「キングスマン」

  Kingsman - The Secret Service

 (2015/11/09)


 
見る前の予想

 英国仕立てのスパイものというとテレビシリーズの映画化「アベンジャーズ」(1998)…といってもマーベルのじゃなくてレイフ・ファインズ主演のやつ…あたりが想起されるが、これはそういう元ネタがある訳ではない。
 予告編を見るとちょっとユーモラスでパロディっぽい感覚も感じられるし、主演のコリン・ファースが眼鏡をかけているのは「国際諜報局」(1964)でのマイケル・ケインのそれを意識しているのだろう。だからと言って「オースティン・パワーズ」(1997)みたいな、完全なコメディでもなさそうだ。それが、キック・アス(2010)の監督マシュー・ヴォーンの新作と聞いて、僕は妙に合点がいってしまった。
 しかし…そうなると、面白いのか面白くないのかは非常に微妙な感じがする。それで見るまで少々躊躇したのも事実。その理由については後述する。
 結局は観念して見に行ったのだが、見てからもなかなか感想が書けなかった。ただし、それは作品的に問題があったというより、単に僕が忙しかったからでしかない。悪しからず。


あらすじ

 1997年、中東のある国。巨大な宮殿の廃墟で、彼らは任務を遂行中だった。彼ら…その名を「キングスマン」という。
 彼らはすでに目的の人物を確保し、椅子に縛り付けて尋問中だ。だが、それが罠だった。それに気づいたメンバーの一人は、身を挺して自爆から他のメンバーを守った。後に残された彼らのリーダーであるガラハッドことハリー・ハート(コリン・ファース)は、ただただ呆然とするばかりだ。
 ハリーはまだ新婚だった殉職メンバーの家を訪れ、気の重い知らせを報告。うら若い妻は泣き崩れてハリーの言葉を聞こうとせず、彼は幼い息子ゲイリーに一個のメダルを渡すと、「困った時にはここにある番号に電話してくれ」と告げてその場を去った…。
 それから幾年月…。
 アルゼンチンの雪山にある山小屋に、ひとりの男が囚われていた。その男はジェームズ・アーノルド教授(マーク・ハミル)といい、謎のテロリスト集団に よって拉致されていたのだ。ところがそこに、カッコいいスパイが颯爽と救出にやって来る。彼は「キングスマン」の一員でランスロットと呼ばれる男(ジャッ ク・ダベンポート)。ランスロットはあっという間にテロリストたちを倒すと、余裕でアーノルド教授を助け出そうとするが…好事魔多し。まだ残っていたテロ リストの一人、鋭利な刃物となっている義足を持つ女ガゼル(ソフィア・ブテラ)によって一刀両断にされてしまう。
 そんな大立ち回りが終わった後で山小屋にやって来たのが、世界的IT長者のリッチモンド・ヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)。どうやらこの男、IT長者はオモテの顔で、何やらとてつもない陰謀を巡らせているらしい…。
 一方、ここはロンドンのサヴィル・ロウ。高級紳士服店が立ち並ぶその中でも、抜きん出てその格式の高さを誇る「キングストン」の店に、あのハリー・コートが入って行く。
 実はその店こそ、国際諜報機関「キングスマン」の本拠地。そこで代表アーサー(マイケル・ケイン)を筆頭に、「キングスマン」の面々が円卓を囲んで会議を始めた。今日の議題は、メンバーのひとりランスロットの死の報告。そして、急遽欠員を埋めなければならなくなったということだった…。
 ちょうどその頃、ハリーを守って死んだ「キングスマン」メンバーの息子エグジー(タロン・エガートン)も、立派な青年となって同じロンドンの空の下で暮らしていた。
 ただし、「立派」なのはその体格だけ。彼の暮らしぶりも生活環境も、お世辞にも「立派」とは言い難い。そもそも、彼の住まいがあるのは労働者階級の街。そして母親は若い頃の夫の死以来、人柄が変わってしまった。今では地元ヤクザであるディーンの情婦に成り下がり、暮らしも品位も底辺まで落ちた。そんな家で育ったエグジーもまた、いっぱしの不良になってしまったのは致し方のないことかもしれない。
 今日も今日とてバーでダチとツルんでたところ、ディーンの手下どもに絡まれ一触即発。そこを何とか抑えてダチと一緒にバーから出て来た…と思いきや、エ グジーはチャッカリ連中のクルマのキーを盗んでいた。早速、クルマを頂戴してダチと暴走。しかし運悪くパトカーに見つかって、早速追われるハメになる。結 局、追いつめられたあげくに御用となったのは言うまでもない。
 こうして警察署の取調室へと連れて行かれたエグジーだが、ふと肌身離さず身につけていた例のメダルを思い出す。警察署の電話からその電話番号に電話をか けると、オペレーターが出て来て何やら訳の分からないことを言われる。さては、ダマされたかな…と思いきや、何と奇妙なことにエグジーは速攻で釈放されてしまうではないか。ところが、エグジーがキツネにつままれた面持ちで警察署から出て来ると、あのハリーが彼を待ち構えていた!
 こうしてハリーとエグジーは、近くのバーへ場所を移す。ハリーはエグジーに、勇敢だった彼の父親のことを話した。それを聞いて嬉しい思いを抱くエグジーだが、ハリーはその後にこう続けるのだった。「お父さんが今の君を見たら、失望するんじゃないかね」…。
 ところがそんな二人の前に、あのクルマを盗まれたディーンの手下たちが怒り心頭でやって来る。
 総勢6人の荒くれ者を見てエグジーはヤバいと悟るが、ハリーは慌てず騒がず冷静に対応だ。だが、それでおとなしく引き下がるような連中じゃない。ゲスな連中の挑発にウンザリしたハリーは、穏やかに事を済ませるのは無理と悟って重い腰を上げた。
 チンピラ連中はハリーが逃げ出すのではないかタカをくくっていたが、残念ながらそうじゃない。ハリーはバーの扉に歩み寄ると、ゆっくりとカギをかけながら誰に告げるともなくこう語るのだった。
 「マナーが、人を、作るんだ」…。


見た後での感想

  割と早めにストーリー紹介をはしょってしまったが、大体この後は想像がつくと思う。主人公の青年がハリーを師と仰いで「キングスマン」を志し、そのハード な訓練に身を投じていく。一方、ヴァレンタインによる世界的な陰謀も進行していて…話の中盤で「えっ!?」と驚く趣向も盛り込まれているが、それ以外は大体みなさんが見る前に想像した通りの基本ストーリーである。
 だから、ここでストーリー紹介を切ったとも言えるのだが、実は僕には別の意図もあった。実は僕がストーリーを切った部分で出て来るセリフ「マナーが人を作る(ネットでドヤ顔で紹介されていたが、"Manners Maketh Man"というスペルなんだそうである)」は、後半でももう一度出て来る。そして、いろんな意味でこの言葉は本作の重要なコンセプトともなっている。
 そこをまず紹介したかった…という訳なのだ。

上流から下層、さらには観客まで全方位に媚びずに叩く
 本作ですっかり荒んでグレて育ってしまったエグジーに対して、ハリーが語りかける言葉が秀逸である。“「大逆転」は見たことがあるか? 「プリティ・ウーマン」は?”
 これらの映画を知らないと言うエグジーが、“「マイ・フェア・レディ」なら知ってる”…と答えるオチは映画ファンとしては嬉しくなってしまうが、これがまさに本作のテーマ「マナーが人を作る」のことを指しているのは言うまでもない。
 元々、主人公エグジーの父を「キングスマン」にスカウトしたハリーには、「選ばれし者だけが優れている」という考えなどナンセンスという思いがあった。由緒ある家柄だの名門出だのという連中こそが優れている…なんてあり得ない。今回、改めてグレ始めていたエグジーを「キングスマン」にスカウトしたハリーにとっては、これは持論を証明するための「再挑戦」という事になる訳だ。
 ところが代表のアーサーを筆頭にした「キングスマン」の組織側は、ガチガチの「選民意識」の持ち主(アーサーに労働者階級上がりで知られる俳優
マイケル・ケインをキャスティングしたことは、「国際諜報局」へのオマージュであると同時に明らかに階級制度に対する皮肉だろう)。「キングスマン」欠員のポスト目指してエグジーと一緒に訓練する若者たちも、生まれも立派なら学歴もご立派という連中である。彼らは思いっきりシモジモの人々を見下している
 そして「キングスマン」が戦っているはずの悪の組織側も、「選民意識」という点ではご多分に漏れない。こちらのボスは、実は「生まれ」という点ではいささか危うい…。しかしカネならうなるほどあって、これはこれでアメリカという資本主義権化の国ならば「特権階級」でいられる。ここでは黒人のサミュエル・L・ジャクソンが、IT長者という今風な成金ぶりを発揮。選民意識に下品さも加わる「成り上がり」ならではの鼻持ちならなさを見せつける。どいつもこいつも…なのである。
 こういう意識というのは、一応は「万人平民」の日本ではあまり意識しないで済んでいたのだが、最近では格差拡大に伴って徐々に見え隠れするようになってきた。実際には前々からあって、みんなが気づかないように隠されていたのだが…。
 それはともかく、調べてみると監督のマシュー・ヴォーンって実は英国出身だったんだねぇ。だからこそ、そういう「階級」やら「格式」「権威」などに敏感だったのかもしれない。本作がイギリスを舞台にしているのはダテじゃない。そして、一方でちゃんとアメリカ的「成り上がり」を出して叩いているのも、ハリウッドを経験したヴォーンらしいところなのだ。
 生まれが高貴…とか名門校出…とか金持ち…とか、そういうテメエ勝手な「選民意識」に凝り固まった連中が、自分ら以外の「余計で下賎な連中」を淘汰させようと仕組む陰謀…が本作のお話。ハリーはそこに「マナーが人を作る」という彼なりの人生哲学で斬り込んでいくのである。エグジーはそんなハリーの哲学を具現化した存在だ。
 逆に言うと、ハリーやエグジー以外の連中は、本作ではボコボコに手厳しく叩かれる。こういうテーマならありがちな、金持ちや身分の高い奴や学歴のある奴は「悪」…という前提のお話なら、逆の貧しく無学な人々は「善」である…と描かれるものだ。しかし、それはそれでかつてカンボジアで暴虐をふるったクメール・ルージュの思想と五十歩百歩ではないか。そいつらだけが「悪」で、他はすべて清く美しいのか…。本作はそんな「山田洋次」的な発想(笑)では作っていない。
 エグジーの周囲にいる無学で貧しく卑しいヤクザや不良連中は、ハッキリとクズに描かれる。アメリカのど田舎にある教会に集まる連中も、無知で汚らしくて 歪んだ連中だとバッサリ(ただし、この教会の連中が揃いも揃ってプア・ホワイトと呼ばれる白人なのは、悪の親玉サミュエル・L・ジャクソンが黒人であることとバランスをとっている可 能性はあるだろう)。「マナーが人を作る」とはいえ、ダメな状況で甘んじているような人間も、それはまたそれでダメなのである。強者を否定しながら弱者に媚びもしない…このあたりが、本作が凡百な娯楽映画と一線を画している点である。
 そして、この監督の出世作「キック・アス」でも人によってはいささか過剰と受け取りかねない暴力シーンがあったが、本作もそういう場面が「見せ場」として3〜4カ所見受けられる。いずれもポップに仕上げているのがこれまた「キック・アス」と共通する点だが、実はその「キック・アス」ではそれが少々鼻に突いたことを白状しなくてはならない。
 だが本作でのそんな「過剰さ」は、実はそれなりに意味がある。少なくとも「キック・アス」で作者が「オレってセンスいいでしょ?」としたり顔で見せたポップさとは、一線を画するように見える。
 例えば、人工衛星からの電波によって一般の人々が狂い出して一斉に殺し合いを始め、一方で「選ばれし者」連中がディスコ・パーティでハシャギまくる…という一幕は、まるで中川信夫監督の新東宝映画「地獄(1960)の一場面を思わせる。同作後半の舞台である、老人ホームでの場面を思い出していただきたい。腹にイチモツな連中もたまたま居合わせた老人連中も、毒入り酒かっくらって毒入り魚たいらげて、狂ったように歌って踊って殺し合う宴会場面がそれだ。あの末期新東宝ならではの毒々しいアナーキーさが、本作のそれと不気味なほど重なるのである。それはポップでオシャレな悪ふざけというより、もっとトゲトゲしいモノを感じさせる。それが実は、俗悪な現実社会の反映ではないかと思わせる点が何とも不穏なのだ。
 そして、調子こいて自分たちを「選ばれし者」だと思い込んだ連中が、色とりどりのお花畑のようなカラフルな色に頭を爆発させるくだりは、バカバカしくもシュールで笑える。BGMとして流れる「威風堂々」の仰々しさも相まって、何とも不思議なカタルシスが味わえるのだ。
 こうして、鼻持ちならない「選民意識」に凝り固まった奴らは叩きのめされる。自分の頭で考えていない、無知で卑しい連中も断固として退けられる。他者をゴミのように処理しようとした悪しき者たちは、自分たちがまるで粗大ゴミのようにキレイに処理されるのだ。そして観客の僕らはそうしたアリサマを見せられてスカッと溜飲が下がるし、大いに笑わせてもらえる。大いに笑わせてもらえるのだけれども…実は観客もある意味でこれらの人種のどれかに大なり小なり属していることになる訳だから、自らのノド元に刃を突きつけられることになるのではないか。その時、「僕らは日本の中産階級だから」などという異論は許されない。
 観客たちも、本作に出て来る上流・下層階級の人々と同様に問われているのだ。「マナーが人を作る」=「人としての価値や賢さや徳というものは、生まれや学歴やカネじゃない」ってことを、オマエも本当のところは分かっていないんじゃないか
 オマエらもまた、本当は処理された方がマシなゴミなんじゃないのか?
…と。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 




「フォーマット化」に一抹の不安
 そんな訳で、意外にも単にアハハと笑ってられない本作。そういう意味では、マシュー・ヴォーンの出世作「キック・アス」よりもかなり出来は上だと感じる。ただオシャレて楽しめる作品ではないのだ。
 僕はこの監督の前作にあたる「X-MEN/ファースト・ジェネレーション」(2011) は見ていないのでよく分からないが、そちらは「キック・アス」とはどうもかなり異なるタイプの作品になっているようだし、そもそも「X-MEN」という フォーマットが決まっている仕事だった訳だから、アプローチの仕方も本来のものとは異なっていただろう。その点、本作はまさに「キック・アス」タイプの作品に仕上がっている。そして同じパターンを繰り返したという点から、「キック・アス」〜本作「キングスマン」…こそがマシュー・ヴォーンらしい企画と考えるべきだと思う。 
 一方がヒーローものという「典型」のパロディであるともないとも言いきれない設定に対して、本作が英国スパイものという「典型」のそれ。一方がボンクラ な若者の成長物語なら、本作もまたグレた青年の更生・成長物語。どちらもデキる女の子が主人公を支える重要人物として登場して、しかもどちらも主人公を教 え導く「大人」が劇中で退場することになる。このように、完全に本作は「キック・アス」のパターンを踏襲して仕上がっており、むしろそのバックボーンとし て「マナーが人を作る」という太い幹が通っている分だけ、本作の方が優れているのだ。
 正直ここだけの話、「キック・アス」は映画の内容をチラシや予告編で見た時が最高に面白そうに感じた時で、実際に実物の映画を見たらそれほど面白くなかったと いうのが本音。要は飲み屋での仲間内でのバカ話と同様で、思いつきはバカバカしくも楽しいんだが、実際の1時間半から2時間の映画になってみるとそれほど でもない…という典型的な作品だったように思う。今回はそこに一本、「マナーが人を作る」というスジが一本通って「サマになった」ということだろう。
 だがそれは逆に言うと、「キック・アス」〜「キングスマン」タイプの作品を作る上で絶対勝利の方程式、一種の「ひな形」が出来上がってしまったということでもある。これって映画作家としてどうなんだろう? こういう「型」が出来てしまうというのは、安易な道に入りかねないし作品が形骸化しかねない。これってとても危険なことではないだろうか?
 それでなくてもマシュー・ヴォーンという映画作家は、「典型的ファンタジー映画」を茶化したようなスターダスト(2007)、「典型的ヒーロー映画」を茶化したような「キック・アス」、そして「典型的英国スパイもの」を下敷きにしている本作…と何度も「フォーマットありき」の作品作りをしている。ある意味では「X-MEN/ファースト・ジェネレーション」も「X-MENもの」というフォーマットだ…と言えば納得できる。そもそも、途中でスローにしたり早送りにしたりでランニングタイムを自在に変化させるアクションを本作でもやたらに駆使していたが、あれってマシュー・ヴォーンがかつてプロデューサーとして関わった、ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(1998)のガイ・リッチーの十八番じゃなかったか。つまり、これもまたひとつの「フォーマット」なのである。
 そういう「フォーマットありき」の映画づくりを一貫して行ってきたマシュー・ヴォーンが変に成功の「ひな型」を完成させてしまったら、今度はそこにさまざまなジャンル映画のパターンを放り込むだけで映画を作り始めないだろうか。何となく、この人にはそんな危うさが感じられるのだ。せっかく今回は骨のあるところを見せてくれたのに、そうなったら元も子もないではないか。
 今回の「キングスマン」には大いに楽しませてもらいながらも、何となくそんな不安と違和感を感じずにはいられないのである。

 

 


 

 to : Review 2015

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME