「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」

  Star Wars - The Force Awakens

 (2016/01/25)


  

ディズニーの「スター・ウォーズ」なんて見たいか?

 あの「スター・ウォーズ」の新作である。
 世間じゃバケツの底が抜けたような大騒ぎ。みんな見ろ見ろと鐘や太鼓で煽る煽る。世間の人々も大ハシャギで、早く見たいだの「スター・ウォーズ」グッズ が欲しいだの、何だか妙に有頂天である。当然のことながら、僕に対しても周囲からアレコレと言って来る。やっぱり「スター・ウォーズ」は見たいよね? も う見たよね? 何回見たのか…? 
 見てねえよ、うるせえな。
 映画好き…それもアメリカ映画好きなら、しかもSF映画好きなら、「スター・ウォーズ」が好きでない訳がない。その新作が改めて公開されるとなれば、嬉 しくないはずがないだろう。まぁ、普通に考えればこうなる。みんなが僕にそう聞いてくるのも無理はない。僕も申し訳ないから「楽しみで楽しみで」なんてつ き合って言ってはみるのだが、実は今ひとつ気持ちが乗って来ない。というより、正直言ってあまり見たいとは思わない。ここだけの話、かなりシラケわたった気持ちで一杯である。女性雑誌まで「カレシと話題を合わせるためのスター・ウォーズ知識」を紹介するなんてテイタラクに、心底ウンザリしている。くだらな過ぎて反吐が出そうだ。
 だって、みんな「スター・ウォーズ」なしには生きていけないぐらいことを言っているし、昔から熱烈なファンとか言っているけど、そんな奴ら昔から見た事 ないぜ。日頃からライトセイバーを持ち歩いている奴なんかいなかったし、いつもヨーダやダースベイダーの柄が印刷されたTシャツを着ている奴も特にいな かった。それは最初の三部作公開の頃からしてそうだった。どうして 今、そんな奴らがここへ来てボウフラみたいに湧いているのか。頭がカラッポの若い奴らがそれを言うならまだしも、いい歳こいたオッサンどもまでが「私は昔 から…」的なことをぬかすのか。これまでそういう奴らはどこに隠れていたんだよ。みんな夜も眠れないほど、仕事も手に付かないくらい、年がら年中ずっと考 えているくらいそんなに好きだったのかい「スター・ウォーズ」を。ウソを言ってもらっては困る。
 何だかこのノレない気分は、一昨年の「アナ雪」の時に似ている。ア レも周囲からアレコレ言われれば言われるほど、気持ちが退いて行った。そもそも例の大ヒットした「アナ雪」テーマソングの歌詞が、昔つき合った女が並べ立 てたタワゴトみたいで聞くに堪えなかった。「ありのままでいい」なんてナメたこと言ってんじゃねえよ、少しは反省して最悪な性格直せこのボケが。
 そう、まさに「アナ雪」。今回の「スター・ウォーズ」はディズニー製なんだよなぁ。
 別に僕はディズニー映画を全否定するつもりはない。実際それなりにディズニーの映画は見ているし、面白いと思うものもある。ディズニーランドに遊びに 行ったことだって、若い頃には何度かあった。しかし、それとこれとはまったく別だ。ディズニーランドの中に夢と理想に富んだ素晴らしい秘密が隠されてい る…なんてジョージ・クルーニー主演の映画とか、トム・ハンクスがウォルト・ディズニーをイイ人ぶって演じる映画とか…なんて、見るのも恥ずかしくて結局見るのをやめてしまった。こいつらどうしていつも、自分で自分のことをホメるような恥ずかしい映画を作るのかねぇ…。正直いって心底気持ち悪い。「オレって良い人だから」って真顔で言って来るような奴と、みなさんはつき合いたいと思いますか(笑)? 
 そもそも、手塚治虫の「ジャングル大帝」パクって平然としている時点でついていけない。「ナルニア国物語」シリーズを第1章 ライオンと魔女(2005) からスタートさせながら、2作作った時点で降りるヘタレぶりが気に入らない。それなりの覚悟を持って映画化を始めたんじゃないのかよ? ピクサーをカネの 力で買収する手口も胸くそ悪いし、同じようにルーカスフィルムを札束で買い叩いたやり方が我慢ならない。ディズニーランドで売っている電池まで、欲しくも ないミッキーの絵を描いてバカ高い値段をとっている見苦しさ。テメエの都合で著作権保護の期間を延長させると いう傲慢さも目に余る。千葉県が作った観光イラストマップに、西洋のお城の絵が描いてあっただけでイチャモンつけてきた偏狭さ。地元に貢献する気なんてサ ラサラないし、テメエは著作権侵害しているのに「オレのものはオレのもの、オマエのものもオレのもの」的に無茶を押し通す。こいつらどんだけカネに汚ねえ んだ。オマエらには恥というものがないのか。
 もちろん世の中カネだし、映画もビジネスだ。それにしたって、少しは映画ファンの気持ちってものを考えろよ。そこを逆なでするんじゃ肝心のビジネスのためにもならないだろう。映画やエンターテインメントは「夢」を売る商売じゃないのかい。オマエらのやり方はセコ過ぎて、夢も希望もありゃしない。オマエらの人工的な「夢」や「希望」を見てると虫酸がはしるんだよ。
 そのディズニーが、「スター・ウォーズ」を作る。
 ディズニーランドのアトラクションになった時からイヤな予感はしていたのだが、案の定、そうなっちまったのか。毒にもクスリにもならない、無臭の砂糖菓子みたいな人工物と化してしまいそうでウンザリする。そう思っていたら…おやおや、やっぱりおいでなさった。
 海の向こうから伝わって来る新作「スター・ウォーズ」のニュースは、僕の杞憂を裏付けるに十分だった。
 今回の「スター・ウォーズ」の主人公は、女である
 こう言うとすぐに発狂するフェミニストの方もいるかもしれないから、あらかじめハッキリお断りしておく。僕は別に冒険アクション映画の主人公が女性であることをイヤがっている訳ではない。そういう映画だっていくつもあるだろうし、それらの中には好きなモノも多い。「エイリアン2」(1986)でのシガーニー・ウィーバーの暴れっぷりには大いに嬉しくなったクチだ。イケてるヒロインの大暴れが見たくない訳がない。問題は、それが新しく製作される"ディズニーの「スター・ウォーズ」”から始まっていることだ。
 ディズニーのことだ、どうせマーケティングとかそんな事を事前にやって、映画の設定やストーリーを考えているに違いない。そうなりゃ「女を主役にすればカネになる」的な発想が出て来るのは間違いない。しかし、そんなことで作られていく「スター・ウォーズ」なんて誰が見たいんだ?
 もう一人の主役が黒人青年だということを知るや、ますますそんな疑念が強くなって来た。つまりは、こちらは「主要登場人物にはマイノリティーを入れろ」 ということなんだろう。まったく素晴らしい配慮だ。大変に結構なことである。そういうことで拍手喝采する方々も団体も多数あることだろう。これはまさしく 正しいことだ。
 だが、僕はそんな「配慮」やら「マーケティング」で作られる「正しい作品」を見たいとは思わない。健康を考えて葉巻を吸わない「荒野の用心棒」(1964)のイーストウッドを見たいと思わない。 女が出てもマイノリティーが出ても別に構わないが、そういうことが「商業的な思惑」や「政治的配慮」で決められたと、露骨に感じられるモノを見たいとは思 わないのだ。どこかのお役所や第三セクターが作るパンフレットとかならそれも構わないが、純粋な娯楽作品…それもオタクのお楽しみ的な作り込みで知られる 「スター・ウォーズ」なんかでそんなことを剥き出しにやってもらいたくはない。それって純粋なクリエイターの産物ではないだろう。巨大な利益を産む作品で あることは分かるけれども、あまりオモテ立って「大人の事情」を見せつけられたら楽しくない。だから、そういうあたりが「ディズニーだよな」と思わされて、ゲンナリさせられてしまったのだ。
 しかしながら…僕が躊躇した理由は、実は「ディズニー製」という一点だけに基づくものではなかった。それは、そもそも一番最初の「スター・ウォーズ」が公開された時から、僕が味あわされて来た失望によるものだったのである。

僕が「スター・ウォーズ」に味わい続けてきた「失望」

 1977年の夏は…少なくともアメリカでは「スター・ウォーズ」の夏だった。
 アメリカ映画の全米興行収入が云々…という話が我々の耳にまで聞こえて来たのは、確か「ゴッドファーザー」(1972)が最初のことではないだろうか。それまで「風と共に去りぬ」(1939)が持っていた記録を、この作品が打ち破ってしまった。映画の衰退…というムードを一気に打ち破ったのが、この「ゴッドファーザー」だ。やがてその記録を、今度は「ジョーズ」(1975)が打ち破る。その記録をさらに破ったのが、この「スター・ウォーズ」第1作(1977)。今では「新たな希望」とか何とかいう作品だ。
 当時、僕は中学〜高校とテレビの洋画劇場を見て育って来た人間で、小遣いの中からやりくりして映画館に通うようになってきた映画ファンの卵。中でもSF 映画に夢中になっていたから、この作品の大ヒットには敏感に反応した。その頃はインターネットなどないし、テレビでもそれほど海外ニュースが頻繁に流れる 訳ではない。海外ニュースは1〜2カ月遅れて伝わるのが普通なご時世だ。そんな時代にも、「スター・ウォーズ」全米大ヒットのニュースは日本で大々的に報 じられていた。ロサンゼルスのグローマンズ・チャイニーズ・シアターに出来た長蛇の列についても知っていたし、そのことで「チャイニーズ・シアター」という名前を覚えたほどだ。これは絶対に見たい…と、僕は大いに盛り上がった。
 しかし「スター・ウォーズ」は、一向に日本にやって来なかった
 当時、アメリカの夏のヒット作は、大体が日本のお正月映画になるのが通例だった。大ヒット作は映画の書き入れ時に公開するのが当たり前。そうなれば、当 然、日本ではお正月映画となるのが普通だろう。ところが「スター・ウォーズ」配給元の20世紀フォックスの日本支社は、ここでやってはいけない痛恨のミスを犯してしまった。日本での公開を、1978年お正月ではなく同年夏まで延ばしてしまったのだ。つまり、「スター・ウォーズ」は日本では1年「塩漬け」になってしまった。
 まぁ、映画興行の規模から言えば、お正月よりも夏休みの方が大きいことは確かだ。だから、より多く儲けられると踏んだ「スター・ウォーズ」を夏に持って来ようという発想は、分からないでもない。問題は、「鮮度」が保てるかどうかだった。
 映画雑誌だけでなく、一般の雑誌までが「スター・ウォーズ」を報じて語り尽くした。日本の映画評論家やSF好きを自認する連中が、わざわざロサンゼルス やらハワイにまで行って「スター・ウォーズ」を見て来て、その内容を微に入り細に入り語りまくった。いかに自分は「スター・ウォーズ」を知り尽くしている か…という「物知り自慢」を、メディアの上で競うアリサマ。年を跨いで1978年に入ってからは、もはや「スター・ウォーズ」で語られていない箇所はない レベルにまで達していた。そうした「スター・ウォーズ」評論家たちの中でもひどかったのが、名前を挙げるのは大変申し訳ないが、CMディレクター上がりの 映画評論家である石上三登志という人であろうか。とにかく得意になっ てあちこちに内容をバラしまくっていたので、それらを目にしない訳にはいかない。正直言って、僕は今でもこの人って本当に映画が好きだったんだろうか…と 疑問に思っている。映画が好きなら、映画を好きな人の気持ちも分かるはずだ。この人のやった事は映画好きに対しては最低のことだったのである。映画を出来るだけ先入観なしでフレッシュに見る…という楽しみを、映画ファンから奪ってしまった。これはハッキリ言わせていただく。最低だ。
 そんな訳で「スター・ウォーズ」日本公開の1978年夏の段階では、映画ファンという映画ファンは、みんなもう「スター・ウォーズ」について知らないところはないような感じになっていたように思う。そんな状況でスタートした「スター・ウォーズ」の興行は…。
 今ひとつ盛り上がらない。
 正確な記録は今すぐに出て来ないのでよく分からないが…ヒットしたことはヒットしたのだが、日本では「ジョーズ」の記録を抜くことは出来なかったんじゃないだろうか。つまり、配給会社が期待していたほどには、圧倒的な大成功を収めることは出来なかったはずだ。少々期待はずれだったワケだ。
 何より、大ヒット作特有の「熱気」が乏しかった。例えば今回の 「フォースの覚醒」みたいに、みんなが「スター・ウォーズ! スター・ウォーズ!」とわめいているような事は既になかった。マスコミも「スター・ウォー ズ」一色になってはいなかった。なぜなら、それらはすでに前年の夏から冬にかけて「済んでしまったこと」だったからである。いよいよ公開!…という広告や ら提灯記事はかなり露出していたはずだが、そこにはすでにもはや「熱」はなかった。何よりマズいのは、映画ファン自身もすでに「スター・ウォーズ」を見たような気になってしまっていたこ とだ。そこにはすでに、あのワクワク感がまったくなくなっていたのだった。結局、僕も含めて劇場に足を運んだ人々は、すでにインプットされた「スター・ ウォーズ」情報を、スクリーンで確認するだけでしかなかった。オープニングに前説がスクリーンのこちら側から遥か彼方へと流れていく…とか、宇宙の酒場で エイリアンのバンドがスイングジャズもどきを演奏している…とか、僕らはもう全部知っていたのである。むろん、それでも「スター・ウォーズ」は面白かっ た。面白かったが、あの初めて見るフレッシュな驚きはまったくなかったのだ。
 だから、1978年の夏…を思い出す時、おそらく初公開を見た人々なら、あれを「スター・ウォーズ」の夏だった…とは思わないはずだ。初公開時から熱狂 した、興奮した…という人がいたとしても否定はしないが、全体的には盛り上がりに欠けた興行と言うべきだろう。本当にシラケた興行だったのだ。だから今 回、オッサンたちが「第一作目からずっと熱狂してた」と言うのにもの凄く違和感を感じる。オマエそれって本当に本気で言ってるのかい…と小一時間ばかり問 いつめたい気持ちになる。それって、思い出で補正され美化された記憶じゃないのかね。人間ってのは本当にいいかげんなものだからねぇ。
 そんな訳で、正直言って
僕もちょっと失望した
 まぁ、こんなもんじゃないの…というのが正直な気持ちだった。やたら醒めてた記憶しかない。でも、これは映画ファンとしては寂しい話だ。
 だから、第2作「帝国の逆襲」(1980)にはまったく期待がな かった。前作のシラケわたったイメージから、いいとこソコソコの出来ぐらいのもんだろうと思っていた。で、結果的にはこれが良かったのだ。メチャクチャに ハードルが下がったところで、意外性とサプライズに満ちた「帝国の逆襲」を見ることになったので、その面白さは倍増。ただでさえシリーズ最高傑作の呼び声 高い「帝国の逆襲」を、さらに面白く見ることが出来たのだ。これは想定外の結果だろう。
 ところが、またまた次の「ジェダイの復讐」(1983)…「ジェダイの帰還」とかいうヌルいタイトルの映画は僕は知らない…では
、これが災 いすることになってしまう。「帝国の逆襲」で「やっぱり面白い!」と逆にハードルが上がってしまったので、「ジェダイの復讐」にはまたまた失望する結果と なってしまったのだ。ただ…これは致し方ない部分がかなりある。「ジェダイの復讐」はとりあえずの「完結編」で、お話がルークたちの勝利に終わるのは最初 から分かっていること。そこに「帝国の逆襲」のようなサプライズを求めるのは無理なのだ。ハードルを勝手に上げるのは、酷な話なのである。そもそも全編を 高尾山で撮影したような絵柄で「森の木陰でドンジャラホイ」みたいな話の「ジェダイの復讐」自体が、残念ながらあまり面白い作品ではなかったとも言えるが…。
 そんな訳で最初の三部作が1勝2敗みたいな感じで終わってしまった「スター・ウォーズ」に関して、SF映画ファンである僕としてはあまり「好き」という 感情を抱く事はなかった。むろん特撮技術における革新性やらSF映画ブームを巻き起こしたインパクトの高さは認めるものの、僕の中で「特別な映画」として の位置を占めることはなかった。やはり「最初の出会い」を台無しにされた…というダメージは、どうしてもぬぐい去ることが出来なかったのである。
 それから10数年…突如、ジョージ・ルーカスが新たな「スター・ウォーズ」を作り始めると聞いて、世間はまた色めき立った。今度は先の三部作の前のお話だという。イマドキでは大流行りの「ビギニング」もののはしりだ。
 元々、第1作公開後あたりの段階で、ジョージ・ルーカスは「スター・ウォーズ」を全部で9部作の作品にするつもりだと発言していた。第1作は真ん中の三 部作の1作目で、その前の三部作は一つ前の世代の話(さすがに「帝国の逆襲」発表前の段階では、ダース・ベイダーがルークの親父であるとは言えなかったの だろう)、後の三部作には年老いたルークたちが登場する…という設定は、確かもうその時に決まっていたように記憶している。ただその時の僕としては、そん な構想はハッタリだろうと冷ややかに見ていたような気がする。「スター・ウォーズ」バカ当たりで気が大きくなったルーカスが、大風呂敷を広げるだけ広げて 虚勢を張っているようにしか思えなかった。
 ところがこの新たな「スター・ウォーズ」製作のニュースによって、その10数年前のルーカス構想がウソじゃなかったことが分かった訳だ。さすがに僕は感 心したし、この新作の登場を大いに期待した。第1作以降は監督業から退いて、おまけにこの時点では「半引退」状態だったルーカスが自ら監督する…というの も期待する要素のひとつだった。何だかんだ言っても、彼はあの素晴らしい「アメリカン・グラフィティ」(1973)の監督なのだ。新作「スター・ウォー ズ」で監督業に復帰したら、また素晴らしい作品を作ってくれるに違いない。これは僕だけでなく、おそらくほとんどの映画ファンがそう思ったはずだ。
 こうして西暦2000年を前に、期待を膨らませるだけ膨らませて登場したエピソード1:ファントム・メナス(1999)の出来映えについては、おそ らくみなさんの方がよくお分かりかと思う。いろいろ意見はあるだろうが、僕の実感としてはルーカスは「現場の勘」というものを失ってしまったのかな…とい うのが正直なところ。何より内容のスカスカぶりに驚かされた。
 幸いなことに、世間のファンほどジャー・ジャー・ビンクスに対して悪意を抱く(笑)ことはなかったが、それは僕にそれほど「スター・ウォーズ」への思い入 れがなかったからだろう。ハッキリ言って、この「スター・ウォーズ」への失望は僕にとって初めてのことではなかったからである。
 次のエピソード2:クローンの攻撃(2002)は前作ほど悪くはないと思ったが、思い返してみるとストーリーがまったく頭に残っていない。ただ、 「アナキンがどんどんドス黒くなる」というお話でしかない。すべてがその一行で足りてしまうのだ。おそらくルーカスが当初持っていた全9作の構想とやらも、そ れぞれの作品について1行程度のものだったのではないか。無理矢理三部作のスタイルにするために、お話を引き延ばしているようにしか見えなかったのであ る。
 そんな訳で、またしてもハードルが下がりに下がったエピソード3:シスの復讐(2005)は、僕にとって新三部作の中で最も楽しめる作品となった。 しかし、それもそのはず。よくよく考えてみるとこの新三部作は、最終作である「シスの復讐」以外はなくてもいいものだったのだ。アナキンの子供時代とかア ミダラとの恋などは、フラッシュバックなどで処理してもいいぐらいの「薄さ」。ルーカスの演出力の低下やら脚本構成力の甘さを云々するより、そもそもが中 身のない話だったと考えるべきなのだろう。
 ただ第1作や「帝国の逆襲」などで彼が見せた数々の設定の独創性や、ビジュアルの素晴らしさ…などを考えると、この新三部作ではルーカスのイマジネー ションの枯渇を感じずにはいられなかった。製作規模が大きくなって予算も拡大、テクノロジーの進歩も著しいにも関わらず、イメージの貧困は覆い隠せなかっ た。新三部作ではユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、サミュエル・L・ジャクソン、リーアム・ニーソンなど、なまじっか妙にスターを投入している だけに、余計イメージの貧しさが際立ってしまったのである。というか、スターでも入れないともたないと分かっていたのだろう。あるいは、キャラクターの描 き込みの浅さをスターの個性でカバーしようという作戦だったのかもしれない。
 だからルーカスがこの新三部作のあとはもう作らない…と宣言したのは、さすがに僕も賢明な判断だと思った。どうせやってもこれと同じだ。やるべきではないだろう。
 ところが君子豹変す。突然のディズニーによるルーカスフィルム買収劇、そして「スター・ウォーズ」サーガの続行が報じられる。やっぱりやるのか。やってしまうのか。
 みなさん、ここまでの経緯を見て来た上で、それでも「スター・ウォーズ」の新作に期待できますか? 僕はできない。できる訳がない。またガッカリするのがオチだ。
 だから僕は、公開されてもいつまで経っても劇場に足が向かわず、結局は年をまたいでしまった。映画ファン、SFファンとして「見ない」という選択肢は考えられなかったものの、どうしてもイヤな予感しかしなかったのだ。
 ところがある日、ポコッと時間が空いた。そこにちょうどうまく新作「スター・ウォーズ」の上映時間が重なった。気乗りしないまでも、こういうチャンスを 逃したら二度と見る気にならない気がする。そんな訳で、僕は安手のB級アクションでも見に行くノリで、「スター・ウォーズ」の新作を目にした訳である。


あらすじ

 「エピソード7:フォースの覚醒」
 ルーク・スカイウォーカーが失踪した。そのルークのいぬ間に、帝国軍の残党による「ファースト・オーダー」が勢力を伸ばしていた。一方、共和国側の支援 を受けて、レイア・オーガナ将軍率いるレジスタンス軍がファースト・オーダーと交戦。レイアは銀河に平和と正義を取り戻すべく、兄ルークの居所を必死に探 していた。そのため、レイアは惑星ジャクーに密使を派遣。そこではルークの居所を示す「モノ」が発見されたというのだが…。
 広大な宇宙空間。そこに悠々と飛来するのは、ファースト・オーダー側が放った巨大な宇宙戦艦だ。その戦艦から、今まさにいくつかの着陸船が、惑星ジャクーへと放たれているところ…。
 その惑星ジャクーでは、レイアの密使であるポー・ダメロン(オスカー・アイザック)が、この地の長老であるロア・サン・テッカー(マックス・フォン・シ ドー)と出会っていた。ロア・サン・テッカーがポーに渡したのは、例のルークの居所が分かる「モノ」。ところがそんなところに、例の着陸船が数機降りて来 る。そこから出て来たのは、帝国軍でおなじみストームトルーパーの一隊だ。
 彼らは惑星ジャクーの村人たちを集め、家々を焼き払い始める。ここはもはや安全ではなかった。ロア・サン・テッカーはポーを逃がすとストームトルーパー たちを止めに入るが、あっという間にロア・サン・テッカー自身がやられてしまった。彼を倒したのは、ストームトルーパー軍を率いる黒装束の怪人カイロ・レ ン(アダム・ドライバー)。カイロ・レンは無慈悲に村人たちを虐殺し、暴虐の限りを尽くした。
 ポーは彼の相棒である球体ボディーのドロイド「BB-8」と共に戦闘機に乗ろうとするが、ストームトルーパーの一人が光線銃で攻撃。ポーはとっさにその ストームトルーパーを倒したが、戦闘機は飛行不能になってしまう。一計を案じたポーは例の「モノ」をBB-8に託して、その場は二手に別れた。
 一方、ポーに倒されたストームトルーパーの後ろにいたもう一人は、そんな激しい戦闘に足がすくんでいた。倒れた者の血のりが、怯えるこのストームトルー パーの白いコスチュームを赤く染める。カイロ・レンの号令で村人たちが虐殺される時も、この血染めのストームトルーパーは銃を撃てずにいた。この状況は、 彼が望んでいたものではなかったのだ。
 ポーはまもなくカイロ・レンたちに捕らえられ、宇宙戦艦へと護送されて行った。BB-8に「モノ」を託した彼の判断は、やはり正しかったのだ。
 そんな砂漠の惑星ジャクーに、また陽がのぼる。かつての戦闘で破壊され廃棄された戦艦の中に、一人の人物が侵入していた。その人物は戦艦からいくつかの 部品をはずし、それらを「戦利品」として持ち帰る。一仕事終えたその人物がマスクをはずすと、そこにはまだうら若い娘の姿があった。彼女の名はレイ(デイ ジー・リドリー)。訳あってこの惑星に一人で暮らし、こうした戦艦から入手した部品を市場で売りさばいて、何とか生計を立てている。そんな彼女は、砂漠の 中でちょっとした小競り合いと遭遇。それは、部品狙いで廃品回収屋に襲われていたBB-8であった。レイは廃品回収屋を脅してBB-8を助けたが、今度は BB-8にまとわりつかれて困惑。それでもレイが気に入ったBB-8は、何とか彼女に同行することを許してもらうのだった。
 その頃、ファースト・オーダーの戦艦に連れて行かれたポーは、案の定、カイロ・レンとその手下に激しく尋問される。カイロ・レンはハックス将軍(ドーナ ル・グリーソン)と共に指導者スノーク(アンディ・サーキス)の下で働いていたが、今ひとつ結果が出せずに焦っていた。しかし、たやすく「モノ」の在処を 教えるポーではない。
 そしてこの戦艦には、惑星ジャクーの戦闘でビビりまくっていた血染めのストームトルーパーも戻って来ていた。彼の正体は、黒人青年「FN-2187」 (ジョン・ボイエガ)。虐殺に躊躇したり勝手にマスクをはずしたりしたことで、彼は上に睨まれるハメになっていた。そんな黒人青年「FN-2187」は、 ポーが囚われていた部屋に侵入して彼を解き放ち、一緒に逃げようと告げる。無理矢理捕らえられてストームトルーパーとして養成されて来た彼だったが、虐殺 はもうこりごりだったのだ。こうしてポーと「FN-2187」は格納庫でTIEファイターを奪い、まんまと脱出を果たす。「FN-2187」に感謝した ポーは、彼にフィンという新たな名前を与えた。しかし、良かったのはそこまで。
 そのままファースト・オーダーの目の届く範囲から逃げ出そうとしていたフィンに、ポーはあくまで惑星ジャクーに戻ることを主張。ポーは、ジャクーでドロ イドのBB-8と落ち合わねばならなかった。だがそれを聞いて、たちまちフィンはビビりまくる。おまけに戦艦の高射砲で撃たれたTIEファイターは制御不 能となり、そのまま惑星ジャクーに落下して行くハメになってしまった。
 ふとフィンが気づくと、彼はパラシュートで脱出して砂漠の中に落ちていた。TIEファイターも近くの砂漠に墜落。しかしポーの姿はどこにもなく、そこに は彼のジャケットが残っているだけ。おまけにフィンがTIEファイターから離れるや否や、その機体は砂漠の奥深くに飲み込まれてしまった。頼みの綱のポー を失い、砂漠にたった一人のフィン。おまけに、彼はいまだファースト・オーダーの勢力圏の真っただ中にいた。
 仕方なくポーのジャケットを着て、砂漠をさまようフィン。そんな彼は砂漠の市場へとやって来た。そこで出会ったのが、レイとBB-8の二人組。ポーが 言っていたドロイドとは、あのBB-8のことではないか…。ところがフィンを見かけたBB-8は、彼を泥棒だと騒ぎ出す。例のジャケットをポーから盗んだ と思ったのだ。レイとBB-8に捕まったフィンは何とか身の証を立てるものの、行きがかり上、レイに自分のことを「レジスタンス」だと思わせてしまう。そ の時は、それが都合良いと思われたのだったが…。
 やがてそんな市場に、ファースト・オーダーが放った刺客たちが襲って来る。上空からはTIEファイターが発砲。レイ、フィン、BB-8は命からがら逃げ 出して、市場に駐機してあった宇宙船に乗り込もうとした。ところがそれも目の前で破壊されてしまい、仕方なく市場に駐機してあったもう一機のオンボロ船に 乗り込むことにする。あまりに古びているので乗りたくはなかったが、この際ゼイタクは言っていられない。
 そのオンボロ船、その名を「ミレニアム・ファルコン」という。
 船の由来など知る由もないレイは、持ち前のメカに対する知識を駆使。砂漠に鎮座するかつての宇宙戦艦の巨大な残骸内に入り込んで、その操縦テクニックを 十二分に披露する。銃座に座ったフィンも意外な才能を発揮し、追って来るTIEファイターをバッタバッタとなぎ倒す。こうして敵の追撃を振り切ったミレニ アム・ファルコンは、そのまま宇宙へと逃げ出した。
 しかし敵攻撃によって受けた損傷は激しく、機体の修繕にとりかかるレイ。そんなこんなしているうちに、ミレニアム・ファルコンは別の大きな宇宙船に捕獲 されてしまう。仕方なく船の機関室に隠れて反撃のチャンスを伺おうとするレイ、フィンとBB-8。ミレニアム・ファルコンの扉を開けて船内に入って来たの は…。
 元々のこの船の持ち主で今や伝説上の人物…めっきり白髪の増えたハン・ソロ(ハリソン・フォード)とチューバッカ(ピーター・メイヒュー)ではないか…


見た後での感想

 この感想文のイントロダクションで、僕は数々の懸念を恨みがましく書いて来た。世間が騒げば騒ぐほど、シラケずにはいられない理由がそこにはあったからだ。
 だが、実はたった一つだけ…本作を見るにあたっての「期待できる要素」がない訳ではなかった。それは本作の監督に、あのJ・J・エイブラムスが起用されていることだ。
 J・J・エイブラムス。トム・クルーズ「ミッション・インポッシブル」シリーズにM:I:III(2006)の監督として起用されて以来ずっと参 謀として参加。メンバーを若返らせ内容一新したスター・トレック(2009)シリーズを新起動。怪獣映画をブレア・ウィッチ・プロジェクト (1999)風なリアル演出で作ったクローバーフィールド/HAKAISHA(2008)をプロデュースするかと思えば、スピルバーグ臭が濃厚なSF 映画スーパーエイト(2011)を監督。僕はテレビのことには疎いのだが、元々は「LOST」(2004〜2010)の製作で名を挙げた人らしく、実 際に作品を見てみても才人であることは分かる。映画に力を入れ出すキッカケとなった「M:I:III」以降に関して言うと、この人の作品ってのはなぜか 「シリーズもの」が多く、しかもいいかげん手垢がつきまくったシリーズのイメージを「再生」させる主旨の作品が多い。でなければ、やはり一般にもマニアに も「定評」がある特定のジャンルや作品に、オマージュを捧げつつの「再生産」という趣がある作品を製作している。
 …となると、思い切り「定評」あり過ぎで鮮度が落ちてて、しかも「エピソード1」からの新三部作で思い切りミソつけた老舗「スター・ウォーズ」の看板を立て直すには、エイブラムスが最も適している人物と思われるではないか。
 ジョージ・ルーカスの直接関与から離れての、ディズニー製「スター・ウォーズ」の第1作。しかもマーク・ハミル、ハリソン・フォード、キャリー・フィッ シャーのオリジナル・メンバー再起用…という点からも、本作が「再生」「再起動」であるイメージが強く感じられる。そうした作品にエイブラムスが起用さ れるというのは、あまりにピッタリ過ぎてビックリするくらい。これは確かに素晴らしい人選だ。
 その反面、イヤな予感も少なからずあった。いや、先に挙げた今までの「スター・ウォーズ」への複雑な感情とか、ディズニー云々という話ではない。それは、本作のポスターの絵柄を見た時の印象によるものだった。
 マーク・ハミルがいない。
 本作では前述したように、旧三部作の主人公たちであるハミル、フォード、フィッシャーの再登場が「売り」だった。ただし、その後に大スターとなったハリ ソン・フォードと比べ、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーの活躍は今ひとつだったと言わざるを得ない。中でも作家として活路を見出したキャリー・ フィッシャーと比べ、マーク・ハミルの「その後」は非常に寂しいものがあった。本来だったら名を挙げるはずだった「コルベット・サマー」(1978)や 「最前線物語」(1980)が作品的な質の高さとは裏腹に興行的に成功しなかったのが痛かった。こうして彼のキャリアは低迷。まるで本作の登場を見越した ようなキングスマン(2014)出演でも、やたら老いさらばえて太った姿を見せてオールド・ファンを悲しませていた。元々が若々しさ…童顔が売りだっ ただけに、男性スターらしい男らしさや貫禄を見せられなかったのが致命傷だったかもしれない。
 そんなハミルの顔が、ポスターの絵柄の中に見られない。
 いや、若い主人公たちの顔しか入っていないというなら、それはそれでいい。ところがハリソン・フォードやキャリー・フィッシャーは入っているのに、なぜかハミルだけが描かれていない。これは一体どういうことなのだろうか?
 ある意味で、ルーク・スカイウォーカーは「スター・ウォーズ」旧三部作の真の主人公とも言える。そのルークを欠いたかたちで、本作は製作されてしまったのか?
 さらに公開直前になって、「スター・ウォーズ」生みの親であるジョージ・ルーカスその人がディズニーに対する辛辣な批判を公にするという「事件」も起きた。
 ある意味ではジャニーズ事務所よりタチが悪い(笑)ディズニーのこと、何をやらかすか分からないとは思っていたが、やっぱり結局やっちまったのか。マーク・ハミルは、中居くんみたいにヘタレのキムタクに公開処刑させられたのか(笑)。
 それでなくても不安材料を抱えていただけに、僕は本作について楽観視は出来なかったのだ。
 そんなこんなで劇場へと足を伸ばした僕は、心中穏やかならざる思いでスクリーンと対峙。だが、映画が始まって3秒もしないうちに、僕は本作について一種の「確信」のようなものを感じたのだった。
 映画は静かに「ルーカスフィルム」ロゴから始まった。
 以前だったら一連の「スター・ウォーズ」作品は20世紀フォックスの配給だったから、盛大なフォックス・ファンファーレと有名なサーチライト・ロゴで映 画が始まっていた。ところが今回からは配給はディズニーに移行したので、当然のことながらフォックス・ファンファーレは流れない。それは、僕のようなオー ルド映画ファンには若干寂しさを感じる要素ではあった。
 そしてイヤ〜な予感として、シンデレラ城の出て来るウォルト・ディズニー・ロゴがいきなりドヤ顔で出て来るんじゃないかと予想していた。あの「夢と希望」とでも言いたげな押し付けがましく偽善がプンプン漂うロゴが出て来て、最悪の空気になりそうな感じがしていたのだ。
 ところが実際の本作では、20世紀フォックスのロゴの代わりにディズニー・ロゴを流すことはなかった。ただフォックス・ロゴだけをはずして、従来の「スター・ウォーズ」作品と共通する「ルーカスフィルム」ロゴから始めたのだ。
 この映画の作り手は「分かっている」のではないか。
 正直言って、従来からの「スター・ウォーズ」ファンたちは、今回のディズニーによるルーカスフィルム買収にイヤ〜な気分を味わっていたはずだ。別にこのシリーズのファンでもない僕ですら、ディズニーには苦々しい思いしか抱いていない。
 この映画の作り手たちは、そのへんの「反感買っている」雰囲気を分かっている。
 ディズニーがカネと権力で「スター・ウォーズ」を我が物顔にオモチャにすることが、どれほど映画ファンから嫌われるか分かっているのだ。それをやるべき でないと分かっているだけでも、なかなかのものだ。少なくとも、自分たちのどこが世間から嫌悪されているのか理解できないジャニーズ事務所よりは頭がいい (笑)。
 これは結構イケるのではないか? 僕はこの映画のファースト・カットが出たとたんに、直感的にそんなことを思ったのだった。
 果たして、その直感は当たっていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

シャクだが認めざるを得ないJ・J・エイブラムスの非凡さ

 ズバリ言うと、本作は大成功だと思う。
 「帝国の逆襲」を見た時のような凄まじい衝撃を受ける要素はない(正確には、ごくわずかながら衝撃的要素があるとも言えるのだが…)。だが、少なくとも 「スター・ウォーズ」第1作(世間的には「新たなる希望」とされるエピソード)が本来持っていたであろう魅力は本作も持ち合わせているように思える。少な くとも「ジェダイの復讐」、「エピソード1」や「2」のつまらなさとは段違いだ。
 これは、明らかにJ・J・エイブラムスの功績を認めざるを得ないだろう。
 実物の映画を見ていただければ分かる通り、実は本作は「スター・ウォーズ」新作でありながら、どこかリメイクのような雰囲気が漂う。冒頭に砂漠の場面が 多く出て来て、新たな女主人公が出てくるくだりは、どう見たって第1作での砂漠の惑星でのルークの物語を彷彿とさせる(そもそも、当初はルークを女性にす ることも検討されていた…という点に留意すべきかもしれない)。第1作のデス・スターを彷彿とさせる惑星兵器「スター・キラー」も登場。レジスタンスがそ こに総攻撃をかけるヤマ場は、そのまま第1作のヤマ場そのものだ。そこに、懐かしいミレニアム・ファルコンが絶妙のタイミングで出て来るのだ。グッと来な い訳がない。
 物語の後半には、第1作でのダース・ベイダーによるオビ・ワン殺害や、「帝国の逆襲」終盤におけるダース・ベイダーとルークの緊迫したやりとりを思わせ る、ある「サプライズ」も登場。これだけにとどまらず、本作は「スター・ウォーズ」シリーズの中でも特に成功した作品であり、シリーズのイメージを決定づ けた2作…第1作(「新たなる希望」)と「帝国の逆襲」の要素を改めて再構成したような場面が連発する。おまけに年老いたハン・ソロ、チューバッカ、レイ ア姫、R2D2、C3PO…らが大挙して再登場。旧三部作でファンになった人々には、まさにたまらない趣向である。皮肉にもジョージ・ルーカスが監督した 新三部作では味わえなかった、みんなが大好きで見たいと思っていたあの「スター・ウォーズ」の世界が帰って来ているのである。先にも長々と述べてきたよう に、「野村再生工場」ならぬJ・J・エイブラムスならではのマジックが効いている。
 これほどまでの才人がなぜ正面切って自分独自の「オリジナル・アイディア」「オリジナル・イメージ」で勝負しないのだろう?…という疑問は少々浮かんで は来るのだが、これはもう「人の創造物をさらに良くする」「鮮度の落ちた作品を再生する」という一点に対して、エイブラムスが特異な才能を持っているとし か言いようがない。
 例えば本作で登場する新キャラ「BB-8」の造形を見れば、その「再生」ぶりの非凡さが伺えるかもしれない。このキャラについては原型がエイブラムスの スケッチによるものと伝えられているから、彼の貢献ぶりがハッキリと分かる。基本的には、セリフをしゃべらないにも関わらず愛くるしいイメージで愛嬌を振 りまく…という点で、明らかに非人間型ロボットR2D2の延長線上のキャラクター。だが、そのおでんダネを2個乗っけたような形状や動かし方には独創性があり、『ス ター・ウォーズ」ファンにとっては懐かしさや親しみと共にフレッシュさも兼ね備えたもの。この従来通りのイメージとフレッシュさの絶妙な配合というかブレ ンドぶりこそが、まさにエイブラムスの真骨頂なのである。
 実際のところ、これは誰にでも出来るというものではない。シリーズ生みの親であるジョージ・ルーカスですら、楽しい新キャラとしてジャー・ジャー・ビンクスを生み出したつもりがスベってしまった。余人を持って代え難い点なのである。
 このようにJ・J・エイブラムスはこのシリーズが元々持っている魅力を活かしながら、フレッシュに再生産することに成功している。僕などは思い切りケナ してやろうと待ち構えていたのに、結局、うまくやりやがったな…と認めざるを得なくなった。悔しい、頭に来る、ケナしたい。だが、やはり面白いのだから仕 方がない。うまくやったなと認めざるを得ないのだ。見事に実力でねじ伏せてくるのだから大したものだ。
 エイブラムスの非凡さを評価するに当たっては、そんな従来通りの要素にちょっと新風を吹き込む配分の確かさだけでなく、彼自身の語り口のうまさも認めな くてはならない。その一例を挙げるとすれば、劇中の重要人物の一人、フィンの紹介ぶりに尽きるだろう。彼が最初に登場するのは、冒頭の砂漠の惑星ジャクー での村人の大殺戮場面でのこと。その時のフィンは没個性もいいとこのストームトルーパーのコスチュームに身を包んでいるので、当然のことながら顔も何もか も見えない。だが目の前の殺された同僚を助け起こした際に、その白いコスチュームに血のりが付着する。これによって、他の一山いくらのストームトルーパー たちと区別して見ることができるようになる。その工夫はなかなか見事だ。
 結局、僕らはこの血のりの付いたストームトルーパーが人々を殺すことに躊躇する姿を見て、どうもこいつは他の連中とは違う…と気づき始める。フィンがス トームトルーパーのヘルメットをはずして素顔を見せるのはかなり時間が経過してからだが、それまで「血のり」という印が付けてあるおかげで彼の個性は観客 にしっかりと伝わっているのである。従来の「スター・ウォーズ」シリーズにまったく出て来なかった「血」という要素を初めて画面に出す(何とルークの手首が切断され るという場面ですら、血は一滴も画面に出て来なかった)ことで、抜群の効果を引き出している。語り口の巧みさと同時に、そういう「映画としてのうまみ」を 出すためならば、あえて従来シリーズでのタブーに触れることも厭わない大胆さ。これは、なかなか出来ることではない。さらに一歩踏み込んで言うとすれば、自 分で作ったルールに自分でがんじがらめになったジョージ・ルーカス自身ですら、そんな大胆さは発揮出来なかったのではないだろうか。J・J・エイブラムス、大変な才人であ るだけでなく大した度胸の持ち主でもある。
 ただ実際のところ、本作が一分の隙もない完璧な作品であるかと言うと、実はそうであるとは言い難い。よくよく見るとあちこちに大穴小穴が開きまくってい て、見ていて笑っちゃう瞬間もない訳ではない。惑星ジャクーにTIEファイターが墜落した際に、パイロットのポー・ダメロンは上着だけ残してどこにどう消 えてしまったのか? 惑星兵器「スター・キラー」の弱点である部分を、わざわざ攻撃しやすい惑星表面に設計しているのはどうしてなのか? それまでピクリ とも動かなかったのに、物語の終盤にR2D2が都合良くいきなり作動したのはどうしたことなのか? 何より本作の「新悪役」カイロ・レン(このシリーズの 悪役がみんな鉄仮面をかぶらねばならないのは、一体どうしてなのか?)がいくら若造で未熟だからといって、ムシャクシャしてライトセーバーをあたり構わず 振り回して当たり散らすのはいかがなものか。こいつの精神年齢は4歳児なみにしか見えない。この場面は、さすがに観客も苦笑せざるを得ないだろう。
 映画の最後は、まるで「火曜サスペンス劇場」のように海辺の崖っぷちでの大団円だ。ラストに出て来るのは船越栄一郎かと思ったよ(笑)。さては、あの嫁から逃げたくなって失踪したのか(笑)?
 そんなアレコレ笑える「穴」は目に付くけれども、それらは映画の致命傷にはなっていない。J・J・エイブラムスはどうやら物語や設定上の「穴」など、大 した問題ではないと思っているようなのだ。何と大胆なことに、押さえるべきところさえ押さえていれば、穴や傷などモノの数ではないと分かっているようので ある。
 唯一気に入らないとすれば、ベルイマン映画の名優であり「エクソシスト」以来ハリウッドでも売れっ子のクセモノ役者マックス・フォン・シドーが「スター・ウォーズ」初参戦したのに、アッという間に退場してしまったことだろうか。こんな名優を使い捨てにする意味が分からない。
 おそるべしJ・J・エイブラムス。シリーズはこの後、別の監督たちにバトンタッチされていくようなのだが、一番難しいシリーズの「折り返し点」を、エイブラムスは難なくクリアしてしまったのである。



 

 

 

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