「ブリッジ・オブ・スパイ」

  Bridge of Spies

 (2016/03/07)


  

見る前の予想

 「ブリッジ・オブ・スパイ」というタイトルを聞いたとたん、「グリーニ カー橋?」と思った。いや、これは僕が物知りであるとかいう自慢なんぞではない。ただ、本当に僕はこの橋の存在を知っていたのだ。
 本作では「グリーニッケ橋」などと表 記されていたこの橋、僕はたまたま自分が作った本で、この橋のことを取り上げていた。その名もプロが教える・橋の 構造と建設がわかる本というこの本、本来は橋の構造や種類、作り方などを図解で紹介していく少々マニアックな本だが、僕はそこに 「橋」というものの持つ 社会性みたいなものを入れてみたかった。この本の制作中には東日本大震災が起きて、たまたま建設中の東京ゲートブリッジを取材していた僕は危うく死にかけ るような目に遭ったという思い出もあるが、そんなことから自衛隊が被災地で使っている仮設橋なども取り上げたりした。そしてコラムでちょっと面白みのある 橋を取り上げようと思い立ち、グリーニカー橋を取り上げたのだった。
 かなり昔から、僕は冷戦時代に米ソがそれぞれ捕らえた相手方のスパイを交換する橋 が、ドイツに存在していることを知っていた。そこで2ページのコラムではあるが、簡単に紹介して写真も入れた。その時に初めて、この橋の名 前を知ったわけだ。
 何とスピルバーグがあの「グリーニカー橋」を映画にする!
 それだけで、ちょっとワクワクするではないか。何となく映画的なモノを感じさせてくれる。
 おまけに1950〜60年代と言えば、いつもここで言っているよう に僕の大好きな時代だ。だからクルマのデザインから服のデザイン、男性ファッションやヘアス タイル、音楽から何からゴキゲンなモノになっている予感がする。そうした時代色だけでも僕は楽しめるのだ。
 しかも昨今のスピルバーグのシリアス作品は、何となくどれもこれも 危なげなく出来ている気がする。詳しくは後述したいと思うが、以前はスピルバーグのシ リアス作品は少々ハラハラしながら見ていたところがあった。ところが今ではどれもこれも安定した出来映え。だからトム・ハンクスなんて超安定路線の役者を 主演に迎えた本作は、思い切り安心して見られるはずだろう。
 ところが不思議なもので、そう思ってしまうとなかなか映画館に足が運ばない。危なっかしいからこそ、「オレが見てやらないと」「見守ってやらないと」と 思うわけで、安定安心の出来映えが予想されるとそれで満足してしまいがちだ。
 しかも本作の題材から考えると…スピルバーグと言えども「普通の監督」に なったような観がある。だが、スピルバーグ・シンパを自認する僕にとっては、
やはり「とてつもない」題材を映画化してこそスピルバーグ…という気持ちがあるのだ。 バカでかいUFOとかバカでかいサメとかバカでかい恐竜とか、そんなこの世のモノと も思われないとんでもないモノを見せてくれるのがスピルバーグ…と心のどこかで今も思っている自分がいる。だから、なおさら慌てて映画館に 飛んで行く…という気持ちが失せてしまうのである。
 だが、そんなことをしているうちに、どんどん上映館が減って来てしまった。世間の評判の良さを聞いているだけに、これで見逃したら目も当てられない。僕 は慌てて劇場へと走って行ったのだった。

あらすじ

 1957年、ニューヨーク。ルドルフ・アベル(マーク・ライランス)は質素なアパートに暮らす初老の画家だが、部屋に満載されている画材や過去の作品の ウラには、いささかこの暮らしぶりとは違和感のあるシロモノが積み重ねられていた。それらは、どうやら通信機などの電子機器である。
 やがて部屋を出たアベルだが、実は彼を秘かに観察し、尾行する男が いた。いや…男たちだ。彼らは地下鉄の駅でアベルを見失いそうになりながら、粘り強く 探して再び尾行を始める。そんなことと知ってか知らずか、アベルは公園でカンヴァスを広げて創作を始めながら、座っているベンチの下にさりげなく手を伸ば す。そこには…一枚のコインが貼り付いているではないか。アベルは何 も気づかなかったようなふりをしながら、そのコインをはがして持ち帰った。
 部屋に戻ったアベルは、コインを注意深く扱う。するとコインの表面がはがれて、中には小さく折り畳んだ紙片が入っていた。その紙片を広げて、細かく書かれた数字を ルーペで見つめる。暗号文の解読である。
 ところがそんなアベルのアパートを、例の男たちが急襲。アベルはたちまち取り押さえられてしまう。それでもアベルは慌てず騒がず、画材を片付けさせてく れ…と頼み込む。ただし実際には、画材の片付けに隠れて例の紙片を破棄したのだが…。
 舞台変わって、同じニューヨークでの話。弁護士ジェームズ・ドノバン(トム・ハンクス)は、保険の世界ではかなりの「やり手」として通っている。
 今日も今日とて保険会社の代理人として、交通事故の案件について原告側の男に徹底的に反論。依頼人のことを「被告」と呼ぶ相手をそのたびにしっかりとた しなめつつ、自動車事故で5人に被害を与えた…というどう考えても不利に思える事案を、ドノバンは表情ひとつ変えずに覆していく。5人に被害を与えたのだ から5件ぶんの保険金を支払えという主張に対しても、ドノバンは「5件ではなく1件だ」と言い張って譲らない。「ボウリングで10ピン倒してもストライク1回だろ?」
 そんなドノバンは、彼が所属する事務所でも稼ぎ頭。余裕綽々で事務所に入って来た彼は、上司ワッターズ(アラン・アルダ)に呼び止められる。新たな仕事 の話…いや、そんな生易しい話ではない。これは国の…お上からの仕事と言うべきだろうか。
 先日、逮捕されたソ連のスパイ、アベルを弁護してほしいという依頼 だ。
 何でもアベルはアメリカ政府への協力を持ちかけられ、大幅な減刑というニンジンまでぶら下げられたのに、その提案を一蹴したらしい。それでなくても、こ の冷戦下で「敵国」ソ連のスパイである。それを弁護することの難しさと、弁護したら自分がどう見られるかを分からないドノバンではなかった。ドノバンは渡 された資料がまるで雑菌にでも冒されているかのように、「君子危うきに近寄らず」とばかりに手を離した。「こいつを見る気はないよ、弁護をする気はない」
 しかし、他にやってくれる人間はいないし、適任者もいない。そして、アメリカは何人に対してもフェアで平等な国であるというアピールのためにも、ちゃん とした弁護は必要だ。そこまで言われたら、もはやドノバンには断るという選択肢は残 されていなかった。観念したドノバンは、若い部下のフォレスター(ビ リー・マグヌッセン)にデートを返上させて資料整理を命じる。
 帰宅したドノバンは、妻メアリー(エイミー・ライアン)と子供たちの前でソ連スパイの弁護を引き受けることを告げた。案の定、メアリーはじめ家族の反応 はすこぶる悪い。それは承知の上とはいえ、これから先が思いやられるドノバンだった。
 ドノバンがそんなウンザリする宿題を引き受けさせられていた頃、あるモーテルの一室では、若い空軍兵士たちが集められて極秘の検査を受けさせられてい た。
 その検査が終わると、パイロットのゲイリー・パワーズ(オースティン・ストーウェル)以下の若い兵士たちに秘密指令が下される。彼らは全員検査に合格し たのだ。彼らの与えられた指令とは、ソ連領空内に偵察機を飛ばして軍事施設の写真を 撮ってくること。彼らはそこで、この指令が親子兄弟、妻恋人問わず他言 無用の極秘指令であることも念を押された。そのただならない状況に、若い兵士たちの表情に緊張が走る。
 一方、ドノバンは刑務所でアデルと初めての面会を果たす。飄々とした様子のアデルは悪びれもせず、自分がアメリカ政府からの協力要請を断ったことを認め た。だが、ドノバンもまたそれに対して責める訳でもなく、アデルに対して淡々と接するのだった。
 そんな雨の降るある夜のこと、ドノバンは街中を歩いているうちに何者かからつけら れていることに気づく。クルマの横に隠れてやり過ごそうとするが、敵もさるもの、そんなドノバンの後ろから声をかけてきた。観念したドノバ ンは、その男と一緒にバーに入ることになる。
 ドノバンを追って来た男は、CIAのホフマンという男(スコット・シェパード)だった。彼はドノバンに単刀直入に聞いてくる。「それで、アベルがどんな 事を言って来たか教えてもらえませんかね?」
 だが、ドノバンは断固として拒否。むろん、それが法で定められた弁護士としての義務とは分かっているホフマンだが、それでも一歩も引き下がらない。「事 は国の安全に関わっているんですぞ?」
 しかしドノバンはまったく動じず、自分もホフマンも、それぞれ出身の国が違う移民の子である…と語り出す。「お分かりのように、我々にはまったく接点が ない、ただアメリカの法律の下で暮らしているという点を除いては。あなたは、その法 律を無視しろと私に言うんですか?
 これには何も言えずに引き下がるホフマン。しかしドノバンも、これから自分の前に立ちはだかる困難の大きさを、改めて思い知らされずにはいられなかっ た。
 一方、パワーズはじめ若き兵士たちの準備も着々と進んでいた。彼らは空軍基地の格納庫で、偵察機と対面する。彼らはあくまで、米空軍の肩書きでこの隠密 行動を行う訳ではない。だから彼らの行動は、米軍も米国政府も関知しない。そして「万が一」のことがあった場合には…ともかく「捕虜」になることは許され ない。それを聞いて、改めて身が引き締まる思いの兵士たちだったが…。
 そんな中、いよいよアベルの裁判が始まる。当然のことながら、どう見てもアベルに 勝ち目はなさそうだ。裁判長からして、サッサと決めて終わらせたいと思っている様子。裁判などやる意味がない…とでも言いたげな素振りだ。
 だが、裁判の中でドノバンはアベルが自らの国に忠実であることを語り、彼がアメリカ政府に非協力を貫くことを彼の故国に対する忠実さである…と「美徳」 として 語った。またアベルにフェアな裁きを下すことで、アメリカの公正さを相手国にも示すことが出来る…と訴える。さらに、アベル逮捕の際の礼状も正当なもので はない…と主張。それは裁判の流れとしては正当なものだったが、意外にも食い下がるドノバンに裁判長は不快感を露にする。
 それは、アメリカ社会全体の空気でもあった。
 ある日、通勤電車に乗っていたドノバンは、乗客たちが読んでいる新聞に自分の顔写真が掲載されているのに気 づく。それはもちろん、敵国ソ連のスパイを弁護する男として掲載されていた。やがて乗客たちは、その写真の男が同じ車両に乗り合わせていることに気づき始 めた。中には反感や軽蔑の色を露骨に出して睨みつける者まで…アベルを弁護するということは、この理不尽な視線を浴び続けることなのだと、ドノ バンは改めて痛感するのだった。
 そのうち「アベルの弁護士」に対する反感は、ますますエスカレート。夜中、ドノバンの自宅に銃弾を浴びせる者まで出て来た。さらに、やって来た警官まで 罵倒して来るアリサマ。家族の安全まで脅かされる事態に、さすがのドノバンも苦悩せざるを得ない。
 このままでは、どうしたって勝てない。勝てないどころか、なす術もなくアベルは死刑確定である。熟慮に熟慮を重ねたドノバンは、いきなりアポなしで裁判 長の家に押し 掛ける。そこで訴えたのは、アベルを殺したら「アメリカのカード」がなくなる… ということだった。アメリカでソ連のスパイが捕まるなら、ソ連内に潜入して いるアメリカのスパイが捕まることだってあるだろう。アベルを確保しておけば、その際の「交換条件」になり得る。ここでアベルを殺すのは得策ではない…。 そんなドノバンの主張をどう思ったのか、ともかくドノバンはその場から追い出された。果たして、この主張を考慮してもらえるか。
 ドノバンの賭けは無駄にはならなかった。圧倒的にアベルの死刑を望 む裁判所内の空気に反して、裁判長の下した判決は禁錮30年。傍聴席を埋めた一般の人々は不満の声を挙げたが、まずはドノバンは最低限の勝利を得たのである。
 そんな折りもおり、例の空軍兵士パワーズは偵察機に乗って、今まさにソ連領空内に 入って行った
 目的地に達して、高性能カメラで撮影を始めるパワーズ。 ところが運悪く敵に発見され、激しい攻撃を受けることになる。たちまち大きなダメージを受けてしまい、急降下していく機体。慌てて脱出装置を作動させつつ 機体の自爆装置スイッチを入れようとするが、緊急時には訓練の時のように事は進まな い。万事窮す。
 結局、パワーズは機体を自爆させることも出来ず、自害することもで きずにパラシュートでソ連領内に舞い降りてしまうのだった…。


試行錯誤を重ねたスピルバーグのシリアス路線

 それにしても…一言でスピルバーグ作品といっても、本作 あたりはかつての彼の作品とは隔世の感があるように思える。
 今でこそスピルバーグは戦火の馬(2011)、リンカーン(2012)…とシリアス作品を連発してそれなりに成功させているが、そもそもス ピルバーグ作品と言えば激突!(1971)、「ジョー ズ」(1975)だ。さらに未知との遭遇(1977)、「レイダース/失われたアーク」(1981)、E.T.(1982) といった作品が頭に浮かぶ。SFやサスペンス映画、アクション映画の 作家として有名になった人だし、僕がシンパになったのもそこからだ。そもそもSFだとバカにされてシリアス作品だと高く評価される…ってこと自体がイマド キでは古くさい考え方に思われるが、そうは言っても昔の映画に対する考え方なんてそんなもの。そもそも、世間ってもんがそんなものだ。
 スピルバーグだってシリアス作品を発表するようになってかなり経つが、それらは世間が「スピルバーグ作品」というとイメージする作品群が一通り出尽くし た後のこと。その最初の作品は、「カラーパープル」(1985)とい うことになるだろう。
 その「カラーパープル」や「太陽の帝国」(1987)など、スピル バーグはシリアス作品の分野でも当初からそれなりに秀作も放っている。だが、それでもシリアス作品を発表し始めた頃には、いささか苦しいものがあったことは事実だろう。ちょっと気を緩めると「アミスタッド」(1997)なんてシロモノを世に送り出してしまうし、成功作 として認知されている「シンドラーのリスト」(1993)や「プライベート・ライアン」(1998)ですら、僕としては今ひとつだったの だ。ハッキリ言ってストレートに「良い」と評価できない、どこかバランスが崩れて破 綻した作品に思えてならなかった。
 しかも、一方で従来のSF娯楽マインド100パーセントで作られた「ジュラシッ ク・パーク」(1993)では、抜群のふっ切れ方や切れ味を 見せつけていた。そんなSF作品でのストレートな出来の良さを見るにつけて、どうもシリアス作品のスピルバーグはイマイチ無理があるような気がしてならな かった。
 それがある程度の安定感で見られるようになって来たのは、いつの頃 からだろうか。
 個人的にはスタンリー・キューブリックの遺志を継いで創り上げたA.I.(2001) が「転換点」になったのではないかと思っているのだが、いかがだろうか? これを境にスピルバーグのシリアス路線は危なげのないクオリティを維持するようになったように、僕には思えるのだ。
 キャッ チ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)はシリアス作品というくくりに入れていいのか微妙なところがあるが、これもスピルバーグのSF、アクション畑以外の作品として考えば、シリアス作品とひと くくりにしてもいいだろう。ここでの軽妙洒脱な語り口は、スピルバーグが大人の映画作家になったことを感じさせた。ミュンヘン(2005)はユダヤ人のスピルバーグにとってはかなり際どい題材を扱って、これまた見事に成 功させているから驚いた。だが、シリアス作品のスピルバーグを考えた時、最も驚かされ感心させられたのが「戦火の馬」だろう。
 本来はアクションと特殊技術に強いと定評のスピルバーグがCGアニメタンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011) に手を出すことは、言ってみれば当然と言えば当然。スピルバーグならさぞかし見事にCGアニメを使いこなすだろうと思っていたら…これが、その映画作家としての根幹が揺らぐほど無惨な大失敗となってしまう。あの作品はまさ に衝撃的な事件だった。こりゃもうダメだ…と長年のスピルバーグ・シンパである僕ですら見放しそうになった時に、スピルバーグがそのダメージが癒えるのも 待たずに猛然と発表したのが、異色作「戦火の馬」だった。
 あれはまさに、圧巻としか言いようがなかった
 「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「E.T.」、「ジュラシック・パーク」…などなど、彼が主にSF、アクションといった娯楽映画畑で見せてきた圧倒的映像テクニシャンとしての力量を、シリアス作品で惜しみなく放出。意外と 世間ではこの作品は地味な扱いになっているが、実はスピルバーグとしては代表作の1 本と言っていいのではないだろうか。彼の華麗なるテクニックを総動員で、どちらかと言うと地味な題材を見事に映画化した。その結果として視覚的な魅力の高い、見応えある一作に仕上がっていた。これは間違いなく、スピルバーグのひとつのピークだと言える。
 そして、前作にあたる作品「リンカーン」。僕は大傑作だともすごく好きだとも思わないが、見るからに退屈そうな題材をキッチリ飽きさせず見せてくれる力量には感心した。 それと同時に、スピルバーグが本来持っている華麗なテクニックをバンバン注ぎ込むような映画づくりから、ちょっと一歩下がってみようとしているような印象を持った。
 スピルバーグは映像世代の申し子なだけあって、とにかくカメラを持 たせて編集機の前に座らせれば、アッと驚く映画を難なく作ってしまう。元々からして「うまい」監督なのだ。だが、スピルバーグはそういう映像テクニック・オンパレードの「戦火の馬」を発表した後、明らかにそれらの使 用を封印…とまではいかないが、抑えめにしつつあるように感じられた。カメラをどっしりと据えて、役者たちにじっくり芝居をさせる映画作りだ。
 どちらかと言えば、これまでのスピルバーグはアニメを実写で撮っているよ うな印象があり、役者にフラストレーションを味あわせかねないような印象があった。それが「リンカーン」では、ダニエル・デイ=ルイスにじっくり芝居をさせる変貌ぶり。明らかにこれは、「タンタンの冒険」を通過した経験がスピルバーグに何らかの変化をもたらしたよ うに思われる。当然カメラワークもチャカチャカと動かしたり、めまぐるしくカットを割ったりせずに、役者の生理に合わせてじっくり撮るスタイルに変わって きた。これは間違いなく、映画作家としての成熟と言っていいだろう。 「E.T.」、「A.I.」に続いて、スピルバーグは映画人生何度目かの進化の段階に 入ってきたのである。
 そんな状況下で発表された本作は、果たしてどのような作品に仕上がっていたのか…。

見た後での感想

 アカデミー賞の作品賞候補にノミネートされ、本国でも評価の高い本作。今回、見るにあたって不安材料はほとんどなかったが、唯一ちょっと気に なる点があった。
 それは、主役にトム・ハンクスを起用したことだ。
 トム・ハンクス…アメリカでは国民的スター。元々は「スプラッシュ」(1984) などコメディ畑の役者で、その頃の彼は確かに僕も好きだった。そんなハンクスが方向転換をし始めたのは「ビッグ」(1988)あたりからだろうか。「フィラデルフィア」(1993)でオスカーを穫ってからは、シリアス路線一直 線。ただ、そうなってくると…正直ちょっと鼻につくんだよねぇ
 これはあくまで個人的趣味の領域になってくるんだが、シリアス路線に舵を切った以降のハンクスに感心させられた記憶がない。別にヘタではないしキライま でもいかないのだが、良いとも好きとも思わない。もっと言うと、オスカーを2個穫ろうが何だろうが、「うまい」とも「名優」とも思ったことがない。「名優」っぽい顔で演技をしてい るけれども、だからと言って映画に味わいやコクが生まれる訳ではない。全然違うタイプではあるが、シリアス芝居をやるようになりドヤ顔で絵を描くように なった片岡鶴太郎みたい(笑)と言えばいいだろうか。ハッキリ言って つまらない役者だなとしか思わなかった。
 おまけにスピルバーグ作品に出た時の、トム・ハンクスの実績が微妙。「プライベート・ライアン」がその最初だが、これはハンクスがどうの…というより映 画として破綻していた。次の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は良かったが、これはどちらかと言えばディカプリオの映画だ。そして3作目のターミナル(2004)がまたしても映画としては破綻。ハンクスのせい…という訳でもないのだろうが、なぜこの男を起用すると映画のバランスが崩れるのか?
 そもそもハンクスってスピルバーグが3度も組みたくなる役者なのだろうか?… というところからして疑問がある。僕は「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「オール ウェイズ」(1989)で3度スピルバーグと組んだリチャード・ドレ イファスこ そが、フェリーニにとってのマルチェロ・マストロヤンニ、トリュフォーにとってのジャン=ピエール・レオのような存在になり得る俳優だと思っていたのだ。 実際には、現時点でスピルバーグとドレイファスのコラボはそれ以降途切れたまま。ドレイファス自身がドラッグ依存などで低迷してしまったこともあるのだ が、僕自身はスピルバーグ=ドレイファス路線の途絶をとても残念に思っている。 実際にはその後、スピルバーグは何とトム・クルーズと2度コンビを組み、トム・ハンクスとも今回4度目の顔合わせとなるワケだ。スピルバーグ自身がビッグ な存在になってしまったのだから当然と言えば当然だが、すっかりトップスター狙いに なってしまったように見える。それって何だかなぁ…。
 そんな、それでなくてもイマイチ感のあるトム・ハンクス主演で作ら れた本作に、僕は少々不安を抱かずにはいられなかったのだが…結果から言ってしまおう。
 面白い。
 スピルバーグのシリアス路線作品として、なかなかの面白さに仕上がっている。抜群の安定感を持った、じっくり見せる作品となっているのだ。そういう意味では、前作「リンカーン」に も通じる、派手さはないが「ジックリ型」の映画だといえよう。
 では、そんな本作は他のスピルバーグ作品と比べて一体どこが違って、どこに共通点があるのだろうか?


スピルバーグ=ハンクス・コラボ作品の共通点とは?

 まず本作の内容に入っていく前に、ひとつ指摘しておかねばならないことがある。それは、本作の脚本に、あのクセモノ映画人のコーエン兄弟が参加しているということである。
 実はそのことについては、僕もかなり前から話には聞いていた。しかし実際のところ…コーエン兄弟の話術の巧みさは僕も認めていたものの、果たしてスピルバーグとの相性はどうか…となると、僕にはまったく想像がつかな かった。
 そもそもコーエン兄弟自体が、際立った個性を見せる映画作家だ。そんな彼らが、スピルバーグのような名のある監督のために脚本を書く…ということ自体が 異例だ。さらにスピルバーグ自身もそれなりに腕利きの脚本家を起用して来てはいるが、コーエン兄弟のように自身が監督までこなし、強烈な刻印を自らの作品 に刻み込む作家の脚本を取り上げることはなかった。そんな両者が手を組むなんて…考 えてみることもなかった組み合わせだ。うまくいけば何とも興味深いコラボだが…うまくいかなければおそらくひどい事になるだろう。良いか悪 いか、その両極端しかあり得ないコラボだ。しかしまた何でスピルバーグは今回に限って、そんな脚本のパワーアップを図ったのか
 それは、今回がスピルバーグ作品4作目のトム・ハンクス主演作…と いう点から考えるべきことなのかもしれない。
 前述したように、スピルバーグが4度も組んでいるトム・ハンクスだが、その結果となると極めて微妙だった。「プライベート・ライアン」、「ターミナ ル」…と、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」以外の2作はいずれも作品としてのバランスが崩れた、破綻した構成の作品だった。そして「キャッチ・ ミー〜」は…先に述べたようにハンクス主演作というよりディカプリオの作品であると考えるならば、スピルバーグとハンクスが組んだ作品はどれも構成に難のある作品になっていた… ということになる。これは、非常に奇妙な現象だといえるのではないだろうか。
 しかも、そんな出来の作品が続いたのにも関わらず、スピルバーグはハンクスと4度も組んだということになる。前述のように、スピルバーグが4度も組んだ主演俳優は他にいない。では、なぜ「いい結果」が出 にくいのに、ハンクスと4度も組んだのだろうか? 「結果」はともかくとして、これだけ特定のスターと組みたがるというと、何らかの強烈な意思が働いていると考えるのが自然だろう。
 そう考えてみると…まず思い当たるのが、映画作家が自らを主演俳優に仮託している… というパターンだ。フェリーニ=マストロヤンニと同じ。まぁ、普通に考えると、これが最も考え得るケースだ。確かにハンクスはユダヤ系アメリカ人なので、同じユダヤ系のスピルバーグにとって「私」を託する 可能性は高い。ついでに言えば前述したリチャード・ドレイファスもユダヤ系だから、なおさらこの説は有力に思えるのだ。
 しかしスピルバーグ=ハンクス作品の過去3作を振り返ってみると、どうも単純に主人公が映画作家当人とイコール…とは思えない。例えば「プライベート・ ライアン」はハンクス演じるミラー大尉は他の若い兵士たちを導く存在であり、バリバリのベテラン。これに対して映画作家のスピルバーグは…確かにハリウッ ドでは大変な存在だが、かといって「指導的」なイメージがあるかというとちょっと違う。だとすると、ハンクス・イコール・スピルバーグという構図は考えにくい
 ここで興味深いのは…実はスピルバーグはこの「プライベート・ライアン」に対して、自 分の父親に捧げる作品…と述べているようなのだ。
 そして、この「父親」という視点を持ち込むと、スピルバーグ=ハンクスによるコラボ3作品はある種の「共通点」を持ち合わせるようになる。例えば「キャッチ・ミー・イフ・ユー・ キャン」はディカプリオ演じる主人公が自分の父親(クリストファー・ウォーケン)を慕う物語であり、映画の後半はハンクス演じるFBI捜査官が主人公に手を差し伸べる「父親」的存在になってくる。 さらに「ターミナル」はハンクスが「父親」イメージで登場することはないが、彼は自 分の父親の「遺志」を完遂するためにアメリカにやって来て、空港ターミナルに足止めをくらうことになる。実は、主人公が父親への約束を実現 させるこの映画のエンディングは、作品の構成上ちょっと「蛇足」に なってしまっている。逆に言うと、
スピルバーグは作品の構成上のバランスを崩してでもこのエンディングを入れたかった…というこ となのかもしれない。
 このように…これら3作品は、いずれもどこか「父親」の影がチラつく作品群な のである。
 スピルバーグが「母子家庭」で育ったことについては、すでに広く知 られていることと思う。そうした「母子家庭」ならではのイメージは、「E.T.」など過去の作品にもチラチラ顔を出している。ところがスピルバーグは、 「プライベート・ライアン」あたりから自作に「父親」のイメージを少しずつ投影させ るようになって来た。そんなスピルバーグの「父親」イメージの象徴的役割を、どうやらトム・ハンクスが担っていたようなのだ。
 ついでに言うと、スピルバーグが2作コンビを組んでいるスターとしてはトム・ク ルーズを挙げられるが、実はクルーズとのコンビ作も「父親」という テーマで括ることができる。最初にクルーズと組んだマ イノリティー・リポート(2002)は、幼い息子を失ったことでグダグダになってしまった「父親」、宇 宙戦争(2005)もまた子供たちを何とか宇宙人の脅威から守ろうと逃げる「父親」だ。どちらもSFというかたちをとっている が、「ダメな父親」であることも共通点。スピルバーグが父親のダメな部分や弱い部分に目を向けた時には、トム・クルーズを主役に迎える のかもしれない。
 閑話休題。ここまで見てきた限りでは…スピルバーグは「父親」への思いを熱く描き たい時に、主人公としてトム・ハンクスを起用するらしいのだ。その場合、思い入れが熱過ぎるからなのか…どうしても「プライベート・ライア ン」や「ターミナル」などのように作品のバランスを崩して破綻させてしまいがちだ。 どうやらスピルバーグは、自分のそんな弱点が分かっていたのではない だろうか。
 非常に乱暴な話ではあるが…俗に、イマイチな演出でも良い脚本さえあればそれなりの映画は作れるが、いくら良い演出でもイマイチな脚本からは良い映画は 生まれない…と、よく言われる。これは長く映画を見て来た方ならお分かりかと思うが、かなりいいところを突いた説だといえる。しかしスピルバーグには、イマイチな脚本からもソコソコ面白い映画を作れてしまう才能があったように思え る。彼にはその当初から、力づくで無理矢理に映画を面白くするだけの演出力があった。
 だが、そんなスピルバーグでも演出力だけではどうにもならない時もある。それは例えば「1941」(1979)…柄にもなくウケ狙いしてしまった時…や、例えば「フック」(1991)…自分のウィークポイント(ピーターパン・シンドロー ム)を克服しようとした時…などのような「無理」をした時だった。それ以外に彼がその演出力でカバーしきれずバランスを崩してしまうのが、「父親」を熱く語ろうとした時。抜群の演出力で映画を支配できるスピルバーグほ どの天才でも、感情の極めてデリケートな部分に触れられるとダメになってしまうのだろうか。こうなると彼の演出力だけで作品を支えようとするには、どうし ても無理が生じてしまうのだ。
 だからこそ…そんな構成上の弱点をカバーすべく、自分と拮抗し、自分を凌駕するほ どの力量と個性の持ち主を脚本家として求めたのではないか。その人物に、感情に左右されない毅然とした態度で、まず強固なドラマを築いてお いて欲しかったのではないだろうか。
 今回、スピルバーグがコーエン兄弟という「超大物」を脚本家として迎え入れた理由は、 おそらくそんなところにあるのではないかと思うのである。


スピルバーグ演出の新たなる「進化」

 個性派コーエン兄弟を大胆にも脚本に加えての本作。スピルバーグも映像のテクニシャンだったが、コーエン兄弟も負けずにクセのある演出が売り物。今回は脚本のみの参加というこ とで、当然のことながら監督作ほどのクセを発散することはないと思うものの、場面転換や語り口などにその片鱗を見せてくれるのではないか?…と興味しんし ん。
 対するスピルバーグ演出だって、決しておとなしい方ではない。この両者が同じ土俵 でがっぷり四つで組んだら、果たしてどうなるのか? そんな事前の期待もありながら、実際の作品と対峙。さて、その結果は…と言えば…。
 これが、意外におとなしい
 グイグイ来るカメラ移動、大胆なカッティング、ダイナミックな場面転換…など、馬 力ある演出で 見せるのが初期からのスピルバーグ作品の特徴。それは「カラーパープル」に始まるシリアス路線の作品でも健在だった。「プライベート・ライアン」では作品 構成やバランスは破綻していたものの、冒頭のノルマンディー上陸作戦の場面は、戦争映画の演出のあり方を根本的に変えてしまった。それがスピルバーグ流の 演出術だったわけだ。
 ただし、こうした演出ゆえに…出演する役者の立場からすると、不完全燃焼な気分になったかもしれない。「未知との遭遇」に役者として出演したフランソワ・トリュフォーは自分の役どころを「マンガのキャラクターのようなモノ」と語っていたが、これは言い得て妙という ものだろう。前述したように、スピルバーグ映画の特徴はアニメ的描写を実写で無理矢 理力づくで再現するような演出ぶりにあった。だから役者の内面演技などよりも、カメラや編集などで語ってしまう度合いが大きい。また、スピ ルバーグ自身、それで大半は語れてしまう…と思っていたはずなのだ。
 彼の映画で暴走するタンクローリーや巨大なサメがイキイキとキャラクターを得て動き回るのも、当然と言えば当然。芝居など出来ない子供の扱いがうまいの も、そう考えればうなずける。アニメは元々、芝居もしないし動きもしない紙の上の絵を動かして、生命感や感情を表現するものだ。だから「実写でアニメを撮る」スピルバーグには、命のないモノでも生命を宿らせること が出来るのである。
 それ故に、やろうと思えばどんな演出も自由自在に、しかも実写のようにリアルに再現できてしまうCGアニメ「タンタンの冒険」を作ったとたん、その演出力が一気に色あせてしまったわけだ。正直、僕はこれほど無惨なスピル バーグ作品を見たことがない。その失敗ぶりは、まさに「無様」としか言いようのない酷さだった。僕は「激突!」以来のスピルバーグ・シンパだったから、な おさらそのコケっぷりに失望を感じた。でも、それも無理はない。スピルバーグがCG アニメを製作するなんて、自らの存在意義を否定するようなものだからだ。
 だからこそ…スピルバーグが次にその華麗なる演出力を総動員してシ リアス作品である「戦火の馬」を作った気持ちが、非常によく分かる。それまでのシリアス作品でも、スピルバーグは彼一流の演出術を使ってはいたものの、 SFやアクション作品の時ほどではなかった。それはそもそも「スピルバーグらしい演出」がアニメ演出に基づくものだったのだから、当然と言えば当然だろ う。彼もシリアス作品を作る際には、ちょっと気持ちを切り替えて作っていたところがあったに違いない。ハッキリ言えば「よそいき」気分で映画を撮っていた ワケだ。
 ところが「戦火の馬」では、そんな「スピルバーグ演出」を全編に惜しみなく放出。「タンタンの冒険」があれほど悲惨な結果に終わっただけに、「オレが本気を出せばこうだ!」と自家薬籠中のテクニックを見せずにいられな かったのだろう。「主役」がモノ言わぬ馬であるということも手伝って か、とにかくここぞとばかりにカメラが語る語る。編集がうたいにうたう。僕もこの時には、久しぶりに「スピルバーグらしい」作品を見たような気になって、 とても嬉しくなった覚えがある。
 しかしスピルバーグはこの「戦火の馬」の大成功の余韻から醒めた段階で、改めてこう思ったのではないだろうか?
 オレは結局、実写でアニメを撮ることしか出来ないのか?
 それでは真に役者を使ったり、真に人間を描くということにはならないのではないか…?
 「戦火の馬」の場合、「主役」はあくまでモノ言わぬ馬だったからこそ、それが不自然にならず効果を挙げた。巨大ザメやE.T.をイキイキと動かしたよう に、物語を語ることが出来た。だが、これをいつまでも続けていく訳にはいかない。そして、年齢的にも描きたい題材は若い頃とは違う。いつまでも恐竜や UFOという訳にはいかないだろう。それは、別に「お高くとまった高級な題材」ということではない。若い頃はクルマや宇宙に関心を持っていた人間が、年齢 と共に家族や健康などに関心が移って来るのと同じだ。しかし、そんな彼自身がいつまでも「実写アニメ」しか撮れないとなると…。
 自ら映画会社を興し、抜群の興行力で投資家たちの信頼も厚い。やろうと思えばどんな映画も作れる状況にあるスピルバーグ。それなのに、たったひとつ…自 らの「演出」のせいで作れる題材が限られてしまうとしたら、これほど皮肉なこともないだろう。…若い頃からその「天才的な演出力」で高く評価されてきたスピルバーグならば、なおのこと…。
 どうすれば面白い映画を撮れるかは、イヤというほど分かっている。し かし、それを繰り返してどうなる。そんな葛藤が、スピルバーグの内面には渦巻いていたのではないだろうか。
 そこで「リンカーン」は、それまでのスピルバーグ作品にも増して名優揃いの豪華 キャストを組む。ダニエル・デイ=ルイス、サリー・フィールド、ト ミー・リー・ジョーンズのオスカー受賞者に加えて、ジョゼフ・ゴード ン=レヴィット、デビッド・ストラザーン、ジェームズ・スペイダー、ハル・ホルブルック…従来のスピルバーグ作品において、これほど重厚な キャストが組まれたことがあっただろうか?
 実は、それがあった
 モーガン・フリーマン、アンソニー・ホプキンス、マシュー・マコノヒー、ピート・ スカルスガルド、ジャイモン・フンスー… といった演技派揃いのキャストを組んだ「アミスタッド」がそうなのだ。しかしながら、この時には興行的にも作品的にも今ひとつの結果に終わっている。それ はスピルバーグが、ほぼ役者たちの芝居を中心にして見せる映画をうまく作ることに、この段階ではまだ十分に成功していなかったからだろう。役者の演技をじっくり見せ、なおかつそれぞれの異なる演技のハーモニーをうまく調整し、それを 物語の原動力にする…ということに、おそらくまだ慣れていなかったのだ。
 そこで「リンカーン」では、その苦手克服が作品制作のモチベーションとなる。その試みは、まずまず成功したというべきではないだろうか。まったく従来の スピルバーグ演出をしなかった訳ではないが、どちらかというとそれら華麗なテクニックは影を潜めた。代わりにダニエル・デイ=ルイスをはじめとする演技陣 の芝居を、じっくり長回しで見せていく場面が多い。そもそもダニエ ル・デイ=ルイスのクラスの名優をドカンと真ん中に据えて、堂々たるドラマを見せる映画を作ったことがなかったのだ。ここまでやれれば大したもの。「アミ スタッド」と比べれば雲泥の差だ。
 もうお分かりだろう。本作「ブリッジ・オブ・スパイ」は、演出的には明らかに「リンカーン」の延長線上にある。もちろんアメリカの歴史に沿った政治ドラ マ…という共通点もあるが、そもそも映画に対するアプローチの仕方が 同じなのである。
 部分的には、以前のスピルバーグ作品を思わせる場面もチラチラある。トム・ハンクスたちのドラマがパッと切り替わって、若い空軍兵士たちがソ連偵察任務 の準備に飛行機の格納庫にやって来る場面がサッと挿入されるあたりのカメラワークや編集の呼吸などは、「未知との遭遇」でリチャード・ドレイファスの市井 の人のドラマがパッと切り替わって、フランソワ・トリュフォーの科学者がインドで調査を開始する場面が出て来るくだりを連想させる。いかにもスピルバーグ「らしい」演出だ
 しかし映画の大半は、役者たちの芝居をじっくり見せることに費やされる。特に注目すべきは、逮捕されたソ連スパイを演じるマーク・ライランスが、 主人公トム・ハンクスを間接的に「不屈の男」として讃える言葉を語る場面だ。ここでスピルバーグはカメラをチャカチャカと動かす訳でなく、さりとて長ゼリ フを語っているマーク・ライランスを撮る訳でなく、その言葉をじっと聞いているトム・ハンクスの表情をずっと辛抱強く捉えている。この場面を見て、僕は初 めてスピルバーグ演出に「役者への信頼」を実感した。
 じっと何もせずカメラも据えっぱなしで役者を凝視し続けるという演出は、役者を信用しなければとても出来ない芸当だ。力のない演出家なら…いや、なまじ テクニックのある演出家だからこそ、耐えられずに自分で何かをしたくなってしまうところだ。何でも出来る演出家があえてしないことを選択したとしたら、これはこれで只事で はない。それもまた「役者に任せる」という演出なのだ。この違いは大きい。
 逆に言うと、これまでスピルバーグは役者を心底信頼して映画を撮っていなかったの ではないだろうか。あるいは、例えどんな演技をしたとしても、最後は自分の演出力でどうにでもなる…と思っていたのではないか。だとすると、これは彼の映 画作家としての大きな進歩に思える。
 すべてを自分でコントロールするのではなく、あえて役者に委ねることを良しとする 演出術が、彼の作品に新たな「円熟味」を与えているのである。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

職業人としてのプライドを持つ大人を描く

 そんなスピルバーグの演出術の新たなる「進化」という点に比べると、本作で描かれた物語や、それについての人としての正しさやら善意やらといった考え方は、僕にとってはあまり意味をなさ ないモノに思える。
 本作は東西冷戦下でのエピソードを映画化したものであり、物事が歪んだ視点で見ら れがちな世の中で、主人公が「正しさ」を貫いていく物語… というカタチをとっている。実際にネットなどの人々の感想を見てみても、「世間がソ連スパイを弁護する主人公を偏見で見るようになっても、正義感で立ち向 かうあたりがエライ」とか、「一方的に糾弾する世論に屈せず、フェアにソ連スパイを弁護した主人公に共感」とか、大体がそんな意見で溢れ返っている。だ が、実際のところは…そんな主人公を「エライ」と言ったり「共感」したりしている人 々も、いざこの状況になったらためらいもなく主人公のような人物を白い目で見る側に立ってしまうだろう。まず、間違いなくそうなる。残念な がら、それが人の世というものなのである。もちろん、この僕だって「そっち側」になってしまわないとは思えない。人間なんてそんなものだ。
 だから、正直言ってこの主人公が「エライ」とか「正しい」とか「共感」とかいうことは、僕にとってはどうでもいいことに思えてしまう。そういうテーマを 扱った映画としては立派だと思うが、それ以上でも以下でもない…というのが本音である。
 むしろそんな点より僕の目を惹いたのは、主人公にそうした「正しい行動」をさせた 要因だ。
 スピルバーグも、そしてコーエン兄弟が参加した脚本も、一見そうした行動が主人公 のヒューマニズム的な考え方によるものである…と見えるように描いている。主人公が「正しい人」で「善人」であるような描き方だ。だが僕の 目から見ると、主人公はそんなヒューマニズムとか善意、正義感…などによって動いていた訳ではないように思える。それは、主人公がこの映画に初めて登場する場面に、ハッキリと描かれているのだ。
 そこでは主人公が保険会社の代理人として、交通事故の被害者側(原告側)の代理人とやりとりする様子が描かれている。そこでの主人公は、「やり手弁護 士」としてまったく容赦がない。5人に被害を与えたのだから5件ぶんの保険金を支払えという相手の主張に対して、主人公はあくまで「5件ではなく1件」で あると主張。あげく「ボウリングで10ピン倒してもストライク1回だろ?」と 言い放つ。これはまったく被害者側から見れば酷い話だ。だが、法律論としては「アリ」なのだろう。保険会社側の弁護士である主人公としては、非常に正当な ことを行っているのである。それでも…これはいわゆる「善人」の言い草と はとても思えない。
 そして、映画の終盤で主人公が米ソのスパイ交換を交渉する際に、ソ連と東独に対して先の「10ピン倒しても1ストライク」の理屈を持ち出す。つまりスパ イ交換をする際にも、ある意味で主人公のスタンスはブレていないの だ。だとすると、主人公にソ連スパイを全力で弁護させたり米ソのスパイ交換を実現させた原動力は、「人道主義」だとか「正義感」だとか「民主主義」といっ た「いかにも美しい概念」ではないのではないか。それはむしろ、事故 被害者に対して温情もへったくれもない「シビアな保険会社側の代理人」の時と、まったく同様のものだったと考えるべきだろう。
 つまり…たぶん娯楽映画としての受け入れられやすさを考えた選択だったのだろうと思うが…本作の作り手は一見、ヒューマニズムや善意や正義感が主人公に 勇気ある行動をとらせた…と見せている。しかし、実はそうではないのではないか…とも思えるのだ。
 ズバリ、それは「プロ意識」ではないのか。
 弁護士として弁護を引き受けた以上、その対象が事故で5人も負傷させた奴の保険会社だろうとソ連のスパイだろうと、そいつにとって最大限の利益を引き出し、ダメージを最小限に食い止める。それが プロだ。CIAが脅そうと警官や一般市民が文句を言おうと、眉毛ひとつ動かさずに一歩も退かない態度で臨む。国家に対する忠誠だの何だのと言われようと、 その態度にブレはない。それがプロフェッショナルというものだからだ。それは、大人なら誰しもが持っている、自分の職業に対する矜持である。
 職業人としてのプライドを持つ大人…それこそ、「父親」のイメージ ではないのか。
 妻子の目からは、何をしているのか見えない。ともすれば、家庭では影が薄いくらいの父親。時には父親の仕事に絡んで、家族は何かとグチを言うこともある かもしれない。だが、その父親は、家族の知らないところで「プロ」と してキッチリ仕事をしているのだ。家族が想像もつかないプレッシャーと闘いながら、とてつもない結果を生み出しているかもしれないのである。そして、厄介 な案件を片付けて疲れて家庭に帰って来ると、初めて安堵のあまり正体もないほど眠り 込んでしまう
 トム・ハンクスとのコンビ4回目である本作にも、過去3作品と共通するテーマがちゃんと流れているのだ。そう…今回もまた「父親」の映画なのである。


 

 

 

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