新作映画1000本ノック 2016年2月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
  「ザ・ウォーク」 「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」 「エージェント・ウルトラ」 「ヘリオス/赤い諜報戦」 「クリムゾン・ピーク」 「モンスターズ/新種襲来」 「クリード/チャンプを継ぐ男」

 

「ザ・ウォーク」

 The Walk

Date:2016 / 02 / 22

みるまえ

 ニューヨークの世界貿易センターのツインタワー・ビルを綱渡りした男については、その当時、ニュースで取り上げられたのを覚えている。余談だけど「狼たちの午後」 (1975)の元ネタになった銀行立て篭り事件もリアルタイムでニュースで見てたから、映画になった時は「お〜っ、あれか!」と大いに盛り上がった記憶が ある。この「綱渡り男」についてはかつてドキュメンタリー映画になって、今度は劇映画。監督がロバート・ゼメキスというのは、やはり特殊効果を多用する映 画になっているからなのだろう。しかし近年の…具体的に言うと「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)以降は、特殊効果を多様しつつもユニークなド ラマを撮る監督…という、なかなか他では見られないポジションを確立している感じだ。「コンタクト」(1997)や前作「フライト」 (2012)などでも、そんな彼らしい特異な作品に仕上がっていた。しかも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)あたりを撮っていた頃のよう な、賑やかさや派手さがスッカリ影を潜めた感じもある。本作も当然その延長線上にあるということは、映画を見る前から予想がついていた。そして…正直に 言って、本作が成功作になるかどうかは微妙とも思っていた。ツインタワー・ビルを綱渡りする話を3D映画化するって、一見すごく良い企画に思えるが…ハッ キリ言うと「それだけ」が見ものの映画にしか思えない。すると、せいぜい10分ぐらいしか見せ場がなくて、後はあまり意味のない3D映画になってしまいそ うだ。映画の構成についても、どう考えても苦しい。ありがちな構成としては、例のツイン・タワーの綱渡りをする主人公の脳裏に、それまでの彼の生涯がフ ラッシュバックする…というスタイル。昔やっていた「巨人の星」のアニメでは、主人公の星飛雄馬が大リーグボールを一球投げる間に回想やらバッターボック スのライバル選手との腹の探り合いなどの葛藤が描かれて、たった一球で30分が経過してしまうというトンデモない構成をとっていたエピソードが結構あっ た。本作も「それ」でいく可能性がかなり高い。だが、それって肝心の「綱渡り」がその都度「寸止め」状態で描かれて、フン詰まりみたいな気分になりはしな いか。あるいは長々と主人公の半生を描いていって、最後のヤマ場としてツイン・タワーの綱渡りが描かれるというパターンも考えられなくはないが、それだと ラストの20分程度までは死ぬほど退屈な映画になりそうだ。つまり、一見「映画的」な企画ながら、実はどう描いても劇映画としてはキツそうな内容なのであ る。これはどうなんだろう? 正直言って近年のゼメキスの作品は、すべてがすべて傑作だった訳ではない。意欲的な企画揃いだったことは認めるものの、劇的 な「面白さ」という意味ではキツいモノも少なくなかった。だから、あまり多くは期待できない気がするのである。ところが、そんなこんなして躊躇しているう ちに、あっという間に上映館が少なくなってしまったから困った。ヘタをすると3D上映が午前中か夜だけ…みたいなことになりそうだったので、慌てて劇場に 出かけて行ったという次第。さすがにこの企画だと、3D上映で見ないのは片手落ちと言うべきだろう…。

ないよう

 1974 年に世界貿易センターのツインタワー・ビルを綱渡りしたフィリップ・プティ(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)、彼は高所で綱渡りすることについて、彼独 特の考えを持っている。人によっては、それは即座に「死」を想起させてしまうことかもしれない。だが、プティは「死」を考えたことなどないし、それをほと んど口にしたこともない。彼としては、こう言いたいと思っている。それは、むしろ「生きる」ということを意味している…と。そんな彼も、前年の1973年 にはパリでしがない大道芸人をしていた男でしかなかった。一輪車でスイスイと現れ、その場に大きな円を描いてその中で自由に演技する。その円の中は、完全 に彼が支配する世界だ。こうして、観客たちから見物料を徴収。もちろん路上使用料など払ったことがないから、いつも警察に追われていた。それでもお構いな しのプティは、根っからの自由人だったのである。その日も観客たちから小銭を集めていたプティは、女の子が「料金」代わりにくれた飴玉を頬張る。しかし、 いきなり噛もうとしたのがマズかった。歯をひどく傷めた彼は歯医者に飛び込んだが、そこで見た雑誌が彼に大きなヒントを与えた。それはニューヨークで建設 途中の高層ビル、世界貿易センターのツインタワー・ビルを紹介した記事だった。こうなると、もう彼の頭はビルで一杯で歯痛どころの騒ぎではない。ツインタ ワー・ビル征服こそが、彼の生涯の夢となったのだ…。そもそも彼は、子供の頃から思い込んだら諦めない性格だった。サーカスで綱渡りを見たのが運の尽き。 なぜか「オレにもできる」という根拠のない自信で練習を開始。それは青年になっても変わらず、いつの間にか素人離れした芸を身につけるに至った。そして幼 い頃に憧れたあのサーカスのテントに忍び込み、綱渡りの練習をしようとしたのだが…たまたまやって来たサーカスのオーナー、この業界でも海千山千のやり手 パパ・ルディ(ベン・キングズレー)。慌てて逃げ出すプティだったが、ただ逃げないのがこの男の「らしい」ところ。逃げながらも人をナメたような芸を見せ るプティに、パパ・ルディは思わず足を止めた。それは、何十年もの芸歴を誇るこの男の心に、プティが元から持っていたショーマンシップが火をつけた瞬間 だった。以来、したたかで食えないパパ・ルディが、プティの実質的な「師匠」代わりとなる。その後のプティは綱渡り一筋。トンデモな夢を持つ彼は怒り狂う 父親、嘆く母親を置いて家を出た。さらに、パリの街頭で無許可パフォーマンスを開始。そんなある日、たまたま近くでギター弾き語りをしていたアニー (シャーロッテ・レ・ボン)のお客を奪ってしまう結果となる。パフォーマンスの後で抗議に来たアニーだったが、それが結果的に二人にとって運命的出会いと なった。やがて若きカメラマンのジャン・ルイス(クレメント・シボミー)とも出会って、アニー共々プティの夢を共有することになる。その第一歩となったの が、公園の池の上に綱を張ってのパフォーマンス。しかしこの時は、池で釣りをする客たちの振る舞いが集中力を削ぎ、屈辱的なデビューとなってしまう。この 雪辱を果たすため、プティは次にノートルダム寺院の二つの塔から塔へと綱渡りするパフォーマンスを企画。これを見事に成功させて、逮捕はされたがその名を 世間に知らしめた。こうして彼の生涯の夢…世界貿易センターのツインタワー・ビル制覇へ着々と駒を進めるプティだったが…。

みたあと

  開巻いきなり世界貿易センタービルが出てくるので、こりゃあ例のツインタワー・ビルでの綱渡り場面が全編に散りばめられ、その間にチョコチョコと主人公の 回想シーンが入ってくるんだな…と思いきや、カメラはツインタワーからグッと退いて行って、自由の女神のたいまつの根本に主人公が立って、そこからドラマ の進行役としてナレーションしていく…という構成で映画が進んで行く。ただし主人公の幼い頃からの半生を延々と見せられるかと思うと、それらは意外にサク サクと進んで行ってしまう。そのうちに恋人ができて、賛同者が次々現れ、師と仰ぐ人物のサポートが描かれ、割とトントン拍子で問題の世界貿易センターへと 話が辿り着いてしまうのだ。実際、このプティなる人物の世界貿易センター・ビルでの綱渡りの一幕は、「マン・オン・ワイヤー」(2008)なるドキュメン タリー映画が出来ている。その作品で「実話」としてはすでにコッテリと描かれてしまっているので、今さらそれを同じようになぞって描いても仕方がないは ず。それもあって、僕はこの話を映画化するのは難しいかも…と思っていたのだ。では、どうやって2時間強の長さの映画に仕立てているのか。「マン・オン・ ワイヤー」に描かれていない部分なんかあるのか? それがあるのだ。ひとつには実際の映像が残されていないために「マン・オン・ワイヤー」に収録すること ができなかった、肝心の「綱渡り」場面。そしてもうひとつ…主人公たちがどうやって世界貿易センタービルに忍び込み、綱渡りのためのワイヤーを渡したの か…という「綱渡り」直前の場面である。
ここからは映画を見てから!

みどころ

  前述のように、本作では「綱渡り」直前の場面にかなりの尺数を割いており、なおかつ、いかにして建設途上で多くの監視の目があるビルに侵入し、そのツイン タワーにワイヤーを渡すか…というサスペンスを盛り上げる趣向になっている。この部分が、例えば「オーシャンズなんとか」みたいなちょっとシャレた犯罪映 画みたい感じに出来ていて、なかなか面白い。ジャズっぽい音楽を流しているあたりも、明らかにそんな雰囲気を狙っているのだろう。インモラルなんだけどワ クワクする…というセンを狙っているのだ。ちょっと「悪いこと」する楽しさを描いているのである。そもそもよくよく考えてみると、本作の主人公はあまり好 ましい人物ではない。トンデモないところで綱渡りをして逮捕されたことを言っているわけではなく、かなりテメエ勝手でワガママ、傲慢なところが目に付く。 主人公の恋人になるアニーとの出会いも、彼女のギターの弾き語りの観客を奪いとることから始まっている。自分の「夢」に多くの人々を巻き込みながら、それ に対する感謝があまりない。「共犯者」などと言っているが、あくまで主役はこのプティという男であり、その割には周囲の人間に犠牲を強いすぎる。並外れた 度胸と能力がある自分は、多くの人の献身を得るにふさわしい人間だという「思い上がり」が間違いなくある。普通ならばこんな主人公を描いて、面白い映画に なるはずがない。それでもロバート・ゼメキスが本作を描いた理由はと言えば、まさに先に述べたように、ちょっと「悪いこと」する楽しさ…を描きたかったか らだろう。主人公はハッキリ言ってハタ迷惑な人間である。ヤンチャといえば聞こえがいいが、ヤンチャも過ぎて困った男である。ルールを破ることがメシより 好きで、無茶ばかりやる。確かに身近にこんな男がいれば、かなり厄介な存在だろう。だが、そんな男だからこそ、世界一の高さのビルで綱渡りする…というト ンデモない「夢」が実現できたのだ。万事をルールで縛り、そこから一歩も出ない人々ばかりになったら、世の中から進歩も発展もダイナミズムもなくなってし まうだろう。本作は「そこ」こそを尊重して描いている。確かに主人公は困った奴だが、こんな奴がいなくなってこんなバカなことを誰もしなくなったら、世の 中はつまらなくなる…と言っているのである。その象徴こそが、世界貿易センターのツインタワーでの綱渡り…なのだ。よくよく考えてみると…主人公たちが侵 入できて、あんな仕込みまで出来たということは、当時のツインタワーは一応警備や監視はしていただろうが、イマドキと比べればかなりユルいものだったと想 像できる。当然のことながら、あの「9・11」を経験したアメリカ・ニューヨークでは、いや…世界中どこであったとしても、あのユルさはもはや望むべくも ないだろう。だから、本作で描かれているビル侵入のサスペンスこそが、本作のメッセージそのものにもなっている。苦心惨憺してはいるが、「ちょっと悪いこ と」をする興奮に満ちたビル侵入場面を、楽しくエキサイティングに描いているのだ。そしてエンディングで今はなくなってしまったツインタワー・ビルをCG で見せることによって、そんな破天荒さやアナーキーさが、ツインタワー・ビルと一緒に世界から失われてしまったと嘆いている。今では、世間にこんなケッタ イな人物やその行動を許容する余裕やおおらかさはない。今の世の中は非常に偏狭で寛容性がなく、柔軟性に乏しい世界になったのではないかと訴えているので ある。ただ、本作が大成功かと言えば少々微妙なところがある。問題の綱渡り場面はCGと3D技術によって素晴らしい緊迫感とリアリティ、さらにまるでファ ンタジーのように人を魅了する浮遊感を得ていて見応えがある。だが、少々主人公がいつまで経ってもツインタワーを渡したワイヤー上を行ったり来たりして周 囲の人間をオチョクっているように見えるので、悪ノリが過ぎるようにしか見えなくなってくる。ちょうど観客も素晴らしい3D効果に飽きて来始めるので、な おさら「長過ぎる」という印象になる。おまけに主人公の性格が性格だから、余計に「いいかげんにしろ」という気持ちになって来るのだ。史実でも実際にこの 通りなのだろうが、「痛快」を通り越して「調子に乗るな」という気分になってくるのである。このあたり…いかに好感度抜群のジョゼフ・ゴードン=レヴィッ トをもってしても、この主人公の困ったキャラクターは覆い隠せなかったか。さすがにゼメキスとしてはそのあたりも考慮してか、恋人が主人公の元を去って行 く場面もちゃんと最後に追加している。作り手も必ずしも主人公のキャラクターを全面的に容認している訳ではない…という印なのだろう。しかしながら、そん な「やや難アリ」の主人公を持って来てまで、「社会のダイナミズム」が失われたことへの嘆きを描きたかった…というのが、今回のロバート・ゼメキスの狙い だったのだろう。まぁ、人生も世の中も、実は良い悪いで割り切れるほど単純ではない。非常にグレーでファジーで、複雑かつ微妙なものだ。「フォレスト・ガ ンプ/一期一会」以降のゼメキスは「コンタクト」や前作「フライト」などストレートに成功作…とは言い難い作品を作り続けているが、「バック・トゥ・ザ・ フューチャー」を撮った彼なら本当はもっとストレートな娯楽作を撮ろうと思えば撮れるはず。それをあえてやらないとすれば、近作での「微妙さ」も実は彼の 作家としての成熟ではないのか…と僕には思えるのである。

さいごのひとこと

 3D効果がないと少々キツいかも。

 

「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」

 5 Flights Up

Date:2016 / 02 / 22

みるまえ

  モーガン・フリーマンとダイアン・キートンが老夫婦を演じる映画。いいかげん歳とって来たせいで、エレベーターなしのアパートメントがキツくなって来た二 人が、長く住み慣れた部屋を売りに出そうとする。ただ、フリーマンの方はあまり乗り気でなくて、当然のことながらてんやわんやが起きる…というお話らし い。この二人でこうしたコメディなら、ソコソコ楽しめることは保証されたも同然。そして、ちょうど個人的にも共感する出来事があったばかり…とあって、ま すます本作への興味は増した。唯一気になる点があるとしたら、「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」…という、何となく「暮らしの手帳」とか「無印良 品」みたいな感じがするタイトルだろうか。僕は、こういう気取った女の雑誌の見出しみたいなタイトルってどうも苦手だ。実際、こういうタイトルの映画っ て、見てみるとどこか問題がある場合が多い気がする。これって単なる映画ファンとしての「勘」だが、結構こういうことが当たっていたりするから怖い。それ でもフリーマンとキートンの共演に惹かれて、銀座までわざわざ見に行ったのだが…。

ないよう

  ニューヨーク、ブルックリン。住めば都とはよく言われるが、もう老境に達している黒人画家のアレックス(モーガン・フリーマン)はこの街を愛している。そ して、彼と妻ルース(ダイアン・キートン)との「愛の巣」である、長年住み慣れたわが家にも愛着がある。特に画家であるアレックスにとっては、その眺めの 良さは得難い宝物だ。陽当たりの良さも抜群で、ダイニングでもサングラスが必要なほど。文句のつけようがない住まいである。唯一問題があるとすれば、それ は彼らの部屋がアパートメントの5階にあり、アパートメントにはエレベーターがないことだろうか。それでも彼らが最初に住み始めた40年前には、まったく 問題はなかった。しかし二人が年老いた今となってみると、エレベーターの問題はもはやシャレにならない。今日も今日とて近くの店でコーヒーを買って帰って 来たアレックスは、5階まで登ってくる間に愛犬のドロシーと共に息も絶え絶えだ。そんなこんなで妻のルースは、この部屋を売りに出して引っ越す決意を固め た。不動産屋をやっている姪のリリー(シンシア・ニクソン)に頼んで、部屋の売却について話を進めるルース。話はトントン拍子に進んで、明日、この部屋の 購入希望者に対する内覧会を行うことになってしまった。だが、アレックスも諸般の事情から一旦は同意したものの、実は内心納得はしていない。住み慣れたこ の部屋と、素晴らしい眺めを手放したくないのだ。それでも老いさらばえた自分がルースに何を残せるのか…と考えると、部屋の売却に同意せざるを得ない。そ れは彼にとって苦渋の選択だった。そんな折りもおり、愛犬ドロシーがグッタリしているではないか。異変に気づいたルースとアレックスは、慌ててドロシーを 獣医に連れて行くためタクシーに乗り込む。ところが道路は異常な渋滞ぶりだ。タクシーの車載テレビによると、ブルックリン橋のど真ん中でタンクローリー車 が停まったまま放置されているという。どうやら運転者がタンクローリーを乗り捨てて放置したらしいのだが、それが爆弾テロの疑いがある…ということになっ て道路が封鎖されてしまった。そのため道路がひどい渋滞となってしまっているらしい。それでも何とか動物病院まで辿り着き、獣医の診察を受けることにな る。その見立ては、アレックスとルースにはいささかショックなものだった。治療には手術の必要があり、必ずしも成功するとは限らない。おまけに、脚が立て なくなるかもしれないというのだ。治療にかかる費用もバカにならず、ついつい金額を気にしてしまうアレックス。残念ながら、彼ら夫婦も潤沢な資金を持って いる訳ではない。今回の部屋の売却にも、そんな切実な事情が絡んでいるのである。そんな二人の思惑も絡んでの内覧会は、翌日予定通りに始まった。乗り気で ないアレックスは自分のアトリエに引っ込んでいるが、自作の絵画を「ガラクタ」呼ばわりされて不快な気分。やって来る客も買う気があるんだかないんだか分 からない連中が多く、買う気があっても不愉快な思いをさせられる連中ばかりだ。これには、さすがにルースですらウンザリせざるを得ない。おまけに例のタン クローリー事件が妙な影響を与えていて、同様の事件が起きたら交通の便が悪い…などと「とばっちり」としか思えない評価まで受けかねない始末。愛犬ドロ シーの手術の首尾も気になって、アレックスもルースも気もそぞろだ。それでもリリーは意気軒昂で、「うまくすれば100ドルまでいける!」と二人にハッパ をかける。その言葉を裏書きするように、内覧会を見に来た客のうち何人かから早速入札が入る。リリーの言葉に煽られるように、ついつい彼らに提示される金 額に浮き足立つアレックスとルースだったが…。

みたあと

  実は私事で申し訳ないが、現在、僕は人生で2度目の「引っ越し」を体験中である。その1度目は小学校5年生の時で、自宅を建て直していた時。今回は建て直 しではないが、大改修中のため新宿そばのマンションに避難中というワケだ。世の中、「引っ越し」を趣味みたいにする人もいるらしいと聞くが、僕にとっては そんなことは絶対あり得ない。今回体験した引っ越しは、ハッキリ言って苦痛でしかなかった。ちょうど本が出版されたところ…とは言いながら、店頭に並べば 並んだでいろいろやることがある。そんなアレコレの忙しさの最中にこれだったから、シンドイなんてもんじゃなかったのだ。そんな訳で、本作も見ていてどう しても「引っ越し」が頭から離れず、人ごととは思えなかった。ましてあんな何十年もそこで暮らしていた住まいを離れるなんて、どれだけ大変か想像するだに 恐ろしい。だから映画の内容とは関係なしに、ずっとヒヤヒヤして見ていた。逆に言うと、それだけ感情移入して見ていたとも言えるかもしれない(笑)。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 エレベーターなしのアパートにカラダがついていかない。だから自宅を手放して引っ越さなくては…というところから始まる騒動が今回のあらすじ。いや、こ れは「高齢化」問題も抱えているわが家としてはシャレにならないテーマ。いろいろ右往左往するのも分かるし、それが何とも煩わしいのも分かる。おまけに同 時進行で愛犬が病気で入院するという非常事態も発生して、ますます浮き足立つ主人公たち…というのは、まことに気持ちがよく分かるところ。しかし本作は、 そこにもうひとつサイド・ストーリーを組み込んだ。なぜか、ブルックリン橋で奇妙な事件が発生。それは運転手がタンクローリー車を橋の上で乗り捨ててしま う…というだけの事件だったのだが、なぜかあたかも「テロ行為」のような印象となって、大々的な犯人探しへと発展していく。その事件の報道が、老夫婦の家 の競売や新たな住まい探しの話と平行して、ずっとチラチラと流れていくという構成だ。そのあたりで、僕は何となく「ちょっとあざといかも」…と漠然と感じ ていたのだが…案の定、その予感はラストで的中。運転手の逮捕が報道されて大騒ぎになったところで、いきなりモーガン・フリーマンが発狂(笑)。何の確証 もなしにマスコミも一般大衆も寄ってたかって運転手をテロリスト扱いしていたことと、フリーマンとキートンの老夫婦が家の競売と新たな住まい探しで浮き足 立っていたことがイメージとしてダブって、「こんなことはやめよう!」とタンカを切って全部投げ出してしまう。言ってることは分かるし、長年住み慣れた家 を諦めたくない…というのも分かるので、僕としては結論として異議を申し立てる気にはならない。ただ、これをやられたら、それまで振り回された不動産屋が かわいそう。フリーマンに対して「身の丈を考えろ、このクソジジイ!」と叫ぶシンシア・ニクソンの不動産屋のセリフには、思わず「その通り!」と言いたく なってしまう。ここまでやってちゃぶ台返しやられたら、そりゃあ非常識と言わざるを得ない。大して悪いことをしたという気もなさそうなフリーマンのツラを 見ると、なおさら「ふざけるな!」と言いたくもなる。フリーマンは最初から不動産屋をバカにしていたし…。本作を見た人たちは、これっておかしいと思わな かったのかねぇ。相当ナメた話だよこれは。そもそも、冒頭で階段で上がるのを散々ブーブー言ってたのはフリーマン自身だからねぇ。それって何にも解決され ていないんだけど。それをいかにももっともらしげに、テロリスト扱いされて逃げ回る運転手の話…なんてエピソードを持って来てダブらせるあたりの姑息さが イヤだ。共通する要素があるように描かれているけど、ジジババの家探しとまったく関係ねえじゃねぇか。何を寝言いってるんだこいつらは。ガチで言わせても らえれば、このあたりの語り口にはズルさを感じる。監督は、イアン・マッケランが主人公をヒトラーみたいに演じた「リチャード三世」(1995)のリ チャード・ロンクレイン。どうしてこれを撮ろうと思ったのかは分からないが、このエンディングには「ちょっと頭の中だけで考えてみました」感…がチラつい て残念だった。見ていてガクッと来ちゃったよ。

みどころ

 ただ作品全編がダメかというと、これがそうじゃないから映画って分から ない。一言でいうと、モーガン・フリーマンとダイアン・キートンという二人のスターの相性がバッチリ。この二人のやりとりを見ているだけでイイ気分になる から、これといった事件が起きなくても楽しめるのである。これってまさに「至芸」としか言いようがない。そして、演技力の問題だけでもない気がする。この 二人の「人間的魅力」で魅せられてしまうという感じなのだ。この二人の共演作は今まで作られていなかったから、これは意外な盲点だった。ついでに言うと、 回想シーンでダイアン・キートンの若き日を演じるクレア・ヴァン・ダー・ブームという女優さんも、ダイアン・キートンの「感じ」をうまく掴んでいて好演。 ちょっとこの人にも今後注目したい。普通は結論やエンディングで「あれっ?」となっちゃうと映画全体が台無しになってしまうものだが、本作に関してはそこ まで名優二人のやりとりで楽しませてくれるので、腹が立たない。結果的に、映画全体としても印象は悪くないという不思議な結論となった。久しぶりに味わい 深い映画を見た…という気にさせてくれるのである。

さいごのひとこと

 今の自分は引っ越し問題にナーバス。

 
 

「エージェント・ウルトラ」

 American Ultra

Date:2016 / 02 / 15

みるまえ

  ショボいオタクなコンビニ店員の役にジェシー・アイゼンバーグ、この与太郎にはもったいないくらいの彼女の役にクリステン・スチュワート。アイゼンバーグ は彼女にプロポーズしようとタイミングを狙っているが、どうもうまくいかない…というヘタレっぷり。そこまでなら単に役柄にピッタリという感じだが、本作 はそのアイゼンバーグが実は秘密裏に要請されたスーパースパイで、本人はその記憶が消されている…という、どこかで聞いたような話。案の定、またまた CIAが彼を消しにやって来るが、そこでアイゼンバーグのスパイとしての能力が目覚める。かくして彼の行くところ死体の山…という「ボーンなんとか」のボ ンクラ・オタク版みたいなお話。この二人で、こういうバカっぽい映画ってところが気に入った。ボケッと見て楽しい映画が見たかったので、たまたま時間が空 いたところで劇場に飛び込んだ次第。

ないよう

 ウエスト・ ヴァージニア州の田舎町リマン。長髪オタクのマイク(ジェシー・アイゼンバーグ)は、地元のオンボロなコンビニ店員を生業としている。何せ周囲には何もな いドがつくほどの田舎。コンビニ店員といってもボケッと店番している方が長いくらい。だからこそ、マリファナ吹かしてマンガを描いてるマイクあたりでも、 店員が務まっているというわけだ。才能もコネも向上心もない。過去の栄光もないし、ついでに言えば、「栄光」どころかそもそも「過去」すらないくらい。そ んな彼にも唯一自慢できることがあるとすれば、それはズバ抜けた「彼女」がいるということか。恋人のフィービー(クリステン・スチュワート)は、こんなボ ンクラなマイクには出来過ぎた彼女。アホなマイクにも愛想を尽かさず、彼が描くゴリラのヒーロー「アポロ」」が大活躍するマンガの続きを楽しみにしてくれ る。だからマイクも、彼女に最高のタイミング、最高の演出でプロポーズをキメたかった。そのためバッチリ婚約指輪も用意したし、二人で憧れのハワイ旅行も 企画した。アロハまで買って準備万端、張り切って空港までやって来た。それなのに…。マイクは体調を崩しまくって、空港のトイレでグッタリしている。空港 ロビーで一人待っているフィービーは、「飛行機が出ちゃうよ」と諦め顔でつぶやいている。いざ出発という時にマイクが発作を起こし、結局、ハワイ旅行に出 かけることが出来なくなったのだ。そんな訳で、帰りの車内は完全にお通夜状態。マイクは自分の不甲斐なさを責めるばかりで、フィービーが慰めても落ち込み 気分は拭えない。それもそのはず、マイクが遠出を試みて失敗するのは、これが初めてのことじゃない。何とかこのちっぽけな田舎町から飛び出そうとするのだ が、毎度毎度激しい発作に襲われて断念するハメになっていた。その都度フィービーをガッカリさせているので、なおさらやりきれない気分になっているのだ。 それでもフィービーは、マイクを責める訳でもなく慰める。あまりに自分には出来過ぎた彼女であるフィービーを、絶対に幸せにしなければ…と、改めて意を強 くするマイクだった。そんなちっぽけな田舎町リマンの、ちっぽけなコンビニに働くちっぽけなオタク男マイク。そんなマイクを、遥か上空の軍事衛星が秘かに じっと監視していたとしたら…。ここはCIA本部。女性エージェントのラセター(コニー・ブリットン)はなぜか降格させられたばかりで、大いにボヤきにボ ヤく。そんな時、彼女に一本の電話が…。それは匿名の「タレコミ」で、ある極秘プロジェクトの関係者を抹殺する指令が下る…というものだった。その「タレ コミ」を聞いたラセターは、慌てて同僚のイェーツ(トファー・グレイス)の元に怒鳴り込む。どうやらこの件にはイェーツが絡んでいるようなのだが、調子良 く出世街道を駆け上がったこの男はラセターを小馬鹿にしており、彼女の問いにちゃんと答えるどころか、今や自分の方が上になった地位をいいことに脅しにか かる始末。かくして業を煮やしたラセターは、「抹殺される」と聞いた問題の関係者を救うべく自ら乗り出すことになった…。そんな別の世界でアレコレ揉めて いるとはツユ知らず、何とかフィービーにハワイ旅行の穴埋めをしたいと願うマイク。親しくしているヤクの売人(ジョン・レグイザモ)から花火を山ほど買い 込み、これでフィービーを喜ばせたい…などと子供のようなことを考えていた。そんなある日、マイクのコンビニに一人の中年女性が現れる。それは誰あろう、 CIAエージェントのラセターだ。彼女は商品をいくつか持ってレジのマイクに近づくと、何やら呪文のような言葉をつぶやく。戸惑って聞き返すマイクにラセ ターはおかまいなしに「呪文」を繰り返すが、何が何やらマイクにはまったく理解できない。ノレンに腕押しの反応の無さに、ラセターも少々失望してコンビニ を去って行った。一人その場に残されて、ただただ呆然とするマイク。一体、あの「呪文」は何だったのか…? そんな奇妙な日の夜のこと、カップスープにお 湯を注いでいただこうとしていたマイクは、店の外で彼のクルマに二人の男が何やら細工しているのに気づく。ポンコツ車でもマイクの大切な足だ、盗まれちゃ 困る。慌ててカップスープを持ったまま店の外に出て行ったマイクは、怪しげな男二人に注意した。すると男二人はまったく動じず、マイクに向かって来るでは ないか。一人対二人。ボンクラなオタクのマイクとしては圧倒的に不利だ、いつもの彼ならば…。ところが次の瞬間、地面には二人の男の方が横たわっていた。 何と彼は持っていたお湯を注いだカップスープ、スプーン、そして彼の素手を使って、二人の男を瞬時に絶命させてしまったのである…!

みたあと

  お話としてはこの感想文冒頭に書いたように、「ボーンなんちゃら」のボンクラ・オタク版…以上でも以下でもない。お話の中盤でちょっとサプライズがあるこ とはあるが、それだって見ていれば薄々感づいてしまうレベル。本作を見に行く観客はほぼ100パーセント、主役のジェシー・アイゼンバーグが大暴れすると いうことは承知で見に来ている訳だから、そういう意味ではまったく驚きのない映画だ。だが、逆に言うと無難に楽しめると言えなくもない。僕はちょうどボ ケッと映画を楽しみたいと思って見に行ったから、それなりに心地よい映画鑑賞だった。ニマ・ヌリザデって監督はそれまで何を撮っていたか全く知らないが、 ソコソコ楽しめる映画には仕上げてくれている。そういう意味では失望はしないんじゃないだろうか。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 そうなると、主役二人が最大のお楽しみ…ってことになる。実際、「ソーシャル・ネットワーク」 (2010)以来、コミュ障のオタク演じさせたら右に出る者はいない…って感じになってきたジェシー・アイゼンバーグが、今回も十八番を演じて快調。おま けに今回はこんな運動神経悪そうなアイゼンバーグが、「ボーンなんちゃら」並みに大暴れするっていうんだから楽しい。そのあたり、アイゼンバーグでもちゃ んとカラダが動くんだから、向こうの役者は大したものだ。痛快さも二倍三倍である。その描き方は血がドバドバ出てかなりバイオレンス風味がキツいが、あく までマンガ的な描き方…って、イマドキ流行りの「キック・アス」(2010)的なアクション描写になっている。そしてこんなボンクラに一途に寄り添うのがクリステン・スチュワート。これまたマンガみたいなアホな役なんだけど、それをキッチリ演じていて僕はすっかり感心した。フランスに行って「アクトレス/女たちの舞台」 (2014)なんかに出て、すっかりハクが付いた彼女だが、僕はむしろその一方でこんなアホな役をキッチリ演じられるあたりを「さすが」と思った。彼女は なかなかに素晴らしい女優さんだと再認識。そして、彼女が手抜きせずにキッチリ演じているから、本作はバカ映画なんだけど青春恋愛映画としてちょっとイイ 味出してる。…と思っていたら、脚本が何と「クロニクル」(2011)を手がけたマックス・ランディス。ちょっと納得してしまった。あくまでバカ映画でその範囲内で楽しめる作品ではあるけれど、それを超えた「ちょっとイイ味」が垣間見えるのである。本作を見て、少し儲かった気がした。

さいごのひとこと

 クリステン・スチュワートの顔色がだんだん良く見えてきた。

 
 

「ヘリオス/赤い諜報戦」

 赤道 (Helios)

Date:2016 / 02 / 15

みるまえ

  本作については、映画館のチラシで存在を知った。久々の香港映画の大作らしく、大量破壊兵器を手に入れたテロリストと、捜査陣との戦いを描く作品。ズラリ と並んだ顔ぶれを見るとどうやらオールスター・キャストらしい。香港映画に疎い僕でも、それらのうち何人かは名前も顔も分かる。おまけに今回はそこに中国 の俳優だけでなく韓国スターも混じっているというのは、アジア全域でヒットさせようという制作側の思惑によるものか。スケールの大きい作品であることは間 違いなさそうなので、仮につまらないにしてもソコソコ楽しめるところはあるはず。そんな気楽な気分で、フラリと劇場に行った次第。

ないよう

  夜の闇の中を、ヘリコプターが飛んで行く。ここは中国のある地域。雪を降りしきる中をヘリが舞い降りた先には、凄惨な旅客機墜落現場があった。すでに消防 や警察などが忙しく現場を駆け回る中、着陸したヘリからはサングラスの一人の女が降り立った。事故現場にやって来た彼女は、機体の残骸の中に中身カラッポ のケースが転がっているのを確認。そのケースの外側には、「DC-8」という字が書いかかれていた。そして乗員のうち、一人のCAの遺体が見つからないと いう報告を受けるサングラスの女。どうやらこの墜落は、単なる「事故」ではないらしい…。舞台変わって、ここは韓国の原子力施設。突如、現れた不審人物二 人によって施設は占拠され、職員たちは銃を突きつけられて言いなりになるしかなかった。かくして原子力施設からは、ある核物質が奪われてしまう…。こうし た奇妙な出来事は、香港で結びつこうとしていた。白昼、市街でテロによる核攻撃があったという想定で演習が行われている。そこにズカズカとやって来たの は、香港警察のリー(ニック・チョン)。リーは演習の指揮を執っていたある人物に声をかけると、そのまま彼をクルマに乗せて連れ出した。その人物の名はシ ウ教授(ジャッキー・チュン)、核に関するスペシャリストだ。リーはシウ教授に捜査への協力を要請するが、彼の反応は鈍い。実は以前もシウ教授は警察に協 力させられたが、肝心な事になると機密を持ち出されて教えてもらえず、非常にやりづらい経験をしていたのだ。そこでこの作戦の指揮官であるリーは、シウ教 授にすべての情報をオープンに与えることを約束。警察への協力を取り付けた。そんな今回のミッションとは、「DC-8」と称する韓国の小型核兵器に関わる ものだった。「ヘリオス」と呼ばれる犯罪組織の「使者」(チャン・チェン)とその部下であるチャンという女(ジャニス・マン)が韓国の原子力施設からこの 「DC-8」を奪い、それを香港に持ち込んで別の組織と取引するというのだ。一方、「DC-8」を奪われた韓国側でも、動きがあった。子供のお祝いをする 宴席から呼び出されたのは、核爆発装置を解体できる専門家・チェ理事官(チ・ジニ)。彼は例の「DC-8」絡みの問題で、急遽、香港に派遣されることに なった。このチェ理事官を援護するために、国家情報院最高のエリート諜報員パク・オチョル(チェ・シウォン)が同行。その出発にわざわざ韓国政府の女性高 官(キム・ヘスク)が見送りに来るという物々しさが、事の重大さを伺わせた。そんな訳で香港入りしたチェ理事官らは、香港警察のファン警部(ショーン・ユ ―)に迎えられて、すぐに取引現場へと向かうことになる。場所は繁華街の中にある立体駐車場ビルで、管理人らはみな中東の組織の構成員たち。捜査員たちが 秘かに見守る中、そのビルの中に入って来たのは「使者」とチャンという女だった。訳ありでコワモテの中東男たちを前にして、一歩も退かず余裕さえ見せる 「使者」とチャン。まさに取引が行われようとしたちょうどその時、捜査陣が一斉に駐車場へと踏み込んだ。阿鼻叫喚の中、捜査陣と「使者」とチャン、さらに は中東の組織の構成員たちが三つ巴の銃撃戦を展開。しかし多勢で乗り込んだにも関わらず、香港警察の捜査陣たちは苦戦を強いられる。香港では捜査権を持た ないチェとパクは、それを近くのクルマの中から見つめるしかなかった。しかしバイクでビルから逃げ出した「使者」の姿を、腕利き諜報員のパクは見逃さな かった。パクも自らバイクにまたがり、パクは追跡を開始した。香港の街中を縦横無尽に逃げ回る「使者」と、それに追いすがるパク。激しいデッドヒートの果 てにバイクごと転倒した「使者」は、「DC-8」の入ったバッグを残してその場から逃げ去った。パクのお手柄である。これで「DC-8」を奪還できたと喜 んだのもつかの間、どうやら転倒の衝撃で放射能漏れが生じ、「DC-8」が破損する疑いが出て来た。翌朝、「DC-8」の周囲は完全に封鎖され、韓国から やって来たチェとパクがものものしい装備で事態収拾に乗り出す。リーとシウ教授も緊迫した面持ちで、上空のヘリから状況を見つめていた。何とチェは状況打 開のためにあえて起爆装置を起動させるという大胆な行動に出るが、何とか「DC-8」の安全は確保され、当座の危機は回避された。リーはじめ捜査陣から も、安堵の声が漏れる。ところが、一同が安心したのもつかの間のことだった。一連の事態を受けて中国政府側から派遣された調査局のソン部長(ワン・シュエ チー)が、一同の前に登場。何と中国政府の意向で「DC-8」は韓国へ返還せず、香港で管理すると宣言する。これには、当然のごとく返還されると思ってい たチェとパクも動揺を隠せない。さらに最悪の事態が起きた場合を恐れるシウ教授は、香港全土を吹き飛ばす威力を持つ「DC-8」の返還拒否に猛反発。あく まで上の人間には逆らえないリーは板挟みに苦しみ、捜査陣の中にも不協和音が生じるようになってしまう。そんな香港、韓国、中国…それぞれの思惑が入り乱 れる中、例の「使者」が新たな動きを見せようとしていたのだが…。

みたあと

 小型核兵器を巡る激しい攻防が、香港、韓国、中国の間で展開するサスペンス・アクション映画。正直言って僕はそれほど香港映画に詳しくないものの、ジャッキー・チュンは昔からの馴染みの顔だし、ニック・チョンも「コンスピレーター謀略/極限探偵A+」(2013)で見覚えがある。チャン・チェンはすっかり大スターの安定感がある。それ以外の顔ぶれはあまりよく知らないが、明らかにオールスター・キャストとして配役されているのは明らかだ。「インファナル・アフェア」 (2002)など香港映画ではなぜか二人の監督の共同演出というスタイルをとる作品が多いが、本作もリョン・ロクマンとサニー・ルクという二人の監督に よって撮られている。何と最後には舞台は日本の京都にも移るから、オール・アジア的なスケールの大きさを狙っているのだろう。見るからにかなりの大作であ る。
ここからは映画を見てから!

みどころ

  そんな本作は、とにかく展開がスピーディー。冒頭が中国、そして韓国、さらに香港…と目まぐるしく舞台が移り、重要な登場人物が次から次へと出て来るが、 それらの説明らしき説明もなされないままドンドン話が進む。だから実際のところ分からない点も少なからず出て来て、分からないままお話だけが進行してしま う。例えば、冒頭の旅客機墜落現場が中国だとは、画面を見ているだけではすぐに分からない。韓国側のメンバーが出発する時に見送りに来る女性(キム・ヘス ク)も、ネット上の説明などでは「韓国国防部長官」などと肩書きが出ているが、映画を見るだけでは分からない。僕はてっきり韓国の現職大統領が女性である ことから、この人物が大統領だと思い込んでいたりした。また、「DC-8」という兵器がどういう仕組みでどういう特徴があるのかについても分かりやすく語 られる箇所がないので、いきなり放射能漏れだとか爆発の危険性…と言われても、何がどうなっているのか分からない。そういう意味では、娯楽映画として観客 に分かりやすく説明することを放棄している脚本であり、演出も器用だとは言い難い。だがそういう舌足らずの点を埋めて余りあるほど、そのスピード感が作品 に勢いを出している。ちょっと意地悪な言い方をすれば、話の展開があまりに早いので、多少の脚本や設定の穴も見逃してしまうのだ。そして、かなりの重要人 物までもあっけないほどコロコロと死んでいく。このドライさにはビックリした。そういう意味で、良くも悪くも現代感覚のある作品という印象が強い。こうい う本作の語り口に賛否両論あるかとは思うが、僕は「これもアリ」か…と感じている。ともかくサービス精神旺盛な作品で、映画の終盤はさらに慌ただしさを増 してアッと驚く展開になっていく。何と映画のエンディングが「解決」ではなく、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(2015)のように物語の終わりになっていないのである。これは製作陣は続編を狙っているのだろうか? 中心人物のひとりを演じているジャッキー・チュンは、昔は人の良さだけが取り柄…みたいな役柄専門の好青年だったが、近年は「ウィンター・ソング」(2005)などで凄みのある演技を見せてくれた。本作でもなかなかの役者ぶりで、今後も大いに期待できそうだ。

さいごのひとこと

 日本ロケが田舎みたいな場所だったのはちょっと残念。

 

「クリムゾン・ピーク」

 Crimson Peak

Date:2016 / 02 / 15

みるまえ

 「パシフィック・リム」 (2013)なんてオタクの権化みたいな映画をハリウッド大作として堂々と完成させて、いよいよ大物ぶりを発揮し始めたギレルモ・デル・トロ。その新作が 久々にやって来るとなれば注目せざるを得ない。今回はいわゆるゴシック・ホラーとかいうジャンルになるのか、いわゆる西洋お化け屋敷物語。ヒロインが僕の 苦手なミア・ワシコウスカ…というのはちょっと気になるが、脇を固めるのが「マイティ・ソー」(2011)のトム・ヒドルストンや「ゼロ・ダーク・サーティ」 (2012)のジェシカ・チャスティンという旬の役者さんであることも期待度が高い。こりゃあ久しぶりに怖いデル・トロが復活か…と楽しみにしていたら、 映画好きの知人がこの映画をまさかの酷評。それを聞いて、僕の方でも上がるだけ上がっていたハードルを下ろす気になった。さて、こうなると…期待値は思い 切り下がってしまったので、実物に接したら意外と面白いということになりはしないか? そんなこんなで、やはり気になるデル・トロ作品。自宅改修に伴う 引っ越しが一段落したところで、僕は早速、劇場へと足を運んだのであった。

ないよう

  雪の寒空の下、薄着の若い女性が血だらけで立っている。彼女の名前はイーディス・カッシング(ミア・ワシコウスカ)。彼女は放心状態のまま、これまでの経 緯を回想し始めた。幽霊は実在する、私はそれを見ている…。それは、イーディスが幼い頃にさかのぼる話。彼女が幽霊を初めて見たのは10歳の時…母親が病 気で急死した時のことだ。葬送の棺は感染を恐れて封印されたままで、別れの挨拶をすることも許されなかった。打ち拉がれたイーディスが夜、ベッドで横に なっていると、何やらモヤモヤした煙のようなモノが屋敷の奥から漂って来る。その黒いモヤモヤした塊は恐ろしさに身動きできない彼女に近づき、黒い手を伸 ばしてイーディスの肩をガッチリ掴んだ。そして立ち去り際に、こう告げるのだった。「クリムゾン・ピークに気をつけて」…。当然のことながら、イーディス はその言葉の意味を全く理解していなかった。そして、その意味が分かった時には、すでに手遅れだったのである…。お話はそれから14年後のニューヨーク州 バッファローに移る。とある建物に入って行く若い女性…それはイーディスの成長した姿だ。彼女はこの建物に入っている出版社に用事があり、自分が書いた小 説の原稿を編集者に売り込みに来たのだ。しかし編集者は、その小説が幽霊物語と聞いて渋い顔。若い女性の小説と聞いて、勝手に恋愛小説だと思い込んでいた のだ。そんな訳でこの売り込みは不首尾に終わるイーディスだったが、それは今回が初めてではない。今日も今日とて帰宅すると、実業家として財を成している 父カーター(ジム・ビーヴァー)に不平を漏らす。要は「女の書いた小説」だからナメられているのだ。そんなイーディスに高価な万年筆をプレゼントしたカー ターは、二重の意味で残念なことになってしまう。ひとつにはそのプレゼントは「出版決定」を祝うつもりだったからだし、もうひとつの意味としては、イー ディスは「手書き原稿」だからナメられる…と思い始めていたから。イーディスは次からは原稿は手書きではなく、タイプして送ろうと決心していた。そんな訳 で、父カーターの会社で従業員の女性にタイプを頼み込むイーディス。そんなところにやって来たのは、どこか高貴な雰囲気を漂わせる青年…その人物こそ、イ ギリスからやって来たトーマス・シャープ(トム・ヒドルストン)だった。彼はたまたまそこにあったイーディスの原稿をチラリと一瞥すると、その原稿を「幽 霊物語」であると喝破。さらにその内容を絶賛して、イーディスを喜ばせた。そんなトーマスがカーターの会社にやって来たのは、自らの事業への投資を募るた め。カーターをはじめとするこの街の財界人たちを集め、そこで事業についてプレゼンするためにやって来たのだ。そのプレゼンによると…トーマスは赤色粘土 鉱山を持つ大地主だが、現在ではその鉱脈も枯渇。そこでトーマスは自動掘削機を開発し、まだ鉱山に残る粘土鉱脈を掘り当てようとしていた。そのための資金 提供を、カーターたちに求めていたのである。だがトーマスの話をひとしきり聞いたカーターは、彼の計画に難色を示す。どうもトーマスは、ここに来る前にす でにあちこちで投資を断られて来たらしい。この場で結論は出なかったものの、カーターはトーマスに否定的だった。彼はなぜかトーマスに対して、好きになれ ないモノを感じていたのだ。それから間もなくのこと、街で盛大なパーティーが開かれることになる。若い医師のアラン(チャーリー・ハナム)がイーディスを 誘いに来たが、彼女は元からその手のものに行く気がなかった。実は父カーターはイーディスとアランが結ばれることを望んでいたし、アランも彼女に惹かれて いたが、イーディスには全くその気がなかったのだ。こうして、仕方なくカーターとアランだけがパーティーに出かけ、屋敷にはイーディス一人が残された。す ると部屋にこもるイーディスの前に、あの幼い日に現れた「母の幽霊」が再び現れるではないか。怯えるイーディスの前に姿を見せた幽霊は、またしても「クリ ムゾン・ピークに気をつけろ」と告げて雲散霧消した。イーディスが呆然としていると、今度は屋敷にトーマスがやって来る。トーマスもパーティーに呼ばれて いたが、彼はその会場が分からないので案内してくれ…とイーディスに頼み込む。こうして普段はパーティーや社交事には顔を出さないイーディスが、トーマス と一緒にパーティー会場に現れることになった。この様子を見て、唖然とするカーターとアラン。さらにもう一人、微妙な表情でトーマスとイーディスを迎える 人物がいた。それは冷たい美貌のトーマスの姉、ルシール・シャープ(ジェシカ・チャステイン)だった。やがて、パーティでワルツを踊る時間がやって来る。 多くの女性たちがトーマスとのダンスを望んだが、トーマスが相手に選んだのはイーディスだ。かくしてカーターとアランは、その二人のダンスを複雑な思いで 見つめることになる…。こうしてイーディスはどんどんトーマスと親密さを増していくが、カーターはこれを快くは思わなかった。そして秘かに探偵を雇い、 トーマスとルシールの背後を調べさせたのだった。やがて探偵は、カーターにその調査結果を知らせたのだったが…。

みたあと

 幽霊物語でいかにもな廃墟みたいな屋敷が出て来て、お話の基本は因果話…というと、いかにもギレルモ・デル・トロの得意分野のように思える。彼の作品でも「デビルズ・バックボーン」(2001)や「パンズ・ラビリンス」 (2006)あたりが大好きな僕としては、本作はかなりの期待作だったのである。ところが前述のように、まさかの知人からの酷評。人の言うことを鵜呑みに する気はない僕だが、さすがにこれには困惑せざるを得ない。それに…実は僕も酷評を耳にして、「ひょっとしたら」…と合点がいったところも少なからずあっ た。それはポスターやチラシなど、本作のアートワークを目にしたときの印象だ。こういうのっていわゆるゴシック・ホラーとか言うんだろうか。それはそれで キライな方じゃない僕だが、チラシやポスターを一見した時に、僕はわずかに説明できない微妙な「違和感」を覚えてもいたのだった。後になってから思い起こ すと、そこで僕が感じたモノが何かハッキリ分かる。アートワークから受けた印象は、ギレルモ・デル・トロというよりティム・バートンの最近の作品みたいな 感じだった。それも「スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師」(2007)やら「ダーク・シャドウ」 (2012)などの、いわゆる「マンネリ臭」が漂い出したあたりのティム・バートン作品の感じなのである。ただし、これには何の理由も裏付けもない。だか ら、単に「そんな感じ」がしたというだけだ。言いがかりと言えば、それまでの話である。しかし映画ファンにとって、こういう「感じ」や「勘」っていうもの は結構大事なことが多い。果たして…本作に対峙した後の僕の正直な感想は、まさにこの予感が当たらずとも遠からず…の感じだったのである。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  そもそも、何度も言うようだが僕はミア・ワシコウスカの鬼瓦みたいな顔が苦手だ。こいつが出る…というだけで、見る気が20〜30パーセント減退する。そ れなのに、なぜか映画の中ではモテ女的な役どころで出て来るんだよねぇ。どう考えてもあんな女モテねえだろ。顔が鬼瓦だぜ? まぁ、それはともかく…本作 ではNHK朝の連続テレビ小説のヒロインみたいに、時代に反発して単身頑張るタイプで登場。幽霊小説を書く作家志望で、出版社から原稿を突っ返されては 「男社会がどうの」…と文句を言うというありがちパターン。幼少の頃に母を亡くした悲しい思い出も、それが幽霊になって出て来る怖い思い出も、成長して 「鬼瓦」ワシコウスカに変わった時点で僕の頭からはスッ飛んでいる。それが、いかにも胡散臭いイケメン…「マイティ・ソー」などの敵役トム・ヒドルストン が出て来てから状況が一変。鬼瓦ワシコウスカはヒドルストンにチラッと小説をホメられたら有頂天で、どう考えても怪しさ満点のこの男とその姉ジェシカ・ チャステインにまんまと丸め込まれてしまう。後はご想像通りの展開だ。簡単に言ってしまうと、本作の弱点はこの一点に尽きる。鬼瓦ワシコウスカが周囲の助 言も無視しまくってこの姉弟にハメられていく話に、まったく共感できない。小説をホメられる…ったって、ほんの一瞬チラリと1枚の原稿を一瞥しただけ。そ れだけでベタホメという時点でヒドルストンを無条件で信じるなんてバカとしか思えない。おまけに顔は「鬼瓦」である。ところがこのバカ娘のおかげで、父親 は惨殺されるわ、彼女に惚れていた若い医師はわざわざ救出に行ってカラダをブスブス刺されるわ。それなのに、終盤ではわざわざモタモタして逃げないでいる ため、自分も医師も危険にさらすことになってしまう。とにかく、すべてがこの女のバカさ加減から生じたことなので、こいつが死のうがどうしようがまったく 気にならない。おまけに顔は「鬼瓦」。これではホラーとして致命的だろう。せっかく母親の幽霊が出て来て忠告までしてくれてるのに、それが全然活かされて ないのもマズい。本作のゴースト・ストーリーたるゆえんが「そこ」なのに、完全に無駄になっているからマズいのだ。どうせワシコウスカの書いた小説だって ロクなもんじゃないだろう…とまで思ってしまう。そしてクリムゾン・ピークという丘に立った廃墟の館も立派なセットを建造してはいるが、どこかちょっと 「違う」気がする。例えば「デビルズ・バックボーン」には地下室の怪しげな水槽が出て来たが、あのイヤ〜なムードが本作には感じられない。その違和感こ そ、僕が先に「近年のティム・バートン作品みたい」と言っていたところなのだ。僕はこういうモノをギレルモ・デル・トロに期待していないのである。もっと ショボくても安っぽくてもいいから、あのイヤ〜なムードを取り戻して欲しい。唯一いいと思ったのが前々から魔女に向いてると思っていたジェシカ・チャステ インのキャスティングだけ…では、さすがに寂しいのだ。

さいごのひとこと

 ギレルモ・デル・トロは一度メキシコに帰った方がよくないか。

 

「モンスターズ/新種襲来」

 Monsters : Dark Continent

Date:2016 / 02 / 01

みるまえ

 「モンスターズ/地球外生命体」 (2010)を見た時の衝撃は、今でも忘れることが出来ない。低予算で作られたSF怪獣映画だが、すでにかなりの評判を呼んでいた。それもそのはず。この 作品は凡百の怪獣映画とは一線を画し、まるでウェルナー・ヘルツォークが怪獣映画を撮ったみたいな印象だった。その後、監督のギャレス・エドワーズがハリ ウッドに呼ばれ、アメリカ版「ゴジラ」再リ メイク(2014)の監督に起用されたのも極めて当然。そのくらい、ユニークで面白い作品だった。その続編が製作されたと聞けば、見てみたくなるのが人 情。しかし前作の監督エドワーズは今回プロデュースに回って、監督はまったくの新人だと言う。登場人物も舞台も変わって共通なのは出て来るモンスターだ け…となってくると、これは果たして続編と言っていいのか。おまけに作品そのものの品質だってどうだか分からない。そんな訳で公開後もなかなか見に行けな かった訳だが、この僕がSF映画を見に行かないってのはやっぱりマズい(笑)。残念ながら評判もイマイチらしく公開は早々に終了間際となったため、僕は慌 てて劇場へ飛び込んだ次第。

ないよう

  寒々しく荒廃した街、デトロイト。そこで貧しい環境に育った若者には、多くの可能性や選択肢は存在しない。麻薬の売人か、はたまた兵士になるしかない。 パークス(サム・キーリー)は、そのうち後者を選んだ。生きるために戦うのだ。一方、中東では、アメリカ軍が熾烈な戦いを繰り広げていた。元はと言えば、 宇宙計画が地球に持ち込んでしまったモンスター。そのモンスターが、中東で異常繁殖してしまったのだ。これを叩くため、米軍が激しい空爆を開始。ただし、 それは民間人の犠牲という望ましくない副産物を生んだ。おまけにその隙につけ込んで、武装勢力がはびこるようになってしまった。こうなると、モンスターが 問題なのか武装勢力が厄介なのか分からない。米軍はこの両者に手こずるハメになってしまう。今日も今日とて建物の屋上から武装勢力の幹部をスナイパーとし て狙う百戦錬磨の強者・フレイター二等軍曹(ジョニー・ハリス)も、その目的はあくまで「モンスター撲滅」。この狙撃も、モンスター退治の邪魔となる要素 を排除するためだ…。その頃、デトロイトではパークスはじめ同じ部隊の仲間である面々が、出撃前の貴重な時を過ごしていた。ろくでなしながら、パークスが ピンチになると助けてくれた幼なじみのフランキー(ジョー・デンプシー)、娘の誕生とほぼ同時に戦場へ駆り出されるウィリアムズ(パーカー・ソーヤー ズ)…などなど。出撃の前日、彼らはハメをはずしまくり、先の事は出来るだけ考えないようにしていた…。こうしてやって来た中東の地。ヘリコプターで砂漠 上空を飛ぶパークスたちは、眼下をゆっくりと移動する巨大なモンスターの群れに唖然としていた。やがて戦闘機が飛来して、彼らを一気に空爆していく。そん なシュールな光景に、パークスたちは現実感覚を失っていく。そんな彼らの上官となるのは、例の超ベテラン兵士フレイター二等軍曹とフォレスト軍曹(ニコラ ス・ピノック)。早速、2台の装甲車に分乗して街をパトロールに出かけた彼らだが、街中で立ち往生することになって早くも緊張感ピリピリ。兵士たちを取り 巻く街の人々が、敵なのか味方なのか分からない。夜になってから敵の拠点を疑われる建物に接近した時も、現地の人間が近づいて来て興奮して話しかけて来 る。どうやら家族が犠牲になったことに抗議していたようなのだが、言葉が分からないこともあって作戦遂行中の兵士たちを苛立たせるばかり。そんなこんな で、徐々に神経をすり減らす彼らだった。そんなパークスたちに、重大任務が下される。取り残された部隊を救出すべく、「危険地帯」の奥地まで潜入する…と いう命令だ。早速、2台の装甲車に分乗して現地へ向かうパークスたち。途中で砂漠を疾走するモンスターの群れと遭遇。面白がって競走していた彼らだが、い きなり先行の1台が攻撃を受けて爆発、大破。武装勢力の攻撃である。慌てて後方にいたもう1台が停車し、フレイター二等軍曹、パークス、フランキーたちが 応戦。攻撃を受けた先行のクルマからヨロヨロとウィリアムズが出て来るが、いきなり地雷を踏んで吹っ飛ぶではないか。たちまち阿鼻叫喚の真っただ中に放り 込まれたパークスたちは、この状況下で生き延びることができるのか…?

みたあと

  前作も怪獣映画としては異色の出来映えだったが、本作も「異色」という点ならまったく負けてない。前作ではメキシコで繁殖中だったモンスターが本作では中 東で大繁殖し、これを米軍が討伐中…という設定だが、問題がひとつだけある。モンスターを空爆で攻撃している際に地域の民間人を多数巻き添えにしており、 無用に住民感情を逆なでしたために武装勢力をはびこらせる隙を作ってしまった。そのため米軍兵士はモンスター退治ではなく、むしろこの武装勢力との不毛な 戦いに神経をすり減らすハメに陥っている…。「インデペンデンス・デイ」(1996)ではエイリアンの襲来が人類をひとつにしたが、物事はそれほど単純な 訳がない。むしろここで描かれている状況の方が、リアルと言えばリアルだ。そして映画を一見すればお分かりのように…ここで描かれているモンスターとの戦 いは、明らかに湾岸戦争やらイラク戦争やらといった「米軍が介入して来た中東での戦い」のメタファーとなっているのである。
ここからは映画を見てから!

みどころ

  明らかに斜陽の街であるデトロイトから、貧しさも手伝って兵士として戦場に借り出される若者たちが主人公。彼らが出征する前の場面などがやたらに長く、単 刀直入にモンスター退治を描くような他の凡百なSF映画とは一線を画している。舞台が中東に移ってからも、モンスターはあまり現れない。実は主人公である 兵士たちがモンスターと戦っている場面すら、ほとんどない。その代わり映画は、地元の武装勢力との戦いや地域住民との緊迫感ある関わりをひたすら描く。モ ンスターははるか遠くで空爆されたり、「戦場」をウロチョロする「異物」としての点景でしかないのだ。結果的に映画は、「ジャーヘッド」(2005)、「ハート・ロッカー」(2008)、「ゼロ・ダーク・サーティ」(2012)、「アメリカン・スナイパー」 (2014)…などといった、「中東戦争」映画と同じような外見を持つことになる。いや、むしろ描き方としてはそれらの「中東戦争」映画よりも、さらに一 層リアルで日常的な感覚を持つことになったのだから不思議である。ヒーローとしてエイリアン討伐のために乗り込んで来てみたら、地元住民からは忌み嫌わ れ、ヘタをすると命を狙われる立場になっている。そんな不条理感を、従来のどの「中東戦争」映画よりも感じさせてくれるのである。そして、主人公である パークスという若者は特命を帯びて「危険地帯」の奥深くに潜入して行くのだが、その道中でどんどん過酷な状況に追い込まれていき、映画はますます厭戦的な 気分になっていく。失踪したカーツ大佐を追ってベトナム奥地へと川を溯って行くうちに、主人公の目を通してベトナム戦争の陥った泥沼な状況が描かれてい く…というフランシス・コッポラの「地獄の黙示録」(1979)の構成を連想させる内容になっているのだ。それではモンスターなしでも成立可能ではない か…と問われると、正直言ってそれを否定できない。実は本作があまり高い評価を得られず、興行上も苦戦している理由は、まさにそこにあるようだ。実際のと ころ…モンスターが出て来るSF映画を見に行って、モンスターとの戦いが描かれず泥沼の中東戦争ばかり見せられたら、それは文句を言いたくなる人がいても 不思議はない。この映画をケナす人の意見を、僕はあながち否定はできない。僕自身SF映画好きだからこそ、そう言いたくなる気持ちも分からないでもないの だ。だが、僕は「SF映画好き」であると同時に、一般的な「映画好き」でもある。そういう観点から見た場合、本作の持つ「中東戦争」映画としての不思議な リアルさは、必ずしも否定すべきものだとは思えない。この映画に「SF映画」的なモノを期待した人たちが「見たいのはコレじゃない」と文句を言うのは止め られないが、そもそもそんな「期待」を除外してみると、本作はシリアスな戦争映画としてなかなか秀逸なのである。むしろ…「地獄の黙示録」が映画の後半に 行くに従って奇妙なトリップ感に包まれていったように、ところどころで戦場に現れるモンスターの姿が、まるで戦場で兵士たちが囚われる幻想やら悪夢のよう に見えてくる。あるいは兵士たちが陥る恐怖や徒労感の象徴に見えてくる。そういった意味で、本作に出て来るモンスターも実は無意味ではない。戦争の不条理 感やリアルな感触を増すために、それは「必要」な要素なのである。やたらに叩かれて評判が悪い本作ではあるが、僕は本作のあり方を「是」と見た。本作で劇 場映画デビューの脚本・監督のトム・グリーンは、「次回作」があればなかなか期待できるのではないだろうか。

さいごのひとこと

 ある意味で中東での米軍の立ち位置が分かる一作。

 

「クリード/チャンプを継ぐ男」

 Creed

Date:2016 / 02 / 01

みるまえ

  しかし自分がまだ学生だった1980年代の段階で、まさか21世紀も15年以上過ぎても、正月映画に「007」や「スター・ウォーズ」、さらには「ロッ キー」の新作が公開されていると想像できただろうか? ビックリだよねぇ。何とまたまた「ロッキー」シリーズ新作の登場である。しかし「スター・ウォー ズ」シリーズ最新作の「フォースの覚醒」(2015)が ド派手な話題を提供しているのと比べると、今回の「ロッキー」新作は少々地味〜な印象。まるで日陰者みたいな扱いだと思っていたら、今回の「ロッキー」新 作の主役は何と彼自身ではなくてライバルだったアポロの私生児のお話。いろいろ考えるもんだ。実際、この新作企画のニュースが伝わって来た時には、「なん だかなぁ」と微妙な気分になった。何しろ「ロッキー」シリーズ自体が、「ロッキー5/最後のドラマ」(1990)で一旦終わっている。ところがその後16 年も経ってから「ロッキー・ザ・ファイナル」 (2006)を作ったからややこしい。『最後のドラマ」の後に「ファイナル」である。ただ内容はというと、いささか残念な内容だった「5」を上書きして、 さらに有終の美を飾ったという意味で「ファイナル」は嬉しかった。以来、スタローンも第一線に帰ってきた。だから、これで「ロッキー」シリーズも成仏でき たよな…と僕らも納得した訳だ。ところが、またしても…そしてライバルの隠し子まで引っ張り出しての「ロッキー」の新作。宣伝コピーも勇ましく、“「ロッ キー」新章、始まる”…って言われてもねぇ…。一体いつまで「ロッキー」で儲けるつもりなんだとウンザリする。正直無理矢理感があり過ぎのシリーズ続行 に、ロクな作品になりっこないとイヤな予感しか湧かなかった。案の定、今ひとつ正月興行でも盛り上がりがない。完全に「スター・ウォーズ」の後塵を拝して いる状態だ。ところが海の向こうでは、この新作「クリード」の評判がすこぶるいいと伝わって来た。何でも本作の監督を務めた男は、マーベルの新しいヒー ロー映画を撮ることが決定したと言う。マンガの映画なんか好きじゃないのだが、常に意欲的な作品作りをするマーベルに引っ張られたのなら「タダモノ」じゃ ないはずだ。そうなると、どう考えてもロクな映画じゃないはずの「クリード」が妙に気になって来る。おまけにスタローンがオスカー助演賞候補に躍り出る… とまでやってくると、これは尋常なことではなさそうだ。そんなこんなでどうしても無視できず、劇場に慌てて駆けつけたという訳である。

ないよう

 1998 年、ロサンゼルスの少年院。突然、院内で起こった異変に、看守たちが慌てて駆けつける。大広間で少年二人が大げんか。それを周囲の悪ガキどもが大騒ぎで取 り巻くという状況だ。事の発端を作った黒人少年は取り押さえられ、独房に叩き込まれた。たまたまそんな彼に面会に来た中年の黒人女性は、彼が独房に入れら れたと聞いて絶句する。ともかく独房まで連れて来られた彼女は、そこでこの少年と対面。身なりの良い黒人女性の姿を見た少年は彼女を民生委員かと思った が、彼女はそうではなかった。自分がケンカをした理由を「死んだ母親をバカにされたから」と打ち上げた少年。彼の性根の美しさを認めた中年女性は、自分に は父親がいないと語る少年に「父親はいるわ」と告げる。さらに彼女は、少年に自分と一緒に暮らそうと提案するのだった。その中年女性の名は、メアリー・ア ン・クリード(フィリシア・ラシャド)。歴史にその名を残す名ボクサー、アポロ・クリードの未亡人だ。そんな彼女が引き取りに来た少年こそ、実は他の女性 との間にアポロが遺した隠し子アドニス・ジョンソンであった…。それから月日を経た2015年、メキシコの国境の町ティファナ。その汚いビルの殺風景な一 室に、逞しい青年に成長したアドニス(マイケル・B・ジョーダン)の姿があった。その見事な肉体をさらした彼は、指にテープを巻いているところ。次の瞬 間、アドニスは薄汚い地下のリングに立って、荒削りなボクシング試合を戦っていた。だがその12時間後には、彼はピシッとスーツに身を固め、ロサンゼルス の小ぎれいなオフィスでパソコンに向かっていた。アドニスはオモテ向きビジネスマンとして働きながら、秘かにメキシコで、ほとんどストリート・ファイト同 然なボクシング試合に身を投じていたのだ。だが、それもそろそろ限界だった。アドニスは驚く上司の目の前に辞表を突き付け、ビジネスマンとしての仕事を手 放す。そんな彼が帰って来たのは、広大なアポロ・クリードの豪邸だ。出迎える「母」メアリー・アンは、アドニスが今日もちゃんと働いて来たと信じていた。 さすがにこれにはアドニスも、とてもじゃないが「辞めた」と言い出すことが出来ない。それでもアドニスは、自分の内側にくすぶる「ボクサーとしての血」を 抑えきれない。夜、豪華な映写室で見るのは、父アポロとその宿敵ロッキー・バルボアが戦った歴史的一戦の映像。それを映し出すスクリーンの前で、アドニス は一心不乱にシャドー・ボクシングを繰り返すのだった。だが、彼の気持ちを受け入れてくれる者はいない。アポロが在籍したジムに向かったアドニスだが、そ こでは誰も彼をコーチしてくれない。偉大なチャンプの息子をコーチするのも恐れ多い上に、チャンプのようにボクシングで死なせる訳にもいかない。結局、み んな彼を腫れ物に障るように扱うしかないのだ。それでも自分ならやれるはず…とリングに上がるアドニスに、お灸を据えるべく「本職」の洗礼を浴びせるジム のボクサーたち。結局、「我流」で戦ったメキシコでの経験など、プロにとっては者の数ではなかった。さらに、会社を辞めたことがメアリー・アンにバレたア ドニスは、彼女と決定的な口論をしてしまう。夫アポロを「ボクシングで亡くした」メアリー・アンは、どうしてもアドニスにボクシングをさせたくなかった。 しかし、もう彼は止められない。「ボクシングをやるなら一生会わない」と言い放つメアリー・アンを残して、邸宅を去るアドニスだった。そんな彼が向かった 先は、ペンシルバニア州フィラデルフィア。父アポロの宿敵にして盟友であったロッキー・バルボアの本拠地である。いまや名門となったミッキーのジムは健在 で、今もチャンプを夢見る男たちがそこで自らを鍛えていた。アドニスもそこに籍を置くことにしたが、誰も彼にちゃんとコーチしないのは変わらない。そんな アドニスは、ある夜更けに小さなレストランへと足を運ぶ。すでに閉店間際でお客も帰ったその店には、壁一面に数々の思い出写真が飾られていた。その中に… アドニスの父アポロとロッキー・バルボアの「世紀の一戦」の写真も。アドニスがその写真に目を留めたのを見透かしたかのように、彼の前に店の主人が現れ る。めっきり老け込んではいるが、その姿は誰もが見間違えようがない。彼の前に現れた主人こそ、伝説の男ロッキー・バルボアその人(シルベスター・スタ ローン)ではないか…!

みたあと

  「ロッキー」もあの手この手を出し尽くして、おまけにスタローンの決定的加齢でさすがにキツくなってきたが、それを解決する妙案が「アポロの隠し子」!  最初にそれを聞いて、さすがに「グッド・アイディア!」とは思えなかったわな(笑)。何じゃそりゃ?…ってのが正直な気持ちだった。そこまでして…弁当箱 の隅っこにへばりついた残りカスみたいなモノまで突いて、それでも「ロッキー」を続けたいのか? 他に何かネタはないのかよ? 企画の貧困ここに極まれ り。おまけにスタローンもスタローンだ。さすがに今回、企画の主導権は彼のモノではないらしい。だが一旦「有終の美」を飾らせたシリーズなのに、どうして 「寝た子を起こす」ようなマネをするんだ。いやホント、やめときゃいいのに…としか思えなかった。その後、結構評判がいい…とは聞いていたものの、どうし ても半信半疑にしかならない。だって今回のストーリー…ロッキーが自分で戦わず後進を育てるという設定は、もうすでに「ロッキー5」でお試し済みではない か。しかも、その結果はすでに残念なモノとなって終わっている。今回はせいぜいその後進に、「アポロの息子」という付加価値が付く程度のこと。どう考えて も盛り上げる要素がないんだよねぇ。本作でスタローンはオスカーの助演男優賞にノミネートというビックリな結果になったが、それだってタフガイ専門だった スタローンがわざとらしい程の老け役を演じたからじゃないのか。どう考えてもいい映画になっているとは考えにくい、本当に面白く出来ているのか? …とこ ろが、それが何と、面白く出来ているのである!

ここからは映画を見てから!

みどころ

  主人公はアドニスであり、映画のスタイルも毎度おなじみ「ロッキー」のそれとは違う。アドニスが主人公という時点で、本作は従来の「ロッキー」とは違った 語り口にならざるを得ないのだ。それは、監督・主演を中心にスタッフ・キャストの大半を黒人映画人が占めていることから明らかなように、ハッキリと「ブ ラック・ムービー」の趣を持っているのである。そもそも音楽だってあのビル・コンティの音楽ではない。いかにもなヒップホップがガンガン鳴る。「ロッ キー」シリーズにまつわる登場人物や設定は出て来るが、それはほとんど…まるで「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」で砂漠の惑星に横たわっていた宇宙戦 艦の残骸のように、遺跡か遺物のような感じで登場する。そもそもスタローン扮するロッキー・バルボア初登場シーンにしたって、ジャ〜〜〜ン!…という華々 しい登場の仕方ではない。枯れた味わいの好々爺として、ひょっこりと劇中に顔を出すのである。一時が万事この調子で、主人公を取り巻く物語とその語り口は イマドキ黒人映画のノリ。新鮮ではあるがそれは「ロッキー」ではない。そしていかにも「ロッキー」という感じの登場人物や設定は、すべて過去の存在として 登場する。その結果、本作はイマドキの映画としての圧倒的鮮度とリアリティを獲得した。正直言って「ロッキー」シリーズは、後半の作品あたりでは「お約 束」要素が災いして極端に陳腐化していた。テレビの「水戸黄門」みたいに夜8時45分になると葵の印籠が出て来る…みたいな、色褪せて形骸化したルーティ ンワークみたいな部分が大きくなり過ぎていた。もうそうなってくると、冗談にするしかないところもあったワケだ。しかし、そもそも最初の「ロッキー」は、 そんな「王道」「お約束」の映画だっただろうか? 確かもっと下層の暮らしや市井の人々のリアリティが感じられ、エッジが立った作品ではなかったか。そも そも主演のスタローン自体が、それまで食うや食わずの暮らしをして来たというリアルさ。そんなヤバさが、映画をフレッシュにしていたのではなかったか。い つしか娯楽大作化してそんなエッジが削り取られた「ロッキー」シリーズに、本作は黒人映画のノリとリアリティで最初の鮮度を取り戻したと思えるのだ。そん な再生ぶりは、試合場面の撮影方法にも感じられる。まるでほとんどワンカット長回しみたいな撮り方で、しかもカメラが試合の至近距離まで接近。時にカメラ が戦う者の視点を代用するという、アダルト・ビデオ風(笑)のフレームである。このアダルト・ビデオ風フレーム…については僕の「トゥ・ザ・ワンダー」 (2012)感想文を参考にしてもらいたいが、その目的はズバリ、観客に戦っている気持ちになってもらうこと。それによって、我々は試合の真っただ中に放 り出され、とても人ごととは思えなくなっていく。そんなこんなしていくうちに…アプローチの仕方こそ微妙に異なるけれども、実は物語は終盤からかなりおな じみ「ロッキー」色が濃厚になってくる。そして、何でも持っているしハングリーになりようがないはずのアドニスが、実はどうしても戦わねばならない理由が 分かってくる。それは内に流れる「親父の血」でもなければ、何となく満たされない思いを満たす…なんて漠然としたものでもない。自分がアポロのほんの ちょっとした「過ち」の結果…ではないと、全身全霊を持って証明するためだったと分かってくるのだ。これは結構来ますよ。この映画のアドニスは、決してハ ングリーな状況ではない。一見すると、まるで戦う必然性もない。しかし、ファイティング・スピリットは貧しさに宿る…なんて、考えてみればいささか古くさ いイデオロギーではないか。そういう歪んだ精神主義みたいなモノから「ロッキー」を解き放っただけでも、本作は「新しい」し存在する意味がある。ハング リーさってのはそういうもんじゃないだろう…ってところに、現代の観客たちにも共感できる部分がある。さらに後半、ロッキーには大きな試練が襲いかかる。 その「試練」を映画を見る前に知った時には、正直言って僕はいささかシラケた気持ちになった。従来の「ロッキー」シリーズは、途中からガス欠気味になって きたドラマの原動力を、主要登場人物の死によって乗り切ろうとした。そのためにミッキーが死に、アポロが死んでいく。しかし刑事ドラマ「太陽にほえろ!」 の七曲署殉職刑事じゃあるまいし、毎度毎度人が死ぬことがドラマの原動力になるというのは、単に登場人物を使い捨てに消費していくだけだろう。それらと同 じイヤ〜なニオイが…本作でロッキーに降り掛かる「試練」にもチラついたのだ。いやぁ、勘弁してくれよ。ここでロッキーまで殺して、それでロッキーの魂を アドニスに継承…とかやるんかい。申し訳ないが、そいつはちょっとついていけない。またぞろ人を殺す…なんて、ドラマとしてヘタ過ぎちゃって勘弁して欲し い。そんな辟易した僕ら観客の思いをちゃんと分かっていたのか、本作ではそんな安易な道を選びそうな設定が、アッと驚く方向に転換される。アドニスはロッ キーにこう吠えるのだ。「オレも戦う、アンタも病気と戦ってくれ!」…そうだ、戦いのカタチはひとつじゃない。誰にもその人なりの戦いがあるのである。こ れはもう、見ている観客一人一人にも他人事ではない問題だ。ここでグッと来ない人間なんかいないだろう。ここでロッキーを殺さず救出したこと、さらにアド ニスとロッキーのダブルの戦いに仕立てたこと…に対して、この脚本の「当たり前のことをやっているようで一味違う」工夫にアッと驚いた。そして…正直言っ て近年は父や母の闘病を目の当たりにし続けて来ただけに、ロッキーの「老い」やら「病気」は身につまされる問題だ。そうなると、スクリーンに対して距離を 保っていることなど出来ない。個人的には、僕はもうこの部分で抵抗できない。こんな風にすべてのカードが揃って来た映画の終盤に至って、それまで出してい なかったビル・コンティのおなじみ「ロッキー」のテーマが、スクリーンを圧するように大々的に流れるのである。映画の後半あたりになると、何となくこれが 流れそうだな〜と感じられながら、なかなか流れそうで流れなかった。それが終盤、一気に気持ちよく大音響でど〜〜んと流されるのだ。リーズ・ウェザース プーン主演の「わたしに会うまでの1600キロ」 (2014)で流れそうで流れなかったサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」が、最後にガ〜〜〜ンと流される「あの爽快感」である。ここへ 来て、「ロッキー」シリーズとは異質な「黒人映画」の語り口によって鮮度とリアリティとエッジを獲得した本作は、いきなりど真ん中の「ロッキー」シリーズ に対するリスペクトを表明するのである。これはほとんどアクロバットみたいなワザで、それを成功させたことに対してはお見事としか言いようがない。そんな 訳でいろいろクドクド語って来たが、本作を撮った脚本・監督のライアン・クーグラーは大変な男だ。実はその前には、無実の黒人青年が警官によって射殺され てしまう…という社会派作品「フルートベール駅で」(2013)で知られた人らしいが、どう考えてもそんな前作とのつながりが感じられない本作。ところ が、非常にデリケートな外科手術みたいな手つきと強引なパワーを併せ持った演出で、やってくれるのだ。まったく期待していなかっただけに、僕は完全にやら れてしまった。試合の後、まるでフーリガンみたいに挑発的なイギリス人のチャンプが、アドニスと拳を交えた後で「オマエは次のチャンプだ!」と認める…と いった後味の良さも捨て難い。ちゃんと娯楽映画の作り方が分かっているのである。この監督の次の映画がマーベルのヒーロー映画と聞いて、またマーベルにや られてしまうのか…と、僕は非常にムッと来ている(笑)。主人公アドニスを演じたマイケル・B・ジョーダンも、「クロニクル」 (2011)に次いで本作…と知性が感じられる風貌で、これは結構「来る」んじゃないだろうか。ともかく形骸化したシリーズにカツを入れて再生する…とい う意味では、巷で大評判だった「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」に全然負けていない。いや、むしろ「あの有名キャラクター」をあんな使い方しちゃって いる点から考えると、「フォースの覚醒」なんかより「クリード」の方が数段上なんじゃないのか? 結構うまく作ったなと感心させられた「フォースの覚醒」 だったが、正直言って本作を見た今となっては少々見劣りするとさえ思えて来た。そんな本作が、興行でイマイチな状況になっている日本の映画ファン事情に、 実は僕はかなり暗澹としたものを感じている。文句なく優れていて面白い作品が…おまけにそれなりに話題になる要素も少なくないにも関わらず、あまりに顧み られないという現実はいかがなものだろうか。むやみやたらにモテはやされる「スター・ウォーズ」を取り巻く状況を見るにつけ、僕は本作にもっと光が当たる べきではないかと本気で思うのである。

さいごのひとこと

 J・J・エイブラムスが嫉妬しそう。

 


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