「パリよ、永遠に」

  Diplomatie (Diplomacy)

 (2015/04/13)


  

見る前の予想

 例によって例のごとしで、何かと忙しくて映画が見られない。見れたら見れたで感想文が書けない、サイトを更新できない。そんな状態で、見たい のに見られない映画ばかりが溜まっていく毎日。ただ、念願の仕事に取り組んでいる真っ最中だけに、この状態に文句も言えない。そのあたりが何とももどかし いのだ。
 そんな中でも、これは押さえておかないとマズい…と思える映画がいくつかある。今回のこの作品も、そんな映画の1本だ。
 アンドレ・デュソリエ、ニエル・アレストリュプ主演、フォルカー・シュレンドルフ監督「パリよ、永遠に」
 いかにもミニシアター系の構えの作品だが、ちょっと気になる顔ぶれの作品だ。おまけに物語は…というと、第二次大戦末期のドイツ軍のパリからの撤退に絡 んだ話。ヒトラーによるパリの破壊命令に対して、ドイツの将軍とスウェーデンの外交官が丁々発止とやり合う物語というではないか。あの大作「パリは燃えて いるか」(1966)にも描かれたお話の、さらに裏話的なエピソードを描くに違いない。これはなかなか面白いのではないか。
 個人的に興味を惹く顔ぶれ、興味を惹く題材…となると、何としても見なければならない。僕はついに重い腰を上げて、劇場へと出かけたのだった。

あらすじ

 第二次大戦も煮詰まってきた1944年8月、ヨーロッパはどこも戦火にさらされ、激しい破壊の恐怖に怯えていた。
 ここパリもまた、その例外ではない。長らくフランスを占領してきたドイツ軍も、めっきり旗色が悪くなってしまった。連合軍はすぐそこまで近づいていたのだ。しかも頼みとする援軍も、途中で手こずって間に合いそうもない。
 ホテル・ル・ムーリス最上階に陣取るドイツ軍パリ防衛司令官ディートリッヒ・フォン・コルティッツ将軍(ニエル・アレストリュプ)は、だから自軍の行く 末について決して楽観してはいなかった。日々深刻さを増す戦況が災いしたのか、コルティッツはしばしば発作に襲われクスリが手放せない状態。あれやこれや で、コルティッツの悩みは深い。
 そんなコルティッツのもとに、フランス人技師のランヴァン(ジャン=マルク・ルロ)が連れて来られる。彼がパリの地図を広げて説明するのは、パリの爆破作戦だ。
 パリの主だった橋を爆破して落としたら、その瓦礫でセーヌ川が溢れる。これでパリのかなりの地域が冠水し、機能が麻痺してしまう。さらにエッフェル塔、 ルーブル美術館、オペラ・ガルニエ、ノートルダム教会など名所旧跡を残らず爆破し、パリを壊滅させる計画だ。どうせ奪い返されるなら…というヤケクソな作 戦と言ってもいい。すでに爆弾は市内各所に仕掛けられており、後はコルティッツの指示待ちといった具合だ。
 そんな会議を終えるや否や、部屋の明かりが落ちた。パリに忍び寄る連合軍の仕業だろうか…。ところがそんな闇に紛れて、ひとりの男が部屋に侵入していた
 驚くコルティッツの前に現れたこの初老の男は、スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンク(アンドレ・デュソリエ)。どうやってどこから現れた?…と慌て るコルティッツに、ノルドリンクは飄々とした表情で説明を始める。かつてナポレオン三世が囲っていた愛人が、ホテル・ル・ムーリスのちょうどこの部屋に暮 らしていた。ナポレオン三世と愛人が秘かに会うために、この部屋に秘密の通路が作られていたのだ…。
 今さらながらにパリの淫靡な奥深さに驚かされるコルティッツに、ノルドリンクはこの機を逃さぬとばかりに「停戦の調停に来た」と迫る。この男、フランス軍の司令官からの手紙を託されていたのだ。
 内容は、無抵抗の降伏、無傷でのパリ明け渡し…。当然のことながら、コルティッツがそれをスンナリのめる訳もない。彼は手紙の封も切らず、アッサリと破 り捨てた。それでも平然とした表情のノルドリンクは、「コピーもある」とシレッと手紙第二弾を差し出すから度胸が据わっている。百戦錬磨のコルティッツと 対峙して、一歩も引かないノルドリンクなのだ。
 そんなコルティッツの部屋に、電話がかかってくる。電話の相手は、パリ爆破作戦を取り仕切っているヘッゲル中尉(トマシュ・アーノルド)からだ。どうや ら、何者かが爆弾の起爆装置を切ってしまったらしい。それを横で聞いていたノルドリンクは、思わず「ヘッゲル中尉からかね?」とコルティッツに尋ねてしま う。その一言に反応したコルティッツは、ノルドリンクの問いに問いで返した。
 「なぜ、ヘッゲル中尉から…と知っているのだ?」
 こうして、二人の男が向き合ってやり合う、長い長い一夜が始まった…。


気になる役者ニエル・アレストリュプ

 僕はこの感想文の冒頭に、「個人的に興味を惹く顔ぶれ」と書いた。
 確かにアンドレ・デュソリエ、ニエル・アレストリュプ、フォルカー・シュレンドルフ…とくれば、映画ファンには興味深い顔ぶれだ。ただ…フォルカー・シュレンドルフはドイツの名匠ではあるが、正直、僕自身がその作品にそれほど興味を持ったことはない。
 「ブリキの太鼓」(1979)には感心したが、別にシンパシーを覚えたりはしなかった。その後、プルーストに挑戦した「スワンの恋」(1983)を撮っ たり、アメリカに行って近未来SF「侍女の物語」(1990)を撮ったり…と、寡作ながら八面六臂の大活躍。ただ僕にとっては、その作品系譜からまったく 作家としての「顔」が見えなかった。つかみどころのない…というか、よく分からない映画作家だったというのが本音だったのだ。
 そんなシュレンドルフ作品で僕が初めてシンパシーを持ったのは、ジャン=クロード・カリエール脚本を得てジョン・マルコビッチ主演で撮った魔王 (1996)だろうか。大人になれない世の中と折り合いをつけるのが苦手な男を主人公にした物語は、僕にとって人ごとではなかった。この作品だけは妙に印 象に残っているのだ。
 そんなシュレンドルフの作品ではつい最近も「シャトーブリアンからの手紙」(2011)が公開されたが、こちらの方は見逃してしまった。ともかく、そのくらいのイメージしかない監督だ。
 主演の一方アンドレ・デュソリエはフランス映画を見ているとやたら出てくる中堅どころの役者さんで、あるいは裏切りという名の犬(2004)とかミックマック(2009)にも出て来た。キライじゃないしイイ役者だとは思うが、正直言って特にもの凄く好き…という訳ではない
 じゃあ、オマエはどうして「個人的に興味を惹く顔ぶれ」などと書いたのだ…と言われそうだが、実は僕の本作に対する興味は、ほぼ「ある一人」に集中していた。
 その男こそ、もう一人の主演者ニエル・アレストリュプだ。
 この人、本作のネットの映画評などで「みなさんご存知の名優」みたいにもっともらしく書かれているけれど、実際どれくらいの人がその存在を知っていただろう? いつの間に「みなさんご存知」な存在になったんだ? ハッキリ言ってそんなに知られてないはずだぜ。
 何より名前を何と読むのか、それが実はハッキリ分からない。ある時はニルス・アルストラップ、またはニール・アレストラップ…と表記されていて、どれが本当か分からない(おそらくは、どれかはフランス人名の英語読みなんだろう)。
 実はその出演作が頻繁に日本に来るのも最近の話。僕がこの人を最初に見たのは、実在の娼婦の手記を映画化した「夜よ、さようなら」(1979)だった。 ヒモ抜きで独立して商売を始めたミュウ=ミュウマリア・シュナイダーの二人のもとに、ヤクザ組織から報復として送り込まれた絶倫男という役柄だ。長髪の 大男というご本人の容貌と主演者の一人マリア・シュナイダーからの連想で、何となく「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972)のマーロン・ブランドが連想 されるのがご愛嬌。とにかく押しの強さがスゴい印象で、強烈なイメージを脳裏に焼き付けられた。
 そんなアレストリュプを次に見かけたのが、イシュトバーン・サボーグレン・クロースを主演に迎えてアメリカ資本で撮った「ミーティング・ヴィーナス」 (1991)。オペラ上演のためにヨーロッパ各国から集まって来た連中が、上演までの間すったもんだするお話。アレストリュプの役どころは、世界的なオペ ラ歌手と恋に落ちる知名度の低い指揮者…という実質上の物語の主役。ここでも彼は、妙に濃厚なセックス・アピールを見せつけていた。このあたりまでのアレスト リュプは、アクが強くて濃いいアブラギッシュ・オヤジのイメージだったワケだ。
 しかし、それからしばらく日本のスクリーンから遠ざかってしまい、僕もその存在を忘れていた。ところが出演作が日本に来ないうちに、いつの間にかスッカリ持ち味が変わっていた。枯れた味わいの老優に生まれ変わっていたのだ。
 近年、突如狂い咲きのようにサラの鍵(2010)、戦火の馬(2011)と連発で登場してきて、どちらも幼い少女を優しく見守る好々爺という役 どころに変貌。ずっとその顔を見ていなかったのに、いきなり立て続けに作品が来たのもビックリ。どっちの作品も同じような役柄なのに二度ビックリ。おまけ にアブラっけが完全に抜けていたのに三度ビックリだ。「夜よ、さようなら」で娼婦二人をノックアウトした絶倫暴力男が、スッカリ更正していた(笑)のが何とも感 慨深かった。
 そんなニルス・アルストラップが、本作では重厚な二人芝居で成り立つ映画の一方の雄として主演。おまけに華も実もある将軍の役とは、ずっと長く見て来た 者としては感無量。「夜よ、さようなら」でのヤンチャな彼(笑)を知っているからこそ、あの荒れっぷりもまた人生の糧となったんだなぁ…と妙に納得。酸い も甘いも噛み締めて知り尽くした、大人の芝居が似合う役者になれたのかも…と思ってしまった。
 だから個人的には、本作は「興味を惹く顔ぶれ」を見たかったというよりは、ほぼニエル・アレストリュプ一人を見たくて劇場に行ったようなものだった。その期待は、まずは裏切られなかったと言っていい。

見た後での感想
 本作の感想は、どんな映画雑誌やらネットやらの映画評を見ても、大体がほぼ同じようなものだろうと思う。
 いわく、「名優二人の丁々発止のやりとり」「緊迫した二人芝居を構成する、密度の高い脚本の素晴らしさ」「歴史と伝統ある美しい街、パリが守られてよ かった!」「ヒトラーの狂気に対する理性の勝利」「これこそが“外交”(これが原題名)なんだよねぇ」…などなどなど。何だったら、僕もこのままこういう 文章を書いて終わらせても成立してしまう。映画評論家から素人の人まで、よくもまぁみんな生まれも育ちも年齢も性別も教養も違うのに、どうしてまた判で押 したようにほとんど同じような評価になるのか。これが不思議なんだよねぇ。
 実際これらの感想って…実は映画をある程度ご覧になる人だったら、本作の最低限の事前情報さえ手に入れればすぐに浮かんで来ちゃう「感想」だろうと思 う。大体こんな作品だろうな〜…という予想はつく。逆に言うと、こんな感想は映画を見なくても言えちゃう感想だってことなのだ。いや、そりゃあマズいだろ。
 逆に言うと、本当にここに挙げられたような感想しか浮かばないとしたら、その作品ってまったく面白くないんじゃないだろうか。見る前の予想から寸分違わ ない内容の映画なんて、見てどこが面白いのかサッパリ分からない。事前情報を確認しに行ってるみたいで、まったく楽しいとは思えないのだ。
 まぁ、もちろん…映画ってのは「それ」だけではないのも事実。筋書きやら理屈やらテーマやらだけでなく…例えば俳優の声色を聞く、俳優の表情を見る、流 麗なカメラワークを味わったり編集のリズムを味わったりするものだ。事実、僕だってニエル・アレストリュプを見に、同窓会的な気分で劇場に駆けつけたクチ である。だから、前述のイチャモンも言いがかりに聞こえちゃうかも…とは思う。
 それでも…みんな判で押したように絶賛、しかも絶賛ポイントまで同じ…ってのは、どこか変だなと思うのが自然だろう。特に僕は、みんながみんな北朝鮮の マスゲームみたいに…一様に同じことを言うってのが気に入らない。誰もが顔も違えば考え方も違うし性癖まで違う(笑)のに、そんなはずないだろって思うの だ。
 では…実際のところ、僕は実物の映画を見てどう思ったのか?

 

 

 

 

 




 

こ こからは映画を見てから!

 

 


 

 

 

 



本当に「緊迫した会話劇」なのか?

 まずは、ストレートに本作の感想を言わせていただこう。ぶっちゃけ言うと、僕は本作での主役二人のやりとりを、そんな緊迫したものだとは思えなかった
 本作をお好きな方、映画ファンのみなさん、ゴメンなさい。みんなは「火花が散りそうな議論」だとか「緊張感溢れる会話劇」だとか言ってるけど、僕は正直言ってそれほど緊迫したやりとりには思えなかった。
 例えば…古いがシドニー・ルメット「十二人の怒れる男」(1957)みたいな映画だと、室内の会話劇でも緊迫したものといえるのだが、本作は決してそんな緊迫したやりとりではない。ではウイットに富んだ会話かといえば、それもまた当たっていない気がする。
 そもそも「押してもダメなら引いてみな」という緩急の面白さがほとんどない。実際の会話は、簡単に言っちゃうとほぼ…「パリを救ってくれ」「ダメ」「こん な素晴らしい街なのに」「ダメ」「そこを何とか」…の連続で、大して気の利いたやりとりではないのだ。みんなどこをどう見たのか分からないが、そんなしの ぎを削るやりとりには思えない。見た目にも年輪と味わいがあり、声も聞いていて心地よいベテラン俳優アンドレ・デュソリエとニエル・アレストリュプが、余 裕綽々で演じているから素晴らしいやりとりに見えるかもしれないけれど、その内容は意外に一本調子で工夫があるとは言えない。キャリア十分の役者二人が気持ちよく演じているから、充実している「よう」に見え ているだけだ。
 本作は元々が舞台劇らしいし、その構成からもそのあたりは伺えるのだが、こんな単調で平板なやりとりで舞台劇として成立したのだろうか。ここは僕自身の サイトだから本音で言わせてもらうけど、あまりに面白みのない会話に驚いたというのが本当のところだ。まさか、舞台でもこんな風に見えたはずはないだろ う。
 そんなやりとりにしかなってないから、案の定、ドイツ軍の将軍は首をタテに振らない。そりゃそうだろう。スウェーデン総領事の言い分に説得力がなさ過ぎる。おまけに家族をタテにとられているとあらば、首をタテに振る道理がない。
 おまけに彼らの会話を聞いているうちに、僕の胸の内には何とも言えない疑念がわき上がってきた。アンドレ・デュソリエのスウェーデン総領事が言うには、「パリを破壊することでどれほどの市民の命が奪われるか、貴重な文化や歴史がどうしたこうした」…。
 おいおい、それを言うならオレにだって言いたいことがある。
 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ニエル・アレストリュプ扮するコルティッツ将軍がズバリと事の本質に斬り込んで来た。
 「ハンブルクもその他のドイツの都市も破壊されたが、それはどうなんだ?」

パリってそんなに「特別」なのか?

 みなさんはご存知かどうか知らないが、僕は先の世界大戦で敗戦国となった国の人間である(笑)。
 その戦争の是非を云々すると昨今はいささか面倒くさいことになるので別の方にお任せするとして、正直言って「パリは何が何でも守らなけりゃならん」…という見解には、いささか引っかかるところがない訳でもない。
 いや、これは別に「パリは壊してもいい」と言ってるんじゃない
 もちろん戦争は(ドイツも日本も「枢軸国」だから)こっちがやらかしたものだ、決してホメられたものではない、だからそれなりの被害や損害を被るのは自業自得…という考え方は、相手方側に はあるだろう。それが正しいとか間違っているとかはここで論議することではないが、そういう見解があるということは当然納得せざるを得ないだろう。しかしながら…とにかく「パリは守らな きゃ!」というのはどうなんだ?
 パリ「も」守るべきなのか、パリ「は」守るべきなのか、パリ「だけは」守るべき…なのだろうか?
 僕は先にも別の映画で述べたように、戦前から戦中にかけての現代史について、今、ある本にまとめているところだ。そこではどうしても、東京の大空襲やら 広島・長崎の原爆被害について触れずにはいられない。それ以外の多くの地方都市に激しい爆撃が遭ったということも、当然ながら僕は知っている。
 ついでに言うと、この後、ドイツのドレスデンで情け容赦ない爆撃があったことも知っている。
 だからスウェーデン総領事ノルドリンクが、何の疑問もなしに「パリは守らなきゃダメ」と言っているのを聞いて、いささかモヤモヤした気分になったことを 否定できない。
 繰り返して言うが、
むろん「パリなんざブッ壊せ」と思ったわけではない。パリの文化や歴史についても大いに大切なものだと思う。文化財や遺跡を破壊してドヤ顔し てる無知で粗野なテロリストたちには、ガッカリな気分しか感じない。多くの人命を守るという意味でも、決してパリの破壊は容認されるべきではない。
 しかしながら資料を読んだり写真を見たりして東京の惨状を改めて実感した僕としては、このノルドリンクの言い方では「だから何なの?」と言われても仕方ないレベルの話にしか聞こえない。
 …というか、どうやら映画の作り手…その少なくとも多くの人々…は、どうやら「他の都市はともかく、パリは守られなければならないもの」という一点において、まったく疑問を感じていないようなのである。それも…多くの人命が…などと理由は言われているけれど、実際のところそんなことはどうでもよさげだから問題なのだ。どうやら彼らは、こんな風に感じているようなのである。
 「パリは守らなければ、なぜならパリだから
 問答無用、反論は許さない。すさまじいばかりのパリ絶対論。この舞台劇も映画化作品も、半分はフランス資本だしフランス語で作られている、観客の大部分もフランス人だ。だから、そう思っても何らおかしくはない。彼らにとっては理由も必要ないはすだ、なぜならパリだから。
 だが、残念ながら僕はフランス人じゃない。おまけに自国の都市を…自業自得なのかもしれないが…メチャクチャにされまくった敗戦国の人間である。だか ら、当然のごとく「なぜならパリだから」とは思えない。パリも守られるべきだろうが、同時にハンブルクだって東京だって広島・長崎だって他の都市だって、当然守られなければな らなかっただろうと思ってしまうのだ。
 この映画の底流に流れる、「パリは特別」という思想に、どうしてもついていけないのである。申し訳ないが、僕には「生まれながらのパリジェンヌでござい」みたいな顔をしている
岸恵子や雨宮塔子のような恥ずかしい発想はわいて来ない。
 それを言うなら、どんな都市でも大事なんじゃないの?
 敵だろうが都市に住んでいる大半は非戦闘員だろう…と言いたくなる。敵側の都市にだって文化や歴史はあるだろう…と思う。アンタがたから見れば「花のパリー」と比べて取るに足らないモノに見え るんだろうけどさ。それでも、どんな仕打ちをしてもオール・オッケーだとは、とても思えない。こちら側陣営もそれ相応な事はやらかしちゃってる… と分かった上で、それでも屈託もなく「パリは特別」なんて言われたら、眉をひそめざるを得ない。そんなオレはおかしいでしょうか?
 「パリだから守らなければ」
などと言われても、言ってる意味分かんないッス。


シュレンドルフの本当の本音

 実はその後にもう一度、ノルドリンクがコルティッツの問いに詰まってしまう一幕がある。
 ヒトラーはコルティッツの「反乱」を恐れて、彼の家族を人質にとっていた。だからこそ、コルティッツはノルドリンクの申し出に乗れないところもあったわ けだ。それでも何でもお構いなしに「パリは守るべき」の一辺倒で迫ってくるノルドリンクに、業を煮やしたコルティッツはズバリと問いかけるのだ。
 「じゃ あ、君がオレならどうする?」
 これを問われたノルドリンクは、それまでの「ああ言えばこう言う」的な口の軽さが俄然減速していく。何だかんだと話をそらして、ちゃんと答えられない。 かなり経ってから、「自分が君でなくて良かった」などと、答えにもならない答えをつぶやくしかなかった。コルティッツも観客も納得できる回答は、つい に答えることができなかったのである。
 ペラペラしゃべってはいるが、こいつの言っていることはまったく説得力がないのだ。
 そしてコルティッツの反論に対して相手を説得できる回答が出せていない時点で、これは「緊迫した会話劇」などとは言えない。盛り上がらない訳だ。サーブだけで点が入っちゃったり、相手がタマを受けるつもりがないテニス試合みたいなものだからである。
 これじゃあ良質な会話劇が成立しないだろう。
 結局、本作を見る限りにおいては…コルティッツが心変わりした理由って、一番のトリガーは友軍のダメっぷりということなのだろう。ベルリンからルーブル美術館の絵画などをかっぱらい に来た軍人たちの様子を見て、その堕落っぷり傲慢さにウンザリして決めたように描かれている。原題名が「外交」なのに、全然外交では解決していないのであ る。
 実は、そのあたりがフォルカー・シュレンドルフの意図なのではないか?
 正直言って、自らも敗戦国の人間であるシュレンドルフのこの作品における立ち位置は、かなり微妙なモノだと思う。先ほども述べたように、フランス資本で フランス語の映画を撮るドイツ人監督として、結構難しい部分があったのではないか。建て前としても本音としても、どうしたって「パリ万歳!」と描かない訳 にいかない。そうでないと、彼の立場からして先の戦争を肯定していると言われかねない。しかし、そうは言っても…両手離しに「パリ最高」「パリは不滅」「パリは特別」「他 の街なんかグチャグチャになってもパリだけは守られなくてはならない(そうハッキリと言っていなくても、言外にそう言っているのと同じではないか)」など というタワゴトをヌケヌケと言っているのを、フランス人以外の奴が右から左に流すのは結構キツいのではないだろうか。まして自国の都市が必要以上に破壊された国の人間としては…。ハリウッドでアメリカ 賛歌映画を嬉々として撮るローランド・エメリッヒ(笑)とは違って、かなり忸怩たる部分があったと思うのだ。
 いやぁ、これちょっとヤバいこと言ってるように見えちゃうかなぁ(笑)? でも、決してドイツを擁護している訳じゃない。そういう問題じゃない。「パリは特別」って何なんだ…ってとこが問題なのだ。いや、そう心の中で勝手に思っていてもいいけど、それを立場の違う相手にシレッと言っちゃうところが問題なのである。
 閑話休題、ともかくシュレンドルフは難しい立ち位置だったと思う。
 だから…元の脚本にすでにあったのだろうが、僕がちょうど疑問を感じ始めたタイミングで、ズバッと「じゃあハンブルクなんかが壊されたのはいいのかよ?」と突っ込んで来たのは、偶然ではなかったように思う。

 結局、ノルドリンクがペラペラとしゃべりながら有効打をひとつも出せないように描いて、コルティッツの心変わりを自分の内面の問題として描いたあたりも、実はシュレンドルフの無言の意思のように感じるのだ。元の舞台劇の設定・セリフなどはあまりいじりようもなかったし、いじっちゃマズいだろうから、そこを演出の力でジワジワそっちの方向に持っていったのではないか。どうしてもそんな気がするのだ。
 むろん、他にもシュレンドルフなりの工夫はいろいろ感じられる。夜が明けてから主人公二人を屋上に上がる設定にして、現在のパリの街をそのま ま活かしたロケーション撮影を行っているのは、映画監督としてのシュレンドルフの面目躍如だろう。映画的に「この素晴らしき街パリを守る」ことの意義を目 で見て分かるように描く工夫だと思うし、何より現在、そのホンモノのパリの街を使って撮影が出来るということが、「パリを守った」ことの恩恵だと感じられ るからだ。これは「コロンブスの卵」的に余人がやりそうでやらない、非凡な発想だと思う。そして何より、シュレンドルフ自身も「パリの素晴らしさ」は認めるし、それを守ることの意義も認めていることがよく分かる。
 しかしながら…シュレンドルフが本作に残した最大の「刻印」は、本来だったら海千山千で有能だと描かれていたはずのノルドリンクの言い分を、よくよく聞いて みると説得力ゼロに描いた点ではないだろうか。僕にはどうしてもそう思える。ドイツ人として…というより非フランス人としての意地なのか。しかも、それを大胆にもフランス映画として描き、よく見ないとそうとは分からないようにコッソリと仕掛けたあたりが…何とも不敵で非凡なように思う。
  歴史と文化のある美しい街・パリを守らねば…という気持ちは分かる。「オマエらはやられても仕方ねえんだよ」と言われれば、返す言葉がないことも分かる。 それはすべて言い分としてよく分かるし納得したつもりだったが、だからと言って何の屈託も躊躇いもなく「パリだけは特別」なんて言っちゃう無神経さはいかがなものか…。
 てやんでえべらぼうめ、「パリだけが特別」な訳ねえだろボケ!…っていうのが、シュレンドルフの本当の本音のような気がしてならないのである。



 

 

 

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