「ヘイトフル・エイト」

  The Hateful Eight

 (2016/04/04)


  

見る前の予想

 クエンティン・タランティーノの新作が再び西部劇だと聞いた僕は、ちょっとばっかり嬉しくなった。
 元々が西部劇好きな僕としては、昨今ほぼ絶滅している西部劇をどんな形であれ作ろうという話には、諸手を上げて歓迎である。それが人気監督のタランティーノであれば、なおさらだ。
 ところが今回は西部劇といっても撃ち合いやアクションが売り物でなく、何と雪に閉ざされた一軒家の中での密室殺人のお話だという。ミステリーだって? 雪に閉ざされた中での密室殺人と言えば、誰しもアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」を連想する。しかし、タランティーノがミステリーなんて作るのか。ミステリーなんて作れるタマなのか(笑)。
 やがて公開が始まってみれば、あちこちから絶賛の声が聞こえてくる。元々が大好きなタランティーノ作品だ。西部劇でミステリーで…という話を聞けば、それだけでも興味津々で見たくなる。
 ところが、ある僕の知人から「生理的にちょっと…」という話を聞かされて、パンパンに膨れ上がっていた僕の期待に初めて「待った」がかかった。
 おまけに…正直に白状すると、実は昨今のタランティーノ作品に僕はちょっとだけ微妙な「違和感」を感じ始めていたのだった。そこに来て、映画はかなりの長尺。最近めっきり生理現象の方のこらえ性がなくなってきている僕は、少々腰が退けて来てしまった。
 そんな訳でなかなか劇場へと足を運べなかったのだが、意外に上映館数が少ないことに不安を感じて、ついに重い腰を上げて見に行った次第。


あらすじ

 しんしんと雪が降るワイオミングの山中。キリスト像も埋もれるほどの雪の中を、1台の駅馬車がひた走る。しかしその駅馬車は、山道に 立ちはだかる一人の男によって、行く手を阻まれた。その男の名はマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)、元は北軍の騎兵隊にいたという黒人 の賞金稼ぎだ。
 ウォーレンは雪の中で馬に死なれてしまって、おまけに猛吹雪が迫って来る雰囲気。そこで馬車に便乗したいと呼び止めた訳だ。行く先が同じマニックスとい う町だったことは好都合だが、あいにくとこの馬車は貸し切り。そこで借り主に聞いてみることになった訳だが、これが何とも偏屈そうな男が現れる。
 これまた賞金稼ぎのこの男ジョン・ルース(カート・ラッセル)は、実はウォーレンはこのルースと旧知の仲。すでにウォーレンは自分が仕留めた罪人の死体 を持参していて、ルースの「獲物」にちょっかいを出す心配もない。そこでウォーレンはルースから同乗を許されることになった。
 さて、そんなウォーレンが手錠でつないでいる「獲物」とは、1万ドルの賞金がかかった札付きの悪女デイジー・ドメルグ(ジェニファー・ジェイソン・ リー)。この女、さすがに度胸が据わっていて、いずれも一癖ある男二人相手に悪態つきまくる。もっともルースはルースで、女と言えどもこのデイジーをまっ たく躊躇せずにブチのめすといった具合。そんなデイジーに、ウォーレンはご丁重に「首吊り人」というルースの異名の由来を教える。
 ルースという男、殺しても構わない賞金首であっても、決して殺さずに生かして連行するのがモットー。しかし、別に彼が人道主義者という訳ではない。ルー スは自分が捕らえた囚人が吊るされるのを、その目で見届けるのを至上の喜びとする人物だったのだ。もちろん今回の囚人であるデイジーも、吊るされる姿を見 届けるつもりだ。
 そんなルースはウォーレンに、突然ある頼み事をする。実はウォーレンにはとっておきの「お宝」があり、それをウォーレンは拝みたいというのだ。それは、 何とあのリンカーンからの手紙。「文通相手」リンカーンが親しげに手紙をくれたというのが、ウォーレンの大いなる自慢なのだ。ルースはその手紙を見せても らいながら、意外にも純粋に感涙にむせぶ。ところが、それに札付き女デイジーがツバを吐いたからウォーレンは激怒。ウォーレンがデイジーをぶん殴った拍子 に馬車の外に吹っ飛ばされ、手錠でつながれたルースまで引きずり落とされるというアリサマ。早くもこの道中、雲行きがすっかり怪しくなる。
 やがてそんな馬車の行く手に、またもう一人の男が登場。その男クリス・マニックス(ウォルトン・ゴギンズ)は、馬車の目的地レッドロックで保安官となる男だという。
 行きがかり上この男も分乗することになった訳だが、たちまち車内には不穏な空気が流れ出す。それというのも…このマニックスという男、父親が乱暴狼藉、略 奪と虐殺をし放題だった南軍グループのリーダー格。もちろん本人だってそのメンバーであることは間違いない。今はこの馬車で同乗しているから大人しくして いるものの、黒人への差別意識は隠しきれない。
 ウォーレンがこの男に嫌悪感を抱くのと同じくらい、ルースもまたこの男に警戒心を抱く。そんな訳で、馬車の中にはイヤ〜な空気が充満し始めるというワケだ。
 そんな馬車は、天候の悪化とともにレッドロックへの直行を断念。途中にある「ミニーの紳士服飾店」なる店で、吹雪をやり過ごすことになる。重苦しい空気が漂う馬車ではあったが、馬車は何とか問題の「ミニーの店」へと辿り着いた。
 ところがそこで一行を出迎えたのは、「ミニーの店」を知るウォーレンの知らないボブ(デミアン・ビチル)と名乗るメキシコ人。ボブによれば店の女主人ミ ニーは外出中で、彼が店番を任されたとのこと。店の中には先客として、絞首刑執行人のイギリス人オズワルド・モブレー(ティム・ロス)、寡黙なカウボーイ のジョー・ゲージ(マイケル・マドセン)、暖炉の前の椅子に座る老人サンフォード・スミザーズ(ブルース・ダーン)が佇んでいた。
 こうして彼らは壊れた扉の扱いに悩まされながら、長い吹雪の夜をこの店の中で過ごすことになったワケだが…。

帰って来た70ミリ大画面に描き出される「密室劇」

 今回の作品、僕は自分の縄張りの新宿ではなく、わざわざ銀座の丸の内ピカデリーまで出張して見た。それというのも、本作は何と久しぶりに70ミリ・フィルムで撮影されたから。
 イマドキの映画ファンがこれを聞いてピンと来るかどうかは分からないが、昔は70ミリとかシネラマと言えば超大作のしるしだった。「十戒」(1956)だとか「ベン・ハー」(1959)みたいなチャールトン・ヘストン主演作、アラビアのロレンス(1962)だとか「ドクトル・ジバゴ」(1965)みたいな後年のデビッド・リーン超大作などなど…大画面でしか見れないスペクタクル巨編は、ことごとく70ミリかシネラマの作品だった。おそらく最近の作品でもグラディエーター(2000)あたりは、おそらく昔だったら70ミリかシネラマで撮影され、上映されたはずだったろう。70ミリやシネラマというフォーマットは、往年のスペクタクル超大作の証明だったのである。
 1970年代あたりになってフィルムの質が向上すると撮影時に70ミリ・フィルムは使われなくなったが、それでも超大作は特別に70ミリ・プリントで上映されたりした。ポセイドン・アドベンチャー(1972)あたりはその最後の頃だろうか。これがタワーリング・インフェルノ(1974)あたりになった頃には、
確かもう70ミリ上映とは言われていなかったと記憶している。そのあたりで、70ミリが映画のステータスだった時代は終わったのだった。
 それでも時たま、「ここぞ」という時に70ミリは復活していた。例えばディズニーが初めてCGを活用しての「トロン」(1982)。今から見たら昔のゲーセンみたいな稚拙そのもののCGだったが、それでもそのCG映像をある程度の画質でフィルムに定着させる必要からなのか、確か撮影には70ミリ・フィルムが使用されていたはずだ。僕も劇場でこの作品を見て、普通のドラマ実写部分での画面のキメの細かさに驚かされた記憶がある。そしてトム・クルーズニコール・キッドマンがまだ夫婦だった時に共演した西部劇大作「遥かなる大地へ」(1992)も、確か70ミリ・フィルム撮影だったはず。これは監督のロン・ハワードが主張したことだったか、それともトム・クルーズのこだわりか。おそらくは映画オタクのクルーズの発案だった可能性が高い気がする。さらにケネス・ブラナーハムレット(1996)も、確か70ミリで撮影されて公開も70ミリだった気がする。そのせいなのか、豪華絢爛なオールスター・キャストの中に、「ミスター・70ミリ」チャールトン・ヘストンがちゃんとキャスティングされていたのがご愛嬌だった(笑)。
 それから70ミリ撮影の作品が製作されたかどうかは、定かではない。それより何より、イマドキは映画がフィルムで撮影・上映されなくなりつつある時代だ。ここでタランティーノがウルトラ・パナビジョン70なる方式で70ミリ映画を復活させたのは、いかにも「らしい」ではないか。
 ところが何とも残念なことに、現在の日本では…何とこの東京にすら70ミリ・フィルムを上映する劇場が存在していない。 一昨年末以前だったら、まだミラノ座がかろうじて上映可能だったのだろうが…。何とまぁ、文化果つる場所なのだろうわが日本は。そんなワケで…70ミリの 香りをいくらかでも感じさせてくれる巨大スクリーンを求めた結果、本作上映館では最大スクリーンを持つと思われる丸の内ピカデリーを選択した…というワケ だ。いやはや、何とも長い前フリで申し訳ない。
 映画自体は、雪景色で始まる西部劇。これも異色と言えば異色だが、ジャン=ルイ・トランティニャン主演のマカロニウエスタンの怪作「殺しが静かにやって来る」(1968)に出て来る雪景色をすでに前作ジャンゴ/繋がれざる者(2012)で「引用」しているタランティーノならば、不思議でも何でもない。そこに、マカロニ・ウエスタン音楽の「象徴」とでも言うべきエンニオ・モリコーネを持って来ているのも、今までの作品で散々モリコーネ節を「引用」してきたタランティーノならば、むしろ遅過ぎるとも言える起用だ。
 映画が始まってしばらくは駅馬車が雪景色の原野を走り抜ける雄大な場面が連発し、70ミリ上映ではなくともそのフィルムが本来持っているキメ細かな映像 の片鱗を、いくらかでも観る者に味合わせてくれる。さすがタランティーノは映画ってものを分かってるよなぁ…とイイ気分になっていた僕だが、馬車がとりあ えずの停車場である「ミニーの紳士服飾店」に近づいて来るに従って、僕の中でムクムクと妙な疑念がわき起こって来た。
 雄大な70ミリ映像は大変結構だが、本作ってそういや…吹雪に閉ざされた小屋の中に8人のヒトクセある人物たちが閉じ込められ、一人また一人と殺人が起こる…という「密室ミステリー」という触れ込みではなかったか。タランティーノと「ミステリー」ってのも今ひとつシックリ来ないのだが、それと70ミリ映像ってどういう関係があるのだろう。
 …ってなことを考えているうちに馬車は問題の「ミニーの紳士服飾店」に到着。結局この後しばらくして、カメラはこの小屋から一歩も出なくなってしまう。ゴージャスな70ミリ映像を使いながら、この映画は薄暗い小屋の中だけを延々と巨大画面の中に写し始めるのだ。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



タランティーノ流で描き出される「病めるアメリカ」
 このサイトを今まで見てきていただいた方ならお察しの通り、僕はタランティーノ作品が大好きである。僕は、彼の「どんな映画も等しく映画である」というスタンスに共感を持っている。特に僕などは、長らく冷遇されて来たSF映画という特異なジャンルを好んで来たので、なおさらである。だから、僕は本作もかなり贔屓目で見ていた。
 何でそんな回りくどい話から入っていったかと言うと、まずは本作に対して僕がとっていた態度について、最初に明らかにしておいた方がいいと思ったからだ。
 本作は「密室ミステリー」という触れ込みではあるが、実際にはまったく「ミステリー」になっていない。 だから、映画ファンの中にはこれだけで「けしからん!」と思われる向きもいるかもしれない。一応形式の上では確かに閉じ込められた状態の室内で次々と人が 死んでいく…というスタイルをとっているが、いわゆるナゾ解きは一切行われない。しかも後半にはまったく前触れも伏線もない状態で、アッと驚く展開にな る。これはどう見たってミステリーじゃないのだ。
 途中でちょっとだけ「ナゾ解き」っぽくなる瞬間にも、なぜか奇妙なナレーションで解説したりしている。そもそも、あのナレーションは誰の語り…という設 定なのだ? そのあたりも、構成という意味で言えばガタガタである。こういういいかげんさについて、映画好きによっては気になる向きがいてもおかしくない。
 だが、そもそも本作はキル・ビルVol.1(2003)、Vol.2(2004)のクエンティン・タランティーノの作品なのだ。そのあたりの整合性を云々しても意味はない。タランティーノも「ミステリー」なんて描きたくて本作を作ってはいない。
 そこで描かれるものは、中心人物をサミュエル・L・ジャクソン演じる 黒人賞金稼ぎにしていることからしても明白。前作「ジャンゴ」と同じく人種問題、差別問題がそのセンターに置かれているのだ。それが証拠に、「ミニーの紳 士服飾店」に辿り着くまでの映画の前半部分、馬車の中での会話が延々と人種間の差別意識に関すること「のみ」と言っていい。グダグダ会話を延々と繰り広げ ていくのはタランティーノの芸風だが、ここではいつもの「無意味」な会話は影を潜めている。黒人を蔑視して暴虐の限りを尽くして来た元・南軍兵士、そんな 南軍兵士に加えて先住民族たるインディアンをも虐殺して来た黒人の元・北軍兵士…。こいつらが人種間の差別意識丸出しで悪口雑言。こうなると、情け容赦なく女の賞金首をブチのめしている賞金稼ぎは、まだしも性的な虐待をこの女に行わないだけマシかもしれない。まぁ、そもそもそういう要素を持ち込まない「男の子」視点がタランティーノらしさとも言えるのだが…。
 ともかくそこから立ち上ってくるのは、いまだ南北戦争の傷が癒える前のアメリカの空気だろ う。正直に言ってあんまり図式的に映画を政治的、メッセージ的に見ていくのはヤボだと思うし、純粋にタランティーノのギトギト感を楽しむべきだとも思うのだ が、こうも人種間の憎悪みたいなものを感じさせるファクターやアイコンがあちこちに仕込まれていると、まったくそういう要素を感じずには見ていられない。あんまり政治的・メッセージ的なことばかり言っていると、「ジョーズ」(1975)ですら「病めるアメリカ」を描いた作品…と言ってた往年の水野晴郎みたいに思われそう(笑)だが、本作を メッセージ性を持たせていないというにはあまりに無理がありすぎる。
 これは密室劇になる映画中盤からも変わらず、劇中でも絞首刑執行人と自称するモブレー(ティム・ロス)が、室内を「こっち側は北軍側、こっち側は南軍 側、この真ん中をワイオミングということにしよう」などと言って仕切ろうとする。僕はこの光景を見ていて、フトまったく別の映画を思い出した。セッ トを建て込んでいないただのスタジオを舞台に、その床に線で仕切りを描くことによって建物と見立てて、全体的にひとつの町を形成して展開する抽象性の高いドラマ…。ラース・ フォン・トリヤー監督の異色作ドッグヴィル(2003)がそれだ。さらに、徹底したアンチ・アメリカ劇だった「ドッグヴィル」を連想したことから、僕は本作の狙いも何となくうっすらと見えて来た。つまり は、この
「ミニーの紳 士服飾店」とその中で展開するグダグダこそ、アメリカの縮図であると言いたいのだろう。70ミリ映像でこの狭い室内をわざわざ撮影してみたのも、奥行きと広がりのある画面でこれを見せたいという気持ちの表れだろう。
 なるほどねぇ、「ジャンゴ」に次いでこの作品で、またしても「病めるアメリカ」を告発しようという訳か。「アメリカの神話」である「西部劇」というジャンルでこれを やるのも、もちろん大いに意識してやっている。「ヘイトフル・エイト」の「ヘイト」って、もちろん「ヘイト・スピーチ」とかの「ヘイト」って訳だ。
 だからラストも、そんな「病んだアメリカ」イメージが満載。まるで「国旗」のように吊り上げられるジェニファー・ジェーソン・リー(笑)、リンカーンの 手紙、そこにまたあんな音楽を流して…どう見てもこれって血塗られた「アメリカの歴史」みたいなモノを描いているのは明らかだろう。そこんとこギリギリの ところで、なぜか思い切り対立していたはずの北軍黒人と南軍白人の「和解」らしきモノが成立。決してホメられたワケじゃないけど、こうした醜く汚らしい血 みどろの積み重ねの上にアメリカ社会のバランスはやっとこ成り立っている…という主張は、確かにタランティーノならではの見解だろう。これは確かにユニー クな作品だと思う。

近年のタランティーノ作品に漂う「違和感」の正体
 そんな訳で、独自の切り口でアメリカ史を告発する作品に仕上がっている本作だが、もうひとつ気になるのは…事前に知人に聞かされていた「生理的にちょっと…」ってやつ。僕はそいつを聞いていたから、かなり警戒しながら本作を見ていた。だが、僕はこれを事前に聞かされていたにも関わらず…いや、むしろ聞かされていたせいなのか、今回、スプラッタ的な要素は予想ほど気にならなかった。
 確かに盛大に血を吐くシーンやら頭が弾丸で破裂する場面は連発するが、それってまるでスイカ割りみたいにしか見えない(笑)。おまけにそこにカート・ラッセル がいて室内で誰が敵か味方か疑心暗鬼という設定だったせいか、頭がカチ割れる場面もジョン・カーペンター「遊星からの物体X」(1982)みたいで笑っ てしまった。別にこれってパロディをやるつもりじゃなかったんだろうが、予想外の効果が出てしまったと言えるだろう。
 では、生理的に全然問題なかったかと言うと、実は
僕にはそれよりももっと辟易する要素があったのだ。それは、タランティーノ得意のグダグダ会話である。
 いつも ならマドンナがどうしたとかいったくだらない話題に終始するタランティーノ映画だが、前作、前々作あたりからちょっと意識高い感じになってきて、そこで語 られる話も妙に差別やら憎悪をかき立てる内容に変貌。映画前半の馬車内の会話だけでも胸焼けしそうなところを、「ミニーの紳士服飾店」に舞台が移ってから はさらに一触即発的な状況になる。
 それの最たるモノが、サミュエル・L・ジャクソンがブルース・ダーンを挑発する一幕だろうか。ダーンの息子を殺すに至るいきさつを、これでもかこれでもかと煽りに煽ってまくしたてるサミュエル・L・ジャクソン。とにかくいつまでもいつまでも、果てしなくネチネチと口でいたぶる。いやぁ、もういいかげんにしてもらいたい。これには正直言ってまいった。
 例の血まみれの果てに来 るエンディングに行き着くためには、気が滅入りそうなほどひどいアレコレを描かなくちゃならなかったことも理解はする。ここまでやらなきゃ、こいつらの底 にある醜悪さは表現できなかったかもしれない。しかしサミュエルのブルース・ダーンへのネチネチぶりには、思いっきり辟易させられた。生理的に、気分的にウンザリ。 「レザボア・ドッグス」(1991)での耳を削ぐあたりのネチネチ感も相当なものだったし、タランティーノはそういう芸風なんだと分かってはいても、今回 のネチネチは正直かなり不快。血よりもそっちの方が生理的にイヤになった。
 そのせいか、病んだアメリカ史の総括…みたいな幕切れを「うまくやったな」と思いはしても、なぜかスッキリと感心はできなかった。それより、イングロリアス・ バスターズ(2009)に「ジャンゴ」に本作…と来て、タランティーノの主張がここんところ反ナチとか反ヘイトとか、妙に世界史の教科書っぽくなって来 たのも気になる。これってメル・ブルックス「珍説・世界史PART1」かよ(笑)。
 いや、ここだけの話…僕も「イングロリアス・バスターズ」あたりではとにかく「タランティーノ、スゴい!」と思いっきり提灯を持ってホメていたから、あ まり偉そうなことは言えない。確かに「イングロリアス〜」は面白いし、見た当初は大いに気に入ってもいた。だが、その後「ジャンゴ」に本作…と来て、こうも「それ」系の作品が立て続け に並んでみると、ちょっといかがなもんだろうか…と遅ればせながらそう思わずにはいられない。
 タランティーノもデビューから幾年月。映画界の栄誉という栄誉を浴び尽くして、功成り名を遂げてそれなりに「大家」となった今、言いたいことも出て来た だろう。その気持ちはもちろん分からないでもない。だがタランティーノ一流のやり口の巧みさにはうならされるものの、「良心的テーマをこれほど敷居を低く して描けるオレ」…ってのも、あまり回を重ねて度を越して来るとちょっとイヤミに感じられて来る。これ言っちゃったらみなさんから怒られそうで、あまり大声では言えな いけど(笑)。
 ただ…僕も本作を見終わった当初の段階では、さすがにそこまでは思わなかった。何となく居心地悪い後味を感じて悶々としていたが、その「正体」が分かっていなかった。そして「よく出来てる」と感心しない ではいられないので、どうしてスッキリ納得できないのか困惑していたのだ。ただただ、何となくシックリ来なかった。何となく言葉に出来ない「違和感」が あった。
 ところがそんな「違和感」の正体は、映画を見た後しばらく経って、ネットで本作のこぼれ話を読んだ瞬間に突然ハッキリした。それは本作撮影中に偶然起きた、笑っちゃうハプニングという体で伝えられていたエピソードだ。
 実は本作の中盤で、ジェニファー・ジェーソン・リーがギターを弾き語りする場面がある。その後、彼女の歌う内容の不敵さに腹を立てたカート・ ラッセルが、ギターを奪い取ってブチ壊すという展開になるのだが…何とこれがとんでもないミステークだった。実はここで使われたギターは、正真正銘の「文 化財級」のシロモノ。カート・ラッセルがブチ壊す寸前で、ちゃんとレプリカと交替させる予定だった。それが手違いで、本当に実物がブチ壊されてしまったの だ。おかげでそれが実物だと分かっていたジェニファー・ジェーソン・リーは、劇中で思わず絶叫している始末だ。
 ネットなどに書かれている映画情報などでは、それがまるで笑い話のように取り扱われている。ジェニファー・ジェーソン・リーも思わず迫真の演技! タランティーノ映画らしい、トンデモなエピソードという感じだ。さすがはタランティーノ!
 バカを言わないでいただきたい。
 改めて表明するまでもなく、僕は40年来の映画ファンを自認している。そして、今までのタランティーノ映画も大好きだし評価している。彼の「どんな映画だって映画は映画」…という 主張に賛同もしている。それだからこそあえてキツい言葉で言わせてもらうが…単なる骨董を超えた「文化財」をブチ壊してもいいほどの価値が、たかが映画ご とき、たかがタランティーノ作品ごとき、たかが「ヘイトフル・エイト」ごときにあるとは思わない。どれだけ偉い映画監督でどれほど素晴らしい作品なのかは 知らないが、調子に乗るのもいいかげんにしてもらいたい。
 むろんタランティーノがこれを壊した訳ではないし、故意でやった訳でもない。おそらくは不幸なミスだったんだろう。だが、わざわざそんな価値のあるモノ を持ち出す必要性は本作には感じられないし、それによって起きた不幸な出来事に対して、タランティーノが心底申し訳なく思っている様子は微塵も感じられない。 おまけに、それを笑い話として映画の宣伝用に垂れ流すというテイタラクだ。
 いや、別に「笑い話」として流すつもりはなかったかもしれないが、タランティー ノがこの事実を深刻に受け止めていたなら、こんな伝えられ方はしていないはずだ。もうちょっと慎重な伝え方をするだろう。こんな雑な伝わり方をしてしまうあたりに、タランティーノがこの一件を「大した事はない」と思っていることが如実に現れてしまっている。それは何より、立派な映画作家とやらという以前に、人としてマズいんじゃ ないのか
 何十年何百年の時を超えて生き延びて来たようなモノは、それが例え何であれ極めて貴重で、誰しもそのモノの前では思わず襟を正したくなるはずだ。マトモな感覚の人間ならば、何が何でも自分の手元でそれを消滅させる ような事があってはならない…という厳粛な気持ちになるのが当たり前だ。それを壊してしまったとしたら、もう二度と取り戻すことはできない。だから不幸にも 壊してしまったとしたら、とんでもなく取り返しのつかない事をした…と深い衝撃を受けなきゃおかしい。後悔と懺悔の念を持つのが普通だろう。決してアハハじゃ済まない。やっ た事の深刻さを、そ れなりに受け止めなきゃマズいだろう。まして何かを創り生み出そうとするような人物ならば、そう思わなければおかしいはずだ。文化の担い手の一端としての 自覚がある人物ならば、そうでないはずがない。いくら俗悪ハリウッドにズブズブの人間でも、そのくらいの良識は持っていてしかるべきではないか。
 そういう敬意なりリスペクト なりを抱けないとしたら、その人物にはどこか傲慢さがあるのではないか
 繰り返し言う。「ヘイトフル・エイト」なんて映画なんぞに、壊されたギターに匹敵する価値などあろうはずもない
  火の見櫓の上に上がって世間を見下しながら、反ナチや反ヘイトをもっともらしく訴えるのも結構。しかし、その前にやるべきことがあるんじゃないか。世間に 対してご立派でカッコいいお題目を唱えるより先に、もっと気にしなきゃならないことがあるんじゃないのか。70ミリ映画復活とか、西部劇復権とか、モリ コーネへの 敬意とか良い事やってる気になる前に、心に留めておかねばならないことがあるんじゃないのか。そんな当たり前なことも出来ない奴が、偉そうに「病めるアメ リ カ」とか言ってる場合じゃないんじゃないのか。
 オマエ、昔はそんな奴じゃなかったんじゃないの?
 僕が近年のタランティーノ作品に抱き始めた「違和感」は、まさにそのあたりに原因があると思えてならないのだ。

 

 

 

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