新作映画1000本ノック 2016年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「マイ・ファニー・レディ」 「独裁者と小さな孫」 「リザとキツネと恋する死者たち」

 

「マイ・ファニー・レディ」

 She's Funny That Way

Date:2016 / 01 / 25

みるまえ

  ピーター・ボグダノビッチと聞いて、ピンと来る映画ファンが今日何人ぐらいいるんだろうか。むろん、僕は思わず反応してしまった。というか、1970年年 代から映画ファンをやっている奴なら、誰しも反応してしまうと思う。「ラスト・ショー」(1971)、「おかしなおかしな大追跡」(1972)、「ペー パー・ムーン」(1973)…このあたりのボグダノビッチは無敵だった。ちょっとノスタルジックで、若いのに老成した眼差しの作品群を連発。何しろ当時 は、「ゴッドファーザー」(1972)のフランシス・コッポラ、「フレンチ・コネクション」(1971)、「エクソシスト」(1973)のウィリアム・フ リードキンと一緒にディレクターズ・カンパニーなる会社を立ち上げたくらい。ただこのディレクターズ・カンパニーの面々が輝かしいキャリアを持てたのも長 いことではなく、すぐに逃げ出したコッポラはチャッカリと舎弟のルーカスやらスピルバーグとツルむようになるのだが(笑)。ボグダノビッチもすぐにダメに なって、私生活もボロボロ。鳴かず飛ばずの日々を送るようになったワケだ。そんなボグダノビッチの新作がやって来るとなれば、気にならない訳がない。今の ボグダノビッチの人気のなさから考えて、すぐに上映が終わってしまう可能性もある。僕は慌てて元日から映画館に駆け込んだというワケだ。

ないよう

  ハリウッドの新進女優イジーことイザベラ・パターソン(イモージェン・ブーツ)が、女性記者(イリーナ・ダグラス)のインタビューを受けている。それは、 イジーが女優としてスタートしたなれそめのお話。女性記者はズバリと、彼女の過去がコールガールだったんじゃないか?…と指摘するが、イジーはそれに対し て否定しない。それどころか、面白おかしい真相を語り始める。元はと言えば…新作舞台の準備のため、ロサンゼルスから演出家のアーノルド・アルバートソン (オーウェン・ウィルソン)がニューヨークへやって来たのが発端。今回の舞台で起用する人気俳優セス・ギルバート(リス・エヴァンス)とたまたま同じホテ ルに泊まることになってしまったが、アーノルドは彼のことが苦手なのか、その誘いには乗らずに部屋に籠る。旅先の恥はかき捨てじゃないが、彼はここで ちょっとしたお楽しみを味わおうと考えた。電話で馴染みのコールガール事務所に電話し、手頃な女の子を派遣してもらうように手配する。そこでやって来たの が、「グロー」という源氏名のイジーだったというワケだ。そんな調子で…インタビューしてくる女性記者に、イジーは悪びれもせずにすべてを開けっぴろげに 語り尽くす…。早速「仕事」を…と思っていたイジーだが、アーノルドはそんな彼女を外に食事へ連れ出す。馬車に乗せてロマンティックな時を過ごす。こうし てようやくベッドでの「一仕事」が終わったところで、アーノルドはイジーに奇妙な提案をしてくるのだった。「この仕事から足を洗うと約束するなら、君に3 万ドルあげよう」…と。一体どうした気まぐれか、アーノルドはイジーの「女優になりたい」という夢を叶えたくなったのだ。そんな不思議な行動を、「リスに クルミをあげる人がいるなら、クルミにリスをあげる奴がいたっていいじゃないか」…という妙なセリフで説明しようとするアーノルド。ウィットに富んだ男… という彼一流の演出である。大喜びのイジーは、この提案に乗った。イジーもアーノルドもハッピー。ただし、ホテルの部屋を立ち去って行くイジーのことを、 たまたまあのいけ好かないセスが見ていたのがマズかったのだが…。さて、アーノルドは空港に妻子を迎えに行くが、そこで見知らぬ女に呼び止められる。い や、知らなかったのはアーノルドだけで、彼女の方ではアーノルドをハッキリと覚えていた。彼女はかつてアーノルドのお相手をしたコールガールで、アーノル ドから「資金提供」を受けたおかげで、今では夢の仕事に就けたと喜んでいたのだ。つまり、イジーへの提案は、あれが初めてではなかった。「リスにクルミ」 云々というシャレたセリフも込みで、毎度毎度その筋の女性にやっていたことに過ぎなかったのだ。そんなこととはツユ知らず、出迎えるアーノルドの前に現れ た妻のデルタ・シモンズ(キャスリン・ハーン)と子供たち。デルタは女優で、彼女も今回の舞台に主演することになっている。一方、女優志望のイジーの元 に、舞台のオーディションの話が舞い込む。これを絶好の機会と捉えたイジーは、以前からかかっていたセラピストに相談しようと電話。だがあいにくとかかり つけのセラピストは不在で、ピンチヒッターとしてその娘で自らもセラピストのジェーン(ジェニファー・アニストン)が対応。だが、こいつがまた困った女 で、一人でキリキリ舞いしてまったく聞く耳を持たない。恋人で脚本家のジョシュア(ウィル・フォーテ)も、実は前々から持て余し気味だ。ところでここだけ の話、ジェーンの患者には偶然イジーのストーカーとなっている裁判官ペンダーガスト(オースティン・ペンドルトン)がいた。かつてイジーの客となったペン ダーガストは、彼女の虜となってストーカー化。老いた探偵(ジョージ・モーフォゲン)まで雇って彼女の後を追い回していた。しかし、偶然はそれだけではな かった。イジーが劇場までオーディションを受けに行った芝居こそ、まさにアーノルドが準備中の芝居だった。探していたのはヒロインの娼婦役で、役が役だけ にオーディション結果もズバ抜けた出来映え。相手役となるデルタも大乗り気で、これまた偶然この芝居の脚本を手がけていたジョシュアも、「彼女しかいな い!」と太鼓判。ジョシュアの場合、単なる脚本家としての入れ込みようとはちょっと異なる気がしないでもないが…。当然、芝居のヒロインがイジーになって しまっては、アーノルドとしては極めて気まずい。ただただ歯切れ悪い返事を繰り返すのみで、すべての事情を知っているセスだけがニヤニヤ…というテイタラ ク。はてさて、これからこの困った大人たちはどのように右往左往するのだろうか…。

みたあと

 正直言って、長く現役感のないボグダノビッチに、あまり多くは望めないと思っていた。そういやスッカリ忘れていたけれど、ボグダノビッチはこの前に「ブロンドと柩の謎」 (2001)という作品を手がけていた。僕自身の感想文を読んでみるとかなり好意的に書いていたので、決して悪い出来ではなかったのだろう。しかし、内容 をまったく覚えていないってのは…まぁ、そういうことなんだろうと思わざるを得ない。決して悪い映画じゃないけど、「何かが足らない」ってことなんだろ う。だから本作も、あまり多くを期待できないような気がしていた。ところが実物を見始めたら、これが意外。結構面白く作っているではないか!

こうすれば

 先にも述べたように、「ブロンドと柩の謎」から10年以上経っての新作。それでなくても現場から離れていたボグダノビッチ が、ますます現場カンなくなっちゃうのではないかと心配になる。ところが…これが意外なほどに面白い。ちょっとイイ役者たちが面白おかしい芝居を見せてく れて、なかなか楽しいのである。しかも、予想外に「現役感」があるから驚く。それというのも…何とあのウェス・アンダーソンがプロデューサーとして支援。 そのせいか、アンダーソン人脈のオーウェン・ウィルソンが主演。おまけにラストにはアッと驚く映画人の特別出演…と、意外なまでに「現役感」が漂う作品と なっている。そして全編に流れる懐メロとか、ニューヨークのギョーカイ人たちの軽妙な会話劇…ってあたり、不思議にウディ・アレンの作品みたいなムードが 漂う。言い方を変えると、それまでのボグダノビッチ作品より「インディーズ映画作家臭」が漂うのである。これも、ウェス・アンダーソンとつき合ったおかげ か。思った以上にイキのいい「今」の作品に仕上がっていて、僕は大いに驚かされた。ただし、もの凄く面白いか…と言われると、それほどでもないところがツ ライところ。才人の作品であることは間違いないのだが、「才気煥発」というところまではいけてない。爆笑するとこまではいってない。うまくやったな…と膝 を叩いて感心するところまでは辿り着けていないのだ。結局は頭の中で、芝居やストーリーやギャグをコチョコチョ考えてこね回している「小ささ」が漂ってし まう。元々ボグダノビッチはそうだったのかもしれないが、今ひとつセンの「弱さ」も感じてしまうのである。

みどころ

  そして、楽しく作っているのにも関わらず、にじみ出て来る「苦み」。男女の思惑が交錯しててんやわんや…というお話自体が、なぜかボグダノビッチがこれま で人生でなめて来た辛酸のように思えてくる。聞くところによれば…ボグダノビッチはかつての恋人ドロシー・ストラットンを彼女の別居中の亭主に殺されてい るが、結局はその殺された恋人の妹と結婚したというのだから尋常な人生ではない。しかも、本作はその妻ルイーズ・ストラットンと共同で書いた脚本というの だから、なかなか複雑なものがある。本作のこじれにこじれる男女の関係も、実は案外リアルな実感から生まれたものかもしれないのだ。そもそもボグダノビッ チはその売り出し中の頃から、無名時代からの妻ポリー・プラットに公私ともに支えてもらっていたような人だった。それがちょっとばっかり売れて来て、古女 房捨ててモデル上がりの美女シビル・シェパードとくっついたのが運の尽き。実はボグダノビッチ映画の面白さのかなりの部分が古女房のバックアップによるも のだったらしく、彼の映画はコケまくって信用も失墜。長らくの低迷を余儀なくすることになってしまった。まぁ、イマドキ話題の「ゲスの極み」なお話(笑) ではあるが、彼は女による浮き沈みをイヤというほど味わって来ている訳なのだ。そんないわくつきの女シビル・シェパードが、本作ではヒロイン・イジーの母 親役で出演(老いさらばえて顔を見た時は分からなかった)。なおさら本作には、ボグダノビッチの人生そのものが隠し味に使われているような気がする。人生 の授業料を人一倍払い、酸いも甘いも噛み締めた彼だからこその味わいが感じられるのだ。ヒロインのイジーがインタビュアーに対して語る「ハッピーエンドの 映画が好き」というセリフも、そんなバックグラウンドを知るとグッと重く感じられてしまう。正直言って映画としては先に述べたように「弱さ」を感じてしま うが、僕としてはどうしてもそんな壮絶な人生観が軽い笑いの中に透けて見えるし、何となく贔屓目で見ずにはいられないのである。

さいごのひとこと

 さすが、経験者は語る。

 
 

「独裁者と小さな孫」

 The President

Date:2016 / 01 / 11

みるまえ

  イランのモフセン・マフマルバフの最新作。独裁者が政権崩壊によって孫と逃亡生活をすることになって…というお話らしい。実はここだけの話、僕は独裁政権 や独裁者に興味があって、そういう題材を描いた映画も好きだ。だからこの映画のチラシを見た時には、すぐに食指をそそられた。そしてもうひとつ、これがマ フマルバフの新作…という点にも大いに惹かれた。実は近年でこそこの人の作品とは縁がなくなっていたが、かつては東京国際映画祭でこの人の作品を見る機会 があり、かなり興味をそそられた映画作家だったのだ。これは見るしかないだろう。たまたま前日の元日にピーター・ボグダノヴィッチの映画を見ていたので、 翌日2日にマフマルバフというのも、何となく不思議な取り合わせで縁起がいいような気がする(笑)。そんな訳で僕は、おとそ気分の新宿に出かけて行ったの だった。

ないよう

  ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が美しく鳴り響き、おびただしい照明に彩られた街並が美しく光り輝く。ここは、どこかのとある国。ラジオから はこの国の繁栄とそれを導いた指導者である「大統領」への感謝の言葉が流れる。さらに番組が変わると、今度は数多くの政治犯を「大統領」の名の下に処刑す るニュースが流れて来る。この国では、すべてが強大な権力を持つ「大統領」の命令によって動いているのだ。そんなまばゆく輝く首都の一角、豪華な「宮殿」 の一室に、その大統領(ミシャ・ゴミアシュヴィリ)が溺愛する幼い孫(ダチ・オルウェラシュビリ)を抱きかかえて座っていた。二人とも揃いの軍服に身を包 み、自分たちが支配する国の夜景を窓から見下ろしている。大統領はそこで孫にいいとこを見せようと思ったのか、「大統領の力とはこれだ」とばかりに電話の 受話器を取ってこう言った。「街の明かりを消せ」…。すると、たちまち街を彩っていた明かりが次々と消えていく。突然の暗闇に自動車の警笛が鳴ったりする が、大統領はおかまいなし。その様子を見ていた孫もご機嫌だ。こうなると、大統領はさらにいいところを見せたくなって、「オマエもやってみるか?」と持ち かける。もちろん孫に異存はない。大統領は電話の相手に「孫の命令は私の命令だ」と告げてから、受話器を孫に手渡す。孫は嬉々とした表情で、受話器に向 かってこう命令した。「明かりをつけろ」…。すると、たちまち街の明かりがどんどん復活する。これに嬉しくなった孫は、再度「明かりを消せ」と命令する。 明るさを取り戻した街が、再び暗闇へと変わる。孫はこれにさらに調子に乗って「明かりをつけろ」と命令。しかし…明かりは元に戻らない。いつまでも暗いま まだ。さすがに、これを不審に思い始める大統領。すると、どこからともなく銃声が聞こえて来るではないか。慌てて電話の相手に「どうなっているんだ?」と わめく大統領だが、もはや通話は切られていた。思えば、それがすべての発端だった。翌朝、慌てて「宮殿」を後にする大統領一家の姿があった。いずれも贅沢 品に身を固め、数多くの召使いたちに見送られながらの旅立ち。その中で孫だけは、「宮殿」を去って行くのを激しく拒む。ずっと仲良しだった幼なじみのマリ アと別れたくないからだ。しかし召使長の娘であるマリアは、大統領一家に同行する訳にいかない。こうして孫は、一家の他の面々と共にリムジンに乗せられ、 パトカーや白バイに先導されて「宮殿」を後にする。行き先は、首都の国際空港だ。一家はクルマの中から、沿道の群衆に向かってにこやかに手を振る。名目上 は、一家は「外遊の旅」に出るということになっている。しかしながら、それはどう見ても「海外逃亡」だ。車中で次女が長女に向かって怒りをブチまけている ように、「都落ち」なのは間違いない。次女いわく、長女夫婦が「やりすぎた」のが国民の怒りを買ったというのだが、果たして真相はどうなのか。ともかくリ ムジンは空港に到着し、一家は軍の音楽隊の勇ましい伴奏に送られながら、自家用ジェットに乗り込もうとする。しかし大統領自身は、国外逃亡を拒否。あくま で踏みとどまって、徹底抗戦を決意していた。さらに孫も、おそらくはマリアから離れたくない…ということで大統領にしがみつき、この場を離れる気配がな い。二人を説得したものの翻意は難しいと悟った大統領夫人は、「いよいよ危ないとなれば逃亡する」という大統領の言葉を信じて機上の人となる。しかしなが ら、実はこの時すでに「いよいよ危ない」段階だったと、大統領は気づく訳もない。大統領と孫を乗せたリムジンは、よせばいいのにそのまま街へと引き返して 行った。すると…すぐに大統領のリムジンは街中の小競り合いにブチ当たる。なかなか群衆を鎮圧できない警官隊に業を煮やした大統領警護官(ラシャ・ラミ シュヴィリ)が、リムジンから降りて銃を発砲。しかし、これがマズかった。火に油を注ぐとはまさにこの事で、微妙な均衡を保っていたその場のバランスがこ れで一気に崩れた。警官隊は退却を開始して、強気になった群衆はどんどん押して来る。容易ならざる事態だと大統領や警護官が気づいた時には、すでに遅かっ た。リムジンはその場から退いて横道に入るが、そこにも群衆が押し寄せる。もはや首都は無政府状態で、あちこちで暴動が発生。逃げ回る大統領のリムジンは 慌てて空港に引き返すが、もはや大統領のためにヘリ一機出そうとしない。先ほどまで勇ましい曲を演奏していた軍の音楽隊も、管楽器を捨てて銃を構え出すか らたまらない。言うことを聞かせようと恫喝していた警護官は、たちまち銃弾の餌食。傷ついた警護官が飛び乗るや否や、リムジンは空港からも脱出しなくては ならなかった。もはや大統領一派に逃げ場はない。すでに首都は制圧され放送局も押さえられたらしく、ラジオでは逃亡する大統領の行方を探していた。ハイ ウェイをどんどん郊外へと走って行くリムジンの中で、撃たれた警護官は大統領に家族を託しながら絶命する。だが、今の大統領にはどんな力もありはしない。 ただただ大統領も孫も、怯えた顔で事態の推移を眺めているだけだ。田舎にやって来てハイウェイから舗装のない道に入り、ガス欠になったリムジンを捨てるハ メになる。そこで、たまたま通りかかった夫婦からバイクを脅し盗り、運転手と共にバイクで逃走を続ける大統領と孫。しかし孫が便意を催したためちょっと目 を話した隙に、運転手はバイクで彼らから逃げ出してしまった。もはや孤立無縁。窮地に陥った大統領と孫が辿り着いたのは、田舎の貧しい床屋。ただしあまり に人々の暮らしが貧しいため、床屋もロクに商売になってない。そんな床屋にやって来た大統領と孫は、床屋の主人(ズラ・ベガリシュヴィリ)を銃で脅して服 を奪い取ると共に、自分のあごヒゲと頭をカミソリで剃らせる。さらにたまたま入ってきた床屋の息子まで脅して、この少年の服を孫のために奪い取った。こう してささやかな「変装」をして逃げ切りを図る大統領だったが、ラジオでは革命政府が大統領の首に賞金をかけたことを報じていた。そのせいなのか、大統領が 潜む床屋の周囲でも、追っ手と思われる人々があちこちを探して右往左往しているのだった…。

みたあと

 詳しくは僕が2002年に書いた「カンダハール」 (2001)の感想文を読んでいただければお分かりいただけると思うが、僕とモフセン・マフマルバフ作品との付き合いは意外に長い。元々は東京国際映画祭 で「ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ」(1992)という作品を見てからの縁ということになるが、これがある意味でイラン映画版「ニュー・シネマ・パ ラダイス」(1988)というか「ザッツ・エンタテインメント」(1974)のような趣がある作品。劇中でイラン映画の創世記からその時点の新作まで、お そらくは傑作、名作、話題作…などなどが細切れに紹介されていく。そのことだけでも、マフマルバフという映画作家は「映画愛」に満ちた、真に「映画的」な 映画を作る人物であることがお分かりいただけると思う。実は社会派的なイメージや政治的メッセージばかりが注目されていた「カンダハール」でも、地雷で足 を失った人々が松葉杖でピョコピョコと飛び跳ねながら駆け寄って来る空撮場面…というとんでもないショットが登場して、見ている者に一瞬「これって何なん だ?」と思わせる。「面白い」といっては不謹慎かもしれないが、正直言って最初見ていて何だか分からないこちらとしては、「面白い」と言わざるを得ない場 面なのだ。「これぞ映画」なのである。初期の出世作らしき「サイクリスト」(1989)も、生活のためにノンストップで自転車を漕ぎ続ける男…という、ど こかシドニー・ポラック監督のアメリカ映画「ひとりぼっちの青春」(1969)を想起させる内容。こりゃ絶対に狙っているだろう。パクったというよりオ マージュと指摘されることを意図してやっている。「映画好き」ならこの気持ちは痛いほど分かるのだ。娘二人と息子、嫁さんも映画監督デビューするというフ ランシス・コッポラ家も真っ青の映画一家ぶりなのも、その「映画好き」ぶりを裏付ける。もっとも、僕は正直言って宮崎吾朗みたいな映画人の「世襲」って政 治家よりタチが悪いと思っているので、このご一家のあり方については少々複雑な気持ちがあるのだが…。そんなマフマルバフは近年はいろいろあってイランを 離れていたようで、本作もジョージア(グルジア)で制作されたらしい。失脚し逃亡する独裁者…という題材からして「社会派」「政治的」な作品であることは 確定的ながら、僕は心のどこかで「マフマルバフがそんなつまんない映画を作るはずがない」と思っていた。果たして、本作はやはり「面白い」「映画的」な映 画だったのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  映画は、独裁者が自らの権力を誇示するために街の灯りを消したりつけたりさせる…という場面から始まる。そのうち革命かクーデターが勃発。たちまち独裁者 の権力基盤は危うくなる…という展開だ。まずは観客に「視覚的」に独裁者の権力と、その状況が一変していく様子を目で見せる工夫が素晴らしい。ここから僕 らは一気にお話に引き込まれていく。映画の構成自体は、言ってしまえば「ありがち」なもの。独裁者と彼が溺愛する孫を逃亡生活に引きずり込むことによっ て、観客に独裁者が今まで行った悪行の数々を見せていくとともに、独裁者自身にも肌でそれを感じさせる。おまけに傍らには常に「無垢」な孫がいて、彼が無 邪気で…ある意味では独裁者にとって無慈悲な質問を投げかけていくから、なおさらその悪行は際立っていくという案配だ。「地獄の黙示録」(1979)で マーティン・シーン演じるウィラード大尉が川をさかのぼっていく過程で、彼自身も観客である我々も「戦争」をリアルに体験していく構成に似ている。先に僕 は「ありがち」とは書いたものの、このスタイルによって、本作は観客に「独裁者の悪行」を強烈に分からしめることに成功しているのだ。そこで描かれている のは、「独裁者は民衆に不幸をもたらす」とか「革命も腐敗する」とか「憎しみに対して憎しみで対抗するのは空しい」とか、言ってしまえばこれまた「ありが ち」なこと。「親孝行をしよう」とか「盗みは良くない」とかいうのと同じで、正論なんだけどいいかげん言い尽くされてしまって、人の心に刺さって来にくい メッセージである。確かに立派なメッセージで正しいのだけれど、不謹慎承知で言わせてもらえば「分かりきっている」ので面白くも何ともないメッセージだ。 僕は常日頃からこのサイトで映画を語る時に、「サプライズ」がないとして批判することが多い。だとするなら、本作だって特にこれといった「サプライズ」は ない。それどころか、メッセージだけをとらえると「良心的」だけど「分かりきった」ものの羅列となっている。実際、この映画がこうしたメッセージをただ垂 れ流すだけなら、世評は間違いなく「良い事を言ってる」というだけで大絶賛だろうが、僕は本作を大して面白いとは思わないだろう。映画はプラカードやアジ ビラではないので、「良い事を言っている」だけではダメなのである。では、僕はなぜこの作品を評価するのか? 「映画的」に優れているからである。「面白 い」からである。一例を挙げれば、独裁者と孫が逃亡中に釈放された政治犯たちと出会い、彼らが舐めさせられた辛酸をイヤというほど思い知るくだりがそう だ。政治犯たちは拷問で足を痛めつけられているため、事もあろうに独裁者が彼らを背負って歩くことになる。この皮肉。さらに、政治犯のカラダの重みが独裁 者自身に過去の悪行の重荷となってのしかかって来る。これはもう理屈抜きで、感覚として「視覚的」に僕らに入ってくるのだ。これがいかに巧みな工夫かお分 かりいただけるだろうか。実は本作にはあちこちにこうした「映画的」な処理がなされており、それが「ありきたり」になりがちなメッセージやテーマを見てい る者に実感させる仕掛けになっている。これだけ何度も繰り返しあちこちで言われていて、真っ当過ぎるだけに改めて繰り返し言われると「お説教聞かされてい るよう」な気分になる内容を、フレッシュな気分で見る者に訴えかけたり実感を込めて認識させることは極めて難しい。それはいいかげんクドクド言われ過ぎ て、言っている者の自己満足になりかねないほど「形骸化」しているからだ。本作はそこを、「映画的」な工夫で乗り切ろうとしている。同じような事を言って いる「ご立派」な作品は世間にイヤというほど存在しているが、本作はそこが非凡なのである。さすが、イラン映画版「ザッツ・エンタテインメント」なんてマ ネをやらかす男だけのことはある(笑)。本作の宣伝は当然のことながら「立派な映画」として行われているだろうし、世間の評判も見た人がみんな善人や理想 主義的な人になっちゃったようなもので埋め尽くされている(笑)のだろうが、そんな退屈な評価はちょっと願い下げにしていただきたい。本人ももっともらし いことをインタビューでしゃべったりしているが、マフマルバフってそれだけの男じゃないよ。本人はメッセージ映画を撮るつもりでも、どうしたって面白くし ちゃうに違いない。それはこの男のサガなのだ。無政府状態になって荒れる街中を大統領を乗せたリムジンが逃げ回る場面の緊迫感を見れば、どうしてコスタ= ガブラスを招いたハリウッドがマフマルバフをスカウトしないのか分からない。なぜマフマルバフに政治的な題材のサスペンス映画を撮らせないのだ(笑)?  マーベル映画あたりで一本ぐらいこいつに撮らせてみたら面白いんじゃないだろうか。退屈で仕方ない「アベンジャーズ」の次のやつあたりでやったらどうだ、 いやこれはかなりマジで。

さいごのひとこと

 政治的主張だけで見たらもったいなさ過ぎ。

 

「リザとキツネと恋する死者たち」

 Liza, a rokatunder (Liza, the Fox-Fairy)

Date:2016 / 01 / 04

みるまえ

  すっかり正月映画の大作群が幅を利かす季節になった頃、映画館にあるチラシやら予告編で存在を知った映画。何と珍しやハンガリー映画らしい。こちとらハン ガリー映画というと「メフィスト」(1981)などで知られ、現在はアメリカ映画なども撮るイシュトバーン・サボー監督ぐらいしか頭に浮かんで来ない。た だし、本作はそんなサボー作品などとはまったく違う。もっと軽いコメディで、しかも何ともユニークな作品だ。リザという名の内気そうなオールドミスが主人 公の物語だが、なぜか全編に日本趣味が横溢。しかも、トミー谷なる日本人歌手の幽霊が常にヒロインにつきまとい、全編ヘンな歌謡曲を歌いまくる…という案 配。そこにCG表現を交えて、どうやらポップでオフビートな笑いが詰め込まれた映画らしいのだ。CGをチョコチョコと入れてデフォルメされた表現を用いる 映画といえば、ちょっと前の日本映画「茶の味」 (2004)とか「嫌われ松子の一生」(2006)などの作品を思い出す。今たまたま挙げた2つの日本の作品は、SFやファンタジーでもないのにCGを 使っているという点以外はそれぞれまったく異なる作品なので、具体的に何がどうとはいえないが…。ともかくこの手の映画はハマればすごく面白いだろうし、 ハズせば思い切りスベるはず。ただ、こういう変な映画はどうしても見たい性分なのだ。そんな訳で、巷が「スター・ウォーズ」で騒然としている中を、僕はわ ざわざ新宿のレイトショーに出かけて行った。

ないよう

  ここは警察署の取調室。厳めしい制服に身を包んだ署長のエズレデス(ガーボル・レヴィツキ)が、連れて来られたばかりの容疑者を取り調べようとしていると ころだ。「それでオマエは、マルタ夫人の死に自分は関わりがないと言うのか?」…。こちらに背を向けた容疑者の顔は見えないが、髪の長い女でなぜかズブ濡 れである。「ここ最近立て続けに死んだ連中も、オマエは誰一人殺していないと言うのか?」と、眼光鋭く迫るエズレデス。すると容疑者の女は静かに、つらそ うな声で語り出す。「すべては…呪いのせいなんです」…彼女がそうつぶやくように語り出すと同時にその後頭部が小刻みに震え出し、どこからともなく耳障り な音が聞こえて来るではないか。果たして彼女の「呪い」とは、一体どのようなものなのだろうか…? お話の発端は、少々前にさかのぼる。それは1970年 代の共産党政権下のハンガリーはブダペストでのこと。寝たきりになっている日本大使の未亡人マルタ(ピロシュカ・モルナール)は、自分の専属看護師として リザ(モーニカ・バルシャイ)という女を自分の家に住み込みで雇っていた。リザは付きっきりの看護で余裕がないところへ、元々が地味な性格なのか遊ぶ気も なく外出もしない。彼女の唯一の楽しみは、看護の合間に読む日本の恋愛小説。そこにはハンバーガー・ショップでの「電撃的出会い」が書かれていて、読むた びにリザをうっとりさせるのだった。そして孤独なリザの心の拠り所がもうひとつ…。それは、リザだけに見える「幽霊」の存在だ。華やかな衣装に身を包ん だ、かつての日本の人気歌手「トミー谷」(デビッド・サクライ)がその幽霊の正体である。そもそもマルタご愛聴のカセットで流れるのが、このトミー谷の 歌。カセットの歌が流れるや否やトミー谷の幽霊がどこからともなく現れ、派手に歌い踊るのが毎日のこと。その楽しくも華やかなパフォーマンスに、リザはつ いつい顔もほころばせる。ついでに一緒になって踊ったりもするが、彼女以外にはトミーの姿は見えないから、リザはマルタに不審な目を向けられてしまう。結 局、リザは「そこに何もいない」ふりをして、ハシャギすぎを抑えるのだった。そんなある日、珍しくリザがマルタに頼み事をする。実はその日は、リザの30 歳の誕生日だった。そこでほんの2時間の間だけ、外出を許して欲しいというのだ。マルタのオーケーをもらったリザは、有頂天で精一杯のオシャレをして、イ ソイソとオモテに出て行く。だが、その時に例のトミー谷が嫉妬にかられた表情を見せていたことを、リザは気づいていなかった。実はこのトミー谷、単なる歌 手の幽霊というだけではなかったのだ。そんなこととはツユ知らずリザが出かけた先は、前々から憧れていたメック・バーガーなるハンバーガーショップ。何と も野暮臭い店ではあったが、当時のブダペストではまずまず垢抜けたオシャレ・スポット。ここで素敵な出会いがあるんじゃないかと、胸をときめかせるリザで はあった。ところがその頃マルタの部屋では、あのトミーが悪さをしようとしていたのだった。自分の姿がマルタの目に見えないのをいいことに、枕元のクッ キー缶の位置をちょっとずつズラす。それに手を伸ばそうと無理をしたマルタは、ベッドから転げ落ちてしまった。健全なカラダならまだしも、肥え太ってブク ブクの巨体である。彼女はそのまま動かなくなってしまう…。こうしてマルタが亡くなるや、彼女の親族たちが一気に押し掛けてくる。この親族どもたるや何と も品性下劣な連中ばかりで、マルタの持ち物や財産を根こそぎ持って行こうという魂胆剥き出し。あげく、リザが財産を隠しているんじゃないかと邪推し始める 始末。元より看護していたリザに報いようなどと考える奴などいない。まずは、洋の東西を問わないジジババどもの風景である。ところがマルタの遺言には、意 外なことが書かれていた。マルタは、このアパートをリザに遺してくれたのだ。これで彼女は寒空の下、路頭に迷わなくて済んだ。しかしマルタの遺産をすべて 吸い尽くすつもりだった親族は、気持ちが収まらない。早速、喪服のまま警察署に乗り込み、マルタの死について捜査を行うよう署長のエズレデスに直訴した。 そこで白羽の矢が立ったのが、よそから転属して来たばかりのゾルタン刑事(サボルチ・ベデ・ファゼカシュ)。フィンランド歌謡に夢中とか職場にハダカで出 勤とか、どうも妙ちきりんなところが目立つゾルタン刑事だったが、命令を受けてこの事件の解決に取り組むことになった。そんな折りもおり、リザがアパート の階段を降りて行くと、下階の部屋に住む色気過剰な女インゲ(グービク・アギ)に、これまた同じアパートの住人のオバハンが何やら頼み込んでいる様子。ど うもオバハンのセガレがいつまでも嫁をもらわないため、何とかこのインゲとの「出会い」を演出したいというのが「頼み」。このセガレがどうもかなりの変わ り者らしく、オバハンの家庭料理にイチコロらしい。そこでインゲにオバハンのレシピによる料理をつくってもらい、セガレを誘惑してくれ…という話だった。 だが、インゲはそんなタマじゃない。実際、マルタの葬儀でやって来た親族のひとりヘンリク(ゾルターン・シュミエド)に口説かれ、彼と昼間っから「励ん で」いるところ。オバハンのセガレを誘惑しようという気なんざサラサラない。そんな訳でオバハンのレシピも、アパートのゴミ捨て場に直行することになる。 ところが捨てる神あれば拾う神あり。レシピの「拾う神」は、例のリザだった。「素敵な出会い」に憧れるリザとしては、そのチャンスに結びつきそうなネタを 見逃す訳にいかない。そんな訳で問題のレシピに従ってさまざまな料理を作り始めるのだが…ともかくこれらの料理の数々が何ともマズそうなもの。味、香り、 見た目…と三拍子揃った気色悪さで、普通の味覚・嗅覚なら絶対に食おうなんて思いもしないシロモノだ。ところがオバハンのセガレがアパートに帰宅して来る 頃合いに、リザがドアから料理の匂いを漂わせていると…。何とゴキブリホイホイのように、例のセガレ(アンタル・セルナ)がリザの部屋へとやって来るでは ないか。まずは作戦成功。見た目もパッとせずウダツが上がらなそうな男だが、リザとしては結果に満足した。そしてこのセガレが料理を食うこと食うこと。こ のオリジナリティの極めて高い料理にありついたのが久方ぶりということもあって、出された料理を次々完食。あげく、こんな料理を作ってくれるなら…とリザ にゾッコン。ますます彼女の思うツボに事は進んでいった。ところが次の瞬間、急にセガレはノドを押さえて苦しみ出すではないか。どうやら料理に入っていた 魚の骨が、男のノドに刺さったらしい。床に倒れて苦しむセガレを助けたい一心で、リザはご自慢の包丁を振るうことになる。だが、これがマズかった。自らノ ドの切開手術をしようとしたリザの試みは失敗し、セガレはあの世往き。その前のマルタの死に次いでの今回の事件とあって、警察はますますリザを疑うことに なってしまう。しかし、リザはまだ気づいていなかったのだ。今回の事件にも例の幽霊になった日本の歌手、トミー谷が絡んでいるということを…。

みたあと

  本作を見始めてすぐ、僕はいろいろな意味で「既視感」を強く感じた。映画スタイルとしては非常にユニークで珍しいもので、作っている側もそれを意識してい るに違いないのに、結果的には観客にとってどこか見た事がある映画。まったく矛盾していることを言ってるようだが、実際にそうだから仕方がない。そして次 に頭に浮かんだのが、アキ・カウリスマキの作品だった。無論、アキ・カウリスマキの作品と本作とは、まったく違うといえば違っている。だが、出て来る人物 のキャラクターやら設定やらがことごとくスットボけていて、どこかヘンであるところがカウリスマキ作品を想起させるのだ。そもそも非社交的で地味で世間ズ レしていなくて、内心に恋に対する憧れを秘めてる孤独なヒロインって、カウリスマキの「マッチ工場の少女」(1990)に出て来たカティ・オウティネンの キャラクターっぽいではないか。その後のカウリスマキ作品に出て来るカティ・オウティネンの役柄も、ほぼその延長線上にある「おなじみ」のキャラクター だ。ただカティ・オウティネン自身は見た目が乾燥野菜みたい(笑)にパサパサして、若い頃からオバさん臭かった。それに対して本作のモーニカ・バルシャイ は決して不細工でもオバさんでもなく、雰囲気的にはNHKの朝の連ドラ「マッサン」でヒロインを演じたシャーロット・ケイト・フォックス系の女優さん。 まぁ、見た目がクセがなく過剰に清楚で地味…という点が、イマドキにしては少々違和感あるという感じだろうか。メガネと髪型や服装でデフォルメしてはいる が、実は決して不美人ではない。そこが違いと言えば違いだろうか。そう疑い出してみると、何となくカウリスマキ作品のイメージはそこかしこにバラ撒かれて いる。全編に溢れる日本イメージや日本風歌謡は、カウリスマキが「ラヴィ・ド・ボエーム」(1992)で日本の「雪の降るまちを」を流して不思議なムード を醸し出したのを連想させる。また、トミー谷なる日本人歌手が歌う日本の歌謡曲らしきものは、そのペラペラなサウンドからして「過去のない男」 (2002)に出て来たエレキ・バンドの演奏する曲を思い出させる。そんな感じで、あちこちにカウリスマキ映画の残像を感じさせるのだ。おまけに、なぜか 本作の主要キャラクターであるゾルタン刑事がフィンランド歌謡のファンで、その曲がこれまた全編に流れるとなると…これは偶然とは言えないのではないか。 本作の作り手は、絶対にフィンランドのアキ・カウリスマキを意識しているはずだろう。ただ、カウリスマキと大いに違うところは、カウリスマキが思い切り地 味でアナログ感満載な映画を作っているのに対して、本作がCGをふんだんに使用したりして基本的にポップな映画づくりをしていることだろうか。先ほど感想 文の冒頭でSFやファンタジーでもないのにCGを使っている日本映画をいくつか挙げたが、本作はまさにそんな映画だった。あとの違いは、やはりカウリスマ キがパサパサなカティ・オウティネンを使ってやろうとしたことを、あくまでシャーロット・ケイト・フォックス系の女優さんでやろうとしていることか。地味 でアナログなカウリスマキ「風」のことをしようとしてはいるのだが、あくまでそれは「風」なだけであって実は違う。つまり、本作の作り手にとってはカウリ スマキも一種の「オシャレアイテム」っぽいのである。「こういう映画に影響受けたりオマージュ捧げたりしちゃうオレってセンスがいい」…的な、そういう素 材としてポップに使われているっぽいところが感じられるのだ。分かりやすく言えば、「チャラい」のである(笑)。当然のことながら、僕はこういうやり方に 対してあまり快いイメージは持っていない。そもそもここで前面に出ている「日本イメージ」って一体何のために出てくるのか。リュック・ベッソンが大昔にプ ロデュースした「神風」(1986)って映画みたいに、ほとんど意味のない単なる思いつきの「日本イメージ」でしかない。そんなこともあったりユーモアや ギャグがスベったりして、実は映画が始まってしばらくはいささかウソ寒い気分を味わっていたのが正直なところ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  ところが不思議なことに、劇中で男たちが次々コロコロと死に出してから、映画も快調に転がり出す。理由はなぜかまったく分からないが、ヒロインの周囲を取 り巻く男たちが次から次へと趣向をこらして殺されて行くのが見ていて楽しいのだ。おそらくは彼らを殺すための段取りに工夫なりアイディアなりが盛り込まれ ているので、見ていて面白く感じられるのだろう。そこに作り手が知恵を絞っているのが分かるから、見ているこちらも嬉しくなって来るのである。それと…や はり「日本であることの必然性」云々はまったく分からないながら、トミー谷なる歌手の歌うインチキ日本歌謡が楽しいのも映画の魅力を増している一因。演じ る向こうの日系俳優デビッド・サクライの気持ちの悪いほど爽やかな個性(笑)も面白い。非常に不本意ながら、作り手の作戦にまんまと引っかかった感じなの である。ただ、前述のような問題点も感じるので、何となくダマされたみたいな気持ちの悪さも拭えない。元々はCMディレクターだったという監督ウッイ・ メーサーロシュ・カーロイが、なかなかの才人であることは認めざるを得ないのだが、願わくば次作からはもっとスッキリ楽しませてもらいたいところだ。

さいごのひとこと

 CM出身という点で大林宣彦を連想したら大当たり。

 


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