「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」

  Finding Vivian Maier

 (2015/10/26)


 
見る前の予想

 渋谷のちょっと一癖あるミニシアターで、僕はこの作品のチラシを手に入れ、予告編を見ることができた。題して「マドンナのスーザンを探して」(1985)ならぬ、「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」。ダイアン・キートン主演の「ミスター・グッドバーを探して」(1977)以来ハズシなしの、僕が勝手に命名した「探して」シリーズ最新作である(笑)。
 たまたま骨董品として手に入れた数多くのプライベート写真をネット上にアップしたら大評判になり、それがキッカケでまったく無名だったある写真家を発掘 することになる…というお話とのこと。ただし、これは劇映画ではなくてドキュメンタリー。つまり、これは実際にあったことなのだ。
 その無名の写真家ヴィヴィアン・マイヤーは、乳母をして暮らしを立てていたらしい。膨大な写真を撮影しながら、まったく世に発表することなく世を去った。映画はこれらの写真を手に入れた人物が、生前の彼女の足跡を辿る様子を描く内容…とのこと。いやいや、これはなかなか興味深い映画ではないか。昨年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされたらしいが、そんなこと関係なしに興味しんしんだ。
 おまけに偶然にこの日、ポール・サイモン「僕のコダクローム」を何年ぶりかで久々に聞いて、ちょうど古い写真のことを考えてもいた。デジカメではなく、フィルムで撮影して紙に焼く写真。イマドキはスマホでバンバン写真を撮るけれど、紙に焼いていた時の方が写真ってしげしげと見たし、ありがたみがあったよなぁ。
 そんなことを思っていた矢先、やはり映画好きの知人から本作オススメの連絡が入った。これは太鼓判を押されたようなもの。詳しくは後述するが僕自身の「個人的な事情」もあって、この作品が見る映画の優先順位の最前列に浮かび上がって来た。
 そんなわけで、僕は他の話題作、評判作などを放ったらかして、慌ててこの映画を見に行ったわけだ。


あらすじ

 板の間の部屋に、ひとりの男が次々と雑多な荷物を並べていく。どれもギッシリとモノが詰まった段ボール箱やらトランクで、しかも相当な年代物だ。おまけにハンパな量じゃない。それもこれも、すべてひとりの女…ヴィヴィアン・マイヤーの遺品である。
 それは2007年のことだった。先ほどの男…シカゴに住むジョン・マルーフが地元のオークションに参加して、写真が大量に入った箱をひとつ手に入れたのが始まりだった。その当時、マルーフは自分を作っている歴史書に使うために、使えそうな古い写真を探していたのだ。
 その膨大な写真を撮影した人物の名は、ヴィヴィアン・マイヤーという。
 果たしてどんな人物かとネットで検索にかけてみたが、たったの1件も引っかからなかった。たったの1件も…。
 問題の写真も、ザッと見た限りでは使えそうな写真はなさそう。そう思ったマルーフは、写真の詰まった箱を片隅に放置した。正直言ってマルーフ自身も、さほどの審美眼があったわけではない。だから、決して「見る目」があった訳ではないと認めねばなるまい。
 だが、しばらく経ってこの写真を引っ張り出したマルーフには、やはり何かを感じる力はあったのだろうか。マルーフは試しに何点かの写真をスキャンして、ネットにアップしてみた。
 「クール!」「最高だ!」「ワオ!」
 ネット上で公開された写真は、あっという間に絶賛の嵐を呼ぶ。マルーフは改めて、これらの写真が価値のあるものと知った。
 マイヤー本人に興味を抱いたマルーフは、改めて「ヴィヴィアン・マイヤー」でネット検索を試みた。すると…今度は1件だけながらヒットするではないか。ただし、それは死亡記事…それもマイヤーがほんの数日前に亡くなったという記事だった。享年83歳。惜しいことに、マルーフが彼女の存在を確認した時、ほんのわずかの差で彼女はこの世の人ではなかったのだ。
 しかも死亡記事によれば、彼女は一介の「乳母」だったという。なぜ単なる「乳母」を生業にしていた女性が、このような膨大な写真を「作品」として撮影していたのか。
 これに刺激されたのか、マルーフはマイヤー調査に没頭し始める。例のオークションでは、一緒にいくつかの荷物も出品されていた。マルーフはこれらの落札者を探し出し、改めてそれらを買い漁って手元に集めた。
 一方で、彼はマイヤーの個展を開催。すでにネット上では話題になっていたマイヤー展に、会場には記録破りの人々が押し掛ける。だが有名な美術館は、頑としてマイヤー作品を黙殺だ。
 それでも彼女の作品に注目した著名な写真家たちは、その素晴らしさと独創性に賛辞を送る。そして、二言目にはこうつぶやくのだ。「こんな作品が世に出ていなかったなんて…」
 手に入れた遺品の中から電話番号を見つけ出したマルーフは、試しにいくつか電話をかけてみた。すると、晩年の彼女を知っている人物に行き当たる。
 しかも、この人物は彼女の遺品を倉庫に保管しており、近々それらを廃棄処分にしようとしていた。慌ててその場に駆けつけるマルーフは、倉庫にギッシリと積まれた荷物の山に唖然呆然。これがたったひとりの、しかも単なる「乳母」だった老女の持ち物なのか…。
 マルーフはマイヤーが残した遺品の数々をくまなく調べ、彼女が何とも几帳面に何でもかんでも保存していたことに驚嘆する。まだ山ほど残っていた未現像のフィルム、8ミリや16ミリの映像、さらに本人の声が録音されているカセットテープ、衣服の数々、新聞切り抜き、手紙、レシートの類いまで、いわゆる偏執狂的に残しているのだ。
 さらに残されたレシート類から、マイヤーの過去を探るマルーフ。彼女は乳母や家政婦として、あちこちの家庭を転々とした人生を送っていた。マルーフはマイヤーを「乳母」として迎えた家庭の人々に、次々とインタビューを試みる。その結果、浮かび上がって来た人物像は、孤独で変わり者なひとりの女性の姿だ。
 マイヤーはなぜ写真に没頭していたのか、なぜこのような独創性を確立できたのか、なぜ孤独な人生を歩み続けたのか、そして…なぜこれほどの作品を撮りながら発表しようとしなかったのか?
 マイヤーの過去を探れば探るほど、マルーフの前にはさらに大きな謎が立ちはだかるのだった…。


見た後での感想

 「事実は小説よりも奇なり」…あまりに手垢がつきまくったフレーズだが、本作を見た後はついついそんな言葉を言ってしまいたくなる。
 つい先日、サム・ペキンパー/情熱と美学(2005)というドキュメンタリーを見たばかりの僕は、そのあまりの凡庸さに少々呆れてしまった。そんな作品と比べるのもどうかと思うものの…世間との折り合いをつけ方の下手さと いう点では、このヴィヴィアン・マイヤーもペキンパーと五十歩百歩。いや、まだ一緒になってウケてくれるワル仲間がいただけ、無頼の破滅的な人生を気取れ ていたペキンパーの方がナンボかマシだったかもしれない。本作の主人公ヴィヴィアン・マイヤーは、徹頭徹尾、純度100パーセントの孤独の中で生きてい た。そして彼女の場合、どうやらそうして生きていくしかなかったような人のようなのである。
 本来ならそのまま埋もれて誰にも知られることなく消えていっちゃった人になるはずだったのに、何たる運命のいたずらか。あるひとりの男に見つかってしまったのが運の尽き(笑)。その異色の才能と不思議なキャラクターが世に出ることになってしまった…というお話。
 ヴィヴィアン・マイヤーという人物の複雑怪奇さ、そのキャラクターの興味深さもさることながら、そのマイヤーを探っていく過程も一種の探偵物語みたいで面白い。結果的に、映画作家が頭を絞って作った娯楽映画なんかより遥かに「面白い」作品に仕上がってしまったから、世の中ってのは分からないものだ。
 そしてこの感想文の冒頭でも触れたように、僕には本作に惹かれる「個人的な事情」がある。本作が描いている題材は、僕が現在作っている本…もう9年間も準備を続け、昨年末ようやく制作に取りかかることができた本の内容と、どこか一脈通じているような気がするのである。

人ごととは思えない、ヴィヴィアン・マイヤー調査への情熱
 たぶん僕が現在、制作している本のことは、このサイトで何度も語って来たように思う。一番古いものではスーパーマン・リターンズ(2006)の感想文あたりで言及しているから、「あぁ、あれか」と察する方もいらっしゃるかもしれない。あるいは最近ではラブ&マーシー/終わらないメロディー(2015)の感想文でこの本の制作に至るまでのいきさつは詳しく語っているから、改めてここでクドクド語ることもあるまい。ともかく、実際に制作されるまでに9年もかかっている企画だ。本がちゃんと出るまでにはほぼ10年。先日ようやく初めてのゲラが出たが、さすがに僕も感無量だった。正直言って、これが出たら僕は抜け殻だろう(笑)。僕がこの世に生まれた使命はもう終わりということで、もう死んじゃってもいいのかもしれない(笑)。
 その内容についてもすでにお察しだとは思うが、ともかく戦前のあるイベントについての本だ。もう80年近く経ってしまっているから、資料や写真を探すのも一苦労。やっていることは、骨董屋やコレクターと同じだ。
 さまざまな図書館や美術館、資料館や博物館に足を運んで、点と点を結んで線を描き、線と線をつないで面を作るような作業を続ける。足りない部分はある程 度自分の想像力でつないで、後から資料で裏付けをしていく。実に地味〜な作業だが、これなしには何も分からないままだ。暗礁に乗り上げても諦める必要はな い。2〜3日放っておくと、きっと何かいい解決策が別に見つかるものだ。
 だが困ってしまうのは、当時の関係者を探すこと。掲載を予定してい る画像の著作権所有者が分からない。それらを作った当人はほぼ生存していないだろうからその子供…それもかなりの高齢であると考えられるからさらに孫…と いうことになる。これを探すのが容易なことではない。一般的にも知られている著名なクリエイターでも、亡くなってしまうとその縁者がどこにいるのか分から ない…なんてことはザラ。こんな有名な人なのに分からなくなっちゃうのか…と、調べていくと否が応でも諸行無常を噛み締めることになる。
 一応知られている人物でもそんなテイタラクだから、こう言っては失礼ながら…無名な人になると調べるのは容易なことではない
 当時その人物がどこに住んでいたかを探すのは、まだ簡単な部類だ。問題は、それが現在の地名のどこに相当するのか。おまけに行政区画の変更やら何やらが あって、そこに日本の都市部には空襲による都市の焼失がある。ここで死んじゃった人、引っ越してどこかに引っ込んじゃった人は、もうその段階でかなり厳し くなる。それでも出身地や途中の学歴が分かれば何とかならないでもないが、現在、生存している縁者が本人の娘だったりすると、そこで結婚によって名字が変 わったりしてまたまた捜索が難しくなる。めざす人物の縁者に辿り着くのは、途方もなく手間のかかる作業なのだ。
 最終的にはこのあたり…と「当たり」をつけて、古い電話帳でそれらしい名字の持ち主に片っ端から電話。ここでも、昨今の個人情報云々の風潮と「オレオレ 詐欺」の横行が邪魔をする。そんなこんなをかいくぐったか細いクモの糸みたいな可能性がつながって、ようやくめざす縁者を見つけることができるのだ。
 僕はこの夏、そんな人々を5〜6人見つけることができたし、何人かについては縁者は見つけられなくても、故人の足取りをある程度まで明らかにすることが できた。何しろ近場じゃ赤羽から、遠くはフランスにいる人まで突き止めたからね(笑)。正直言って、僕は本の編集なんかやっているより、これからは探偵でもやった方が食えるような気がする(笑)
 だからこそ、本作「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」での「主人公」にあたるジョン・マルーフの苦労が手に取るように分かる。いやぁ、こりゃ本当に大変だっただろうと思うよ。そういう意味で、僕はこの作品を見た他の観客たちよりも、2〜3倍増しぐらいで楽しめたんじゃないかと思っている。あの探す作業の大変さと喜びを考えると、人ごととは思えなくなってきちゃうからねぇ。



 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 




発掘者に終始感じられる、マイヤーへのシンパシー
 そんな訳でこの作品は前述したように、ヴィヴィアン・マイヤーという無名の写真家を描くドキュメンタリーであることは間違いないのだが、そんな彼女を見出だしたジョン・マルーフという男が、探偵のように彼女の痕跡を探し回る一種のサスペンス映画のような側面もある。
 そもそもこのマイヤーという女性が非常に謎めいた人物だから、彼女に肉薄すればするほどミステリアスになっていくのだ。その面白さ興味深さたるや、ヘタ な娯楽映画なら裸足で逃げ出すほどと言っても決して大げさじゃない。この面白さがあるから、本作は別に写真に興味がない人でも楽しめるはずだ。単に写真や 写真家について「のみ」描いたような、「閉じた」映画なんかじゃないのである。
 我々が本作を見ていくにつれて、徐々にその最大の謎が姿を現して来る。まぁ、それを言うなら最初からその謎が本作の原動力でもあったのだが…。その謎とは、ヴィヴィアン・マイヤーがなぜこれだけ多くの写真を残したのか…。そして、これだけの写真を撮りながら、なぜそれらを発表しなかったのか…ということだ。
 本作の中では一応それについて結論めいたものが提示されていて、写真としての現像・焼き付けにこだわっていたことから、本人にはおそらく発表の意思はあったのだろうと いうことになっている。まぁ、それはそうなのだろうが、マイヤーという人を知れば知るほど、この人にとって作品の売り込みなんてとてもじゃないけど耐え難 いことだったのではないかという気がする。現在のようにネットという道具がない時代では、作品を出版社なり美術館なりに持ち込まなければならない。ところ がマイヤーという人物は、それが出来るような人ではないのだ。しかも、ここまで大ウケした現在の状況など、とてもじゃないけど本人は受け止められなかったはず
 そういう意味では、彼女が生きた時代が現代でなくて良かったのかもしれない。彼女もそんな自分に気づいていて、途中から発表を諦めたのだろう。未現像のフィルムが膨大に残されているというのは、そういうことだと思うのだ。
 しかも本作では、どうやら彼女が児童虐待みたいなことを受けていたらしいことが描かれる。それどころか、彼女の家族全員が縁者から鼻つまみ状態だったようだ…とさえ明かされる。
 そして世間でありがちなことではあるが、虐待は「負の連鎖」を生み出す。マイヤーという人物は乳母を生業としていたにも関わらず…というか、それ故にというべきか、自分が世話している子供にそのドロドロした思いをブチまけていたようなのだ。
 本作には、マイヤーの過去を知る証言者として、かつて子供時代に彼女と接したことのある人物たちが多数出て来る。それらのうち少なくない人々が、彼女に必ずしも好意ばかりを持っていないのだ。本作はヴィヴィアン・マイヤーの「偉業」を称えるだけではなく、そのダークサイドにも果敢に踏み込んでいく。だからこそ、本作はますます良質のミステリーやサスペンスのような迫力を持ち得たのである。
 それと同時に…こんな人物だからこそ、自分が世間の表通りに出て行ける柄じゃないことを悟ってしまったのだろうな…と、見ている観客の僕らも察しがつ く。そのあたりで、彼女は世間と関わることを諦めちゃったんだろう。マルーフという人も最初はそこまでやるつもりではなかったのだろうが、本作には人の人 生に踏み込むことの怖さがよく出ていた。他人の人生に関わるということは、やはり相当の覚悟が要るのである。
 ダークサイドを抱えていたからこそ、マイヤーは作品の発表も世間からの評価も諦めた。しかし、それでも…発表するアテがない「作品」を創造す ることぐらい無駄なこともないはずなのに…マイヤーは写真を撮ることをやめなかった。それは、「写真」だけがマイヤーが世の中とコミットする唯一の方法だったからなのではないか。つまり、マイヤーの心の奥のまた奥底では、やはり何らかのかたちで世の中と関わりたいと思っていたのではないだろうか。
 そういう意味では、本作は途中までイケイケで非常に調子いいのだが、終盤にかけて人生の迷宮のようなところに踏み込む内容になっていく。そこにはかなり陰惨なモノも垣間見えるのだが…それが見るに耐えないところまで至らなかったのは、一連の調査・発掘を行っている例のジョン・マルーフの人柄にもよるのかもしれない。本作は、このマルーフとチャーリー・シスケルという人物の共同監督による作品だが、ほとんどマルーフのワンマン映画と言っていい。本作は、終始マルーフの視点で撮られた映画なのだ。
 特殊な視点を持ち、異常なまでの収集癖を持っていたヴィヴィアン・マイヤーだったが、実は彼女を発掘したマルーフ自身、結構な収集癖を感じさせる男では ある(笑)。さすがにマイヤーほど異常でも非社交的ではないものの、マルーフだってネットという武器で世間とかろうじてつながってるような男。いわば、彼 女とは「同類」の人種のように見える。でなけりゃ、そもそも地元オークションで得体の知れない素人写真など買い求めはしない。その時点で、マルーフ自身だって決して「普通」ではないのである(笑)。実はマルーフがマイヤーに関心を抱き、彼女の調査にのめり込んでいったのも、そんな「同類」に対するシンパシーがあったからではないか。
 自分はこういう時代に生まれてネットがあるから、世間と何とかつながっていける。自分の意見や作品だって、堂々と世に問うことができる。いっぱしの人間として他人から認めてもらえる。
 しかし、彼女はそれが出来なかった。だからこそ、人知れず埋もれるしかなかった。孤独に死を迎えるしかなかったのだ。そのせいで、自分はほんの数日の差で彼女を「逃して」しまった…。そんな無念が、マルーフをずっと突き動かしているのではないか。終始トボけた顔をして黙々と調べていくマルーフだが、その軽〜いトボけた表情とノリとは裏腹に、そこには真摯な思いが隠されているように思える。
 だからこそマルーフは、マイヤーのダークサイドを暴いても露悪的にも突き放すようにはならない。見ている僕らにも、嫌悪感を感じさせることはない。その根底には、「オレだって同類」との思いがあるからだ。しかも、調査するそのスタンスも方法も、今風にネットを使った軽やかさ。何よりご本人の風貌が、失礼ながらどこか軽くてスットボけている(笑)。例えば…往年のジョン・ヒューズ監督によるボンクラ青春映画「ときめきサイエンス」(1985)で、アンソニー・マイケル・ホールが演じた「オタク童貞男子」みたい(笑)。
 そんな彼の愛すべきキャラクターが、映画全編の清涼剤として働いているように思える。それどころか、辛く寂しい人生を送ったヴィヴィアン・マイヤーその人への、何よりの鎮魂になっているようにさえ感じられるのである。

 

 


 

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