新作映画1000本ノック 2015年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
 「涙するまで、生きる」 「追憶と、踊りながら」 「シンデレラ」 「ロスト・リバー」 「ラン・オールナイト」 「ブラックハット」

 

「涙するまで、生きる

 Loin des hommes (Far from Men)

Date:2015 / 06 / 22

みるまえ

 ロー ド・オブ・ザ・リング」(2001)で人気大爆発したご存知ヴィゴ・モーテンセンだが、その後はどっちかというとハリウッドに背を向けたかたちで仕事をし ている気がする。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)、「イースタン・プロミス」(2007)、「危険なメソッド」(2011)とデビッド・ クローネンバーグとのコンビ作を連発したかと思えば、「偽りの人生」(2012)でアルゼンチン映画に登場…と神出鬼没な感じ。そして今年は、「ギリシャ に消えた嘘」(2014)に始まって、本作「涙するまで、生きる」、そしてまたまた南米もの「約束の地」(2014)…といずれも非ハリウッド臭の強い作 品に連続主演している。残念ながら「ギリシャに消えた嘘」は忙しくて見逃してしまったが、本作はチラシを見た時から絶対見たいと思っていた。荒野を舞台に したモーテンセン映画…というだけで食指がそそる。彼の主演作では比較的ハリウッド娯楽作の趣が強い「オーシャン・オブ・ファイヤー」(2003)をはじ め、モーテンセンには荒野とか辺境が似合う気がする。これは映画ファン特集の「勘」としか言いようがないが、この映画は見る前から「良さそう」なオーラが 出まくっている。どうしてもこれだけは見逃せないと、僕は何とか時間をやりくりして映画館に駆け込んだ。

ないよう

 1954 年、アルジェリア。どこまでも広がる果てしなく乾ききった荒野。その荒野にポツンと建っている学校で、その男は教師をやっていた。地元の子供たちを集めて 教えているその男ダリュ(ヴィゴ・モーテンセン)は、常に物静かな男だ。そんな彼のもとに、授業の途中でひとりの男が馬に乗ってやって来る。彼はフランス 軍の兵士だ。この地も昨今かなり物騒になって来て、フランス人がゲリラに襲われることも多くなった。そこで、ダリュにこの場を離れるように告げに来たの だ。だが、ダリュは「オレは離れない」と断固として言い放つ。静かではあるが強い、そして訳アリな雰囲気。そもそもこんな辺境で、ひとりで教師をやってい る時点でいわくありげな感じのダリュだった。そんなある日、またしても訪問客が現れる。縄で手を縛った男を引っ張ってきたフランス軍の憲兵だ。縛られてい るのはアラブ人の男モハメド(レダ・カテブ)で、殺人容疑をかけられているという。お茶を入れて彼らをもてなすダリュだが、憲兵はそんなダリュに予想外の 頼み事を持ちかけた。このモハメドを山向こうの街タンギーへ連れて行って裁判にかけなければならないのだが、ここから先はダリュにモハメドを連れて行って ほしいというのだ。突然の頼み、しかも犯罪者の護送…という無茶な話に、ダリュはにべもなく断る。しかし憲兵の頼み事は「頼み事」というよりすでに「決定 事項」のようで、早々と帰り支度を始める始末。ダリュとしては教師の自分にとって畑違いの仕事の上に厄介事、おまけにどうせ連れて行っても裁判らしい裁判 にもかけず死刑確定だろうから、出来ればそんなことに関わりたくはない。しかし憲兵はこの地の憲兵隊の人手が決定的に足りないから…と譲らない。おまけ に、ダリュの評判が当地のフランス人たちの間であまり良くない…とまで言われてしまうと、もはや拒みようもない。そんなこんなでロクにフランス語もしゃべ れないというこのモハメドという男を置いていかれ、途方に暮れるダリュだった。とりあえずダリュはこのモハメドにメシを食わせ、寝床を作ってやる。手元に 銃を置いて用心しつつ、モハメドと同じ部屋で眠りにつくダリュだったが…どうもモハメドの様子がおかしい。どうやら風邪をひいたらしく、熱を出してうわ言 を口走っている。こうなると見て見ぬふりができないのがダリュという男。結局、モハメドにクスリを飲ませてやり、額に濡れタオルを当てて面倒を看てやるハ メになる。そうこうしているうちに夜も明けて、モハメドの熱も無事に引いたようだ。面倒を見てくれたダリュに感謝するモハメドは、彼が一緒に来てくれるの は嬉しいと告げる。しかし、そもそもダリュは一緒に行くつもりはなかった。朝になったら、サッサと出て行ってもらいたいというのが本音だったのだ。ところ が、そうは問屋が卸さない。学校の建物の廻りに、何人かのアラブ人の村人が集まって来る。彼らはどうやらモハメドが殺した者の身内らしく、モハメドを引き 渡せ…と脅して来たのだ。そのあげく石を投げて窓ガラスを割ったり、銃を撃って来たりと言動もエスカレートして来た。ところがダリュもこれに一歩も引かな い。村人に対して断固とした態度を貫き、脅しで村人の乗る馬を一頭撃って倒してしまう。ダリュが本気であると悟った村人たちは、慌ててその場を撤退した。 こうなると、さらに厄介さが増すばかり。ダリュはモハメドに「ひとりで行け」と言うと、学校から追い出した。だが、トボトボと歩いて行くモハメドの足取り は重い。まして途中で例の村人たちと遭遇したら、何があるか分からない。さすがに観念したダリュは、わずかな手荷物と銃を持ってモハメドと同行することに する。ところが学校を出るや否や、今度はフランス人の一団がやって来る。家畜を何者かに奪われたという彼らは、モハメドがその犯人ではないかと疑ってい た。話からすると明らかにとばっちりのようだが、フランス人たちはまったく退かない。こうなると強硬策しかないと、ダリュは彼らを銃で脅して退散させた。 これで結果的に、ダリュも退路を断たれてしまうことになる。どこまでも続く荒野の道を、トボトボとふたりで歩いて行くしかない。ところが途中まで歩いて行 くと、遠くから馬のひづめの音が聞こえて来る。慌てて岩陰に隠れると、例の村人たちがモハメドを探して右往左往しているようだ。これでは、周囲に何の隠れ 場所もない道は使えない。こうして仕方なく山越えを余儀なくされることになったダリュとモハメドだったが…。

みたあと

  映画が始まると、シネマスコープ・サイズの横長スクリーン。そこに圧倒的に広々と荒野が映し出される。荒涼として乾ききった大地が、問答無用に目にしみ る。僕はそれを見ただけで、本作が傑作であると断定してしまった。人間の小ささを力づくで納得させられてしまう、スクリーンいっぱいの大地。これはもう、 映画ならではの表現だ。言葉や理屈ではない。特に僕は砂漠好き、砂漠の映画好きだから、冒頭のワンカットから圧倒されっぱなし。惜しむらくは、これが渋谷 のお高くとまったアートシアターのショボいスクリーンだったことか。これがハリウッド大作などをかけるような大劇場であったならば、大地の圧倒的な広さは ほとんど「2001年宇宙の旅」(1968)級の映像体験になったのではないか。リュック・ベッソンの「グレート・ブルー」(1988)を最初に新宿歌舞 伎町の新宿プラザで見た時も、圧倒的大画面だからこその衝撃があった(ちなみに「グラン・ブルー」なるクソ気取った映画のことは知らない)。こういう映画 は杓子定規にアートシアターにかけるのではなく、それこそ3D大作でも上映しそうな大劇場で見たいものだが何とかならないのだろう か。まぁ、何ともならないんだろうなぁ…。

みどころ

  そんなわけで、この映画はカミュの短編小説の映画化である…などの情報もあるが、正直言ってそんなことは僕にとってはどうでもいい。荒野とヴィゴ・モーテ ンセン…それに尽きる。感想もそれで終わらせたいくらいだが、仕方がないからもうちょっと続ける。先にも述べたように本作は一見アートシアター向け映画に 見えるが、そういう気取りが微塵も感じられないところがスゴい。気取ったおフランス映画、カミュ原作の高尚な作品…って構えにしようとすれば出来たのに、 本作はそんな敷居の高さが感じられない。そもそも本作はバディ・ムービーやらロード・ムービーといった、アメリカ映画の十八番で映画の基本となるフォー マットに忠実な作品なのだ。しかも、どことなく西部劇の香りも漂っている。僕は何しろペ・ドゥナ主演の「私の少女」(2014)もマシュー・マコノヒーの 「ダラス・バイヤーズクラブ」(2013)も「西部劇だ!」と言ってしまう男なので、またまた自分勝手な思い込みで言っていると思われてしまうかもしれな い。実は僕自身、これはさすがに妄想かなとも思っていた。ところが劇場パンフを読んだら、監督のダヴィド・オールホッフェン自身が「西部劇」風な映画を 狙っていたようではないか。これは、つまりそういう映画なのである。立派に見せようとか利口そうに見せようとか、そういう映画ではないのだ。さらに基本的 に「護送」の映画であること、護送されている囚人に女を経験させるくだりがあること…などからジャック・ニコルソン主演のアメリカ映画「さらば冬のかも め」(1973)を想起させるところも多い。いや、たぶん絶対に意識しているはず。この映画はカミュ原作のフランス映画でござい…という趣で劇場にかかっ ているが、作っている側は明らかにアメリカ映画的な敷居の低さで作っているのである。またそれは、ヴィゴ・モーテンセンというハリウッド映画にも出ている 俳優を使ったことも関係しているのかもしれない。モーテンセンはアメリカ映画にも出ているが、アルゼンチン映画「偽りの人生」にも出て本作にも出るような 独自のスタンスを持つ不思議な俳優だ。その独自さが120パーセント活かされている。先に述べたアメリカ映画的ニュアンスを本作に持ち込んでもいるし、 モーテンセンその人が持っている無国籍感も本作の主人公の「どちらでもない」立場を体現している。何よりフランスがどうの、アルジェリアがどうの、どっち がいい悪い…などという低次元の政治的、イデオロギー的論議から本作を解き放っている。そしてハードな内容の作品ではあるが、気取ったペシミズムで終わら ず最後に人生に対する肯定をうたいあげている。これが何より本作を奇跡的な出来映えにしているのだ。ダヴィド・オールホッフェン、ぜひ名前を覚えておきた い監督だ。

さいごのひとこと

 昨今の西部劇はアメリカ以外からやって来る。

 
 

「追憶と、踊りながら

 Lilting

Date:2015 / 06 / 22

みるまえ

  この映画のことは、公開されてからすぐにその存在を知った。「知った」と言っても主演者と簡単な題材ぐらい。ベン・ウィショーとチェン・ペイペイが主演 で、高齢者問題を描いた作品のようだった。それにしたって…ベン・ウィショーとチェン・ペイペイだって? ベン・ウィショーは確かに「007/スカイ フォール」(2012)にQ役で出たり「クラウドアトラス」(2013)にも出ちゃう人だからそんなに作品選択の幅は狭くはないだろうが、元々は「パ フューム/ある人殺しの物語」(2006)の人だからひとクセもふたクセもある役者さんだろう。そんなベン・ウィショーが、あの香港ショウ・ブラザースの 黄金時代に君臨したチェン・ペイペイと共演するなんて! チェン・ペイペイにしたって「グリーン・デスティニー」(2000)で衝撃的なカムバックを果た したからと言って、そもそもは「大酔侠」(1966)で香港剣劇映画のスーパースターになった人物。特に僕は一時期ショウ・ブラザースの旧作にメチャク チャにハマったクチだから、ミュージカル映画「香港ノクターン」(1966)での彼女が忘れられない。まさに「レジェンド」という言葉にふさわしい彼女が こんな小品のイギリス映画で、しかもベン・ウィショーと共演するなんて驚きでしかない。ある意味で「クラウドアトラス」のキャストにペ・ドゥナを発見した 時以上の衝撃である。これだけで、この作品は見なければ…という気になった。おまけに映画の鑑賞眼に関して信頼できる知人から、「イイ」との報告も受け 取っていた。だから見なくては見なくては…と思っていたが、何しろ仕事が忙しくて見に行けない。そんな状態で悶々としていたある日、今日で上映終了…とい うことをネットで知ってしまった。これはもう仕事をやっている場合ではないだろう(笑)。僕はすべてを放り出して、映画館に駆けつけたのだった。

ないよう

  室内にはCDラジカセから、李香蘭の中華懐メロ「夜来香」が大音響で流れる。それを聞き惚れている中国人の老女。やがて部屋にはひとりの青年が現れる。先 ほどの老女ジュン(チェン・ペイペイ)とイギリス人の夫との間に生まれた一人息子カイ(アンドリュー・レオン)。どうやらジュンが今いるこの部屋は老人 ホームで、カイはそこに見舞いに来たということらしい。カイは今、友人のリチャードと暮らしているようだが、ジュンはそのリチャードを好ましく思っていな い。…というより、あからさまに嫌っている。出来ればカイがリチャードと暮らすのを止めて、自分と一緒に暮らそうと言うのを心待ちにしているようだ。「ど ちらが大切かよく考えて、家族でしょう!」…そうジュンに言われると、優しそうなカイは言葉が続かなくなる。それでもジュンが老人ホームで「ボーイフレン ド」を作った話などをして、楽しい時間が流れる。ところがそんな母子の会話の中に、突如、老人ホームの女性職員が割って入ってきた。枕元の電気スタンドの 電球が切れていたので、それを取り替えにやって来たのだ。用が済んだら職員は消えたが、その時にはもはやカイの姿も消えていた。いや、最初からカイはそこ にいなかったのだ。なぜなら、カイはもはやこの世の人ではないのだから…。そんなカイには、「恋人」がいた。実は母親ジュンとの会話に出て来た友人リ チャード(ベン・ウィショー)こそ、その恋人だった。二人はベッドで睦み合いながら、カイの母親へのカミングアウトについて話す。しかし、その願いは叶う ことはなかった。ジュンにカミングアウトする前に、カイが死んでしまったからだ。そんなリチャードが、老人ホームにジュンを訪ねて来る。ジュンはちょうど 「新しくできたボーイフレンド」のアラン(ピーター・ボウルズ)と散歩中だ。しかし、二人の間に言葉はない。ジュンは何カ国語も話せるくせに英語だけは出 来ない。だから、カイの生前は彼に頼りがちだった。ジュンとアランはただ一緒にいて、手をつないだり散歩したりするだけだ。そんな二人の前に現れたリ チャードだが、ジュンは彼の顔を見たらあからさまに嫌がる顔をした。その嫌い方にはまったく容赦がない。では、リチャードはなぜ老人ホームにジュンを訪ね に行ったのか? それから数日後、コーヒーショップでリチャードはひとりの中国系女性と落ち合う。彼女の名前はヴァン(ナオミ・クリスティ)。リチャード とはそれまでメールでやりとりしていたようで、どうやら彼に中国語の通訳として雇われたらしい。リチャードは彼女を介して、ジュンとアランの間に会話を成 り立たせようとしているようだ。こうしてリチャードはヴァンを伴い、改めて老人ホームのジュンを訪ねる。表情は硬いものの、通訳を連れて来たことには礼を 言うジュン。しかし実際にアランを連れて来て会話を試みようとすると、そこにリチャードがいるのは目障り…と言い放ってしまう。しかしリチャードは、大人 しくその場を離れる。しかし、通訳を介してはずんでいたジュンとアランの会話も、それぞれの子供への接し方の違いで少々暗雲が垂れ込める。さらにリチャー ドとジュンとの会話では、ジュンがカイの遺灰を渡すように主張したため、リチャードとのやりとりがギクシャクしっ放し。そこでカイと恋人同士だったと打ち 明ける訳にもいかず、悶々とするリチャードだったが…。

みたあと

  実は高齢者問題を扱った映画…と聞いていただけで、実際のストーリーはまったく知らなかった。だから、ベン・ウィショーとチェン・ペイペイの役柄がどんな モノかも分かっていなかった。ましてゲイ・カップルのことを扱っているとも分かっていなかった。逆に言うと、ベン・ウィショーとチェン・ペイペイ以外につ いては白紙で見ることが出来たわけで、冒頭場面でアッと驚かされるなどフレッシュな感覚で見ることができた。それは、本作を見る上で本当に良かったと思 う。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  そんな状態で見た本作だが、伝説のショウ・ブラザースのスターであるチェン・ペイペイを見に行ったつもりが…いやぁ、シャレにならない。特に今、僕は母親 と二人暮らしで、一昨年から母親が肺ガンやら頸椎の手術やらでバタバタしていたから、ますますスクリーンを距離を置いて見れないのだ。正直、見ていて苦し かった。そして、チェン・ペイペイ演じる母親が何ともリアル。あの重圧感は僕にとって心当たりのある「感じ」だ。劇中であの母親が「ボーイフレンド」に対 して「お互いのイヤなところを指摘し合おう」などと自分から言い出したのに、ひとたび自分のことをズバリと言われると逆ギレ…なんて、ありがちなんだよ なぁ(笑)。チェン・ペイペイの演じる母親は終始言動がキツめだが、実は自分の母親もどちらかといえばそうだから、笑うに笑えない。そういう点も含めて美 化しないで不愉快なところをそのままに出しちゃっているあたりがリアルなのだ。本作の場合、異民族、異言語、さらにゲイ…という登場人物たちを隔てる要素 がいろいろ出てくるが、それらは人間同士の「隔たり」や「ディスコミニュケーション」の象徴であり、実はどんな人間同士にも…性別、人種、国籍、言語その 他どうであれ共通することだ。どんな人間同士にもそれぞれ固有の事情があり、なかなか分かり合えるものではない。それらを分かりやすくするために、これら の要素が使われているのである。このへんがなかなかうまいのだ。それが一番ハッキリ出ているのが、終盤のチェン・ペイペイとベン・ウィショーの対話場面。 事ここに至って、ベン・ウィショーはついにゲイの関係であったことを明らかにして、その他、腹に溜まっていたわだかまりを洗いざらいぶちまけてしまう。す るとチェン・ペイペイの方も、ついにヨロイを脱ぎ捨てて本音を吐くのだ。「息子をとられて嫉妬していた」…と。息子が自らのことをカミングアウトしなかっ たために、息子がそういう関係を他者と築くような「大人」になっていたという現実を母親は直視していなかった。これも、別にゲイだとか何とかいうことは関 係なく、誰にでも共通することだろう。自分の子供を「もう大人だ」と認識できない親など世間にいくらでもいる。息子をゲイにすることでそのあたりのことを 分かりやすくしているあたりが、本作の巧みなところなのだ。その他にも、通訳を介して母親と「ボーイフレンド」が会話を試みるくだりで、話が妙な方向に入 り込んでしまって「ボーイフレンド」が「こりゃこの会話は失敗だったかな」と思わず言ってしまうあたりも…こういうことって実際にあるよなぁとしみじみ思 わされる。リアルさが身につまされる。だから正直言って見ていてシンドイ部分も多かった。ラストも、決して甘いものではない。チェン・ペイペイとベン・ ウィショー両者の決定的な違いがよりハッキリしてしまうだけなので、これがハッピーエンディングかと言うとたぶん違うだろう。二人は分かり合えたのか…と 言えば、それもちょっと違うと思う。少なくとも彼らはお互いが違う世界の人間で、決して一緒に生きていけるとは思っていない。その違いがハッキリしただけ なのだ。だが、ハッキリしたことによって救いもある。ベン・ウィショーはチェン・ペイペイをこんな施設に閉じ込めていることに罪悪感を感じているから、何 とか彼女を救い出そうとしていた。しかし、それはハッキリ言って大きなお世話…でもあるのだ。チェン・ペイペイの彼への言葉は、彼をそんな罪悪感から解き 放つ意味合いもあった。そこに、希望と言えば希望らしきものが見出だせる。それにしても…ここでのチェン・ペイペイの言葉には本当にリアリティがある。 「常に幸福ではなくても満足する…ということを私は学んだ」という言葉は、ある程度の年齢を経ると本当にそう思う。若い頃には「自分にはすべてが得られる 可能性があるはず」と思えるし、そうでないと深く失望をおぼえたものだが、実際には人生はそうはいかない。しかも、年齢を経るごとに何かを失ったり奪われ たりしていく。人間はその都度その状態を受け入れ、それで満足しなくてはならないのだ。父親や母親、そして自分の経験から考えて、人生の後半戦は何かを 失っていくことの連続であり、それでもその状態を受け入れて生きていくことが重要だ。チェン・ペイペイの母親もそうしなくてはならないし、またそれでいい のである。本作の監督であるホン・カウはカンボジア生まれで実際にゲイの人らしく、そういう意味では本作は自伝的要素が濃厚な作品だといえる。にも関わら ず、この映画はどんな立場の人にも普遍的に受け止められる要素を持っているのだ。またまた大変な人が出て来たものである。またベン・ウィショーについて も、今まで「うまい人」だとは思っていたが、これほど繊細な演技を見せる人だとは思っていなかった。改めてその素晴らしさに感心してしまった。ともかく、 この映画を見逃さないで本当によかった。

さいごのひとこと

 母親にリアリティありすぎでコワい。

 
 

「シンデレラ

 Cinderella

Date:2015 / 06 / 22

みるまえ

  ディズニーが「シンデレラ」を実写でリメイク。…って、ディズニーは自分とこのテーマパークを映画化するとか、自分とこの名作アニメ「眠れる森の美女」 (1959)を悪役側の視点で「マレフィセント」(2014)として実写リメイクとか、そんなのばっかだなぁ。しかも、やるに事欠いてあのアニメ「シンデ レラ」(1950)の実写化。あんな絵に描いたモチみたいな話を実写で撮るなんて、もはやロック・ミュージカル化でもしないことにはどうやったってイマド キ成立しないし新味も出ない。キャスティングを見る限りでは、悪役の継母役にケイト・ブランシェットを持って来てるあたりしか見どころが見つけられない。 あまりに無謀過ぎる企画だと、最初はまったく見る気が起きなかった。どうせ忙しくて見れる映画も限られているし、これは無視確定と思っていたら…。何とこ の新作「シンデレラ」、監督にケネス・ブラナーを持って来ていると言うではないか!

ないよう

 とある小さな王国に、エラという名の少女(エロ イーズ・ウェブ)がいた。彼女は裕福な家庭に生まれ、優しい父親(ベン・チャップリン)と母親(ヘイリー・アトウェル)の愛を受けて育った。その甲斐あっ て、エラは思いやりのある優しい子になった。家に住むハツカネズミも彼女の友だちだ。しかし好事魔多し。母親が病魔に倒れ、間もなく亡くなってしまう。家 は悲しみに暮れるが、エラは母親の「どんな時も勇気と優しさを忘れずに」という言葉を胸に刻んで、まっすぐな女性に成長する。美しい娘となったエラ(リ リー・ジェームズ)に、ある日、父親が相談を持ちかける。ある知人の未亡人と再婚したい…というのだ。むろん、父の幸福のためならエラも反対はしない。こ うして乗り込んで来たのは、父の再婚相手トレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)と彼女のふたりの娘アナスタシア(ホリデイ・グレインジャー)とドリゼ ラ(ソフィー・マクシェラ)。正直言ってこの二人の娘はいささか品性に欠けていて、おまけに連れて来た飼い猫ルシファーも性悪と来ているので、エラの友だ ちのハツカネズミたちも気が気ではない。しかし元来が気だての優しいエラは、何とか彼女たちを悪く思わないようにしていた。しかし、時にはちょっと本音も 出てしまう。ある時、エラと父親が亡き母親のことを懐かしんで話しているのを、トレメイン夫人が立ち聞きしてしまう。果たしてそのせいでトレメイン夫人の 態度が悪化したのか、それとも元々そうなる定めだったのか…ともかく、父親が仕事で船に乗って外国へ出かけなければならない間、エラは態度の大きい母娘た ちにどんどん追いつめられる。自分の部屋をバカ娘たちに奪われ、屋根裏部屋を押し付けられるのだ。しかも悪いことは重なる。父親が旅先で亡くなったという のだ。エラは悲嘆に暮れるが、トレメイン夫人はもっと現実的なことを考えていた。収入源が断たれて、これからどうやって暮らして行けばいいのか。トレメイ ン夫人は使用人を解雇し、家事全般をエラにやらせるようにした。しかも、食事も同じテーブルでとらせない…と、ほぼ奴隷扱い。疲れ果て汚れたエラの顔に煤 がついていたことから、バカ娘たちに「煤だらけのエラ=シンデレラ」と罵られる始末。あまりにあまりな仕打ちの連続に、さすがにお人好しのシンデレラも堪 忍袋の緒が切れた。怒りと悲しみの感情の持って行き場がないシンデレラは、愛馬を駆って森を突っ走る。ところが森の中にやって来たシンデレラは、そこで狩 りに追われている鹿に遭遇。動物好きのシンデレラは、鹿を無事に逃がしてやった。そこにやって来たのは、狩りに参加していたと思われるひとりの青年。シン デレラはその青年に、狩りで動物をいじめるべきではないとキッパリ主張する。相手が誰であれ正論を吐くシンデレラに、思わず魅せられてしまう青年。彼はシ ンデレラの意見に同意し、森から引き上げることを約束した。こうして彼女の前から立ち去った青年だが、実は彼は自分の身分を明かしていなかった。彼は自ら をキットと名乗っていたが、ただの「キット」ではなかった。青年はこの王国の王子(リチャード・マッデン)だったのである…。

みたあと
  正直言って、これ以上この映画のストーリーを紹介しても意味がない。「シンデレラ」は「シンデレラ」である。本作は新解釈でもないし異端でもない、天下の ディズニーによる実写版「シンデレラ」である。それ以上でも以下でもない。だから、ストーリーを詳しく紹介する意味もない。この後、王様役にデレク・ジャ コビ、映画の中の「ジョーカー」的存在であるフェアリー・ゴッドマザー役にヘレナ・ボナム=カーター、敵役ともいえる大公役にステラン・スカルスガルドと いった名優たちが登場してくるが、彼らもとてつもなくキャラクターを変えて出て来る訳ではない。そういう意味ではあくまで「正統派」の「シンデレラ」であ り、だからこそ今回の映画化はかなり困難だったであろうと想像できる。21世紀の今日において、どんなに迫害されても希望を捨てずに明るく前向きで優しく 素直な女の子…という設定自体が無理難題。魔法がすべてを解決…という展開も、圧倒的にリアリティに欠けている。現代の一般観客が見に行って、シラケない で済むのは極めて難しい題材となっているのだ。しかもアニメならまだ許せても、実写でこれをやるとなるとますます醒める。実写版「シンデレラ」はいかにも ディズニーらしい題材と言えるのだが、ある意味でこれほど大胆で無謀な企画もないのだ。映画が始まってまもなく、僕は改めてこの題材の持つ苦しさを痛感し た。

みどころ
 だからこそ、僕はなぜ本作の監督にケネス・ブラナーが起用されたのか、その理由をたちどころに理解した。ブラナーは近年こそ「エージェント:ライアン」 (2014)などを撮ってハリウッドの職人監督みたいになっているが、本来は「オリビエ二世」と呼ばれてシェイクスピア映画で映画界に打って出た人。そん なこの人のシェイクスピア映画は、古典であるシェイクスピア原作を、まるでイマドキのハリウッド映画のように作り上げるのが特徴だった。決して古典として ホコリをかぶった状態や敷居の高い状態で映画化せず、一般観客の目線でフレッシュに描くのが「売り」だった。あくまで古典としての基本ははずさず、イマド キの視点では少々単純素朴で苦しいディティールを何とかリアリティのある描き方で乗り切っていく…という、極めてアクロバティックなやり方で映画化してい くのがブラナー流だった。こんな映画の作り方ができるのはこの人だけ…。だからこそ、あまりに単純素朴でイマドキの映画にはなりにくいおとぎ話の「シンデ レラ」映画化に、ブラナーが起用されたのだろう。そして、それは今回ギリギリ何とか実現できていると思う。こちらも許容範囲いっぱいでおとぎ話を受け入れ ようという気になって見ないといけないのだが、とりあえずブラナーは、シラケるスレスレのところで何とか崖っぷちから落ちないで話を持ちこたえさせてい る。例えばヘレナ・ボナム=カーターの素っ頓狂なフェアリー・ゴッドマザーは、イマドキの映画のブラックな味もちょっとまぶして見せている。彼女が魔法を かけたことによって温室のカボチャが膨張、それまでひたすら可愛い可愛いだけの描かれ方だったシンデレラの顔が温室のガラス窓に押し付けられて「変顔」に なるあたりは、ブラナーならではのさすがのコミカル演出だろう。そして最大のブラナーの野心は、単なる悪役でしかなかったトレメイン夫人に一応の動機づけ をしたあたりか。エラと父親が亡き母親を懐かしむ会話をしていたのを立ち聞きして、邪悪な気持ちをかき立ててしまう…という描き方をしたのは賢明だった。 シンデレラが思わず「どうしてそんなに意地悪をするの?」と問いただしたとき、若く美しく優しく希望に溢れている彼女が妬ましかった…という本音を吐くあ たりもちょっとリアルだ。ここに大物ケイト・ブランシェットを持って来たのも、全体的にリアリティの乏しい物語に真実味を持ち込むためだろう。さらにブラ ナーは、映画的な意味でもリアリティを持ち込もうとしている。問題の舞踏会の場面がそれだ。ここでの映像は、なぜか妙にリアル。セットなのかロケなのかは 分からないが、舞踏会の会場となる城内のリアリティだけが突出している。しかも、ライティングもここだけは微妙に抑え気味だ。キューブリックの「バリー・ リンドン」(1975)ほどではないが、いかにもハリウッド映画的なピカピカに当てたライトを避けている。そこで行われている舞踏会も、望遠でドキュメン タリー的に撮影しているショットが多い。実はこの場面を見ていて、僕はちょっとだけヴィスコンティの「山猫」(1963)の舞踏会場面を連想してしまっ た。そんな事を言ったら映画ファン・マニアの方々(笑)にはお叱りを受けてしまいそうだが、おそらくブラナーの意図には「山猫」の舞踏会場面があったので はないか。晩年のフェリーニ作品も手がけているイタリア出身のダンテ・フェレッティを美術に起用しているのも、そういう理由からではないかと思えるのだ。 そんなわけで努力賞をあげたいブラナーだが、ファンとしては次回はもうちょっと苦しくない題材を取り上げてほしいのが本音。頑張っているとは思うが、正直 見ていてかなり苦しかったよ。

さいごのひとこと

 主役の女の子も頑張っているのは認めたい。

 
 

「ロスト・リバー

 Lost River

Date:2015 / 06 / 15

みるまえ

 実 はライアン・ゴズリングってスターは、僕にとって何となくつかみ所のない役者ってイメージしかない。いつの間に出て来たのか分からないけど気づいたらいつ の間にかスターだったし、いかにもアメリカ映画のスター然としているタイプに見えていたのに、「ラースと、その彼女」(2007)とか「ドライヴ」 (2011)とかクセの強い映画に出たりしている。そのへんの得体の知れなさが、正直あまり好きになれなかったのだ。ところで本作のことはネットで知っ て、その設定や物語に興味を持った。朽ち果てつつある街での物語で、水没した街についてのファンタジー…と来ると、何となく面白そうではないか。少なくと も廃墟好きの僕としては見なくちゃならない題材だ。ところがこの作品、ライアン・ゴズリング第1回監督作品と知って、ちょっと腰が退けてしまった。あのヌ エみたいな得体の知れないゴズリングの最初の監督作品、それがちょっと風変わりな題材ってのもイヤ〜な予感がする一因だ。疑ってかかれば、確かに「いかに も田舎の映研が作りそうな自主映画」っぽいお話。「ラースと、その彼女」や「ドライヴ」に出るゴズリングの、アート系気取りの勘違い映画になっちゃってる 可能性は否定できない。そうは言っても、題材はすごく気になる。そんな訳で、ヤバい予感はかなりしていたものの、何とか時間を作って映画館に見に行った次 第。

ないよう

 その街は、まるで朽ち果てたような街だった。 人々も少なくなって周囲も廃墟ばかり。ペンペン草も生えまくって来る。そんなゴーストタウン化する街の一角に、ボーンズ(イアン・デ・カーステッカー)と いう若者が暮らすボロ家があった。ボーンズの家族は彼の母親のビリー(クリスティナ・ヘンドリックス)と幼い弟のフランキー(ランディン・スチュワー ト)。貧しいながらも幸せな家庭だったが、とにかく街の寂れ方がハンパじゃない。長い付き合いのご近所もたまらず引っ越してしまうし、去り際に「オマエも 早く街から逃げろ」とまで言われると、さすがのボーンズだって不安になる。もちろん仕事なんぞあろうはずもない。収入はボーンズが近所の廃墟を取り壊して 金属クズや銅線などを取り出し、クズ鉄屋に売ってカネを得るくらいしかない。そんなある日、廃墟の中でボーンズが取り壊しに汗を流していると、どこからと もなく耳障りなデカい声が聞こえてくる。それは、この一帯を仕切るワルのブリー(マット・スミス)の声だった。「この街はこのブリー様のものだ! 何一つ 持ち出そうとするんじゃねえ!」……白いオープンカーを手下に運転させ、自分はクルマに載せた特大の椅子から周囲に睨みをきかせて見下すブリー。こいつに 目をつけられたら、このあたりでは無事にやってはいかれない。そそくさとその場を離れようとしたボーンズの目の前を、火をつけられた自転車がゆっくり通過 して行く。例のブリーの「お見通しだ」という脅しである。そうなると、せっかく苦労して手に入れた金属クズも、残らず差し出して逃げるしかないボーンズ だった。そんなボーンズの心を癒してくれるのは、隣の家に住む幼なじみのラット(シアーシャ・ローナン)。小さなネズミをペットにしているのでラットと自 称する彼女は、自分の結婚式のビデオを毎日見て暮らす祖母と二人暮らし。ラットはボーンズは、この地域にまつわる奇妙な話を教えてくれた。それは、この街 のそばにあるダム湖についての話だ。実はこのダム湖の畔に、街灯が並んで湖の中にまで延びている場所がある。それは、かつてこのダム湖をつくるために、街 をひとつ沈めてしまったからだ。この地域が「ロスト・リバー」と呼ばれているのは、そのためだ。しかしその結果、この地域は呪われてしまった。街が朽ち果 ててみんなが去って行ってしまったのは、その呪いのせいなのだ。そして呪いを解くためには、湖底に沈んだかつての街から「何か」を取り戻さなくてはならな い…。ラットはダム建設当時に地域住民説得のために作られたPR用の8ミリ映画を見せながら、そんな「都市伝説」のような物語をボーンズに教えてくれた。 だが心は癒されても、代わる収入のアテがない。今日も今日とて母親のビリーが銀行に呼ばれて、未払いが続くローンの件で相談だ。しかしビリーがローンを組 んだ時の担当者はもう異動になり、代わりにやって来たデイブは冷徹に現実を告げるばかり。このままでは家を失ってしまう…と追いつめられたビリーは、デイ ブから告げられた「儲かる仕事」のクチを拒みきれない。今日も今日とていきなり近所に取り壊し業者がやって来て、有無を言わさず家を一軒壊して行った。次 はうちの番かも…追いつめられたボーンズは街のはずれにあるブリーの隠れ家に忍び込み、溜め込んである銅線を盗み出した。首尾よく隠れ家から脱出できたと 思いきや、あのブリーの威嚇する声が遠くから聞こえてくるではないか。「タダで済むと思うなよ、ボーンズ!」…たちまちブリーの手下が追いかけてくるのを 見て、一目散で立ち去るボーンズ。荒れ果てた茂みの中に逃げ込んで行くと…目の前に広がったのはダム湖の湖水。そしてその場所こそ、2列の街灯が湖の中心 に向けて沈みながら延びていく、「ロスト・リバー」の異名の元となった場所だった…。

みたあと

  先にも述べた通り、僕は別にライアン・ゴズリングという役者が好きではない。それどころか、正直言ってちょっと勘違いしてる「意識高い系」の男ではない か…と思ってさえいた。だから当然、ゴズリング初監督作と聞いて見たくなるほど、物好きなワケでもない。むしろあの「オレってアートな男」的な勘違いで、 クソつまらない映画を作るのではないかという疑念の方が強かった。だが、チラシや広告にある「朽ち果てつつある街」のイメージに惹かれた。僕は元々、廃墟 や失われた場所や街、建物などが大好きなのだ。だから、例え映画そのものがつまらなくても、そこに廃墟さえ映っていれば楽しめる自信はあった。ハッキリ言 うと、映画そのものには期待値ゼロで臨んだ。そんな状態で見に行った映画だったので、僕としては見ておつりが来るような感じだったと言いたい。ちゃんと入 場料の元はとれた気がするのである。

みどころ

  ハッキリ言うと、見る前の印象がすべて。本作の舞台となっている朽ち果てた街と、その描き方には本当に心惹かれた。ぶっちゃけ、それに尽きる。それだけで も僕は本作を推しているところだ。確かにお話や描き方のあちこちに、田舎の映研が作った自主映画みたいな拙さを感じない訳ではない。そしてファンタジーと して作りながらファンタジーになりきれてないところ、リアルとファンタジーの境界線の引き方が曖昧で観る者をサメさせちゃっているところ…なども目につか ないワケじゃない。そういうことから、残念ながら「これは傑作!」と鐘や太鼓でブチ挙げるところまではいかない。ただ、朽ち果てていく呪われた街、湖底に 沈んだ街、湖に延びている街灯、ダム建設のPR映画の扱い、沈んだ街にあった恐竜博物館…などなど、設定やイメージになかなか非凡な点も少なくない。逆に 主人公の母親が働くいかがわしい店の描写などは、出来損ないのデビッド・リンチみたいで底の浅さを露呈していることは否めないのだが、全体的に見渡すとな かなか非凡な作品に仕上がっていると思う。廃墟で作るファンタジーという点にはラース・フォン・トリヤーの初期作品「エレメント・オブ・クライム」 (1984)を見たときの印象を思い出したし、ところどころレオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」 (2012)を連想したり(単にエヴァ・メンデスが出ていたことからの連想かもしれないが…)、映画としての豊かなイメージは感じられた。確かに「アート なオレ」と勘違いしてる点がなきにしもあらず(笑)だが、ここまでやったら多少はゴズリングの監督ぶりもホメてあげたくなる。少なからずオリジナリティー を感じられる点に、素直に感心したからである。

さいごのひとこと

 水中の「ジュラシック・パーク」は新鮮だった。

 
 

「ラン・オールナイト

 Run All Night

Date:2015 / 06 / 15

みるまえ

 リーアム・ニーソンと言うと、近年これほどイメージが180度変わった人もない。すべてはリュック・ベッソン・プロデュースによる「96時間」 (2008)から変わってしまった。それからはグダグダになった初老男が肉親のために単身大暴れ…というシチュエーションの作品ばかり、次から次へと出演 しまくるようになる。そもそも重厚な演技派として売っていた人で次々主演作がやって来るタイプでもなかったのに、いつの間にかアクション俳優みたいな出演 ペースになっていた。ジェイソン・ステイサムとかドゥエイン・ジョンソンみたいなくくりの役者さんになっちゃったみたいなのだが、これはいかがなもんなん だろう。別にアクション俳優になってもいいけど、その役柄が「狼よさらば」(1974)以降のチャールズ・ブロンソンみたいに極端に固定されちゃっている のもどうなんだろう。そうは言っても、ニーソンが大暴れする映画はキライじゃない。そんな訳で、またまた終了間際の劇場へと駆け込んだ次第。

ないよう

  朝もやの森の中で、傷ついて横たわる男。その名はジミー・コンロン(リーアム・ニーソン)。彼には悔やむべきことが数多くあった。取り返しがつかないとも 分かっていた。そんな彼は、半日ほど前のことを回想し始める…。それは前日の昼間のバーでのこと。ジミーはバーで飲んだくれて、ついつい居眠りをこいてい た。それを常連の連中に笑われながら、ヨレヨレになってバーを出て行くジミー。グダグダなのを、もはや隠そうともしないダメオヤジぶりだ。そんな彼が地下 に降りていくと、ちょうど警官どもがダニー・マグワイア(ボイド・ホルブルック)からカネを受け取っていたところ。まだ若いダニーは、この界隈の「顔」 だ。ただし、それも父親の威光があったればこそ…だが。そんなダニーに、ジミーはカネの無心をしに来たのだった。ダニーはジミーにカネを貸す代わりに、 ちょうど代役が必要だったサンタクロース役を提案する。そんな道化役をやりたいはずもないジミーだったが、背に腹は代えられない。仕方なくサンタ役を引き 受けることになる。一方、ジミーの息子マイク・コンロン(ジョエル・キナマン)は、下町のボクシング・ジムでコーチをしていた。中でも面倒を見ているの が、ちょっと生意気だが見込みのある少年レッグス(オーブリー・ジョゼフ)。マイクはレッグスが悪い道に迷い込まないように…と、いつも心を砕いていた。 そんなマイクが帰宅すると、身重の妻ガブリエラ(ジェネシス・ロドリゲス)が彼を待っている。ガブリエラは家族の写真を使ってクリスマスの飾り付けを作っ ていたが、マイクはそこに自分と父ジミーのツーショット写真を見つけると、やたら過敏に反応する。マイクは昔から腐敗した世界に身を置く父親を敬遠し、近 年はまったく没交渉だったのだ。その頃、「若旦那」ダニーは実家に顔を出していた。ダニーの父親は、マフィアの親分ショーン・マグワイア(エド・ハリ ス)。ショーンが大物だからこそ、ダニーもデカいツラをしていられるのだ。しかしそれを分かっていないダニーは、よせばいいのに柄の悪いアルバニア人の悪 党どもを連れて来る。彼らと父親ショーンとの間で、麻薬取引の仲介を買って出ようというのだ。だが、いまや合法的な事業に乗り出していたショーンは、この 話に乗る気がまったくない。そもそもこの連中自体も気に入らないし、もはや麻薬取引をやる気がない。それを聞いたアルバニア人どもは、ダマされたと憮然と する。ダニーは彼らに父親の説得を約束したし、すでにカネも渡していたからだ。怒ったアルバニア人は、帰り際にダニーに「後でオマエの家に寄ってカネを取 り戻す」と言い残す。顔をつぶされたダニーは、頭に来て父ショーンに八つ当たりだ。さすがにショーンも、自分の育て方が悪かったと嘆くしかない。その ショーンの屋敷では、例のジミー扮するサンタが奮闘中。ファミリーの子供たち相手にプレゼントを渡したりしていたが、およそサンタという柄ではない。すで に酒で出来上がっていることもあって、暴言を吐いたりよろけたりでパーティーもブチ壊し。それでもショーンはジミーを責めもせず、客室へ連れて行かせる。 それは二人の間の、若い頃からの絆があったから。ジミーはショーンと一緒にヤバい橋を渡って、ここまでやって来た。そんな過去があるからこそ、ショーンも ジミーを見捨てたりはしなかったのだ。夜になって何とか体調も戻って来たジミーは、夕食を取りにレストランへ。すると、そこにベテラン刑事のジョン・ハー ディング(ヴィンセント・ドノフリオ)が、新米のオスカー・トレス刑事(ジェームズ・マルティネス)を連れてフラリと入ってきた。ハーディング刑事はジ ミーを見つけると、彼の過去に触れながら絡んで来る。ショーンから頼まれて汚い仕事を繰り返してきたジミーは、多くの人間を殺めていながら臭いメシを食う ことからは免れて来た。人呼んで「墓堀人ジミー」。それでもハーディング刑事はジミーにまだ失望しきってはいないのか、「何か言う気になったら」と言って 名刺を置いて去って行く。それは、ハーディング刑事なりの虫の知らせだったのか。一方、マイクはこの夜、アルバイトでリムジン運転手の仕事をやることにな る。それは偶然にも、例のアルバニア人の悪党どもをダニーの家まで乗せて行く仕事だった。そうとは知らず、アルバニア人を降ろしてリムジンに待機するマイ ク。その時、たまたまウロついているレッグスを見つけたマイクは、彼をリムジンに乗せて説教をする。ところがダニーの家では、とんでもないことが起こって いた。カネを取り戻しに来たアルバニア人たちをバカにしたダニーは、彼らに発砲したのだった。だが、レッグスの頼みで流したヒップホップのおかげで、マイ クは銃声を聞き逃してしまった。さすがにアルバニア人の片割れが命からがら逃げ出して来たのを見て、ただならぬ気配を察知するマイクとレッグス。レッグス はスマホで動画を撮影し始めた。すると、追いかけてきたダニーがアルバニア人を射殺。慌ててレッグスはその場を逃れた。逃げ出そうとしたマイクは、モタモ タしているうちにダニーに捕まる。それでも隙を見て何とか脱出するが、ダニーの家に身分証明書を落としてしまった。ダニーはそれを見ながら、一連の顛末を 父親ショーンに連絡。ショーンはダニーを何とか制止して、事態を穏便に収めるべくジミーに電話した。事と次第を理解したジミーは、歓迎されていないと知り つつマイクの家へと急ぐ。その頃、自宅に戻ったマイクは、たまたまリッキー伯父さん(ダン・ドミンゲス)の家に行った妻子に電話して、そのままで待機する ように伝える。そんなところにやって来たのは、長年音信不通だった父ジミーだ。それでなくても神経が高ぶっているところに、大嫌いな父親の出現。しかも大 嫌いなマフィアのボスからの「穏便に」というメッセージを伝えに来るなど、不愉快この上ない。ウンザリしたマイクは、ジミーを家から叩き出してしまう。と ころがその時、すでにマイクの家にはダニーと手下が忍び込んでいた。ダニーがマイクに銃口を向けたその瞬間…銃声と共に倒れたのはダニーの方だった。異変 に気づいて戻って来たジミーが、ダニーを一撃で倒したのだ。しかし、それはジミーが後戻りの出来ない道を歩み始めてしまったことを意味していた…。

みたあと

 … というわけで、ここからリーアム・ニーソン扮するジミーと仲違いしてる息子との、息詰る逃亡劇が始まることになる。しかし正直に言うと、そんなにムチャク チャ息詰って、見ていてつらくなるほどに緊迫している訳ではない。予告編などを見ると警察、マフィアだけでなく街の人々などにも目をつけられて、四面楚歌 八方ふさがりの逃亡劇になるみたいな感じだったが…確かに警察とマフィアの両方に追われるのは確かだが、それほどキツキツな感じはしない。また一般人から の密告や通報がやたらにある訳でもない。むしろかなり緩い。そもそも主人公たちを追いかけるマフィアが、それほど巨大な組織じゃない(笑)。映画の舞台は ニューヨークだが、予告編でほのめかされたようにニューヨーク全市が敵に回るみたいな趣向にはなっていかない。予告編のどうにもならない感じは、ちょっと 大げさだったというのが本当のところだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  そんなわけで、見ている間サスペンスでギチギチに締め上げられるような映画ではない。先にも述べたように、少々緩いのだ。だが、それが必ずしも悪いかと言 えば、そういう訳ではない。そういう映画が見たい人には多少ガッカリかもしれないが、正直言ってもうイイ歳こいてる僕などにとってみると、このくらいの緩 さでちょうどいい(笑)。そもそも全編ギリギリの緊張感なんて醸し出されたひには、見ていてツラくて仕方がない。また、ニューヨーク全市が敵…みたいな話 になったら、リーアム・ニーソンがスーパーマンにでもならなければ収拾がつかない。それはそれでアクション映画としては大味になってしまうだろう。そもそ もリーアム・ニーソンには合わない。だからあの程度のショボいマフィアが敵というあたりで、ニーソンの身の丈には合っているのである。彼が大暴れするため の舞台装置としてちょうどいいのだ。ただ、冒頭でニーソンが腹部を撃たれて倒れている絵から始まった時は、何だか暗い幕切れになりそうだな…とイヤ〜な予 感がしていた。こちとらはニーソンに大暴れしてもらいたいだけなので、彼の滅びの美学みたいなモノを見せられたい訳ではない。何だか悲壮な幕切れになった らイヤだな…と、暗い気分で見始めたのだった。しかし、それがそうではなかったから映画というものは分からない。ストーリーラインだけを見れば、確かに最 後はニーソンは死んで終わる訳で、悲壮なエンディングであることに変わりはない。しかしそれまで、ニーソンは散々ひどいことをやっている男だったと語られ る。物語が動き出すまでは、グダグダぶりがハンパなかった。おまけに息子とも険悪な仲である。それがどう見ても絶望的な状況に向かって物語が動き出すと、 ニーソンがイキイキして来るではないか。僕ら観客は冒頭でニーソンが瀕死の状態になるのを見ていて、ひょっとして死んで終わるかも…と予想している。仮に 生き延びたとしても、最善で刑務所行きなのは本人が認めている。つまり、普通の勝利やハッピーエンドはあり得ないのだ。なのに映画の進行とともに、ニーソ ンはどんどん活気づいてくる。これは一体どうしたことだろうか? お話としては破滅に向かって行くのだが、ニーソンが自分の破滅に向かって行動すればする ほど、彼が今まで行って来た悪事に対する贖罪になっていく。父子の仲も改善されていき、彼の罪も浄化されていく。だから絶望的エンディングのはずなのに、 見ている側としてはカタルシスがあるのだ。これはなかなか巧みな作戦ではないか。監督のジャウマ・コレット=セラは「アンノウン」(2011)、「フライト・ゲーム」 (2014)に続くリーアム・ニーソン主演作登板だが、実はワンパターンに見えて毎回何とか趣向を変えようと工夫している点が見受けられる。「アンノウ ン」の時はヒッチコック風巻き込まれサスペンス、「フライト・ゲーム」では密閉された飛行機の中でのサスペンス…と、毎回それなりに頑張っているのだ。そ うは言っても最終的にはリーアム・ニーソンが大暴れするのは毎度変わらずで、今回も小さいながらもヤクザひとつをぶっつぶしてしまう凶暴さ(笑)。決して 繊細な映画美学を見せる作品ではないが、同じ素材を出されても毎回味付けを微妙に変えてくる意欲は買える。脇役陣もエド・ハリスやらヴィンセント・ドノフ リオなどなかなかおいしいキャスティングだが、驚いたのはまったく想定外にニック・ノルティが出て来たこと。しかも凄まじく老いさらばえているのには二度 ビックリだった。期待しないでフラッと見に行くと、ちょっと得した気分になる映画かもしれない。

さいごのひとこと

 毎回工夫があるのがブロンソンとは違うところ。

 
 

「ブラックハット

 Blackhat

Date:2015 / 06 / 15

みるまえ

 今年に入って映画もロクに見れない状況で、当然のことながら新作情報にも疎くなった。だからマイケル・マンの新作がヒッソリ公開されていると知ってビックリ。かなり久々な感じがすると思ってたら、何と「パブリック・エネミーズ」 (2009)以来の新作ではないか。ウォルター・ヒルなど夜を撮らせるとうまいアクション映画監督が好きな僕としては、マンの新作となると見ない訳にはい かない。主演が「マイティ・ソー」(2011)のクリス・ヘムズワースというのも、「旬の人」ということでいいんじゃないだろうか。ところが、相手役が 「ラスト、コーション」(2007)のタン・ウェイと知ってまたまたビックリ。こりゃあ妙なことやってる予感がする(笑)。そうなると、居ても立ってもい られず劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 それは、香港の原発 で始まった。原発を運転するためのシステムは、すべてコンピュータによって制御されている。そこにネットを介して誤った命令が送られ、冷却ポンプが停止。 原子炉で大爆発が起きて、周囲は大パニックとなってしまう。それから間もなく、米国のシカゴでのこと。取引所のコンピュータにまたしても悪しき命令が伝達 され、大豆の先物取引の高騰を引き起こす。その結果、金融市場に深刻な被害が及んでしまった。これらはどちらも、RAT(リモート・アクセス・ツール)を 使ったサイバー・テロだった。事態を重く見た中国当局は、サイバー関連の事件に携わっているチェン・ダーワイ大尉(ワン・リーホン)に捜査にあたることを 命じる。ダーワイは事件解決には米国の協力が不可欠と判断し、上司を説得。さらに彼の妹でネットワーク・エンジニアでもあるチェン・リエン(タン・ウェ イ)にも声をかける。米国側もサイバー犯罪の「敵」であったはずの中国からの申し出に難色を示しながら、背に腹は代えられないとダーワイを受け入れること にした。こうして米国ロサンゼルスに乗り込んだダーワイは、FBI捜査官キャロル・バレット(ヴィオラ・デイヴィス)や連邦保安官代理マーク・ジェサップ (ホルト・マッキャラニー)と落ち合う。ところがダーワイは、捜査にあたってとんでもない要求を出した。何と刑務所に服役中のハッカーであるニック・ハサ ウェイ(クリス・ヘムズワース)を捜査協力させるように主張したのだ。この男、ハッキングの罪で15年間の服役中の札付き。キャロルにはそんな要求はのめ るわけもない。しかし、ダーワイにも言い分があった。実はダーワイはかつて米国の大学に留学経験があり、その時のルームメイトがニックだった。そして今回 使われたRATは、ダーワイとニックがかつて開発したプログラムの応用だと言うのだ。こうして、刑務所で服役中だったニックに、捜査への協力が要請され る。しかしニックは飛びつくどころか、刑務所長に「成功したら無罪放免」と要求した。これには苦々しい思いのFBIだったが、今さら後には退けない。こう してニックは晴れて釈放。捜査陣との合流を果たす。ニックはダーワイとの再会を喜んだが、妹リエンの美貌にも目を見張る。そんなうちにも、FBIは独自の 捜査で新たな事実を掴んでいた。敵は身内にいた。捜査官のジェームズ・レイジェス(マニー・モンタナ)が、実は敵側の人物であることが発覚したのだ。ハサ ウェイとリエンが彼のアパートに駆けつけてみると、すでにレイジェスは殺されていた。残されたコンピュータからメッセージを拾い出すと、今夜、近所の中華 料理店で誰かと落ち合う予定だったらしい。ハサウェイとリエンは、早速、その料理店に出かけて行った…。

みたあと
 冒頭、いきなり原発事故。ハリウッドが頻繁に原発事故を映画で描き始めたことも、今回それが東洋(香港)の原発として描かれたことも、たぶん福島の例の 事故が元ネタなのだろう。いかにあの事件がインパクトのある出来事だったのかを改めて思い知らされた。それはともかく、いきなり冒頭から中国人がワンサカ 出て来て、オリエンタル・ムードが充満。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)のマイケル・チミノといい今回のマイケル・マンといい、スタイリッ シュな映像を好むアクション系の監督って、どうしても一度は中国モノをやりたいのだろうか。そういえばマイケル・マンは「マイアミ・バイス」(2006) でもコン・リーを起用しているし、そもそも「ヒート」(1995)の時からコン・リーを使いたかったらしい。元々そっちの方に関心があったのだろうか。

みどころ
 そんな中国趣味を全面に出していることで奇妙な印象を与えるのが今回の作品なのだが、もうひとつ奇妙なのが今回の題材であるサイバー犯罪。やたらにコン ピュータやネットを扱ったストーリーもさることながら、サイバー・テロをCGを使って無理矢理映像化しているのがユニークだ。正直それがマイケル・マンの 作風に合っているのかどうかは微妙だが、久々に新作を作ろうとしたのはこうした題材を扱いたいからだろうか。ともかく、それらの特徴が本作をユニークなも のにしているのは間違いない。

こうすれば
 ただ、結局は中国人俳優をメインキャストに起用しても、タン・ウェイとワン・リーホンを「ラスト、コーション」からワンセットで持ってくるしかないあた り、マイケル・マンの限界も感じずにはいられない。サイバー・テロの様子をCGで視覚化する試みも、ゲームみたいに見えて今ひとつ現実感が湧かない。お話 もロサンゼルス〜香港〜マレーシア〜ジャカルタ…とあちこち舞台が転々としてなかなかスケールがデカいのだが、正直言って香港脱出のくだりで見ているこっ ちの緊張が解けて、終盤はただダラダラ見ているような状態になってしまう。確かに映画自体も2時間以上ある長尺なのだが、その実際の長さ以上に長い気がし てくるのだ。なかなか興味深い題材で面白いところもあるのだが、終盤にダラダラしてくるのはどこか構成に問題があるのだろう。夜の場面の映像など相変わら ずうまさを見せるマイケル・マンだが、今回は残念ながらちょっと本調子ではなかったようだ。

さいごのひとこと

 手練のシェフも中華は苦手だったらしい。

 

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