニーは生きている! この知らせは早速、サンダース長官と広報担当アニー・モントローズ(クリ ステン・ウィグ)に報告され、NASAは上へ下への大騒ぎ。ただちに記者会見が行われ、ワトニー生存のニュースが全世界を駆け巡った。その頃、火星のワト ニーは…と言えば、火星最初の農夫として、基地内の畑で着々とじゃがいもの栽培を進めていたのだった…。
ここからは映画を見てから!

みたあと

 それにしても、宇宙で一人ぼっちになりながら生き残る…というストーリーが、夢物語やホラ話ではなくリアリティを持って 描かれるようになったというのは、やはりそういう「時代」が到来したということなのだろうか。ついこの前、「ゼロ・グラビティ」(2013)で宇宙でのサ バイバル〜地球への生還が描かれ、ビックリしたばかりである。もっとも、無学な僕などは「ゼロ・グラビティ」を見てすっかり「リアルだ」と思っちゃったも のだが、アレって結構いいかげんなところがあったらしい。それでも一応ド素人ぐらいならダマせるくらいに、説得力を持った宇宙でのサバイバルを描けるよう になったということなのだろうが、今回の「オデッセイ」…つまんないタイトルだと思ったら実際には「火星人」(笑)というタイトルらしい…は原作の段階か らしてリアルな設定がなされているらしい。そのあたりのリアリティについては、オレがオレがの理系人間のみなさんが、こっちが聞かなくてもドヤ顔で教えて くれるだろうから僕は何も触れるつもりがない(笑)。ともかく…昔みたいにひたすら取り残されたらオシマイ…ではなくなったという意識の違いに、時代の変 遷を感じずにはいられない。これって実はすごく大きな違いだと思う。それはともかく…先ほどこの感想文の冒頭で、「本作に流れる音楽についてアレコレ聞い てしまった」と書いたけれど、それはすでにお察しの通りに「映画全編にディスコ・ミュージックが流れる」ということ。最初それを聞いた時には耳を疑った が、本当らしいと分かってそれまで抱いていた本作のイメージが一変してしまった。その時点ではまだ作品そのものは見ていなかったので「???」となったあ げく、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(2014)で懐メロ・ポップスがガンガン流れたような感じなのか?…といろいろ考えてしまった。それより 何より、リドリー・スコットのSF作品…としてイメージが分からなくなってしまった。これって一体どんな映画なのだ? そんな訳で戦々恐々として見に行っ た本作だったが…いやぁ、驚いた。リドリー・スコットって今までも…刑事アクション撮ってもスペクタクル史劇撮っても戦争映画撮っても見事に撮りこなして しまう人だったが、まさかこんなユル〜いコミカルなタッチの映画を作るなんて! しかも、それが一応SFサバイバル映画のコロモを着ているんだから、二度 ビックリだ。この作品がコミカルな明るさを獲得した大きな理由のひとつが…映画を見る前に耳にした「映画全編に流れるディスコ・ミュージック」。アバだの ドナ・サマーだのという今ではヤボっちいディスコ・ミュージックだからこそ、どこか間抜けでスットボけた愛嬌がある。特にマット・デイモンがランドロー バーを運転しながら、ドナ・サマーの「ホット・スタッフ」に合わせてカラダを揺する場面は、本作随一の場面かも(笑)。

みどころ

 それにしても、本作はそもそもSFサバイバル映画のはずなのに…その「サ バイバル」感がなさすぎる。本来なら「キャスト・アウェイ」(2000)やら「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012)みたいな孤独感 や苦悩を強調すべきところを、間抜けなディスコ・ミュージックで埋め尽くしてスットボけたユーモア溢れるお話にしてしまっている。サバイバル要素がもう ちょい甘かったら、完全にコメディの作りなのだ。おまけに、そんなユーモア感溢れる作風が本来の持ち味ならいざ知らず、リドリー・スコットはむしろそんな 映画作家の極北にいるはずの人である。明るくユーモラスな作品もあるにはあるがここまで明るくはなかったと思うし、そもそも彼のフィルモグラフィーでは圧 倒的に少数なのだ。これは一体どうしたことだろう。主人公は落ち込まない、絶体絶命的状況なのに何とかしてしまえている、みんなも力を合わせてくれてその 気持ちには何ら裏はない、中国だってこっちから頼まないでも助太刀してくれる(このあからさまな唐突感、取って付けた感…はひょっとしたら巨大マーケットとしての中国 への配慮があるのかもしれないが)。悪い人間が一人も出てこない。ショーン・ビーンですら後ろ暗いことを何もしない(笑)。してもせいぜい、主人公を助け るためにNASA長官の裏をかくくらいのことだけだ。リドリー・スコット作品として…というより、そもそもこれほど善人ばかり出て来て万事が楽観的な作品 そのものがイマドキ少ないのではないか? 悪人がいない徹底的な幸福感。人生に対する怖いくらい肯定的な描き方。そのヤケクソなくらいの楽観主義が、見て いて何とも奇妙なのだ。顔を引きつらせながらハッピーと言ってる感じとでも言えばいいのだろうか。とにかく無理矢理明るくしてる感じがスゴイ。完全に不自 然なのである。僕はそんな本作を見ていて、何となくリドリー・スコットの弟トニー・スコットに対する思いを改めて感じてしまった。前作「エクソダス:神と 王」(2014)は完全に弟に対する思いが前面に出ていた作品だったが、むしろ本作こそそんな側面が強いのではないかと感じるのだ。そもそも、人間とにか く生きなければ…という「サバイバル」というテーマからしてそうではないか。その必死な明るさに、「生きてさえいてくれればいいことあったのに」…という リドリー・スコットの心情を汲み取れないだろうか。そう思えてしまうほどの、あまりに気持ち悪いほどの楽観主義。…というより、そうでないとリドリー・ス コットの資質と合わないこの作品を、あえて彼が取り上げた意図が分からない。だから本編のハイライトともいえる、デビッド・ボウイの「スターマン」が流れ る場面がグッと来る。たまたま日本では偶然にもボウイの死と重なってしまったので、余計にそう感じてしまった。ボウイにそれほど思い入れのない僕ですら、 不覚にもウルッと来てしまったよ。ついでに言えば、あれだけボウイを好き好き言ってたレオス・カラックスも、結局リドリー・スコットがサラッと撮ったこの お気楽な「スターマン」の映像に全然勝てていなかったのが切なかった(笑)。もしカラックスが本作を見ていたら、かなり悔しかったんじゃないだろうか。閑 話休題、ともかく僕にはそんな本作の無理矢理なハッピー感が、リドリー・スコットの「悲痛な明るさ」に思えてならなかったのだ。

さいごのひとこと

 お葬式で明るく振る舞おうとしている人みたい。

 


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