「ハッピーボイス・キラー」

  The Voices

 (2015/10/19)


 
見る前の予想

 実はこの作品のことは何も知らなかったし、だから当然見ようとも思っていなかった。
 ある勘違いからたまたま見ることになったのだが、その時点でもまったく白紙状態。ただ、ライアン・レイノルズが 主演ということしか分からなかった。そのライアン・レイノルズって言われたって…僕は最近のハリウッドの若手俳優は全然分からない。ライアン・ゴズリング とかライアン・レイノルズとか名前も同じようなもんだし、顔だってあまり印象に残らない。ぶっちゃけ僕あたりにとっては、どれが誰だかサッパリなのだ。
 そんな訳で、当初は見るつもりもなかったし、実は見るキッカケも「勘違い」というお粗末さ加減。この作品を見るにあたっては、まったくいかなる「期待」も持っていなかった。というか、そもそも見る前の先入観そのものがなかった。これは掛け値なしに本当のお話。


あらすじ

 とあるアメリカの田舎町ミルトン。この町きっての企業は、ミルトン水回り株式会社。主にバスタブを製造する会社である。
 今日もこの会社の工場では、忙しく出荷作業が続けられている。そこでフォークリフトを運転していた青年ジェリー・ヒックファン(ライアン・レイノルズ)は、上司から呼び出される。この会社は毎年、全社員参加の盛大なパーティーを開いているが、上司はジェリーをこの部署を代表して実行委員に選んだと言うのだ。
 各職場の実行委員は、仕事が終わった後で会議室で打ち合わせを行うことになる。その際に、出前ピザも食べ放題。そして、ジェリーにとってもこれは好都合 だった。実はジェリーは総務課からこの実行委員に選ばれた、英国出身のフィオナ(ジェマ・アータートン)という女がちょっと気になっていたのだ。
 だから、上司の話は渡りに船。打ち合わせも彼女と一緒でハッピーだったし、その際に彼女が提案したムカデダンスも、一も二もなく大賛成。賛同に対して フィオナが感謝の眼差しを投げかけてくれただけで、ジェリーは満足だった。そのちょっと奇妙な言動から自分が実行委員会でも浮いていることも、ジェリーは 気にも留めていなかった。
 そんな彼の住まいは、町のハズレにある廃ボーリング場。もはや営業もしていないし誰ひとりいないこのボーリング場の管理人室に、ペットの犬と猫と一緒に住んでいた
 今日もジェリーが部屋に戻ると、犬のボスコが彼を暖かく出迎える。それもちゃんと人間の言葉で「おかえり」と言って出迎えてくれるの だ。しゃべるのはボスコばかりではない。猫のウィスカー氏も彼に話しかけてくる。ただし穏健で誠実なボスコに対して、ウィスカー氏は必ずしもジェリーを喜 ばせることばかり言ってはくれない。というか、むしろ逆だ。神経質で皮肉屋のウィスカー氏は、今日もチクチクと皮肉を言って来る。「その英国娘がオマエに 好意を持ってくれる訳がない。オマエはみそっかすなんだよ!」…そんな過激発言のウィスカー氏をボスコが大人の対応でたしなめる…というのがジェリーの家 の日常だった。
 ウィスカー氏の言動をはじめ、彼らとのやりとりには当惑させられることも少なくないジェリー。だが、彼らがいるからこそジェリーは孤独を感じずに済んでいた。実際には、少々風変わりで社交性に乏しいジェリーには、外に友だちがいないのだ。
 そんなジェリーは、定期的に精神科医ウォーレン先生(ジャッキー・ウィーバー)と面談することを義務づけられている。それは、どうやら過去のある「事件」によるものらしいのだが…。それでも何とか社会復帰したジェリーは、こうして毎日元気に笑顔を絶やさず生活している。
 例の会社のパーティーは大成功に終わり、ムカデダンスも大いに楽しんだ。だが、それが終わればフィオナとの接点はない。意を決したジェリーは、本来行く 用事のない総務課に乗り込む。もちろん、フィオナとの接点を維持するためだ。しかし、実はフィオナはジェリーに来られても迷惑そう。それでも、たまたまそ の場にいた同じ部署のリサ(アナ・ケンドリック)に誘われ、ジェリーは彼女たちの仕事後の飲み会に顔を出せることになった
 しかしながら、やっぱり浮きまくるジェリー。本人はまったく気づいていないが、彼女たちは同僚との気に置けない会話を楽しみたかったのだ。それでも比較的リサは彼に好意的で、飲み会終了後に家まで送ってくれ…と
ジェリーにそれとなく打診してくる。ところが彼女のそんな気持ちにはまったく気づかないジェリーは、フィオナを自宅まで送る…という話が出るとたちまちそちらに飛びついた。リサの気持ちなどお構いなしだ。
 当然のことながらそれはフィオナの意思ではないから、帰り道の会話もまったく盛り下がったまま。それでもジェリーは大満足だった。
 さらに一歩踏み込むことを決心したジェリーは、今度はフィオナを単独デートに誘う。場所はユニークなショータイムがある中華レストラン。これには、皮肉屋のウィスカー氏もジェリーの積極性に脱帽だ。
 しかし当日、バッチリお目かしして待ったジェリーの元に、フィオナは来なかった。夜も更けて閉店時間となり、意気消沈してクルマで帰宅するジェリー。
 ところが折から雨が振り出し、路上で途方に暮れているフィオナを発見する。実はフィオナはジェリーの約束をスッポカし、同僚と飲んで帰宅する途中。運悪くクルマが動かず、ヒッチハイクでもしようとしていたところだった。そこをジェリーに発見され、ホッと一息というわけだ。
 酔いも手伝って気が大きくなったフィオナは、「これから飲みに行こう!」とジェリーに宣言。そう言われれば、ジェリーも張り切ってクルマを隣町まで走らせることになる。ところが会話に夢中になり過ぎて、山道で前方から鹿が飛び出して来るではないか。
 ガチャ〜〜〜〜ン!
 鹿の首はガラスを破って運転席に飛び出し、血まみれのままジェリーに訴えた。
 「楽にしてくれ!」
 どう考えても鹿の首と会話しているようなジェリーの言動は、フィオナを動揺させた。さらに唖然とするフィオナの前で、ジェリーがその鹿の首をナイフで切り離し始めたからいけない。回りは真っ暗闇で、人っ子一人いない山の中。フィオナとしては最悪の状況である。これはヤバい奴だと認識したフィオナは、悲鳴を上げてクルマから逃げ出した。それが、何とか状況を好転させようと焦るジェリーの動揺をますます加速する。
 逃げ出したフィオナを慌てて追いかけるジェリー。何とかフィオナに追いつき捕まえたジェリーだが…気づくと持っていたナイフを彼女のカラダに刺してしまっているではないか! フィオナは血を流して、その場に倒れてしまった。万事窮す。想定外の事態に動揺したジェリーは、慌ててそのままクルマで自宅まで逃げ帰ってしまう。どうしてこうなった、オレのどこが悪かった、これから一体どうすればいいのだ?
 だが、それはまだ惨劇のほんの始まりに過ぎなかった…。

見た後での感想

 冒頭に述べたように、僕はこの作品を「勘違い」で見てしまった。そもそもこんな映画が公開されているとは知らなかったし、知っていたところで僕の食指をそそったかどうか。
 タイトルからしてナメている。日本版のチラシやポスターも、妙にカラフルでトボけたイラストで構成されている。最近の一部のホラー系の作品みたいに「不謹慎」系のブラック・コメディとか、ドス黒い陰惨なはずの話をセンスよくオシャレに描いたポップな作品と か…そんな感じ。宣伝物はどれもこれも、いかにも女が喜びそうなチャラい雰囲気に満ちている。だけどさぁ、何でもかんでもオシャレでポップにすりゃいいっ てもんじゃねえんだよ…と言いたくもなる。「これで君たちは大喜びなんでしょ?」と言わんばかりの、バカ女たちへの媚び加減がイヤだ。だから、僕がこのチ ラシ等を目撃していたのなら、正直言って見たいとは思っていなかったはずなのだ。
 そもそも僕の「勘違い」とは、ある人がこの作品を強く「推して」いたと思い込んだこと。実は全然違う映画だったらしいのだが…。
 だが、それが結果として良かった
 「勘違い」が幸いして、僕はとてつもない掘り出しモノを見つけてしまった。この映画、非常に際どいコースを狙ったものではあるが、おそらく他に例を見ないような傑作なのである。

チャラくてオシャレでポップな映画では決してない
 確かに一瞬ブラックコメディかと思わせるような、スットボけた味がない訳ではない。オフビートな笑いが漂わない訳ではない。本人至って真面目だが…というのも、コメディの常道ではある。
 だが、本作でのそういう設定は、凡百のブラックなホラー・コメディなどとは微妙に違う。似てはいるけれども、確実にそれらとは異なっている。そういう意味でも、本作はまさに「他に例を見ないような」作品なのだ。少なくとも、日本版の宣伝チラシのような、チャラくてオシャレでポップな映画ではない。一見そう見えるところもない訳ではないが、よくよく見ると…それはオシャレなんてチャラけたモノとは一線を画しているのである。
 主人公は過去、両親から受けたトラウマで、決定的に心を病んでしまっている。それでも何とか社会復帰して、健全な暮らしをしようと頑張っているのだ。しかし、それでもどうしたって周囲とはズレている。本人の思いとは裏腹に、どうしようもなく浮かざるを得ない。
 そんな彼の周囲に幻覚である「声」が聞こえているのは、あまりに殺伐たる現実から自分を護るためだ。友人がいないし、作るのも難しい彼にとって、しゃべる飼い犬や飼い猫がその代わりを務めてくれる。ただし、彼らは単なる「友だち」ではない。彼は無自覚だったかもしれないが、それらは彼の中の「良心」と「悪意」そのものだったのだ。
 一度壊れてしまった心は、なかなか治ることはない。精神科医の言う事を聞いて頑張ってやっていこうとはするのだが、結局は世間がそれを許さない。かくしてちょっとした手違いと不運から、彼は破滅への道を転がり落ちて行く…。
 語り口はちょっとトボけてユーモラスなところもあるが、実は本人は大真面目…確かにこれはコメディの常道ではあるが、ここでは必ずしもコメディとして見 せるためにそういう設定になっている訳ではない。ライアン・レイノルズの演技設計も、たぶんそうじゃないだろう。実はレイノルズは、この作品をシリアスドラマとして演じている可能性がある。そして演出も、それを狙ってやっているフシがある。つまり、周囲と彼自身との間にはそういう「温度差」がある…ということを、ユーモラスなのかシリアスなのか絶妙なさじ加減で描いているのだ。ここが決定的に非凡なのである。
 主人公の妄想…彼にとっての「かくありたい世界」…と実際の世界には、かなり開きがある。その奇妙さが、この映画を一見オフビートでポップに見せている。でも、それは決してオシャレに見せたいがためではない。それは観客を、主人公の心情に寄り添わせるための仕掛けなのだ。
 しかし連続猟奇殺人者の側に立ってその心情を観る者にも共感できるようにここまで描いている映画なんて、これまで存在していただろうか? むろん加害者 側にどんな事情があろうと、やられた方としてはたまったもんではない。しかし、いかに異常な加害者であったとしても、そっちにはそっちなりの言い分が(例 え余人には受け入れられないものであったとしても)それなりにあることは間違いない。この映画は、まさにそれを描いているのである。そんな猟奇殺人者の心情に寄り添った映画など、おそらく今までどこにもなかったはずだ。
 ここで素晴らしいのがライアン・レイノルズで、それまではちゃんと出演作を見たのはグリーン・ランタン(2011)ぐらいしかなかったが、彼はこの温度差を分かった上で演じている。そして彼の個性…その寄り目気味の顔までがうまく活かされている(笑)。ちょっと見でも何となくサイコ(1960)のアンソニー・パーキンスっぽいではないか。素晴らしいキャスティングである。キャスティングでいえば2人目の被害者を演じるアナ・ケンドリックもいい。マイレージ、マイライフ(2009)でジョージ・クルーニーの生意気な同僚を演じて注目された彼女だが、実はここでは学園アカペラもの「ピッチ・パーフェクト」(2012)で注目された彼女の歌唱力も活かされていて、絶妙のキャスティングとなっているのである。


 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 




人生の最後を彩るサービス・アトラクション
 そんな訳で、他には類を見ないようなテイストの本作は、微妙なバランスを保ちながらお話はそうにしかなりようのない結末へ…。そこで映画は、とてつもないウルトラCで遥かな高みへと上り詰める。何とラスト・クレジットで、いきなりミュージカル場面に突入。「シング・ア・ハッピー・ソング」なる歌を主要登場人物で歌い踊って幕となるのである。
 いや…正確に言うとそれらは主要登場人物というよりは、彼の両親と彼の殺しの被害者たち…つまり彼の人生を彩ってきた数少ない人たちと言うべきだろう。さらに、そこにイエス・キリストも混じっている。こうしたメンツで、いきなり楽しげなショータイムを展開するのである。
 現実にはその直前、事件が発覚して主人公の住まいであるボーリング場は警官隊に包囲されている。偶然の事故から火災が発生し、周囲を包囲された主人公は 逃げることを断念したように思われる。万策尽きた、もう逃げられない、例え逃げられてもハッピーな人生が待っているとは思えない、人生の再建はとても無理 だと悟ってしまった…。つまり、これは主人公の人生の最後を彩るサービス・アトラクションなのだ。
 そう語ってくると…1970年代あたりから映画を見てきたファンの方ならば、誰しもボブ・フォッシーが監督したオール・ザット・ジャズ(1979)の幕切れを想起するかもしれない。日頃の不摂生から心臓の発作で倒れたミュージカル演出家の主人公(ロイ・シャイダー)は、瀕死の病床でもショーの妄想に取り憑かれている。それは、自分がメインを務めるミュージカル・アトラクション「バイ・バイ・ライフ」だ。 共演するのも観客も、主人公の人生に関わる人々ばかり。生きている時にはそれぞれいろいろあったけれど、誰も彼もが主人公の最後を祝って笑顔で送ってくれ る。そこで歌って踊る主人公は、やがて彼の女神とも死神ともつかぬ女(ジェシカ・ラング)の元へと旅立つ…。本作のミュージカル場面も趣向としてはほぼ同 じだが、ただし切実さとしては本作の方が「オール・ザット・ジャズ」のそれと数倍上と言わなくてはなるまい。主人公の送って来た人生が、まず違うのである。
 いろいろ奔放におイタもしてきた演出家が、不摂生と悪行の限りを尽くしたあげくの人生の総括ショー…「オール・ザット・ジャズ」の終末ショー場面はゴー ジャスでシャレたエンターテインメントに昇華された演出で展開するが、考えてみればやりたい放題に生きた主人公=監督の自己満足でもあり、「いい気なもんだ」という気分がしなくもない。僕自身は「オール・ザット・ジャズ」を素晴らしい映画だと思っているし、見ている間は大いに楽しんだ。だが本作を見てしまうと、「私映画」の宿命としてどこか「いい気なもんだ」感は免れない。
 一方、本作の主人公が歌い踊る「シング・ア・ハッピー・ソング」は、それまでの彼の悲惨な人生を考えると、ハッピーでなけりゃ浮かばれない。彼は幸福になろうとして努力したが、それは空しく徒労に終わって墓穴を堀っただけ。彼は一生懸命に頑張ったのに、結局は不幸になるしかなかったのだ。そのショータイムにはジーザスも駆けつけてくれる特別扱いでなきゃ、とてもじゃないが帳尻が合わないのである。
 この作品を撮ったのは、何とイラン出身でフランスで「バンド・デシネ」といわれる一種のマンガを描いていた女性監督マルジャン・サトラピ。それまでの映画的キャリアは決して多くはなく、それもほぼアニメ監督がメインで実写の監督はフランスで1本のみ。それでいかなる経緯からハリウッド・デビューとなったのかは分からないが、かなりの異才には違いない。でなければ単にオシャレでもポップでも不謹慎でもなく、微妙なバランス感覚でこのデリケートな題材を真摯な作品として撮りこなせる訳がない。ただただ大変な才能であるとホメちぎりたい。
 ラストのショータイムはあまりに楽しく愉快だったので、最初見ていて笑ってしまった。さらに主人公たちのハッピーな歌と踊りに、徐々に観客の僕らも幸福感に満たされていく。
 そして…キリストの操作するフォークリフトによって、達観したような主人公が「昇天」していく幕切れがやって来る。 彼が「成仏」できるには、この一種の納得するための作業がどうしても必要だったのだ。人間は誰しも、思った通りに人生を歩めない。それは、決して彼だけで はないのだ。見ている僕らも、その点では同じなのである。このエンディングに至って、映画はとてつもない高みへと到達してしまう。
 その感動たるや…むしろ一瞬本作と比べて大したことないかも…と思えてしまった「オール・ザット・ジャズ」の終末ショー場面さえも、ここで一周回って 「アレもアリだったんだな」と腑に落ちてくるくらい。この奇跡的なエンディングは何なのだ? このフォークリフト「昇天」場面は、とてもじゃないが涙なく して見ていられない。何十年も映画を見て来たこの僕も思わず狼狽えてしまう、そのくらい破壊力が大きいのだ。マルジャン・サトラピの才能がスゴい…だけで は説明できない。そこにはどうしたって、「祈り」のような人生への切実な思いがなければ撮れないはずだ。
 本作はだから、断じてポップでオシャレでチャラい映画なんかではないのである。

 

 


 

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