新作映画1000本ノック 2015年7月

Knocking on Movie Heven's Door


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 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

 

「バードマン

 あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

 Birdman or (the Unexpected Virtue of Ignorance)

Date:2015 / 07 / 13

みるまえ

  何を今頃と言われてしまいそうだ、ここへ来て「バードマン」の感想文。見たのが公開からかなり経ってからだったところに、感想文をそのまま書きそびれてし まってベタ遅れ。気の抜けたビールどころでなくなっちゃって申し訳ない限りだ。それにしても…自分で今年のオスカー・ダービーで予想しておいてこんな事を 言うのも何だが、まさかこの作品がアカデミー賞を本当にとるとは…。アレハンドロ・G・イニャリトゥの映画はこれまでもキライじゃない…どころか、どっち かというと好きな方だったのだが、彼の作品が持つ構成上の弱点みたいなものはずっと前から気づいていた。特に「アモーレス・ペロス」(2000)、「21グラム」(2003)、「バベル」 (2006)といくつものエピソードが平行したり、時制が入り乱れたりする作品を連発しているあたりから、どうもこの人って太い幹のようなストーリーをど す〜んと据えてお話を語るのが苦手なんじゃないかと思っていたのだ。ところがその次にこの人が撮った「ビューティフル」(2010)が、どうやらそれまで の作品とかなり雰囲気が違うらしい。「らしい」というのは、残念ながら僕はこの映画を見逃してしまったから。そんなイニャリトゥの確変が見られたかもしれ ない作品を見れないまま、今回のオスカー受賞作を迎えることになったわけだ。先にも述べたように以前のイニャリトゥ作品には構造上の弱さがあったが、今回 それは解消されたのか。アカデミー賞などに何の意義も感じないし、今頃になって感想文をアップするんじゃ気の抜けたビールどころの騒ぎじゃないが、一皮む けたイニャリトゥが見られるのかどうかに注目したい。

ないよう

 パンツ一丁のあぐらを かいた男が、雑然とした楽屋の中で空中浮遊している。浮かんでいるのはリーガン・トムソン(マイケル・キートン)という俳優。かつて「バードマン」という ヒーロー映画で当たりをとっていたが、「3」までつき合ったところで役を降りた。だが、それからは鳴かず飛ばず。低空飛行の自分のキャリアを救うべく、今 回ここニューヨークはブロードウェイの舞台に乗り出した訳だ。だが、いまだに世間では彼は「バードマン」役者。楽屋に貼ってある「バードマン」が何かとい うとリーガンを罵って来るのも気に入らない。そんな彼のもとに、携帯で電話がかかって来る。彼の娘サム(エマ・ストーン)からだ。今、リーガンは仕事のな いサムを付き人として使っている。だが、彼女に頼んだ花はあいにくと花屋にない。そもそも、サム自身やる気がなさそうだ。リーガンとの折り合いも、実はあ まり良くはない。麻薬中毒の彼女に仕事をあてがうために、リーガンが付き人として雇っているかたちだ。そんなこんなしているうちに、リハーサルの時間が来 る。この芝居「愛について語る時に我々の語ること」は、リーガンの脚色・演出・主演によるワンマン芝居。落ち目リーガンの起死回生を狙っての芝居だから、 正直言って緊張感もマックス。リーガンのマネージャーでこの芝居のプロデューサーでもあるジェイク(ザック・ガリフィナーキス)は、リーガンのおかしなテ ンションを心配している。リーガンは共演者のラルフ(ジェレミー・シェイモス)が気に入らなくて、何とか降ろせないかとイライラ。早速リハーサルがスター トするが、問題のラルフの頭上からライトが一個落ちてきて、彼を直撃。これではラルフは出演できない。呆気なく問題解決だ。後は代役が見つかるかどうか。 そんな時、共演者の女優レスリー(ナオミ・ワッツ)が彼女の恋人で有名な若手舞台俳優のマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の名を挙げる。マイク なら観客動員にもつながるとジェイクも大乗り気だ。早速、レスリーに話をしてもらうことになる。その夜、マイクが劇場に到着。リーガンと打ち合わせをする ことになる。しかしマイクが劇場に到着するや、サムとレスリーの関係に微妙に火種をこしらえるわ、演技にも一家言ありそうで注文つけまくるわ…で早速波乱 が起きる。さすがにリーガンは自分の手に余る…と早くもマイクの降板を求めるが、ジェイクはすでにマイク出演決定でチケットが売れてるのだから…と取り合 わない。そんな何とも間の悪いタイミングで、リーガンの今の恋人でこの芝居でも共演する女優のローラ(アンドレア・ライズブロー)が妊娠したと打ち明けて くる。正直言って今のこの状況でリーガンは嬉しいはずもなく、それがモロにバレバレでローラもカンカン。果たしてこの芝居、これでうまくいくのだろう か…。

みたあと
 舞台なり芝居なりが上演されるまでのゴタゴタを描いた映画は、ボブ・フォッシーの「オール・ザット・ジャズ」(1979)やらイシュトバーン・サボーの「ミーティング・ヴィーナス」(1991)、つい最近ではダーレン・アロノフスキーの「ブラック・スワン」 (2010)などがあって、それぞれ興味深い内容になっている。本作もそれらに負けず劣らず、「作品」が世に出るまでの混乱と作り手のカオスをうまく描い ていて、とても面白い。元々、僕はバックステージものが好きってこともあるので、本作も非常に楽しんで見た。そういう意味では、ある意味で見る前からある 程度の面白さは保証されている映画だった。問題はこれが、アレハンドロ・G・イニャリトゥの映画であるということだ。

みどころ
  いつもだったらいくつものストーリーが平行してパラレルに描かれる映画ばかり撮っていたイニャリトゥが、今回は1本の太い幹みたいに単一のストーリーを骨 太に描いて行くスタイルを選んだ…ハッキリ言って今回の映画の僕にとっての見どころはその一点と言っていい。お話自体はどう転んでも僕が好きなタイプのお 話なのだから、ハズしようがない。そういう意味で、今回はイニャリトゥの語り口に注目しようと思っていた。すると…やっぱり今回もやっているではないか!  複数のストーリーが平行して描かれるパラレル構成というのは、ある意味で作品の自由度がかなり減る柔軟性のないスタイルと言える。こういう作品を好き好 んで描きたがる映画作家というのは、おそらくコントロールしたがり、コントロール病患者の作り手ということではないだろうか。キャラクターが自由に動き出 したり映画が撮影現場で膨らんだり変わったりすることを、こうした構成の映画は許さない。事前に綿密に準備をして、かっちりと創り上げたワク通りに映画を 仕上げないと出来ない映画なのだ。だから今回の映画は、おそらくイニャリトゥにとって勝手が違う。そこが新鮮味になるかもしれないし、不安材料にもなるだ ろうと思っていた訳だ。ところが…イニャリトゥはまたやった(笑)! 確かに1本の太い幹みたいなストーリーが進んで行く話ではあるが、彼はまたまた今回 も作品の構成にひとつのワクというかルールを持ち込んだのだ。それは、映画全体をワンカットのように見せること。そんなことは不可能なのでシークエンスご とに切ったりしてうまくごまかしているのだが、基本的に見ている側にはカメラを止めていないように見せる演出だ。こいつはトコトン、映画に何かルールや決 まり事を持ち込みたがる男なんだなぁ…と、ちょっとばかり呆れ返った。ただ、今回こいつが選択したルールが、偶然にも幸運に働いた。それが、映画をイニャ リトゥが構想した以上のものにした。それは何かというと、映画のアクシデント性である。実際にはカメラは何度も止まっていて何十カットもつないでいるのだ ろうが、見ている側からは映画全体がワンカットのように見える。そうなると、実際の撮影もそれなりに長回しということになる。まぁ、一種のドキュメンタ リー性が出て来るわけだ。少なくとも、見ている側にはそう伝わって来る。それが本作の迫力になった。延々カメラを回していると、何から何まで作り手がコン トロールするという訳にはいかなくなる(ように見える)。それが、何から何まで事前に決めて、ワクとルールでガッチリ押さえ込んでしまっている従来のイ ニャリトゥ映画とは違う。イニャリトゥごときの頭の中でこさえた大したことのないイメージを超えて、彼がコントロールしきれない領域に映画がいってしまう ように見えるから、本作は面白いのだ。本来はドラマってこうでなければならないのに、こいつはいつも自分が全知全能の神みたいにコントロールしていた。そ もそもそれほどのものでもないし、凡庸な発想しか持っていないのに、コントロールしようとするから映画がチマチマしてしまっていた。前の「バベル」の時で も典型中の典型、凡庸中の凡庸な発想で作ったろうあの日本女子高生のキャラを、演じた菊池凛子が良い意味でブチ壊したおかげで作品本来のモノ以上のサプラ イズが出て来た。今回もそれとまったく同じである。幸運はほかにもあって、主役のマイケル・キートンが自身も「バットマン」(1989)の主役だったとい う「シャレにならなさ」が、本作のドキュメンタリー性を高めた。やはりダーレン・アロノフスキーの「レスラー」 (2008)で、落ち目のミッキー・ロークを起用したようなものだ。この役者のシャレにならなさが、カッチリとコントロールしようなんてイニャリトゥの姑 息な考えを凌駕した。そして音楽を担当しているアントニオ・サンチェスが、全編をドラムスやパーカッションを「即興的」に叩き続けるだけで押し通してし まっているのも、本作を「コントロールする」なんてイニャリトゥのケチ臭い発想から自由にしているように思える。本当はこれだってキッチリ構成され準備さ れ編集されコントロールされているだろうが、少なくともイニャリトゥが事前に発想したイメージからハミ出すような「何か」は生まれているように思える。こ の「ドキュメンタリー性」というか「即興性」というか、いわゆる「アクシデント性」こそが今回の作品のキモである。映画の結論も含めて、そうした「アクシ デント」こそが創作における「奇跡」だというあたり、そしてその目的と手段、テーマと表現がピッタリ一致しているあたり…ひょっとしたらイニャリトゥが意 図したことではないのかもしれない(笑)が、本作の一番の美点ではないかと思えるのである。

さいごのひとこと

 イニャリトゥはあまり頭を使わない方がいいね(笑)。

 

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